内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(十五)

2014-06-10 00:00:00 | 哲学

2. 1 歴史的生命の論理の中へ〈種〉概念を導入することに伴う困難(3)

生物の変化は絶対現在の自己限定として、種から種へである。地球発展の或時或場所に於て、原動物、原植物と云ふ如きものがあつたと云ふのではない。有ったものは、すべて種である(全集第十巻二五七頁)。

 なぜ、ただ一つの種ではなく、複数の種が存在するのだろうか。西田は、生命の世界には複数の種が現に存在するということを単にそう認めているだけで、種の複数性の根拠について十分な説明を与えてはいない。しかし、これが理論的に深刻な結果をもたらす重大な欠落であり、この欠落が西田の政治・社会思想を誤った方向に導いたと私たちは考える。この極めて重要な問題については、しかし、西田における生物的種と歴史的種との差異を十分に理解した後で立ち戻ることにしよう。

生物的生命に於ても作られたものが作るものを作る、矛盾的自己同一である。併し生物的生命に於ては、作られたものと云ふのは尚所謂身体を離れたものではない、主体的なものを離れたものではない。此故にそれは尚真の矛盾的自己同一ではない、歴史的生命ではない。歴史的生命に於ては、作られたものは作るものに対して自立的でなければならない。それは制作でなければならない。かゝる意味に於て作られたものが、作るものを作る、我々は物を作ることによって作られる、そこに歴史的生命といふものがあるのである。物は我々に表現的に働き、我々の行動は表現作用的であり、制作的である。かゝる矛盾的自己同一の形成作用として歴史的種即ち社会といふものが考へられるのである(全集第八巻一八四頁)。

 生物的生命の世界においては、人間身体も含めた生きている生物的身体によって作られたものは、生ける主体とその環境との相互限定から成る生物的世界に完全に帰属している。生物的世界を構成している諸々の形は、相互依存的であり、種の進化を通じて確立されている規範にしたがって相互に限定し合っている。ところが、歴史的生命の世界においては、人間身体によって作られたものは、もはや純粋に生物的領域に内属するものではありえず、人間的制作によって判明な一つの形を与えられ、その形を与えた人間身体に対して一定の自律性を獲得する。人間身体によって作られたものは、歴史的に限定された或る形を有つことで、形成作用を実行する人間身体からある程度の独立性を獲得し、そのことによって、翻って、己の形に見合った制作形態・形式をこの形成作用に対して要求する。ここで問題となっているのは、作られたものと作るものとの間の相互限定的な関係である。より正確に言えば、人間身体によって作られたものとそれに対する人間身体の行動との間に維持されている、形成的・機能的関係である。
 西田はこの関係を「表現的」と形容するが、それはライプニッツの「表現」(expression)の定義を参照してのことである。この定義によると、「或る二つのものそれぞれについて言えることの間に一定の規則性を有った関係があるとき、その二つの或るものの一方は他方を表現している」(Leibniz, Discours de métaphysique et Correspondance avec Arnauld, Paris, Vrin, 1993, p. 180-181) 。つまり、或るものの中に、他の或るものの有っている関係と属性とに対応する関係と属性があれば、その時両者は互いに表現し合っている、あるいは一方が他方を表現していると考えるわけである。西田は、このような意味での表現的関係から人間社会を定義しようとする。この表現的関係は、人間身体と諸対象との間に、人間の制作によって創りだされる。この表現的関係において、人間身体とそれを取り巻く諸対象は、互いに区別され、対立することもあるが、それは矛盾的自己同一を現実的に形成している形と形との間のこととしてである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(十四)

2014-06-09 00:00:00 | 哲学

2. 1 歴史的生命の論理の中へ〈種〉概念を導入することに伴う困難(2)

