尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

岸田新総裁、誰の声を「聞く力」なのか

2021年09月30日 22時40分23秒 | 政治
 2021年9月29日に自由民主党総裁選挙が行われ、岸田文雄氏が新総裁に選出された。この結果は誰もが予想したところだが、4候補の中で第一回投票では河野太郎行革担当相が1位だろうと予想されていた。概ねのマスコミ報道では当日でも大体そう予想していた。ところがたった一票だけだが、第一回から岸田氏が1位だったとは。議員投票だけを見れば、2位に高市早苗氏が入って驚かせた。4位の野田聖子氏も「議員票34票」(地方票と合せて63票)と予想以上に健闘した。これは「河野太郎が議員票3位だったので負けた」のではない。「河野太郎の敗北が確定したので、議員票が逃げた」と読むべきだろう。
(総裁選各候補の得票状況)
 もっとも細かく見てみると、第2回投票で河野の議員票は131票で、1回目から45票増えている。岸田票は1回目から103票増えて、249票である。1回目議員票は、高市114票、野田34票だった。つまり、岸田・高市で「2・3位連合」が出来たと伝えられたが、野田票がすべて河野に回ったと想定しても、11票の高市票は岸田に行かなかった。野田票が全部河野とは考えにくいので、現実には1回目高市、2回目河野はもう少し多かっただろう。もしかすると、1回目投票で岸田ではなく高市を2位にしようと、あえて高市に入れた河野票が実在したのかもしれない。まさかそのために河野票が1回目から2位になるとは考えなかったということになる。

 今回の岸田勝利は僕は(自民党内の論理として)「順当」なものだと思う。「党役員任期」という問題を出して、菅首相を支える二階幹事長を事実上交代に追い込んだ。後を引き受ける人がいなくて追い詰められた菅首相は辞任に追い込まれた。菅体制に「一番槍」を付けたのだから、党内で評価が高まるのも当然だろう。岸田氏は安倍政権で外相、政調会長を歴任したが、菅政権では無役だった。だから菅政権でのコロナ対策に責任を負わない。(与党の一員なんだから、完全に責任なしとは言えないが。)対立候補の河野氏は菅政権で「ワクチン接種担当」をやらされた。菅首相の「説明力不足」が最大問題の時に河野氏が後継では無理がある
(当選直後の岸田総裁)
 10月4日に臨時国会が開かれて、岸田文雄首相が誕生する。100代目と言われるけれど、これは旧憲法どころか、それ以前の内閣制度発足から数えた場合である。日本国憲法の規定に従って、国会で総理大臣の指名を受けた回数で数えるなら、今回が55代目となる。(人数では33人目。)こっちの数で考えるべきだと思う。その前に党役員人事が動き出している。それを見ると岸田政権の実際が見えてくる。岸田氏は「聞く力」を掲げるけれど、国民の声を聞く前に「党内の声」を聞く力を発揮しているようだ。

 特に幹事長に甘利明氏と伝えられている。甘利氏は安倍政権で第一次から第三次まですべて閣僚を務めた人物である。第一次(2006年)には経産相、第二次、第三次(2012~2016)では経済財政担当、TPP担当などを務めていた。ところが2016年1月にUR(都市再生機構)へのあっせん口利き疑惑が週刊文春に報道された。薩摩興行という会社の社長と大臣室で会っていたのは認めていて、政治資金としての報告がない500万円があったのも間違いない。大臣は辞任し、調査して報告すると言ったまま、「睡眠障害」を理由にして国会を欠席し続けた。告発されたが結果的に不起訴になっているものの、未だに約束した調査報告を行っていない。

 幹事長は公職ではないと言うものの、与党の最高幹部である。甘利氏のような人物が就任して良いとは思えない。少なくともまず「調査報告」を先に行うべきだろう。それは組織運動本部長に内定した小渕優子氏にも言えることだ。党三役に高市早苗政調会長福田達夫総務会長という人事案も報道されている。福田達夫氏は「若手代表」なんだろうけれど、若手がなる役ではない総務会長では力をふるえるのだろうか。(福田達夫は福田家三代目だが、政治的資質は小泉進次郎より上だという声が高い自民党有望株には違いない。)また河野太郎広報本部長と言われている。これは左遷だが総選挙を控えて野放しには出来ないのだろう。

 逆に力を落としたのは、菅義偉二階俊博石破茂の三者である。菅首相は安倍、麻生を裏で足を引っ張ったと思っていて、総裁選では河野太郎を支持した。同じ神奈川選出で、コロナ対策の継続性などと言うが、要するに「反岸田」である。その結果大敗して、もはや党内に影響力を失ったと言っていい。中国の胡錦濤前主席みたいな感じか。石破茂は今回立候補せず、河野当選に賭けて敗北した。2008、2012、2018、2020と4回総裁選に立候補したが念願は果たせなかった。派閥のメンバーもどんどん抜けて、もう派閥の体をなしていない。派閥で推薦人を出せないので、総裁候補としては終わった。
(二階俊博氏)
 二階俊博の政治人生はアップダウンが激しく、それはそれで面白い政治家人生だったと思う。小沢一郎側近として自民党を離党、新生党、新進党、自由党と同行したが、自由党が自民と連立した後、2000年に連立を離脱する時に小沢と別れて「保守党」を結成して連立に残った。扇千景、小池百合子、野田毅、加藤六月などが同じグループだった。2003年選挙で惨敗し自民党に復党。小泉郵政民営化路線に総務会長として協力して勢力を伸ばした。

 二階派というのは、志帥会(しすいかい)である。もともと中曽根派で、渡辺美智雄に引き継がれた。山崎拓一派が独立して離脱したので、安倍晋太郎派を離脱していた亀井静香グループと合同して1999年に結成された。その時は参院議員だった村上正邦と亀井で「村上・亀井派」、その後村上が江藤隆美に代わって「江藤・亀井派」、江藤が引退して「亀井派」になったものの、郵政民営化に反対した亀井は離党して伊吹文明が会長になって「伊吹派」。2012年に伊吹が衆院議長になると、派内では傍流の二階が会長となった。亀井離党後は派内に総裁候補を持たない集団になっているが、「キングメーカー」二階の拡大路線で人数だけは膨れ上がっている。しかし、今後は離脱、分裂もあり得るのではないか。
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中公新書「荘園」(伊藤俊一著)を読む

2021年09月29日 22時35分57秒 |  〃 (歴史・地理)
 毎月多くの歴史関係の新書が出る。近現代史の本も多いけど、最近は面倒になっている。むしろ日本の戦国や古代史なんかの方をよく買ってしまう。中公新書新刊で伊藤俊一荘園」が出たので、これを読んでみた。伊藤氏は名城大学人間学部教授。「荘園」(しょうえん)というのは「私有の農園」のことだが、日本史屈指の難解用語だ。政治史に比べて、経済史、社会制度史は判りにくい。政治は「○○の乱」とか「○○の政変」で決着が付く。今なら選挙である。だからいつ変わったかがはっきり判るのに対し、大昔の土地制度はいつのまにか段々変わっていく。現代とは全く仕組みが違っていて、それも理解が難しい要因だ。

 この本は「荘園全史」というべき本で、荘園の発生から消滅までの数百年(奈良時代から戦国時代)の土地制度をじっくり追っていく。特徴として近年発達した古気候学の成果を取り込んで、過去の気温の移り変わりを検討してることが挙げられる。その結果、記録にある大飢饉などは冷夏や大雨、干ばつ、火山噴火などが背景にあることが判る。災害が多いので耕地(水田や畠)は開墾してもすぐなくなってしまう。そこで開発へのインセンティヴとして「荘園」は有効だったのである。詳しく書いてもすぐ忘れてしまうから、できるだけ簡単に。

 この本は相当に判りやすく書かれているが、それでもやっぱり難しい。歴史教員だった自分でもそう思うんだから、一般向けにはなかなか大変だ。でも「荘園」はその後の日本に大きな影響を及ぼしている。農村部に行けば今も中世の荘園の名残が風景に刻印されている地域も多い。地名にも荘園関係のものが多く、例えば大分の「別府温泉」はその代表。詳しくは書かないけれど、「別名」(べつみょう)という制度が作られたことによるのである。

 日本の「荘園」に似た土地制度はヨーロッパや中国にもあった。だから昔はヨーロッパ史を日本に当てはめて、荘園の農民を「農奴」と理解する向きもあった。だが日本では移動の自由があり(自由がない「下人」もいたけれど)、耕地もすぐ荒廃するからどんどん移っている。律令制では本来は「公地公民」だから、公権力が「口分田」を人民に支給して耕作させるのが原則である。しかし、そんな理想はやはりうまく行かないから、朝廷でも「三世一身法」「墾田永年私財法」を出して開発を奨励した。社会主義の「国営農場」(ソ連のソフホーズや中国の人民公社)はうまく行かず、個人経営を認めざるを得なくなったのに似ている。

 歴史の教員は律令制から教えるから、つい「荘園は律令制からの逸脱」と思いやすい。そして鎌倉幕府が出来ると「地頭」を荘園に送り込むから、「武士の成長により古代勢力が浸蝕される」と考えてしまう。昔は地方の開発領主が摂関家に荘園を寄進して「不輸不入の権」を獲得したのが「荘園の成立」だと教科書に出ていた。しかし、荘園の画期は摂関家ではなく、「院政」だった。大規模な「ハコ物行政」を進める独裁者・白河法皇が必要経費を捻出するために「領域型荘園」を大々的に認めていったことこそ、真に重大な画期だった。

 「荘園」は私有農園だが、勝手には作れない。公権力の認可が必要だ。本来は天皇が日本全土を支配している建前だから、荘園なんてない方が国家財政にはいいように思う。しかし、貴族社会では「家」が確立され「家業」が固定化されていった。天皇家でも「天皇という地位」よりも「天皇家の家長」が重大な意味を持つようになる(院政)。そこで「院」が日本最大の荘園領主になるという事態が生じたわけである。そして「荘園」には実際に農園を経営する開発領主(荘官)と、その荘園に支配権を持つ貴族・寺社(領家)と最上位にあって荘園を認可する院・摂関家(本家)の三層構造が存在した。この重層的な職務のあり方を「職(しき)の体系」と呼んでいる。

 源頼朝は東国に支配権を確立した後、自分に従う有力武士(御家人)を「地頭」として荘園に送り込んだ。これは本来あってはならない越権行為である。国家に公認されて存在する荘園に中に、実力で任命権を行使したわけである。そして詳しくは書かないけれど、鎌倉時代を通じて「地頭請」「下地中分」が進んだ。これを昔は僕も「荘園制の浸蝕」と思ったんだけど、そうじゃなくて「荘園制度」の存在を前提にしているのである。

