尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

昭和天皇が見た戦争映画②(1943~1945)

2015年09月29日 23時55分16秒 |  〃 (歴史・地理)
 前回に引き続き、昭和天皇が見た映画を調べてみる。
1943年前半
・この年最初に見たのは「体力は国のちから」(1.20)だが、そういう宣伝映画を除くと、2月20日に皇后と「男の花道」を見ている。よほど面白かったのか、22日にもまた見ている。これはマキノ雅弘(当時は正博)監督、小国英雄脚本の娯楽時代劇で、長谷川一夫が主演している。その後もリメイクされたり舞台化された有名な映画だが、1941年12月30日公開で、一年後に見たことになる。今までこのような娯楽映画はなかっただけに、どういう経緯があったのだろうか。
(「男の花道」)
・「陸軍航空戦記」(2.27) ビルマ航空作戦を描く記録映画で、また元の路線。
・その後、しばらくは「工兵魂」「大建設鴨緑江ダム」(3.13)、「放送演奏室」(3.14)、「ジャワの学校」(3.16)、「山西の土地と民」(3.30)などの短編文化映画を見ることが多い。
・「シンガポール総攻撃」(5.8)
・「潜水艦西へ」(5.16) これはドイツが勝っていた時期の戦争映画で日本で公開された。
・「急降下爆撃隊」(5.22) 間に「北洋日記」「海軍戦記」をはさみ、再びドイツ映画。
・「勝利行進曲」(6.17) これは非常に重要な意味がある映画で、中国(重慶政府)が作った宣伝映画である。もとはアメリカでフランク・キャプラが作ったプロパガンダ映画シリーズの第6巻「ザ・バトル・オブ・チャイナ」で、それを中国側で編集して「勝利行進曲」として上映していたと言われる。中国戦線で没収されたフィルムを三笠宮(当時、陸軍軍人として中国にいて、日本軍の残虐行為を憂慮していた)が入手し、日本に持ち帰って昭和天皇に見せたという経緯があった。中国の宣伝映画を通してではあれ、昭和天皇にそのような情報が伝わっていたのである。皇后とともに鑑賞。
・その翌日には、気分直しもあったのか「ナカヨシ行進曲」という子供向け記録映画を皇后と女子4人とともに見ている。(6.18)
(「勝利行進曲」)
1943年後半
・「マライの虎」(7.9) マレー半島で「ハリマオ」と呼ばれた日本人、谷豊を描く劇映画。谷は日本人ながらマレーに育ち、暴動で妹を殺されてから、華僑をねらう盗賊団の首領となった。戦争が始まると日本軍の諜報員として活動し、マレー半島攻略に協力するも1942年3月に病死。死後に「ハリマオ」(虎)と呼ばれて伝説化するが、その最初の劇映画。古賀聖人監督。
・「世界に告ぐ」(7.31) これもドイツの劇映画。
・「決戦の大空へ」(9.3) 映画芸術ベストテン5位。渡辺邦男監督、原節子、高田稔主演の有名な戦争映画。同名の主題歌(藤山一郎)もあるが、それ以上に「若鷲の歌」(若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨…)という有名な軍歌が挿入されていた映画である。
・「虎彦竜彦」(9.17) 坪田譲治原作を映画化した子供向け劇映画。佐藤武監督、轟夕起子が母親役をやっている。
・「熱風」(9.25) 映画芸術ベストテン5位。山本薩夫監督が八幡製鉄所の生産増強をテーマにした国策映画。山本監督は戦後になると、独立プロで社会派の名作を多数撮った左翼作家だが、この当時は東宝の監督で、すでに10作以上撮っていた。「熱風」完成直後に召集され、中国戦線で従軍した。
・11月4日に、ドイツ映画「跳躍」、「馬」を皇后と見たとあるが、詳細不明。
・11月20日に、ドイツ映画「帰郷」1941年製作のドイツの宣伝映画。同名映画が無声映画にある。ヨーエ・マイ監督、ベストテン3位。でも、それを見たわけではない。
・「海軍」 映画芸術ベストテン3位。田坂具隆監督。岩田豊雄(獅子文六)原作による、真珠湾攻撃時の潜水艇「九軍神」の一人を描く、「大東亜戦争二周記念映画」。鹿児島や江田島でロケが行われた。

1944年年
・「決戦」(2.23) 久板英二郎原作・脚本、吉村公三郎・萩山輝男監督の劇映画。
・「不沈艦轟沈」(3.15) 小国英雄脚本、マキノ雅弘1(正博)監督の劇映画。魚雷部品工場の生産向上を描く。
・「偉大なる王者」(4.22) フリードリヒ大王を描く、ドイツの国策映画。
・「五重塔」(8.6) 幸田露伴の有名な小説の初映画化。五所平之助監督、花柳正太郎主演。
・「日常の戦ひ」(9.1) 石川達三原作、島津保次郎監督の劇映画。
・「肉弾挺身隊」(9.16) 田中重雄監督。ガダルカナル島の戦いを描く劇映画。
・「戦ふ少国民 都会扁・農村扁」(9.20) 記録映画。この題名で何作かシリーズで作られたようである。横浜市の学校で撮影されたものがNHKの番組で紹介されたことがある。
・「陸軍」(12.23) 映画「海軍」に対して、陸軍は火野葦平原作の「陸軍」を戦争開始3周年の映画とした。松竹の国策映画だが、木下恵介監督は必ずしも国策に沿って作っていない。特に田中絹代の母親が召集される息子を追い続ける有名なラストシーンは、「反戦映画」と解する人もいるほどである。木下恵介は1943年の「花咲く港」で監督に昇格し、これが4作目。以後はにらまれて戦争中は映画を撮れなくなったと言われる。昭和天皇は皇后と見ているが、ラストシーンをどう見ただろうか。
(「陸軍」)
1945年
・1945年はわずか2本しか記録されていない。3月7日に「陸軍特別攻撃隊」を見ているが、これは題名通りの記録映画。日本映画社の製作で、現在も見られる。ネット上にもある。
・「最後の帰郷」(7.28) 菊池寛原作、田中重雄、吉村廉監督による陸軍特攻隊を描く映画。

 以上、昭和天皇が見た映画を劇映画を中心に見て来た。本当は他に実に多くの「文化映画」を見ている。それらの多くはフィルムセンターにも収蔵されておらず、今は判らない映画が多い。だが、劇映画ではないので、題名を見ればある程度判るというものだろう。いわばNHKの教養番組を見るようなものだと思う。あまり大きな意味を考える必要もないだろう。当時はテレビもインターネットもないのだから、映画で見る映像の魅力は今以上に大きい。昭和天皇は「文学方面」は関心が薄いタイプだから、劇映画よりも科学ドキュメントのような映像に魅力を感じたのではないか。

 また、ニュース映画が多い。これは天皇に限らず、戦時中の人々は劇映画以上にニュース映画を見たと言われる。今ではニュース映画と言っても判らないだろうが、30年ぐらい前までは、まだ日本映画を掛ける映画館では劇映画の前に10分程度のニュースをやってるところもあった。戦争中は、特に家族や知人が出征中の人にとっては、家族が出てこないとしても見ずにはいられなかっただろう。天皇も、ニュースを見るという意味で情報収集を心掛けていたということだと思う。

 もう一つ挙げると、「家族団らんの場」という意味もあったと思う。昭和天皇はそれ以前の後宮制度を排して一夫一婦を実現したが、「子どもと離れて暮らす」という天皇家の伝統は受け入れざるを得なかった。(親子が一緒に住むのは、現在の天皇一家からである。)一番最初が男子であればまだしも、よく知られているように女の子が4人続いた。(一人は夭折。)3人の女子と日常で離れていることは、特に皇后にとって寂しいことだっただろう。だから、マンガ映画会なども企画して、親子で見ている。劇場に出かけることはできないだろうが、こうして映画で親子の接触を保っていたのだろう。

 1945年になると映画鑑賞がグッと減る。それは戦局悪化に伴い「映画どころではない」ということでもあろうが、映画製作そのものも減っている。また子どもたちも疎開するなどして、映画会を開く気持ちも薄らいだのかもしれない。もう一つ、2回見ているのも皇后とだけであり、当時の皇弟たちとの関係悪化もあるのかもしれない。特に高松宮とは1944年8月1日の「沈没船引揚の記録」以来、一緒に映画を見ていない。高松宮との微妙な関係は有名なエピソードだが、仮に昭和天皇が退位になった場合を想定すると、幼い皇太子を補佐する摂政には、病気の秩父宮ではなく高松宮が就任するしかないと言われていた。弟と会いたくないという動機も映画が少なった理由かもしれない。

 反対に「見ていない映画」を考えてみる。ニュース映画と戦争映画だけでは息が詰まるから、一般庶民向けの喜劇、時代劇も当時いっぱい作られていた。それらは「男の花道」しか見ていない。だから「民情理解」が目的ではない。映画芸術そのものへの関心もなかっただろう。例えば、1943年の日本映画界を席巻した新人監督、黒澤明の「姿三四郎」を見ていない。続編も見ていないし、国策映画の「一番美しく」も見なかった。山本薩夫「熱風」は見ているので、このあたりは偶然なんだろう。

 昭和天皇は後に黒澤映画を見る機会はあったのだろうか。それを言えば、小津安二郎「父ありき」も見ていないが、これは何となく理解できる。まだ若くて科学者でもある天皇の関心を呼びそうもない。戦争映画でも阿部豊監督作品は一本もない。「南海の花束」「あの旗を撃て」などである。こういう例を挙げていくとキリがないが、劇映画ではなく文化映画の方が圧倒的に多いわけで、そもそも戦争映画も「戦争理解」という目的で見ていたのだと思う。

