前回に引き続き、昭和天皇が見た映画を調べてみる。
【1943年前半】
・この年最初に見たのは「体力は国のちから」(1.20)だが、そういう宣伝映画を除くと、2月20日に皇后と「男の花道」を見ている。よほど面白かったのか、22日にもまた見ている。これはマキノ雅弘(当時は正博)監督、小国英雄脚本の娯楽時代劇で、長谷川一夫が主演している。その後もリメイクされたり舞台化された有名な映画だが、1941年12月30日公開で、一年後に見たことになる。今までこのような娯楽映画はなかっただけに、どういう経緯があったのだろうか。
(「男の花道」)
・「陸軍航空戦記」(2.27) ビルマ航空作戦を描く記録映画で、また元の路線。
・その後、しばらくは「工兵魂」「大建設鴨緑江ダム」(3.13)、「放送演奏室」(3.14)、「ジャワの学校」(3.16)、「山西の土地と民」(3.30)などの短編文化映画を見ることが多い。
・「シンガポール総攻撃」(5.8)
・「潜水艦西へ」(5.16) これはドイツが勝っていた時期の戦争映画で日本で公開された。
・「急降下爆撃隊」(5.22) 間に「北洋日記」「海軍戦記」をはさみ、再びドイツ映画。
・「勝利行進曲」(6.17) これは非常に重要な意味がある映画で、中国(重慶政府)が作った宣伝映画である。もとはアメリカでフランク・キャプラが作ったプロパガンダ映画シリーズの第6巻「ザ・バトル・オブ・チャイナ」で、それを中国側で編集して「勝利行進曲」として上映していたと言われる。中国戦線で没収されたフィルムを三笠宮(当時、陸軍軍人として中国にいて、日本軍の残虐行為を憂慮していた)が入手し、日本に持ち帰って昭和天皇に見せたという経緯があった。中国の宣伝映画を通してではあれ、昭和天皇にそのような情報が伝わっていたのである。皇后とともに鑑賞。
・その翌日には、気分直しもあったのか「ナカヨシ行進曲」という子供向け記録映画を皇后と女子4人とともに見ている。(6.18)
(「勝利行進曲」)
【1943年後半】
・「マライの虎」(7.9) マレー半島で「ハリマオ」と呼ばれた日本人、谷豊を描く劇映画。谷は日本人ながらマレーに育ち、暴動で妹を殺されてから、華僑をねらう盗賊団の首領となった。戦争が始まると日本軍の諜報員として活動し、マレー半島攻略に協力するも1942年3月に病死。死後に「ハリマオ」(虎)と呼ばれて伝説化するが、その最初の劇映画。古賀聖人監督。
・「世界に告ぐ」(7.31) これもドイツの劇映画。
・「決戦の大空へ」(9.3) 映画芸術ベストテン5位。渡辺邦男監督、原節子、高田稔主演の有名な戦争映画。同名の主題歌(藤山一郎)もあるが、それ以上に「若鷲の歌」(若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨…)という有名な軍歌が挿入されていた映画である。
・「虎彦竜彦」(9.17) 坪田譲治原作を映画化した子供向け劇映画。佐藤武監督、轟夕起子が母親役をやっている。
・「熱風」(9.25) 映画芸術ベストテン5位。山本薩夫監督が八幡製鉄所の生産増強をテーマにした国策映画。山本監督は戦後になると、独立プロで社会派の名作を多数撮った左翼作家だが、この当時は東宝の監督で、すでに10作以上撮っていた。「熱風」完成直後に召集され、中国戦線で従軍した。
・11月4日に、ドイツ映画「跳躍」、「馬」を皇后と見たとあるが、詳細不明。
・11月20日に、ドイツ映画「帰郷」1941年製作のドイツの宣伝映画。同名映画が無声映画にある。ヨーエ・マイ監督、ベストテン3位。でも、それを見たわけではない。
・「海軍」 映画芸術ベストテン3位。田坂具隆監督。岩田豊雄(獅子文六)原作による、真珠湾攻撃時の潜水艇「九軍神」の一人を描く、「大東亜戦争二周記念映画」。鹿児島や江田島でロケが行われた。
【1944年年】
・「決戦」(2.23) 久板英二郎原作・脚本、吉村公三郎・萩山輝男監督の劇映画。
・「不沈艦轟沈」(3.15) 小国英雄脚本、マキノ雅弘1(正博)監督の劇映画。魚雷部品工場の生産向上を描く。
