ビエンチャンの暮らしは退屈だった。
朝食のバインミーを食べに出て、それをかじりながら町をぶらついても誰に出会うこともなく、そして何かのハプニングに遭うこともなくただ時間が過ぎていくだけだった。
ラオスの人はシャイだった。もっとも、ラオスといってもわたしはルアンパバンとビエンチャンしか知らなかったが、ルアンパバンの人びとはわたしが話しかけるとおおよその人は大抵はにかんだ。それはツーリストずれをしていないと言い換えてもよかったが、のんびりした町並みからは、自己主張を好まないラオス人の気質が見えるような気がした。
ビエンチャンの人びとは更に素っ気なかった。都市化をすると人は他者に対して関心が薄くなるのは万国共通なのだろうか。このラオスの首都も例外ではないようだった。
わたしの泊まっていた宿の周囲には人そのものが多くなかった。朝夕のラッシュアワーもほとんど見られなかった。
中国の大理で貰った旅行人ノートの地図を見ると、今宿泊している宿は町の中心部にあるように見える。だが、宿の周囲は人が少ないどころか、自動車もそれほど走っていない。しかも、道路も舗装されておらず、赤土が剥き出しになっていた。
もしかすると、町の中心はこの辺りでなく、他にあるのだろうか。
わたしは、ビエンチャンの町を歩いてみることにした。
だが、穏やかな首都はどこまで行っても平坦だった。
ところどころ、交通の激しいところにも出くわしたが、その風景は相変わらず都市とは程遠い町であった。
時折、子どもたちが裸のまま通りに出てきたり、放し飼いの犬がわたしを見つけては、盛んに吠え立てたりした。
トゥクトゥクが爆音と土煙を立てて走っていく。
どのくらい歩いただろうか。
朝の10時から歩き通して、もう3時間になろうとしている。
どこをどう歩いたのかも分からず、わたしは目の前の雑貨屋に入ってタバコを買った。
店のおじいちゃんにここはどこか?と尋ねると案の定、英語は理解できないらしく、ただただ首を振るだけだったが、店の奥に声をかけると若い娘さんと思しき女性が出てきて、流暢な英語でわたしに聞いた。
「何か御用ですか?」
思いもよらぬ展開であったために、わたしはドキドキしながら、なんとか「ここはどこですか?」と地図を広げながら言った。
娘さんは地図を覗き込みながら、しばらく考え、ようやく指を差し出した先は地図の端っこのほうであった。
わたしは、10kmも歩いたのだった。
「ありがとう」と父娘に伝え、わたしは再び炎天下の中を歩き始めた。
また、同じ道を戻ると思えば、その足取りはとてつもなく重かった。
ふと、地図を見ると、帰路の先に日本大使館があることに気がついた。
そうだ、大使館に寄って、わたし宛の手紙が来ているか見にいってみよう。
ビエンチャンの町外れにある日本大使館はやはり質素な建物だった。
中に入って職員に事情を説明し、来ている手紙をチェックしてもらったが、わたし宛の手紙はなかった。
いい知れぬ脱力感がわたしを包んだ。
これまで、比較的順調にわたしは旅を続けてきた。
だが、ここに来て旅の歯車が急に合わなくなってきたような気がする。
この寂しさは一体なんだろう。
宿までの帰り道はつらい道のりになった。
足取りは重く、いかんともしがたい疲労感が体にまとわりついていた。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです
朝食のバインミーを食べに出て、それをかじりながら町をぶらついても誰に出会うこともなく、そして何かのハプニングに遭うこともなくただ時間が過ぎていくだけだった。
ラオスの人はシャイだった。もっとも、ラオスといってもわたしはルアンパバンとビエンチャンしか知らなかったが、ルアンパバンの人びとはわたしが話しかけるとおおよその人は大抵はにかんだ。それはツーリストずれをしていないと言い換えてもよかったが、のんびりした町並みからは、自己主張を好まないラオス人の気質が見えるような気がした。
