尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

川島雄三監督作品を見続けて

2014年05月31日 23時53分51秒 |  〃  (日本の映画監督)
 川島雄三(1918~1963)は45歳で急死したが、ぼう大な監督作品が残されている。まだ発見を待っている状態だ。日活や大映で作った映画しか知られていなかったけど、最初に所属した松竹時代の映画も再評価されつつある。 市川崑(1915~2008)、小林正樹(1916~1996)より若いのに、デビューは戦時中の1944年「還ってきた男」なのである。代表作は間違いなく日活時代の「幕末太陽傳」(1957)。57年のキネ旬第4位だけど、2009年にキネ旬で行った「映画人が選ぶオールタイムベストテン」でも第4位に選ばれている。僕の若い頃は、川島作品では日活の「幕末太陽傳」と「洲崎パラダイス 赤信号」、大映の若尾文子主演「雁の寺」「しとやかな獣」ぐらいしか上映されなかった。

 近年になって川島雄三の再評価が進んできた。松竹、日活、東宝(東京映画)と渡り歩き、さらに大映でも若尾文子の代表作を撮った。だからいろいろな俳優と組んでいて、森繁久彌、淡島千景、小沢昭一などの追悼上映では川島作品が欠かせない。田中絹代、原節子、山田五十鈴などの大女優の主演作品も撮っている。だから俳優の特集で上映されやすい。当時は見慣れていた東京の風景をバックにした風俗映画が、今見ると非常に貴重な映像になっている。今回新文芸坐で10本見る機会があった。もっとも半分の5本は見ていた。まあついでに見たのである。まとめて川島雄三論を書きたいところだけど、これがどうもよく判らない。評価が難しい。

 今まで上げた作品以外で、傑作という評価が定着したと言っていいのが、若尾文子主演のもう一本、「女は二度生まれる」だ。若尾主演ではこれが一番いいのではないか。松竹時代では「とんかつ大将」が面白い。浅草周辺の貧民街に住みついた医者の佐野周二の物語。角梨枝子がとてもいい。今回はやっていないが「適齢三人娘」はテンポのいいコメディ。「明日は月給日」は今回は見ていないが、結構面白かった。桂小金治の映画出演デビュー作で落語家役。「東京マダムと大阪夫人」は今回初めて見たけど、家電製品購入やニューヨーク支店勤務をめぐる英語ブームなど「社宅」での生活を風刺した内容が映像社会学的に面白い。芦川いづみのデビュー作で、可憐なる役柄を好演している。理解なき父親を心配しながらも、姉のもとに逃げてきてしまう役柄に応援したくなる。高橋貞二をめぐる恋敵は北原三枝(後の石原裕次郎夫人)で、配役も興味深い。
(「女は二度生まれる」)
 日活では「洲崎パラダイス」「幕末太陽傳」以外では、「愛のお荷物」が面白いと思う。続いて東宝系の東京映画で、フランキー堺主演のたくさんの映画を撮った。「グラマ島の誘惑」「貸間あり」「人も歩けば」などは、特に評価に困る戦後有数の「怪作」。「グラマ島の誘惑」は森繁、フランキーが皇族の兄弟で戦時中に「慰安婦」とともに無人島に流れ着く。飯沢匡原作の不思議な設定で、原色を散りばめたカラー画面がすごい。この皇族兄弟がとんでもない。「特急にっぽん」は期待していた割につまらなかった。フランキーは何故、こんなにもてるのか。「縞の背広の親分衆」もどうも怪作に近い。
(「グラマ島の誘惑」)
 実は初めての「青べか物語」は浦安の今は亡き風景と風俗を伝えて秀逸。また「赤坂の姉妹 夜の肌」が非常に面白かった。冒頭が国会議事堂で樺美智子に花束を捧げようとする場面。淡島千景、新珠三千代、川口知子の三姉妹が赤坂でどう生きていくか。東京風景も面白い。赤坂という政界と結びついた歓楽街、料亭がある街をうまく描いている。こういう「町の解説」みたいなものが冒頭にある映画が多い。今見ると都市論的視点で再評価できるのではないかと思う。二度目の「花影」も、ついこの間観たばかりだけど、ついでに見るとやはり傑作である。二度見た方が傑作だと思った。
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5月の映画日記①-新作の話

2014年05月30日 23時00分37秒 | 映画 (新作日本映画)
 5月に見た新作映画の話。新作と言ってもロードショーだけではなく、名画座に下りてきた映画も含む。いまや東京などで少数が生き残っているだけの名画座だけど、大画面の新文芸坐など、ちょっとしたミニシアターより鑑賞条件はいい。劇場や寄席は椅子が狭い所が多くて疲れる。一日何回も上映できる映画と違って、あまりゆったりした劇場を作ると採算が合わないかとは思うけど。

 その新文芸坐で「ゼロ・グラビティ」「キャプテン・フィリップス」の二本立て、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」「スノーピアサー」の二本立てを見た。最後の「スノーピアサー」を除き、今年の米アカデミー賞作品賞ノミネート。他には「それでも夜は明ける」「アメリカン・ハッスル」「ダラス・バイヤーズクラブ」「ネブラスカ」「あなたを抱きしめる日まで」ともうすぐ公開の「her/世界でひとつの彼女」の9本がノミネート。こうして見ると、一番破綻がなく、社会的意味も大きい感動作はやはり「それでも夜は明ける」になるのかなあと思う。

 「ゼロ・グラビティ」は、少し見たら僕の好みではないと判った。もっとも「2D」で見たから、「3D」で見るべきだと言われてしまうかもしれない。でも、映画の設定自体が心に迫って来ないのだから、同じだと思う。宇宙空間の再現とか、主人公をめぐる緊迫感などの緊張を評価する意見も判らないではないけど、「セデック・バレ」なんかこそが僕の評価する緊迫感である。結局、テーマそのものへの違和感というものから、僕は最後まで逃れられなかったのである。「キャプテン・フィリップス」も同様。別にソマリアの海賊にシンパシーを抱くわけではないのだが、あの米艦が現われるシーンなども見ると、正直「引いてしまう」という感じ。

 「ウルフ・オブ・ウォールストリート」は、この長い表題は何とかならないのか。「ゼロ・グラビティ」も普通は判りにくいと思うが(ちなみに、原題はただの「グラビティ」=重力」である)、こっちは「ウォール街の狼」ではダメなのか。この映画もそれほどすごいとは思えないけど、スコセッシ、ディカプリオのコンビが自在に映画空間を操っているのが楽しいと言えば楽しい。まだ、株取引がネットになっていない時代に、基本的には皆をだまして大金持ちになろうという話だから、これも後味は良くない。主演男優賞はマシュー・マコノヒーに持っていかれたが(こっちにも助演してる)、レオナルド・ディカプリオの薬物中毒シーンなどは見所で、「ギルバート・グレイプ」を思い出す感じ。ホントはこういう演技をしたいのだろう。「スノーピアサー」は、韓国のポン・ジュノがハリウッドで撮った大作で、「現代の箱舟」になってしまった列車内の階級闘争を描くSF。地球温暖化を防ぐため世界で協力して薬剤をまいたところ、世界が凍って人類は何でも自給できる列車に乗った人々以外は絶滅する。という設定が全然納得できないが、映画そのものはそれなりに面白い。ポン・ジュノは「殺人の追憶」が最高傑作。

 それ以外の新作は株主優待で見ることが多いが、先ほどのアカデミー賞ノミネート「あなたを抱きしめる日まで」も見た。主演のジュディ・デンチは素晴らしい。アイルランドで未婚の母が修道院に収容され、子どもは米国に多額の寄付と引き換えに養子に出されていたという実話の映画化。教会というところもひどいことをするもんだ。アカデミー賞関連では「8月の家族たち」が良かった。メリル・ストリープと言えば、アカデミー賞を主演で2回、助演で1回、他にもカンヌやベルリンでも受賞しているが、何と言ってもアカデミー賞主演女優賞に15回ノミネートという偉業をこの映画で達成した。今さらと思われ受賞しなかったけど、演技自体は今回は15回の中でも上の方だと思う。とにかく毒舌というか、すさまじい母娘の葛藤で娘のジュリア・ロバーツもすごい。ユアン・マクレガーやサム・シェパードなど助演陣も芸達者ばかりで、原作は戯曲だというが、すさまじい家族のいさかいを通し、いろいろと考えることになる。僕はこの映画はアカデミー作品賞にノミネートされてもよかったと思う。

 時期的にアカデミー賞関連が多くなったけど、実は一番良かったのはアスガ-・ファルハディ監督の「ある過去の行方」だった。この監督の名前が覚えられないのだが、イランの監督で前作「別離」がアカデミー賞外国語映画賞を取った。日本でもキネマ旬報2位。だけど、イラン独特のイスラム法に基づく様々の出来事が正直言って理解できない部分が多かった。その前のベルリン銀熊賞の「彼女が消えた浜辺」も同様。今回はフランスで作り、演出力の確かさと力量がまざまざと判る。昨年のカンヌ映画祭の女優賞を取っていて、ペレニス・ベジョと言っても判らなかったけど、「アーティスト」の主演女優である。今回は感じが全然違い、男を何人も変えて来た女。正式に離婚するために、イランに帰ってしまった夫を呼び返す。今の彼、その妻、母になつかない娘。娘が抱える心の悩みは何か。脚本も素晴らしい。これは傑作だと思う。

 日本映画の新作をあまり見なかったけど、呉美保監督、佐藤泰志原作の函館ロケ映画「そこのみにて光り輝く」。前に作られた「海炭市叙景」が、函館と言わず海炭市と名を変え、様々な人々を点描する(ロバート・アルトマンの「ショート・カッツ」みたいな)映画だった(原作も同じ)そこのに対して、こっちは函館の映画となっている。主演の綾野剛、池脇千鶴が素晴らしく、下層の男と女、傷ついた男と女の結びつきが心を打つ。今年の邦画の収穫だと思う。まあ、池脇千鶴もいい年になったなあと思ったけど。故市川準「大阪物語」の時は18歳、「ジョゼと虎と魚たち」は23歳だった。まあ、コンスタントに出てて去年だって「舟を編む」に助演してるけど、本格的主演で有力な女優賞候補だと思う。ところで、以上僕がいいなと思った3作「8月の家族たち」「ある過去の行方」「そこのみにて光り輝く」は共通性があると今気付いた。決して幸せとは言えない家族、男と女の葛藤が、美しい風景や忘れがたい都市景観の中でじっくり描かれる人間ドラマ。これは映画に限らず、ジャンルを問わず、そういう物語に惹かれる。別にSFやアクション、ミュージカルなどをそれだけで嫌いなわけではないけど。ちゃんとしたドラマが見たいというだけ。

 記録映画は「アクト・オブ・キリング」は別に書いたが、それ以外に「世界の果ての通学路」を見た。これはヒットするだけのことはある素晴らしい映画。特にあまり映画を見ない若い人に是非見て欲しい。「今年の見て良かった映画賞」を選ぶと絶対上位に行くと思う。ケニア、アルゼンチン、モロッコ、インドの4人の子どもたちが、何時間もかけて通学するところをドキュメント。アイディア賞ものの記録映画。いやあ、世界は広い。全国の学校にDVDを送って、日本の子どもたち全員に見せたい。

 一応書いておくと、岩波ホールでアンジェイ・ワイダ「ワレサ 連帯の男」をやってる。ワイダとしては作っておきたい映画なんだと思う。メイベル・チャン「宗家の三姉妹」、クリント・イーストウッド「J・エドガー」、マルガレーテ・フォン・トロッタ「ハンナ・アーレント」などと同じく、基本的に知ってる話だけしか出てこないので、こういう映画は困るなあ。まあ、知らない人の方が多いんだろうから、作る意味を認めないわけではない。「宗家の三姉妹」なんか、日本ならともかく、今は中国でも知らなかったなどと言われたらしいから。でも、見てて何の発見もなくて、そっくりさんを楽しむだけというのは辛い。まあ、サッチャーと違い、本人は問題ないけど。そう言えば、ポーランドの戒厳令を発布したヤルゼルスキの訃報も最近伝えられた。今こそ、全世界で「自主労組・連帯」が必要なんだと思うが、そういう作りではない。当時は日本でも結構ポーランド連帯運動があり、高橋悠治の水牛楽団のコンサートなどにも行った覚えがある。現代史、特にポーランドに関心がある若い人は、見て知識を吸収しておくべき映画だろう。そういうジャンルの映画というのもあっていいのだと思う。まあ、ワイダやゴダールがまだ活躍してることを素直に喜べばいいかもしれない。
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六義園と旧古河庭園