・「偉大なる王者」(4.22) フリードリヒ大王を描く、ドイツの国策映画。
・「五重塔」(8.6) 幸田露伴の有名な小説の初映画化。五所平之助監督、花柳正太郎主演。
・「日常の戦ひ」(9.1) 石川達三原作、島津保次郎監督の劇映画。
・「肉弾挺身隊」(9.16) 田中重雄監督。ガダルカナル島の戦いを描く劇映画。
・「戦ふ少国民 都会扁・農村扁」(9.20) 記録映画。この題名で何作かシリーズで作られたようである。横浜市の学校で撮影されたものがNHKの番組で紹介されたことがある。
・「陸軍」(12.23) 映画「海軍」に対して、陸軍は火野葦平原作の「陸軍」を戦争開始3周年の映画とした。松竹の国策映画だが、木下恵介監督は必ずしも国策に沿って作っていない。特に田中絹代の母親が召集される息子を追い続ける有名なラストシーンは、「反戦映画」と解する人もいるほどである。木下恵介は1943年の「花咲く港」で監督に昇格し、これが4作目。以後はにらまれて戦争中は映画を撮れなくなったと言われる。昭和天皇は皇后と見ているが、ラストシーンをどう見ただろうか。
(「陸軍」)
【1945年】
・1945年はわずか2本しか記録されていない。3月7日に「陸軍特別攻撃隊」を見ているが、これは題名通りの記録映画。日本映画社の製作で、現在も見られる。ネット上にもある。
・「最後の帰郷」(7.28) 菊池寛原作、田中重雄、吉村廉監督による陸軍特攻隊を描く映画。
以上、昭和天皇が見た映画を劇映画を中心に見て来た。本当は他に実に多くの「文化映画」を見ている。それらの多くはフィルムセンターにも収蔵されておらず、今は判らない映画が多い。だが、劇映画ではないので、題名を見ればある程度判るというものだろう。いわばNHKの教養番組を見るようなものだと思う。あまり大きな意味を考える必要もないだろう。当時はテレビもインターネットもないのだから、映画で見る映像の魅力は今以上に大きい。昭和天皇は「文学方面」は関心が薄いタイプだから、劇映画よりも科学ドキュメントのような映像に魅力を感じたのではないか。
また、ニュース映画が多い。これは天皇に限らず、戦時中の人々は劇映画以上にニュース映画を見たと言われる。今ではニュース映画と言っても判らないだろうが、30年ぐらい前までは、まだ日本映画を掛ける映画館では劇映画の前に10分程度のニュースをやってるところもあった。戦争中は、特に家族や知人が出征中の人にとっては、家族が出てこないとしても見ずにはいられなかっただろう。天皇も、ニュースを見るという意味で情報収集を心掛けていたということだと思う。
もう一つ挙げると、「家族団らんの場」という意味もあったと思う。昭和天皇はそれ以前の後宮制度を排して一夫一婦を実現したが、「子どもと離れて暮らす」という天皇家の伝統は受け入れざるを得なかった。(親子が一緒に住むのは、現在の天皇一家からである。)一番最初が男子であればまだしも、よく知られているように女の子が4人続いた。(一人は夭折。)3人の女子と日常で離れていることは、特に皇后にとって寂しいことだっただろう。だから、マンガ映画会なども企画して、親子で見ている。劇場に出かけることはできないだろうが、こうして映画で親子の接触を保っていたのだろう。
1945年になると映画鑑賞がグッと減る。それは戦局悪化に伴い「映画どころではない」ということでもあろうが、映画製作そのものも減っている。また子どもたちも疎開するなどして、映画会を開く気持ちも薄らいだのかもしれない。もう一つ、2回見ているのも皇后とだけであり、当時の皇弟たちとの関係悪化もあるのかもしれない。特に高松宮とは1944年8月1日の「沈没船引揚の記録」以来、一緒に映画を見ていない。高松宮との微妙な関係は有名なエピソードだが、仮に昭和天皇が退位になった場合を想定すると、幼い皇太子を補佐する摂政には、病気の秩父宮ではなく高松宮が就任するしかないと言われていた。弟と会いたくないという動機も映画が少なった理由かもしれない。
