![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/5d/09ad1e3cba7a58590840d386452a2ad6.jpg)
翌朝、シンカフェのバスに乗り込み、わたしは13日間滞在したフォングーラオ通りを後にした。バスには見覚えある顔がいた。イスラエル人の若者だ。彼とは、ヴェトナムのサパからハノイまでテトの行軍を共にしたことがあった。こうして、またヴェトナム出国を共にするのも何かの縁である。
彼は度々ホーチミンの町で出くわすことがあった。その度にこんな挨拶を彼はかけてきた。
「What's up?」
もちろん、その意味くらいは知っていたが、どんな返答をしていいのか分からない。
ニヤニヤしながら、わたしはいつも「Fineだよ」と答えていた。
この日も、バスの中でわたしを見るなり、すかさずこのお決まりの言葉をかけてきた。
そして、相変わらずわたしは「Fineだよ」と答えたのだった。
わたしは、カンボジアに向かうにあたって少し緊張していた。
それは、これまで通ってきたどこの国よりも確実に危険度が高かったからだ。
1993年、日本は初めて軍事行動を伴う国際的な活動、国連平和維持活動に参加した。混乱の続くカンボジアで初めて選挙が行われる運びになったからである。
しかし、同年、4月国連選挙監視員を務めていた民間の日本人男性が射殺されると、翌5月4日には国連カンボジア暫定機構の職員らが乗った車両が武装集団のロケット砲攻撃を受け、文民警察官として活動にあたっていた岡山県警の警部補が亡くなった。
それが、遡ること僅か4年前のことである。
長きに渡り、カンボジアを独裁していたポル・ポトはこのとき、まだ存命であり、その影響力は弱まったものの、一部では未だテロ行為を続けているともっぱらバックパッカーたちの噂であった。
夜間は外出禁止令も出され、銃口を突きつけられることもあるのだという。
治安の悪い国に共通することは、権力が腐敗すると決まって警察なども堕落してしまうことだ。むしろ、そのほうがたちの悪いこともある。
カンボジアでも、どうやらその例に漏れず、噂では警察が暴力を引き起こしていると評判だった。
一方、長きにわたったポル・ポト支配は市民の生活も困窮に追いやったようだ。
あるバックパッカーからわたしは以前「カンボジアに行こうぜ」とけしかけられたことがある。
彼は「ガンジャは豊富だし、女は2ドルだぜ」と連呼し、豪語した。
そうか、買春に費やすお金は日本のコミック雑誌よりも安いのか。
ヴェトナム、カンボジア国境に向かうバスの車中で、その彼の言葉をなんとなく思い出したのだった。
しかし、そうは言っても30人乗りのミニバスは満員のバックパッカーを乗せて国境へひた走る。
カンボジアに向かう若者は決して少なくないのだ。
日本人もわたしを含め3~4人は乗っていた。
少なくとも、内戦は終結していたし、選挙も行われた。
カンボジア入国は決して無謀ではないのだ。
朝の6時に出発したバスは途中1度の休憩を挟み、8時頃には国境の町モクバイへと到着した。
南国の太陽はジリジリと高度をあげ、気温は否応なしに上昇する。
バスを降りてみて拍子抜けした。
何もない草原の向こうにゲートが見えるだけだった。
恐らく、あの門の向こうがカンボジアなのであろう。
バスを降りて、わたしは国境を目指した。
ヴェトナム側の出国、カンボジア側の入国も実にあっさりしたものだった。
中越国境ラオカイのイミグレーションのような賄賂をせがむ噂もなく、手続きに5分と時間はかからなかった。
さて、ここからが問題だった。
果たしてカンボジアの首都プノンペンまでのバスがあるかどうかである。
フォングーラオ通りで日本人が持っていたガイドブックを見せて貰ったが、「タクシーを相乗り」してプノンペン入りすることがポピュラーな手段であると書いてあった。いくら相乗りといっても片道2時間かかるタクシー料金はかなり値がはるのではないかと不安だ。しかも、主導権は運転手にあるわけで、安くみてもひとりあたり10ドルちかくはボラれるのではないか考えてみた。
少し歩くと小さな町に出た。
どうやらカンボジア側の国境の町である。
すると、一台のワゴン車が止まっているのが見えた。
シンカフェのバスもボロかったが、こちらの方がもっとオンボロだった。
日本では1970年代くらいに走っていたワンボックスカーだ。
その近くに突っ立っていたカンボジア人と思しき若い兄ちゃんが我々バックパッカーの一団を見ると、駆け足で近寄ってきて、「プノンペンまでひとり2ドル」などという。
どうやら、これが乗り合いタクシーのようだ。
しかし、2ドルとは安い。
だが、一方ではこの運賃と同じ金額で体を売る女性もこの国にはいるようだ。
果たして、カンボジアで2ドルはどのような意味を持つのだろうか。
ワゴン車は8人乗りだが、中列、後列3人シートに4人が座らされ、オンボロなクルマに合計10人が座らされた。