ビエンチャンの人びとは更に素っ気なかった。都市化をすると人は他者に対して関心が薄くなるのは万国共通なのだろうか。このラオスの首都も例外ではないようだった。
わたしの泊まっていた宿の周囲には人そのものが多くなかった。朝夕のラッシュアワーもほとんど見られなかった。
中国の大理で貰った旅行人ノートの地図を見ると、今宿泊している宿は町の中心部にあるように見える。だが、宿の周囲は人が少ないどころか、自動車もそれほど走っていない。しかも、道路も舗装されておらず、赤土が剥き出しになっていた。
もしかすると、町の中心はこの辺りでなく、他にあるのだろうか。
わたしは、ビエンチャンの町を歩いてみることにした。
だが、穏やかな首都はどこまで行っても平坦だった。
ところどころ、交通の激しいところにも出くわしたが、その風景は相変わらず都市とは程遠い町であった。
時折、子どもたちが裸のまま通りに出てきたり、放し飼いの犬がわたしを見つけては、盛んに吠え立てたりした。
トゥクトゥクが爆音と土煙を立てて走っていく。
どのくらい歩いただろうか。
朝の10時から歩き通して、もう3時間になろうとしている。
どこをどう歩いたのかも分からず、わたしは目の前の雑貨屋に入ってタバコを買った。
店のおじいちゃんにここはどこか?と尋ねると案の定、英語は理解できないらしく、ただただ首を振るだけだったが、店の奥に声をかけると若い娘さんと思しき女性が出てきて、流暢な英語でわたしに聞いた。
「何か御用ですか?」
思いもよらぬ展開であったために、わたしはドキドキしながら、なんとか「ここはどこですか?」と地図を広げながら言った。
娘さんは地図を覗き込みながら、しばらく考え、ようやく指を差し出した先は地図の端っこのほうであった。
わたしは、10kmも歩いたのだった。
「ありがとう」と父娘に伝え、わたしは再び炎天下の中を歩き始めた。
また、同じ道を戻ると思えば、その足取りはとてつもなく重かった。
ふと、地図を見ると、帰路の先に日本大使館があることに気がついた。
そうだ、大使館に寄って、わたし宛の手紙が来ているか見にいってみよう。
ビエンチャンの町外れにある日本大使館はやはり質素な建物だった。
中に入って職員に事情を説明し、来ている手紙をチェックしてもらったが、わたし宛の手紙はなかった。
いい知れぬ脱力感がわたしを包んだ。
これまで、比較的順調にわたしは旅を続けてきた。
だが、ここに来て旅の歯車が急に合わなくなってきたような気がする。
この寂しさは一体なんだろう。
宿までの帰り道はつらい道のりになった。
足取りは重く、いかんともしがたい疲労感が体にまとわりついていた。
※当コーナーは、親愛なる友人、ふらいんぐふりーまん師と同時進行形式で書き綴っています。並行して語られる物語として鬼飛(おにとび)ブログと合わせて読むと2度おいしいです
寂しさ街道(笑)まっしぐらの時期が・・・。
俺のオレ深期、シンガポール~マレーシア間等と似たような感じかなあ。
そういうと、オレ深の旅の数年後に、師の話しにも触発されて行った、俺のラオス旅行もかなり寂しくて、旅程を切り上げて早めに帰国したなあ。
確かにラオスでは、俺も地元の人々との交流が非常に少なかったような気がする。モノ売り関連の人なんかも凄く淡白だったし。
さて、ラオスの寂しさをかみしめた師は、思い切ってガツンと長距離を移動したりするのかな?
人との関わりが一番希薄だったのが、ビエンチャンだったなぁ。
とにかく、人がいない。
しかし、オレ何を食べていたっけっかなと思い出してみるんだが、何も覚えていないんだ。
どこかの食堂で食べているはずなんだが、記憶なし。
この次の展開はもう読めるね。