 それが完全に崩れるのが南北朝以後である。そもそも後醍醐天皇の新政で「御家人」がなくなってしまった。幕府がないわけだから当然御家人もないわけだが、これでは幕府という重しがなくなれば実力の世の中である。またそれまでは「散村」が多かったのに対し、室町期には集合して住む村が多くなり「惣村」と呼ばれる村のまとまりが出来る。また宋銭の流入で貨幣経済が浸透していった。大昔は年貢を自ら京都へ運んだものが、やがて流通業者が現れてくる。そして「荘園」は有名無実化していった。
(紀伊国桛田(かせだ)荘絵図)
 この本では荘園の崩壊を「応仁の乱」に求めている。確かにそれは重大だが、僕はやはり法制度上の最終的な画期は「太閤検地」でいいんじゃないかと思う。「職(しき)の一円化」という事態が進行して、それまでの「三層構造」がなくなるのが「荘園の崩壊」である。その後も王家・貴族・寺社は武家政権に認められた(寄進された)領地を所有するが、年貢はほぼ「村請」で納められた。村には荘官も地頭もいないのである。

 今の生産活動の中心は「株式会社」である。「不輸・不入の権」などは持ってなくて、国家権力の下にある。しかし、政治献金などを通し政界に影響を持っている。国家には法人税や固定資産税を払うし、地方税もある。従業員の厚生年金の負担もある。会社の所有者である株主には配当があり、株は売買自由だから利潤が海外の投資ファンドに回ることも多い。そんなことは現代人には常識だが、この重層的な権益体系は仕組みが大きく変わったら理解不能だろう。「荘園制度」もその時代を生きる人には常識だったことが、今となっては理解が難しいのである。
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「スイング・ステート」、アメリカの田舎の選挙映画

2021年09月28日 21時00分18秒 |  〃  (新作外国映画)
 「スイング・ステート」(Irresistible)という映画を見に行った。自分で字幕のある外国映画が好きと書いて以来、何となく外国映画に行ってしまう。日本映画(映画に限らず)は身近であることから、気になるけど重いこともある。夏が暑くて9月は長雨で少し疲れたなと感じる。気軽に見られる映画ということで。まあ気軽と言ってもアメリカの選挙の話だが、コメディ仕立てなので楽しめる。

 「スイング・ステート」というのは、大統領選で民主、共和両党の支持が時々入れ替わるような州のことである。大体支持者が固定しているような州が多く、大統領選の結果はいくつかの「スイング・ステート」が握っている。中西部のウィスコンシン州はそんな州の一つだ。とある小さな町、基地が撤退して町は寂れている。経費削減のため移民に厳しい対策を取ろうとしているが、町議会の採決時に男が乗り込んできて、それは正義に反するとぶち上げる。その演説の映像がYouTubeにアップされて話題となった。

 それを見て民主党の選挙参謀を務めてきたゲイリー・ジマースティーブ・カレル)はこれだと思う。演説男ジャック・ヘイスティングスクリス・クーパー)は元海兵隊員で今は農場を経営している。そんな人物を引き込んでこそ民主党に未来がある。さっそくウィスコンシンに乗り込んで、ジャックに次の町長選に立候補しないかと誘う。一晩考えて、ゲイリーが選挙を仕切ってくれるなら出てもいいと言う。
(演説するジャック)
 ということで誰も名前も知らない小さな町の町長選で、ゲイリーは最新のプロ選挙運動を始める。民主党が勝ったことなんかずいぶん昔になる町だから、当初は全然歯が立たない。しかし、そのうち世論調査で追い上げてくると、なんと共和党も選挙のプロ、フェイス・ブリュースターローズ・バーン)を送り込んできたではないか。小さな町の選挙が全米ニュースになってしまったのである。

 泊まる宿も無い町のこと、バーの2階にゲイリーもフェイスも泊まりながら、選挙は過熱していく。ゲイリーは資金がないと勝てないと助言して、二人はニューヨークへ行って富豪のパーティに出る。一方、町ではジャックの娘ダイアナマッケンジー・デイヴィス)を中心に運動が進んでいく。町の人々も点描され、アメリカの田舎町の閉鎖的な、あるいは親密な関係性が見えてくる。
(ゲイリーとフェイス)
 監督・脚本のジョン・スチュワートはアメリカではテレビ司会者、コメディアンとして有名な人物らしい。アカデミー賞やグラミー賞の司会もやっている。映画監督としては長編2作目だという。最後にあっと驚くオチがあって、風刺が効いている。ブッシュ(ジュニア)政権の副大統領だったチェイニーを描いた「バイス」という映画を作ったPLAN Bが製作した。ものすごい傑作というわけでもないけれど、「選挙エンターテインメント映画」が存在するアメリカが面白いと思う。

 戦前のフランク・キャプラの大傑作「スミス都へ行く」、1972年製作の「候補者ビル・マッケイ」などは名作だったが、他にも幾つかある。政治家をモデルにした映画なら他にもいっぱいある。日本でも皆無ではないが(ジェームズ三木「善人の条件」など)、選挙をエンタメに出来る社会でありたいと思う。自由に立候補も出来ない国では、映画の題材にも出来ないだろう。
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映画「アナザーラウンド」、アルコールと人生

2021年09月27日 20時58分18秒 |  〃  (新作外国映画)
 「素晴らしき、きのこの世界」というドキュメンタリー映画を見たんだけど、これはトンデモ映画だったな。うちにきのこマニアがいるから一緒に見に行ったんだけど残念だった。ということで、今年のアカデミー国際長編映画賞を受賞した「アナザーラウンド」について書いておくことにしたい。「アイダよ、何処へ?」の前に見ていて、なかなか面白い映画ながら疑問も多く書くかどうか迷っていた。

 デンマークトマス・ヴィンダーベア監督、マッツ・ミケルセン主演の映画で、ヨーロッパ映画賞の作品、監督、脚本、男優賞を受賞しているし、アカデミー賞では監督賞にもノミネートされた。どうも欧米の評価が非常に高いんだけど、技術的には確かに優れた映画だと思うが、内容はどうなんだろうか。トマス・ヴィンダーベア監督は2012年の「偽りなき者」が同じくマッツ・ミケルセン主演の怖い映画だった。北欧デンマークの寒い感じが映像にもにじみ出ている共通点がある。

 映画は簡単に言えば「アルコールと人生に関する考察」である。高校の歴史教師マーティンマッツ・ミケルセン)は妻との関係もギクシャクし、授業へのやる気も失せている。ある日学校へ行ったら、校長から親が来ているといわれる。教室へ顔を出すと保護者多数が詰めかけていて、大学へ行くのに授業が心配だと言われてしまう。同じ学校の仲良し教師4人組がいるが、同じく中年疲れが全身に現れている感じ。そんな時に中の一人が言い出す。あるノルウェーの哲学者が「人間の血中濃度を常に0.05%に保つのが理想である」と言ってるんだとか。よし、じゃあその仮説を実証してみようじゃないか。
(4人組の教師)
 学校にひそかにお酒を持ち込み、皆で飲んで測って授業に臨む。そうしたら、なんと授業が絶好調じゃないか。生徒は乗ってくるし、自分もやる気が戻ってきたみたいだ。夜勤続きで話もしなくなってる妻とは、久しぶりに子どもたちと旅行に行こうじゃないかと誘ってみる。何もかも好転し始めると、今度はもう少し血中アルコール濃度を上げてみようかとなる。やがて明らかに学校でも酩酊状態の人も出てきて。世の中はうまく行くことばかりではないのだ。そして悲劇も起こって、卒業の日を迎えることになる。
(妻と旅に出る)
 話の進行も面白いし、撮影も素晴らしい。冒頭で若者たちが飲んでいるから大学生かと思うと、デンマークでは16歳から飲めるんだと最後に字幕が出る。だから高校の話だった。大学進学も高校時代の成績で決まるらしい。そういう日本との違いも興味深い。だけど、そんなことを言った哲学者はホントにいるの? 調べたらフィン・スコルドゥールという名前が出て来たが、どんな人かは判らない。しかし、日本の酒気帯び運転の基準は「1ml中に0.3mg」で、つまり「0.03%」だという。映画ではそのまま運転してるけど、まずいでしょ。

 近年日本では教師の処分基準が厳しくなっているから、授業前に飲酒していることが発覚したら人生を失うのではないか。それぐらいなら、つまらない先生と言われているぐらい我慢である。というか、これは「ミドルエイジ・クライシス」、つまり中年の危機を扱っているわけだが、人生はままならないもので血中アルコール濃度でどうこうなるものじゃない。そりゃあ、酒は百薬の長というが、仕事中に飲んで良いものではないだろう。

 そんな気がしてしまうから、映画の設定にあまり乗れないのである。もっとも冴えない教師たちが俄然やる気が出る辺りは面白い。それを飲まずにやらないといけないわけである。学校の違いなども興味深かった。最後の卒業式が終われば、もう教師も生徒も関係ない無礼講である。何しろ法律で飲酒が許されている年齢なんだから。そんな国があるのかよという感じ。でもアルコールでは結局は何も解決しないのだ。そんなこと今さら言われなくても判っているけどと思ってしまった。
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超傑作「ヨルガオ殺人事件」(アンソニー・ホロヴィッツ)

2021年09月26日 21時17分23秒 | 〃 (ミステリー)
 アンソニー・ホロヴィッツの新作「ヨルガオ殺人事件」(MOONFLOWER MERDERS、2020)が刊行されたので、早速読まないと。(創元推理文庫上下、山田欄訳)ホロヴィッツのミステリーを紹介するのも、4作目となる。「カササギ殺人事件」の登場に驚き、「メインテーマは殺人」でさらに驚き、「その裁きは死」も面白かった。かくして日本のいくつかのミステリーベストテンで3年連続ベストワンを記録中だ。ところが今回の「ヨルガオ殺人事件」はこれまでの3作にもまして素晴らしい作品だったのだから驚くほかない。
(上巻)
 「メインテーマは殺人」「その裁きは死」は、作者本人が作品に登場する趣向のホーソーン&ホロヴィッツ シリーズである。新しい事件が発生すれば新作が出来るわけである。しかし、今回の「ヨルガオ殺人事件」は「カササギ殺人事件」の方の続編である。「カササギ殺人事件」というのは、作家と作品が二重に入れ子構造になった複雑な作品だった。名探偵アティカス・ピュントが活躍する21世紀のアガサ・クリスティみたいなシリーズがあった。その9作目が「カササギ殺人事件」なのだが、作者のアラン・コンウェイが謎の死をとげたうえ、結末の原稿が紛失してしまった。その謎を編集者スーザン・ライランドが追っていくのである。

