内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

筆写、あるいは書物の世界と一体化する方法 ― 未使用の原稿用紙を眼の前にしての随想

2018-06-13 21:10:23 | 随想

 今、私の目の前には、南方熊楠顕彰館と下方に印刷された四百字詰原稿用紙の一束が置かれている。
 2010年7月、ある人と二人で、熊楠の生まれ故郷である和歌山県田辺市にある南方熊楠顕彰館を訪れた。かねてより是非訪ねてみたい場所であった。当時のままに保存されている旧熊楠邸に隣接する顕彰館は、旧邸とは対照的な斬新な現代建築の資料展示館になっており、熊楠の直筆原稿や採集した標本などが十分な自然採光の下で見ることができるようになっている。館員の方に伺ったところによると、展示されているのは同館に収蔵されている膨大な資料のごく一部に過ぎず、熊楠自身によって収集された標本や大量の抜書ノートなどがまだ未整理のままとのことだった。
 今私の眼前にある未使用の原稿用紙は、その訪問時に受付でいただいた。B4サイズのやはり下方に南方熊楠顕彰館と印刷された封筒は持ち重りがして、なんだろうかとその場で開けてみて、それが原稿用紙だとわかって、二人で大喜びしたことをよく覚えている。以来、使わずに大切に保存してきた。
 昨日の記事で熊楠のことを取り上げて、その原稿用紙のことを思い出し、封筒から取り出してみた。一枚目の端が少しめくれてしまっている以外は新品同様である。でも、こうしてもったいながっていつまでも使わないでいるのも馬鹿げたことのように思えてきた。
 熊楠は、幼少の頃から読んだ本の抜書をすることを習慣としていた。その量だけでも異常だったが、その記憶力も常人離れしていた。しかし、筆写することは、熊楠の場合、単に記憶の方法ということにとどまらなかった。
 筆写することは、熊楠にとって、その書物の世界と一体になる方法でもあった(唐澤太輔『南方熊楠 日本人の可能性の極限』中公新書)。熊楠は、筆写することで「対象と一体化できるほど深く入り込むことができる特別な集中力(熊楠自身は「脳力」と言う)を持っていたのである。」(同書より)
 熊楠のように何もかも筆写する人は当時も稀有であったが、今日では、写経など特別な場合を除いて、一般には、筆写という習慣そのものが失われつつある。他方、私たちは膨大なデータを時々刻々コンピューターを使って処理し、それによってかつては得られなかった知見を手にしていることも確かである。
 しかし、筆写は、ただ物理的に文字を書き写すだけの作業ではない。それだけのことなら、その時間と労力を省いてくれるコピー機やスキャナーを使えばよい。キーボードを叩いてテキストを入力する作業とも違う。より直接的にテキストそのものにまさに身体的に触れ、そのことによってそのテキストの世界との交流を可能にする方法、それが筆写だと言えるのではないだろうか。
 (今日の記事に貼り付けた写真は南方熊楠顕彰館訪問の際に連れが撮影した写真である。)