内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

戦国時代研究が開く視角から現代における宗教・戦争・国家の相互関係を考察する

2019-10-06 23:59:59 | 哲学

 神田千里『宗教で読む戦国時代』(講談社選書メチエ 2010年)は、その書名からも明らかな考察対象とそれへのアプローチの方法を通じて、現代における宗教・戦争・国家の三者の関係を考える上でも示唆に富んだ考察が随所に示されていて興味深い。例えば、「戦争と宗教―序にかえて」の中の戦国時代末期の戦争放棄の経過についての次の一節。

 しかし戦争がじょじょに消滅していったのは、幕府のように圧倒的に強力な政権が成立し、諸大名から軍事力を奪っていったからではない。大名たちが、統一政権下でも依然、各自の軍事力を有していたことは慶長五年(一六〇〇)に行われた天下分け目の関ヶ原の合戦に、あれだけの軍事力が動員されたことからも明らかであろう。諸大名は軍事力を失ったのではなく、保持していた軍事力を用いようとしなくなったのである。
 「テロに対する戦争」が未だに公然と行われているのを眼にしている現代人には、とても見当のつかないことが起ったのである。現代でこそ、戦争ないし武力行使が否定すべき行為であることは、少なくとも日本人の間では自明の了解事項であるが、戦国時代では大名にとっても庶民にとってもその戦争が、皆がその過酷な実態に怯えながらも、当然ありうべき行動の選択肢の一つだった。その人々が戦争を捨てようとし始めたのである。

 「国家と宗教―むすびにかえて」からも一節引いておこう。制度的、社会組織的な基礎なしに「見えない国教」が存在しうるという点について、著者はこう述べている。

国家は、じつは通常考えられているレベルをはるかに超えて、宗教的な現象ではないか。このようなものとして、戦国時代に形成された国家の全容を解明する必要があると思われる。人間はいつの時代にもひたすら自由と私的利害の追求を神聖視して来たわけではない。自由と私的利害以上に共存・共生と平和が、全員が共倒れにならないための私的利害の放棄が正義と見なされた局面もあり、国家の成立とは歴史のこのような局面に関わっているように思われる。そしてこのような局面で物を言うのが宗教であるとも想像されるのである。

 ある時代のある社会における正義を正義として保証しているのは、その中身自体の正しさによる内在的規範性でもなく、法律として明文化された拘束的規定に拠るのでもなく、それとして認識されない限りにおいて機能する「見えない国教」としての国家であるとする仮説から現代世界を見直す試みへと本書は私たちを招いている。