尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「反復」する人生、懐かしさの正体ー『男はつらいよ』考③

2025年01月23日 22時39分58秒 |  〃  (旧作日本映画)

 『男はつらいよ』シリーズを考えるシリーズ3回目(最後)。今回見送るつもりだった第9作『男はつらいよ 柴又慕情』(1972)もついつい再見してしまった。吉永小百合がマドンナ役になったこともあり、シリーズ屈指の人気作である。おいちゃん役の森川信が72年3月に死去して、松村達雄に代わったことでも重要。(松村は5作に出演して終わって、14作以後は最後まで下條正巳が演じた。)おいちゃんは亡くなったままという設定も考えたそうだが、結局代役を立てたのは「バカだねえ、あいつは」「ああ、やだやだ」と口走る人物が必要だったということだろう。

(『柴又慕情』)

 さて、喜劇とは「反復」である。チャップリンの時代から、コメディ映画ではセリフ、体技、シチュエーションなどで、主人公が同じようなことを繰り返すのがおかしかった。落語の登場人物も、自分の失敗を性懲りもなく繰り返す。それも次第にレベルアップ(レベルダウンというべきか)していくのがおかしいのである。『男はつらいよ』シリーズも、ベースはおなじことの反復で、寅さんが周囲の美女に惚れては失恋してまた旅に出る。展開が判っているのにおかしいのは、渥美清の演技と山田洋次の演出が洗練の極みに達していることが大きい。また周囲の脇役のアンサンブル演技も完成されていて見事というしかない。

(御前様の「バター」シーン)

 ギャグの幾つかは作品を超えて受け継がれている。有名なものでは「バター!」がある。第1作で御前様とその娘冬子に出会って、寅さんが写真を撮ろうとする。笠智衆が例によって堅物なので、「御前様笑ってくださいよ」と寅が口をはさむと、シャッターを切るときに御前様が「バター!」と言うのである。その時初代マドンナ光本幸子が実に上品に笑うのが印象的だ。写真の時に「チーズ」というのがいつ頃からか知らないけど、ある時期まで「欧米風」のことを「バタ臭い」と表現していた。バターが臭かったぐらいだから、チーズはもっと臭いとして食べられない人も多かった。まだ宅配ピザ屋などなかった時代である。

 バターとチーズを混同するのは、今じゃ通じないかもしれないが、70年代初期にはまだ同じように「臭い物」として同一視する人も多かった時代である。そのギャグを今度は寅さんが使うことになる。第1作ラストのさくらの結婚式、集合写真を撮るときに寅が「バター!」というので皆爆笑になる。ところでこのギャグが『柴又慕情』で再現される。吉永小百合たち3人組と北陸で一緒になって、記念写真を撮ろうとしたとき、寅さんが「バター!」と言うのである。3人とも笑い転げるのだが、有名作家の父と確執を抱えて旅に出ていた歌子(吉永小百合)があまりのおかしさに笑顔を取り戻して寅さんに感謝する展開になる。

(『柴又慕情』の「バター」シーン)

 「反復」という点では「音楽の力」も『男はつらいよ』シリーズを支えた重要な要素だ。作曲家山本直純(1932~2002)が全作を手掛けた。主題歌のメロディはほとんど全国民が知っているんじゃないだろうか。山本直純がいかにすごい人物だったかは、岩城宏之『森のうた』という本に描かれている。テレビ番組「オーケストラがやって来た!」の司会や森永チョコのCM(「大きいことはいいことだ」が流行語になった)などで当時は多くの人が顔を知っていた。主題歌のテーマは映画内で何度も流れるが、同時にもっと抒情的なメロディもここぞというシーンで何度も使われる。『ゴジラ』や『仁義なき戦い』シリーズを越えて、シリーズ映画史上一番耳に残るメロディじゃないだろうか。一度見るとつい口ずさんでしまうのである。

(山本直純)