 その続編って一体どんなものなのか。もちろんアティカス・ピュントのシリーズは以前に8作品あるとされている。それを書くことは出来るだろうが、1作目のあの複雑な二重の面白さは再現できるのだろうか。そんなことは不可能だろうと思うのだが、作者は軽々と難条件をクリアーしてしまった。驚くしかない。そして、これはスーザン・ライランド&アティカス・ピュントシリーズだったのである。スーザンは前作の最後で作品内の謎を完全に解明したが、同時に恐ろしい目にあって出版社も破産した。そして2年、スーザンは当時付き合っていたギリシャ人の恋人アンドレアスと一緒にクレタ島で小さなホテルを経営している。

 ホテルは期待したようにはうまく行かず、経済的にも大変だし突然出版界から離れてしまった喪失感もある。日々の仕事に追いまくられて、アンドレアスとの関係も微妙に…。そんな時に突然イングランドでホテルを経営しているトレハーン夫妻がスーザンを訪ねてくる。実はホテルで働いている娘のセシリーが失踪してしまい、それにアラン・コンウェイの作品が関わっているらしいというのである。アティカス・ピュントシリーズの第3作「愚行の代償」を書く前に、アランは夫妻のホテル「ブランロウ・ホール」のヨルガオ館に滞在していた。
(下巻)
 ホテルでは8年前にセシリーの結婚式当日に恐るべき殺人が起こっていた。もちろん「愚行の代償」はその事件を直接扱っているわけではない。だがアランはホテルの人物をモデルとして作品に登場させているらしい。8年前の事件はホテルで働いていたルーマニア人青年が逮捕され有罪となっていた。しかし、セシリーは8年経って初めて「愚行の代償」を読んだところ、真犯人は別人物だと判ったという謎めいた電話を残したまま、次の日に犬の散歩から帰らなかった。アラン・コンウェイは死んでいるが、作品について一番詳しいのはスーザンだと聞いて飛んできた、是非調査して欲しい、報酬もはずむからと言うのである。

 こうしてスーザンはうかうかとロンドンに戻り、さらにデヴォン州に赴いて敵意ある多くの人物から真相を探り始めるが…。セシリーの夫エイデン・マクニール、妹と仲が悪かった姉のリサ、殺された宿泊客フランク・バリスの妹夫婦などに話を聞くが、一向に真相は見えてこない。アラン・コンウェイはゲイを公表して、財産は一緒に住んでいたジェイムズ・テイラーに遺された。久しぶりにジェイムズに会ってアランの調査資料を借りると、当時のインタビューなどが見つかる。また当時ホテルのジムでトレーナーをしていたライオネル・コービーに会って、ホテルの意外な裏事情を聞かされる。

 そして、いよいよ「愚行の代償」を再読するに至るが…。これが実によく出来たミステリーで面白いのだが、当然ながらフランク・バリス殺人事件の真相は書かれていない。セシリーは一体何に気付いたというのだろうか。作品内の「愚行の代償」は1953年にイングランド東部サフォーク州で起こった事件を描いている。ハリウッドで成功した女優メリッサ・ジェイムズは村の屋敷を買って住みながら、ホテルを経営している。メリッサが殺されてアティカス・ピュントに調査依頼が来るのだが…。その中に「ルーデンドルフ・ダイヤモンド事件」という盗難事件の解決編が挿入されている。これがまた超絶的な怪事件で、ピュントの推理も冴え渡る。

 「愚行の代償」は前作にも負けていない、それだけで大傑作である。登場人物の証言が合わさりながら、特に主筋に関係しない「ミスリードのための伏線」も完璧に回収されるのには驚くしかない。それはインターネットなき時代の古典的なミステリーの再現として完璧の域に達している。一方、現代世界の出来事とされる本筋の方は、インターネットを駆使しながら情報を収集する。しかし、「愚行の代償」を読んでも一向に真相が読み解けないんだけど、と思うときに危機発生。アンドレアスもここぞと言うときに登場し(それは読者が容易に予想できる)、また犯人とされたステファンに面会に行って…。

 真相を書けない以上、いくら書いても仕方ないのでもう止めるけれど、「ヨルガオ殺人事件」はものすごい傑作である。「謎解き」「犯人あて」などというレベルで済ませてはいけない。作者がいかに人間通であるか、その奥深さに驚くのである。人間には裏があり、秘密を持つものである。それを暴くのがミステリーだが、すべてが殺人をもたらすわけではない。「印象論」や「陰謀論」では解決しない真の「論理性」が求められる。架空の殺人事件の犯人が誰であっても、我々の実人生には関わらない。しかし、それが「論理性の勝利」であるからこそ、読書の醍醐味を感じるのである。
(ヨルガオ)(朝顔、昼顔、夕顔、夜顔)
 ヨルガオはなじみが薄い花だが、熱帯産のヒルガオ科の一年草。作中のホテルに「ヨルガオ館」がある設定。アサガオ、ヒルガオ、ヨルガオはヒルガオ科。ユウガオもあるが、これはウリ科でカンピョウの原料である。夕顔は源氏物語だし、昼顔はケッセル原作をブニュエル監督、カトリーヌ・ドヌーブ主演で映画化された作品が思い浮かぶ。イギリスでヨルガオが観賞植物として人気なんだろうか。題名の由来は読んでも判らない。
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映画「アイダよ、何処へ?」、スレブレニツァ虐殺事件に挑む力作

2021年09月25日 22時36分51秒 |  〃  (新作外国映画)
 2021年米アカデミー賞長編国際映画賞にノミネートされた「アイダよ、何処へ?」(Quo Vadis, Aida?)が公開された。ボスニア・ヘルツェゴビナの女性監督ヤスミラ・ジュバニッチが、1995年に起こったスレブレニツァの虐殺事件に真っ正面から挑戦した力作だ。臨場感にあふれていて、見ていて心が苦しくなる。90年代のボスニア内戦のことはよく知らない、覚えてないという人が日本では多いんだろうと思う。でも世界に大きな衝撃を与えた出来事で、それ以後に与えた影響が多い。知らない人にこそ是非見て欲しい映画だ。

 映画の内容を書く前に、ボスニア戦争の解説を先に。バルカン半島西南部のスラブ系諸民族が連合した「ユーゴスラビア」という国がかつてあった。第二次大戦時にドイツに占領されたが、チトーを中心にしたパルチザンが自力で解放した。戦後に社会主義連邦となりソ連から離れた独自の「自主管理社会主義」を唱えたが、1980年にチトーが亡くなり、90年に一党独裁が崩れると民族対立が激しくなる。「スロベニアクロアチアが独立を宣言すると、ボスニア・ヘルツェゴビナでも独立の動きが始まった。(結局「6つの共和国」の連邦は完全に崩壊して、7つの国家に分解した。他にセルビア、モンテネグロ、北マケドニア、コソヴォである。)

 この地域はオスマン帝国とハプスブルク帝国の境界で、正教のセルビア人、カトリックのクロアチア人の他、オスマン帝国治下にイスラム教に改宗したボシュニャク人(昔はモスレム人と呼んだ)が混住していた。(民族は分かれているが、言語は共通。)独立するとボシュニャク人が多数派になるため、セルビア人勢力は独立を問う国民投票をボイコットした。1992年の独立宣言後に、セルビア人地区はスルプスカ共和国の分離独立を宣言した。クロアチア人地区も含めて、民族間の陣取り合戦のような戦争が発生し、民族浄化強制収容強制追放レイプ虐殺等が頻発して世界に衝撃を与えた。1995年10月に停戦協定(デモイン合意)が結ばれるまで戦争が続いた。
 (ボスニアとその周辺)
 ボスニアの首都サラエヴォは1984年に冬季五輪を開催した都市だった。監督のヤスミラ・ジュバニッチ(1974~)はサラエヴォ生まれで戦争の最中に青春を送った。戦争の傷を見つめる「サラエボの花」(2006、ベルリン映画祭金熊賞)、「サラエボ、希望の街角」(2010)で評価され、どちらも岩波ホールで公開された。

 今回の「アイダよ、何処へ?」はボスニアだけでは製作費がまかなえず、オーストリア、ドイツ、フランス、オランダなど合計9ヶ国の合作で製作された。1995年7月5日に起こった東部の都市スレブレニツァの大虐殺事件を描く問題作である。主人公のアイダはもとは教師をしていたが、国連平和維持軍として駐屯しているオランダ軍の通訳(英語)として活動している。現実を背景にしながら人物は創作だと言うが、この国連軍通訳を主人公にしたことで、セルビア人勢力やオランダ軍の内情を自然に描くことに成功した。
(通訳として活動するアイダ)
 以上のような背景事情を知らなくても、この映画のド迫力の緊迫感は伝わると思う。国連はスレブレニツァを「安全地帯」に指定したものの、「スルプスカ共和国軍」は進撃を止めなかった。国連平和維持軍としてオランダ軍が配備されていたが、400人ほどで装備も不足し補給も途絶えていた。世界中で今まで数多くの残虐な事件が起こったが、この虐殺は現地に国連軍がいたのだから本来防げなければおかしい。それが実際には強硬な武装勢力が要求すれば、ズルズルと妥協してしまう様子が生々しく描かれている。その責任がどこにあったか、オランダでは大問題となり最終的に政府が責任を認めた。

 セルビア勢力が攻めてくると、人々は国連軍基地に逃げ込もうとする。受け入れに限界があるから軍はゲートを閉めてしまう。アイダは何とか家族だけでも救いたい。セルビア勢力が現地の代表を出せと言うから、高校の校長をしている夫を代表に選んでしまい、無理やり夫と2人の子どもを基地に入れることに成功する。その後も何とか国連軍の仕事をしていることにして救出して欲しいと頼むが、国連軍側は一部だけ優遇できないと断る。通訳をしながら家族救出こそ一大事である。一体どうなるのか、一時も気を緩められない。
(セルビア人武装組織のムラディッチ)
 そこに進軍してくるセルビア人勢力のムラディッチ将軍。半端ない存在感で強烈なインパクトである。女と子どもは避難を認めるが、男だけは別にする。日本軍侵攻時の南京などと同じく、軍人は男の中に敵対した軍人が潜んでいると思っている。この恐ろしさは言葉では伝えられない。結局スレブレニツァでは8737人の犠牲者が出たとされる。ヨーロッパで戦後に起きた最悪の事件である。1993年に旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷がオランダのハーグに設置され、ムラディッチも起訴された。しかし、ムラディッチは逃走を続け長く行方がつかめなかった。ようやく2011年になって逮捕され、その後無期懲役が確定した。

