内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「人となれば自在ならず、自在なれば人とならず」

2018-06-20 17:14:17 | 読游摘録

 二日あいだが空いてしまったが、南方熊楠についての一連の記事を今日でひとまず締めくくることにする。
 熊楠がどのようにして大英博物館の図書館を自由に利用することができるようになったか、その経緯については三日前の記事で話題にした。そして、大英博物館内での殴打事件についてもさらにその数日前の記事で取り上げた。
 この暴力沙汰は大英博物館においてもちろん前代未聞の事件であった。ところが、東洋書籍部部長ダグラスのとりなしによって、熊楠は再び大英博物館への出入りを許可される。それだけ熊楠の学識が博物館において認められていたということだろう。
 ところが、その事件の翌年、熊楠は再び騒動を起こしてしまう。図書館内である女性が甲高い声でおしゃべりしているのが気に食わず、それをやめさせようとしたが聞き入れられなかった。そこで熊楠は一旦館外に出て傘を持ってまた入館しようとしたが警官に取り押さえられた。もし、そのまま入館していたら、その傘で女性に対して傷害事件を起こしていたかも知れない。
 この二度目の騒動の後、またダグラスが尽力してくれたが、熊楠はもう二度と博物館に戻ることはなかった。
 最初の暴力事件の前か後かはわからないが、大英博物館に通いはじめて六年ほどたったころ、館員になることを再三勧められたという。しかし、熊楠はこれを断っている。その理由は、「履歴書」によると以下の通りである。

人となれば自在ならず、自在なれば人とならずで、自分は至って勝手千万な男ゆえ辞退して就職せず、ただ館員外の参考人たりしに止まる。(『南方熊楠コレクション IV 動と不動のコスモロジー』河出書房文庫、309頁)

 人並みに就職してしまえば、自由な学問研究ができなくなる。自由な学問研究を続けながら、人並みの生き方はできない。こう思案して、せっかくの就職口を断ってしまったのである。
 「一生無官で過ごした熊楠の面目である。」(鶴見和子『南方熊楠 ―地球志向の比較学―』講談社学術文庫、131頁)











言わずもがなの独り言

2018-06-19 19:02:06 | 雑感

 あたかも何事もなかったかのように読書記録を記すことは今日もできません。
 昨日朝、大阪を震源とした地震のことをニュースで知って、ご自宅やご実家が大阪・京都・兵庫にあったり、ご家族・親族が震源から遠からぬ地域にお住まいなっている知人たちに、ご家族・親族がご無事かどうかのメールを差し上げました。幸いなことに、どなたのご家族・親族もたいした被害には遭われなかったようです。
 しかし、NHKの速報によると、亡くなられた方は五名、怪我をされた方たちは四百名近くになっているようです。私自身は直接の親しい知り合いは今回の災害地区にはいませんが、それでもこういうことがあるとほんとうに心が痛みます。
 ネット上では、サッカーのワールドカップでの今日の日本の初戦勝利の話題で大賑わいですが、正直、私にとっては、どうでもいいことです。勝手に騒げば。
 さて、今日もいろいろありまして、慌ただしく一日を過ごしました。このバカみたいな忙しさの合間を縫って、月末の研究発表の準備をしなければなりません。
 自分のやっているすべてが付け焼き刃で、底が浅いことに心底嫌気がさします。なんで大学教師なんかしているのか。なんで学科長としての職責に忙殺され、ほんとうに大切なことを後回しにして、空しく時を過ごしているのか。残されている時間は長くはないのに。











災害とそれに伴う国民の不幸と不安を利用して国家が己の不正を隠蔽しないことを切に祈る

2018-06-18 20:45:10 | 雑感

 私的予定としては、今日の記事で南方熊楠についての一連の記事をひとまず締めくくるつもりでいました。でも、それは明日以降に延期いたします。
 なぜなら、今朝、大阪地震のことを知ったからです。いつものように五時に目覚めてすぐネットのニュースをチェックして知りました。
 亡くなられた四人の方―通学途中、小学校のブロック塀の倒壊の下敷きになってしまった九歳のお嬢さん、ご自宅あるいはその付近で亡くなられたご高齢のお三方―のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 負傷された方々も数百人に上り、家屋倒壊などの物質的被害に遭われた方々も少なくないようです。
 被災された皆様が一日も早く普段の暮らしに戻れることを心から祈念いたします。
 世界に冠たる日本の「有能なる」為政者たちよ、どうか被害者の方々の救済とインフラの復旧に全力を尽くされんことを。この災害とそれに伴う人々の不幸とをメディア的に利用して、自分たちに都合のいいようにその他の政治的重要案件を陰でこそこそと処理しないだけの最低限の政治的倫理感をあなたたちが持っていることを海外在住の一非国民として私は心から願います。















