ほかの誰にでもあったように私にもあった若き日に内田百閒を愛読していた。今はもうない懐かしの旺文社文庫中のシリーズとして刊行されていた内田百閒の随筆集(全部で数十冊あったと思う)はすべて購入し、全部読んだ。読点の極端に少ない百閒の文章を自分の文章の手本としていた。日本語は読点がまったくなくても達意の文が書けるということを百閒の文章から教わった。今でも、読点が少なくても曖昧さのない文が理想だと思っている。
新潮文庫から二〇〇二年に刊行された『百鬼園随筆』の解説は川上弘美が書いている。私は現代日本の小説家の作品はほとんど読まないが、彼女のエッセイは大好きだ。その解説の冒頭に百閒が芸術院会員に推薦されたときのピソードが出てくる。これが面白い。
「イヤダカラ、イヤダ」というのが推薦を辞退する理由である。これは論理としては完璧だ。完全に自律した論理だ。つけいる隙きがない。しかも、百閒の場合、単に表現として首尾一貫しているというだけでなく、行動もこの論理に貫かれている。辞退の理由を芸術院院長に伝えるにあっても、自分の弟子の一人にこの通りに答えてくれとメモを渡す。問答無用である。
このエピソードについて川上弘美は以下のような感想を「解説」に記している。
メモ通りに答えて欲しい、というところが、まず百閒である。妙に几帳面である。けれど常識的というわけではない。自分で規則を作る。それには必ず従わねばならない。ただし規則は必ずしも世間の常識とは一致しなくともよい。整合性もなくてもよい。いったん決めたものは、守る。百閒の文章が、非現実的でありながら決して不協和音を聞くような不愉快さをもたらさないのは、おそらく百閒世界の規則が、その世界では正しく守られているからではないかと、つねづね私は思っている。(新潮文庫版『百鬼園随筆』巻末の川上弘美「解説」より、356-357頁)
これはまさに自律(オートノミ-)の定義である。仏語の « autonome » という形容詞は、ギリシア語の autos と nomos に由来する。つまり、自律とは、自分で自分に行動の規則を与え、それに従う、ということなのだ。
この意味で、内田百閒と川上弘美の文章はどちらも自律している。