鶴見和子『南方熊楠』(講談社学術文庫)は、南方独自の概念である「萃点」(すいてん)について次のように説明している。
気の遠くなるように種々雑多なことがらの間に、南方がはりめぐらしている網の目があり、それらの網の目を、遠くから近くへとひきたぐらせる一つの中心―南方のことばでいえば「萃点」―がある。その萃点が何かは、それぞれの対象によって具体的にはちがう。しかし、理論的にいえば、それぞれの地域には、それぞれの自然生態系と、それと関連した人間の生態があり、それらを、全体として把握しながら、異なる地域の民俗、風習を比較するという立場である。(22頁)
それはしかし、漫然とすべてがすべてに関係がある、ということではない。ある一つの場面をきりとると、そこにはかならず、その中のすべての事象が集中する「萃点」があり、その萃点に近いところから、しだいに、近因と遠因とをたどってゆくことができる。南方は、大乗仏教の世界観を、ものごとを原因結果の連鎖として示す、科学的宇宙観として、解釈し直したのである。(23頁)
この萃点を探し求め、それとして捉えるのが、自ら探求者として行動しつつ自己を脱中心化する主体としての人間である。とすれば、自己を中心に置くかぎり、萃点は見えてこないし、捉えようもない。そして、この意味で、生態系の中で人間は盲目になってしまう。