
中曽根内閣は1982年から1987年まで続いた。「戦後政治の総決算」を掲げて、「国鉄民営化」を実行した。ロナルド・レーガン米大統領と「ロン・ヤス」関係を結び、「日米同盟」推進、(「不沈空母」発言)、「憲法改正」を悲願とした。臨時教育審議会により競争的教育を進めるのも中曽根内閣。「プラザ合意」(1985年の先進国蔵相・中央銀行総裁会議で円高を容認した)もあって、バブル景気につながる。「悪い意味」で現在につながる政権で、戦後政治の転換点となった。もう少し戻って。
1980年に大平正芳内閣に対する不信任案が自民党内の対立で可決された。大平首相は衆議院を解散し、史上初の「衆参同日選挙」が行われた。選挙戦中に大平首相が病死し、後継首相が決まらないまま「同情票」を得た自民党が大勝した。結局、総務会長だった大平派の鈴木善幸が後継に選ばれたが、政策的に行き詰まり2年で辞任した。当時は、ロッキード事件で起訴され離党中の田中角栄元首相が、自民党に大きな影響力を持っていた。旧田中派は推すべき候補がなく、やむなく傍流の中曽根を支持した。その経緯から「田中曽根内閣」と呼ばれた。
なんで30年以上も前の政治を書いているのか。消費税導入は1989年の竹下内閣だけど、自民党政権の流れの中で導入されたからである。1983年にロッキード事件の第一審東京地裁判決が出て、田中角栄には懲役4年の実刑判決が下った。その後、解散・総選挙が行われたが、ロッキード事件判決を受けて自民党批判が強く、全議席511議席中、自民党の公認当選者は250名と過半数に届かない大敗だった。自民党は「新自由クラブ」(1976年に自民党を離党していたた河野洋平グループ)と連立内閣を組んで政権を維持した。初期の中曽根内閣は党内基盤が弱く弱体だったのだ。
1964年から1972年まで8年間、佐藤栄作内閣が続いた。佐藤退陣後、田中角栄と福田赳夫が政権を争い、三木武夫と大平正芳も有力候補だった。これら4人は「三角大福」と呼ばれ、続く存在が中曽根康弘だった。これらの有力者が次々と総裁となった後、自民党には次代のリーダーが求められていた。それが「ニュー・リーダー」と呼ばれた竹下登、安倍晋太郎、宮沢喜一である。結局中曽根を継ぐことになる竹下だが、田中派のしがらみの中、なかなか自分の野心を表に出せなかった。
しかし、ついに1985年2月7日、竹下登が独立して「創政会」を立ち上げた。派閥内クーデタともいえ、ショックを受けた田中角栄は2月27日に脳梗塞で倒れて入院、以後は政治活動が出来なくなってしまった。全く選挙運動をせずに、もう一回当選するが、それを最後に引退した。これで中曽根は党内的にフリーハンドを得たのである。そして「国鉄民営化」や「大型間接税導入」を進めるための強力な政治的基盤を作ろうとしたのである。そのためには「衆参同日選」を仕掛けるのがよい。しかし、一票の格差を軽減する公選法改正が必要で、一時は首相も同日選を諦めたと報道された。
それが実はトリックで、中曽根首相は諦めていなかった。党内を含めて、もうないと皆が思い始めた後で、急に臨時国会を開き冒頭解散を仕掛けたのである。これを世に「死んだふり解散」と呼ぶ。中曽根自身が後に「死んだふりをして油断させた」という趣旨の発言をしている。そして「大型間接税は導入しない」「私がウソをつく顔をしていますか」と遊説して回った。ウソつく顔してるよと僕は思ったけれど、世の中にはだまされたい人が多いのか、衆参同日選で自民党は300議席を超える大勝利となった。そして、1987年になると、突然「売上税」を導入するとぶち上げたのである。

その前に、当時の自民党総裁は任期2年で、2期までとなっていた。つまり4年しか首相ができない。本来なら中曽根内閣は1986年秋までだった。だが衆参同日選大勝利で、特別功労者として「1年の任期延長」を認められていた。最後の一年に、売上税を持ち出したわけだが、1987年春は統一地方選の年である。公約違反であり、大反対だとの声が、保守層の小売り業から噴出して、道府県会議員選挙で自民党が大苦戦した。その結果、中曽根首相は売上税導入を断念せざるを得なかった。
1987年秋に中曽根自民党総裁の任期が終わる。その時点でも党内に強い影響力を持っていた中曽根は、後継に名を挙げた竹下、安倍、宮沢の3氏に「話し合い決着」を了承させる。そして中曽根が竹下を推薦し、一致して竹下登内閣が誕生した。当時の党内勢力は竹下派が多かったが、「間接税導入」と「天皇の代替わり」を任せられる政治家を選んだという意味もあったらしい。
このように、「消費税」は事実上中曽根内閣で準備されていた。それは明白な「公約違反」としか思えなかったし、防衛費増強を進める中曽根内閣の路線に反発もした。政府が福祉目的に必要と言っても、他の予算を削ればいいと思う。このように中曽根内閣が「死んだふり解散」で得た大量の議席を「公約違反」の税導入に利用したと言うのが、僕も含めて当時のかなり多くの人が思っていたことである。1988年に竹下内閣が消費税導入を強行する。しかし、時同じくして「リクルート疑惑」が明るみに出た。リクルートコスモス社の未公開株が政財官界の有力者に渡っていたという問題である。
これに秘書名義等で、自民党有力者がほとんど絡んでいた。中曽根前首相は疑惑を指摘されて一時離党した。竹下首相の秘書も名前が出た。竹下内閣の支持率は、消費税への反発も絡んで、史上最低の7%を記録した。他の首相候補だった安倍晋太郎、宮沢喜一の関係者にもリクルートコスモス社の株が渡っていた。こうして政治的混乱の中で消費税が導入されたのである。1989年の参議院選挙で自民党は歴史的大敗を喫した。このように、消費税は決め方がおかしいだけでなく、関わった政治家が腐敗していた。僕はそう認識していたわけである。