59番の市バスに揺られながら車窓に流れるバンコクの町並みをぼんやりと眺めていた。
剥き出しのコンクリがそのままの状態になっている家屋やら商店は2年前に見たバンコク郊外とそれほど大差はなかった。埃っぽくて雑然としていて、開け放しの家からは犬や子供達が飛び出し、ヘルメットを被らないスクーターが小路から飛び出してくる。
バスの車内はそれほど混みあっているわけではなく、ひっきりなしにバンコクっ子が乗り降りしている。バスはおんぼろで木造の床はぼろぼろにはげており、ディーゼルエンジンの轟音以外は何も聞こえてこない。
車窓の外はまだバンコクの片田舎を走っているようで、わたしが目指すカオサン通りはまだまだ先だ。どこのバス停で降りるか、という不安はないこともなかった。だが、街の雰囲気を見て下車すればいいだろうと呑気に構えていた。車内放送などなく、たとえピンポイントで降りなくとも、その先は歩いていけばいいのだ。
しばらくすると、わたしの目の前に座っていた人が席を立ち、わたしは、その席に腰掛けることができた。椅子に座ると、緊張の糸が緩んだのか、眠気が襲ってきた。わたしは、その眠気と格闘しながら、2年前に来たバンコクでの出来事を思い出していた。
2年前、ピサヌローク、アユタヤを経て、バンコクに戻ったわたしは、三輪オートのタクシー、トゥクトゥクを掴まえてカオサン通りを目指した。15分程度走り、カオサン通りに着くと、トゥクトゥクの運転手はわたしに100バーツを請求した。
「冗談じゃない」。
この距離からすれば、10バーツがいいところだ。
だが、旅慣れていないわたしは迂闊にも料金の前交渉をしていなかった。運転手が凄みをきかすと、わたしはすごすごと彼に要求された金を渡した。
カオサン通りはハードロックが鳴り響く騒がしい通りだった。西洋人が闊歩し、あちらこちらにカフェが林立している。ヨーロピアンはシンハービールをラッパ飲みし、嬌声をあげていた。わたしが宿泊した1泊35バーツの安宿の兄ちゃんは、日本人のわたしに対して露骨に顔をしかめ、横暴に振舞ったが、長髪のヒッピーにはいい顔していた。
バンコク寺院を巡っている折にもひどい目に遭った。
チャーターしたトゥクトゥクの運転手が仕切りに「宝石に興味はないか」と言うのである。
「要らない」と言っても彼は執拗に迫った。
「店に行ってくれるだけでいいんだ」と彼は言う。
懇願するような彼の顔を見て、「店に行くだけなら」と安易に引き受けてしまったのだ。
ジム・トンプソンの家の隣にある宝石屋に行くと中華系の強欲そうな男が出てきて、ショーウインドウの中に飾られているきらびやかな石を買うようわたしに迫った。
「金がない」と突っぱねても「カードは持っているか」と彼もとにかく執拗だった。
店の中は男とわたしだけで、なんとも不気味な雰囲気が漂っていたが、男はひるむことなく、にこやかな笑顔を作ってわたしに宝石を売り込む。
わたしが「何も買わない」と連呼すると、彼の顔が突然変わり、険しい顔になった。
「とっとと出ていけ」。
英語でそう言うと、その後はタイの言葉を使い吐き捨てるような口調をわたしの背中に浴びせた。
翌日、カオサン通りを後にし、わたしはひたすらバンコクの街を歩きとおした。
チャイナタウン、泥棒市場、若者で賑わうサイアムスクェア、ルンピニー公園、だが、どこまで歩いても座る場所さえ探すことができず、わたしはただただバンコクの毒素にあてられ、気力や体力も吸い取られていくようだった。
わたしは「微笑みの国」に多くを期待しすぎてしまったのだろうか。
バンコクは大都会だったのだ。
翌日、朝になると同時に、わたしはドンムアン空港に向かい、夕刻のフライト時間まで、ひたすら空港で過ごした。ただただ、わたしは疲れきっていたのだ。バンコクという街に。
そんなことをぼんやりと考えていると、いつしか車窓はビルが立ち並び、多くの人が行きかう景色に変わっていた。よく見ると、どこかで見た風景であることに気がついた。
右手にマクドナルドがテナントする近代的なビル。左手には日本のマルイそっくりのCIとともにアルファベットでMARUIと書かれた看板のショッピングセンターが建っている。
サイアムスクェアだった。
すると、目指すカオサン通りはもうすぐである。
神戸から船に乗り、ユーラシア大陸に渡って4ヶ月。
知っている街に来たという安心感が込み上げてくると同時に「2年前のリベンジ」という挑戦的な感情が沸き起こってきた。
いずれにせよ、わたしは再び魔都に招かれたのである。
剥き出しのコンクリがそのままの状態になっている家屋やら商店は2年前に見たバンコク郊外とそれほど大差はなかった。埃っぽくて雑然としていて、開け放しの家からは犬や子供達が飛び出し、ヘルメットを被らないスクーターが小路から飛び出してくる。