わたしは、両替もせずにクルマに乗り込んだためにカンボジアの通貨、リエルを持ち合わせていなかった。
「スモールチェンジ?」
浅黒い肌の若者に尋ねると、「米ドルで構わない」と歯を剥き出して答える。
その顔が少し不気味だった。
バスが発車するまでに30分の時間を要した。
その間、我々は蒸し風呂のような車内で待たされるのだが、時折、竹で編んだお盆に食べ物を乗せて子供たちがワゴンタクシーの窓越しに商売にやってきた。
カンボジアのリエルを持ち合わせていなかったので、わたしはことごとく断っていたが、その中で最も興味をそそられたものが、昆虫を油で炒めた姿焼きだった。
見た目は日本の糞ころがしのような甲虫。油であげていたため、虫の背中は照らされる太陽の光に眩しく反射している。
どうやって、食べるのか。
昆虫売りは恐らく英語を話さないだろうから、ゼスチュアで聞いてみると、彼は虫をつまんで口に放り込む仕草をした。
どうやら、そのまま口に運ぶらしい。
ゲッとした顔を作ると、彼も苦虫を噛んだような顔になった。
そこで、いきなりクルマはエンジンをかけ、いきなりアクセルをベタ踏みしたのではないかと思うくらいに急発進し、タイヤは赤土むき出しの地面にやや空回りしながら、その場を走り去ろうとしている。
急いでわたしは後ろを振り返り、昆虫売りの姿をみたが、既にずいぶん距離が離れ、顔も識別できないほどになっていた。
彼は売り物を入れたお盆を頭の上にのせ、呆けたように突っ立っていた。
いよいよプノンペンに向かってクルマは走り出したのである。
※写真はヴェトナム、カンボジア国境にて熊猫刑事。向こうに見えるのがカンボジア側のゲート。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
彼は度々ホーチミンの町で出くわすことがあった。その度にこんな挨拶を彼はかけてきた。
「What's up?」
もちろん、その意味くらいは知っていたが、どんな返答をしていいのか分からない。
ニヤニヤしながら、わたしはいつも「Fineだよ」と答えていた。
この日も、バスの中でわたしを見るなり、すかさずこのお決まりの言葉をかけてきた。
そして、相変わらずわたしは「Fineだよ」と答えたのだった。
わたしは、カンボジアに向かうにあたって少し緊張していた。
それは、これまで通ってきたどこの国よりも確実に危険度が高かったからだ。
1993年、日本は初めて軍事行動を伴う国際的な活動、国連平和維持活動に参加した。混乱の続くカンボジアで初めて選挙が行われる運びになったからである。
しかし、同年、4月国連選挙監視員を務めていた民間の日本人男性が射殺されると、翌5月4日には国連カンボジア暫定機構の職員らが乗った車両が武装集団のロケット砲攻撃を受け、文民警察官として活動にあたっていた岡山県警の警部補が亡くなった。
それが、遡ること僅か4年前のことである。
長きに渡り、カンボジアを独裁していたポル・ポトはこのとき、まだ存命であり、その影響力は弱まったものの、一部では未だテロ行為を続けているともっぱらバックパッカーたちの噂であった。
夜間は外出禁止令も出され、銃口を突きつけられることもあるのだという。
治安の悪い国に共通することは、権力が腐敗すると決まって警察なども堕落してしまうことだ。むしろ、そのほうがたちの悪いこともある。
カンボジアでも、どうやらその例に漏れず、噂では警察が暴力を引き起こしていると評判だった。
一方、長きにわたったポル・ポト支配は市民の生活も困窮に追いやったようだ。
あるバックパッカーからわたしは以前「カンボジアに行こうぜ」とけしかけられたことがある。
彼は「ガンジャは豊富だし、女は2ドルだぜ」と連呼し、豪語した。
そうか、買春に費やすお金は日本のコミック雑誌よりも安いのか。
ヴェトナム、カンボジア国境に向かうバスの車中で、その彼の言葉をなんとなく思い出したのだった。
しかし、そうは言っても30人乗りのミニバスは満員のバックパッカーを乗せて国境へひた走る。
カンボジアに向かう若者は決して少なくないのだ。
日本人もわたしを含め3~4人は乗っていた。
少なくとも、内戦は終結していたし、選挙も行われた。
カンボジア入国は決して無謀ではないのだ。
朝の6時に出発したバスは途中1度の休憩を挟み、8時頃には国境の町モクバイへと到着した。
南国の太陽はジリジリと高度をあげ、気温は否応なしに上昇する。
バスを降りてみて拍子抜けした。
何もない草原の向こうにゲートが見えるだけだった。
恐らく、あの門の向こうがカンボジアなのであろう。
バスを降りて、わたしは国境を目指した。
ヴェトナム側の出国、カンボジア側の入国も実にあっさりしたものだった。
中越国境ラオカイのイミグレーションのような賄賂をせがむ噂もなく、手続きに5分と時間はかからなかった。
さて、ここからが問題だった。