「今日はじめて学問の尊きを知る」

2018-06-17 16:57:23 | 読游摘録

 南方熊楠が後年人の求めに応じて書いた「履歴書」によると、大英博物館館長フランクスをはじめて訪ねたとき、「乞食もあきるるような垢じみたるフロックコート」を着ていた。ところが、フランクスは、熊楠の身なりを気にかける様子もなく、熊楠が手渡した英語論文「東洋の星座」の校正刷りを丁寧に直してくれ、一見似た言葉の間のニュアンスの違いについて説明してくれたという。それだけではない。「銀器に鵝を全煮にしたるを出して前に据え、みずから包丁してその肝をとり出し、小生を饗せられし」というのだから、これはまったく異例の歓待だと言えよう。
 熊楠のそのときの感激が伝わってくる「履歴書」の続きを読んでみよう。

英国学士会員の耆宿にして諸大学の大博士号をいやが上に持ちたるこの七十近き老人が、生処も知れず、たとい知れたところが、和歌山の小さき鍋屋の倅と生まれたものが、何たる資金も学校席位も持たぬ、まるで孤児院の小僧ごとき当時二十六歳の小生を、かくまで好遇されたるは全く異数のことで、今日はじめて学問の尊きを知ると小生思い申し候。

 熊楠の論文を読み、話を聴き、フランクスは、熊楠の東洋に関する膨大な知識の貴重さをその場で見抜いたのであろう。すぐに大英博物館の古美術・古遺物部内の資料整理の仕事を熊楠に手伝わせている。館内の図書館への出入りも許可された。利用目的は「scientific researche」、利用資格身分は「student」であった。
 学問的探究の真正さは、出自・国籍・学校歴などによって決まるものではなく、ましてや身なりなどとはなんの関係もない。研究内容そのものがすべてなのだ。熊楠が大英博物館で学んだ最も大切なことは、この学問の世界の本来的な平等性である。それこそが学問を人間の尊い営為にしていることを熊楠はここで決定的に学んだのである。












人気の軽業師の家で出会った稀代の詐欺師の手引きで大英博物館館長に面会する中卒どまりの未来の天才学者

2018-06-16 21:56:23 | 読游摘録

 十九世紀後半、明治国家の官命による留学生や日本人政治家・企業家・篤志家の潤沢な金銭的援助に支えられた遊学生を除いて、どれくらいの日本人が単身ヨーロッパに渡り、様々な困難を経ながら、そこでの生活を成り立たせるに至ったのであろうか。
 これは、人間ドラマとして興味深いテーマであるだけでなく、近代日本精神史の観点からもとても刺激的なテーマだ。彼らの群像を描けば、大河ドラマとまではいかないにしても、かなり面白い歴史絵巻になること間違いなしだと私は思っているが、皆さんはいかがですか。
 一八九三年、「東洋の星座」という論文の『ネイチャー』への掲載が決定した南方熊楠は、当時の大英博物館館長のフランクス(Sir Augustus Wallaston Franks, 1826-1897)に面会する。しかし、二十代半ばのまったく無名な東洋人である熊楠がなぜこの当代一流の名士に面会することができたのであろうか。
 熊楠をフランクスに紹介したのは、片岡政行(1863?~?)という人物である。この片岡なる人物、英国で「プリンス片岡」と名乗っていた。さぞかし由緒ある出自かと思いきや、実のところ、正真正銘の詐欺師であった。英国で数々の詐欺を働き、かなりの財産を築いたようであるが、それだけ英語および英国文化・事情に精通していたということである(ごく個人的な感想ですが、つい最近終わったばかりの好評ドラマ『コンフィデンスマンJP』の続編は、是非この歴史的事実を生かしてほしい)。
 熊楠が片岡に出会ったのは、どこでかというと、熊楠がすでに知り合いになっていた軽業曲芸師、美津田滝次郎(1849?~?)の家でのことである。
 学歴は中卒止まりの天才学者、英語の達人の稀代の詐欺師、ヨーロッパで名声を博していた軽業曲芸師。なんとワクワクさせるトリオではないですか。
 ああ、才能さえあれば、この三人を主役とした小説あるいはドラマのシナリオを書いてみたいなぁ。












