内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

痛みと苦しみの存在論的差異について

2018-06-27 23:59:59 | 哲学

 痛みと言ってもいろいろあるから、今日は、身体上の局所的な痛みに話を限定する。いわゆる精神的苦痛は措く。
 例えば、怪我や病気が原因で身体のある特定の個所が痛む場合を考えてみる。この場合、痛みの原因を取り除けば、痛みは消える。仮に原因はすぐに取り除けなくても、鎮痛剤を処方すれば、痛みを感じなくすることはできる。しかし、そのような痛みへの対処法も今日の話題ではない。
 身体的痛みがある程度以上の強度になると、私たちはそれに苦しめられる。痛みを忘れることができず、仕事や勉強が手につかなくなってしまうこともある。それどころか、苦しむこと以外になにもできないほど痛みが増大することもある。そのようなとき、私たちの存在は、他から切り離され、その痛みそのものの大きさにまで縮小されてしまったかのように感じられる。
 痛みは身体上の物理化学的な原因によって発生し、苦しみは精神の問題だから、どんな痛みの中であっても精神を苦しませないように自分ですることはできるし、そうすべきだとストア哲学のように考えることは、苦しみそれ自体には価値がなく、排除されるべきだという考えを前提としている。
 苦しみは痛みを原因とするから、痛みに耐えつつ苦しみから解放されようなどと無理に意地を張ったりしないで、その原因そのものをさっさと取り除けばよいと考えるのが近代合理主義だろう。このような考え方も、苦しみは排除されるべきだと考えている点でストア的発想と変わりはない。
 しかし、一切の宗教的教義(特にキリスト教)を除外するとして、一般に、人間にとって、苦しむことそれ自体に意味はないのであろうか。苦しむことそのことによって開かれる存在論的次元があるのではないだろうか。