反対に「見ていない映画」を考えてみる。ニュース映画と戦争映画だけでは息が詰まるから、一般庶民向けの喜劇、時代劇も当時いっぱい作られていた。それらは「男の花道」しか見ていない。だから「民情理解」が目的ではない。映画芸術そのものへの関心もなかっただろう。例えば、1943年の日本映画界を席巻した新人監督、黒澤明の「姿三四郎」を見ていない。続編も見ていないし、国策映画の「一番美しく」も見なかった。山本薩夫「熱風」は見ているので、このあたりは偶然なんだろう。
昭和天皇は後に黒澤映画を見る機会はあったのだろうか。それを言えば、小津安二郎「父ありき」も見ていないが、これは何となく理解できる。まだ若くて科学者でもある天皇の関心を呼びそうもない。戦争映画でも阿部豊監督作品は一本もない。「南海の花束」「あの旗を撃て」などである。こういう例を挙げていくとキリがないが、劇映画ではなく文化映画の方が圧倒的に多いわけで、そもそも戦争映画も「戦争理解」という目的で見ていたのだと思う。
ドイツ映画も見ているし、アメリカ映画まで見ているが、特に中国のプロパガンダ映画を見ていたことが実証された意味は大きいのではないか。だが、そのことが戦局に何か影響を与えたというわけでもないだろう。昭和天皇の戦況理解がこれらの国策映画の影響を受けていたかどうかは、何とも言いようがない。「映画は映画」だと思っていたのではないか。情緒的発想をする人ではないように思う。
そもそも、戦争映画というものは、「勝っている時にだけ作られる」という性質がある。負けを直視する映画は、完全に敗戦を迎えた後でなければ作られない。記録映画も同じで、玉砕シーンは撮りようがないし、特攻映画も飛び立つシーンで終わる。(戦後の記録映画では、米側が撮った映像を使って「特攻」シーンも出てくるが。)一番重大な、サイパン陥落後は映画観賞が大きく減るので、影響も受けようがない。そもそも昭和天皇がいつ映画を初めて見て、戦後も見ているのかどうかなども関心があるが、「実録」で把握できるのだろうか。
【1943年前半】
・この年最初に見たのは「体力は国のちから」(1.20)だが、そういう宣伝映画を除くと、2月20日に皇后と「男の花道」を見ている。よほど面白かったのか、22日にもまた見ている。これはマキノ雅弘(当時は正博)監督、小国英雄脚本の娯楽時代劇で、長谷川一夫が主演している。その後もリメイクされたり舞台化された有名な映画だが、1941年12月30日公開で、一年後に見たことになる。今までこのような娯楽映画はなかっただけに、どういう経緯があったのだろうか。
(「男の花道」)
・「陸軍航空戦記」(2.27) ビルマ航空作戦を描く記録映画で、また元の路線。
・その後、しばらくは「工兵魂」「大建設鴨緑江ダム」(3.13)、「放送演奏室」(3.14)、「ジャワの学校」(3.16)、「山西の土地と民」(3.30)などの短編文化映画を見ることが多い。
・「シンガポール総攻撃」(5.8)
・「潜水艦西へ」(5.16) これはドイツが勝っていた時期の戦争映画で日本で公開された。
・「急降下爆撃隊」(5.22) 間に「北洋日記」「海軍戦記」をはさみ、再びドイツ映画。
・「勝利行進曲」(6.17) これは非常に重要な意味がある映画で、中国(重慶政府)が作った宣伝映画である。もとはアメリカでフランク・キャプラが作ったプロパガンダ映画シリーズの第6巻「ザ・バトル・オブ・チャイナ」で、それを中国側で編集して「勝利行進曲」として上映していたと言われる。中国戦線で没収されたフィルムを三笠宮(当時、陸軍軍人として中国にいて、日本軍の残虐行為を憂慮していた)が入手し、日本に持ち帰って昭和天皇に見せたという経緯があった。中国の宣伝映画を通してではあれ、昭和天皇にそのような情報が伝わっていたのである。皇后とともに鑑賞。
・その翌日には、気分直しもあったのか「ナカヨシ行進曲」という子供向け記録映画を皇后と女子4人とともに見ている。(6.18)
(「勝利行進曲」)
【1943年後半】