果たしてカンボジアの首都プノンペンまでのバスがあるかどうかである。
フォングーラオ通りで日本人が持っていたガイドブックを見せて貰ったが、「タクシーを相乗り」してプノンペン入りすることがポピュラーな手段であると書いてあった。いくら相乗りといっても片道2時間かかるタクシー料金はかなり値がはるのではないかと不安だ。しかも、主導権は運転手にあるわけで、安くみてもひとりあたり10ドルちかくはボラれるのではないか考えてみた。
少し歩くと小さな町に出た。
どうやらカンボジア側の国境の町である。
すると、一台のワゴン車が止まっているのが見えた。
シンカフェのバスもボロかったが、こちらの方がもっとオンボロだった。
日本では1970年代くらいに走っていたワンボックスカーだ。
その近くに突っ立っていたカンボジア人と思しき若い兄ちゃんが我々バックパッカーの一団を見ると、駆け足で近寄ってきて、「プノンペンまでひとり2ドル」などという。
どうやら、これが乗り合いタクシーのようだ。
しかし、2ドルとは安い。
だが、一方ではこの運賃と同じ金額で体を売る女性もこの国にはいるようだ。
果たして、カンボジアで2ドルはどのような意味を持つのだろうか。
ワゴン車は8人乗りだが、中列、後列3人シートに4人が座らされ、オンボロなクルマに合計10人が座らされた。
わたしは、両替もせずにクルマに乗り込んだためにカンボジアの通貨、リエルを持ち合わせていなかった。
「スモールチェンジ?」
浅黒い肌の若者に尋ねると、「米ドルで構わない」と歯を剥き出して答える。
その顔が少し不気味だった。
バスが発車するまでに30分の時間を要した。
その間、我々は蒸し風呂のような車内で待たされるのだが、時折、竹で編んだお盆に食べ物を乗せて子供たちがワゴンタクシーの窓越しに商売にやってきた。
カンボジアのリエルを持ち合わせていなかったので、わたしはことごとく断っていたが、その中で最も興味をそそられたものが、昆虫を油で炒めた姿焼きだった。
見た目は日本の糞ころがしのような甲虫。油であげていたため、虫の背中は照らされる太陽の光に眩しく反射している。
どうやって、食べるのか。
昆虫売りは恐らく英語を話さないだろうから、ゼスチュアで聞いてみると、彼は虫をつまんで口に放り込む仕草をした。
どうやら、そのまま口に運ぶらしい。
ゲッとした顔を作ると、彼も苦虫を噛んだような顔になった。
そこで、いきなりクルマはエンジンをかけ、いきなりアクセルをベタ踏みしたのではないかと思うくらいに急発進し、タイヤは赤土むき出しの地面にやや空回りしながら、その場を走り去ろうとしている。
急いでわたしは後ろを振り返り、昆虫売りの姿をみたが、既にずいぶん距離が離れ、顔も識別できないほどになっていた。
彼は売り物を入れたお盆を頭の上にのせ、呆けたように突っ立っていた。
いよいよプノンペンに向かってクルマは走り出したのである。
※写真はヴェトナム、カンボジア国境にて熊猫刑事。向こうに見えるのがカンボジア側のゲート。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
しかし、やはり当事者でない家族等にとってはとんでもない心配だったりするのは間違いないかもね。
そう考えると俺もあの時はとんでもなく家族とかに心配をかけているような気がするよ。
でも、それを気にしすぎてしまうと、どんなことにもチャレンジできない部分もあるのはまた確か・・・。
最近の俺はそういうチャレンジで死んでしまうというのは、例えばそれにチャレンジしてなくても起こりうるべき事だし、それはある意味、あまりそう言う風に言いたくはないけど「運命」というようなもので表現できる部分ではないのかと思ったりすることもあるよ。
ま、どっちにしてもどっちにしたって死ぬなら、やらないで死ぬよりやって死ぬ方がまだシャレになるかなって言うのが俺のスタンスかもね。(笑)
うひゃー、けど最近何にもやってねーや俺。(涙)
しかし、今考えてみると、カンボジアはそこそこ危険だったはずだよ。
滞在から4ヶ月後に、フン・セン氏が軍事クーデターを起こしているからね。
政情はその当時も不安定だったんだ。
知らぬが仏だったのかも。
で、こりゃやめたほうがいいと思ってビビリマンの俺はカンボジア陸路越えを断念した訳だ。
ちなみに、数年後のアジア旅行でカンボジアを陸路横断した時も、現地の人にも治安は随分ましになったとは聞いたけど、それでも安全とは言えない状態だったなあ。
プノンペンなんかは夜、外に出るのは絶対やめとけって言われたし。怖いもの見たさでちょっと散歩したけどね。(← アホだね。)
師のカンボジア旅行でどんな事が起きるのか?そして俺が旅したときとどんな風に違うのか、楽しみにしてるよ。
オレもビビリマンだから、たいした冒険譚はないんだよ。
でも、カンボジア編はちょっと丁寧に書いてみるかな。
師こそ、確か小学校で日本語の1日教師を務めたんじゃなかったっけ?