 ところで驚くべきことに監督はキャスティングを民族で制限しなかった。アイダ役のヤスナ・ジュリチッチはセルビアで活躍する女優で、ムラディッチ役のボリス・イサコヴィッチもセルビア人。それどころか2人は夫婦だと言うから、全く驚いてしまう。2人とも映画出演に関してセルビアで非難されているという。「自国をおとしめる」などと攻撃する輩がいるのは日本や中国だけではないのである。原題のQuo Vadisとは、有名なシェンキェヴィッチ(ポーランドのノーベル文学賞受賞作家)の小説だが、本来はラテン語で「どこに行くのか?」の意味。ヨハネ福音書の言葉である。心揺さぶられる問題作だ。
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ケニア、ジャマイカ、信号機ードイツ次期首相は誰になるか

2021年09月24日 21時15分05秒 |  〃  (国際問題)
 日本のニュースでは自民党総裁選挙の話ばかりである。高市早苗氏は総務相時代に「放送局が"政治的に公平であること"と定めた放送法第4条第1項に違反した放送が行われた場合」には停波を命じる可能性を否定しないと言ったはずだけど。総選挙の直前に自民党総裁選ばかり取り上げるのはおかしいと言うべきでは…。

 まあ、それはジョークだが、その裏で多くのニュースが埋もれている。国際ニュースでは26日に迫っている「ドイツ総選挙」のニュースがすっかり霞んでいる。自民党で誰がトップになるかよりも、ドイツの選挙は国際的にはずっと重要である。何しろ2005年から首相を務めているアンゲラ・メルケルの後継を決めるのである。西ドイツ時代から数えた「ドイツ連邦共和国」としては9人目、ドイツ統一(1990年)後では4人目となる。日本と違って1人が長いから、ちょっと国際ニュースに詳しい人なら戦後の米国大統領とドイツ首相は全員言える。

 さてタイトルの「ケニア、ジャマイカ、信号機」だが、すぐに意味を判った人は国際通だ。これはドイツの連立政権の枠組のことである。ドイツでは政党のシンボルカラーが決まっていて、その組み合わせに通称がある。キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)=黒、社会民主党(SPD)=赤、同盟90/緑の党=緑、自由民主党(FDP)=黄である。他に最左派の「左派党」=赤、極右の「ドイツのための選択肢」(AfD)=青があるが、基本的には連立の対象外である。特に「ドイツのための選択肢」とは各党が組まないと表明している。
 
 信号機は「赤黄緑」だから、SPD、FDP、緑の党の連立を指す。じゃあ、「ケニア」と「ジャマイカ」は? とっさに聞かれて両国の国旗を思い浮かべられる人は少ないだろう。画像は下に載せておくが、ジャマイカ国旗は黒、緑、黄になっている。だから「ジャマイカ連立」というのは、CDU・CSU、緑の党、FDP連立のこと。ケニア国旗は複雑だが、黒、赤、緑が三層になっているから、「ケニア連立」とはCDU・CSU、SPD、緑の党連立である。面倒くさくて申し訳ないが、まあドイツでは実際にそう言われているのである。
(ジャマイカ国旗)(ケニア国旗)
 戦後のドイツでは単独過半数を獲得した政党は一つもない。だからすべて連立政権。キリスト教民主同盟(CDU)は日本で言えば自民党に当たる保守政党で、バイエルン州だけはキリスト教社会同盟(CSU)と名乗っている。両者は必ず同盟して選挙に臨むことになっている。1966年まではCDU・CSUと自由民主党(FDP)が連立していた。その後、CDU・CSUとSPD(社民党)の「大連立」をはさんで、SPDとFDPが連立してブラント政権が成立した。ブラント退陣後のシュミット政権も同じだが、1982年にCDU・CSUがFDPと連立してコール政権が誕生した。ここまではFDPが付く方が政権に付いていた。

 ドイツの選挙は「小選挙区比例代表併用制」というやり方である。その内容に関しては「並立制と併用制」(2017.11.8)で詳しく書いたから参照。これは基本的には比例代表制なので、どこも過半数が取れないのである。さらに戦前にナチスが勃興した反省から「5%条項」があって、得票率が5%を下回った政党には議席が与えられない。(ただし、小選挙区で当選した場合は有効。)2013年にはFDPが下回って議席が取れなかった。緑の党や「ドイツのための選択肢」も最初は議席を取れなかった。今回は予想では先に挙げた6党は5%を越えそうだが、左派党が少し低調なので厳しい可能性もある。

 今回は最近になくSPDの支持率が高い。それは首相候補に挙げられているSPDのオーラフ・ショルツ財務相に支持が集まっているからである。前回選挙後には連立枠組がなかなか決まらず、結局「大連立」に落ち着いた。ハンブルク市長だったショルツ氏は、2018年に副首相・財務相となった。CDU・CSUは首相候補がなかなか決まらず、結局ノルトライン=ヴェストファーレン州首相を務めているアルミン・ラシェット氏が選ばれた。しかし大洪水の視察時に談笑していて批判された。緑の党のアンナレーナ・ベーアボック共同代表が一番人気だった時もあったが、最近ではいろいろな「疑惑」が取り沙汰されて人気が急落している。
(ショルツ財務相)(ラシェット党首)
 小党の党首が首相になるのは大変なので、結局はショルツかラシェットを中止に連立協議が進むだろう。ショルツの人気が高くなって、左派党から少し支持が戻っているのだと思う。しかし、久しぶりのSPD首相を避けたいと思ってか、主要2党の支持率が拮抗してきたというニュースもある。獲得議席が多かった方が首相になると思われるが、連立協議は難航すると思う。SPDが第一党になった場合、「大連立」か「信号機連立」でショルツ首相の可能性が高いと思うが、場合によっては決着まで何ヶ月かかかるのではないか。いずれにせよ、メルケル首相ほどの存在感を示すのは難しいと思う。
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銀婚湯温泉ー日本の温泉⑨

2021年09月23日 20時58分51秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 日本の温泉シリーズは今まで、どちらかと言えばテーマ別に書いていたと思う。「十勝平野のモール泉」とか「温泉のあるクラシックホテル」とか。それも毎回では大変なので、今回からしばらく日本の各地の素晴らしい温泉宿を紹介していくことにしたい。それもあまり人が知らない、団体旅行では行かないような温泉を中心にしたい。だから「超有名秘湯」(鶴の湯温泉とか法師温泉など)は取り上げない。

 北からと言うことで、北海道の銀婚湯温泉をまず書いてみたい。北海道には登別温泉、洞爺湖温泉、湯の川温泉など大きな温泉街と持つところも多いし、山の中にある一軒宿の秘湯も多い。支笏湖畔の丸駒温泉、帯広北方の然別峡かんの温泉など素晴らしい温泉だ。そっちも書きたくなるが、ここでは道南の「銀婚湯温泉」にした。
(大浴場)
 名前が不思議だが、これは開湯が1924年(大正14年)5月10日で、その日が大正天皇の「25年目の結婚記念日」、つまり銀婚式の日に当たったからだという。だから、もうすぐ100年を迎える長い歴史を持つ宿なのである。名前から銀婚式に夫婦で訪れる客がいっぱいいるという。僕が行ったのは結婚10数年の時だったが、お湯も食事も素晴らしかったから、また25年目に行こうかと思ったけれど、その後一度も行けてない。

 北海道に行くのは大変だけど、行くなら他に行きたいところがいっぱいある。団体旅行なら当然だが、個人で行く時も主要な観光地を短時間でまわることが多い。道南だと函館が中心になり、そこには湯の川温泉がある。ちょっと行った大沼にも温泉がある。銀婚湯温泉はちょうど函館と長万部の中間あたりの山の中にあって、周辺に有名観光地がないから通り過ぎてしまうエリアなのである。ホームページを見ると、函館本線の各駅停車しか泊まらない落部駅というところで下りれば、一人客でも送迎ありと出ているけれど、行きにくい場所である。

 では一軒家の秘湯かというと、実は「上の湯温泉」(かみのゆ)という二軒宿の温泉郷となっている。もう一軒はパシフィック温泉ホテル 清龍園という宿である。でも広大な敷地に5本の独自源泉を持ち、森の中の秘湯と呼んでも間違いない宿だ。もう完全に都会を遠く離れた宿なので、風呂や食事のレベルはどうなんだろうと思っていた。ところがこれが素晴らしいお風呂で、しかも料理も美味しい。実に洗練された宿だったのに驚いた。

 お風呂は内湯の大浴場の素晴らしさはよく覚えている。しかしホームページ上には森の中の「隠れ湯めぐり」が載っている。これは記憶がないんだけど、その後整備されたのか、それとも大雨の日で行かなかったのだろうか。なんともステキな風呂の写真が出ていて、2泊ぐらいしてノンビリしたくなる。「かけ流しシステム」として5本の源泉がどのように配湯されているのかがホームページに載っているのも貴重。お湯は透明なナトリウム泉がベースだが、とても柔らかな感じだった記憶がある。

 何でも江戸末期の探検家松浦武四郎も来たり、あるいは箱館戦争の旧幕府軍も入った記録があるとか。車でも電車でも噴火湾の素晴らしい光景が望める。昔行ったときは「ケンタッキーフライドチキンの実験農場」があって寄った記憶がある。今は「ハーベスター八雲」という丘の上のレストランになっているようだ。函館と札幌の途中でもう一泊していくというのは、なかなか日程に余裕がないと出来ないと思うが、銀婚カップルでわざわざ行ってみる価値は大いにある。もちろんひとり旅でも、若くても老年でもいいわけだが。
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シス・カンパニー公演、安部公房「友達」を見る

2021年09月22日 23時07分06秒 | 演劇
 ずっと演劇を見てなかった。値段の問題もあるのだが、コロナ禍で公演中止が多い。人気公演は事前にチケットを買っておく必要があるが、チケット代は戻ってくるけど「チケットぴあ」のシステム利用料が戻ってこない。ケチなことを言ってるけど、俳優の誰かが感染するリスクを考えてしまう。でも、まあそろそろ見たいから、シス・カンパニー公演の「友達」に行った(新国立劇場)。ちょうど勅使河原宏監督の映画で安部公房原作映画をいっぱい見た頃に「友達」の予約があったから見てみたいなと思ったのである。有村架純も出てることだし。

 久しぶりに演劇を見て、そうだったと思いだしたことがある。舞台から遠い席だったので、小声のセリフだと半分ぐらいしか聞こえないのである。右耳の聴力が相当に落ちていて、だから字幕付きの外国映画を見るのが一番好きなのだ。お芝居を観るたびにそう実感するのだが、しばらくすると忘れてしまう。それはライブの魅力に触れたくなるからだ。その意味では満足だったけれど、セリフの聞こえに問題があると辛いのも事実だ。

