関東地方の中世史、特に戦国時代史をもっと知る必要があると思って、以前5回にわたって書いたことがある。意識してみると案外関東戦国史の本もあるし、最近は注目も集まっている気がする。今回読んだ西股総生「東国武将たちの戦国史」は河出文庫の2月新刊で、元の本は2015年に刊行された。10章に分かれているが、それぞれは雑誌「歴史群像」に掲載された「よみもの」である。論文ではないが、小説でもなく、人名などが細かいから面倒だと思う人もいるかもしれないが、僕はこの手の本はつい買ってしまってすぐ読んじゃう。簡単に入手できる好著だ。
第一章は「長尾景春と太田道灌」。太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)は江戸城を築いた武将として有名だが、具体的な人間像はほとんど知らないだろう。長尾景春(1543~1514)は名前もよく覚えてないが、この本で見る反乱また反乱の人生はとても面白い。関東地方では15世紀半ばから享徳の乱(1455~1488)が続いていた。足利尊氏の子、基氏に始まる「鎌倉公方」と公方を支える執権上杉氏が争っていた。上杉氏もいくつかの家系に分かれ、山内上杉家と扇谷上杉家が争っていた。非常に複雑なんだけど、扇谷家(おうぎがやつ)家の家宰だったのが太田道灌、山内家の家宰だったのが長尾景春の一族である。
(太田道灌)
景春の父の死後、家宰は叔父が務めることになり、その事に不満を抱いた景春は反乱に踏み切った。一時は主君上杉顕定軍を打ち破り、大いに勢力を伸ばした。これに対して、道灌は戦乱に割って入り、策謀をめぐらし乱を集結させた。しかし、武蔵南部に勢力を広げて主君をしのぐ勢いを示して、主君に暗殺されてしまう。長尾景春は逃げ延びて、敵だった古河公方や勢いを増す北条氏、さらには駿河の今川氏など次々に亡命しながら、時に関東に反乱ののろしを上げた。とても興味深い人生を送った人だ。伊東潤に「叛鬼」という小説があるらしい。
続いて、伊勢宗瑞と北条氏綱、武田信虎、長尾為景が扱われる。信虎は武田信玄の父である。信虎がほぼ甲斐を統一したが、子どもの信玄に追放される。それはかなり有名だが、長尾為景と言われても誰という人が多いだろう。この人は上杉謙信の父である。つまり、この本では誰もが知る信玄、謙信ではなく、父の代の統一戦争が語られるのである。それが非常に興味深く、父の代あってこその武田家、上杉家(長尾家)であることがよく判る。
戦国大名では珍しく、家督争いに明け暮れなかった北条氏は、「最初の戦国大名」であり、かつ「最後の戦国大名」である。北条氏も草創期が語られる。今川氏の客分のようだった伊勢宗瑞が伊豆を乗っ取り、やがて南武蔵に勢力を伸ばす。結局、最後は豊臣秀吉に滅ぼされてしまうから何となく印象が薄くなるが、五代にわたって家督を混乱なく相続させ、文書による統治体制を完成させた。それを家康が受け継ぐので、江戸時代に続く関東地方を実質的に作り上げたと言ってもいい一族だ。関東の政治・軍事状況は複雑で一時は追い詰められたときもあるが、北条氏康(3代目)が「河越夜戦」で勝利して関東制覇に進む。
(北条氏康)
そして後半になると、信玄、謙信相撃つ時代へと入っていく。関東は武田・今川・北条の「三国同盟」を基軸にした時代が長く、長尾為景の子景虎(謙信)は関東の上杉氏を継いで関東に毎年のように「越山」した。しかし、信玄が同盟を破棄して駿河の今川氏を攻撃、一転して上杉・北条が手を結び「越相同盟」を結ぶ。今川氏は大名としては滅ぶが、やがて信玄、謙信ともに亡くなる。信玄は今川氏出身の正妻から生まれた長男と争い、殺害していた。そこで諏訪氏から生まれた勝頼が継いだわけだが、もうそこら辺は有名だから書くまでもないだろう。
(武田勝頼)
著者の西股総生(にしまた・ふさお)氏は多くの城郭を踏査し、軍事史的視点から戦国合戦を鋭く分析すると紹介されている。大学に所属する学者ではなく、フリーライターとして活動している。その軍事的視点が興味深く、太田道灌の戦略分析などに生かされている。だから1575年の「長篠の戦い」の分析も興味深い。細かくは書かないが、武田氏はそこから一気に滅亡したわけではない。武田勝頼はかつては弱将イメージがあったが最近は再評価されている。ここでは「御館の乱」の影響が重視されている。これは謙信死後の跡目争いだが、北条氏康の実子で謙信の養子となっていた上杉景虎と謙信の甥に当たる上杉景勝が争った。
