『空の思想史』第5章「インド仏教における空(二)― 初期大乗仏教」の「1 行為の思想としての空」において、著者が第1章で提示していた行為の三要素―現状認識、目的、手段―からなる行為論の枠組みの中で、空思想が実践される場の時間が、空性に至る前、空性に至った瞬間、空性に至った後という三つの部分に分けて考察されている。
空性に至る前、修行者は自己否定作業を積み重ねる。そして、ある瞬間、目的である空性に至る。ただし、昨日の記事で見たように、インド仏教では、この空性そのものは、いわば相対的・限定的空性であり、それ自体は最終目的ではない。
この到達された空性は、単なる否定ではなく、肯定的・積極的な要素を含む一種の「直観知」となる。この直観知は瞬間的なものであり、その瞬間には修行者は言葉を失っていると考えられている。空性を悟得したその瞬間には概念作用はないであろう、と著者は言う。「一般に神秘的直観は瞬間的だといわれるが、空性の悟りも広義の神秘的直観の一種だと考えられる」と著者は続けて述べているが、このあたりは慎重な検討を要するところだと思う。
神秘的直観をキリスト教の枠組みで考えるならば、それは神との合一の経験ということになるが、絶対的唯一神の存在を認めない宗教において、神秘的直観とは何との合一を意味するのだろうか。
それに、そもそもそのような神秘的経験のないものがそれを語ることができるのか、語ることにどんな意味があるのか、という問いを私は立てざるを得ない。このとき私の念頭にあるのは、オイゲン・ヘリゲルが1936年に行った講演「武士道的な弓道」の中で回想している、ドイツ神秘主義研究時代の「開けるべき鍵が私には欠けている」という煩悶である。
さて、ちょっと横道に逸れてしまったが、立川書の続きを追っていこう。
空性の直観を得た修行者は空性に留まるのではない。というよりも、空性の定義上、それは不可能だ。直ぐに平常の精神状態、つまり言語活動が可能な状態へと戻ってくる。しかし、単に空性以前の状態に復帰するのではない。空性直観の前後で、修行者のあり方は根本的に異なっている。
この異なりそのものの考察は明日以降の記事に譲り、「1 行為の思想としての空」の最後の段落を引いて、今日の記事を締めくくることにする。
空の思想は行為の思想にほかならない。つまり、ものが不変の実体を欠いていると考えることが空の思想であるというよりも、ものが空であることを言葉を越えた直観で体得し、その経験をその後の生活に生かすという行為の時間を捉えているのが空の思想なのである。