 最後期西田哲学における生物的種についての考察を、この問題に関する三つの主要論文「論理と生命」(一九三六年)「種の生成発展の問題」(一九三七年)「生命」(一九四四-一九四五年)に基づいてまとめてみよう。
 生物的生命の世界においては、種は、その種に固有な生きた形を具体的に顕現させる個体によって現実化される生命活動を通じて、自己を表現的に限定する。この形は、環境を限定するものであると同時に、その環境によって限定される。しかし、共通の特徴を有った一定数の個体の集合が種を帰納的に限定するのではない。各生物個体は、それが属する種のある条件下における物質的表象に過ぎない。しかしまた、普遍的な生命がまずあって、それが無数の種として自己を多様化させるのでもない。生物的種の多様性は、生物的普遍性の内容を現実的に構成している。種こそが、個体の個別性と普遍的生命との具体的現実化を可能にしている。
 このような意味において、個物それ自体が己に形を与える生命の真の主体なのではなく、種こそが自己形成的なのであり、環境世界に対して自立性・独立性・創造性を一定程度、ある限定された仕方で発揮する。とはいえ、個体レベルでの突然変異は、現実に存在している種の形に対して偶発的な逸脱として、種の進化の歴史から排除されているわけではない。同一種の個体間に観察される多様性は、歴史の中の単なる偶然によってもたらされたものではない。それらの多様性もまた、種の自己形成過程にいわば書き込まれているのであり、この過程こそが生命の創造的進化を現実的に構成しているのである。
 普遍的生命は、現実に存在する進化過程にある無数の種から独立し、それに先立って存在するものとしては考えられない。無数の種こそが普遍的生命の形象を絶えず現実的に定義し続けている。自己形成的な種が生物的進化の現実の過程を規定している。「形が形自身を形成する、種が種自身を維持する」(全集第十巻二五六頁)。種は、したがって、生きた形であると言うことができる。それは、種が現実世界の生きた規範として機能しているという意味であり、この規範にしたがって、その種に属する個体が発生し、環境世界と調和した行動を取る。それはまた、種が進化を通じて具体的に普遍性を定義し続けているということでもある。
 では、或る種に固有な形は、一方では、生物的世界を構成している形一般に対して、そして、他方では、他の諸々の個別的な形とは区別され、差異化される一つの個体の個別的な形に対して、どのような位置を占めているのだろうか。一般的意味での形は、進化する無数の種を通じて自己形成する世界を構成するすべての共可能的な形を論理的に包摂している。個別的な個体のそれぞれに異なる形は、自己形成的な或る種に属するものでありかぎりにおいて、それぞれ生きた存在として限定されている。このように一般と特殊との対立を形成する形一般と個別的形との間にあって、種の形は、生物的生命の世界の進化過程の可変的構造契機として働いている。生物的生命の世界は、無数の種の自己限定の進化的な過程の諸々の形として現実化されている。生物の論理は、諸々の種の進化を通じて形成され、種の形として表現されている。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(十三)

2014-06-08 00:00:00 | 哲学

2-最後期西田哲学における〈種〉の問題

2. 1 歴史的生命の論理の中へ〈種〉概念を導入することに伴う困難(1)

内と外と整合的に、即ち内的環境と外的環境と調和的に、種的形が形自身を維持する所に生命があるのである(全集第十巻二五五頁)。

 絶対現在の世界において、何が形一般から種的形への移行を可能にしているのか。生命の一般的定義は、生命現象の必要条件しか与えず、進化する多様で共存的な種という形で生命が己を差異化するという事実を説明するには十分ではない。ところが、「生物は何処までも種的でなければならない」(二五六頁)と言うとき、西田は、明らかに、種に対して他のものに還元不可能な、それ固有の身分を与えている。種の概念は、全体性と個体性との間の、媒介的で、しかし決してそれらに対して副次的ではない役割を果たす概念として導入されている。しかも、その導入は、種に関しての実体論も唯名論も同時に避けながらである。
 一九三七年に書かれた論文「種の生成発展の問題」において、西田は、種を、「固定せるものではなく、歴史的世界に於て生成し発展し行くもの」(全集第八巻一八三頁)と定義している。つまり、西田は、種を可変的であり、進化しうるものとして考えており、非歴史的な恒常的自己同一性を有った実体とも、経験世界で判別された様々な生物を分類するために思考能力によって構成された抽象的範疇とも考えていない。次の一節を読むとき、種は、生命の世界において、個体よりもむしろ重要な位置を占めているように思われる。