・「マライの虎」(7.9) マレー半島で「ハリマオ」と呼ばれた日本人、谷豊を描く劇映画。谷は日本人ながらマレーに育ち、暴動で妹を殺されてから、華僑をねらう盗賊団の首領となった。戦争が始まると日本軍の諜報員として活動し、マレー半島攻略に協力するも1942年3月に病死。死後に「ハリマオ」(虎)と呼ばれて伝説化するが、その最初の劇映画。古賀聖人監督。
・「世界に告ぐ」(7.31) これもドイツの劇映画。
・「決戦の大空へ」(9.3) 映画芸術ベストテン5位。渡辺邦男監督、原節子、高田稔主演の有名な戦争映画。同名の主題歌(藤山一郎)もあるが、それ以上に「若鷲の歌」(若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨…)という有名な軍歌が挿入されていた映画である。
・「虎彦竜彦」(9.17) 坪田譲治原作を映画化した子供向け劇映画。佐藤武監督、轟夕起子が母親役をやっている。
・「熱風」(9.25) 映画芸術ベストテン5位。山本薩夫監督が八幡製鉄所の生産増強をテーマにした国策映画。山本監督は戦後になると、独立プロで社会派の名作を多数撮った左翼作家だが、この当時は東宝の監督で、すでに10作以上撮っていた。「熱風」完成直後に召集され、中国戦線で従軍した。
・11月4日に、ドイツ映画「跳躍」、「馬」を皇后と見たとあるが、詳細不明。
・11月20日に、ドイツ映画「帰郷」1941年製作のドイツの宣伝映画。同名映画が無声映画にある。ヨーエ・マイ監督、ベストテン3位。でも、それを見たわけではない。
・「海軍」 映画芸術ベストテン3位。田坂具隆監督。岩田豊雄(獅子文六)原作による、真珠湾攻撃時の潜水艇「九軍神」の一人を描く、「大東亜戦争二周記念映画」。鹿児島や江田島でロケが行われた。
【1944年年】
・「決戦」(2.23) 久板英二郎原作・脚本、吉村公三郎・萩山輝男監督の劇映画。
・「不沈艦轟沈」(3.15) 小国英雄脚本、マキノ雅弘1(正博)監督の劇映画。魚雷部品工場の生産向上を描く。
・「偉大なる王者」(4.22) フリードリヒ大王を描く、ドイツの国策映画。
・「五重塔」(8.6) 幸田露伴の有名な小説の初映画化。五所平之助監督、花柳正太郎主演。
・「日常の戦ひ」(9.1) 石川達三原作、島津保次郎監督の劇映画。
・「肉弾挺身隊」(9.16) 田中重雄監督。ガダルカナル島の戦いを描く劇映画。
・「戦ふ少国民 都会扁・農村扁」(9.20) 記録映画。この題名で何作かシリーズで作られたようである。横浜市の学校で撮影されたものがNHKの番組で紹介されたことがある。
・「陸軍」(12.23) 映画「海軍」に対して、陸軍は火野葦平原作の「陸軍」を戦争開始3周年の映画とした。松竹の国策映画だが、木下恵介監督は必ずしも国策に沿って作っていない。特に田中絹代の母親が召集される息子を追い続ける有名なラストシーンは、「反戦映画」と解する人もいるほどである。木下恵介は1943年の「花咲く港」で監督に昇格し、これが4作目。以後はにらまれて戦争中は映画を撮れなくなったと言われる。昭和天皇は皇后と見ているが、ラストシーンをどう見ただろうか。
(「陸軍」)
【1945年】
・1945年はわずか2本しか記録されていない。3月7日に「陸軍特別攻撃隊」を見ているが、これは題名通りの記録映画。日本映画社の製作で、現在も見られる。ネット上にもある。
・「最後の帰郷」(7.28) 菊池寛原作、田中重雄、吉村廉監督による陸軍特攻隊を描く映画。
以上、昭和天皇が見た映画を劇映画を中心に見て来た。本当は他に実に多くの「文化映画」を見ている。それらの多くはフィルムセンターにも収蔵されておらず、今は判らない映画が多い。だが、劇映画ではないので、題名を見ればある程度判るというものだろう。いわばNHKの教養番組を見るようなものだと思う。あまり大きな意味を考える必要もないだろう。当時はテレビもインターネットもないのだから、映画で見る映像の魅力は今以上に大きい。昭和天皇は「文学方面」は関心が薄いタイプだから、劇映画よりも科学ドキュメントのような映像に魅力を感じたのではないか。