2014年05月28日 22時58分27秒 | 東京関東散歩
 東京都立の庭園は9つあるが、「庭園へ行こう」というサイトで、まとめて紹介されている。バラの季節の旧古河庭園に合わせて、六義園にも行ったので、その時の散歩のまとめ。山手線の駒込駅というのは、よく通るけどあまり降りたことのない駅である。そのすぐ南側に六義園、北へ少し歩くと旧古河庭園。両方合わせた共通券も出していて、400円。ただし、所在地の地名で言うと、駒込駅は豊島区で、六義園は文京区、旧古河庭園は北区と全部違っている。全部、それぞれの区のはずれの方にあるのである。

 さて、まず「六義園」から。読み方は「りくぎえん」である。昔、三百人劇場というところに行った帰りに寄ったことがあるけど、20年ぶりぐらい。5代将軍綱吉の側近、柳沢吉保が1702年に築園したもので、大名庭園の名園中の名園。国の特別名勝に指定されている。下に示した横長の写真は、上下をトリミングしただけだが、泉水と築山を広々と回遊する庭園だけに、普通に撮ると空が大き過ぎ。
   
 少し時間を前に戻して、入り口から見ると、壁がレンガである。それはどうしてかというと、プレートで説明があって、明治時代に三菱の岩崎弥太郎が買ったのである。江戸にあった大名庭園を今に残したものは、明治の財閥だったというわけである。岩崎家が1938年に東京市に寄付し、1952年に国の特別名勝に指定された。特別名勝というのは、全国に36しかなく、その中には富士山、上高地、十和田湖・奥入瀬渓流など自然景観も入っている。日本三景、日本三名園などもすべて指定されている。関東地方で指定されているのは東京の六義園小石川後楽園浜離宮庭園の三つしかない。すべて大名庭園である。日本三名園も大名庭園だし、結局寺社や財閥、貴族ではなく、大名が作った庭園が今に伝わったわけである。先に挙げた三つはいわば「東京三名園」とも言える存在だろう。最後の写真は園内にあった柳沢吉保の肖像画。
   
 中に入ると、風景がさっと開け、開放感が素晴らしい。水に松の緑、つつじの赤が点在し、広々した気持ちになれる。この快さは何物にも代えがたい。日本庭園の傑作中の傑作だと思う。庭園に入った時の気持ち良さが、もう尋常ではなく、ここは素晴らしいなあと思う。園内をめぐると、最後の方に「藤代峠」という場所があり、35メートルだという。登ると園内が一望でき、ここは落とせない場所だ。その近くの風景とあわせて。
    
 六義園という名は、中国の詩の分類法(詩の六義)にならって、紀貫之が古今和歌集の序で和歌を6つに分類した言葉から来ているとある。何だかよく判らないが、読みは漢音で「りくぎ」と読ませている。柳沢吉保は「むくさのその」と呼んでいたという。吉保というと歴史上悪役扱いが多いが、綱吉自身も幕政を文治に転換した人物で、これほどの名園を作るという力量からしても並々ならぬ教養の持ち主だったのではないか。今度は秋の紅葉の頃に訪れてみたいと思う。さて、そこから駒込駅方面に本郷通りを戻る。駅の裏のあたりに「染井吉野発祥の地」という碑がある。少し歩くと左手に女子栄養大学。誰でも入れる喫茶もあるようだけど、今は通り過ぎる。霜降橋交差点からもう少し坂を歩くと、左手に旧古河庭園がある。
   
 手前のバラを変えて洋館を撮っただけだけど、東京でも一番好きな風景の一つである。やはりどっちかというと洋館の方が面白い。特に春秋のバラが咲き誇る時期は一番客が多い。後で載せるけど、ライトアップ用の照明が目立つし、写真を撮るカップルなどが多くて、被写体としては難しい。元は陸奥宗光の屋敷だが、陸奥の次男が古河市兵衛の養子として二代目となった関係で古河の所有となった、洋館は3代目虎之助の時、1917年に建築された。ジョサイア・コンドルの設計。鹿鳴館や旧岩崎邸の設計で知られる人である。昔も今も、足尾鉱毒事件と田中正造に関心があり、その意味では「敵の館」なんだけど、時間が経ってしまえば文化財。今は国民の財産であり、国の名勝。昔は映画撮影にも使われ、「何か面白いことないか」(1966、蔵原惟惟監督)や「日本春歌考」(1967、大島渚監督)などに使われている。ここだと思うけど。
   
 横から見ても面白く、建物の正門の方も面白い。中も見られるんだけど、別に往復はがきで事前予約しなくてはならず、まだ見たことはない。武蔵野台地の上の方に洋館があり、降りたところにバラの庭園。そこでもう満足した気持ちになって、バラのアイスでも食べて帰ってしまいがちなんだけど、さらに台地を下ると、日本庭園がある。もっとも六義園から来るとスケールが何十分の一という感じなんだけど、それなりに趣はあるし、案外深くてビックリする。この地形の妙も面白い。でもまあ、やはりここはバラと洋館の場所だなと思う。
  
 バラフェスティバル期間中、何にちか、夜のライトアップがあり、今まで行ったことがなかったので今度訪ねてみた。でもバラに当たる光が写真的にはジャマなことが多い。日本庭園の方はかなり暗い。ムードはあるので、また行ってみたいなと思いながらも、なかなか写真は撮りにくいなあと思った。
  
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映画「アクト・オブ・キリング」

2014年05月27日 20時21分17秒 |  〃  (新作外国映画)
 ドキュメンタリー映画「アクト・オブ・キリング」(THE ACT OF KILLIG)を見た。こういう映画の紹介は難しいけど、社会的なテーマを扱った記録映画として、非常に画期的な手法だし、また相当評判になっているので、やはり紹介しておきたい。
 
 紹介が難しいと書いたけれど、テーマ的にハードな問題を扱っているから、どう紹介しても見ない人は見ないのではないか。また、テーマ的な関心がある人には、もう情報は大体届いているのではないか。一番大きな問題は、事前に「手法」を知ってみると、「面白み」が多少薄れる感じもするのである。そういった意味で、本当は「知らずに見てしまう」のが一番かもしれない。と言いつつも、「是非とも見るべき重大な問題」を提出しているので紹介しないわけにもいかない。

 この映画が扱うのは、インドネシアで1965年、66年頃に100万~200万人にのぼる「共産主義者」が虐殺された事件である。監督のジョシュア・オッペンハイマー(1974~)は、インドネシアで記録映画を撮っていて事件を知り、被害者側の証言を撮影するようになった。ところが軍の妨害が激しく、映画の完成を諦めなければならなくなる。その時、加害者の証言を撮って欲しいと被害者側から提案された。そこで加害者側に接触してみたら、語る語る、自慢げに虐殺の様子を得々と語り始めたわけである。特に身振り手振りで再現する人もいて、では「映画にしてみては」ということになった。つまり、加害者に当時の虐殺の再現ドラマを撮りましょうという企画である。無論、監督のもくろみは恐るべき虐殺事件を告発することなんだけど、この虐殺が否定されず、英雄的行為とみなされている社会では、普通は隠されるべき事件が堂々と表現できるのである。しかし、世界のほとんどの国では、これは「グロテスクな真実」を証明する映画にしか見えない。もちろん、監督もそれをねらっている。そこで見えてくるものは何か。

 この虐殺事件の解説は後回しにして、映画の中身を追っていくと、初めは何の後悔もなく殺し方の説明をしていたような人でも、やはり自分のやったことはやり過ぎだったのではないか、被害者に恨まれているのではないかなどと気にしていることが判ってくる。虐殺者として何人かの人物が出てきて、それぞれ少しづつ違うのだが、どの人も社会の大物ではなかった。軍や警察が直接関与するのではなく、下請けの「ヤクザ」にやらせたのである。彼らは「プレマン」と言われていたというが、これは「フリーマン」(英語の「自由人」)から来ているという。中心となるアンワル・コンゴという人物は、北スマトラのメダンで映画館のダフ屋をしていたが、共産党がアメリカ映画の公開に反対していたこともあって反共意識があった。ナチスなどでもそうだけど、社会の中で疎外されている層を組織して「汚い仕事」を任せるようになる。そういう層は外来思想を忌避して「伝統」にすがることが多い。今でも「パンチャシラ青年団」という反共組織が大きな勢力を持っているらしい。(「パンチャシラ」は、インドネシアの「建国五原則」のことで、第一項に「唯一神への信仰」がある。)

 この映画が興味深いのは、このように初めは虐殺を自慢していたような人々も、実は自分たちの方が残虐だったのではないかなどとだんだん思うようになっていくプロセスである。そこが一種の「ロール・プレイング療法」ともいうべき効果を上げ始めるのである。「演劇セラピー」と言ってもいい。これは少年犯罪やDV、ストーカー事件などで、自分に対する「振り返り」を行う時に非常に有効性を発揮するのではないか。この映画でも、虐殺を誇るはずの人々がだんだん変わって行ってしまうのである。そこにハンナ・アーレントが言うところの「悪の凡庸さ」を見て取ることもできる。命令され得意げに暴力をふるっていた過去を持つ、「ただの平凡な男の人生」が透かしだされてくる。

 インドネシアの現代史に簡単に触れておきたい。インドネシアは第二次世界大戦以前はオランダの植民地「オランダ領東インド」だが、日本占領が終わる間際に独立を宣言した。その後オランダが戻ってきて独立戦争が続くが、結局1949年に独立を達成する。(この独立戦争には一部の日本軍人も参加していた。)独立運動の中心人物だった有名なスカルノが初代大統領になった。日本人のデヴィ夫人が第三夫人になったことでも知られる。スカルノは1955年にアジア・アフリカ会議(バンドン会議)を主宰し、インド、中国などと第三世界のリーダーとしてふるまった。63年にイギリス領のマレー半島やボルネオ北部(サバ、サラワク)、シンガポール(65年まで)がまとまって「マレーシア」を結成した時には、「帝国主義」として激しく非難。1965年1月には、国際連合を脱退してしまう。そんなスカルノを支えていたのが、中国とインドネシア共産党だった。インドネシア共産党は、共産圏以外で最大の党員数を誇り、反共意識の強い陸軍との対立が深まって行った。

 1965年9月30日に、「9月30日事件」が起きる。この事件の真相はまだまだ不明の点が多いが、表面的には急進左派系の軍人がクーデターを起こそうとして、それを予期していたスハルトらの軍上層部がカウンター・クーデターによって実権を握ったというものである。中国共産党やアメリカ情報部の役割などがあったのかもしれないが、よく判らない。この後、インドネシア各地で「共産主義者」と目された人々への虐殺が始まった。基本的には「イスラーム社会」としての無神論(共産主義)への民衆的反感、東南アジア一帯に広がる「経済を握る華僑への反感」をベースにした反中国人意識などがあった。虐殺だけでなく、100万人規模の政治犯が流刑などに処せられた。スハルトは1968年に大統領となり、「開発独裁」の典型のような強権政治を行ったが、1998年のジャカルタ暴動で長い独裁が崩壊した。

 その後、一定の民主化が進み、大統領も選挙で選ばれるようになった。スカルノの娘であるメガワティも大統領になった(2001~2004)こともある。だから、過去の虐殺事件もオープンになったのかと思っていたが、この映画を見ると、そうではないことが理解できる。「9・30事件」とその後の共産党壊滅が、現在のインドネシア社会の前提とされていて、虐殺事件見直しはタブーなのである。だから、虐殺者がテレビに出て、こうやって殺したなどと語れる。「社会の防衛者」として今も英雄なのである。

 僕もこの映画を知るまで、この虐殺事件のことを誤解していた。虐殺そのものは、かなり知られている事実なのだが、普通世界で起こる同種の事件の場合、一応「裁判」とか「収容所」がある。つまり、「殺人は悪」だから、「裁判を通した合法化を装う」とか「民衆に見えないように、逮捕、収容などを行ってから虐殺する」というのが普通である。スターリンの粛清、ナチスドイツのユダヤ人虐殺、南米各国の軍事政権下の虐殺など、大体そうである。そうでない場合、民衆による虐殺事件などでは、日本の関東大震災時の様々な虐殺事件のように、ほとんどは「証拠がないとして闇に葬られる」けれど、「時には行き過ぎもあった」として「一部は裁判になる」。だから、「証拠さえあれば、当局も一応起訴せざるを得ない」ことが前提になる。そういう社会でも、政府側は隠ぺいを図るが、虐殺事件そのものを「良かった」とは言えないのである。ところが、この映画を見ると、「虐殺は良いことをした」と今もなお称賛されている。「政府当局者の法執行の行き過ぎ」などではなく、普通の民衆が刃物や針金による絞殺などで残虐に殺したのである。そんな事件が今もなお「肯定的に語られる社会」がごく身近にあったということが信じられない。今もなお、社会のタブーであり、インドネシア側で製作に協力したスタッフのほとんどは、「匿名」でクレジットされている。映画のラストに「anonymous」ばかり出てくるのは衝撃的である。