 ドイツ映画も見ているし、アメリカ映画まで見ているが、特に中国のプロパガンダ映画を見ていたことが実証された意味は大きいのではないか。だが、そのことが戦局に何か影響を与えたというわけでもないだろう。昭和天皇の戦況理解がこれらの国策映画の影響を受けていたかどうかは、何とも言いようがない。「映画は映画」だと思っていたのではないか。情緒的発想をする人ではないように思う。

 そもそも、戦争映画というものは、「勝っている時にだけ作られる」という性質がある。負けを直視する映画は、完全に敗戦を迎えた後でなければ作られない。記録映画も同じで、玉砕シーンは撮りようがないし、特攻映画も飛び立つシーンで終わる。(戦後の記録映画では、米側が撮った映像を使って「特攻」シーンも出てくるが。)一番重大な、サイパン陥落後は映画観賞が大きく減るので、影響も受けようがない。そもそも昭和天皇がいつ映画を初めて見て、戦後も見ているのかどうかなども関心があるが、「実録」で把握できるのだろうか。
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昭和天皇が見た戦争映画①(1941~1942)

2015年09月29日 00時21分26秒 |  〃 (歴史・地理)
 一つ前の記事で紹介した原武史「『昭和天皇実録』を読む」(岩波新書)の最後に面白い資料が掲載されている。「太平洋戦争期における天皇の映画鑑賞一覧」というものである。特に、対米英との戦争が開始されて以来、かなりの数の映画を見ていることがそこには示されている。この表からどのようなことが判るのか、映画史に関心があるものとして考えてみたい。

 当時の映画を評価する「モノサシ」は、今のようにたくさんの映画賞、映画祭がある時代ではないので、基本的には「キネマ旬報ベストテン」を使う。「キネマ旬報」は1919年に映画ファンの学生による外国映画批評誌として創刊された。1924年(大正13年)以来、寄稿する批評家の投票によるベストテンを選定してきた。(当初は外国映画だけで、日本映画は1926年から。10本選出じゃない年もある。)これは世界的にも非常に価値のあることではないか。(何しろ、最初の年の「芸術的にもっとも優れた映画」部門で、1位がチャップリンの「巴里の女性」、2位がルビッチの「結婚哲学」なのだから。)

 1940年に日中戦争下の雑誌統制で、「キネマ旬報」は「映画旬報」になる。太平洋戦争が始まると、米英の映画が公開できなくなり、1941、42年は日本映画のみの選出となっている。今はこの期間も「キネ旬ベストテン」に含めて考える人が多いだろう。しかし、1943年~1945年はもはやベストテン選出は中止されている。1943年(昭和18年)は「映画評論」だけがベストテンを選出し、これを参考にすることが多い。映画名だけ紹介しておくと、①無法松の一生②姿三四郎③海軍④花咲く港⑤望楼の決死隊⑤決戦の大空へ⑤熱風⑧愛機南へ飛ぶ⑨シンガポール総攻撃⑩風雪の春 である。
 
 ところで、原氏の表では、誰と見ているかが詳細に紹介されている。皇族が一緒に見ているのだが、天皇と皇后だけのことも多く、また天皇一家の子どもたちが加わることもある。高松宮(三弟)や三笠宮(四弟)が同席していることも多い。(結核療養中の次弟、秩父宮は同席していない。)子どもたちと違い、弟は軍隊体験があり戦場もある程度知っている。そこでは議論とまではいかなくても、感想を言い合うこともあっただろうか。すでに公刊されている高松宮日記と照合する作業が必要だろう。

 また、ミッドウェー海戦(1942年6月)の敗北ですでに戦況が悪化しているにもかかわらず、1942年11月に「ハワイ・マレー沖海戦」を見ていることなどを指して、原氏は「客観的な戦局の判断を見誤らせたということはなかったのでしょうか」と述べている。(130頁)しかし、それは映画観賞の問題なのだろうか。日本軍が負けている、残虐行為を行ったなどという映画は日本では作れないのだから、映画で戦局を理解すること自体が無理である。映画(劇映画であれ、記録映画であれ)は製作を決定してから完成までは長い時間がかかるものである。
(「ハワイ・マレー沖海戦」)
 1941年12月のハワイ・マレー沖海戦が一年後に映画として見られるというのは、奇跡的に早い出来事である。もちろん、これは海軍省の厳命で、開戦一年目の「大詔奉戴日」(宣戦布告した12月8日にちなみ、毎月8日を記念日とした。)までの完成を目指したものである。公開は1942年12月3日であるのに、天皇は11月28日、つまり公開前に見ている。天皇一人である。映画会社(東宝)も天皇もこの機会を待ち望んでいたのではないか。

 「太平洋戦争」下という限定があるので、一覧表は1941年12月から始まっている。それ以前はどうだったのか気になるが、とりあえず一覧をもとに判る範囲で簡単に解説しておきたい。
1941年
・「仏印の印象」(12.14)や「香港と新嘉坡(シンガポール)」(12.20)などはニュース映画だろう。「女警」(12.20)は「新中国建設」に奮闘する北京の女性警官を描く記録映画。占領下中国の記録映画。
・「或る日の干潟」は干潟の生物を撮影した下村兼史監督の有名なドキュメント映画で、生物学者としての関心から見たのだろう。日本の記録映画史に残る作品である。皇后、皇太子と見ているから、皇太子の誕生祝でもあったろう。(12.23)
(「或る日の干潟」)
1942年前半
・「機関銃」「村長の手記」を1月10日に見ているが、記録映画。短編記録映画は、以下省略
・「将軍と参謀と兵」(田口哲監督) ベストテン3位。山西省の作戦を描く国策映画。(3.8)
・「建国十年」 溥儀から贈られたという映画を皇后、弟たちと見ている。(4.7)
米国海兵慰問用の漫画映画を皇后、女子とともに見る。(4.24)
・「北京ノ花」「ミッキーの捕鯨船」 4.29の誕生日に見た映画。前の記述にある映画とこの映画は、時間的にみて2月のシンガポール陥落により入手したアメリカ映画の可能性がある。正規の輸入は途絶え、フィリピン戦は続いているので、シンガポールか、または上海、香港等から「戦利品」として運ばれたのではないだろうか。
・「オイラの捕鯨船」 日本の漫画映画。(5.10)
・「オルドス越えて」(5.26)や「オロチョン」「建設満洲」(6.2)などは「満州国」の記録映画。
・「青い鳥」 これは明らかに1940年製作の米映画、シャーリー・テンプルがミチルに扮したウォルター・ラング監督のカラー映画である。どこから来たかは不明だが。1940年製作だから、日本公開を目指していたのかもしれないが、どこかからの「戦利品」かもしれない。(6.16)

1942年後半
・「空の神兵」 日本映画新社による陸軍全面協力の記録映画。落下傘部隊の話で、主題歌でも知られる。(8.7)
・「マレー戦記・進撃の記録」(8.22)、「ビルマ戦記」(8.30)などは、題を見れば判る記録映画。
・「桃太郎の海鷲」 瀬尾光世監督による有名な国策アニメ。真珠湾攻撃がモデル。日本のアニメ史ではよく論及される映画である。皇后と皇太子初め子どもたちと見た。(10.18)
・「英国崩るるの日」(田中重雄監督) ベストテン10位。香港攻略を描いた映画。田中重雄は戦前から1960年代にかけて活躍した職人監督。戦後の大映で若尾文子主演の「永すぎた春」や「東京おにぎり娘」などを作った。唯一のベストテン入りがこの国策映画。(11.21)
・「ハワイ・マレー沖海戦」 山本嘉次郎監督、円谷英二特撮による、あまりにも有名な戦争映画。42年のベストテン1位。特撮場面が有名だが、予科練で一人前の兵士へと鍛えられていく若者の物語をドキュメントタッチで描く。これを見て兵隊を志願した若者もいたなどとして、戦後「戦犯映画」と見なされた戦時中を代表する国策戦争映画。天皇の感想をぜひ知りたいものである。(11.28)
・「東洋の凱歌」 フィリピン攻略戦の記録映画。(12.1)

 以下、延々と続くのだが、時間と字数により、この辺で一度切っておきたい。最後に簡単な分析をしようと思ったのだが、それも次回回し。あまりにもたくさん見ているので、見通しが甘かった。
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豊下楢彦と原武史、昭和天皇を考える2冊の本

2015年09月27日 23時13分27秒 |  〃 (歴史・地理)
 「昭和天皇実録」が完成して公開も始まったので「実録」を利用した近現代史の本も出始めた。今回紹介する2冊の本は、中味が重大だと思うので紹介しておきたい。知らない人には驚くような話がいっぱい出ている。関心がなかった人でもぜひ手に取って欲しい。

 豊下楢彦「昭和天皇の戦後日本」(岩波書店)は、戦後史像をガラッと書き換えるような衝撃を秘めている。豊下氏がこれまで「安保条約の成立」や「昭和天皇・マッカーサー会見」で考察したテーマの延長線上にあり、今までの指摘が「実録」で裏付けられたり、傍証を得たりしたということである。

 簡単に書けば、「憲法9条」ではなく、「日米安保」こそ「押し付け」だったのである。そのような「絵図」を描いたのは、吉田首相やマッカーサー司令官を飛び越して、ワシントンと直接「宮廷外交」を繰り広げた昭和天皇だった。昔はよく保守本流」の「吉田路線」が「軽武装、経済中心」で戦後日本を作ったと言われたが、そんなものはなかった。吉田は「臣茂」と自称するほど「勤皇」の志が篤く、天皇が敷いた「米軍により共産革命を防止する」路線を丸ごと飲み込んだのである。

