谷崎潤一郎を読むシリーズ3回目(最後)。谷崎作品の中には、今となってはこれはどうもという小説が結構多い、いつもスルーしておくんだけど、谷崎の場合はその説明も意味があると思うので書いておきたい。まず、伝奇小説系のエンタメ色の強い作品は面白くない。『乱菊物語』『武州公秘話』などが代表。もっともどっちも未完だから、面白くなくても仕方ないかもしれない。一般論として、純文学は生き残るがエンタメ小説は賞味期限が短い。芥川賞の名前となった芥川龍之介は皆が読んでるだろうが、直木賞の由来である直木三十五なんで、読んでないどころか名前も忘れられている。まあ、それはともかく現代の冒険小説、幻想小説、時代小説の水準は非常に高くなっているので、今じゃ谷崎作品レベルじゃ満足出来ないのである。
戦後に書かれた大問題作『鍵・瘋癲老人日記』もあまり面白くなかった。どっちも老人の性を赤裸々に描いて、評判・非難・称賛された小説である。『鍵』(1956)は「異常」な性行動が日記体で書かれていて、国会で問題にされたぐらいだ。どんなエロティックな話なんだと思うと、今じゃ『鍵』で興奮する人なんかいないだろう。56歳の大学教授と45歳の妻がお互いに相手に読まれると知っていて、日記に性行動を書く。さらに、娘と夫の教え子もいて複雑な関係になる。夫婦、親子で心理ゲームを仕掛けあうのが鬱陶しい。『鍵』の夫の日記と『瘋癲老人日記』はカタカナ日記なので、今では読みにくいったらない。
『瘋癲(ふうてん)老人日記』(1962)は谷崎75歳の作品で、77歳の老人の日記という体裁。実娘より嫁(息子の妻)に執着して、嫁の足形の「仏足石」を墓石にして、あの世に行っても嫁に踏まれたいと望む。谷崎の「マゾヒズム」「足フェチ」を究極まで突き詰めた最後の長編小説。小説としてみれば、紛れもない傑作だが、あまりにも変すぎて笑えるぐらい。気色悪いのは否定出来ない。これもモデルがあって、三人目の妻松子の連れ子の妻、渡辺千萬子である。
それより『鍵』も同じだが、主人公は病気持ちなのである。高齢で美食しているから、高血圧で脳血管障害がある。実際に小説中で倒れている。驚くのは救急車を呼ばないのである。調べてみると、救急車自体はもうあったが、全国各地に普及するのはもう少し後らしい。大体各家庭に電話がないんだから(60年代後半まで固定電話もない家が多かった)、呼ぶのも大変。小説の主人公は裕福で電話もあるが、病院に行ってもMRIなんかないから自宅で安静が一番という時代である。東大病院の医師が往診に来るのでビックリ。血圧の上が200を越えたりしているのも、驚き。医療水準の違いこそ、今では読みどころである。
『陰影礼賛・文章読本』は30年代に書かれた有名な評論だが、初めて読んだ。本格的に論じるのは大変なので、ちょっと感じたことだけ。どっちも今でも興味深い論点もあるんだけど、全体的に古びた感じがする。有名な『陰影礼賛』(1933)は人種的観点があるのがマイナス。「白人」の文化が「陰影」を解さないのは「皮膚の色の違い」が原因だみたいな箇所がある。それなら「黒人」はどうなんだという観点が全くない。これは昔の文明論の特徴でもあるが、日本とヨーロッパ(の英仏独など大国)を比べるだけで、「東西文化」を論じちゃうのである。また「トイレ」も取り上げているが、洗浄便座が普及した現在では、昔の「厠」(かわや)の方が奥ゆかしいなんて思う人は誰もいないだろう。都会の夜は明るすぎて星空も見えないけれど、安全には代えがたい。
『文章読本』(1934)はとても良く出来た文章入門編だけど、今じゃ例文が古すぎる。でも『城の崎にて』(志賀直哉)を取り上げて何度も論じているところは勉強になる。なるほど、これが志賀の文章推敲かと実感できた。古典文を引用しているのも貴重。だが可能な限り「新語」を使うべきでなく、「概念」「観念」は「考え」と言えば通じるという(218頁)のは、今では通じない。出ている例文、「彼には国家という観念がない」は「彼には国家という考えがない」と言えるかというと、現代人ならそこに微妙な違いがあることが理解できると思う。「観念」「概念」「理念」などはそれぞれ特別なニュアンスが生じたのである。
『台所太平記』(1962)について最後に簡単に。これはライトノベル的に谷崎家にかつて勤めた「女中」を回想した小説。すごく面白いし、映画化されたのも面白い。だけど時代の違いをこれほど感じる本もない。堂々と「同性愛」嫌悪が語られるし、家意識、家父長意識が随所に出ている。谷崎がいかに転居を繰り返したかが判って興味深い本で、時代相の描写も面白い。しかし、「良き主人」と「良き女中」による「良き家庭」を心底信じていた時代の産物なのである。