大英博物館での書物の森のフィールドワーク

2018-06-15 23:12:39 | 読游摘録

 熊楠の行動様式もまた極端である。
 アメリカとキューバでは、それこそ命がけでフィールドワークを行っていたのに対して、ロンドンでは、行動半径は大英博物館を中心としたきわめて狭い範囲に限られ、その中で古今東西の書籍の渉猟と筆写に明け暮れている。特に、誰でも無料で自由に入館できた大英博物館の円形閲覧室が熊楠の「居場所」であった。
 熊楠にとって、野外のフィールドワークも室内の資料探索も、根本的には同じ精神活動であった。いずれの場合も、対象に入り込み、それと一体となり、そこから世界を「内側」から見ることであった。
 熊楠がロンドン時代に書き写したノート「ロンドン抜書」は、五十二冊、各冊二百五十~二百七十頁、計一万数千頁に及ぶ。その全貌は今日もまだ明らかになっていない。
 ロンドンから帰国して十四年後、熊楠は、柳田國男宛の書簡の中で、この「ロンドン抜書」を和訳して、国の機関などに保存することはできないかと尋ねている。しかし、それは今日まで実現することなく、「抜書」は今も直筆のまま残されている。













行為的直観の人 ― 南方熊楠

2018-06-14 23:59:59 | 哲学

 南方熊楠ほどその学問のスケールと関心の振幅が大きな日本人というのは日本史上一体何人数えることができるだろうか。古代まで遡ったとしても、私には空海くらいしか思い浮かばない。
 熊楠は家の中で筆写という身体的行為を通じて書物の世界に没入していたかと思うと、次の瞬間には熊野の深い森の中でフィールワークに飛び回っている。唐澤太輔の言葉を借りれば、まさに「極端人」である。
 しかし、一見極端なその振り幅にもかかわらず、熊楠の身体的・精神的活動には一つの共通点がある。それは対象への類まれな同化・没入力である。熊楠は、「対象に没入し、その内部から対象を直接観ていた」(唐澤太輔『南方熊楠 日本人の可能性の極限』)。
 これは西田幾多郎が言うところの「物となって見、物となって考え、物となって行う」(「ポイエシスとプラクシス」『西田幾多郎全集』第九巻、2004年、230頁)ことの具体的実践にほかならない。熊楠はまさに行為的直観の人である。












筆写、あるいは書物の世界と一体化する方法 ― 未使用の原稿用紙を眼の前にしての随想

2018-06-13 21:10:23 | 随想

 今、私の目の前には、南方熊楠顕彰館と下方に印刷された四百字詰原稿用紙の一束が置かれている。
 2010年7月、ある人と二人で、熊楠の生まれ故郷である和歌山県田辺市にある南方熊楠顕彰館を訪れた。かねてより是非訪ねてみたい場所であった。当時のままに保存されている旧熊楠邸に隣接する顕彰館は、旧邸とは対照的な斬新な現代建築の資料展示館になっており、熊楠の直筆原稿や採集した標本などが十分な自然採光の下で見ることができるようになっている。館員の方に伺ったところによると、展示されているのは同館に収蔵されている膨大な資料のごく一部に過ぎず、熊楠自身によって収集された標本や大量の抜書ノートなどがまだ未整理のままとのことだった。
 今私の眼前にある未使用の原稿用紙は、その訪問時に受付でいただいた。B4サイズのやはり下方に南方熊楠顕彰館と印刷された封筒は持ち重りがして、なんだろうかとその場で開けてみて、それが原稿用紙だとわかって、二人で大喜びしたことをよく覚えている。以来、使わずに大切に保存してきた。
 昨日の記事で熊楠のことを取り上げて、その原稿用紙のことを思い出し、封筒から取り出してみた。一枚目の端が少しめくれてしまっている以外は新品同様である。でも、こうしてもったいながっていつまでも使わないでいるのも馬鹿げたことのように思えてきた。
 熊楠は、幼少の頃から読んだ本の抜書をすることを習慣としていた。その量だけでも異常だったが、その記憶力も常人離れしていた。しかし、筆写することは、熊楠の場合、単に記憶の方法ということにとどまらなかった。
 筆写することは、熊楠にとって、その書物の世界と一体になる方法でもあった(唐澤太輔『南方熊楠 日本人の可能性の極限』中公新書)。熊楠は、筆写することで「対象と一体化できるほど深く入り込むことができる特別な集中力(熊楠自身は「脳力」と言う)を持っていたのである。」(同書より)
 熊楠のように何もかも筆写する人は当時も稀有であったが、今日では、写経など特別な場合を除いて、一般には、筆写という習慣そのものが失われつつある。他方、私たちは膨大なデータを時々刻々コンピューターを使って処理し、それによってかつては得られなかった知見を手にしていることも確かである。
 しかし、筆写は、ただ物理的に文字を書き写すだけの作業ではない。それだけのことなら、その時間と労力を省いてくれるコピー機やスキャナーを使えばよい。キーボードを叩いてテキストを入力する作業とも違う。より直接的にテキストそのものにまさに身体的に触れ、そのことによってそのテキストの世界との交流を可能にする方法、それが筆写だと言えるのではないだろうか。
 (今日の記事に貼り付けた写真は南方熊楠顕彰館訪問の際に連れが撮影した写真である。)