 新憲法の下では天皇は「象徴」であって、政治的行為は行えないはずだ。だからこそ、新憲法制定後に天皇が大きな政治的役割を果たしたことは長く知られなかった。(信じない人も多かった。)しかし、「実録」の公表で「事実上認められた」のである。そのことは、現在の政治にも大きな意味を持っている。戦後政治において、右は「憲法改正」や「東京裁判否定」を、左は「憲法擁護」や「日米安保反対」を主張した。だが昭和天皇においては、天皇制を守った「憲法改正」(憲法9条)と「東京裁判」、「日米安保」はすべて一続きのものだった。だからこそ、A級戦犯を合祀したことが明らかになって以来、昭和天皇は靖国神社を参拝することを止めてしまった。

 原武史「昭和天皇」(岩波新書)は、昭和天皇の家族関係などを細かく追及してユニークな天皇像を打ち出した。その原氏の「『昭和天皇実録』を読む」(岩波新書)は、「実録」を利用して改めて知られざる昭和天皇像を描き出した。2015年公開の映画「日本のいちばん長い日」では、以前の作品では直接は描かれなかった昭和天皇が、本木雅弘主演で正面から描かれた。だけど、今までの研究状況からすると、どうもまだ大事な点が出て来なかった。戦時下において、一番天皇の心を占めていた「三種の神器」への危機感や、実母(大正天皇の皇后貞明皇太后)が全然出てこないことへの違和感である。

 昭和天皇というと、僕の世代からすれば、良かれ悪しかれ「おじいちゃん」の印象しかない。だけど、1901年に生まれて「20世紀と同い年」(戦前の「数え年」の場合)だった昭和天皇は、戦争時は青年君主だった。若き日の昭和天皇は「ビリヤードとゴルフ」が大好きな洋風君主だった。日中戦争以後は「謹慎」して、そういう遊びと縁遠くなったので、それ以後しか知らない世代は忘れてしまったのである。洋風好みは母親から見て、非常に心配なことだった。大正天皇は病弱で、宮中祭祀もおろそかになりがちだった。その中で、関東大震災が発生して「帝都」が壊滅した。それは「お祈りをおろそかにしたからだ」と貞明皇后は考えた。だから、昭和天皇に祭祀を大切にすることを求めたのである。

 簡単に言えば、母親が宗教にのめり込んだ家庭である。戦争中は「神の助け」があると信じているから、講和など聞き入れるわけがない。「一生懸命祈れば、神が助けてくれる」という人は、戦局が悪化しても「一生懸命祈ってないから戦局が好転しないのだから、もっと宗教に熱心にならないといけない」という発想しかしない。表立っては反発できない実の母親がそんな状態で身近にいたならば…。周りがいくら勧めても全然疎開してくれない「困った婆ちゃん」問題が戦時中の宮廷の大問題だったわけである。これでは合理的な判断ができるわけがない。

 この本で書かれている中では、意外なほどカトリック関係者との関わりが若い頃には深かった。占領下を扱う章は「退位か、改宗か」と題されているくらいである。原氏の本では、各地の神社に祈りをささげる時の「御告文」がたくさん引用されている。読みにくいものだけど、こういうものに「天皇制」というものが現れている。原氏は丸山真男の論考を参考にしながら、「臣民が天皇に仕える」という「見える領域」の上に「天皇が神に仕える」という「見えない領域」があるのが天皇制だと論じている。ここで神というのは、むろん「アマテラス」(天照大神)である。

 どちらの本も、豊下氏や原氏のこれまでの本を読んでいる人には、目新しい論点ではない。だけど、今まで知らない人が読めば、どちらの本もビックリしてしまうような事実が満載だろう。この程度は読んでおいて、戦後史を考えたいものだと思う。
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「あいつと私」という映画-芦川いづみの映画を見る⑤

2015年09月27日 00時28分56秒 |  〃  (旧作日本映画)
あいつと私」(1961)は2回見ている。今回はいいかなとも思ったが、せっかくだから時間を見つけて見直したら詳しく書きたくなった。「あいつと私」は石坂洋次郎(1900~1986)の原作である。石坂作品は、「若い人」「青い山脈」「陽のあたる坂道」など何度も映画化されてきた。若い世代の恋愛や性を真正面から取り上げ、それまで日本では隠されがちだったテーマを明るく陽性に描いて、非常に人気があった。大量に文庫に入っていたが、いつの間にか一冊もない。戦後の作品は「戦後民主主義」の啓蒙的な傾向が強く、時代が作家を追い越してしまったのだろう。

 「あいつと私」は、有名な美容家を母に持つ裕福な若者、黒川三郎石原裕次郎)の生活を描いている。忙しい母(轟夕起子)は子どもにはお金を与えて育ててきた。思春期になると「性欲処理係」の女性まで与えた。この母は家に愛人を連れ込むなど、普通の感覚では「異常な家庭」である。(時々、夫(宮口精二)がヒステリーを起こして家出を試みるのが笑える。ごひいきの宮口精二が情けない役柄を楽しんで演じている。)そんな家庭だが、息子の裕次郎は「なぜか母が嫌いになれない」。この点が映画のポイントで、観客がここを納得できないと映画に入り込めない。確かにエネルギッシュな轟夕起子の姿は、素晴らしいコメディエンヌぶりを発揮して、戦前からの女優としての確かな力量を満喫できる。
 
 この美容家の生き方は俗人には理解しがたいレベルだが、それなのに魅力的なのはなぜか。今は細かく書かないが、学園ドラマの定番のようにして、黒川を取り巻く学友グループが出来、さまざまなエピソードを経て、同級生の浅田けい子芦川いづみ)と親しくなっていく。浅田家は田園調布にある上層の中産階級である。夫が働き、妻が主婦をしている。(ちなみに下の妹は吉永小百合、その下はまだ小さな酒井和歌子が出ている。)よりによってクラスメートが1960年6月15日(東大生樺美智子が国会デモで死んだ日)に結婚式を行い(東京会館)、その流れで裕次郎と小沢昭一と芦川いづみがデモに行く。(その女子大生にほのかな思いを寄せていた小沢昭一は、酔っ払いながら「おれだって、今回の政府のやり方には怒っているんだ。アンポ、反対!」と叫ぶ。)

 芦川は家に電話して、母に「今日はデモに行く」と宣告し、ダメですと絶叫する母親を振り切る。もっともデモ隊には入らない。その後でもう一回電話して、「お母さんが私にいつもくっ付いていて重いの。もっと私から離れて」と叫ぶ。母は「あなたは難産で…」などと昔話を始めるが、娘は「初めてのお産で産道が小さかっただけよ」と恩着せがましい母の言葉に反発する。一家はその日テレビでデモの様子を見続ける。吉永小百合の妹は姉を応援している。(「60年安保」の翌年に作られたこの映画では、安保反対デモが観客にとって共感の対象であるということが、自明の前提になっている。)

 黒川家と浅田家の母親のあり方は正反対と言ってよい。もちろん、けい子の母は娘を心配してデモを止めている。それはケガや政治的な心配というよりも、デモでは「何かまがまがしいこと」が起こり、娘に「傷がつく」ことを怖れるという感じだ。それが娘には「重い」。貧困や差別などと無縁な中産階級の家庭でも、何か精神的な渇きを覚えるような時代になったのである。それまでの石坂作品のように、「家族みなで話し合う」などといった方法では、もうこの焦燥感は解消できない。家庭に囲い込まれた「主婦」という生き方を象徴する母像と反対に、黒川家の母は「自立した女性」である。「(性的に)過激な」家風ではあるものの、息子が母を嫌いにならず、けい子が魅力を感じ、観客も納得してしまうのは、この「自立した女性」の魅力ゆえだろう。「あいつと私」は、性や家族をテーマとする以上に、「女の自立」をテーマにしている

 もっとも、けい子の母の心配はあながち過保護とも言いきれない。デモの後に、結婚式を欠席してデモに行っていた同級生(吉行和子)の部屋を訪ねると、同級生と同居している友人の悲劇を目撃する。彼女は途中ではぐれた後、男の「同志」二人に「連れ込み宿」でレイプされたのである。安保反対運動に加わる「政治的」学生でも、男にはそういう「獣的」な側面があるとされる。(左翼学生運動の中で、男女差別や家父長制意識、暴力的な性関係などが横行していたことは多くの証言がある。「革命のために」女性革命家は男性リーダーに「奉仕」するものだという意識さえなかったとは言えない。)

 そのことはもう一つのシーンでも描かれている。同級生の結婚やデモなどで親しくなって、仲間で夏の大ドライブ旅行を敢行する。黒川=裕次郎は車を持っているから、そんなことができる。裕次郎、芦川いづみの他、小沢昭一、伊藤孝雄、中原早苗、高田敏子という豪華メンバーである。東北ドライブの途中、山の中で道路工事の若い工事人夫多数にからまれる事件が起きる。山奥で女子大生を見て興奮し、学生という「身分」に対する反発が噴き出したのだ。

 最後に軽井沢の黒川家の別荘に着くと、母と愛人が差し入れにきて、そこに裕次郎をよく知っていると豪語する渡辺美佐子もいる。この女性が何故か気になり(気になるのは、この時点でけい子が三郎に好意を持ち始めているという意味だ)、けい子は三郎を問い詰める。その結果、渡辺美佐子は「母が与えた性的な玩具」だったという衝撃的な黒川家の秘密が明かされる。別荘を飛び出したけい子は、追ってきた三郎に抱きとめられ、台風の雨の中でキスする。これはこの映画の一つのクライマックスだが、裕次郎と芦川いづみという主演者のイメージもあいまって、非常に清潔なラブシーンになっている。