 種とは歴史的世界に於て如何なる役目を演ずるものであるか。種とは歴史的世界に於て主体的に働くものである。歴史的世界が動き行くといふことは、いつも種といふものが主体となつて環境を変じ行くことである。種とは与へられた世界を変じ行く形成作用である。我々の現実のパラデーグマである。生物の種といふこのから、歴史的種即ち共同的社会に至るまで皆然らざるはない。
 併し歴史的世界に於ては、単に主体が環境を限定するのではない、逆に環境が又主体を限定するのである。人間が環境を作り環境が人間を作ると考へられる。それは生物進化に於ても同様である。歴史的世界に於ては、形相といふもその外にあるのでなく、それもその世界から生まれるものでなければならない。形相が質料を構成するが、又質料から形相が生まれる(同頁)。

 ここに見られるのは、種の最も一般的な定義である。その定義は、生物的種だけではなく、「歴史的種」としての人間社会にも適用される。この二つの種は、それぞれ生物的生命と歴史的生命とに対応する。最後期西田哲学の根本概念の一つは歴史的生命であり、したがって、その生命論においては、歴史的種が生物的種よりもより重要な位置を占める。しかし、歴史的種という概念は、生物的種をモデルとして構想されており、その意味では、生物的種がより基礎的な意味での種であると見なすことができる。そこで、私たちはまず、この生物的種を西田がどう定義しようとしているかを見ることによって、最後期西田哲学における種の概念の基礎的な意味を確定することから、本章第二節の考察を始めることにしよう。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(十二)

2014-06-07 00:00:00 | 哲学

1. 3 歴史的生命の論理(5)

生命は絶対現在の自己限定の世界から発生する(全集第十巻二五三頁)。

 このテーゼに凝縮されている西田の生命論は、諸々の生物を、自己表現的な世界の無数の表現的要素として、創造的世界の無数の創造的要素として捉えている。しかも、生理学的決定論を内包しており、さらには、自己限定的な絶対現在の世界において目的性に一定の現実的地位を与えてもいる。

絶対現在の世界が何処までも全体的一と個物的多との矛盾的自己同一的に、自己表現的に自己自身を形成する時、世界はコンポッシブルの世界として、その一々が独自的なる、無数の自己自身を限定する世界の形、無数の世界を含むと云ふことができる、無数なる世界の出立点即ち芽を含むと云ふことができる。そこにこの世界に於て、無数の相異なる、その一々が独自的なる生命の形が、成立する根拠があるのである(同巻二五四頁)。