 東京では、シアター・イメージフォーラムで4月半ばから上映中。もうしばらくはやっているらしい。各地での上映は、5月末から6月にかけて行われる地方が多いようである。けっこうしんどい映画だと思うけど、こういう映画も見ないといけない。
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集団的自衛権の歴史-「集団的自衛権」問題④

2014年05月25日 23時58分06秒 | 政治
 今回はそもそも「集団的自衛権とは何だろうか」ということを考えてみたい。国家に「自衛権」があるということは「国際法」の考え方だから、列強が植民地争奪戦を行っていた時代には直接は関係ない。ちょうど100年前に第一次世界大戦(と後に呼ばれることになる大戦争)が始まった。ヨーロッパでは、オーストリア=ハンガリー二重帝国、ロシア帝国、オスマン帝国が崩壊し、「民族自決」が(かなりの程度)実現した。そうすると、安全保障上は「弱国」が誕生したわけだが、国際平和機関として「国際連盟」が創設された。もっとも言いだしっぺのアメリカが議会で否決されて参加しなかった。革命が起こったソ連や敗戦国のドイツも当初参加できなかった。だから、英仏に加え、イタリアと日本が4大国だったのである。

 ところが、その日本とイタリアは後に国際連盟を脱退してしまう。満洲とエチオピアへの侵略を連盟で批判されたからである。参加を認められていたドイツとソ連も、それぞれ脱退してしまう。こうして、ドイツの東ヨーロッパ侵略やソ連によるフィンランド戦争、あるいはバルト三国併合などは、国際連盟では解決できなかった。人類は第一次大戦の四半世紀後に、さらに拡大した第二次世界大戦が起きることを防げなかったのである。

 1939年8月23日に、ドイツとソ連が突然独ソ不可侵条約を結んだ。これは世界に非常に大きな衝撃を与え、日本の平沼内閣は総辞職し、フランスの作家ポール・ニザンは共産党を離党した。一方、独ソ両国にはさまれたポーランドは、25日にイギリス、フランスと相互援助条約を結んだ。相互援助を掲げた同盟関係だけど、ポーランドが英仏を援助する軍事的、経済的力量はなかったわけだから、要するに「英仏の威を借りて独ソをけん制する」ということである。不可侵条約の秘密協定に基づき、ドイツは9月1日に、ソ連は17日にポーランドに侵攻する。英仏は条約に基づき、9月3日にドイツに対し宣戦を布告した。この段階では、英仏がドイツに直接攻撃されていたわけではないのだから、この時の英仏の参戦こそが、今の言葉で言えば「集団的自衛権」の発動だということになるだろう。「今の言葉で言えば」と言うのは、当時は「個別的」とか「集団的」とかいう概念はまだ発明されていなかったからである。

 第二次大戦後の国際連合においては、国連憲章で加盟国に個別的、集団的自衛権の行使が認められている。(第51条)だから、国連加盟国である日本にも、集団的自衛権そのものがあることは当然である。問題はそれを行使するかどうかであり、また憲法上行使できるかどうか(できないなら改正するかどうか)ということである。もちろん、行使するかどうかは、日本国民が自由に判断するべき問題である。行使しなくても(国際法上は)何ら問題はないし、日本が不完全な国家だということもない。スイスが永世中立国であるからおかしな国家とは言えないように(だからEUにも入らない)、日本もケータイ電話のごとく「ガラパゴス化」したって何の問題もない。(いいか悪いかの問題、憲法に合致するかどうかの議論とは別。安倍首相は、国連憲章にある権利を行使できないこと自体を日本の戦後が間違っていた理由とさえ考えているらしいので、あえて確認した次第。)

 ところで、国連憲章は無条件に自衛権行使を認めているわけではない。(個別的、集団的どちらも。)「安全保障理事会が国際連合の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」と書いてあるのである。つまり、国際連盟に失敗を見て、戦後の国際連合では「安全保障理事会の常任理事国」に大きな責任を負わせたわけである。責任と同時に、戦前のように勝手にどんどん脱退しないように「拒否権」という特権中の特権を与えた。その結果、確かにソ連もアメリカも脱退するとは言わないが、冷戦当時は安保理で何も決められないという事態に陥った。現在でも、イスラエルの安全に関してはアメリカが強硬だし、シリアや北朝鮮問題ではロシアや中国が反対するから、なかなか有効な手立てが取れないのは見ての通りである。拒否権を認める以上、そのような事態は予想できるから、安保理で必要な措置を取るまでは「個別的、集団的自衛権を認める」ことになったわけである。

 個別的と集団的の違いがどうして生まれたかはなかなか難しいが、豊下楢彦「集団的自衛権とは何か」によれば、米州機構のチャプルテペック決議というものが大きく影響している。これはメキシコで開かれた米州機構の会議で、「米州機構の一国に加えられた攻撃は、すべての国への攻撃と考える」というものだったという。英仏などとの協議の中で様々なやり取りがあったが、この米州機構の考えが認められていったわけである。小国は(安保理が機能しないとしたら)、自国だけでは侵略に対処できないから、この「集団的自衛権」に頼るしかない。「自国だけでは侵略に対処できない」国は、大昔は植民地にされてしまったわけだけど、第二次世界大戦後は世界的に「民族自決」が認められ、非常に小さい国もある。

 だから、「集団的自衛権」という考え方そのものは有効だし、あってしかるべきものである。でも、もう一回戦後史を思い起こしてみれば、アメリカやソ連が自国の支配圏に国々に行った「不当な軍事行動」、例えばアメリカがドミニカやニカラグアに対して、あるいはソ連がハンガリーやチェコスロバキアに対して行った軍事行動は、「集団的自衛権」の名のもとに正当化されてきた。ベトナム戦争やソ連のアフガニスタン侵攻(1979年)も「集団的自衛権」の発動だった。つまり、「集団的自衛権」というものは、実質上自国の支配圏というものがある国にとっては、都合のいい考えだということである。フランスがアフリカの旧支配圏の内戦やテロ組織攻撃にフランス軍を出すのもそうだし、ロシアが旧ソ連の国々、グルジアなどに軍事行動を起こすにもそうである。

 ヨーロッパの戦後史は、アメリカとソ連の狭間でいかに独自性を保持するかということで、「欧州統合」が進められてきた。1989年の東欧革命で、事実上ロシアの植民地だった東欧が解放され、軍事上はNATO(北大西洋条約機構)が拡大していった。現在旧東欧圏も含め、28か国が加盟している。EUの正式メンバーではないトルコやノルウェイも入っている。また下部機関の「欧州・大西洋パートナーシップ理事会」(EAPC)には中立国のスイス、オーストリアや旧ソ連の国々(ロシア以下12か国)も参加している。だから、ヨーロッパでは「集団的自衛権をどう考えるか」などといった問題は存在しない。よく日本では、戦後のドイツの歴史に学ぶべきだという人がいるが、ドイツは完全にナチスの過去を克服し、欧州の一員となったことにより、NATOの軍事行動にも当然参加している。199年のコソヴォ紛争ではセルビアの空爆にドイツ軍も参加した。当時の社民党のシュレーダー政権で、外相は「緑の党」のフィッシャーだったが、党内で激論の末、政権重視の立場から軍事行動を容認した。2001年のアフガニスタンでの軍事行動にも参加した。しかし、2003年のイラク戦争には国連安保理の非常任理事国として反対を貫いた。

 日本でも、「戦争責任問題の最終解決」と「アジアの統合」が進んで行けば、成立した「アジア連合」の軍事行動に参加するべきだという議論は出てくると思う。しかし、現状はその正反対の状況にある。アジアの集団安保機構は存在しない。日本の「支配圏」などというものは、(かつてはあったが敗戦により失って)ない。日本が関わる可能性がある「戦争」があるとすれば、それはアメリカも関わる戦争しかありえない。アルジェリアで日本人がテロ組織によって人質になっていたとしても、もちろん自衛隊が救出部隊を独自に派遣することなどできない。世界のどこに地域に何が起こったとしても、政治的にも経済的にも、もちろん軍事的にも日本がただ一国で出来ることはない。

 安倍首相がいろいろ強弁しているが、「集団的自衛権」の行使である以上は、「自衛隊が他国の軍隊のために戦う」ということである。それは日本が独自に判断することのはずだけど、現実の力関係を冷静に考えれば、アメリカが関わる戦争で下働きをするということである。「日本人を救出した米艦を防護する」などという事態がありえないことは前に書いたし、それは別にしてそういうことがあるとしても、それは個別的自衛権で容認可能なケースだろうとも書いた。ところで「現実を法的にどう位置づけるか」は別として、そういうケースの自衛隊の作戦は「米軍の下働き」ではないのかということである。

 日本は「アメリカの部下」だと言って言い過ぎなら、「目下の友人」だし、それも困るというなら「緊密な友人」でもいいけど、要するに同じ。アメリカの軍事行動にもっと自由に協力したいという、それが「集団的自衛権論議の本質」にならざるを得ない。「日本が戦争しないのは同じ」だと安倍首相が言うのもある意味では正しい。アメリカしか、日本が関わるべき戦争を起こせる国はいない。憲法を変えて、残念にも憲法を変えられないなら解釈を変えて、アメリカの戦争にもっと協力できる国にする。それは「戦争をする国」ではない。この解釈変更を支持する人の頭の中では「国際協力をもっと行う国」に見えているのではないかと思う。だけど、実質は「アメリカの戦争で下働きをする」ということにしかならない。もう一回、日本の戦後史の防衛論議を振り返って考えておきたい。
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「集団的自衛権」問題③

2014年05月24日 00時30分00秒 | 政治
 「集団的自衛権」の問題に戻って。そもそも安倍政権は、何で「集団的自衛権の容認」を検討し始めたのだろうか。それは「我が国を取り巻く安全保障環境の変化」(安保法制懇報告のⅠの2)に決まっているではないかと言われるかもしれないが、どうも僕にはよく理解できないのである。尖閣諸島をめぐって中国との軍事衝突も懸念されているし、または「北朝鮮」の核兵器や長距離弾道ミサイルの開発も進んでいると言うかもしれない。しかし、もう一度よくよく考えてみたい。

 そこには「二重の誤解」がある。まず第一に、それらの問題は「日本に直接的な脅威となるもの」にあたるはずだから、「個別的自衛権」の範囲で考えればいいはずである。自衛隊、及び日米安全保障条約に基づく米軍の行動で対処するべき問題であり、「集団的自衛権」とは何の関係もない。
 もう一つは、「集団的自衛権」の憲法解釈変更は、2006年~2007年の第一次安倍政権でも検討されていたということである。その時の私的諮問機関の答申が出た時には、もう安倍政権は崩壊していて、次の福田康夫内閣はその提言を「たなざらし」にした。その後の内閣も解釈変更を行わなかった。安倍首相は「集団的自衛権」を認めないと国民を守れないかのように言っているが、第一次と第二次の間の政権は何をしていたのか。民主党政権は別としても、同じ自民党の福田(康夫)、麻生の両内閣では何か「国民の安全」に支障があったのだろうか。

 尖閣諸島をめぐる深刻な事態は、2010年以後に本格化したわけだから、第一次安倍政権で「集団的自衛権」を検討した理由にはならない。つまり、「集団的自衛権」という問題は「2007年以前に何が起こっていたか」を思い出さないとよく理解できないのである。ということで、2007年に安倍首相が憲法解釈を変更しようと言いだした時点で出版された、豊下楢彦「集団的自衛権とは何か」(岩波新書)を読み直してみた。その結果、もう忘れてしまっているような当時の情勢を改めて認識することができた。当時のアメリカ合衆国は、ジョージ・ブッシュ(ジュニア)大統領の政権で、同時多発テロ以後、アフガニスタンやイラクと戦争を行っていた。世界に広がるテロの危険を防ぐためには、国連決議などを必要とせず、アメリカ自身が先制攻撃を行うという「ブッシュ・ドクトリン」を発表した時代である。

