福島から来たというキッチンカー。ナンバープレートはしっかり福島だった。平常を取り戻した東京で、福島の意味は、あの6年前よりも薄れつつある。今、福島は東京にとって、どんな記号なのだろうか。憐れみか、それとも無関係の遠い地か。でも、多分そのいずれの思いも、福島にとっては上から目線なのだと思う。
美術展の帰りに見つけたコーヒーのキッチンカー。「福笑屋」。「福島」というバイアスに立ち止まったのは事実。けれど、福美屋さんも「福島」ってクルマに貼っているのだから、それをひとつのキャッチフレーズにしているのも事実。でも、キッチンカーで、しかもコーヒーで、それが福島から来ているってのは、この福笑屋さんしかないだろう。
キッチンカーのコーヒーといって侮るなかれ。寒空の中、ディープな仏教展を見た後にいただいたコーヒーがなんとうまかったことか。後味がすっきりしている。体が温まったのは、なんとも気持ちが落ち着く。
ホッとするコーヒーである。もっと具体的に言えば、優しいコーヒーだ。尖ってなく、胃に重くのしかかることもない。それよりも、コーヒー一杯にかける思いが違う。それは一杯の重みかしれない。多くのものを失った者しか分からない、生きる営みのコーヒー。しかし、それでも前を向き、笑うコーヒー。
福島だからではないし、福島のためでもない。でも、足を止められずにはいられない。この出会いに感謝。災い転じて福をなす。今日も福笑屋は東京のどこかで、幸せの意味を噛みしめるコーヒーを淹れているはずである。
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