昨日の記事の内容は、少なからぬ方に不愉快な思いをさせてしまったかも知れない。そのお詫びというわけではない ― なぜなら、私が詫びなければならない理由はないから ― が、日曜日夜から今朝まで参加していた行事を通じて痛切に感じたことを記しておきたい。ちょっと、いや、かなり、「尖った」言い方になっていることを予めお詫びする。
手短に言おう。「日本の美」を語ること大いに結構。だったら、それを語る日本語をまず美しくせよ。これが何よりも私が言いたいことなのだ。日本の美を語る日本語が美しくなくてどうするのか。誤解を避けるためにすぐに言うが ― そして良識ある諸氏はそんな誤解をするはずがないと確信しているが ― 美辞麗句・綺麗事を並べろ、と言っているのではない。
個々の表現の文法的正確さ、複数の表現の組み合わせから生じる響きの美しさ(あるいは聞き苦しさ)、議論のユニットごとの論理的整合性、聴き手の知的レベル・関心・傾向の見極め、その都度の時宜に叶った表現・スピーチレベルの選択、発話状況に応じてもっとも効果的なレトリックを採用するセンス等、これらの諸条件をつねに念頭に置き、自らの表現行為を鍛え上げよ。
これらが日本語に関する私の「家訓」である。いかなる場面でも私はこれらの規則を忘れたことはない。というか、完全に身に染み込んでいる。私が日本語で話しているのを聴いて、これらの家訓を私が忠実に遵守していることを証言してくださる方は一人や二人ではない。
どうか自慢話だと思わないでほしい(いや、ちょっとそうかな。それは認める)。でも、日本語を母語として生を受ける幸いを恵まれた者の一人として、上掲の家訓は、私にとって、その幸いへの感謝の徴としての「定言命法」なのである。