 すべての可能世界を内包するこのようなパースペクティヴの中で、西田は、生命の〈起源〉を次のように規定する。

生命は主体と環境との相互限定として、形が形自身を限定するより始まるのである(同頁)。

 ここでもまたホールデーンに依拠しながら、西田は、「有機体の構造は環境への機能の維持を表現し、機能は構造の維持を表現する」と言う(同頁)。有機体という生命現象は、相互に分かちがたい構造-機能-環境の間に維持されている相互依存的な関係から成っている。一個の有機体とその個体性がそれとして判明に認識され得るということは、その有機体に生じる諸現象を、有機体が周囲の世界に対して実行する作用としてではなく、世界において顕現する現象として、もっと端的な言い方をすれば、世界の諸現象として捉えることを少しも妨げるものではない。
 西田の立場は、したがって、クルト・ゴールドシュタインの次のような立場とは明確に区別されなくてはならない。ゴールドシュタインは、有機体の実行する諸作用は、「有機体の自己実現過程の表現としてのみ理解可能である」と考える(Kurt Goldstein, Remarques sur le problème épistémologique de la biologie, 1951. Georges Canguilhem, Etudes d’histoire et de philosophie des sciences の中の引用箇所からその一部を訳して引いた。p. 346-347)。ゴールドシュタインの考えに従えば、有機体は、ただ己を実現することができるような仕方で、つまり己が実在するためにだけ環境世界と交渉を持つ。
 ところが、西田は、まったく逆に、有機体の生成を自己形成的な世界から考える。西田が言うところの自己形成的な絶対現在の世界は、それ自身の内部において、時間・空間的に限定されたある一点から己を表現する。生命現象は、この世界における一つの〈事〉として了解される。個物の立場から自己限定する矛盾的自己同一の世界における〈事〉として了解されるのである。この自己形成的・自己限定的世界は、内と外、時間と空間との相互限定的協働を通じて展開される無限の過程から成っている。この過程こそが生命活動だと西田は捉えているのである。
 生命のこのような一般的定義から出発して、西田は、自己形成的生命の世界に〈種〉という概念を導入することを試みる。このような試みが、田辺元の西田哲学批判とその独自の哲学である種の論理とを前提としていることは言うまでもなかろう。それらに対して、個物と全体的一との矛盾的自己同一という二極的な緊張が漲る西田自身の哲学的思考のシステムの中に、両者の間の媒介的中間項としての〈種〉を導入することで応えようとするとき、不可避的にある理論的困難が発生する。この困難の中に、私たちは西田哲学が内包せざるを得なかった致命的な問題点を見ることになるだろう。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(十一)

2014-06-06 00:00:00 | 哲学

1. 3 歴史的生命の論理(4)

 クロード・ベルナールの生理学的思想において極めて明白な仕方で現われている、外的決定論と内的目的論との矛盾を、西田は、自己の哲学にとって不都合だから敢えて無視したのだろうか。あるいは迂闊にも見逃しただけなのだろうか。そのいずれでもないと私たちは考える。
 私たちがこれまで見てきた西田のクロード・ベルナールの生理学的思想の提示の仕方から見て、西田はそこに全体として「整合的な」一つの思想を見て取ろうとしていると言うことができる。なぜなら、西田は、クロード・ベルナールの明らかに「矛盾した」思想を、自身に固有な生命の哲学のパースペクティヴから、全体として把握しようとしているからである。それは、自己限定的・自己形成的・自己表現的世界観に立って、一つの思想を、分解可能な部分の集まりとしてではなく、一つの緊張した動態において捉えようとしているということである。この世界観に立つとき、全体的一と個物的多、主体と環境、内部と外部、これらの対立する二項は、相俟って、矛盾的自己同一として把握される。そうすれば、現実の歴史的生命の世界から離反した二元論的思考に陥ることもなく、二項のうちのいずれかを排除することを強いる二者択一的な擬似問題を立てる誤りを犯すこともない。
 すべての生命現象は、「時間的・空間的、空間的・時間的世界が、自己の内に自己表現的要素を含むと云ふことから理解せられる」と西田は言う(全集第十巻二五二頁)。この世界の時間性は統一契機として、その空間性は多様化あるいは差異化の契機として考えられている。この世界に実在する種々の形は、この二つの対立的な構造契機の協働によって多かれ少なかれ整合性を有ったものとして構成される。一個の生命体は、絶対現在における自己形成的形であり、この絶対現在においては、時間性は空間的に限定された形として顕れ、空間性は時間的連続性の中で整合的に維持される。生命体は、それがたとえどんなに小さなものであれ、物質性を有ち、したがって、一方では、物体として空間的に限定され、他方では、その形態的同一性を保持しながら、物理的化学的現象を通じて時間の中で形成される。
 有機体の各部分は物理化学的過程として分析され得るが、それは、各部分を他の諸部分から切り離して分析対象とすることができるからではなく、まったく逆に、まさにそれぞれの部分がその他の諸部分によってそれらのために作られており、したがって、それらすべての部分は有機体全体に共通する目的を表現しており、この共通の目的がその有機体全体の内的な目的性にほかならないからである。
 西田の生命の哲学のパースペクティヴの中では、したがって、生理学的決定論と生命論的目的論とは互いに排他的ではなく、生物の目的性を、生理学的法則に支配された要素間の関係の表現である生命現象の中に読み取ることができることになる。西田は、生理学的決定論と生命論的目的論とを、世界の自己表現という同じ一つの事柄の二つの側面として捉え、そこに全体的一と個物的多との矛盾的自己同一を見ているのである。「生命の本質は、個体と云ふものを無視した機械的世界に求むべきでもなく、又単に抽象的目的的作用としての精神的なものに求むべきでもない。然らばと云つて、両者の結合にあるのでもない」(同巻二五五頁)。
 生命体がどこまでも分割可能な物理化学的過程として現れるのは、それが空間性の方向にのみ抽象的に構成し直されたときだけである。個々の生命体は、自己形成的な世界の矛盾的自己同一の表現であり、この世界においては、すべての生ける個体は作られたものから作るものへと移りゆく。この意味で、生命体は、己において生命を一つの全体として十全に表現している。作るものから作られ、己もまた作るものとなってゆく個物は、その生成過程の各瞬間において、歴史的に限定された或る仕方で、普遍性を表現している。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(十)