 しかしながら、48作はさすがに多い。僕もあまりの「反復」ぶりに、最後の方はもう飽きてしまってほとんど見なかった。世の中には「盆と正月は寅さん」という人も多かった時代で、「安心して見られる映画は他にない」と言う人もいた。確かに東映実録映画や日活ロマンポルノと同時代の映画なのに、暴力シーンもセックスシーンもない。だから「家族で見に行ける」わけだけど、同時代の僕は「安心して見られる映画なんて映画じゃない」と思っていた。「危険な映画」こそ魅力的なのである。リアルタイムで安部公房や大江健三郎の新作を読み、大島渚や今村昌平、寺山修司らの映画を見ていたんだから当然だろう。

 なにゆえに、見なくてもまた寅さんが失恋すると判っている映画を見に行くのか。世界にはもっと面白い映画や演劇、音楽や美術がいっぱいあるじゃないか。それが「若い」ということだろうと今は思う。人生は「一回性」だからこそ、「反復」は嫌いだったのだ。だが年齢を重ねるにつれ、「反復」もまた面白いという気になってきた。そう思わない限り寄席なんて楽しめない。何度も通えば同じ落語を聴くことも多くなるし、色物の大神楽や奇術なんかほとんど同じである。それが楽しいのだ。

 思えば自分の人生も(誰の人生も)「反復」である。いや、もちろん毎日毎日は日々新たな一日なんだけど、それは「同じような一日」である。もちろんその日初めて見る映画もあるし、初めて読む本もある。だけど、長く生きていればそれは「昨日と同じような一日」なのである。仕事をしていれば、毎日新しく「働く喜び」を感じるわけがない。食事や家事・育児・介護なんかも、同じではないけれど「毎日が似ている」。そして自分もまた一日が積み重なって老いていく。「夜トイレに起きてしまう」とか「血圧が高くなってしまう」とか、そういう話は聞いていたけどやっぱり同じことが自分にも起こるのである。

 つまり自分の人生もまた「世界全体の反復の一部」だったのである。最初に『男はつらいよ』シリーズが終わったこの30年間をどう考えるかと書いた。僕は根が社会科教員なので、つい「グローバル化」とか「情報社会化」とか考えてしまう。もちろん、『男はつらいよ』シリーズには携帯電話が出て来ないし、柴又には外国人観光客がほとんどいない。この30年で世界も日本も大きく変わったけれど、自分の問題で言えば(あるいは誰にとっても)30年間で一番大きな出来事は「自分が30歳年をとった」ことだ。その結果、自分は「何者か」になって、「何事か」をしたわけである。

 僕が70年代にリアルタイムで、初期のシリーズ、特にリリー3部作の2本(「忘れな草」「相合い傘」)を見た頃、自分はまだ何者でもなかった。まあ「学生」も何者かではあるが、就職も結婚もしていなかった。それを逆に言えば、何者でもないことによって今とは別の自分になる可能性も存在していた。その可能性はもうないわけで、自分は何者かになってしまった。別に後悔するとかではないけれど、そういう風に人生の時間が進んで行ったのである。ところが『男はつらいよ』シリーズは、70年代、80年代を超えて続き、その間ずっと寅さんは何者にもならなかった。だからずっと出会った誰かを好きになっても許された。

 この「寅さんがいつまでも何者でもないこと」が懐かしいのである。もちろん画面には今では見られなくなった幾つもの風景が残されている。それも見るだけで懐かしいわけだが、その風景を寅さんが歩いてきてテーマ音楽が流れると、「パブロフの犬」のように自分がまだ何者でもなかった時代が自然に思い出されてくるのだ。それなりに一生懸命取り組んだこと、自分も家族(ペットも)若かった頃、好きになった人、失恋した人…「寅さん」が「反復」だからこそ、思い出してしまうわけだ。

(山田洋次監督)

 寅さんはどこにも「居場所がない」。柴又に帰っても、定着せずに旅に出る。時々定職に就こうとするが、やっぱり無理で辞めてしまう。いや、そういう人生を望むわけじゃないけれど、心の奥底に「自分の本当の居場所」を探し続けている人はいっぱいいるだろう。そのような「漂泊」の思いはどこから来たのだろうか。それは山田洋次監督の「引き揚げ体験」に原点があるのではないだろうか。山田監督は「外地」育ちではないが、戦時中に疎開していて戦後大連から帰還してきた。外地から引き揚げた体験は戦後日本に大きな影を落としてきた。安部公房の小説、別役実の演劇に描かれた「居場所がない」不安感。山田洋次が創作した「寅さん」の居場所なき絶えざる放浪も、また日本人の戦争体験による喪失感が生んだ「不条理文学」なのではないか。