 まあ大学生という設定ではあっても、裕次郎(1934~1987)も芦川いづみ(1935~)も25歳を超えているんだから、ちょっとのことでおたおたせずに、実際の学生よりも大人びているのも当然である。(もっとも1929年生まれの小沢昭一はいくら何でも大学生はきつい。)こうしたエピソードを経ても、二人の関係が切れずに続くのは、黒川の母がけい子を気に入っていることが大きいと思う。けい子は派手ではないが、落ち着いたファッションで、感情におぼれず自分で考えるタイプである。(芦川いづみが演じるのにピッタリだが、そのイメージで服装を決めているんだから、当然でもある。)

 黒川の母の誕生パーティに、けい子も招待される。そこで、三郎の出生の秘密やデモの時にレイプされた学生(金森)のその後を知る。大学をやめた金森を三郎が母に紹介し、今は美容師を目指して頑張っている。そのことをけい子は全く知らされずにいて、たまたま金森が帳簿を持ってきて初めて知る。何で知らせてくれなかったと問い詰め、「あなたのすることは全部先に知っておきたいの」と言ってしまって、これが「愛の言葉」だと相互に理解し合う。

 「あいつと私」という映画は、最初に見た時から好きで、好感を持った。60年代初めの映画では、中村登監督「古都」(岩下志麻主演)や吉田喜重監督「秋津温泉」(岡田茉莉子主演)なども好きで何度も見ているけど、女優が清楚で清潔に描かれているのが好きな理由かもしれない。この「あいつと私」は、特別な家庭に育った裕次郎演じる青年を中心に、「女性の生き方」を考察した映画である。まさに、けい子から見た「あいつ」(黒川三郎)の物語である。60年代初頭の風俗や風景も興味深い。

 監督の中平康も巧みに物語を進めている。娯楽映画としての確かな手腕を楽しむことができる。石坂洋次郎原作映画はこの語も続々と作られた。「あいつと私」も1976年に、三浦友和、壇ふみでリメイクされた。「青い山脈」も60年以後に3回も映画化された。しかし、もはや青春スターの定番という位置づけでしかなく、ほとんど話題にもならなかった。時代と合わなくなってしまったのだ。 
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「純潔」時代の青春映画-芦川いづみの映画を見る④

2015年09月26日 00時43分02秒 |  〃  (旧作日本映画)
 以前、勤務先の高校で生徒会誌をズラッと並べて振り返ったことがあるんだけど、現在では考えられない「時代相」がまざまざと見えてきて面白かった。中でも、1960年代初期の年間行事予定が掲載されていて、その中に「純潔教育」と書いてあったのには、心底ビックリした。「防災」だの「防犯」だの、行事予定に必ず載せて届け出なくてはいけない項目があるが、その時代には「純潔教育」が正規の教育課程として学校全体で行われていたのだ。

 60年代初頭が一番「純潔」が叫ばれた時代だというのは、例えば藤井淑禎「御三家歌謡映画の黄金時代 橋・舟木・西郷の「青春」と「あの頃」の日本」(2001、平凡社新書)で指摘されている。学校現場では現実に行われていたのである。ここで「純潔」というのは、主に「正式な結婚前には性的な関係をガマンする」という意味である。もちろん、特に女性の「処女性」が尊ばれるわけだが、「男女同権」の戦後では男子の放蕩無頼もダメだという認識が強くなる。三島由紀夫原作、若尾文子、川口浩主演の映画「永すぎた春」では、知り合ってからもなかなか結婚しないカップルの話だろうと思っていた。でも、川口浩は現役の東大法学部生で、東大前の古本屋の娘若尾文子と婚約したが、卒業までの一年にいろいろあるという話だった。その間に性的関係は不可なので、その一年が「永すぎる」わけである。

 こういう意識は今はすっかり変わってしまって理解しにくい。「あいつと私」(1961、中平康監督)は、慶應をモデルに大学生の青春を描くが、1学期終了前に学校の裏山でパーティ(というか学芸会のようなもの)が行われる。そこに「童貞と処女のままで9月に会いましょう」とスローガンが書いてある。そんな時代だったのである。もっとも「美人女子大生がキスしてくれる」(有料、キスは頬にする)とか「女子大生の逆立ち」(パンティが見える。終了後に男子学生からお金を取る)などの企画もある。ガチガチのマジメ企画ではなく、その程度のお遊びは許されている。そこで得たお金は病気で休学中の級友の見舞いに当てると報告される。まだ多くの学生が結核で入院していた時代である。

 「あいつと私」は別に書くとして、今回見た映画では「真白き富士の嶺」(1963、森永健次郎監督)が興味深かった。「真白き富士の嶺」(ましろきふじのね)と言えば、1910年に起きた逗子開成中学生によるボート事故の悲劇を歌った歌である。この映画は直接この事件を描いたものではないが、随所に曲が流れて感傷的なムードを盛り上げる。原作は太宰治「葉桜と魔笛」という小品。太宰は生誕百年時にほとんど読んだんだけど、こんな作品があったのか。調べると、新潮文庫「新樹の言葉」に収録されている。(ネット上でも読める。)太宰の映画化は、生誕百年時の「ヴィヨンの妻」「人間失格」「パンドラの匣」なんかしか思い浮かばないが、こんな映画があったんだ。原作は日本海海戦ころの島根県の話だが、60年代の湘南に移している。
(「真白き富士の嶺」)
 妹の吉永小百合は難病で逗子の病院に入院していたが、退院するにあたって、宮口精二の父、芦川いづみの姉とともに東京から逗子へ越してくる。吉永小百合は本当は不治の病だが、小康状態の時に家に帰したのである。吉永小百合には秘密の手紙が来ている。「М・T」と名のる男の手紙で、誰も心当たりがない。姉は何とかこの謎の人物を突き止めたいと思う。自分は婚約者とも清らかな交際なのに、妹にはなんだかもっと深い交際もあったかのようで、嫉妬のような感情も起こるのである。しかし、ある日妹に詰め寄ると「もういいの」という。「М・T」からは絶交の手紙が来たのだと言う。それを読んで、姉が仕組んだことは…。原作はそこだけがメインで、心に響くシーンである。

 芦川いづみは服飾学校の先生で、恋人の服飾デザイナー、小高雄二は車を持っていて、東京と逗子を何回か往復する。そういう描写も興味深いが、基本は「誰にも愛されずに死んでいく難病の少女」がテーマである。庭で水まきしている時に知り合う高校生、浜田光夫が、唯一現実の「異性の友人」に近い存在になる。高校生が「純潔」であることが当然であるような時代で、特に難病の少女には誰にも知りあう機会もない。そのことを哀れに思う感情が全篇に満ちていて、まさに同年代の吉永小百合の魅力もあって、観客が感傷にたっぷりと浸れる映画。

 「難病」映画、特に「難病少女映画」というものは昔からずいぶんたくさんあるが、「難病少女」は「恋愛も知らずに死んでいかないといけない」ということが、観客の同情のポイントである。「難病」ということで、さまざまな現実社会の問題は考える必要がなくなってしまうから、ただひたすら泣ける。でも、生きている人間は現実の問題、青春を左右する経済力や進路、性などの問題に直面せざるを得ない。「知と愛の出発」(1958、斎藤武市監督)という映画は、まだ若々しい芦川いづみのセーラー服姿がまぶしいファンにはうれしい青春映画だが、「性に関するコード」が今では全くずれてしまっている。
(「知と愛の出発」)
 長野県の諏訪湖のほとりに住む高校生・芦川いづみは、仲良しの病院長の娘(白木マリ)に同性愛を迫られ逃げ出す。白木は自分のボートで帰ってしまい、たまたま湖にいた同級生、川地民夫に助けられ親しくなる。川地民夫は後に奇矯な役柄が多くなるが、この映画では「成績優秀な美少年」的な役をやっている。田舎ではトップで東大を目指していて、地元の有力者の父親は勉強以外に時間を割くことを許さない。その厳格ぶりは今見るとコメディである。(特に、息子と親しくなった芦川の父が中学教員と知り、「日教組か」と決めつけるセリフがおかしい。)

 芦川の父、宇野重吉は娘を進学させる資力を亡妻の病気治療でなくし経済的に苦しい。大学を目指していた芦川は反発して、自分で何とかすると夏のホテルで働き始める。同級生の中原早苗もアルバイトしているが、ある夜の帰りに、不良大学生グループに車で連れ去られレイプされてしまう。この事件は何と中原早苗の実名入りで地元新聞に報道されてしまう。(こんな人権無視があるのかと思うが、それなりの現実があったということだろう。)「傷物」になった中原は追いつめられて自殺してしまう。スティグマ(烙印)を押された女は当時の社会ではもう生きていけなかったのである。

 それよりすごいのは、友人であるはずの芦川いづみの言動である。たまたま同時に盲腸で入院した芦川は、中原早苗から輸血されたと信じ、「汚れた血が入った自分もまた汚れてしまった」と絶望するのである。(実際は川地が血を提供した。)「レイプされたことで、女性の血が汚れてしまう」という発想は今では誰にも理解不可能だろう。だけど、20世紀前半には、そういう「性科学者」の怪しげな「学説」が結構はびこっていた。川村邦光の本などで知ってはいたが、改めてビックリする。絶望した芦川は白木マリの病院の医師、小高雄二に犯されそうになり、かえってメスで小高を傷つけてしまう。これがまた「女子高生、四角関係のもつれ」などといった扇情的な報道をされてしまう。

 最後は芦川と川地が徹夜で登山して、大自然の力に感動して新生に向かう。これは娯楽映画のパターンだけど、この映画の性意識や「世間」の無理解ぶりには絶句である。世の中が「純潔」を守る清純派ばかりだと、物語に葛藤が作れない。だから、片方に「清純派」がいれば、その片方に「お色気たっぷり」の「発展家」が必要である。芦川いづみも、60年代になると、ある程度そういう役柄も出てくるが、持ち味的にはしっかり者の「清純」派である。「真白き富士の嶺」では、自立した職業人になっている。そういう「自立」感が芦川いづみの持ち味で、単に清楚なだけの「カワイ子ちゃん」ではない。