2014-06-05 00:00:00 | 哲学

1. 3 歴史的生命の論理(3)

 クロード・ベルナールの現象の決定論を、自らの哲学固有の概念である矛盾的自己同一に引きつけながら要約した後で、西田はさらに『実験医学序説』からかなり長い引用をしている。これらの言及個所から、西田がクロード・ベルナールの実験医学思想のどこに強い関心を示していたかがわかる。西田の哲学的関心は、一方で、近接原因の連鎖を辿ることで生命現象の階層的な決定論を物理化学的に探究する生理学的実証的方法論に向かっているが、他方では、それら生命現象をある一つの目的に向かって秩序づけられた有機的全体として捉える生命観がその生理学的探究の根本にあることを特に重視している。つまり、クロード・ベルナールの生理学思想の至る所に見出されるこの矛盾、つまり、生命現象の物理化学的分析と生命体の全体論的な見方との間に見られる矛盾を、西田は、批判されるべき理論的破綻、あるいは克服されるべき理論的困難とは見なしておらず、むしろこの矛盾のうちにこそ、物理学や化学の目的とは区別されるべき生理学固有の目的を見出しているのである。
 クロード・ベルナールの現象の決定論は、有機体が見せる諸現象を無機的な諸現象と同様に物理化学的諸要素に還元しようとするが、それは予定調和的な目的性をもった還元不可能な全体的一として有機体を捉えようとする全体論的な見方とは容易に調和し難い。しかし、クロード・ベルナールが生理学の分野に初めて導入した「内的環境」という概念は、この理論的困難を克服するための鍵概念となり得る。というのも、有機体内の生理的諸成分とそれらの間の相互作用を指すこの内的環境という概念は、一方で、有機体を物理化学的分析の対象として取り扱うことをそれとして認めつつ、しかし、他方で、生命現象の観察に内的目的性を導入することによって、その有機体をその全体において捉えることを可能にもするからである。内的環境は、細胞によって細胞のために形成されているが、それと同時に、細胞はこの内的環境に依存している。この内的環境という概念の導入は、一方で、有機体を構成し、その内的環境に包まれている細胞を物理化学的現象として分析しながら、他方では、その有機体をある目的性を有った全体として把握することを可能にする。
 生物の固有性は、それが生きている限り、己に対して距離がないということである。その生物の諸「部分」は、互いに他に対して距離がないのだから、そもそも「部分」と呼ぶこと自体が誤りを含んでいる。内的環境を媒介として、その生物の全体は常にその諸部分に現前している。この意味において、目的性とは、生けるものの自己形成的な形はその生きた形の細部にまで常に表現されている(Voir Georges Canguilhem, Etudes d’histoire et de philosophie des sciences, Paris, Vrin, 1994, p. 363)ということにほかならない。
 ところが、クロード・ベルナールは、この目的性を、形而上学的なもので観察者の精神の中にしか存在しないとして、生理学的研究の分野から排除してしまう。内的環境という画期的な概念を生理学に導入しながら、自然と精神を截然と分断することで、クロード・ベルナールは、外的決定論と内的目的論との矛盾を解消することができず、結果として、認識論的にも存在論的にも不決定な態度に留まらざるをえなかったのである。












