スマートフォンが普及する前は、「ちょっと記憶が曖昧なんですが、確か…」とか言っておいて少しいい加減な引用をしても、それはそれでその場をしのぐことができましたよね。今の時代、もうそれは通用しませんね。すぐにその場でパッと検索できちゃうんですから。
私自身、ちょっと記憶が不確かだと、すぐにネットで検索して確認します。高度な学術的な情報はそう簡単にはいきませんが、簡単な情報 ― 人の名前とか施設の住所とか出来事の日時とか ― だったら、それこそ一瞬で確かめられますものね。
まことに便利な世の中になったものです。この未曾有の便利さが人間の脳の機能に変化をもたらすことも避けがたいですね。この点については、認知科学や脳生理学の分野ですでに多くの研究がなされていますから、私ごとき素人が何をか言わんや。
ちょっと前置きが長くなりました。
遠い昔、石川淳のあるエッセイの中で「三日書を読まざれば面貌憎むべし」という言葉を読んだことがあるようなぼんやりとした記憶があります。
さっそくネット検索してみました。そうしたら、北宋の文人である黄山谷の次の言葉がすぐに見つかりました。
士大夫三日不讀書。則義理不交胸中。便覺面目可憎。語言無味。
士大夫三日書を読まざれば、則ち理義胸中に交らず。 便ち覚ゆ、面目憎むべく、語言味無きを。
この言葉の厳密な解釈はともかく、ざっくり言えば、「三日も書物を読まないでいると、それは顔に出ちゃうよ」ってことですよね。
今の若い人たちの〈読む〉ことに対する姿勢は、私たちの世代とは明らかに異なっていますから、この黄山谷の言葉を振りかざして、「今どきの若いもんは」とか小言をたれてもはじまりません。
ただ、私自身はこの言葉がとても身に沁みます。今日も大学のあれやこれやの雑務を処理するために一日机に向かっていたのですが、その合間合間に、コーヒーを飲むのと同じ頻度で、机上に堆く積まれた書籍を手にとっては、数分間、仕事を忘れてテキストに集中しました。
こんな細切れ読書でも、それを積み重ねていくと、シナプス同士がビビッと結合するように、断片的読書経験が相互自己集積化していく瞬間が訪れることがあるのですよ。いつとはわかりませんが。その瞬間を待ちつつ、どんなに忙しくても、読書はただの一日も欠かしません。