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リリー3部作と「漂泊の魂」ー『男はつらいよ』シリーズ考②

2025年01月22日 22時38分58秒 |  〃  (旧作日本映画)

 『男はつらいよ』シリーズを考える2回目。今回第3作の『男はつらいよ フーテンの寅』を見たのだが、これはなかなか映画館で見る機会が少ない。僕も前に見ているとは思うが、細部はほぼ忘れていた。というのも山田洋次監督は正続2作で一端終わりと考えたようで、3作目はシナリオは書いたものの演出を森崎東監督に任せたのである。寅さん特集上映が企画されるときは山田監督作品が中心になり、一方森崎監督特集も時々あるけれど山田色が強いこの作品は除かれやすいのである。

 この映画は三重県の湯の山温泉が舞台になっている。おいちゃん、おばちゃんが久しぶりに骨休みで温泉に行くことになる。今頃寅はどこでなにしてるやら? やだよ、旅先で会っちゃったりしたら…なんて会話しながら旅館に入るとコタツが点いてない。フロントに電話すると飛んできたのが寅さんだった! という、当然そうなると予想通りの「悪夢の展開」。旅先で病気になった寅を親切に看病してくれた旅館の女将。寅さんはその女将新珠三千代に一目惚れして居付いてしまったのである。

 1928年生まれの渥美清に対し、新珠三千代は1930年生まれだから、年齢的には釣り合っている。当時50~60年代に映画各社で活躍した女優は映画界の衰退と年齢的問題で、舞台やテレビに活躍の場を移していた。新珠三千代は宝塚出身の美人で、テレビの『氷点』や『細うで繁盛記』で大人気だった人である。だから、観客が二人をある種の「身分違い」と認識するのは当然だ。片方は亭主に死に別れた美人女将、もう片方は定職もないテキ屋である。この恋もまたまた失恋に決まっている。

(ハイビスカスの花)

 シリーズのマドンナ役には多くの女優が出たが、当初のマドンナには3作目の新珠のような、年齢は釣り合うが設定と芸歴が釣り合わない「大女優」が多く出ている。若尾文子池内淳子八千草薫岸惠子京マチ子香川京子らで、当然結ばれるはずもない。一方、1973年8月公開の『男はつらいよ 寅次郎わすれな草』のマドンナ浅丘ルリ子(1940~)はちょっと違っていた。当初山田監督は北海道の酪農農家という役をオファーしたが、浅丘は自分の体格からそれは無理で、お化粧もせず牛の世話をする役は自分に合ってないと断ったという。そこで山田監督は再考して「さすらいの歌姫松岡リリー」という役に書き換えたのである。

 今回第25作『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』(1980)を再見したが、これはリリー3部作の3作目。(リリー出演作は4つあるが、最終作の『寅次郎紅の花』は設定が特別なので除く。)いま「さすらいの歌姫」なんてカッコよく表現してしまったが、実は地方のキャバレーを歌い歩くドサ回り歌手である。博がたまたまキャバレーの募集広告を小岩(江戸川区)に届けると、リリーに偶然出会う。帰ってから柴又の皆は「リリーさんみたいな人がお兄ちゃんと一緒になってくれていたら」と語り合う。と思うと突然リリーから沖縄で病気になって入院中という速達が来た。飛行機嫌いの寅も何とかすぐに駆けつけるのだが…。

(忘れな草)

 寅とリリーの関係は「身分違い」とは言えない。テキ屋とドサ回り歌手は、まあちょっと違うかも知れないが、本人どうしが好き合うなら周りも反対しないだろう。もちろん二人が幸福な結婚をして寅さんが定職に就いてしまったら、シリーズは終了である。エンタメシリーズの展開上も、またドル箱を失えない松竹の営業事情からも、寅さんとリリーは結ばれてはならない。しかし、それ以前の多くの作品では、明らかに「釣り合わない」ゆえに寅の懸想はまたも報われないと観客皆が予想出来た。しかし、その展開はリリー3部作では使えないのである。ではどういう事情、論理から二人は結ばれなかったのかを具体的に見てみたい。 