また、ニュース映画が多い。これは天皇に限らず、戦時中の人々は劇映画以上にニュース映画を見たと言われる。今ではニュース映画と言っても判らないだろうが、30年ぐらい前までは、まだ日本映画を掛ける映画館では劇映画の前に10分程度のニュースをやってるところもあった。戦争中は、特に家族や知人が出征中の人にとっては、家族が出てこないとしても見ずにはいられなかっただろう。天皇も、ニュースを見るという意味で情報収集を心掛けていたということだと思う。
もう一つ挙げると、「家族団らんの場」という意味もあったと思う。昭和天皇はそれ以前の後宮制度を排して一夫一婦を実現したが、「子どもと離れて暮らす」という天皇家の伝統は受け入れざるを得なかった。(親子が一緒に住むのは、現在の天皇一家からである。)一番最初が男子であればまだしも、よく知られているように女の子が4人続いた。(一人は夭折。)3人の女子と日常で離れていることは、特に皇后にとって寂しいことだっただろう。だから、マンガ映画会なども企画して、親子で見ている。劇場に出かけることはできないだろうが、こうして映画で親子の接触を保っていたのだろう。
1945年になると映画鑑賞がグッと減る。それは戦局悪化に伴い「映画どころではない」ということでもあろうが、映画製作そのものも減っている。また子どもたちも疎開するなどして、映画会を開く気持ちも薄らいだのかもしれない。もう一つ、2回見ているのも皇后とだけであり、当時の皇弟たちとの関係悪化もあるのかもしれない。特に高松宮とは1944年8月1日の「沈没船引揚の記録」以来、一緒に映画を見ていない。高松宮との微妙な関係は有名なエピソードだが、仮に昭和天皇が退位になった場合を想定すると、幼い皇太子を補佐する摂政には、病気の秩父宮ではなく高松宮が就任するしかないと言われていた。弟と会いたくないという動機も映画が少なった理由かもしれない。
反対に「見ていない映画」を考えてみる。ニュース映画と戦争映画だけでは息が詰まるから、一般庶民向けの喜劇、時代劇も当時いっぱい作られていた。それらは「男の花道」しか見ていない。だから「民情理解」が目的ではない。映画芸術そのものへの関心もなかっただろう。例えば、1943年の日本映画界を席巻した新人監督、黒澤明の「姿三四郎」を見ていない。続編も見ていないし、国策映画の「一番美しく」も見なかった。山本薩夫「熱風」は見ているので、このあたりは偶然なんだろう。
昭和天皇は後に黒澤映画を見る機会はあったのだろうか。それを言えば、小津安二郎「父ありき」も見ていないが、これは何となく理解できる。まだ若くて科学者でもある天皇の関心を呼びそうもない。戦争映画でも阿部豊監督作品は一本もない。「南海の花束」「あの旗を撃て」などである。こういう例を挙げていくとキリがないが、劇映画ではなく文化映画の方が圧倒的に多いわけで、そもそも戦争映画も「戦争理解」という目的で見ていたのだと思う。
ドイツ映画も見ているし、アメリカ映画まで見ているが、特に中国のプロパガンダ映画を見ていたことが実証された意味は大きいのではないか。だが、そのことが戦局に何か影響を与えたというわけでもないだろう。昭和天皇の戦況理解がこれらの国策映画の影響を受けていたかどうかは、何とも言いようがない。「映画は映画」だと思っていたのではないか。情緒的発想をする人ではないように思う。
そもそも、戦争映画というものは、「勝っている時にだけ作られる」という性質がある。負けを直視する映画は、完全に敗戦を迎えた後でなければ作られない。記録映画も同じで、玉砕シーンは撮りようがないし、特攻映画も飛び立つシーンで終わる。(戦後の記録映画では、米側が撮った映像を使って「特攻」シーンも出てくるが。)一番重大な、サイパン陥落後は映画観賞が大きく減るので、影響も受けようがない。そもそも昭和天皇がいつ映画を初めて見て、戦後も見ているのかどうかなども関心があるが、「実録」で把握できるのだろうか。