夜のとばりがすっかりおりて、街の灯りが水面にゆらめく。この灯りの下、裸で抱きしめあう恋人たちよ。
ほら、永代橋はまるでフェリーニのフィルムのようじゃないか。
幻想が現実を追い越して、それがいつしか現実となる。一体、世界ってなんだ?オレたちは皆共同の幻想を見ているだけか。
この瞬間に発射された液体のくぐり抜けていく柔らかなひだをつたうそのカオスに。
ほとんどのやつらが、口吻をしようとチャンスをうかがう。
そう、オレもそのひとりさ。
柳橋が見えてきた。
屋形船のエンジンの音が止まり、惰性で運河を渡っていると、ひんやりと冷たい空気が流れてきて、オレののぼせた頭をクールにしてくれる。
エンジンは止まっても。行き着く先がはしけであっても。
どうしようもないほどに淀んだ川面に別れを告げて、浅草橋の駅の方へ。
風が騒いでいる。
光の路上に出て、オレは小走りになった。
「西口やきとん」へ。
まだ見ぬ立ち飲み屋。
3年ほど前だったか。オレは浅草橋駅の西口を嗅ぎ回った。夕陽が背中に刺さる、やや薄汚れた街を。
数分おきに行き来する総武線を頭上に感じながら、夜の街が準備を始めるちょうどその頃、野良犬のような顔して、オレはその立ち飲み屋を探し回った。
だけど、とうとう見つけられなかった。
そして今、浅草橋の駅に差し掛かり、西口へと向かうと、小路の途中に人だかりがあるのが見える。ざわざわとした喧噪がガードを揺らす総武線のリズムとシンクロして、オレの心もざわめいた。
ほとんど同時に、オレの足はそちらへ向き、その人だかりを目指した。
小豆のような微かな光が道ばたをルドンの絵のように映し出し、オレは店の前に来て、ようやく悟った。ここは「西口やきとん」ではなかったことを。
この暗がりでも、人は酒を飲み、狭い夜空を眺めながら、嬌声をあげる。
明日は休みじゃない。
明日は木曜日だ。
たしかな。
そう、オレがまだ正気だったら。
オレは人だかりをかき分け、どこか安住できる場所を探した。店内はジャングルのようだった。
天井は狭く、その小さな区画に、外にいる人だかりと同じくらいの人が酒を飲んでいた。大声を出さなければ、隣の人の声すら届かないような雰囲気だった。
店員がアクセル・ローズのような甲高い声で「ようこそジャングルへ」と歌うようにオレの前に立ちはだかった。
「ビールはサントリーかよ」。
肘や体がぶつかり、オレは彼らの体をかき分けて、強いホップの香りでむせかえりそうになりながら、ちょうど目の前にいた女の店員に、すれ違いざま「チューハイ」を頼んだ。自分が居場所を確保する前に。
店内はタバコの煙でむせ返るようだった。
タバコの煙と引き換えに「チューハイ」を飲み乾した。
カウンターの向こうは板1枚隔てて、厨房が見えた。たった2人で。
たった2人で30人の客の注文を捌いている。
オレはチューハイを立て続けに2杯おかわりした。
となりにいたテンガロンハットの客がオレの足を踏んづけた。だが、彼は謝るどころか、振り向きもしない。
「モツの味噌煮込み」(305円)はちょっとしょっぱいし、だいいち味噌は合わせみそか。
だって、ここも一応浅草だろ?
ああああ。ついてねえ。
オレがさっき頼んだ「ぺペロン焼きそば」(490円)が来ないのは、もうラストオーダーが近くなってるのに、客が一向に減っていないんだ。
今夜は隅田川で花火でも上がるのか?それとも、仏壇屋が繁盛しているのか。
そんなのどっちでもいいよ。
明日が休みだろうが、そうでなかろうが。
だからさ。
たっぷりと、ニンニクを入れたうまいやつを頼むぜ。
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