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ファインダーを通して見る世界は、肉眼で捉える世界とは全く異なるだろう。
世界がどのように見えるか、それはカメラを構えているものにしか分からない。
植田が捉えていた世界とはどんなものだったのだろうか。
1970年代から台頭するリアリズムのイデオロギーに、植田は居心地の悪さを感じたという。
だが、「絶対スナップ」の土門拳の言うべきことも分からなくもない。
でも、植田が感じ取っていたファインダーの向こうにある被写体との格闘も、ひとつの真実である。
NHK『「日曜美術館」 写真する幸せ ~植田正治・UEDA-CHOの秘密~』の中で、植田と親交のあったアラーキーこと荒木経惟はいみじくもこう言った。
「(植田は)ファインダーから対話をしているんですよ」と。
ボクは1920年から30年にかけて活躍したロシアの文芸学者バフチンが提唱する「声」という思想を思い出す。
植田の仕事はバフチンがいうところの「多声的」な対話ではないだろうか。
ファインダーを通して、被写体との対話を行い、そこに意味を見出していく。
植田にとって、写真や撮影が意味を見出す行為であるならば、むしろリアリズムとして切り取るだけのスナップよりも、実は多くの真実がそこに潜んでいるのではないだろうか。
写真に写る真実より、写真を写している時間とプロセスの真実が、そこに写り込んでいるのであるのならば、ボクはそれを感じとる小さな旅に出ることだろう。
それもとびきり濃厚な時間の旅に。
植田がたどり着いた、永遠のアマチュアリズムと「写真で遊ぶ」という考え方は、「絶対」と凝り固まるプライドのような硬質のものではなく、ファインダーを通した自然体の中に身をゆだねるプロセスとそこに写り込んだ様こそが、写真という結実であることを静かに教えてくれているようだ。
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