 安部公房の戯曲「友達」は「砂の女」「他人の顔」「燃えつきた地図」と一緒に「新潮日本文学」に入っていたので、もうずいぶん前、多分高校時代に読んだ。1967年に発表され、青年座で初演された。1967年の第3回谷崎潤一郎賞を受賞した。この年は大江健三郎万延元年のフットボール」と共同受賞だった。ノーベル賞受賞小説と同じ年なのだから、この戯曲への評価が非常に高かったことが判る。安部公房はその時初めて読んだと思うが、とても面白かった。たくさん出ていた文庫本はほぼ読んだはずだし、「箱男」「方舟さくら丸」などその後に出た長編小説も読んだ。でも70年代に活動していた「安部公房スタジオ」の演劇公演は一度も見ていない。
(舞台稽古のようす)
 ということで生前にほぼ読んじゃったので、1993年の没後以来一つも読んでない。「友達」も詳しくは覚えていなかった。果たして今の時代に生きているテキストなのだろうか。さすがに今演じるとなるとスマホもないのはおかしいので、そういう変更はされている。加藤拓也演出・上演台本で、ウィキペディアで見ると所々で変更箇所があるようだ。でももちろん基本的設定は同じである。ある日、一人暮らしの男の部屋に9人もの大家族が闖入してくる。不法侵入だと警察を呼ぶが、暴力などがあるわけではなく知り合いではないかと思われ相手にされない。そのうち居着いてしまって、男が家事仕事を担当するようになる。

 ありえない設定で進む「不条理演劇」だが、別役実ともベケットイヨネスコなどとも違う独特のタッチがある。「ブラックユーモア」というべきかもしれないが、笑えないのである。それはこの戯曲の持つ多義的な読解の幅が非常に深いということでもある。冒頭で多人数が訪れて主人公があたふたするシーンでは、これは「難民問題」の暗喩だと思った。男は何で関係ない部屋に入り込んで来るんだというが、侵入者たちは多数決を取って「賛成多数」で決定と押しつける。こうなると形式的民主主義への批判である。
(舞台稽古のようす)
 侵入者が「連帯」を強要し「原住民」の「孤独」が冒されていくとも読めるが、それは「共同体批判」か、偽善的な「絆」への批判か。いくらでも現在に引きつけられて読めてしまう。物語性ではなく、シチュエーションだけで進む劇で、セリフの研ぎ澄まされ方が素晴らしいから、なんだか考え込んでしまうのである。しかし、僕はこのお芝居の設定にずっと苛ついた。「ブラック」であれ「ユーモア」を昔は感じたと思うが、今見るとただ傍迷惑なだけである。こういう傍迷惑な「偽家族」を現実にいっぱい見たではないか。その後の日本には、こういう「善人の押し売り的に侵入してくる輩」ばかりが多くなった。早く出て行ってくれ、放っておいてくれ。

 ドアは普通はタテに設置するものだが、この演出では舞台真ん中に穴のように置かれる。持ち上げると地下室のように人が出て来る。この舞台装置は秀逸。主要なキャストは、鈴木浩介(男)、西尾まり(婚約者)、浅野和之(祖父)、山崎一(父)、キムラ緑子(母)、林遣都(長男)、岩男海史(次男)、大窪人衛(三男)、富山えり子(長女)、有村架純(次女)、伊原六花(末娘)などなど。これだけ侵入家族が多いと、特に誰が良いとか悪いとかはないけれど、父の山崎一や長女の富山えり子が印象的。次女の有村架純はラストで重要な役を演じる。林遣都もいいけど、鈴木浩介の主人公もうまかった。6時開演、7時半終演というコロナ禍のコンパクト上演。
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竹下派盛衰記ー自民党の派閥の歴史④

2021年09月21日 22時57分23秒 | 政治
 清和会、宏池会の系譜を書いたので、それで終わりでもいいのだが、折角だから他の派閥にも触れておきたい。先だって「竹下派」の会長竹下亘(わたる)の訃報が伝えられた(9月17日)。しかし、この「竹下派」は今の細田派と同様に、単に会長名を付けただけの通称に過ぎない。昔の竹下派と言えば、自民党を支配する一大集団だった。佐藤栄作、田中角栄の流れから、竹下登橋本龍太郎小渕恵三と3人の首相を生んだ。離党後に首相になった羽田孜を入れれば4人になる。それが最近になったら、総裁どころか総裁候補すら立てられなくなった。
(竹下派の歴史)
 田中角栄元首相はロッキード事件で離党しながら、裏で「闇将軍」として事実上派閥を支配していた。そういう状況も長くなると、派内から次世代リーダー待望の声が出る。それが竹下登だが、ボスの逆鱗に触れないように秘密裏に決起の準備を進め、1985年2月7日に「木曜クラブ」(田中派)の中にある勉強会という建前で「創政会」を立ち上げた。これが事実上の「竹下派」結成で、田中角栄は激怒したと言われるが、だからかどうか2月27日に脳梗塞で倒れた。以後一切の政治活動が出来なくなり、86年の選挙ではトップ当選したものの一度も議会に出席できないまま90年に引退した。93年12月16日死去。

 1986年4月に創政会は解散し、7月に経世会が結成された。これが今でも竹下派の代名詞として伝わることになる。140名を越えた田中派の中で110名近くが集結した大派閥である。田中に忠実な二階堂進ら10数名が木曜クラブに残留し「二階堂グループ」と呼ばれた。実は田中角栄自体が佐藤派を乗っ取る形で総裁を勝ち取ったわけだが、同じことが10数年後に再現されたわけである。この壮絶な反乱を成功させるには、派内に盟友が必要だ。それが10歳年上ながら衆院当選同期の金丸信(かねまる・しん)だった。竹下が首相になると、金丸が経世会の会長となった。金丸の長男と竹下の長女が結婚し、実の親戚となっている。(ちなみに次女の子がDAIGO。)

 次代のリーダー候補も豊富で、二人のボスを支えて「竹下派七奉行」と呼ばれた。竹下系の橋本龍太郎小渕恵三梶山静六、金丸系の小沢一郎羽田孜渡部恒三奥田敬和である。この中から3人の総理を輩出した。89年から91年までの海部内閣では小沢が40代で幹事長となり、自民党の権力は「金竹小」が握っていると言われた。これは「こんちくしょう」と読み、反自民、反竹下派の立場からの命名だが、ある時代を象徴している。
(竹下派七奉行)
 権勢を振るった竹下派だが、1992年8月に東京佐川急便から5億円の闇献金が金丸に渡っていたことが発覚した。検察は上申書提出で金丸を罰金20万の略式起訴で済ませたため、世論の大きな反発を招いた。金丸は議員辞職願いを提出し、10月に辞任した。(1993年3月に金丸は脱税で逮捕された。政治資金を個人的に保管していたとして金丸宅から金融債権や金塊が見つかったと報道されて驚いた。後に金丸は政界再編資金だったと弁明した。)会長が議員を辞めた以上、後継会長を決めなければならない。そこで竹下派分裂騒動が起こったのである。

 竹下らは敵が少ない小渕恵三を会長に推し、強引に決定した。納得できない小沢らは羽田孜を担いで「羽田派」を結成した。七奉行は残った小渕、橋本、梶山と離脱した羽田、小沢、渡部、奥田に二分された。それどころか、93年6月の宮沢内閣不信任案採決では羽田派は賛成票を投じ、離党して新生党を結成した。結党時38名の中には二階俊博、船田元のように後に復党したものもいるが、羽田、小沢らは戻ることなく政治活動を続けて行く。それは竹下派とは無関係なので、ここからは小沢らには触れない。

 新生党も加わった非自民連立は細川護熙、羽田孜が首相となったが、94年6月には社会党委員長を自民党が担ぐという禁じ手を使って自民が政権に復帰する。94年には派閥解消ということで経世会は解散し、以後は政策研究グループ「平成政治研究会」(後に平成研究会)と名乗ることになった。95年の総裁選で河野洋平は不出馬に追い込まれ、代わって通産相の橋本龍太郎が総裁に選ばれ、96年1月には村山から政権を引き継いだ。98年に参院選で大敗した後は小渕恵三が後任の首相となった。結果的に旧経世会系で最後の首相となった。

 小渕が首相となった後、会長には綿貫民輔がなるが、2000年に綿貫が衆院議長となり、5代目会長に橋本龍太郎が就任した。2001年に森首相が辞任した後の総裁選で、平成研では誰を出すか揉めた挙げ句、会長の橋本の再登板を目指すことになったが、旋風を起こした小泉純一郎に大敗することになった。2004年には橋本に日歯連から闇献金があった疑惑が明るみに出て会長を辞任した。(05年総選挙に出馬せず引退、06年死去。)以後1年間会長空席が続く。2005年には郵政民営化に反対した綿貫や2003年の総裁選に出た藤井孝男らが離党に追い込まれた。

 21世紀初頭の経世会には衆院に野中広務、参院に議員会長を長く務めた青木幹雄という屈指の実力者がいたが、どちらも裏方で力を振るうタイプだった。また中村喜四郎鈴木宗男はスキャンダルで逮捕・起訴され有罪となった。このように総裁選に担げるリーダーが存在しなくなってしまったのが旧竹下派の衰退の理由である。その中では額賀福志郞が党三役や財務相(第一次安倍内閣、福田康夫内閣)を務め実力者と認知されていたが、一度も総裁選に立候補するチャンスが来なかった。

 2005年から09年まで会長を津島雄二(太宰治の長女の夫)が務めて「津島派」、09年から18年まで「額賀派」、18年から「竹下派」となったが、これは単に会長名を通称として使っただけである。今後どうなるかは不明だが、会長代行が現外相の茂木敏充(もてぎ・としみつ)なので、順調に昇格すれば久方ぶりに総裁候補の会長ということになるかもしれない。90年代政界再編のあおりを最も受けた派閥で、小泉首相が言い放った「自民党をぶっ壊す」とは、つまりは「旧竹下派支配を壊す」の意味である。政治も社会も大きく変わり、旧竹下派のような派閥は二度と出て来ないと思う。その意味では20世紀の自民党政治を象徴する派閥だった。
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宏池会はなぜ政権から遠ざかったのかー自民党の派閥の歴史③

2021年09月20日 22時48分59秒 | 政治
 「宏池会」(こうちかい)と言ってもなじみがないかもしれないが、現在の岸田派である。宏池会は自民党きっての名門派閥で、池田勇人の系譜を継ぎ、大平正芳鈴木善幸宮澤喜一と4人の総理を輩出した。20世紀の自民党のど真ん中にいたのに、21世紀になってからは「清和会」出身の首相ばかり続いた。今回岸田文雄が首相に指名されたら、宏池会出身としては約30年ぶりということになる。
(宏池会の流れ)
 2回目に書いた清和会の場合、岸信介から福田赳夫、福田から安倍晋太郎へと異論なく派閥が継承された。しかし、自民党の派閥継承の歴史を見ると、そういうケースはむしろ珍しい。清和会でも安倍以後は三塚博と加藤六月の「三六戦争」が起こった。宏池会はもともと大蔵官僚出身の池田を慕う官僚出身の政治家が多く「公家集団」と言われた。「体育会系」の田中角栄派に比べて「ひ弱」と言われたが、実は内紛が多かった。

