メコン河の神秘的な夕暮れをわたしはただただ息を潜めて見守っていた。
なんて幻想的なのかと。
水面はキラキラと輝いていたかと思えば、とろりとしたビロードのような滑らかな小さな波に変わるなど、その様子は刻一刻と表情を変えていく。
そして、ある疑問がわたしの中に芽生えてきた。
何故今までメコン河の美しさに気づかずにいたのだろうか。わたしは、ルアンパバンで、毎日の様にメコン河のすぐ横で、ビアラオを飲みながら、川面を眺めていた。だが、そのときは、いっこうにメコンの美しさに、これほどまで全く気づかなかったのである。
だが、こうしてタイ側から、見るメコン河のなんて美しいことか。
人の感覚なんて、実にあやふやなものだと思う。
実は、普段美しいと思ったものの多くは、何かに影響されて感じているのではないだろうか。つまり、富士山はきれいだ、という半ば常識のようなもの、或いはそれを固定観念といってもいいが、それらが我々の頭に刷り込まれ、その情報によって、感情が動いているとはいえないだろうか。
そう考えればどこの国が良かった。あそこの国は悪かった、などいうバックパッカーの主観なんて、どれもたいしたものではないように思う。
わたしは、旅に出て、3つの風景について、心から感嘆した。
その風景を一生忘れまいと思い、目に焼き付けてきた。
ひとつは、香港のペニンシェラホテルの脇で見上げた夜空。そして、ひとつが、カンボジアのシェムリアップ郊外の朝焼けに映える草原。そして、もうひとつが、この夕暮れのメコンである。
もし、ノンカイのバスターミナルでバンコクに行く充分なバーツを持っていたとしたら、わたしは、この光景を見ることはなかった。
メコンの川面に心を動かされることはなかった。
人は多くの偶然によって生きている。
人との出会いなどは、その最たるものだ。
そのことに気づかない人が恐らくほとんどであろう。
わたしは、神戸から上海に向かう船でM浦さんという男と会った。その男と旅をし、香港に着いてから、今度は師という男と出会った。
はじめの出会いがなければ、次の出会いはなかっただろう。これは、必然なのだろうか。それとも偶然なのだろうか。
師と出会い、やがて、師と別れた。そして、今それぞれがお互い別の道を歩き続けている。師は今頃どこにいるのだろうか。
だが、わたしは、たとえ師と離れてはいても、何故かアジアのほこりが舞う道を同じように今歩いているのではないかと感じることがある。
そう、これはわたしだけの旅ではない。
それぞれの、わたしたちの、そしてオレたちの深夜特急に乗って。
わたしは、長年付き合った女にふられて旅に出ようと思った。
今はもう、それはどうでもいいとさえ思えるようになった。
オレたちの深夜特急なのだから。
夜のとばりが下りても、わたしはまだそこにじっとしており、漆黒の闇を眺めていた。
なんともいえない心持ちだったからである。
久しぶりに穏やかな気持ちになった。
もう、気負わずに旅ができそうな気がする。
ここにきて、またひとつ大切なものを見つけたような気がする。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
なんて幻想的なのかと。
水面はキラキラと輝いていたかと思えば、とろりとしたビロードのような滑らかな小さな波に変わるなど、その様子は刻一刻と表情を変えていく。
そして、ある疑問がわたしの中に芽生えてきた。
何故今までメコン河の美しさに気づかずにいたのだろうか。わたしは、ルアンパバンで、毎日の様にメコン河のすぐ横で、ビアラオを飲みながら、川面を眺めていた。だが、そのときは、いっこうにメコンの美しさに、これほどまで全く気づかなかったのである。
だが、こうしてタイ側から、見るメコン河のなんて美しいことか。
人の感覚なんて、実にあやふやなものだと思う。
実は、普段美しいと思ったものの多くは、何かに影響されて感じているのではないだろうか。つまり、富士山はきれいだ、という半ば常識のようなもの、或いはそれを固定観念といってもいいが、それらが我々の頭に刷り込まれ、その情報によって、感情が動いているとはいえないだろうか。
そう考えればどこの国が良かった。あそこの国は悪かった、などいうバックパッカーの主観なんて、どれもたいしたものではないように思う。
わたしは、旅に出て、3つの風景について、心から感嘆した。
その風景を一生忘れまいと思い、目に焼き付けてきた。
ひとつは、香港のペニンシェラホテルの脇で見上げた夜空。そして、ひとつが、カンボジアのシェムリアップ郊外の朝焼けに映える草原。そして、もうひとつが、この夕暮れのメコンである。
もし、ノンカイのバスターミナルでバンコクに行く充分なバーツを持っていたとしたら、わたしは、この光景を見ることはなかった。
メコンの川面に心を動かされることはなかった。
人は多くの偶然によって生きている。
人との出会いなどは、その最たるものだ。
そのことに気づかない人が恐らくほとんどであろう。
わたしは、神戸から上海に向かう船でM浦さんという男と会った。その男と旅をし、香港に着いてから、今度は師という男と出会った。
はじめの出会いがなければ、次の出会いはなかっただろう。これは、必然なのだろうか。それとも偶然なのだろうか。
師と出会い、やがて、師と別れた。そして、今それぞれがお互い別の道を歩き続けている。師は今頃どこにいるのだろうか。
だが、わたしは、たとえ師と離れてはいても、何故かアジアのほこりが舞う道を同じように今歩いているのではないかと感じることがある。
そう、これはわたしだけの旅ではない。
それぞれの、わたしたちの、そしてオレたちの深夜特急に乗って。
わたしは、長年付き合った女にふられて旅に出ようと思った。
今はもう、それはどうでもいいとさえ思えるようになった。
オレたちの深夜特急なのだから。
夜のとばりが下りても、わたしはまだそこにじっとしており、漆黒の闇を眺めていた。
なんともいえない心持ちだったからである。
久しぶりに穏やかな気持ちになった。
もう、気負わずに旅ができそうな気がする。
ここにきて、またひとつ大切なものを見つけたような気がする。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです。
今回は、俺を泣かそうとしてるねえ。(笑)
しかしホント出会いというものは時として不思議だよね。師とこんなに長く付き合うとは、当時は思ってなかったもんなあ。
一人になっても、師は今頃どこにいるのか、いつも考えていたよ。
次回、オレ深の第一便は最終回だ。