 アメリカは、その後に自身の起こした戦争で苦しむことになり、かえって世界での影響力を減らした。ブッシュ以後は民主党のオバマ政権となり、「ブッシュ・ドクトリン」は忘れている人も多いかもしれないが、2007年時点で最初に「集団的自衛権」の解禁を検討し始めた時は、ブッシュ政権時だったことを忘れていけない。2001年の「同時多発テロ」後に、当時の国務副長官リチャード・アーミテージは「Show the FLAG」(旗幟を明らかにしろ)と日本側に迫ったと言われる。「ショー・ザ・フラッグ」は当時の流行語となり、2001年の新語流行語大賞のトップテンに入選している。この言葉を浴びせられたとされるのが、当時の駐米大使の柳井俊二だった。この人が安保法制懇の座長である。(例の言葉はアーミテージの言葉ではないという説もある。柳井元大使も否定しているというが。)

 「世界でテロと戦うアメリカのために何ができるか」が、当時の保守政権の課題だったのである。安倍首相の前の小泉政権では、「テロ対策特別措置法」「イラク復興支援特別措置法」を制定し、「戦地ではない」場所で、「個別的自衛権の許される範囲内で」、米軍の「後方支援」を行った。でも常識的に考えて、これは「日本が直接攻撃されていない」段階で、他国(米軍)の支援を行うという、ほとんど「集団的自衛権の発動そのもの」ではなかったのか。自衛隊が展開したペルシャ湾やイラクのサマワなどの場所を「戦地そのもの」ではないと認めたとしても、どう見ても「日本の国土や国民を守るためではなく」「アメリカ軍の支援を行う」という政策だったことは間違いない。

 このような法律こそが「集団的自衛権を認める」ということの意味なのではないか。いくら「日本人を守るために必要」などと強弁しても、いったん認めてしまえば、今までは少なくとも「特別措置法」が必要だったのに対して、今後はそれらが「本務」にならざるを得ないのではないか。一応「戦闘行為」そのものには参加しないということは当面その通りかもしれない。しかし、「集団的自衛権」容認後だったら、後方支援には特措法はいらなくなるのではないか。アメリカだって、実戦の戦闘経験もなく、普通の隊員が英語をスムーズに話せないと思われる自衛隊に、直接の戦闘にすぐ加わってくれとは考えないだろう。(安倍政権が「英語教育」を非常に重視しているのは、就職がうまくいかずに自衛隊を志願するようなレベルの隊員でも米軍と共同行動を取れるようなスキルをつけさせたいからかもしれない。)

 当時の米政府関係者は、「北朝鮮」のミサイルが日本上空を飛んでアメリカに到達するような事態が起きても、日本は何もしないのかなどと非常に強く言っていた。その結果、ぼう大な税金を投じて米軍の開発したミサイル防衛システムを自衛隊が備えるに至った。「集団的自衛権」論議と言うのは、元々は日本にミサイル防衛システムを買わせるリクツ作りだったのではないかと思う。そして、「北朝鮮にミサイル発射の兆候がある」とされるたびに、防衛大臣がミサイル撃墜を準備するというバカげた事態が続いている。これは「日本に落ちてくるかもしれない」という「個別的自衛権」で判断されているが、システム自体は日本だけの標的にした以上の能力のミサイルにも対処できるものである。

 「バカげた」と書いた意味は次の通りである。ミサイル防衛システムに実際に撃墜能力があるのか、それ以前に「北朝鮮」のミサイルに確実な長距離弾道能力があるのか。あるとして「北朝鮮」が実際に米本土に向けて発射することがあるのか。(それは北朝鮮指導部の自滅行為であると同時に、もし本当に戦争になるとしたら本土をねらう以前に韓国や日本にある米軍基地をねらうのが先だろうということでもある。)「北朝鮮」は何を考えているか判らない「狂気の政権」だと思う人もいるかもしれないが、安倍政権も「北」を相手に拉致問題協議を続けているのだから、そういう認識は持っていないはずである。

 と言ったような政治、軍事情勢の問題もあるが、大体「北朝鮮から日本上空を通る長距離弾道ミサイルを発射する」とどこに着くのか判っているのだろうかということである。もしかして頭の中が「メルカトル図法」? 普通の地図を思い浮かべて、何となく朝鮮半島から日本を通って米国に至ると思っているのでは? 北朝鮮から米本土をねらうとすれば北極方面に発射する必要がある。日本方面に撃てば、ニュージーランド近辺に到着すると思われる。「正距方位図法」で考える、または地球儀上で糸で結んで見れば判ることである。結局税金の無駄使いをさせられたのだと思う。が、そのように思わず、日本も武器輸出に絡めるようにすればいいのだと倒錯して考える(武器輸出三原則を大幅に変更する)のが安倍政権なのである。
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PC遠隔操作事件の新展開

2014年05月21日 23時20分18秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 「PC遠隔操作事件」で起訴され、無罪を主張していた片山被告が、保釈中に「真犯人メール」を自分で送信していた(らしい)という展開があった。その後、「自分が真犯人」だと弁護人に対して認め、保釈は取り消され再収監された。この事件に関しては、まだよくわからない点が多い。その上で今の時点で思ったことを簡単に書いておきたい。

 この事件の一連の経過の中で、一番忘れてはいけないことは、無実の人間が4人も逮捕され、起訴されていたということである。誤認逮捕された人々は「自白」していたわけだから、「全く無実の人間が『自白』調書を簡単に取られる」ということが今も、どこでも起こるという現実が白日のもとにさらされた。このことは、「PC遠隔操作冤罪事件」で書いている。

 その後、片山被告が逮捕され、再逮捕が続き、起訴された。片山被告は無罪を主張していたが、それもありえなくはないとも思っていたが、記事には書かなかった。今書いても仕方ないんだけど、幾分かの「真犯人らしさ」も感じないではなかったのである。僕は何人もの冤罪被害者の話を聞いたことがあるから、どうもあの感情がよく伝わってこないような表情に、正直あまりいい気が持てなかったわけである。それに「雲取山」(頂上付近にUSBメモリーを埋めた)というところに何か引っかかるものがあった。江ノ島に行くのは簡単だけど、雲取山に登るのはそう簡単ではない。昔は秩父の三峰からロープウェイがあり、そこから縦走できた。僕も登ったことがある。でも2007年に廃止になったので、「真犯人」がわざわざ登るのは相当に大変ではないか。何にせよ、日帰り登山はほとんど不可能である。(雲取山は東京都の最高峰。)

 ところで、この事件で「保釈」に関して誤解が広がってはいけない。今回の「保釈取り消し」は、「保釈条件違反」だから当然である。具体的は「証拠隠滅」ということになるが、証拠を隠滅したというのとはちょっと違って、自分で「証拠ねつ造」を行ったということである。だが、同時に「逃亡」(事実上は自殺)や第三者による襲撃などもありえなくはないので、収監されるのはやむを得ない。

 でも、保釈したのが間違いと言うことではない。殺人事件でもないのに、1年以上身柄を拘束されていた。それでも「自白」しない「真犯人」もいるということである。人それぞれで、やはり「人質司法」には意味がないということである。外国では、居場所を示す措置(GPS機能付きのアンクレットを常時付けるなど)を条件に保釈すると言う場合もある。そこまですると、ちょっとどうかなとも思う部分もあるが、裁判所に届け出た携帯電話を常に電源を切らないようにする、などというやり方もあるのではないか。まだ「推定無罪」の段階にあるわけだから、「証拠隠滅」や「逃亡」をしない限り、できるだけ身柄は自由でなくてはならないと思う。今回も、実はもっと早く保釈していれば、もっと早くボロを出していたわけだと思う。

 保釈中の被告を「行動確認」(尾行)していたわけだが、これに関しては判らない点も多い。ずっと尾行していたのではなく、5月になってからと言う話もあるようだが、「何か」のきっかけがあったのかもしれない。とにかくその場ではすぐに掘り返さなかったと思われる。「真犯人メール」が発信されてから、あの時に何かあったと判断して発掘したのではないか。(メール送信は16日の公判中で、埋めたのは15日だと言われる。)しかし、19日の記者会見に被告は現れなかった。その後、自殺しようと思ったけどできなかったなどと語ったということだが、この時は「行動確認」していなかったのか。自殺されては、真相不明のまま裁判終了になる可能性もある。「行動確認」していなかったとは信じられないのだが。

 裁判上の「無罪」と事件の「無実」とは違う。今回も本人が認めても、自白だけでは有罪に出来ないわけだから(憲法の規定)、他の物的証拠がしっかりしているかどうかである。有罪の立証は検察側の役割だから、被告・弁護側の主張が変わろうが直接の関係はないはずである。今回のように、被告本人が真犯人でも、そのことは捜査当局にも弁護人にも隠し通し、あくまでも無罪を主張する場合もあるだろう。もっとも、捜査がしっかりしていれば、有罪判決になるうえ、反省をしていないと量刑が重くなる可能性が高い。弁護人の役割は、真犯人を突き止めることではなく、被告人の代弁をすることだから、本人が無罪を主張している限り、その線で裁判を進めるしかない。今度は被告が有罪を認めると言えば、それに従うことになるが、そういう弁護人に対して「首尾一貫しない」などと非難してはいけない。被告人の法的代理人を務める人が必要だと言うのが、「文明の知恵」と言うものである。

 今回一番思ったことは、「あまりにも稚拙な行動」に、どうしてこういう行動を取るのか、人間としての深い研究がいるのではないかということである。この人物は、以前に似たような事件を何回か起こしていて、有罪の実刑判決を受けている。すべてパソコンを通した事件である。自分で直接起こすわけでなく、パソコン上だけで「殺す」「襲う」などと書き込むことで他人の人生を変えてしまえる。そういうことを一回ぐらい面白半分にやってしまう人はいるかもしれないが、このように繰り返して行った人物は今までいないのではないか。もっと完全に「ハッカー」としてパソコンを操っている人はいるのかもしれないが。そのような意味で、今後も注目すべき事件なのではないかと思う。

 今回の事件を通して思うことは、「無罪主張を貫いて生きる」と言うことがいかにすごいことなのかと言うことである。「無罪」をあれほど強く言っていたけど、実は真犯人だったではないか、だから他に冤罪を訴えている人も実は有罪なのではないかなどと考えるとしたら、人間の理解として不十分なのだと思う。今回は保釈後数カ月で自ら墓穴を掘ってしまった。何十年も、人前に出て集会で無実を訴え、穏やかに自らの主張を貫いて、また自分以外の冤罪事件の集会にも駆けつけるような人。そういう人もいるのである。それこそ「行動証拠」として、無実を明かしていると言うべきなのである。ちなみに布川事件の桜井昌司さんは、自分のブログで以下のように書いている。
 「この事件を警察と検察は教訓にしなければならない。片山くんを強引に調べてないよね、保釈もしたよね、真犯人は、必ずボロを出す。強引に調べたり、長期間の拘束をする必要はない。そして、何年にもわたって無実を主張し、一筋に生きられる人は無実なのだと知って欲しい。」
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「集団的自衛権」問題②

2014年05月19日 23時01分15秒 | 政治
 世界の多くの国で、「国民の分断」が進んでいる。ウクライナの東西の分裂、タイのタクシン政権評価をめぐる果てしない政争、ベルギーのオランダ語圏とフランス語圏の対立、アメリカ合衆国の民主党支持者と共和党支持者の分断、ナイジェリアを中心にしてサハラ南部地域一帯におけるイスラームとキリスト教の抗争…。アフリカの諸国家は、まあ近代的な国民国家ではないともいえるが、こうしてみると民族を中心にした国民国家という概念が揺らいでいるのではないか。

 日本の「集団的自衛権」をめぐる問題も、第二次世界大戦後の国家のあり方をめぐるイメージが完全に分断されていることの現れではないかと思っている。安倍首相は、記者会見で「こうした検討については、日本が再び戦争をする国になるといった誤解があります。しかし、そんなことは断じてあり得ない。日本国憲法が掲げる平和主義は、これからも守り抜いていきます。このことは明確に申し上げておきたいと思います。」と述べている。しかし、「限定的」であれ、いったん集団的自衛権を容認してしまえば、いずれ何らかの「国際情勢の変化」が起これば、この限定が取り外され、日本が外国の戦争に参加する事態になるのではないか、と心配する声も強い。