バスの車内はそれほど混みあっているわけではなく、ひっきりなしにバンコクっ子が乗り降りしている。バスはおんぼろで木造の床はぼろぼろにはげており、ディーゼルエンジンの轟音以外は何も聞こえてこない。
車窓の外はまだバンコクの片田舎を走っているようで、わたしが目指すカオサン通りはまだまだ先だ。どこのバス停で降りるか、という不安はないこともなかった。だが、街の雰囲気を見て下車すればいいだろうと呑気に構えていた。車内放送などなく、たとえピンポイントで降りなくとも、その先は歩いていけばいいのだ。
しばらくすると、わたしの目の前に座っていた人が席を立ち、わたしは、その席に腰掛けることができた。椅子に座ると、緊張の糸が緩んだのか、眠気が襲ってきた。わたしは、その眠気と格闘しながら、2年前に来たバンコクでの出来事を思い出していた。
2年前、ピサヌローク、アユタヤを経て、バンコクに戻ったわたしは、三輪オートのタクシー、トゥクトゥクを掴まえてカオサン通りを目指した。15分程度走り、カオサン通りに着くと、トゥクトゥクの運転手はわたしに100バーツを請求した。
「冗談じゃない」。
この距離からすれば、10バーツがいいところだ。
だが、旅慣れていないわたしは迂闊にも料金の前交渉をしていなかった。運転手が凄みをきかすと、わたしはすごすごと彼に要求された金を渡した。
カオサン通りはハードロックが鳴り響く騒がしい通りだった。西洋人が闊歩し、あちらこちらにカフェが林立している。ヨーロピアンはシンハービールをラッパ飲みし、嬌声をあげていた。わたしが宿泊した1泊35バーツの安宿の兄ちゃんは、日本人のわたしに対して露骨に顔をしかめ、横暴に振舞ったが、長髪のヒッピーにはいい顔していた。
バンコク寺院を巡っている折にもひどい目に遭った。
チャーターしたトゥクトゥクの運転手が仕切りに「宝石に興味はないか」と言うのである。
「要らない」と言っても彼は執拗に迫った。
「店に行ってくれるだけでいいんだ」と彼は言う。
懇願するような彼の顔を見て、「店に行くだけなら」と安易に引き受けてしまったのだ。
ジム・トンプソンの家の隣にある宝石屋に行くと中華系の強欲そうな男が出てきて、ショーウインドウの中に飾られているきらびやかな石を買うようわたしに迫った。
「金がない」と突っぱねても「カードは持っているか」と彼もとにかく執拗だった。
店の中は男とわたしだけで、なんとも不気味な雰囲気が漂っていたが、男はひるむことなく、にこやかな笑顔を作ってわたしに宝石を売り込む。
わたしが「何も買わない」と連呼すると、彼の顔が突然変わり、険しい顔になった。
「とっとと出ていけ」。
英語でそう言うと、その後はタイの言葉を使い吐き捨てるような口調をわたしの背中に浴びせた。
翌日、カオサン通りを後にし、わたしはひたすらバンコクの街を歩きとおした。
チャイナタウン、泥棒市場、若者で賑わうサイアムスクェア、ルンピニー公園、だが、どこまで歩いても座る場所さえ探すことができず、わたしはただただバンコクの毒素にあてられ、気力や体力も吸い取られていくようだった。
わたしは「微笑みの国」に多くを期待しすぎてしまったのだろうか。
バンコクは大都会だったのだ。
翌日、朝になると同時に、わたしはドンムアン空港に向かい、夕刻のフライト時間まで、ひたすら空港で過ごした。ただただ、わたしは疲れきっていたのだ。バンコクという街に。
そんなことをぼんやりと考えていると、いつしか車窓はビルが立ち並び、多くの人が行きかう景色に変わっていた。よく見ると、どこかで見た風景であることに気がついた。
右手にマクドナルドがテナントする近代的なビル。左手には日本のマルイそっくりのCIとともにアルファベットでMARUIと書かれた看板のショッピングセンターが建っている。
サイアムスクェアだった。
すると、目指すカオサン通りはもうすぐである。
神戸から船に乗り、ユーラシア大陸に渡って4ヶ月。
知っている街に来たという安心感が込み上げてくると同時に「2年前のリベンジ」という挑戦的な感情が沸き起こってきた。
いずれにせよ、わたしは再び魔都に招かれたのである。
そんな空港がテレビに映ってたけど、昔俺らが降り立ったドンムアンではなく、新国際空港であるスワンナプーム。
とても綺麗な近代的空港に、今ここに降り立ったら当時ほどのドキドキ感は感じないのかなとふと思ったりしたよ。
しかし、貧乏旅行者にとってのタイといえば、深夜に降り立つことが圧倒的に多く、その後の移動は本当に不安だったなあ。
今でも暗闇に転々と光る、道路沿いのオレンジの街灯の色がやけに記憶に残ってるよ。
ホント怖かったよ。
今回もタイのピープルパワーのもの凄さを見せつけたね。
まだまだタイは熱いんだね。
次にバンコクを訪れるのはいつの日か。そのとき、どういう想いにとらわれるのだろうか。