旧広島市民球場前の通りを渡ると景観と雰囲気は一変する。
まるで結界に入ったように、張り詰めた空気が一瞬のうちにビンビンと心に訴えかけてくる。そして心がざわざわとするのだ。
初めて原爆ドームを訪れたのは高校生の時の修学旅行だったが、あの頃は単なる戦争遺構としか見えていなかった。自分の中にリアリティが持てなかったのだと思う。
平和な時代に生きてきたし、それが当たり前だとも思っている。親父もお袋も戦争を経験してきたが、多くは語らなかった。
今も戦争に対するリアリティという点では想像力に乏しい。
「この世界の片隅に」で、戦前の広島の様子を知り、「ヒロシマ 消えた家族」でそこに生きていた人を感じて、心が苦しくなった。そこには無数の浦野家があり、鈴木家があった。
原爆ドームの緑地帯、元安川のほとりには相生橋趾碑がある。
旧相生橋の親柱とともに記念碑が立つ。相生橋は川に架橋されるとともに川のデルタにも橋が架けられたT字の橋。これが上空からも視認しやすく、原爆のターゲットとなったといわれている。石碑は戦前からあったもので、原爆の影響か碑文は判別しにくい。ましてや原文は漢文である。
原爆投下のターゲットとなった相生橋だが、実際原爆が炸裂したのは相生橋上空ではなく、原爆ドームの真上でもない。原爆ドームから東に150mの島病院駐車場上空と推察されている。島病院は現在もあり、病院に面した路上には案内板が設置されている。
以前、ワシントンD.C.にあるスミソニアン航空宇宙博物館でエノラ・ゲイを見たことがある。無傷で帰還したB29を見て複雑な気持ちになった。
原爆ドームは戦前、戦中から原爆ドームと呼ばれていたわけではない。原爆投下前は広島県産業奨励館という名称で、戦争が激しくなった1944年3月に産業奨励館としての業務は廃止された。そこに内務省中国・四国土木出張所、広島県地方材木・日本材木広島支社などが入居し、統制会社の事務所として使用されていたという。原爆ドーム前の巨大な石碑は広島県地方木材統制株式会社の慰霊碑である。
1967年に建造されたものだが、碑文には「不幸にも役職員百余名がドーム内外において被爆殉職した」と刻まれている。原爆投下から22年が経っても被害に遭われた役職員の数が正確でなかったかのかと思う。
この他にも原爆ドーム脇には慰霊碑が立つ。
中国四国土木出張所職員殉職慰霊碑である。同所では52人の方が命を落とされたといい、石碑には殉職者の名前が刻まれている。
爆心地にいたほとんどの人は即死だったといわれている。恐らく遺体はおろか、遺骨すらも見つからなかったのだと想像する。
おびただしい数の祈り。おびただしい念が交錯する。ここに来ると、酷く体力が消耗する。
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