 前近代的な共同体規制が強い時代には、「結婚は家どうし」のもので、家長である父親が決めた相手と結婚するものだった。そういう社会では、「処女性」は結婚という取引の商品価値に関わるものだから、絶対に守らなければならない。経済の高度成長が進むと、男女の交際空間は圧倒的に広がるが、だからこそ「自らの強い意志で純潔を守る」ことが大切にされる。もっとも「欲望に負ける」場合もあるから、そういう女性に同情しつつも実際は興味本位で描く映画もたくさん作られた。その場合、処女を失った女性の側が不幸に落ちていくのが、「お約束」の展開である。

 「まだフェミニズムがなかった頃」は、左翼陣営でも「純潔」が価値として浸透していた。ハリウッド映画は、3S(スリル、スピード、セックス)で青年たちを堕落させる「アメリカ帝国主義の陰謀」なのである。だから、左翼運動の青年たちは(タテマエ上は)「清い交際」しか認められない。50年代から60年代にかけて、清楚で可憐なスターたちが画面上でいくたびも清らかな交際をしていた。しかし、それはその時代には、前時代の性意識がすでに崩れつつある状況を反映していたのだろう。60年代末の世界的な「若者の反乱」「肉体の解放」を経て、70年代の青春映画のスター、秋吉久美子や桃井かおりなどになると、あっけなくヌードになって性関係を結んでしまう。それがリアルな設定になったのである。スターがヌードになっても、もう何の問題もなくなった。今では誰も「純潔」なんて言葉を使わないだろう。
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日活アクションの中で-芦川いづみの映画を見る③

2015年09月24日 00時13分56秒 |  〃  (旧作日本映画)
 芦川いづみの映画を見てまとめるのが2回で中断してるので、続き。まず「日活アクション」映画で出演した映画を振り返る。「日活アクション」というのは、石原裕次郎や小林旭が主演して続々と作られた日活のプログラム・ピクチャーである。アクションと言っても、本質的には「青春映画」と言ってよく、正義のヒーローに対する可憐なヒロインが必須である。初期の裕次郎映画では、大体その役は北原三枝が演じた。芦川いづみも出ている場合もけっこうあるが、役柄的に北原が姉的、芦川が妹的な存在になっている。一方、小林旭の出演作では、ほぼ浅丘ルリ子がヒロインだった。

 芦川いづみは裕次郎との共演がかなりあるけど、石坂洋次郎原作の「青春文芸映画」などの場合が多い。これは芦川いづみの持ち味を生かしているんだろう。だから、アクション映画の共演は少ないし、出ていてもヒーローの運命的な愛人役ではなく、ヒーローを陰で支える妹なんかの場合が多い。(裕次郎主演の「紅の翼」など。青春文芸映画では裕次郎に対して、自立した女性として交際する。)

 一方、裕次郎、旭以外のスター、赤木圭一郎宍戸錠などとの映画では、アクション映画での共演がかなりある。1960年の「霧笛が俺を呼んでいる」はその代表。だけど、この映画では芦川は赤木の先輩である葉山良二の恋人という設定になっている。葉山は死んだことになっているが、それを疑う赤木が真相を追求し、芦川との心の結びつきが生まれてくる。だから、対等な恋人ではない。赤木圭一郎(1939~1961)はわずか21歳で事故死したが、芦川の方が4歳年上である。そのキャリアの差が対等の恋愛関係を難しくさせるわけである。

 赤木が事故死し、裕次郎がスキー事故で骨折した1961年は、日活にとって難局の年になった。そこで二谷英明やまだ若い和田浩治を主演級に抜てきした。その中で作られたのが、鈴木清順の「散弾銃(ショットガン)の男」(1961)という珍品。清順ブレイクの年は1963年で、まだここでは人物の出入りがゴタゴタしている。山奥に恋人の死の謎をさぐる二谷英明に対し、山の私設保安官の妹という変な役が芦川いづみ。兄の保安官がケガして、後任におさまる二谷の目的は何か。この映画では、日本アルプス級の山の奥に、秘密のけし畑を作る悪徳組織があって、山の町を牛耳っている。そこの酒場が日活的な無国籍空間になっている。横浜や神戸の港にあると言われれば、多少は納得できるのだが、山奥に悪の王国があるというのはムチャである。そこに散弾銃を抱えた男が登場するというのも…。日活アクションにリアリティを求めても意味ないけど、これはすごい。ラストは海辺の決闘になる。芦川はいつの間にか二谷を慕う役柄を好演している。

 今回一番ビックリしたのが、「気まぐれ渡世」(1962、西河克己監督)。宍戸錠が射撃の達人で、謎の事件にかかわりがあると警察に追われる。ある酒場でうっかり子どもを預かると、預けた男が殺される。子どもを預かってウロウロする宍戸錠がおかしい。アパートで違う部屋の牛乳を盗もうとして、その部屋に来ていたシスターに出会う。つまり修道女である。これが芦川いづみで、シスター姿で終始するという不思議な映画である。結局、話は死んだはずの宍戸の戦友、内田良平が生きていて、悪の組織を作っているというところになっていくが、その主筋と関係なく、宍戸錠も逆らえない芦川いづみのシスター役が素晴らしい。だから、好意は生じるものの、恋愛感情とも言えないのだが、コメディだからそれでいいのである。ただ見つめるしかない芦川いづみ。
 
 「大学の暴れん坊」(1959、古川克己監督)も、赤木圭一郎主演のアクション映画と言える。赤木は大学の柔道部員で、先輩の葉山良二の弁護士と悪に立ち向かう。悪徳地上げ屋が登場するが、東京五輪の5年前の開発ブームで、ホテル建設をもくろむ勢力が町の商店街をつぶそうとしているという設定。芦川いづみは葉山良二の弁護士をおびき出すために捕まってしまう。そういうシーンがあるが、まあ芦川いづみ映画としては普通だろう。まだ赤木圭一郎が若造で、学生の暴れん坊という設定で映画になった時代の映画である。
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中平康映画の芦川いづみ-芦川いづみを見る②

2015年09月15日 02時04分42秒 |  〃  (旧作日本映画)
 今回の上映で見ると、監督別では中平康が最多で5本もある。中平作品では、傑作アクション「紅の翼」や奇怪な作品「結婚相談」など芦川いづみ出演作はまだあるけど、とりあえず大ヒット作「あいつと私」など、芦川いづみの魅力を一番描いたのは中平康かもしれないと思う。
 
 もっとも僕の考えでは、芦川いづみ最高の映画は「硝子のジョニー 野獣のように見えて」(1962、蔵原惟善)である。この映画については、シネマヴェーラ渋谷で蔵原特集があった時に「蔵原惟善の映画⑤」で書いた。蔵原惟善(これよし)は、「南極物語」や「キタキツネ物語」の監督だが、普通代表作と言われるのは浅丘ルリ子主演の「執炎」や「愛の渇き」である。でも、僕は一般的には観念的で失敗作とも言われる「硝子のジョニー」や「夜明けのうた」が大好きだ。もともと「観念的で、なんだかよく判らない」といった映画の方が好きなのである。
(「硝子のジョニー 野獣のように見えて」)
 この映画は間宮義雄撮影の函館など北海道の暗い画面が素晴らしい。また木村威夫の美術、黛敏郎の音楽なども良い。前に書いたブログで、「芦川いづみは清楚可憐な役柄がほとんどだが、その純粋部分を抽出してさらに凝縮したような役を熱演」と書いてて、我ながら結構うまいことを言っていると思う。まあ「道」のジェルソミーナのような「聖女」である。訳がわからないながら、これほど心に残る映画もないなあ。

 中平康(なかひら・こう 1926~1978)は早く亡くなってしまい、没後に再評価の声も高いが、あまりにも多彩な作品群にまだ評価も定まらない。晩年に不幸な時期が長く、最後は忘れられたような感じだったが、50年代から60年代前半には日活で素晴らしい作品を続々と作っていた。最初の公開作である「狂った果実」(1956)は裕次郎初の本格主演映画で、「湘南海岸を舞台にした青春映画」のプロトタイプの傑作である。こういう瑞々しい青春を描いたと思ったら、後に再評価された日本で珍しいスラプスティックコメディ「牛乳屋フランキー」を撮る。「才女気質」「地図のない町」「現代っ子」のような不思議な映画をたくさん撮る。アクションの傑作も、メロドラマの傑作も、コメディの傑作もある。だけど、もっともっと不思議な映画がたくさんあるということである。

 今回上映された中平作品の最初の映画は「誘惑」(1957)で、銀座の洋品店(二階に画廊)を作ったセットが素晴らしい。店主の千田是也の昔の恋人、およびその娘の二役が芦川いづみ。現実に生きた芦川が出てくるのは終わりの頃で、この映画のヒロインは千田是也の娘の左幸子である。左幸子とその仲間たちの恋のてん末を、多くの人物をさばきながら点描していく。画廊のオープニング場面で岡本太郎や東郷青児が出てくるのも貴重。50年代にかなり作られたオシャレでソフィスティケートされた映画の典型で、楽しく見られる。ただし中平の最高傑作というほどの評価は、二回見たけど高過ぎではないか。俳優座の千田是也をたっぷりと見られるのも重要だが、芦川いづみの母が千田是也の恋人で、二役やるという設定である。