 池田急死後は前尾繁三郎が継ぎ、66年、68年の総裁選で佐藤栄作に挑戦したが、いずれも大差で敗れた。特に68年には反主流派で弱小派閥の三木武夫にも敗れて3位に沈んだ。70年総裁選には立候補せず佐藤4選に協力したが見返りがなく、田中六助ら派内の若手議員の突き上げで、会長の座を大平正芳に渡すことになった(大平クーデター)。大平は78年から80年に総理を務めたが、総選挙中に急死して鈴木善幸が後を継いだ。鈴木は当初から中継ぎとされ、後継には宮澤喜一が本命とされた。

 大蔵官僚出身の宮澤喜一は福田赳夫とも相通じ「知性派」として知られた。一方田中角栄はタイプが反する宮澤を嫌い、たたき上げの党人派田中六助に近かった。田中六助は宮澤の会長就任に反対し「一六戦争」と呼ばれた抗争が起きた。田中六助は中曽根内閣で幹事長を務めるなど権勢を振るったが、80年代に入ってからは糖尿病が悪化して入院することが多く、1985年に62歳で病死した。結果的にこれで一六戦争が決着し、1986年に宮澤喜一が会長に就任した。宮澤は1991年の総裁選で渡辺美智雄、三塚博を破って当選し首相となった。

 1993年6月、野党が提出した宮澤内閣不信任案に小沢一郎・羽田孜らが賛成し可決された。宮澤は直ちに衆議院を解散したが、小沢らは離党して新生党を結成し、社会党などとの連合政権を目指した。結果的に日本新党細川護熙を新生党、社会党などが連立して首相に擁立し、自民党は結党以来初めて野党に転落した。宮澤は総裁を辞任し、後継には宮沢内閣の官房長官だった河野洋平が選ばれた。河野は政界入りした当初は河野一郎派を継いだ中曽根派に所属していた。しかし1976年に自民党を離党して「新自由クラブ」を結成した。
(新自由クラブ結成を発表する河野洋平)
 新自由クラブのことはここで詳しく触れる余裕がないが、一時は非常に人気が高かったものの、内紛も多く党勢は伸び悩んだ。1983年には自民党と連立を組み、1986年の衆参同時選挙で自民党が大勝すると、解党して(田川誠一を除き)自民党に復党することになった。保守新党の試みは何度かあるが、自民党の勢力が一時的に弱っても再び支持率を回復するため成功しない。河野洋平は復党後に、中曽根派を復帰せず政策的に近い宮澤派に加入した。しかし、宮澤派内では外交官出身の加藤紘一が早くから「プリンス」と目されていた。河野総裁時代に加藤は政調会長を務めていたが、1995年の総裁選では河野の再選を支持せず、橋本龍太郎を支持した。このように宮澤後継をめぐって、加藤と河野が激しく争い「KK戦争」と呼ばれた。

 結局河野は総裁選不出馬を表明し、橋本総裁のもとで加藤が幹事長に就任した。当時は「自社さ連立」の村山内閣だったが、96年に村山が辞任し橋本が首相となる。しかし、97年に金融危機が起こり98年の参院選で自民党は大敗した。責任を取って橋本首相は辞任し、加藤も幹事長を辞任した。橋本の後任として小渕恵三が首相となり、加藤も党内2位の派閥リーダーとして存在感を示していた。ところが1998年の総裁選に現職の小渕に対抗して、加藤紘一山崎拓が出馬した。小渕が大差で再選され、加藤、山崎は「総裁候補に名乗りを上げる」ことが目的だったにもかかわらず、小渕は現職に対抗したことを許さなかった。

 「KK戦争」はこの頃加藤後継で決着し、河野洋平麻生太郎ら反加藤系議員15名は離脱して「大勇会」(たいゆうかい)を旗揚げした。90年頃から加藤紘一は三塚派の小泉純一郎、渡辺美智雄派の山崎拓と派閥を越えたつながりを持ち「YKK」と呼ばれた。小泉はこれを「友情と打算」と呼んだが次世代リーダーとみなされた。大勇会は「河野グループ」と呼ばれたが、総裁経験者の河野ではなく麻生太郎が総裁への意欲を持っていた。

 2000年4月に小渕首相が突然倒れて回復不能と診断された。(6月に死去。)その後、政府・自民党幹部5人が密室で森喜朗を後継と決めたとして批判された。森は「神の国」発言、「無党派は寝ていてくれれば」などの「失言」が多く、国民の支持率も上がらなかった。秋口には支持が2割台、不支持が5割を超える不人気ぶりだった。秋の臨時国会で野党が内閣不信任案を提出する方向になると、加藤紘一は「不信任案に賛成、または欠席する」と表明した。この動きはマスコミで大きく取り上げられ、国民の支持も大きかった。当時黎明期のインターネットでは加藤のホームページに応援の声が殺到した。これが「加藤の乱」である。

 そもそも加藤が総裁選に立候補しなかった場合、小渕首相も加藤派を無視できず、加藤が重要閣僚や党三役に起用されていた可能性が高い。加藤が内閣や党の一員だったら、小渕が倒れた時の「密室協議」に呼ばれたはずで、森ではなく加藤が後継に選ばれたのではないか。それは「運命」としか言えないが、加藤は運命の女神に見放されたのである。そこで国民の支持を背景にして、不人気の森内閣に対する公然たる倒閣運動に乗り出した。それは加藤にとって乾坤一擲の「義挙」だったのだろうが、離党せずに不信任案に賛成するのは議会政治の邪道である。

 「加藤の乱」に立ち向かったのは、幹事長の野中広務だった。竹下派の分裂騒動、社会党委員長を担いで政権に復帰する「自社さ連立」など数多くの修羅場をくぐってきた「武闘派」の野中が本気で切り崩しを図れば、宏池会はやはり弱かった。加藤派ではボスに従って欠席したもの21名に対し、本会議に出席して反対したもの24名と派内の過半数が加藤に従わなかったのである。一方、同調した山崎拓は派内の出席2名に対し17名が欠席したため、「鉄の団結」を評価され関ヶ原の戦いの大谷𠮷継のように「敗北した勇将」として名を挙げた。
(加藤の乱 左=加藤紘一、右=谷垣禎一)
 本会議が開かれようとしたとき、加藤、山崎は責任を取って二人だけでも出席して賛成票を投じようとした。それに対して、加藤派の谷垣禎一が「加藤先生は大将なんだから!」と必死に止めた。その場面はテレビに撮られていて、「加藤の乱」敗北を象徴するシーンとしてよく取り上げられる。欠席に止まったことから除名は免れたものの、派閥の半数以上が離脱して加藤グループは党内6位の小派閥となり政治力は大きく損なわれた。2002年には「金庫番」を長く勤めた秘書が「口利き」で得た収入の「脱税」で逮捕された。加藤本人の責任も指摘され、離党した上で議員辞職に追い込まれた。その後、無所属で当選して復党するが、総裁候補としては完全に失脚した。

 「加藤の乱」後に離脱したグループも同様に「宏池会」を名乗ったため、同じ名前の派閥が2つ同時に存在することになった。時々左翼団体で起きるような話である。離脱派は堀内光雄が会長になったので「堀内派」、加藤グループは加藤の離党後、小里貞利が代表になって「小里派」と呼ばれた。小里は2005年で引退し、谷垣禎一が会長になって「谷垣派」となった。一方の堀内派では郵政民営化法案に堀内が反対し離党に追い込まれ、その後は「丹羽・古賀派」となった。小派閥では影響力が少ないため、2006年頃から「河野グループ」(麻生派)を含めて「大宏池会」を結成する動きが起こったが、谷垣、麻生と二人の総裁候補がいて実現不能だった。

 結局2008年に麻生派抜きでまとまることになり、古賀誠が会長になり「古賀派」と呼ばれた。2008年に麻生政権が出来るが、2009年に民主党に政権交代。麻生の後継総裁に谷垣が立候補して当選した。しかし、2012年の総裁選で古賀が谷垣の再選に反対し、谷垣系は宏池会を離脱して「有隣会」を結成した。2016年に谷垣が自転車事故で重傷を負い、翌年の総選挙に立候補せず引退したが、現在も「旧谷垣グループ」として続いている。一方の古賀派では会長の古賀誠が2012年に引退し、後継に岸田文雄が就任し「岸田派」となった。

 このように宏池会は実は内紛が多かった。戦国時代の後北条氏のようにすんなり後継が決まったことはなく、上杉謙信没後の越後上杉氏の「御館の乱」のような派閥を二分する争いが何度も起こったのである。特に加藤紘一河野洋平は共に党内リベラル派で、政策にも通じた政治家だった。どちらかでも首相になっていたら、その後の日本に良い影響を残したのではないだろうか。それが「両雄並び立たず」のことわざ通り、宏池会を分裂に導くことになった。これは21世紀の日本政治が右傾化、保守化が進んで理由の一つになったと言える。もう巻き戻しの効かない歴史になってしまったが、政治家の出処進退を越えて考えさせられる。
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清和会、福田赳夫から安倍晋三までー自民党の派閥の歴史②

2021年09月18日 22時57分44秒 | 政治
 タイトルにあげた「清和会」と言われても、判らない人が多いだろう。「清和会」は福田赳夫から続く今の「細田派」である。清和会は安倍晋太郎が病死したこともあって、長く政権を取れなかったが、2000年以降、森喜朗小泉純一郎安倍晋三福田康夫と連続して4人も総理を輩出した。21世紀の自民党は清和会支配である。
(清和会の流れ)
 今「清和会」と書き、福田赳夫以来続くと書いたが、正確には微妙に違っている。「清和会」は福田赳夫が首相を辞任した後の1979年に発足した。首相在任中は「派閥解消」の名の下、それまでの派閥(八日会)は解散していた。その後名前が変わった時期もあるが、1998年に森喜朗が派閥を継承したときに「清和政策研究会」と名付け、政策研究集団として続いている。今は総裁になると派閥を離脱する慣わしなので、首相になった小泉、安倍らは派閥に所属しない。そこでまとめ役の会長名から「細田派」と称しているが、実質上は安倍派と言っていい。