再びストラスブールに呼ばれて

2014-06-04 14:17:58 | 番外編

 日本時間でちょうど午前零時にブログ記事を投稿することを習慣としているが、ときどきその時間帯にインターネットへのアクセスがなく、それができないことがある。昨日がそうだった。日本時間の午前零時は、中央ヨーロッパ時間では、夏時間の期間、前日の午後五時。昨日、その時間、変わりやすい空模様の下、いささか重たい暑さの中、ストラスブールの街をアパート探しのために歩き回っていた。三月三日から連載が続いている「生成する生命の哲学」の記事とは別に、いわば番外編として、なぜストラスブールで家探しをしていたかについて、この記事を書く。
 五月六日に事実上はすでに決まっていたことなのだが、昨日六月三日、ストラスブール大学への転任が同大評議委員会によって正式に承認された。三年間望み続けたことだった。ようやくそれが叶った。学科のスタッフとはすでに何度か一緒に仕事をしており、先方も望んでいた人事であった。これからは自分の本当に教えたいことを大学院レベルの講義で教えることができる。
 ストラスブールについては、すでに何度かこのブログの記事でも触れたことがあるが(こちらこちら)、十八年前に博士課程留学生として初めての海外生活を始めたのがストラスブールだった。それまでは海外旅行の経験すらなかった。しかも家内と二歳半の娘と一緒だったので、最初は本当に何をするにも大変で、毎日右往左往、少しも先が見えない日々だった。ちょっとしたことでひどく落ち込みもし、精神的に不安定になったことさえあった。それからいろいろなことがあった。だがそれについては今日の記事では書かない。
 自分がそこで学び、類稀な師に出会い、教師としてのスタートを切ることを可能にしてくれたストラスブール大学に、こうして専任教員として「帰る」ことができることを心から有難いこと幸いなことと今しみじみ感じている。あえて日本人的感覚で言えば、ストラスブール大学への恩返しのために、これから定年まで、甚だ微力ながら、全力を尽くす所存である。それが自分の「召命」なのだと思う。
 こちらの現地校での小学校教育修了と同時に母親と一緒に帰国した娘が、今年二十歳になり、この夏から一年間、パリ政治学院の留学生としてパリに暮らす。子供の頃に九年間住んだフランスへの留学は、本人もかねてから望んでいたことであった。これが生まれて初めての一人暮らし。いい経験になるだろう。パリ-ストラスブール間はTGV で二時間十五分程、何か問題が発生すれば、助けに来ることも難しくない距離。ノエルの季節にはストラスブールに遊びに来るつもりだと娘は言っている。
 娘と入れ違いに、私はパリを去る。もうパリに住むことはないだろう。パリにもう大した未練も残っていないのだが、ただ、イナルコの「同時代思想」の講義が担当できなくなることだけは残念に思っていた。イナルコの日本学部長は、ストラスブール大のポストの外部審査員の一人だったので、私の任命は既にご存知だったわけだが、改めて直接メールをさし上げて、「同時代思想」の講義を来年度担当することはもうできないとお知らせした。私が後任として推薦した研究者仲間の一人からは、再来年度からだったら引き受けられるが、来年度は無理との返事だった。その仲間とこの講義の件について話したとき、集中講義形式にすれば、私が来年度も続けることも不可能ではないという話はしたのだが、イナルコの方で授業の編成上無理なのではないかと推測し、敢えて先の学部長宛のメールではその可能性には触れなかった。ところが、数日前イナルコのポストの最終面接試問に外部審査員として参加した際に、その審査委員会の委員長である同学部長から、講義をいくらか集中させて私がパリに来る回数を減らすようにして、来年度も続けてもらえないかとの要請を受け、そうしてもよろしいのならばと喜んでお引き受けすることにした。
 昨年6月2日に立ち上げたこのブログも二年目に入った。この一年間、一日も休むことなく記事を投稿できたのは幸いであった。このブログを始めたきっかけについては、最初の記事にも書き、その後再度話題にしたこともあったが、とにかく精神的バランスを崩しかけていた自分を自分の手で何とか立て直したいという藁にも縋る気持ちで始めた。一年経った今では、毎日必ず一定の時間ブログを書くことに充てることが習慣として確立している。そのブログが二年目に入るというこの節目に、そこにかつて住み、またそこで働きたいとかねてから願っていた歴史ある美しい街に帰ることを許され、自分の人生の新たなステージを与えられたことを心の底から感謝している。