 同じ記者会見で安倍首相は「内閣総理大臣である私は、いかなる事態にあっても、国民の命を守る責任があるはずです。そして、人々の幸せを願ってつくられた日本国憲法が、こうした事態にあって国民の命を守る責任を放棄せよと言っているとは私にはどうしても考えられません。」と言っている。このような言い回しをするならば、「国民の命を守る」と言う名目さえ立てば、日本国憲法は何でも許容していると解釈出来てしまうのではないか。そんなに日本の首相を信用できないのか、と言われればその通り。戦後の自民党政権の防衛政策史を見てみれば、信用しろという方が無理である。

 そもそも憲法9条を素直に読めば、「自衛隊」や「日米安全保障条約」は憲法違反ではないのか、と思う方が自然ではないか。確かに「砂川事件判決」で、日本国が自衛権を持つという判断が最高裁でなされている。しかし、自衛隊や日米安保条約などは「統治行為論」で憲法判断を避けてきたから、最高裁で明確な合憲判断は出ていない。しかし、長い時間が経過してしまい、今さら大声で「自衛隊違憲論」を主張する向きも最近は少ないようである。政府の憲法解釈は、占領期には吉田首相も個別的自衛権も否定する考えを取っていた。その後、朝鮮戦争の開始により占領軍のマッカーサー最高司令官の指令により、警察予備隊が創設された(1950年)。これが戦後の再軍備の始まりであり、後に保安隊(1952)となり、さらに自衛隊(1954)となった。当初は自衛隊違憲論が強かったため、「専守防衛」「個別的自衛権」を強調してきたわけである。

 その後、「国際情勢の変化」(1991年の湾岸戦争、90年代半ばの朝鮮半島危機、2001年の「9・11米国同時多発テロ」、2003年のイラク戦争、近年の中国軍増強等)を受けた形で、自衛隊の任務は果てしなく拡大し続けてきた。防衛政策、自衛隊に関する主要な法律を見ると、次のようになる。
 
1992 PKO協力法(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)成立
1999 周辺事態法日米ガイドライン法成立
2001 テロ対策特別措置法成立(米国によるアフガニスタン攻撃に協力し、ペルシャ湾で給油等の後方支援を行う)
2003 武力攻撃事態対処関連3法(有事法制)成立
    イラク復興支援特別措置法成立
2006 防衛庁が防衛省に昇格、改正自衛隊法成立(海外派遣が本務となる)
2008 新テロ対策特別措置法成立(2001年法の期限が来たため、2010年まで延長)
2009 海賊処罰対処法成立
2013 国家安全保障会議(日本版NSC)設置法成立

 仮に自衛隊そのものは合憲だと判断するとしても、これらの政策のすべてが認められるのだろうか。僕には、いくら何でも「イラク特措法」に関しては、憲法違反であるとしか思えないのだが。(実際、名古屋高裁で違憲判断が出ている。)テロ対策特措法、イラク特措法はすでに法律の有効期限が終わって失効している。だから今さら合憲、違憲論を交わす政治的意味はないのだが、少なくともイラク特措法は「米軍支援」のため「限りなく戦地」に展開するわけだから、「集団的自衛権の行使」ではないのか。逆に言えば、憲法の枠内でイラク特措法まで可能なんだったら、今回問題になっているような事例のほとんどは、「集団的自衛権」の概念を持ち出さなくても「個別的自衛権の拡大」で認めうるのではないか。「国民の命を守る」ことができるんだったら、集団的自衛権なんか持ち出さなくてもいいのではないか。(今言ったのは、憲法解釈上の問題で、政策が支持できるかどうかの問題はまた別なので、念のため。)

 今、「集団的自衛権」をめぐる議論をするときに、近年の防衛政策の経過を見てくれば、「少しづつ認めさせてきて、だんだん何でもありになる(する)」と言う方向性を感じざるを得ない。だからこそ、これは「最初の容認」であって、だんだん「もっと広い容認」につながるだろうと感じるわけである。もっともそれは、「武力による国際紛争の解決」は避けなければならないという考えに立つ場合の話である。安倍首相などの目には逆に見えているはずである。

 湾岸戦争のように国連安保理の決議があった場合でも、日本は武力行使に加わることができなかった。これは「国家として不完全」であり、戦争に負けた国として作られた憲法が現状に合っていないのだ。だから、日本は今も不完全な国家であり、このような「屈辱的事態」を早く正さなければならない。これが安倍首相などの考え方なんだろうと思う。安保法制懇の報告書では、2回にわたって「集団的自衛権は権利であって、義務ではない」という言葉が出てくる。権利だから、行使するかどうかは、「総合的に判断して」「主体的に決める」と強調されている。

 しかし、これは現実には疑問だろう。前からずっと「集団的自衛権」容認という憲法解釈を取っていたならば、ベトナム戦争やイラク戦争に参加して戦死者が出ていたのは確実だと思う。「日米安保の重要性から、アメリカの派兵要請に応じないわけにはいかない」などと米国の提灯持ちをする輩がいっぱい出てくるのは目に見えているではないか。米国の間違った戦争に加担せず、戦後に戦死者を出さなかったという歴史を誇るべき過去だと考えるかどうか。それとも、「価値感を共有する」米国とともに戦うことで初めて「国家としての誇り」を取り戻せると考えるか。戦後の見方に関して、日本国内を分断するというのが、集団的自衛権をめぐる議論なのである。
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「集団的自衛権」問題①

2014年05月18日 23時07分00秒 | 政治
 辻原登の本はまだ読んでいるのだが、長い小説が多くて読むスピードが追いつかない。国際問題もいろいろあるけど、やはり「集団的自衛権」の問題を書いておきたいと思う。僕には、この問題で安倍首相が提出している問題意識が正直言って判らない。「反対」という以前に、理解不能なのである。だから、それを理解できるように考えるのが、書く意味である。それは何回か続く最後の頃に考えたいと思う。

 論点はいろいろあるが、そもそも「集団的自衛権」とは何か、また「日本国憲法」との整合性というのが、非常に大きな問題である。と同時に、歴史的な視点、また現実的に論じる意味があるかどうかの検討も大切だと思う。「国際的環境が変わった」なる前提で、ありえないような設定をいくら積み上げても意味があるとは思えない。一方、反対している側の論理にも納得できない部分があるので、それは次回以後に書いて行きたい。

 2014年5月15日、安倍首相の私的諮問機関(法的な設置根拠がない)である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(以下、安保法制懇)から報告書が提出された。報告書全文はリンク先の他、各マスコミのウェブサイトなどに掲載されている。また16日付の新聞朝刊にも掲載されている。(けっこう「面白い」ので、全文熟読でなくても、流し読みして見ることをお勧めする。)報告書はもっと前に出来ていたという話だが、様々な政治的な思惑から15日に提出されたという。何も「五・一五事件」や「沖縄返還」と同じ日にしなくてもいいではないか。これが「歴史的鈍感力」のためなのか、あえて「政党内閣終焉」や「第三の琉球処分」に合わせたのかは直接的には知らない。でも、歴史的に敏感な国民も少なかろうという前提があるのは間違いない。

 安倍首相は同日に記者会見を行い、政府の「基本的方向性」を表明した。記者会見に際しては、大きなパネルを使って説明したのを見た人も多いだろう。そのパネルも首相官邸のホームページに出ている。首相の説明によると、「この報告書を受けて考えるべきこと、それは私たちの命を守り、私たちの平和な暮らしを守るため、私たちは何をなすべきか、ということであります。」だそうである。

 そして、具体的な例で説明したいという。それがパネルの絵でもあるのだが、「今や海外に住む日本人は150万人、さらに年間1,800万人の日本人が海外に出かけていく時代です。その場所で突然紛争が起こることも考えられます。そこから逃げようとする日本人を、同盟国であり、能力を有する米国が救助、輸送しているとき、日本近海で攻撃があるかもしれない。このような場合でも日本自身が攻撃を受けていなければ、日本人が乗っているこの米国の船を日本の自衛隊は守ることができない、これが憲法の現在の解釈です。」と言う。
 
 この問題に関しては、最後にまた強調している。「再度申し上げますが、まさに紛争国から逃れようとしているお父さんやお母さんや、おじいさんやおばあさん、子供たちかもしれない。彼らが乗っている米国の船を今、私たちは守ることができない。そして、世界の平和のためにまさに一生懸命汗を流している若い皆さん、日本人を、私たちは自衛隊という能力を持った諸君がいても、守ることができない。そして、一緒に汗を流している他国の部隊、もし逆であったら、彼らは救援に訪れる。しかし、私たちはそれを断らなければならない、見捨てなければならない。おそらく、世界は驚くことでしょう。」

 ここだけ聞くと、いやあ、それは大変だ、今の憲法解釈はおかしいですねえなどと思ってしまいそうである。そういう問題を「安保法制懇」は議論してきて、それはおかしいから変えた方がいいと首相に報告してるんだ、いや、それは必要なことだなどと思いかねない。ところが、実はなんと驚くべきことに、今安倍首相が挙げた事例は、安保法制懇で議論していないのである。安保法制懇は第一次安倍内閣時の「4類型」に加えて、今回6つの具体的行動の事例を検討している。その詳細は次回以後に書くけれど、確かに「公海における米艦の防護」や「我が国の近隣で有事が発生した場合の船舶の検査、米艦等への攻撃排除等」という検討項目はある。しかし、「日本人避難民を乗せた米艦の防護」などは検討していないのである。だから、賛成とか反対とか考える以前に、安倍首相の説明は間違っていたわけである。

 それは首相の理解不足なのか、何か別の政治的目的を持って故意に間違ったのか。新聞には安保法制懇の報告書が掲載されているわけだけど、どうせ多くの国民はちゃんと見ないだろうから、国民の心情に訴えるような具体例に変えちゃえということなのか。国民も舐められたものだと思う。

 それはそれとして、首相の提出した具体的事例も全然判らない。一体、どことどこが戦争するという想定なのか。確かに世界の多くの国に日本人が出かけている。紛争に巻き込まれる人もいる。そのような場合に、自衛隊の船舶が邦人救出に行けないのだろうか。もちろん、それは前から可能である。自衛隊の任務はずっと拡大され続けていて、2013年のアルジェリア事件を受け、それまで航空機と船舶に限られていたものを、新たに陸上輸送も可能になるように改正されている。2013年11月15日のことである。1994年の自衛隊法改正で航空機による在外邦人輸送が本務に加えられ、1999年に船舶も加わった。このように「自衛隊の任務の拡大」が果てしなく進められてきたことに批判もあったわけだが、それはともかく、こうして法改正を行い「自衛隊による邦人救出」ができるようになっているのに、何故米艦でしか救出できないと設定するのか

 それは一説によれば、「朝鮮半島有事」に際して(ということは、朝鮮民主主義人民共和国が大韓民国に戦闘行動を起こし、国連軍を構成する米国軍を中心に軍事的反撃を行うということを想定しているわけだろう)、韓国政府が日本の自衛隊(つまりは、かつて朝鮮半島を支配していた日本軍とも言える)の入国を拒否するかもしれないというケースを想定して「頭の体操」を行っているのだとも言う。その想定は間違っていないだろう。遠いアフリカや中東で似たようなケースが起こったとして、「日本人を救出した米艦」があったとしても自衛隊が米艦防護に掛けつける前にことは終わっているだろう。だから、やはり日本の近くで起こった場合の想定だろう。その場合でも、日本の民間機、第三国の航空機や船舶はないのか。もちろんあるし、それで避難する人がほとんどだろう。

 それ以前に、それほど突然の軍事行動が起きるのだろうか。日本人全員が緊急に国内に避難しなければならないような緊急事態は、急には起こせない。多くの準備行動が衛星から監視されているわけだし、事態の緊迫化は事前につかめるはずである。(1990年のイラクによるクウェート侵攻時も、事前にクウェート国境にイラク軍が集結して事態が切迫しているという報道が相次いでいた。一挙に占領してしまうとまでは想定していなかったと思うが。)だから、「おじいさんやおばあさん、子供たち」が救出する対象にいたら、それは政府の重大な失態である。それ以前に避難勧告を行っていなければおかしい。(大体、祖父母や幼児と一緒に海外に赴任している人がどれぐらいいるのか、僕にはこの情緒的な設定が全く理解できないが。)

