宮嶋美衣さんのブログで、
「余寒」という言葉を知りました。
春分からは、「余寒」と言う、
で、秋分からは、「残暑」。
で、「残寒」でもなく、「余暑」でもない、
日本語の韻の美しさについても、
宮嶋さんは書かれていて、
頭の良い人だなあ、
とつくづく思います。
頭が良いという意味は、
問題意識のことで、
あることへの洞察力の深さに、
いつも驚いてばかりです。
凄い人達がまわりに一杯で、
たぶんに、僕は教えてもらえるので幸福です。
布爺がふらふらしているので、
「布爺、あんな、月曜日は春分だったでしょ?」
「ああ、そうだな」
と72歳の布爺は言います。
毅然としていて、かっこいい老人です。頭も良いし元気だし。
「春分の日からの、今の寒さを、余分の余と、寒さと書いて、
余寒っていうんだって」
「そうかあ」
と爺。
僕は夏が大好きで、逆にこの寒さは苦手で。
「かくかくしかじかで、わいは冬は苦手で」
と僕。
「そうかあ? 俺は夏がだめだ。冬だったら着ればいいだろう」
と布爺。
「まあねえ」
と僕。
それから夏の話になりました。
そいで、
「今年(夏)、(自分は)生きてるかなあ」
と布爺。
「生きてるかなあ」というのは、
健常な人が冗談で言うそれではなく、
本当に、僕も大丈夫かな、
と思わせる言い方でした。
それでも、僕が大笑いしてしまったのは、
「今年(の夏)、(俺は)生きてるかなあ」
という言い方が、
まるで、
「今夜、飯食えるかなあ。。。」
程度の言い方だったからです。
生きることは、食うことと確かに密接ですけど、
まるで生きることと食べることが、同語であるような感じだし、
生き死にも、布爺にとっては、
まるで人事のように言うから、
もー、大笑い。
実際、布爺は、
朝起きて、
「ああ、今日も生きてる、もうけ!!」
と思うそうです。
「生きてるよ」
と僕。
もうすぐ僕はこの労働場を離れるけれど、
もしかしたら布爺と今度はどこで会うのかは
判らないけれど、
この不良老人のおかしみとユーモアと、
強さとしたたかさ、目の深き奥、
快活な笑い声、しわ、
そういうことを、まず忘れないだろう、
と思います。
離れていても、思う人、布爺。
「余寒」という言葉を知りました。
春分からは、「余寒」と言う、
で、秋分からは、「残暑」。
で、「残寒」でもなく、「余暑」でもない、
日本語の韻の美しさについても、
宮嶋さんは書かれていて、
頭の良い人だなあ、
とつくづく思います。
頭が良いという意味は、
問題意識のことで、
あることへの洞察力の深さに、
いつも驚いてばかりです。
凄い人達がまわりに一杯で、
たぶんに、僕は教えてもらえるので幸福です。
布爺がふらふらしているので、
「布爺、あんな、月曜日は春分だったでしょ?」
「ああ、そうだな」
と72歳の布爺は言います。
毅然としていて、かっこいい老人です。頭も良いし元気だし。
「春分の日からの、今の寒さを、余分の余と、寒さと書いて、
余寒っていうんだって」
「そうかあ」
と爺。
僕は夏が大好きで、逆にこの寒さは苦手で。
「かくかくしかじかで、わいは冬は苦手で」
と僕。
「そうかあ? 俺は夏がだめだ。冬だったら着ればいいだろう」
と布爺。
「まあねえ」
と僕。
それから夏の話になりました。
そいで、
「今年(夏)、(自分は)生きてるかなあ」
と布爺。
「生きてるかなあ」というのは、
健常な人が冗談で言うそれではなく、
本当に、僕も大丈夫かな、
と思わせる言い方でした。
それでも、僕が大笑いしてしまったのは、
「今年(の夏)、(俺は)生きてるかなあ」
という言い方が、
まるで、
「今夜、飯食えるかなあ。。。」
程度の言い方だったからです。
生きることは、食うことと確かに密接ですけど、
まるで生きることと食べることが、同語であるような感じだし、
生き死にも、布爺にとっては、
まるで人事のように言うから、
もー、大笑い。
実際、布爺は、
朝起きて、
「ああ、今日も生きてる、もうけ!!」
と思うそうです。
「生きてるよ」
と僕。
もうすぐ僕はこの労働場を離れるけれど、
もしかしたら布爺と今度はどこで会うのかは
判らないけれど、
この不良老人のおかしみとユーモアと、
強さとしたたかさ、目の深き奥、
快活な笑い声、しわ、
そういうことを、まず忘れないだろう、
と思います。
離れていても、思う人、布爺。