内的自己対話-川の畔のささめごと

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空思想の現在(上)空のよみがえりとしての色 ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その十)

2019-10-26 10:15:44 | 哲学

 立川武蔵『空の思想史』をこちらの関心に応じて飛ばし読みしてきた。第14章「日本仏教における空(二)―仏教の近代化」には触れない。それは、この章の内容が重要ではないからではなく、日本思想史における仏教の近代化という大きなテーマは、今の私の問題関心とは重ならず、いずれ機会を改めて取り上げてみたいと思うからである。
 最終章第15章に移る。この章は「空思想の現在」をその主題とする。「1 ヒューマニズムの両義性」には、近現代世界を支配してきた欧米文明・文化、特に近代ヨーロッパの「悪しき人間中心主義」「悪しきヒューマニズム」へのあまりにも図式的かつ無益なまでに過激な批判が披瀝されている。
 第二節以降も、最終章ということもあり、著者自身の宗教的世界観がより前面に打ち出されている。それは、著者の思想史の方法論からの必然的な要請である。
 著者にとって、宗教とは、一言で言えば、「行為形態」である。それは、「俗なるものと聖なるものとの区別を意識した合目的的な行為の形態」である。この行為形態は、世界観つまり現状認識・手段・目的という三要素からなる。
 宗教は、行為形態であるかぎり、それは時間の中で展開される。その時間は、目的達成までの時間・目的達成の瞬間・目的達成以後の時間の三つに分節化される。
 仏教において最も重要なことは、自己否定である、と著者は言い切る。仏教は、自分を否定し、世界を否定してく。その否定は、しかし、よみがえらせるための否定である。その否定が目的に達する原動力になる。
 では、よみがえりの後はどうなるのか。目的達成のために否定されたのは、具体的には、われわれの言葉と思惟である。それらは、否定された後、よみがえって来る。これが空の思想だと著者は言う。このよみがえりの場面が、『般若心経』では、「空即是色」という句によって表現されている。「色は空である」が、俗なるものの否定を通じての聖なるものに至る道筋を示しているのに対して、「空は色である」は、聖に至ったものがまた俗なる世界に帰ってくる場面、しかもただ帰ってくるのではく、俗なるものを浄化して帰ってくる場面を示している。
 『般若心経』の「空即是色」は、空が色としてよみがえるという側面、宗教行為の第三の時間を表現している。日本における仏教は、よみがえった世界を見すえることを修道論の中心に据えてきた。こう著者は見る。