 1回目で70年代の「三角大福」の激しい政争を取り上げた。しかし、1980年の大平急死を受けて党内には融和的なムードが高まり、宏池会所属の総務会長鈴木善幸が総裁に選ばれ「和の政治」を掲げた。しかし今回の菅首相にも言えるが、党内事情のみで選ばれた総裁は政策に行き詰まって長続きしない。1982年の総裁選に鈴木は不出馬を表明し、続いて中曽根康弘が総裁となった。必ずしも関係が良くなかった田中角栄と関係を修復したため、世論からは「田中曽根」などと呼ばれたが、結果的に5年の長期政権となった。

 今は派閥の流れだけ追っているので、中曽根内閣の「戦後の総決算」路線の評価は書かない。中曽根の後継をめぐっては、自民党内で「ニューリーダー」と呼ばれた3人がいた。竹下登安倍晋太郎宮澤喜一である。「三角大福中」の中で、うまく後継につなげなかった三木派と中曽根派は分裂しながら変容していったのに対し、「角大福」を受けた「ニューリーダー」は現在の各派閥に直接つながっている。

 清和会内では早くから岸の女婿だった安倍晋太郎が次のプリンスと言われていて順調に派閥を継いだ。党内では右派になるが、さらに右派だった中川一郎が1983年に自殺した後は旧中川派(石原慎太郎派)も吸収した。1987年に中曽根後継は中曽根の裁定で竹下登が選ばれた。しかし、1989年にリクルート事件が発覚し竹下が辞任する。安倍、竹下、宮澤もリクルート事件に関与して総裁になれなかったため、三木派の後継河本派の幹部海部俊樹が選ばれた。安倍晋太郎はその後病気となって、首相目前にして1991年に没した。
(1987年総裁選後に、左から安倍、中曽根、竹下、宮澤)
 安倍晋太郎没後の後継をめぐっては、三塚博加藤六月が争い、森、小泉らが支持した三塚が1991年に派閥を継いだ。加藤は反発してグループで離脱し、後には自民党も離党して小沢一郎らと行動を共にした。菅義偉内閣の官房長官、加藤勝信は娘婿にあたる。三塚は1991年の総裁選に立候補したが3位で敗れた。その後も橋本龍太郎内閣で大蔵大臣を務めるなど重職を任されたが、1997年に金融危機が起こり、同時期に発覚した大蔵省接待汚職事件の責任を取って辞任し、政治的立場を弱めた。

 1998年の総裁選では派内から小泉純一郎が立候補し、これに反発した亀井静香が離脱して独自グループを結成した。亀井派は中曽根派の後継だった渡辺美智雄(1995年没)系と1999年に合同して「志帥会」となる。これが現在の「二階派」につながっている。1998年12月に森喜朗が会長となって、清和会は森派となった。2000年に小渕首相が突然倒れて、森幹事長が後継となった。そのため清和会会長は小泉純一郎に代わるが、清和会は森派と呼ばれていた。2001年に森が辞任し、後継を決める総裁選で小泉純一郎が出馬して圧勝した。

 小泉内閣が長期政権になったため、後継も小泉系が有利となり、官房長官だった安倍晋三が選ばれた。1年で辞任したが次に福田康夫が選ばれたが、やはり1年で辞任。その後は清和会は候補を立てず、小泉内閣で外相などを務めた麻生太郎を支持した。その時には派内が分裂し、中川秀直元幹事長らが当時清和会にいた小池百合子の立候補を支持した。2012年総裁選でも町村信孝に対して、安倍晋三も再び立候補し派内の対応が割れている。

 会長は町村信孝が務めて「町村派」、2014年からは細田博之が会長となって「細田派」とマスコミでは表記される。しかし、それはもう総裁候補を担ぐという意味では派閥名ではない。小泉、安倍が長期政権となったことで、結果的にその影響のもとで当選した若手議員が多くなる。そのため細田派が自民党最大派閥となっているが、今後は総裁候補をめぐって割れるに違いない。今回下村博文が立候補を模索したが立候補出来なかった。

 安倍は稲田朋美を育てたかったらしいが、稲田が「リベラル化」したとされる中、派外の高市早苗を支持した。萩生田光一も総裁候補と言われるが、派内がまとまることはないだろう。今までも加藤六月、亀井静香、中川秀直らが退会した歴史がある。今後も最大派閥であるかどうかは難しいと思う。長く続いた「清和会支配」も終わるのかもしれない。他の派閥も書く予定が清和会だけで長くなってしまった。
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自民党派閥の歴史①ー「三角大福」時代まで

2021年09月17日 23時25分19秒 | 政治
 自由民主党総裁選挙が告示され、4氏が立候補した。自民党員じゃないから特別な関心はないけれど、実質的に次期首相を決めるわけだから、それなりの関心を持ってニュースを見てはいる。今回思うのは、岸田候補を除き、派閥会長ではないということだ。それどころか各派閥は(岸田派を除き)実質的に「自主投票」なのである。それでは「派閥」の意味がないように思うけれど、その後の三役や大臣ポストの配分には必要なんだろう。

 「派閥は良くない」と言う人が多いけれど、僕は必ずしもそうは思わない。人間が数十人規模で集まれば、意見の食い違いがある方が自然だ。派閥をなくせというだけでは、ダイナミックな政党にはならない。だけど、自民党の派閥には問題が多かったのも事実だ。国会議員はすべて国民の代表として選ばれているのに、国民より派閥ボスの方ばかり気にしている議員が多かった。

 ところが今回は直後に衆議院選挙が予定されている。参議院選挙だって来年である。自民党には当選3回以下の選挙地盤が確立してない若手議員が多い。今回ばかりは「選挙に勝てる顔」を求めて、派閥の締め付けが効かない状況になっていると思われる。ここまでグチャグチャだと、やがて派閥再編も行われるに違いない。いつまでも「麻生派」「二階派」などと長老を担いでいる時代じゃないだろう。
(自民党派閥の推移、菅政権誕生時点)
 今回の4候補と派閥を関連付ける画像は見当たらなかったので、上には昨年の菅総裁選出時のものを載せておく。ここで判るように、現在の自民党には細田派麻生派竹下派二階派石原派岸田派石破派と7つの派閥がある。実はもう一つ「谷垣グループ」と呼ばれるものもある。それぞれの流れと違いをちゃんと判っている人は少ないだろう。調べないと判らない点は僕にもあるけれど、大筋では理解している。ここでまとめて振り返っておこうと思う。政治や現代史というより、まあ趣味である。

 「自由民主党」とは、言うまでもなく1955年に「自由党」と「日本民主党」の「保守合同」によって成立した政党である。保守系の政治家がほぼ合同したわけで、その時点で幾つもの人脈による派閥が存在した。初代総裁は民主党の鳩山一郎だったが、病弱で長期政権は望めなかった。1956年の総裁選は「8個師団」と呼ばれた派閥間のし烈な政争となった。最終的には第一回投票2位の石橋湛山が、3位の石井光次郎と2・3位連合を組んで、第一回1位の岸信介を決戦投票で破った。しかし、石橋はわずか2ヶ月後に病気で倒れて退陣、後継首相に岸が就任した。

 当時の自民党の派閥は、自由党系では吉田茂元首相に重用された池田勇人佐藤栄作に加えて、石井光次郎大野伴睦の4派、民主党系では岸信介河野一郎松村謙三・三木武夫石橋湛山の4派だった。このうち、石井派石橋派大野派は歴史の中で消滅している。50年代の話を細かく書くと長くなりすぎるから省略するが、「60年安保闘争」後に岸首相が退陣し、その後の首相になったのが「戦後派」の池田勇人だった。(この「戦後派」の意味は、戦後に政界に入ったという意味。)

 池田後の有力者とされたのが佐藤栄作河野一郎だったが、河野は1964年に急死した。(河野一郎は河野洋平の父、河野太郎の祖父である。)東京五輪直後に池田首相はガンのため辞任し、後継は佐藤栄作になった。佐藤は1964年から1972年まで長期政権となった。その後継候補たちは当時「三角大福」、あるいは「三角大福中」と呼ばれた。三木武夫の「三」、佐藤派を乗っ取る形で勢力を伸ばした田中角栄の「角」、池田派を(前尾繁三郎を間にはさんで)継いだ大平正芳の「大」、岸派を継いだ福田赳夫の「福」である。

 「中」というのは、河野派がいくつかに分裂した中で最大勢力だった中曽根康弘を指す。ただし、中曽根は他の4人に比べて年齢が若く、その次のリーダーと目されていた。(実際に「角三福大」の順に首相となった後、鈴木善幸をはさんで中曽根が5年間首相を務める。)かつての「8個師団」の中で首相候補を持つ5派が派閥として続き、持たなかった派閥は消滅したことになる。特に田中派、福田派、大平派は現在まで自民党の中で大きな存在感を示してきた。70年代は田中、福田を中心に激しい政争が続き「角福戦争」と呼ばれた。
(72年総裁選後のパーティで。右=田中、左=福田)
 佐藤首相は後継に福田赳夫を考えていたらしいが、1972年の沖縄返還を自らの手で成し遂げたいと考えて4期目の総裁に立候補して当選した。その間に佐藤派の中では田中角栄が急速に力を伸ばしていった。近年田中角栄を再評価する向きが多いが、とにかく異色で力のある政治家だったことは間違いない。1972年の自民党総裁選の第一回投票で田中が1位となり、3位の大平、4位の三木と組んで決選投票で福田を破った。

 しかし、1974年7月の参院選で金権選挙が批判され、自民党は振るわずに「保革伯仲」となった。秋には「文藝春秋」が立花隆の「田中角栄研究」を掲載し、大きな問題となった。そこでは田中角栄の「錬金術」が解き明かされ、田中的政治のうさんくさい側面が暴露されていた。それに先だって閣僚に登用されていた福田、三木が揃って辞任して圧力を掛けていた。田中は正面突破を図るが、結局は体調が持たずに辞任した。後継は選挙ではなく、椎名悦三郎副総裁による「裁定」で「政界の最長老」である三木武夫が指名された。

 1976年、三木内閣の時にアメリカでロッキード事件が暴露された。三木首相は積極的な捜査を約束し、7月前に田中角栄前首相が逮捕されるに至った。田中角栄は離党したが議員辞職はせず、その後「闇将軍」と呼ばれることになる。しかし、自民党内には三木首相のやり方に疑問を持つ議員が多く、党内では「三木おろし」が盛んになる。三木首相は粘るが秋に任期満了による衆議院選挙が行われ、自民党が議席を減らした責任を取って辞任した。

 三木辞任にあたって、党内では福田赳夫が後継に一本化された。この時に2年後には辞任し大平に譲るという密約があったらしい。しかし福田は1978年の総裁選に出馬して、大平に党員票で敗れた。福田は「天の声にも時には変な声がある」と言って決選投票を辞退して退陣した。こうして大平正芳内閣が成立するが、1979年の衆院選で大幅に議席を減らし、党内からは辞任を求める声が上がった。福田派、三木派は福田を首相候補に推し、首相指名選挙で与党が分裂する空前前後の事態が起きた。その時は10票差で大平が首相に指名された。