北条家は当然ながら景虎を支援して、勝頼にも支援を要請した。しかし、北信情勢にも影響があるため武田勝頼は景勝の勝利を黙認した。そのことで対北条関係も緊張して、武田家としては西部戦線だけでなく、東部戦線にも力を注がなければならなかった。もし御館の乱で景虎が勝利していたら、北条=上杉同盟が秀吉の統一戦争に立ちふさがっていた可能性が高い。そう考えると、そんなところにも歴史の分かれ目があったのかもしれない。
第一章は「長尾景春と太田道灌」。太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)は江戸城を築いた武将として有名だが、具体的な人間像はほとんど知らないだろう。長尾景春(1543~1514)は名前もよく覚えてないが、この本で見る反乱また反乱の人生はとても面白い。関東地方では15世紀半ばから享徳の乱(1455~1488)が続いていた。足利尊氏の子、基氏に始まる「鎌倉公方」と公方を支える執権上杉氏が争っていた。上杉氏もいくつかの家系に分かれ、山内上杉家と扇谷上杉家が争っていた。非常に複雑なんだけど、扇谷家(おうぎがやつ)家の家宰だったのが太田道灌、山内家の家宰だったのが長尾景春の一族である。
(太田道灌)
景春の父の死後、家宰は叔父が務めることになり、その事に不満を抱いた景春は反乱に踏み切った。一時は主君上杉顕定軍を打ち破り、大いに勢力を伸ばした。これに対して、道灌は戦乱に割って入り、策謀をめぐらし乱を集結させた。しかし、武蔵南部に勢力を広げて主君をしのぐ勢いを示して、主君に暗殺されてしまう。長尾景春は逃げ延びて、敵だった古河公方や勢いを増す北条氏、さらには駿河の今川氏など次々に亡命しながら、時に関東に反乱ののろしを上げた。とても興味深い人生を送った人だ。伊東潤に「叛鬼」という小説があるらしい。
続いて、伊勢宗瑞と北条氏綱、武田信虎、長尾為景が扱われる。信虎は武田信玄の父である。信虎がほぼ甲斐を統一したが、子どもの信玄に追放される。それはかなり有名だが、長尾為景と言われても誰という人が多いだろう。この人は上杉謙信の父である。つまり、この本では誰もが知る信玄、謙信ではなく、父の代の統一戦争が語られるのである。それが非常に興味深く、父の代あってこその武田家、上杉家(長尾家)であることがよく判る。
戦国大名では珍しく、家督争いに明け暮れなかった北条氏は、「最初の戦国大名」であり、かつ「最後の戦国大名」である。北条氏も草創期が語られる。今川氏の客分のようだった伊勢宗瑞が伊豆を乗っ取り、やがて南武蔵に勢力を伸ばす。結局、最後は豊臣秀吉に滅ぼされてしまうから何となく印象が薄くなるが、五代にわたって家督を混乱なく相続させ、文書による統治体制を完成させた。それを家康が受け継ぐので、江戸時代に続く関東地方を実質的に作り上げたと言ってもいい一族だ。関東の政治・軍事状況は複雑で一時は追い詰められたときもあるが、北条氏康(3代目)が「河越夜戦」で勝利して関東制覇に進む。
(北条氏康)
そして後半になると、信玄、謙信相撃つ時代へと入っていく。関東は武田・今川・北条の「三国同盟」を基軸にした時代が長く、長尾為景の子景虎(謙信)は関東の上杉氏を継いで関東に毎年のように「越山」した。しかし、信玄が同盟を破棄して駿河の今川氏を攻撃、一転して上杉・北条が手を結び「越相同盟」を結ぶ。今川氏は大名としては滅ぶが、やがて信玄、謙信ともに亡くなる。信玄は今川氏出身の正妻から生まれた長男と争い、殺害していた。そこで諏訪氏から生まれた勝頼が継いだわけだが、もうそこら辺は有名だから書くまでもないだろう。
(武田勝頼)
著者の西股総生(にしまた・ふさお)氏は多くの城郭を踏査し、軍事史的視点から戦国合戦を鋭く分析すると紹介されている。大学に所属する学者ではなく、フリーライターとして活動している。その軍事的視点が興味深く、太田道灌の戦略分析などに生かされている。だから1575年の「長篠の戦い」の分析も興味深い。細かくは書かないが、武田氏はそこから一気に滅亡したわけではない。武田勝頼はかつては弱将イメージがあったが最近は再評価されている。ここでは「御館の乱」の影響が重視されている。これは謙信死後の跡目争いだが、北条氏康の実子で謙信の養子となっていた上杉景虎と謙信の甥に当たる上杉景勝が争った。
北条家は当然ながら景虎を支援して、勝頼にも支援を要請した。しかし、北信情勢にも影響があるため武田勝頼は景勝の勝利を黙認した。そのことで対北条関係も緊張して、武田家としては西部戦線だけでなく、東部戦線にも力を注がなければならなかった。もし御館の乱で景虎が勝利していたら、北条=上杉同盟が秀吉の統一戦争に立ちふさがっていた可能性が高い。そう考えると、そんなところにも歴史の分かれ目があったのかもしれない。