 1959年に作られた「その壁を砕け」も2回目だけど、実に本格的な冤罪映画でビックリする。新藤兼人脚本、姫田真佐久撮影、伊福部昭音楽というスタッフの力量を見る思いがする。小高雄二の恋人が2年間働いて自動車を買い、恋人の芦川の住む新潟まで飛ばしていく。その途中で三國峠を越えたあたりで、つい乗せてあげた男が殺人犯で、小高は犯人に間違えられて逮捕される。だから、観客は小高は無実であることを最初から知っている。問題は裁判なんだけど、それがどう進むか。恋人の芦川は裁判を行う新潟地裁長岡支部のそばで働きながら、無実を信じて待ち続ける。やがて、最初に逮捕に貢献した長門裕之の巡査が事件を疑い始め、実地検証が行われることになって…。
(「その壁を砕け」)
 「犯人の情婦」とののしられながら恋人の無実を信じる芦川いづみの一途な思いが素直な感動を呼ぶ。中平にこんなリアリズムの社会派映画があったのか。戦後に作られた冤罪映画のほとんどは、実際の事件に材を取った救援映画である。今井正「真昼の暗黒」(八海事件)、山本薩夫「証人の椅子」(徳島ラジオ商事件)などのように。フィクションの冤罪映画はあまりないが、この映画は出色。当時の捜査(をきちんと反映しているかどうかは別だが)の問題性もよく判る。被害者の面通しはあれでは証拠価値がない。この映画はどこでロケされたんだろう。事件の起きる山村はどこなんだか。新潟駅や長岡駅、柏崎駅や佐渡まで出てきて、新潟県の風景がいっぱい見られる。
 (「その壁を砕け」)
 「あした晴れるか」(1960)は菊村至原作の都会派コメディ。芦川いづみに黒縁の伊達眼鏡をさせて、裕次郎と共演させるのがおかしい。新進カメラマンと仕事を組む宣伝部員が、女だと馬鹿にされないためにあえて変装しているのだ。だから、裕次郎に眼鏡を取るとカワイイなどと言われる。そこに中原早苗も裕次郎に絡んできて…。登場人物の出会いに偶然が多すぎて、そう思わせてしまうレベルの娯楽編だけど、楽しく見られる。芦川いづみのイメージも他の作品と全然違って、おかしいことこの上ない。まあ裕次郎や芦川いづみファンしか楽しめないかもしれないが。
(「あした晴れるか」)
 「学生野郎と娘たち」(1960)は快作とか秀作という評価もあるが、僕には受け入れられない。芦川いづみの女子大生は、言い寄る男に犯され、学費稼ぎに怪しいアルバイトをさせられ、挙句に自殺してしまう。そういう暗い設定がダメなのではない。清楚可憐な役ばかりでなくていいし、他の女子大生もみな厳しく見つめられている。だが、これでは貧乏人が大学まで行っても、バイトに明け暮れてダメになるしかないという感じだ。最初にナレーションが入るが、もうそれが辛辣。たぶん、原作の曽野綾子「キャンパス110番」に問題があると思う。嫌味を風刺と取り違えている。木下恵介「日本の悲劇」はあんなに辛辣に登場人物を見つめていても、決して嫌味な感じを残さない。芦川いづみ(藤竜也夫人)、中原早苗(深作欣二夫人)、清水まゆみ(小高雄二夫人)などがおバカな女子大生を演じる映画。

 それに比べると、「あいつと私」(1961)のストレートな描写がうれしい。これは石坂洋次郎の原作という違いだろう。戦後民主主義にたつ石坂と、批判ばかりの曽野綾子の違いである。登場人物の裁き方のうまさが、中平の手腕か。裕次郎の青春映画は、というか日本の青春映画はどれも現実離れした設定が多いが、「陽のあたる坂道」よりも「あいつと私」の方がまだしも現実感がある。この二人の共演では石坂原作の「乳母車」が最初だが、それも現実離れした設定。どれもセックスをめぐって、今では考えられない設定になっている。「純潔」が叫ばれ、今とは全く違った性的環境だったことを理解しないといけない。そんな中で、悩みながらも自分に素直に、社会に負けずに歩んで行く芦川いづみのヒロインには、見ていて熱いものがこみ上げてくる。当時のキャンパス風景も面白い。貴重な映画だと思う。
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芦川いづみの映画を見る①

2015年09月13日 23時36分58秒 |  〃  (旧作日本映画)
 僕の好きな女優、芦川いづみの特集上映が東京・神保町シアターで行われている。全15作品のうち、見ているのは6作品しかなく、かなりレアな作品も多い。前に「芦川いづみを見つめて」という記事を書いたところ、今も時々読まれているようなので、続報的意味で紹介。
   
 今回の目玉は、映画というより、本人自筆の手紙(あいさつ)である。藤竜也と結婚以後、一切映画やテレビなどに出ていないが、新聞のインタビューなどには応じている。だから、今回の企画にお礼の手紙があっても不思議ではないが、本人の自筆が会場に展示されているのはとても貴重である。まず、それを掲げておく。印刷したものは、チラシの映画紹介欄に出ている。


 芦川いづみ(1935~)は、SKDだからデビューは松竹である。川島雄三の「東京マダムと大阪夫人」というシャレたコメディ。その後、1955年に川島監督の日活移籍後に日活に入った。日活が生んだ大スターと言えば、まず思い浮かぶのは石原裕次郎吉永小百合だろう。芦川いづみも両者との共演がたくさんある。映画史的には、裕次郎の青春映画に欠かせないヒロインだったことが一番重要だと思う。僕が最初に見たのは、たぶん文芸坐のオールナイト上映の石坂洋次郎原作特集。「陽のあたる坂道」「あいつと私」「あじさいの歌」の3本だった。「あいつと私」「あじさいの歌」は芦川いづみが非常に印象的なヒロインを演じていて、魅せられてしまった。また、その頃僕が好きで何回か見ている熊井啓監督の「日本列島」の女性教師役も忘れがたい。

 「陽のあたる坂道」や今回上映の「風船」では、芦川より北原三枝(1933~)が姉的な存在で出ている。1960年に北原三枝と裕次郎が結婚すると、年下の浅丘ルリ子(1940~)が成長してきて、裕次郎の「ムードアクション」の相手役は大体ルリ子になっていく。吉永小百合(1945~)はさらに若く、「あいつと私」では芦川いづみの妹役で出ている。1963年には浦山桐郎「非行少女」で認められた和泉雅子(1947~)の人気も出てくる。他にも、松原智恵子(1945~)など「清純派スター」をたくさん輩出した。男優の裕次郎、小林旭、宍戸錠、二谷英明など、芦川いづみの相手役を務めた代表的スターを思い浮かべても、性別を問わず気持ちのいい役柄を持ち味にする人が多い。それが日活の持ち味だろう。

 その女優たちが4人も姉妹役で出ているのが、「若草物語」(1964、森永健次郎監督)。日活の女優、特に和泉雅子などが楽しそうに回想していて、姉役の芦川いづみと目を合わせるたびにドキドキしたと言う。一体、どんな映画だろうと思っていたのだが、今回初めて見た。長女が芦川いづみ、次女が浅丘ルリ子、三女が吉永小百合、四女が和泉雅子という日活映画女優史に残る豪華編である。名前はアメリカの小説と同じだが、長女が東京に嫁いでいて、残りの三人が大阪から家出して東京へ出てきてしまう。設定は「細雪」に近いが、みな若くて元気で恋に憧れている。
(「若草物語」)
 浅丘と吉永はデパートで働き始めて、物語の中心はこの二人になる。一番上の芦川は相談役で、一番下の和泉は中心的な恋物語の外にある。浅丘ルリ子を浜田光夫と和田浩治が争い、小百合は浜田に憧れている。まあ大した映画ではないんだけど、当時の東京風景が楽しめる。芦川いづみを見るという観点からは、主要な映画ではないけれど、日活の女優を考える時には面白い。なお、浅丘ルリコと和田浩治がヨーロッパに飛び立つ飛行機が一瞬映るが、「よど」と書いてあった気がする。
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国宝・曜変天目を見る

2015年09月11日 23時53分14秒 | アート
 ここしばらく強い雨が続いていた。台風と秋雨前線のためで、茨城県常総市で鬼怒川が決壊するなど、ちょっと考えがたい被害が起こっている。自分の家のあたりは雨の災害にあったことはまずないけれど、使っている電車が栃木県や茨城県に通じているので、ダイヤが大きく乱れてしまった。よく行く日光なんかも、電車が不通になっている。鬼怒川温泉でも大被害。確かに、特に水曜日(9日)などものすごい雨が終日降り続いていた。(ちなみに「常総市」と言われても、どこだという感じだが、水海道(みつかいどう)市が石下町を編入して2006年に出来た市名である。)

 書きたいことがまたたまるので、今日は頑張って二つ書きたいと思っているが、新聞切り抜きをしているうちに遅くなってしまった。時事問題系はもう一つに回して、まずは今日見た「藤田美術館の至宝展」の話。六本木のミッドタウンにあるサントリー美術館で、9月27日まで。昨日までは映画を見るつもりだったのけど、疲れていたので突然こっちに行こうかなと思って、仕事帰りに久しぶりにサントリー美術館へ。前売り券を買ってあるので、早く行ってしまいたい。藤田美術館というのは、大阪にある美術館で藤田組を作った明治の実業家・藤田傳三郎(1841~1912)とその長男、次男のコレクションを収める。藤田組というのは明治時代にはよく聞くけど、今はどうなっているのかと調べてみたら、同和鉱業を経て、今はDOWAホールディングスという。そこから別れたのが藤田観光で、椿山荘、箱根小涌園、ワシントンホテルなどを展開している。
 