 しかし、1980年に野党が内閣不信任案を提出したところ、自民党内反主流派が欠席して不信任案が可決されるに至った。大平首相は直ちに衆議院を解散して選挙に臨んだが、選挙戦中に心筋梗塞で急死した。自民党は首相候補を示さないまま選挙に臨んで、不思議なことに同情票を集めて圧勝したのである。こうして怨念の政争が繰り広げられた1970年代の「三角大福」時代が終わる。戦後政治上でも空前絶後のケースが頻発し、ニュースを見ているだけで議会政治のあり方の勉強になった時代ではあった。
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タリバン暫定政府をどう考えるかー「同時多発テロ」20年③

2021年09月16日 23時07分09秒 |  〃  (国際問題)
 2001年に米軍がアフガニスタンのタリバン政権を攻撃し、新しい政府が樹立された。しかし、2021年8月にアメリカ軍が撤退の方針を発表すると、あっという間にタリバンが首都を制圧した。そのことは8月16日に「タリバン、アフガニスタンを制圧ー鍵は中国が握る」で書いた。その後、9月7日にタリバンが「暫定政府」の主要閣僚を発表した。僕はタリバンの細かな人脈や政治傾向を知らないから、その名簿を見てもよく判らないけれど。
 (暫定政権の樹立)
 タリバンは政権発足の式典を開く予定で、それに中国ロシアパキスタンカタールトルコイランを招待したと言われる。しかし、10日にロシアは出席しない意向を表明した。ロシアのラブロフ外相は、さまざまな国内勢力が政権に加わることを前提に式典参加の意向を示していた。暫定政府がタリバンの独占になっていることに忌避感があるということだろう。式典が行われるのか、その場合他国は参加するのかは現時点で不明だが、ロシアが出ないのに中国やイランが出るわけにもいかないだろう。

 「暫定政府」は「暫定」であって、全閣僚が決定したわけではない。だから女性や少数民族に今後小さなポストが提供される可能性はあると思うが、すでに主要閣僚(首相、外相、内務省など)はタリバンの幹部が占めているのだから、それは「お飾り」という以上のものではない。今回は「国民和解政府」を作るだろうというような楽観的な見方もあったが、そう簡単なものではない。20年間武力で攻撃されてきて、ようやく「占領軍を追い出した」のだから、宗教的に純粋な政権を求める動きもあるだろう。「論功行賞」を求める勢力もあるに違いない。

 ただし、反タリバン勢力が全国各地で蜂起して内戦になる可能性は少ないだろう。最後まで残ったタジク人地区のパンジシール渓谷もタリバンが制圧したと伝えられる。いや抵抗が続いているという報道もあるが限定的なものになると思う。その意味では国内情勢に関しては「タリバンのもとで安定する」可能性が高い。タリバンに対抗できる武力勢力はないし、周辺諸国も援助はしないだろう。大方の民衆も延々と続く内戦の混乱よりは、タリバン政権下の不自由の中で生きていく方を選ぶに違いない。

 どうしても宗教的な圧政に耐えられない人、あるいは前政権に協力したことで追求を恐れている人は海外に逃れるしかないだろう。国外移住の自由は基本的な人権である。タリバンが国際的に正統政府と認められたいなら、出国の自由を保障しなければならない。日本の駐アフガニスタン大使館は日本関連で出国を望む多数の人を置き去りにして、海外に逃げてしまった。まるでソ連軍侵攻にあたってさっさと逃亡した関東軍を思い出すと言ったら言い過ぎだろうか。日本政府は大きな責任を放棄したのではないか。

 タリバン政権は前回ほどの圧政、歌舞音曲の一斉禁止などまでは見せていない。「女性の教育」も認めると言っている。しかし、それは「男女別学」でなければならない。また「女性のスポーツ」は認めないとしているようだ。「コーラン」のどこにそんなことが書いてあるのかなどと言っても意味はないだろう。スンナ派のタリバン、シーア派のイランと宗派は違っても、基本的に「イスラム法学者支配」なのだから、同じような体制になると予測できる。イランはそれでも世俗政治に関しては選挙を行うが、アフガニスタンでは選挙が行われないだろう。
(反タリバンの女性デモ)
 日本では何故か「タリバンはそんなに悪くない」と主張する人がかなりいた。多くは故・中村哲氏のタリバン経験をもとにしているようだ。中村氏は「ペシャワール会」という名で判るように(ペシャワールはパキスタン西部の都市)、パシュトゥン人地区で活動してきた。パキスタンにも近いし、もっとも「純粋タリバン」が支配し士気も高かったと思う。タリバンは「アフガニスタンに平和と秩序をもたらした」という中村氏の考えを僕は全面的に否定はしない。しかし、中村氏がハザラ人タジク人地区で活動していたら、それほど楽観的な発言はしなかったのではないだろうか。

 米軍の攻撃(特に「誤爆」も多かったとされる)がかえってタリバンへの支持を増やしたと言われる。米軍の戦争政策に反発する人は、その分タリバンに「同情」、あるいはそこまで言わなくても「タリバン勝利やむなし」と思いやすいのではないか。イランも中国も独裁政権だが、付き合わないわけにはいかない。ミャンマーの軍事政権は完全に「一線を越えた」ので、当面国際的に認められないだろう。では「タリバン」はどうだろうか。今のままでは中国やロシア、パキスタンなど、本心では早く承認したい国々もタリバン承認は難しいのではないか。

 タリバン政権のもとでは明らかに国際水準から見て人権上の問題が起きる。だが多くの民衆にとっては、いつ終わるとも判らない戦争が延々と続くよりはマシ、ということになっていくのだろうと思う。イスラム諸国の人権は非常に厄介な問題で、解決の糸口さえ見つからない現状だ。イスラム教内部からの変革を求めていくしかないんだろうと思う。キリスト教や仏教は基本的に「世俗宗教」になっているが、イスラム教は本質的に「世俗宗教」ではない。でもそれでは生きていけない部分があって、人々は適度に飲酒を認めたりして生きていると思う。いずれ「国家」と「宗教」が分離される日も来るに違いない。
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アメリカの覇権の終わりー「同時多発テロ」20年②

2021年09月15日 22時14分43秒 |  〃  (国際問題)
 1989年に「ベルリンの壁崩壊」「東欧革命」が起こり、中国では天安門事件が起こった。1991年末にソ連が崩壊し、アメリカが「唯一の超大国」と言われた。その間の1990年にイラクがクウェートに侵攻し、1991年初頭にアメリカを中心にした多国籍軍がイラクを攻撃し、クウェートからイラクを撃退した。この「湾岸戦争」がアメリカ覇権体制の頂点だった。当時の米大統領はジョージ・ブッシュ(父)である。

 アメリカの歴史学者フランシス・フクヤマ(1952~)は1992年に「歴史の終わり」を著し、「政治的自由主義」「経済的自由主義」が人類の最終的体制となると論じた。「社会主義」の夢は破綻し、自由民主主義体制市場経済体制の優位性が確認されたというのである。それは「歴史の終わり」だと言うのである。

 30年経って判ったことは、「歴史は終わってなかった」どころか、21世紀になって「新しい歴史が始まった」ことだ。もちろん30年前から予想されたことであって、そもそも自由民主主義国家に生きた人など全世界にはわずかしかいない。「歴史」が終わるどころか、「歴史」が始まってさえいない数多くの民族もある。ネオコンのイデオローグには見えなかったことが多かった。(フクヤマは後にイラク戦争を批判した。)

 アフガニスタンイラクも、アメリカが簡単に考えたようには「自由民主主義国家」にならなかった。これは当然のことであって、そもそも「国民国家」ではないところに、単純に「民主主義」を持ち込んで選挙をやっても機能しない。西アジアの旧オスマン帝国領だった地域に第一次大戦後に建国した国家は、列強の都合で引かれた国境線に囲まれている。民族や宗教がモザイク状に入り乱れ、国民的共同性が存在しない国が多い。

 2001年にアメリカが攻撃を開始したアフガニスタンから20年目に米軍が撤退した。アフガニスタンはソ連介入も退け、アメリカの介入も成功しなかった。撤退方針を明らかにした途端にタリバンが首都を制圧した。もともとガニ大統領の統治には問題があったようだが、ここまで早いとは想定できなかった。まさに「砂上の楼閣」のような体制だった。このような結果になって、「他国に民主主義を育てる」ことの不可能性を改めて思う。
(アフガン撤退を発表するバイデン米大統領)
 北ヴェトナムがサイゴンを制圧しヴェトナム戦争が終結したのは1975年だった。1975年はまた第1回の「先進国首脳会議」(サミット、最初は米英仏と西ドイツ、日本の5ヶ国)が開かれた年でもある。すでに戦争でドル価値が下落し、旧敗戦国の日独が経済的に無視できなくなった。この段階でアメリカの覇権には陰りが見えた。しかし、当時はソ連が崩壊するとは誰も思わず、また中国は文化大革命の混乱が続いていて、世界市場には登場していなかった。ほぼ半世紀前だが、思えば隔世の感がある。

 1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻し、これがソ連の命取りになった。「ペレストロイカ」が始まり、ソ連体制の分裂が始まっていく。ソ連圏が崩壊したことで、90年代初頭には一見「アメリカが唯一の超大国」という時代が始まったかに見えた。しかし、そのアメリカも2001年にアフガニスタンに、2003年にはイラクに侵攻することで、国力を費消していく。この間に中国が世界市場に登場し、中国やロシアも含めた「G20」が開かれるようになる。
(「覇権」の移り変わり)
 最近は「米中の覇権」という言い方もされる。しかし、それはどうなんだろうか。中国は2022年に北京冬季五輪を開催し、党大会で習近平主席が(2期続いた)慣例を破って3選されると見込まれている。最近は「習近平思想」などとも呼ばれ、国内で思想統制が強まっていると報道されている。国外に対しても「覇権的ふるまい」が見られるのも確かだろう。だが中国の人口構造の不均衡などを見ると、2050年になったときには「2020年が最高だった」と振り返られるのではないだろうか。

 今後は「地域大国」をめぐる小さな対立が頻発すると予想される。イランやトルコを含めた西アジア、北アフリカはもちろん、中南部アフリカで大きな混乱が予想される。ヨーロッパでもEUを中心に一つにまとまるというのは幻想だったとはっきりした。コロナウイルスだけではない次のパンデミックや気候変動も予想しておかなくてはいけない。民族や宗教による分断は「自由民主主義体制」ではなかなか乗り越えが難しい。だから「歴史は永遠に続く」ことがはっきりしてしまったのが、この20年だった。
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