内的自己対話-川の畔のささめごと

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日本仏教における空(一)空海、あるいはマンダラ宇宙のアストロノート ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その九)

2019-10-25 16:58:16 | 哲学

 立川書の第13章「日本仏教における空(一)―最澄と空海」の「3 空海とマンダラ」から、空海における世界と自己との関係に関わる箇所を摘録しておく。
 密教は、自己の悟りを得るために、世界と自己との関係を視野に入れる。世界と自己とは本来同一のものであり、そのことの把握が悟りと直結していると密教では考える。
 それゆえ、世界の構造の把握が重視される。世界の構造をまず把握し、その後で、世界と自己との関係が問題にされる。
 この世界を描いた図がマンダラである。描かれた世界もまたマンダラと呼ばれる。注目すべきことは、空海がマンダラを単なる絵図と考えずに、世界の諸相がそこに写し取られていると考えていることである。この図像としてのマンダラが自己と世界との仲介者として機能する。空海にとって、マンダラとは、聖と俗とが互いに働きかけ合う聖俗相即の世界である。
 空海は、『十住心論』で修行の実践者が辿る十階梯を述べている。その第八階梯が「如実一道心」(すべてのものは清浄であって認識の対象も主体も融合している段階)であり、第九階梯が「極無自性心」(水にはこれと決まった自体がないゆえに風にあって波が立つのみであるが、悟りの世界にはこれと決まった際がないと知る段階)であり、それぞれ天台宗、華厳宗に対応している。そして、第十階梯「秘密荘厳心」(一般の仏教のように塵を払うのみではなく、宝庫そのものを開く段階)が真言宗に対応する。
 真言が天台や華厳を超えているのは、どのような点においてなのか。それは、真言の立場が、「空」の立場を含みながら、世界の存立に関して積極的な関わりを見せている点にある。そこには、聖化された世界に関する知のシステムを構築する可能性が秘められている。
 マンダラの描く宇宙を縦横無尽に駆け巡る空海は、マンダラ宇宙のアストロノートと呼ぶことができるのはないだろうか。