 藤田美術館というのは、年中公開している美術館ではなく、なかなか行きにくいようだ。その前にまず大阪に行ったことが数回しかない。「維新国の首都」だから、しばらく足を踏み入れる予定もない。こうなると予想して、数年前に(まだ橋下知事だった時代に)、リバティ大阪(大阪人権博物館)やピース大阪(大阪国際平和センター)はたっぷりと見学して記憶に焼き付けてきた。ということで、今回は大変貴重な機会。国宝、重文がいくつもあるすごい展覧会である。例えば、奈良時代8世紀に作られた「大般若経」。あるいは「紫式部日記絵詞」。さらに「玄奘三蔵絵」。まあ、大般若経はよく判らないから、字を見るだけだけど、絵は素晴らしい。いずれも国宝。快慶作の「地蔵菩薩立像」も素晴らしかった。

 入り口は3階なんだけど、まず4階から展示が始まり、「第1章 傳三郎と廃仏毀釈」が出てくる。この宗教美術がもしかしたら一番いいかもしれない。続いて「国風文化へのまなざし」「傳三郎と数寄文化」となる。曜変天目はどこだという気持ちで見てしまうので、つい急ぐのが残念。3階に下りてきて、「茶道具収集への情熱」「天下の趣味人」となる。「曜変天目」と書かせるけど、普通は「窯変」である。要するに焼いた時の予期しない変化だけど、特に星の輝きのような模様になった物を日本で「曜変」と呼ぶ。中国の福建省建陽市で作られたというけど、こういうことは今調べたこと。世界で3つしかない。いずれも日本にあり、国宝指定。(もう一つ、重文指定のものがあるが、曜変ではないという説もあるという話。)一つが、今回の藤田美術館だが、もう一つが世田谷の静嘉堂美術館。三菱系の美術館だけど、今は改修中。両方の写真を並べてみる。最初が今回見たもの。
 
 これが案外小さくて、ちょっと「へえ」という感じがあった。もう一つがあるだろうということになるが、それは京都にある「龍光院」所蔵。大徳寺の塔頭だけど、一切公開しないという。国宝4つの他、建築も含めて多くの重文もあるが、特別公開もしないという。ということで、見られないから写真も載せない。「曜変天目茶碗」を見ると、確かに美しいのである。だけど、同時にそれは一種の「破格」の美でもある。デザインにシンメトリーが全くなく、偶然にできたものだからである。しかし、それを「破格」と見てしまうのなら、日本で作られた志野などの方がしっくりくるという部分はないだろうか。僕がどうしても感じてしまったのは、志野の破格の懐かしさだったとも言える。茶に素養も経験もない自分には茶道具のことは判らない。いっぱい並んだ茶道具を見て、これは判らないなと思った。自分は要するに、彫刻や工芸の一種として陶芸を見るしかない。

 日本で国宝に指定されている茶碗は数少ない。他に中国・朝鮮のものでは、大阪市東洋陶磁美術館の油滴天目茶碗や孤篷庵に伝わる「井戸茶碗」などがある。しかし、日本の物では国宝は二つ。三井記念美術館の「志野茶碗 銘卯花墻」とサンリツ服部美術館(長野県諏訪市)にある光悦の「楽焼白片身変茶碗」である。この二つはどっちも見ている。驚くほど素晴らしいと思う。僕には評する言葉が出ない。やっぱり「曜変天目」より好きなのではないかと思う。写真を見つけて載せておく。前者が志野、後者が楽焼。それはとにかく、この展覧会は本来、最初の方をじっくり見るべきなのではないか。見応えのある日本美術の集成であり、昔の実業家はすごかったと改めて思う。
 
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夏目雅子没後30年

2015年09月08日 23時47分40秒 |  〃  (旧作日本映画)
 最近は昔の映画を見ていて、それに時間を取られる。本が読めないし、国会前にも行けないので困る。神保町シアターで僕の大好きな「芦川いづみ」の特集をやっているが、そのことは別に書きたい。今、早稲田松竹で、夏目雅子没後30年ということで、絵葉書まで作って4本上映している。そんなにファンだったわけでもないけど、もう30年経ったのかと思い、全部見直してみた。

 一週間のうち、初めの3日は「鬼龍院花子の生涯」(1982)と「時代屋の女房」(1983)、後半の4日(11日まで)「魚影の群れ」(1983)と「瀬戸内少年野球団」(1984)である。このうち「時代屋の女房」だけは公開時に見逃し、10数年前に森崎東監督特集がどこかであった時に見た。他の三本は公開時に見て、「魚影の群れ」はちょっと前に相米監督特集で再見した。でも、やはりどの映画も細部を忘れていたのには自分で驚いた。「鬼龍院」なんか、夏目雅子がタイトルロールだといつの間にか思い込んでいたぐらいである。没後30年なんだから、いずれも30年以上前の映画である。忘れるわけだ。

 夏目雅子(1957~1985)という人は、そのあまりに短い人生が「悲劇の女優」と伝説化したけれど、同時代的には誰もがまずモデルとして知った。カネボウのキャンペーンガールの印象が強く、女優としての演技力は当時はあまり評価されなかった。映画会社に所属して、同じようなプログラムピクチャーに連続的に出演して俳優イメージが作られていく時代はもう終わっていた。70年代はそれでも「日活ロマンポルノ」というプログラムピクチャーがあったけど、80年代になると一本ごとに違う色合いの映画に出る。あるいはテレビに出る。さらに舞台にも出る。夏目雅子は1978年にテレビの「西遊記」の三蔵法師役で人気が出たというけど、僕は見ていない。舞台にもいくつか出ていたようだが、見ていない。

 フィルモグラフィーを見ると、出演映画は13本。ナレーションもあれば、大作の中の脇役もある。(「大日本帝国」や「小説吉田学校」など。ちなみに後者では吉田の娘の麻生和子、つまり麻生太郎元首相の母親役だった。見たけど覚えてない。)主演レベルが案外少ない。そんな中で貴重な4本の映画だが、あまり共通したイメージは感じられなかった。美人は美人なんだけど、60年代までの「誰が見てもうっとりする」「壮絶なまでの美女」ではない。だからと言って、「美人というより隣に住んでるカワイイ子」でもない。ある種、ファニーな感じもさせるけど、基本は美人女優。そういうタイプは扱いが難しい。今回上映の4本は、いずれも原作があり、監督も有名。だから、主演女優のイメージもそれぞれに違う。存在感のようなものが求められる時代に入っていたのだ。

 それぞれの映画に簡単に触れておきたい。「鬼龍院花子の生涯」は実質的なブレイク作品で、決め台詞の「なめたら、いかんぜよ」は大流行した。宮尾登美子原作の初映画化で、そのことの功績も大きい。高知の侠客や娼家の世界を華麗なる映像で描く五社英雄監督作品。五社監督と仲代達矢に圧倒されて、とても面白かった記憶がある。今見ても十分に面白いが、夏目雅子追悼という目で見ると、ものすごい頑張りが素晴らしく、ここに大女優現るという現場を見た感がある。侠客仲代の養女となり、鬼龍院一家の全盛期から没落までを見届ける役である。養父仲代に犯されかかるシーンがあり、ヌードシーンがある。ウィキペディアによれば、事務所は反対したが、本人が押し切ったとのこと。
(「鬼龍院花子の生涯」)
 「時代屋の女房」は、村松友視の直木賞受賞作の映画化。僕はこの映画が今一つ理解できなかったのだが、今回やっと判った。つまり、二役であることが。同時代に見たわけではないので、前はうっかり見過ごしてしまったのである。今見ると、東京の大井町に実在したという「時代屋」という古道具屋をめぐる都市風景が素晴らしい。夏目雅子というより、町を見る映画とも思える。夏目雅子は時代屋にふらっと現れて居ついては、時々消えてしまう謎の美女という役。主人は渡瀬恒彦で、古道具屋をめぐるさまざまな人々の様子を描きながら、人間模様を映し出す。森崎東監督作品としては異色で、僕にはどう評価すべきかよく判らない。(つまり、いま一つ面白くないということだが。)

 「魚影の群れ」は、吉村昭原作相米慎二監督が映画化。でも有名な原作とも言えないし、大間のマグロ漁師をめぐる「作家の映画」になっている。相米映画の特徴が一番はっきりする映画だと思う。だけど、大間の海でマグロを追う緒形拳がすごすぎて、本物の漁師のドキュメントだと思うぐらいすごい。夏目雅子はその娘で、佐藤浩市と結婚して、親と衝突する。重要な役ではあるが、海とマグロに圧倒されて、夏目雅子を見る映画とはとても言えない。今見ると、こんなすごい(危険なと言ってもいい)映画を撮る力量がまだ30年前の日本映画にはあったのだと感慨を覚える。ただ、映画としては漁の場面の迫力に依存し過ぎている感じがする。初めて見た時から「これは何だろ」感を覚える。他の相米映画の方が好きだけど、こんな映画があったことは多くの人に知って欲しいと思う。

 「瀬戸内少年野球団」は作詞家阿久悠の初小説として話題を呼んだ原作を、篠田正浩監督が映画化。映画としても面白いが、夏目雅子映画としても一番いい。敗戦直後の淡路島の小学校先生役。役柄から、清楚できちんとした場面が多く、アップも多い。後半になると、少年野球チームを率いることになり、野球場面も楽しい。「戦争で死んだ夫」の弟が迫ってきて、義父母も家を考えろと言う。この義弟は渡辺謙のデビューで、若々しい。そこに死んだはずの夫が戻ってくる。そこに子どもたちや漁村の人々のドラマが重なるが、「戦後映画」というか「占領期映画」として今も色あせない。
(「瀬戸内少年野球団」)
 英語題名が「マッカーサーズ・チルドレン」で、日本の占領を考えるためにも重要。高校野球(中等学校野球)も重要な意味を持っている。今年もっと再注目されるべき映画だと思う。今はなくなったという徳島県の小学校の建物が懐かしい。島の風景は岡山県笠岡市の眞鍋島で撮影されている。そのような風景も貴重。篠田監督も戦争映画をたくさん作っているのだが、夏目雅子の夫、郷ひろみは八路軍に囚われて救われたという設定。いろんな意味で興味深い。「野球」と占領期というのも、大きなテーマだと思う。ベストテン3位。夏目雅子は、とてもいい。劇映画の遺作。27歳で、美しい盛りの病死だった。
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阿川弘之、山口鶴男、柳原良平等ー2015年8月の訃報