生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(九)

2014-06-04 05:20:00 | 哲学

1. 3 歴史的生命の論理(2)

 西田が自らの生命論を展開するにあたって、ホールデーンと並んでしばしば参照しているのが、生理学の分野での古典的権威であるクロード・ベルナールである。西田は、クロード・ベルナールが『実験医学研究序説』(Introduction à l’étude de la médecine expérimentale, 1865. 邦訳『実験医学序説』岩波文庫、1938年、改訳版1970年)で主張する決定論の固有性を的確に捉え、それを明確に機械論から区別している。

我々の生命は、主体が環境を、環境が主体を、主体と環境との相互限定にあるのである。故に生理学者は、有機体が内と外とに環境を有ち、内と外との整合的に、種的形が自己自身を維持する所に、生命の事実を見るのである。決定論と云つて居るクロード・ベルナールに於て、既にかゝる考に到達して居る(実験医学序説)。曰く生命現象も物理化学的現象の如く決定論的である。併し生命現象に於ての決定論とは、単に他に比して極めて複雑な決定論と云ふのではなく、同時に調和的に階級づけられた決定論を云ふのである。生命をば、自己の尾を噛んでいる蛇に喩えた古画は真に能く生命の真相を穿ったものであると云つて居る(全集第十巻二五〇-二五一頁)。

 『実験医学序説』に依拠しながら、西田は、クロード・ベルナールの生命現象の決定論を次のようにかなり忠実にまとめている(同巻二五一頁)。
 私たちの身体は、生殖細胞から細胞分裂によって形成された多数の細胞からなっている。私たちの身体は、全体的一の自己形成であるが、それと同時に、その全体的一を形成している細胞はそれぞれにその独立性を有し、それぞれに生きている。したがって、それぞれの細胞は、生きた単位として機能し得る。全体的一が生きているのは細胞が生きている限りだが、その逆も真である。全体的一は、外的な物質的環境を、細胞によって細胞のために同化するが、それは細胞という多数性へと自己限定することによってである。環境の同化とは、物質を有機体内に取り込むことによって、生きた全体的一を形成することにほかならない。物理化学的レベルでは、細胞は環境と相関的である。しかし、細胞は、何らかの物理化学的現象に還元されてしまうことはなく、生きた全体的一との関係なしには存在し得ない。生命は、全体的一と個体的多との、主体と環境との、内と外との矛盾的自己同一にほかならない。クロード・ベルナールの決定論は、機械論ではなく、「現象の決定論」である。それは、生命の諸現象の近接原因を、つまり、生命現象の出現の決定原因を探究するための方法論的な決定論なのである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(八)

2014-06-03 00:52:00 | 哲学

1. 3 歴史的生命の論理(1)

 西田は、論文「生命」の始めの方で、物理化学的過程として説明され得る現象に還元できない生命現象として、再生、遺伝、種の三つを挙げている。

生理学者は知らず識らず之を機械装置に帰して居るが、その機械装置とは如何なるものなるかを知らない。要するに有機体の生命に於て現れる、構造と作用と環境との間の、存続的な種的な整合 persistent and specific co-ordination を一般に認めるの外なかつた。物理学的立場からは、これは奇跡である。有機体とその環境との相互関係は単なる作用反作用ではない。全体として見れば、それに於て有機体の構造と云ふものが、能動的に維持せられる様に整合せられて居るのである。構造と作用とは離すことはできない。それは一つの存続的全体の能動的顕現であるのである。有機体が環境に適合し、内外の環境が有機体に適合する。環境が有機体の各部分の構造に表現せられ、逆に後者が前者において表現せられて居る(全集第十巻二三二頁)。

