内的自己対話-川の畔のささめごと

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インド仏教における空(二)龍樹における分節的世界としての言葉 ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その七)

2019-10-20 08:18:30 | 哲学

 第5章「インド仏教における空(二)― 初期大乗仏教」の「3 竜樹における言葉」を、一部省略し、それに伴って必要とされる若干の言い換えを交えて引用する。

 言葉は世界の構造を表している。世界は二つ以上の項とその間の関係とがあれば成立する。竜樹はこの点に注目する。言葉は世界であり、俗なるものだ。否定を通じて聖なるものの顕現を待つ必要のあるものである。このような意味での言葉を、竜樹は「プラパンチャ」と名づけている。「プラパンチャ」とは分かれて広がること、つまり分裂を意味する。言葉あるいは命題が主語と述語に分かれていることが、分裂つまりプラパンチャである。さらに、言葉を表現するその行為もプラパンチャである。
 「プラパンチャ」のパーリ語である「パパンチャ」は、パーリ仏教経典では、くだらないおしゃべり、つまり本質を突かないおしゃべりというようにしか使われていない。漢訳ではこれを「戯論」と訳した。ところが竜樹は「プラパンチャ」という言葉を彼の思想の中核的な概念として用いた。言葉あるいは世界として用いた。言葉あるいは世界は自らを止滅させることによって、行者あるいは仏は聖なるものとしての空性の顕現を可能にする。言葉が自らの矛盾をあらわにしていく過程、修行者が言葉を分析して言葉が持っている矛盾を明らかにしていくという過程は、『中論』における第一のヴェクトル、すなわち俗なるものから聖なるものに至るヴェクトルに相当する。