 そして、もし自主避難が間に合わず、自衛隊以外で避難しなければならないとするならば、できるだけ米艦で避難することを避けなければならない。なぜなら、交戦当事国の船に乗ったら攻撃される可能性があるからである。米国は交戦中であるという前提なのだから。第三国の船、韓国は電気製品や自動車の大輸出国なのだから日米以外の船がかならず存在するはずである。それでも米艦に頼るしかないとしたら、どうか。そういう緊急事態に、どうして世界最強であるはずの米軍を日本の自衛隊が防護できるのか、理解しがたい。しかし、万万が一、安倍首相の心配する事態が起こったとしたらどうか。一刻も早く、米艦から他国の船舶に移動するべきだと思うし、米艦は自衛隊の防護などいらないと思うが、それはそれとして、自衛隊が米艦防護行動を行ったとして、それは誰が見ても「米軍を防護した」のではなく、「米艦船に救出された日本人の防護に当たった」と思うのではないか。ありえないような想定を重ねていって、何故こんな議論をするのか、僕には判らないのである。
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第三のムラカミ-辻原登を読む⑤

2014年05月17日 00時39分00秒 | 本 (日本文学)
 コンラッドの「闇の奥」にインスパイアされた辻原登「闇の奥」(2010、文藝春秋、現在は文春文庫)という面白い本に、社会党所属の前和歌山県議会議員、村上三六という人物が登場する。村上の旧制中学の同級生に「三上隆」という人類学者がいて、戦時中にボルネオで行方不明になったという。三上が生きているという噂を信じて、村上らは捜索隊としてボルネオに乗り込む。そういう筋立てで進む話だけど、その村上三六という人物は「作者の父」であると作品中に書いてある。

 一方、「父、断章」(2012、新潮社)には、父の名前が「村上六三」(ろくぞう)だと出ている。一体、どっちだ。「父、断章」でも父は和歌山県議会議員だったと出ているが、一回参議院選挙に出馬して敗れたと記述されている。これが事実なら、容易にインターネットで確認することができる。そうすると、父の名は「父、断章」の通り、村上六三だと確認できるのである。

 ここでちょっと和歌山県の選挙事情に触れておきたい。参議院選挙は「選挙区」(以前は地方区)と「比例区」(以前は全国区)に分かれている。「選挙区」は1人区から5人区まであるけど、人口の少ない和歌山県はずっと「1人区」である。たった一人しか当選しないのだから、もちろんほとんどは自民党候補が当選する。しかし、時には自民党に逆風が吹いた時がある。例えば、1989年のリクルート・消費税選挙の時である。全国の1人区は、自民党の3勝23敗だった。また、2007年の第一次安倍内閣の時の参院選では、6勝23敗だった。(1人区の数が増えているので、合計数は合わない。)しかし、そんな逆風下にあっても、和歌山県では自民党が勝利するのである。自民党が負けたのはただ一回、1998年の金融恐慌後の選挙だけで、当選したのは自由党(当時)の鶴保庸介である。しかし、鶴保はやがて保守党を経て自民党に合流して、今も自民党参議院議員をしている。

 そんな地方だから、社会党から1968年の参議院選挙に出た村上六三が勝てるはずがない。
前田佳都男 57 自由民主党 現 258,276票 57.0%
村上六三  51 日本社会党 新 155,315票 34.3%
岡野茂郎  43 日本共産党 新 39,695票 8.7%
 というのがその時の選挙結果である。だが、この時の15万5千票という結果は、それまでに次点となった候補の最高得票である。そして、1989年の選挙で東山昭久が20万票を取る時まで、この社会党候補最高得票記録は破られていない。それを慰めとしていたと書いてあるが、確かにそれだけ取るだけの地盤と人気もあったのだろう。

 ところで、「父、断章」によれば、村上六三は社会党の最左派だった。党内における彼のライバルは、社会党中間派(勝間田派)に所属し、和歌山2区から8回衆議院議員に当選した辻原弘市(つじはら・こういち)だったという。村上六三と辻原弘市は、和歌山師範の同期で、戦後県教組の活動で頭角を表わす。1952年の衆院選に、辻原は左派社会党(社会党は講和条約をめぐり左右に分裂していた)から出馬して29歳で当選している。一度落選するものの、1972年まで計8回当選した。(ちなみに、衆院選和歌山2区は3人区だったので、一人ぐらい社会党から当選したのである。)辻原は和教組の書記長から一挙に日教組の書記長に抜てきされ、続いて20代で国会議員になったのである。一方、和歌山で一番若い小学校長だった村上は、52年当時は和歌山県教組の専従の書記長だった。その後、勤評闘争を指揮し、県議会議員に当選する。同じ社会党ながら、思想的違いもあり村上は辻原に対し複雑な思いを抱いていたとある。確かにそうだろう。(ところで、20代で校長となり、管理職が組合に加入し、書記長にもなるということが当時はありえたのである。)

 さて、村上六三の息、村上博(1945.12.15~)は作家デビューにあたり、ペンネームに父の最大のライバル、辻原弘市の姓を借りている。この皮肉というか、複雑な思いに何があるのか。「父、断章」を読んでも、判ったようで判らない。この「父と子」には非常に複雑な葛藤があっただろうと察するだけである。「突然、ある考えがわきおこった。父親には息子を殺す権利がある」とまで書かれているのである。ある日、家中のカギを締め閉じこもった息子は、帰ってきた父を締め出していしまうことになる。実際に父が怒って二階の子どもの部屋に包丁を持って乗り込んできたとあるのである。それは1970年11月25日であるという。この日付で判るだろうか。三島由紀夫事件の日である。

 ところで、父との葛藤を別にして、もうしばらく、本名の村上では新人賞に応募できないだろうと思われる。1976年に「限りなく透明に近いブルー」で衝撃的デビューを飾った村上龍(1952.2.19~、本名龍之助)、1979年に「風の歌を聴け」でデビューした村上春樹(1949.1.12~、本名)の二人の重要な現代日本文学の旗手が存在する。1985年に最初の作品が「文学界」に掲載された村上博は、もう少し凝った本名まらまだしも、これではペンネームをつけざるを得ないだろう。こうして「辻原登」という複雑な思いを込められたペンネームが誕生する。しかし、僕には戦争終結後7年間という時間の間に、いずれも教師をしていた親から生まれたこの3人の作家には、共通するものが多いのではないかとも思うのである。だから、僕は「辻原登は、第三のムラカミなのだ」と思ってしまう。

 この3人に共通するものは、「コミューン主義とその挫折」を受けて豊かな物語を紡いでいるということであると思う。村上龍が、「69」から「映画小説集」を経て「ブルー」に続き、やがて「希望の国のエクソダス」に至る道筋。村上春樹が「羊をめぐる冒険」から「ノルウェイの森」を経て、オウム真理教を深く取材し、「1Q84」へ至る道筋。それと同じように、辻原登が「村の名前」から「許されざる者」「寂しい丘で狩りをする」に至る道筋。それらは、われらの時代に「コミューン主義」がいかにして不可能であり、またいかにして「コミューン主義」ではない形の連帯が可能かの思想的冒険のように思うのである。

 それを思う時、「父、断章」に若くして亡くなる父が参院選落選後に、ヤマギシ会で総務を務めたという記述があることが気になる。「1Q84」はヤマギシ会がモデルだという人がいるようだが、直接の関係は別にして、重大な示唆を与えているということはありうる。僕らの世代はヤマギシの特講には一度は行くのも良しと思われていたところがあり、実際僕も参加したことがある。「日本的共同体」のある種の典型、「サイフのいらない楽しい村」は、同時にある種の「収容所」でもあると僕には思われる。それでも「楽しい村」を夢想した意味はなくなったわけではない。「許されざる者」の森宮は一種のコミューンだが、大日本帝国の権力により崩壊する。この思想的意味の深さをいかにして受け継いでいくか。

 「コミューン主義」と書くのは、コミュニズム=共産主義=レーニン主義という短絡的な理解をしないためである。ウィリアム・モリスのような美しい生活から構想する社会主義は、日本では柳宗悦らの民芸運動を通してむしろ保守の側の底流にあるのかもしれない。「許されざる者」に出てくる若林勉という人物は西村伊作を思わせるが、建築家であり、文化学院を作った西村のような試みこそが、近代日本で根付いた、ある種のコミューン主義運動だったのではないか。そんなこんなの思想史的な流れを辻原登から考えてしまうのである。
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旧前田邸と「抱擁」-辻原登を読む④

2014年05月15日 00時06分23秒 | 本 (日本文学)
 それは二・二六事件の後、昭和十二年のこと。茅ヶ崎に住んで、女学校を出たばかりの「わたし」は前田侯爵邸で次女緑子の小間使いをすることになったのである。豪壮な前田邸に最初は圧倒されたが、やがて緑子の可愛らしさに仕事に張り合いが生まれてくる。だが、どうも変なのである。緑子の様子を見ていると、何か別の人物がいるのではないか、何か不思議なことが起こっているのではないか…。という不思議な話が、辻原登「抱擁」(2009.12、講談社)という本で、これも非常に面白いゴシック・ホラーである。

 もともと辻原登には「不思議な話」「奇譚」が多いのだが、これは中でも最高傑作レベルではないか。ヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」にインスパイアされた物語だというが、「歴史と場所」がぴったりとピースにはまった感じがする小説だ。舞台となった旧前田侯爵邸は東京の目黒区駒場に実在し公開されている。2013年、重要文化財に指定された。前に行ったこともあるけど、本を読んだら見に行きたくなって訪れてみた。渋谷から京王井の頭線で2駅目の駒場東大前駅から、徒歩十分程度。日本近代文学館のすぐそばである。本の表紙を、実際の階段と比べると、こんな感じ。
   
 旧前田邸というのは、1929年(昭和4年)に建築され、当時東洋一とも言われたという。近代洋風建築の最高峰の一つであり、皇族の旧朝香宮邸(東京都庭園美術館=改修のため休館中)、財閥の旧岩崎邸などと並び、旧華族の屋敷の代表と言ってよい。建てたのは、前田利為(としなり、1885~1942)で、加賀前田家の第16代当主。陸軍大将で、第二次大戦中、ボルネオ守備軍司令官の時に、搭乗機が墜落して死亡した。もともとは別家の生まれだが、15代当主の男子がなく、養嗣子となり15代当主の長女と結婚した。その妻はヨーロッパ滞在中に死亡し、酒井家から後妻を迎えた。1927年から30年まで、駐英大使館の駐在武官を務めていて、その不在の間に豪壮な洋館を建てた。

 もともとの家は本郷にあったが、東大農学部の土地と交換する形で、駒場に移ったのである。郊外の暮らしを望んだためという。このあたりは当時は全く郊外の閑静な一帯だっただろう。小説では、前田邸には広大な馬場もあり、部下の軍人がいつも乗りに来ているとある。屋敷の一帯は、今は駒場公園として残されているが、高級住宅街の中に武蔵野の面影をいくぶん残した地帯である。小説の中で「わたし」が屋敷に初めて伺う場面は印象的で、森の中に突然西洋のお城が出現したように思っている。それは今でも判る気がする。3枚目の写真は公園の方からバルコニーを撮ったもの。
   
 中がまた赤じゅうたんが敷き詰められ、古きムードが漂っている。カフェもある。写真禁止の館も多いが、ここは特に書いてないから撮っていい場所だと思う。(商業用撮影は事前許可がいる。)2階には夫妻の寝室や応接間も公開されている。前田侯爵の写真も飾られていた。2枚目の写真にあるのが、寝室にある鏡台である。
   
 もう少し挙げておくが、最初の2枚は小間使いはこんな部屋にいたのかなと思って撮った小さな部屋。ベッドだったとあるから洋間のはずだが、畳の間もあった。
    
 さて、もちろん「緑子」なる女の子は実在しない。前田利為には先妻との間に長男がいて、また後妻との間に一男二女がいる。後妻との間の長女は、小説では美也子とあるのが、後に母の実家の酒井家のいとこと結婚し、マナー評論家として多くのベストセラーを書いた酒井美意子(1926~1999)である。その妹もいるはずだが、もちろん話は創作。もともと緑子の小間使いは前に別の人がいたのだが、陸軍軍人と幸せな結婚をして去って行った。だが、その前小間使い「ゆきの」の夫は、二・二六事件の反乱軍の一員で、この結婚は悲しい運命をたどることになる。どうも、その「ゆきの」が関係しているらしい。そこで英語の家庭教師として滞在しているミセス・バーネットが何かと助言してくれるのだが、悩んだ末に主人公は「ある決断」をして、「事件」が起きる。その主人公が検事に語る一人語りで物語は進むが、読みやすい中に緊迫感が高まってくる。