2015年09月05日 23時36分34秒 | 追悼
 2015年の8月は、あまり大きく報道されるような訃報が少なかった。一番大きな報道をされたのは、作家で文化勲章受章者の阿川弘之(8.3没、94歳)の訃報。しかし、僕は阿川弘之の本を一つも読んでいない。「志賀直哉」の文庫本は持ってるけど、読んでない。いわゆる「第三の新人」の一人と言っていいが、遠藤周作や吉行淳之介などと違い、全く読まなかった。僕の学生時代ころは「山本五十六」に始まる海軍軍人の評伝で知られていたが、どうも読む気にならないまま。鉄道エッセイなんかも読んでない。晩年は阿川佐和子の父と言われることが多かった。
(阿川弘之)
 元社会党書記長の山口鶴男(8.3没、89歳)は土井たか子委員長時代の書記長だった。群馬県第3区で11回当選したが、ここは例の福田赳夫、中曽根康弘の選挙区で、その「ビルの谷間のラーメン屋」として小渕恵三がいた。定数は4人で、山口はおおよそ3番目あたりで当選を続けた。(3位=7回、4位=3回、2位=1回)社会党の有力者といえど、「中選挙区」で低空飛行して当選していたのである。同じ群馬県選出の田辺誠元委員長も最近死去したばかり。土井元委員長も昨年死去して、旧社会党を覚えている人も少なっていく。
(山口鶴男)
 画家、イラストレーターで、サントリーの「アンクルトリス」のデザインをした柳原良平(8.17没、84歳)。アンクルトリスは、ある時代の人なら大体知っているだろう。サントリーに山口瞳や開高健がいた頃の話である。サントリーも寿屋だった。フランス文学者の出口裕弘(でぐち・ゆうこう 8.2没、86歳)はバタイユなどの翻訳を読んだと思う。渋沢龍彦とは旧制浦和高校時代からの友人で、没後に「渋沢龍彦の手紙」を発表したと言うが、これは読んでないな。同じくフランス文学者の井上輝夫(8.25没、75歳)はボードレールの研究者だが、本人も詩を書いた。歌手の菅原やすのり(8.4没、70歳)は、世界各地で平和を訴えるような活動を続けた歌手。アイヌ語研究者で早稲田大学名誉教授の田村すず子(8.3没、81歳)の訃報も残しておきたい。アイヌ語研究の第一人者だった人。
 一度都知事選に共産党の支持で出た教育評論家、三上満(8.21没、83歳)は、選挙に出た時も「金八先生のモデル」をウリにしていた。だけど、都教組委員長から、全教に初代委員長になった人で、そのことをどう評価するべきかという問題がある。まあ、これだけでは判らない人が多いと思うが、連合結成、日教組分裂をどう考えるべきかと言うことだが、今や戦後労働運動の歴史など、関心も持たれない分野になっているのだろうと思う。

 吉本興行元社長の中邨秀雄(なかむら・ひでお 7.3没、82歳)は知らなかったけど、吉本新喜劇を立ち上げたり、「やんぐおー!おー!」で三枝や仁鶴を売り出した人だという。一月後に訃報が公表された。その吉本新喜劇の花紀京(はなき・きょう 8.5没、78歳)の訃報もあったが、知らないので書けない。芸能界では、奇術師の北見マキ(8.28没、74歳)の訃報もあった。訃報公表が遅れた人では、ジャーナリストでセクハラ問題などを取り上げた宮淑子(4.4没、70歳)の訃報も、8月末になって伝えられた。他に、石牟礼弘(8.20没、89歳)の訃報も出ていた。石牟礼道子の夫と書いてあるだけで、どのような人だったかは判らない。

 僕にとっては、歴史学者の中村正則(8.4没、79歳)の訃報を記しておきたい。近現代史が専門で、「労働者と農民」や「象徴天皇制への道」など一般向けの著作も書いた。農村の民衆史などの研究が多かったけど、その後占領史研究にも乗り出した。「天皇制」への問題意識ということだろう。

 外国では、オリバー・サックス(8.30没、82歳)が亡くなった。精神科医で、映画化された「レナードの朝」を書いた人である。ジョナサン・オリヴィエ(8・9没、38歳)は英国を代表するダンサーだったが、公演最終日にバイクで交通事故を起こした。
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稲作開始は500年早かったー藤尾慎一郎「弥生時代の歴史」を読む

2015年09月01日 00時10分02秒 |  〃 (歴史・地理)
 講談社現代新書で出た藤尾慎一郎弥生時代の歴史」を読んだ。「新理論で描く、新書初の「弥生時代」の通史」と銘打っている。「新理論」とは「稲作開始は500年も早かった」という新説のことである。2003年に歴博(国立歴史民俗博物館)の研究チームが、炭素14年代測定の結果として発表した。その時はビックリしたが、著者はその研究で主導的な役割をになってきた。
 
 「炭素14年代測定」とはどういうものか、本の中で詳しく解説されている。遺物に残された有機物の中から、ごくわずか含まれる放射性炭素の量を求めて、その「半減期」(約5700年)から年代を判定する。だから科学的に確定されるかというと、実はかなり面倒な「較正年代」を求めないといけないことが判ってきた。「炭素年」というものがあり、1950年が基準になるという。それ以後は大気圏内の核実験が数多く行われ、大気中の炭素14濃度が大幅に上がってしまい使えないのだそうだ。

 当初この新説をそのまま受け入れるのはどうなのかと思った。日本では昔から「土器」が時代判定の指標となってきた。弥生時代とは「弥生土器」の時代。「縄文土器」と違う時代というわけである。その上で、実は土器の違いだけでなく、新しい社会の到来だったのだと説明する。「弥生式土器・水田稲作・鉄器の使用」を「3点セット」で教える。それが500年もさかのぼると、中国でもまだ鉄器が普及していない。歴博の研究で古い年代が出たのだから、ある程度は遡るとしてもそこまで古くなるかと思った。今でも世の中では「新理論」は通説にはなっていないと思う。

 でも、著者によれば、「3点セット」は当初の600年はなかったという。今までは「水田稲作は急速に列島各地に広がって行った」と言われていたのだが、500年もさかのぼれば「水田稲作の列島への浸透は非常に穏やかだった」と変わる。いやあ、そう来るか。僕はほとんど納得出来たような気がする。では、どうなるのか。本書の構成は以下の通り。

 第1章 弥生早期前半(前10世紀後半~前9世紀中ごろ)-水田稲作の始まり 
 第2章 弥生早期後半~前期後半(前9世紀後半~前5世紀)
                              -農耕社会の成立と水田稲作の拡散
 第3章 弥生前期末~中期前半(前4世紀~前3世紀)-金属器の登場
 第4章 弥生中期後半~中期末(前2世紀~前1世紀)-文明との接触とくにの成立
 第5章 弥生後期(1世紀~3世紀)-古墳時代への道

 「水田稲作」を受け入れるとはどういうことか、それは一種の社会革命だった。受け入れたら、もう後戻りできないのである。昔は縄文社会が発展的に水田を受け入れたという「単線的」な史観もあった。その後の研究の進展で水田稲作は朝鮮半島南部から受け入れたことがはっきりしてきた。現在では列島に渡ってきた人々の故地はかなり絞られているという。朝鮮半島南部、釜山と金海の間の洛東江(ナクトンガン)下流域である。(いま「朝鮮半島」と書いたが、「朝鮮」は李成桂が開いた王朝名だから当時にはない。日本の方は「列島」と書いているが、国も国境もない時代である。)

 水田稲作は初めから「完成された技術」として列島に移植された。一つの社会システムだったのである。一度始めたら、文化的、精神的な世界も変わらざるを得ない。そして、稲作農耕社会が始まると、実に早くから「階級分化」が始まっていく。「環濠集落」が生まれ、「戦争」が始まる。「戦争と格差社会」という、今もっともホットな問題を歴史的に考える時、ここまで遡って考える必要がある。

 この水田稲作は、北海道・東北北部と沖縄には浸透しなかった。今までは、つい「遅れた」と考えてしまうが、東北北部ではいったん受け入れた水田稲作を放棄していることが判っている。それは地域的にもっと有利な生き方があったからである。縄文文化で共通する列島一帯が、弥生を契機にして「三つの文化圏」に分立する。それは明治初期まで続くわけである。「日本の歴史の中で沖縄をどう理解するか」という重大な問題も弥生から考える問題である。

 古墳時代に最大の古墳が作られ政治上の中心だった大和・河内地方も、鉄器の普及した地帯ではなかった。一番発展した地方が、他の地方を従えて「ヤマト政権」ができるという理解は違う可能性が高い。文化的、位置的な理由から、最先進地ではなかった地方が政治的な中心として選ばれた。そして、「コメ」は鉄器と青銅器を大陸から受け入れる時の「交換物資」だったと想定できる。日本各地でどのように地域差が現れるか、非常に興味深い叙述がいっぱい出てくる。なるほど、こういう理解ができるかと知的興奮を覚えた。細かいことは飛ばして読めばいいので、多くの人のすすめたい本。
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