南方熊楠と夏目漱石 ― インド洋上ですれ違っていた未来の日本の二人の知的巨人、あるいは不邂逅という運命

2018-06-12 17:32:20 | 読游摘録

 1900年9月27日から28日にかけて、南方熊楠と夏目漱石はインド洋上ですれ違っている。熊楠は、アメリカ・キューバ・英国での十数年間に渡る海外放浪・生物採集・学問修業生活からの帰途、漱石は、文部省からの官命による英語研究のための留学への途上であった。もちろんそのことをお互い知る由もない。
 両者の因縁めいたすれ違いと僅かな接点については、すでに多くの先行研究があるが、両者の比較研究は今なおとても刺激的なテーマであることに変わりはない。
 二人は同じ1867(慶応三)年生まれで、1884年に同時に大学予備門に入学している。しかし、両者は生涯ついに出逢うことはなかった。
 接点と言えば、英国時代に熊楠が英国人と共訳した『方丈記』が、同じく『方丈記』の英訳を独自に手掛けていた漱石の訳と誤って世間に紹介され、この誤りは後に熊楠自身によって動かぬ証拠とともに訂正されている。
 気鋭の熊楠研究者である唐澤太輔は、「もし、両者に交友があったら……と考えるだけでも面白い。しかし筆者は、両者はやはり、出会わないことが必然だったと考える。二人はあまりにもその気質が違いすぎたのではないか」と述べている(『南方熊楠 日本人の可能性の極限』中公新書、2015年)。
 確かに、熊楠の大英博物館での次のような「武勇伝」を知る者にとって、下宿に籠もり切りで神経衰弱に陥りかけていた漱石とは、あまりにも対蹠的な人格としか見えない。

小生大英博物館に在るうち、独人膠州湾をとりしことあり。東洋人の気焔すこぶる昂がらず。その時館内にて小生を軽侮せるものありしを、小生五百人ばかり読書する中において烈しくその鼻を打ちしことあり。それがため小生は館内出入を禁ぜられしが、学問もっとも惜しむべき者なりとて、小生は二ヵ月ばかりの後また登館せり。当時このこと『タイムス』その外に出て、日本人を悪むもの、畏るるもの、打たれたものは自業自得というもの、その説さまざまなりし。小生はそのころ日本人がわずかに清国に勝ちしのみで、概して洋人より劣等視せらるるを遺憾に思い、議論文章に動作に、しばしば洋人と闘って打ち勝てり。(『履歴書』、平凡社版『南方熊楠全集』第七巻収録。河出文庫『〈南方熊楠コレクション〉Ⅳ 動と不動のコスモロジー』にも収録されている。上掲引用箇所は314頁)。

 しかし、二人はまったく話が合わなかったかどうか。まったく興味関心の向う方向が重なり合うことはなかったかどうか。両者ともに夢に対して強い関心を持っていたから、その点では、少しは語り合えたかも知れない。夢について、たとえ柳田國男との膨大な書簡のやり取り(『柳田国男・南方熊楠往復書簡集』上下二巻、平凡社ライブラリー、1994年)にはまったく比ぶべくもないないとしても、二人の間に書簡のやり取りでもあったならと空想してみるのは楽しい。












結膜炎 ― 免疫力低下の黄色信号

2018-06-11 23:15:31 | 雑感

 どうも結膜炎に罹ってしまったようである。昨日朝から、右目が充血し、瞼が腫れ、異物感がある。症状から見て、ウイルス性結膜炎である。当然、水泳は中止である。結膜炎なんて、小学生のとき以来ではないかと思う。実に半世紀ぶりの罹患である。記念にも自慢にもならない。
 結膜炎は、一般に、全身の免疫力が低下している時期にかかりやすいと言われている。思い当たる節はない。むしろこれを体からの注意信号と受け取るべきだろう。
 治癒には少し時間がかかるし、周囲に感染させないように注意しなくてはならない。そうかと言って、家に引きこもっているわけにもいかない。症状を悪化させず、できるだけ早く治すためにも、さっさと寝る。