 「心霊現象」にまつわる話だけど、裏に二・二六事件の悲劇と軍人華族が建てた洋館という「歴史と場所」があるために、こういう不思議な運命が戦前のお屋敷にあってもおかしくないような気がしてくる。中に「借りぐらしのアリエッティ」と同じような話を緑子がする場面があるが、ジブリの映画は2010年公開で、この本の方が早い。(メアリー・ノートンの原作は1952年に発表されている。)また、ミセス・バーネットが芦屋、神戸から明石に至る六甲山南麓地帯は、人間が暮らす場所としては世界一だと言う。あるいは、主人公がミセス・バーネットに頼まれ、「ケーキをみつくろって買ってきて」と言われて、あまりに巧みな日本語に、うっかり「ミツクロ」というケーキがあると思い込む間違いなど、このミセス・バーネットの存在感が素晴らしい。戦前のお屋敷物語は、なんだか最近はやっている感じがするが、これが一番面白いのではないか。駒場は面白い場所が多いのだが、今回は旧前田邸だけでまた別に散歩してみたい。
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寂しい丘で狩りをする-辻原登を読む③

2014年05月14日 00時29分33秒 | 本 (日本文学)
 辻原登「寂しい丘で狩りをする」(“Hunting on a lonely hill"、講談社、2014.3.28刊、英文題名は表紙にあるもの)は、辻原登最新の本だけど、またまたすごい作品である。傑作だし、例によって文章的にはどこにも引っかかるところがなく、非常にスリリングな本。だけど、スラスラ読めるかというと、多分多くの人は途中で怖くなると思う。いろいろ考えてしまったり、もう止めようかと思う。それでもストーリイ的にはページターナー(先が知りたくて止められない本)だから、恐々と読み進む。そんな本。
 
 主筋の合間にサブストーリイがあり、僕はそちらも非常に興味深かった。それは昔の日本映画の話になるわけだが、そのことは最後の方で書きたい。この小説は、非常にとんでもない犯罪者の物語で、いくら犯罪者と言えども、ここまで非道極まりない人間がいるのだろうかと思うぐらいである。これが実話に基づく物語だと知って読まなかったら、とても信じられないような話である。その実話を先に書いておけば、「逆恨み殺人事件」と言われた事件である。1997年4月に起きた。東京都江東区である40代の女性が殺されたのである。

 この事件が特異なのは、その犯人が1989年に同じ女性をレイプし、しかも、事件を黙っていて欲しかったらカネを出せと恐喝した過去があったことである。女性が警察に通報し、犯人は逮捕されたが、女性が通報したことを「約束を破った」と逆恨みして、懲役7年の刑期中も「出所したら報復する」と思い続けていた。これだけでも許しがたく、また信じがたい。しかも、この犯人は1976年に16歳の少女を殺していたという過去があったのである。そして、1997年に出所した後、女性の住所を突き止め、実際に殺人を行った。この犯人は東京地裁で無期懲役、東京高裁で死刑の判決を受け、2004年10月に最高裁で死刑が確定した。2008年2月、死刑が執行されている。執行時の年齢、65歳。

 世の中には許しがたい犯罪というのは山のように存在する。幼児の営利誘拐とか、無差別の通り魔殺人などは中でも非道の度合いが高いわけだけど、われわれが知った時にはすでに事件は終わっている。被害者にとっても、もう否応なく事件に組み込まれてしまうので、一般論(危なそうなところには行かないとか、子どもから目を離さないとか)は別として、防ぎようもない。そういう事件は今でもあるけど、最近は「ストーカー殺人」のような、防げた可能性があるのではないかという事件が多くなった気がする。それらの場合、犯人本人の主観においては、自分も被害者であるというか、「裏切られた」などと思い込んでいることが多い。実際に付き合っていた過去があったり、暴力をかわすため「今度ゆっくり話そう」などと言ったりすることもある。だから相手の方が約束違反なのだとあくまでも主張するのである。

 この事件、実際の事件も本の中の事件も、付き合っていた過去などない、単なるレイプ事件だから、普通の意味でのストーカー事件ではない。でも、この執拗さは異常で、それは何なのだろうと考え込まないわけにはいかない。犯人側の生活状況はじっくり描写されるが、内面描写は「冬の旅」と同じくほとんどないので、読んで判るということはない。というか、判るように叙述することは誰にもできないのかもしれないが。単なる「性欲」ではない。性欲は「フーゾク」で発散しているし、その相手にも暴力をふるう。「粗暴犯」には違いないんだけど、住所を突き止める手口などきちんと手順を踏んで進めることもできる。「支配欲」とでも言えばいいのか。別に名づける必要もないのかもしれないが、読んでる僕の「内なる近代人」が、これは一体なんなのだろうと考え込ませるのである。このような人間を理解できるか、またどのように対処するべきなのか。

 こういう人間は極めて例外的かというと、そうでもないと思う。確かに殺人まで行くのは稀かもしれないが、周りで起こった出来事を全部相手が悪いとみなして「理解可能」にしている人は、世の中にいっぱいいるのではないか。僕も今まで何人か、そういう生徒が絡んだトラブルを経験したことがあるけど、解決は非常に難しい。この種の人物は、「ある種の魅力」を持っていることも多く、「周りを巻き込むトラブル」に発展する場合も多い。この本には、「逆恨み殺人」とは別にもう一人のストーカーが登場する。こちらの人物などは、明らかにそう言う人物に造形されている。最近のヘイトスピーチなどをみても、どうも「自分は被害者」と思い込むタイプは増殖しているのではないか。世界的にそうなのかもしれない。

 では、どうするか。この本では、刑務所内で報復を公言していたという話が主人公に伝わり、主人公は女性探偵に監視を依頼するという筋立てになっている。その女性探偵にもストーカー的人物がいて、都合男女4人の「狩り」の物語となっている。「狩るものが狩られる」というのは、スパイ小説の定番で、スパイしている方が二重スパイや裏切りにより逆に追われる方になる…というのはよくある。この小説も誰が誰を監視してるんだか、ラスト近くの追いつ追われつは非常によく出来ていて、スリラーというか、犯罪小説としての出来も素晴らしい。だけど、「群像」に連載されたように、基本的には「純文学」の枠組みで書かれている。エンターテインメントとしても読めないことはないけど、犯罪がいくら出てきても、それは楽しめない。「人間とは何か」をそれぞれがじっくり考えてしまう物語なのである。怖いですよ。

 ところで、この本を読んでて、実に「嫌な思い」というか、逆恨みをする犯人に対して許しがたいという思いが沸騰してきて困ってしまった。というのも、追われる方の女性がある映像会社に勤めていて、そこが倒産した後に「国立近代美術館フィルムセンター」の職員募集に応じて、何十倍もの倍率を通って採用されたという設定になっているのである。フィルムセンターと言えば、この前「日本橋から京橋へ」の散歩で写真を載せておいた。高校生の頃から行っていて、最近もよく行く。でも小説の中で出てきた経験はない。さらに、この犯人は東京に戻った後で、池袋で偽名刺を作るという場面がある。その時の待ち時間に、なんと立教大学を散歩している。「蔦のからまるチャペル」に入って讃美歌を聞いている。ここで思わず、お前、ふざけんなと、まあ電車内だったから実際の声は出さなかったと思うけど、心の中で叫んでしまった。では、他の大学ならいいのかと言えば、まあその通りで、何もフィルムセンター職員をねらうだけでなく、僕の母校にまで出入りしなくてもいいではないかということである。僕の大事なところを二つも汚すな。まあ、小説に文句言っても仕方ないんだけど、珍しい経験である。

 ところで、この職員はやがて企画にも携わるようになり、川喜多長政、かしこ夫妻と東和映画を振り返る企画などを立てる。エピソードもよく出来ていて、相当昔の映画に詳しくないと書けない。さらにすごいのは、戦前に日中戦争で戦病死した「天才監督」山中貞雄の失われたフィルムが発見されたという「架空のエピソード」である。たった3本しか残されていない山中貞雄、そのデビュー作として有名な「磯の源太・抱寝の長脇差」(いそのげんた・だきねのながどす)のフィルムが発見されたというのである。そして、復元作業が開始される。相当に傷んでいて、20分程度しか復元できなかったという話になっている。この映画のエピソードが延々と語られるのだが、最後に至って本筋とリンクする。見事。この映画は、実際にどこかに不完全フィルムがあるとかないとか、話題になることがある映画である。出てきてもおかしくない。でも復元は難しい。どうして難しいかはここで詳しく描かれている。これは非常に珍しい、映画の復元小説でもあった。

 小説の結末の方は、これでいいのか悪いのか、いろんな議論ができると思うが、これから読む楽しみを味わう人のために書かないことにする。実話とは違っているので、是非最後まで読み通してください。展開が怖い人も、昔の映画に関心が持てない人も。本体1600円の価値は十分あるから、図書館で借りたり、文庫化や電子化まで待つのもいいけど、ハードカバーを買うのもおススメだと思う。
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「冬の旅」、われらの時代の冬-辻原登を読む②

2014年05月12日 22時48分31秒 | 本 (日本文学)
 2013年1月に刊行された辻原登「冬の旅」は、ものすごく面白い傑作で、読み始めると止められない。帯には「時代と運命に翻弄された男と女。時代を根底から照射する、哀しみの黙示録。」と書いてある。簡にして要を得た紹介だと思う。この小説は、小樽市が主催していた伊藤整文学賞を受賞した。(第24回の受賞で、この文学賞は昨年の第25回をもって終了した。)
 
 この小説の冒頭は緒方隆雄という人物が刑務所から出所する場面から始まっている。滋賀刑務所である。大津市の石山寺のもっと奥の方にあるらしい。実際にその場所にある刑務所で、10年以下の初犯者を収容する。緒方という人物は、ある強盗致死事件の共犯だが、単なる見張り役ということで、懲役5年だった。普通は3年から4年を務めたところで「仮出所」という話が出てくるものである。しかし、「ある事情」により懲罰が課されて、仮出所の可能性はなくなる。(「ある事情」というのは、非常に理不尽なものである。)こうして、2008年6月8日、刑期からして珍しい満期出所で出所するのである。

 緒方はバスに乗り大津へ出る。そこからJRで大阪へ出る。そういった様子が細かく叙述され、「刑余者」(刑務所での服役が終わり出所した人物のこと。「前科者」という言葉は「差別的」だが、「刑余者」は中立的な行政用語)の体験をリアルに描くリアリズムの小説かと思って読み進めていくと…。緒方の過去に話が飛び、そこで関わった何人かの人生が語られていく。どんどん話が進み、時には作者自身が出てきて物語を進める。近代の通常の小説ではなく、またエンターテインメントでもなく、近代以前の物語に近い部分もあるが、そういった小説作法の問題を飛び越えて、作者は自在に物語っていく。われらの時代の冬の物語を。

 登場人物の内面や葛藤を抜きにして話がどんどん進むので、途中でこれでいいのかなと思うぐらい、読みやすい本である。現代の講談を読むように読み進んで行くと、だんだんこの物語の主人公は、われわれが生きてきた時代そのものではないかと思うようになった。時代設定から東日本大震災と原発事故は出てこないわけだが、阪神大震災、オウム真理教事件、同時多発テロ、秋葉原の無差別殺傷事件などが何らかの形で出てくる。特に関西を舞台にしているので、阪神大震災が非常に大きな意味を持って出てくる。

 そこまでの人生行路を簡単に見ると、姫路に生まれ父が出ていき母子家庭になり、大学を出てバイト先の外食産業に就職、「ある事件」に巻き込まれて失職、そこから新興宗教の出版部に転職、そこで認められる。その時期に大震災があり、教団は神戸で大々的な救援活動を始める。だから主人公は被災地の神戸をじっくり見ているのである。そこである女性と出会い、やがて再会して、結婚を考えるようになる。こうして一応の安定がありえたかと思うと、突然妻が失踪、そこから緒方の人生は悪い方、悪い方へと転がり落ちていくのである。

 「ある事情」「ある事件」などと書いているが、それは読む人の楽しみを奪わないためで、いわゆる「ネタバレ」を避けるということが大きい。でも、それだけでなく、人生は理不尽であって、われわれの実人生もいつ何時、「ある事情」が起こって暗転していくのか測りがたいのである。内容そのものは小説を読めばわかるが、それでも「何でその人にそんな出来事が起こったのか」は判らない。まあ小説だから作者が創作したわけだけど、誰の実人生においても、「何かの事情」で人生が変わっていくのである。