 西田が特に注目するのは、有機体とその環境とが、互いに不可分な相関関係を保ちながら、生命を能動的に維持しているという事実である。この事実は、物理的空間では説明することができず、したがって、機械論的説明をそれに適用することはできない。他方、生気論は、環境から独立した永続的な生命力を想定するかぎり、有機体と環境との間の相互作用的な関係を説明することができない。なぜなら、有機体と環境との間に現象として成立している関係そのものが生命現象を構成しているからである。「有機体と環境との相互整合的に、形が形自身を維持する所に、我々の生命があるのである」(同巻二三三頁)。
 形とは、有機体の外見のことではない。形とは、それぞれの種に固有な、有機体と環境との間の関係の束のことである。この関係の束が有機体と環境との間の動的平衡を形成している。これまで見てきたように、形は、いかなる実体もその基礎として前提することなしに現れる機能的状態のことであり、したがって、形の本質は、一つの形から別の一つの形への変容運動にある。自己限定的形の存在論は、物理的世界、生物的世界、人間的世界のすべてに通底する根本的存在論なのである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(七)

2014-06-02 00:00:00 | 哲学

1. 2 出来事としての生命(4)

 形が形自身を限定する世界を根本的に理解するための要諦を、西田は次のように規定する。

右の如き世界を根本的に理解するには、自己自身を限定する絶対の事の概念よりせなければならない。事は一度的と考へられる、同一の事は再び起らない。そこに事の唯一性があり、実在性があるのである。一つの事は一つの世界を限定するのである。而して、我々が真の実在的世界と考へるものは、何処までも事実の世界でなければならない。事実は疑はうとしても、疑ふことはできぬ。我々が疑ふことその事が、一つの事であるのである(全集第十巻七頁)。

事は事に対することによつて事であるのである。単に一つの事と云ふものはない。而も事の背後には、所謂論理的一般者を考へることはできない。一度的なる唯一の事が成立すると云ふことは、事が自己否定を媒介として成立することであり、絕對否定を媒介として事が事に対する、事と事とが結合すると云ふことでなければならない(同巻八頁)。

 西田の生命論において、〈事〉という概念は、〈形〉という概念と密接に結びついている。生命は、種々の他の物の形と対立しかつそれらに繋縛された形を絶えず己に与えることそのことによって、まさに〈事〉なのである。「矛盾的自己同一の世界は、永遠に生滅的であるのである、各瞬間に新たなる世界が生れるのである」(同巻九頁)。それぞれの事が一度限り生じ、その基礎になるような実体はないとすれば、、事の世界とは、ずべてが生成消滅の過程にあり、絶えず新たに創造する世界である。このような世界は、物の時間的持続に基礎づけられてはおらず、事の永遠の創造性の表現にほかならない。各瞬間が永遠に触れている。「矛盾的自己同一的世界は、自己矛盾的に瞬間も留まることはできない。而も矛盾的自己同一的に永遠不変であるのである」(同巻一九〇頁)。これが絶対現在の自己限定であり、歴史的生命の世界をそれとして成り立たせているのである。

絶対矛盾的自己同一の世界は、その根底に於て、無限なる唯一的事の世界として、創造的世界、即ち生滅の世界でなければならない。これが我々に歴史的世界と考へられるものである(同巻八頁)。

 人間存在は、歴史的世界をそれとして生きている存在であることによって、まさに歴史的生命である。自己限定する形の論理は、事の存在論に支えられ、物質から生物的生命を介して人間の個別的生に到るまで、この世界に現れるものすべてを動かしており、まさにそれこそが、歴史的生命の論理なのである。