内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

分別ということ ― 『中論』第十八章「自我の批判的研究」より

2019-10-21 00:00:00 | 哲学

 昨日の記事に出てきたサンスクリット語「プラパンチャ prapañca」について、梶山雄一・上山春平『仏教の思想 空の論理〈中観〉』(角川ソフィア文庫 1997年。初版 1969年)に依拠して補足説明を加えておきたい。
 ナーガールジュナ『中論』第十八章の自我の批判的研究の詩頌歌第九をまず引く。

 他のものをとおして知られず、静寂で、ことばの虚構によって論じられることなく、思惟を離れて、種々性を越える。これが真実の形である。

 梶山雄一は、この詩頌について、以下のように注解している。
 「思惟」と訳された原語は、ヴィカルパ(vikalpa)、その漢訳は「分別」である。この漢語は、ひろく思惟・思慮一般を意味する。原語ヴィカルパは、分岐とか選言肢の意味をもつ。ヴィカルパは、思惟の最も基本的な形としての判断をまず意味する。
 このことは、ナーガールジュナが、思惟はことばの虚構にもとづいておこる、といっていることからなおはっきりとしてくる。「ことばの虚構」と訳された原語がプラパンチャである。プラパンチャは、多様性、複数性を原意とし、思惟・言語の複雑な発展をも意味する。プラパンチャは、「言語的多元性」とか「ことばの虚構」とか訳すほかなかろう。
 ヴィカルパはプラパンチャからおこる、ということは、人間の思惟は、実在とは無関係な虚構にすぎないことばに基づいている、ということである。判断というものは、少なくとも二個の名辞を必要とする。判断は、したがって、複数の概念の存在を予想する。判断は言語の多元性に基づき、思惟はことばの虚構より起こる、とナーガールジュナは考えた。
 ナーガールジュナは、ことばを本質としたわれわれの認識過程を倒錯だと言っている。われわれがなすべきことは、思惟・判断から直観の世界へ逆行することだと教えている。そうすれば、ことばを離れた実在に逢着する。それが空の世界である。
 空ということは、ものが本体をもたない、ということである。本体とは、実はことばの実体化されたものである。空性とは、ことばを離れた直観の世界の本質であるとひとまずは理解しておこう。