 緒方という人物を通して、われわれは「知られざる日本」をいくつも見せられる。刑務所、新興宗教、カルト教団、SMクラブ、ヤクザ、ホームレス…そして、強盗事件に至る。その間にある、人生に潜む恐るべき深淵、そして孤独の深さに冷え冷えとした思いを抱かざるを得ない。愛も希望も消え去った人生に、どんな最期がありうるのか。衝撃的なラストまで、物語は疾走し続けるが、心の中に居ついてしまった主人公の恐るべき孤独が、本を抜け出てこちらの実人生へ浸食してくるような感触がある。

 これが日本の実際であり、日本で生きるということなのか。それをもたらしたものは何か。本人にも責任はあると思うが、「求めては奪われ、掴んでは失った。俺の人生、どこで躓いたんや。」と帯の裏にあるけど、緒方はいろいろと思い迷う中で、そうかあの時かと思い当たる。しかし、今はそれは何の意味もない。誰でもスラスラ読めるし、とても面白い本だけど、読んでると自分の人生を振り返ることになる。人間存在の運命性を感じるけど、でも個人が変えられる部分だってあるのである。しかし人々が孤立し連帯のない社会では、一人ひとりで圧倒的なものに立ち向かっては討ち死にしていくしかない。そういう死屍累々たる風景が、この小説に見える。だから面白いけど、辛くもある。そんな本で、是非読んでみて欲しい本。
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谺雄二さんも亡くなったとは

2014年05月11日 23時18分09秒 |  〃 (ハンセン病)
 昨日、神美知宏(こう・みちひろ)さんの追悼を書いたばかりだというのに、今日ふたたび谺雄二(こだま・ゆうじ)さん(1932~2014)の追悼を書かないといけないとは。ちょうどハンセン病市民学会が草津で開かれている中で、草津の栗生楽泉園(くりゅうらくせんえん)にいた谺さんが亡くなるとは。5月11日死去。82歳。

 谺さんこそ、本来はハンセン病市民学会共同代表として、開会式の主催者挨拶を行うべき人だった。もっとも近年は体調が悪い時が多く、長く闘病中だったし、時々出てくることができても車いす姿からの挨拶だった。だから、ハンセン病関係者の多くの人にとっても、神さんの急逝ほど驚かされたわけではないだろう。ただ、谺さんが呼びかけの中心にいた「重監房の復元」がなり、長年の宿願が果された後で、まさに草津で開かれた市民学会のさなかだったということに、不思議な運命を感じざるを得ない。

 谺さんは、元々は「詩人」と紹介される人だったけれど、今回の訃報を報じるサイトは、ほぼ「ハンセン病原告団協議会長」として紹介されている。1996年に「らい予防法」が廃止され、1998年7月に、熊本地裁に九州地方の原告を中心に「ハンセン病国賠訴訟」が提訴された。この訴訟が、2001年5月に画期的な違憲判決が出て当時の小泉首相が控訴を断念することになる裁判である。しかし、ハンセン病国賠訴訟は、他にも東京地裁と岡山地裁にも提訴された。三つの訴訟が一体となり、ハンセン病元患者の人々に燎原の火のように広がって行った。その中で、当然僕は東京地裁の東日本訴訟しか傍聴したことはない。

 谺さんは、その東京地裁の裁判の原告団の団長を当初から務めていた。熊本地裁提訴時の声明をネットで読むことができる。長くなるので途中を省略することにする。
 「らい予防法」違憲国賠訴訟提訴にあたっての原告団声明
                               東日本原告代表 谺 雄二
本日午後4時、熊本地方裁判書に「らい予防法」国家賠償訴訟を提起しました。(略)
国家権力による残虐行為を不問にしたままでいいものでしょうか。子もなく孫もいない私たち入所者の孤独と無念の思いを、国はどうして癒してくれるというのでしょうか。その他解明しなければならない未解決の問題をたくさん残しております。
私たちは、裁判によって国のハンセン病対策の歴史と責任を明らかにして、
1.ハンセン病問題の真相究明
2.患者・回復者の原状回復
3.同種問題の再発防止
を図って行きたいと思っています。そのことが成就した時全国15の国、私立の納骨堂に眠る先輩たちの無念を癒す鎮魂の供養にしたいと考えています。そして、本日の提訴にあたり、私たちは全国の僚友の方々が是非私たちと共に裁判に立ち上がってくれることを心から願っています。(略)私達は、各療養所の入所者や今までに社会復帰していった多くの人々、私たちに繋がる家族の皆さんと手をたずさえ、人間の尊厳のため最後まで頑張り抜きたいと思います。(略)
                   1998年7月31日「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟原告団

 谺さんの名前で出されているが、この種の文書の常として、原告の人々や弁護団の意見を聞きながらまとめられたものだろう。それでは谺さん自身の表現としては、どんなものがあるだろうか。ごく最近、みすず書房から「死ぬふりだけでやめとけや」と題する谺雄二詩文集が出版された。出版社のサイトには、「群馬・ハンセン病療養所栗生楽泉園に暮す81歳の「草津のサルトル」こと谺雄二。「ライは長い旅だから」などの名詩で知られる詩人にして、ハンセン病違憲国賠訴訟の理論的支柱であり、療養所を「人権のふるさと」に変えて差別なき社会を創り出すことを志す闘士である。本書は、彼の生涯にわたる詩・評論・エッセイ・社会的発言・編者による聞き書きを収める。」と紹介されている。出たばかりだし、高い本なので僕はまだこの本を見ていない。

 僕が読んだのは、1987年に児童書として出版された「忘れられた命の詩-ハンセン病を生きて」(ポプラ社)と言う本である。らい予防法廃止後の1997年に再刊されて、僕が持ってるのはその本。今はもう品切れで古書しか入手できないようだけど。その前に、1981年に出された「ライは長い旅だから」という超根在の写真と谺さんの詩を合わせた本がある。僕が最初に谺さんの名前を知ったのは、その本である。だから谺さんと言えば、草津の療養所にいる人、というイメージが強い。でも「忘れられた命の詩」を読むと、草津の前に東京の多磨全生園にいたということが判る。

 谺さんは1932年、東京に生まれたが、1939年にわずか7歳で発病して多磨全生園に入園した。だから、一番大変だった戦時下の療養所を少年として過ごしたのである。1945年には母が全生園で死去、1948年には兄も全生園で死去。このような過酷な少年期を送り、ついには全生園から他の療養所に転園することを決意する。一時は静岡県の駿河療養所に決まるが、いろいろあって草津に移ることになったのである。その全生園からの旅立ちまでが、先の本に書かれている。肉親の死、思春期の悩み、文学や思想への目覚めなどがつづられ、心を揺さぶる。草津の楽泉園は山の中、多摩の森にある全生園とは環境が全く違う。冬は厳しい寒さとなり、「特別病室」という名の「重監房」が作られ、多くの患者が死亡した場所だった。

 谺さんはハンセン病の人権運動を代表する人の一人だった。入所者の高齢化が進んでいるのは、もう判り切っていることだが、昨年来、詩人の塔和子さん、詩人の桜井哲夫さん、俳人の村越化石さん、そして神美知宏さん、谺雄二さんと相次いで亡くなった。日本のハンセン病の苦難の歴史を語れる人も数少なくなってきた。でも、私たちは忘れずに語り継いで行かないといけない。
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神美知宏さんの急逝を悼む

2014年05月10日 23時16分26秒 |  〃 (ハンセン病)
 全療協(全国ハンセン病療養所入所者協議会)会長の神美知宏(こう・みちひろ)さんが草津で急逝したという報道には驚いた。9日に草津のホテルで倒れ、搬送先の病院で亡くなったという。80歳だった。草津で亡くなったというのは、今日から始まったハンセン病市民学会出席のためで、本当なら今日(5月9日)の14時から30分ほど、「全療協緊急アピール」を行う予定だった。明日の午前も「療養所の入所者の人権が守られるための制度を提案する」という分科会のパネリストを務める予定だった。本当なら僕も参加していてブログを書けないはずなんだけど、どうも最近いろいろと億劫になってしまうことが多く、家にいて書いている次第。

 神さんは福岡の出身で、17歳で発病して瀬戸内海にある香川県の大島青松園に入所した。そして、入所者による自治会運動に参加するようになり、全国的な活動にも関わるようになっていった。大島青松園には曽我野一美さんという運動の大先輩がいて、その影響が大きかった。今、全療協の前身である全国ハンセン氏病患者協議会がまとめた「全患協運動史」(1977)をひもとくと、巻末資料にある支部長会議出席者名簿の中に、1966年に静岡県の駿河療養所で行われた会議参加者が出ている。そこに神さんの名前を見つけることができる。その後はしばらく名前がないが、70年代になると毎年のように支部長会議に出席している。(国立ハンセン病療養所は全国に13カ所あり、それらの入所者自治会の全国組織が全患協、全療協である。支部長会議の参加というのは、各自治会の代表として出席しているということである。)

 ところで、その時の名前は「神」ではなかったのである。その時は「神崎正男」を名乗っていたが、それは園内の「通名」(偽名)だったのである。1996年の「らい予防法廃止」以後に、ようやく本名宣言をした。この病気で療養所に「隔離」された人々の多くは、園内で名を変える。それはもちろん僕も知っていたけれど、全患協の神崎事務局長として知っていた人が、実は「神」だったということに非常に驚いたものである。ペンネームなんかだったら、神崎という人が神と名乗りそうである。でも、療養所は違うのである。

 そのあたりのことは、大阪府人権協会のサイトにある、「リレーエッセイ」の「ハンセン病療養所と社会を隔てる『壁』を取り払うために」に、以下のように述べられている。
 17歳でハンセン病を発病した時、わたしはハンセン病がどんな病気なのか、自分がどんな扱いを受けることになるのか、まったく知りませんでした。高校に退学届を出したものの、「病気が治れば学校に戻れる。一生懸命、治療に励もう」と思っていました。
 いざ療養所へ行くと、いきなり絶望のどん底へ突き落とされました。まず名前を変えることを勧められました。ハンセン病患者が本名を使い続けることは、家族に迷惑がかかるということです。
 さらに医師からは「治ったとしても療養所からは出さない」と言い渡され、解剖承諾書に署名、捺印をするよう求められました。「ここで死んでもらう」と宣告されたわけです。その場で「神崎正男」という名を自分につけた私は、「神美知宏という人間は抹殺されたのだ」と思い、生きる望みを失いました。

 らい予防法廃止からハンセン病国賠訴訟、そしてハンセン病問題の最終解決を目指すとされた2009年施行の「ハンセン病問題基本法」(ハンセン病問題の解決の促進に関する法律)に至るまで、「当事者運動としてのハンセン病問題」を一貫して担ってきたのは、全療協の神事務局長だったと言ってもいいと思う。様々の集会で何回も話を聞く機会があったが、理路整然、論旨明快にして決然たる口調で厳しい言葉が発せられるのには、毎回驚くほかはなかった。

 その神さんが2010年に会長を引き継ぎ、最後の最後に訴えていたことは、療養所の職員が削減され入所者がますます命の危険にさらされるような国の方針への抵抗である。国は隔離の過ちを認め、最後のひとりまで十分な医療を保障するという約束をしたにもかかわらず、公務員削減という方針を機械的に進め、療養所入所者に不安を抱かせている。そのことに対する危機感を神さんの全身から感じることができた。全療協の最後の闘いと位置づけ、厚労省との交渉を続けていた。

 昔、「患者運動」が盛んな時代があった。公害患者、薬害患者の運動はその後も現在に至るまである。だが、多くの難病患者は自ら闘うことができない。国に対策を求める運動は大体家族が起こすのである。しかし、慢性の感染症で、療養所に長く生活せざるを得ない結核とハンセン病(らい病)が患者が多かった戦後直後には、療養所を舞台にした患者自らによる国に対する運動が非常に盛んだった。そして結核療養所の運動はなくなり、ハンセン病療養所も非常に高齢化が進み、ハンセン病療養所の運動も難しくなっている。神美知宏という人は、そういう戦後患者運動の最後の輝きだったのではないかと思う。ハンセン病問題を語ることに置いて、全国的な活動が可能な人は非常に少なくなってきた。(療養所を訪れた人に対して、所内で経験を語れる語り部なら、まだある程度はいると思うが。)本人ももう少し生きて活動したかっただろうし、また周りの人も活動してくれるものと思っていただろう。そういう意味では、無念の死であり、余人をもって代えがたいポジションの人だった。安易に後をまかせてくれとは、支援者も含めて誰も言えないのではないか。とても残念である。
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