内的自己対話-川の畔のささめごと

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インド仏教における空(一)不断の否定作業の一階梯としての「空」― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その四)

2019-10-15 00:00:00 | 哲学

 『空の思想史』第4章「インド仏教における空(一)― 原始仏教」から、私にとって興味深い箇所を摘録しておく。

空思想は、[…]基本的には個人的な宗教行為、すなわち自己の精神的な救い、あるいは救済を獲得するための行為の基礎理論として機能してきた。[…]インド仏教の初期・中期において空思想は、集団的宗教行為の基礎理論の側面はほとんど持たなかったといってよいであろう。原始仏教においても、空の思想は自己否定を通じて新しい自己のよみがえりを得る行為の基礎理論であった。

 初期・中期のインド仏教において、空思想は、形而上学的な観想の対象でもなく、修行を通じて最終的に目指されるべき境地でもなく、自己否定を通じての自己再生のための実践的理論だったということだろう。
 原始仏教経典の一つ『小空経』の中の「空」(空性)という語は、「空」という語の元来の意味を的確に表現していると著者は言う。この語(スンニャター)は、単に実体の欠如を意味するというよりも、宗教的実践における肯定的・積極的な側面を示している。しかし、その空性は、修行者たちが求める最終的な境地ではない。「如実、不顚倒、清浄なる空性が現れる」という表現は、『小空経』では、修行のプロセスにあるそれぞれの境地を指している。

では、空性に至るとはどのようなことか。少なくとも『小空経』に関する限り、空ならざるものをまったく含まない「純粋な空性」は述べられていない。『小空経』の空性は、それまでのプロセスと隔絶した目的地としては捉えられていなくて、あくまで不断の否定作業として捉えられているのである。

 修行の過程で現れてくる「如実、不顚倒、清浄なる空性」は、後世の大乗仏教において述べられるような究極的な意味の空性ではない。そもそも『小空経』には、そのような意味での空性は見いだされない。不断の自己否定作業の一階梯を修了し、その限りにおいて到達し得た状態が「空性」と呼ばれているということだろう。