 『寅次郎忘れな草』(1973)の冒頭、網走で寅とリリーは出会ってお互いの浮草稼業を語り意気投合する。東京へ来たら柴又を訪ねておいでと別れた二人。実際にリリーはとらやを訪ねて歓迎される。ある夜リリーは酔っ払って柴又に現れ、寅さんに一緒に旅に出ようと誘うが、寅さんは一歩を踏み出せず、ここは堅気の家だから深夜は静かにとたしなめる。翌日リリーのアパートを訪ねるが、もうその時は引き払った後だった。その後とらやにハガキが着き、リリーは寿司職人と結ばれ店を持ったという。寅が訪ねると、リリーは「本当はこの人より寅さんが好きだった」と冗談のように言う。リリーの相手は毒蝮三太夫なんだから、こんなことを言っちゃ何だけど渥美清と結ばれていても全然おかしくないのである。

(相合い傘)

 僕だけでなく多くの人がシリーズ最高傑作と考える第15作『寅次郎相合い傘』(1975)。冒頭で離婚したリリーは再び柴又を訪ねるが、寅さんいなかった。その頃寅は「蒸発」中の会社役員船越英二と出会って北海道に渡る。北へ向かったリリーは函館でこの二人と出会い、三人の珍道中となる。しかし、船越の初恋の人を訪ねた後で寅とリリーは女の幸福をめぐって口げんかとなって、リリーは去って行く。柴又へ帰った寅だが、そこへリリーも来て仲直り。周囲もあの二人のケンカは夫婦げんかみたいという。ついにさくらはリリーに対し「お兄ちゃんの奥さんになってくれたら素敵」と発言するのである。それに対して、リリーは真剣な顔になって「いいわよ。あたしみたいな女でよかったら」と述べたのである。シリーズ屈指の名シーンだろう。

(浅丘ルリ子のリリー)

 ところが帰って来た寅さんは、それを「冗談だよな」と決めつける。そこでリリーも「冗談に決まってるじゃない」と返して去る。さくらは追いかけろと言うが、寅は二人は「渡り鳥」だという。漂泊者である寅とリリーは結ばれても幸福になれないだろうと示唆するのである。これはある意味正しい認識だと思う。第25作『寅次郎ハイビスカスの花』(1980)では病気になったリリーを沖縄に訪ねた後、退院した二人は同じ家に暮らして療養する。その後またケンカしてリリーは寅を置いて東京へ戻る。寅も戻ってきてリリーと再会する。沖縄じゃ幸せだったと言うリリーに、寅も「俺と所帯を持つか」とまで言うのだった。

 このように二人はほとんど結婚直前の関係にあった。だが、この二人が結ばれないのは寅さんが臆病だったということではなく、もちろんシリーズを続けさせるためでもない。二人が結婚していたとしても、その後幸福に添い遂げたとは思えない。きっとまたケンカして、寅さんは行商の旅に出て行ってしまうだろう。そういう性格設定になっているからだ。そのような「社会不適応者」としての寅さんに我々は惹かれるのだ。その孤独がリリーの存在によって、くっきりと浮かび上がる。リリーだって同じようなもので、やはりまた歌手に戻ったのではないか。リリーが登場したことで、物語の哀歓はグッと深くなったと思う。

 そして「思い合っていても結ばれない関係」という若い時にはよく理解出来なかった心理が、今はただただ懐かしく感じる。好きなら結婚しちゃえばいいじゃないかと昔は思ったが、その後の人生行路を経てそういうもんでもないと思うようになった。そして、居場所を求めてさすらいながら幸福がつかめそうになると自分から遠ざけてしまう寅さんが我が事のように思われるようになった。自分の中にも漂泊の魂があって、ここは自分の本当の居場所じゃないと語りかける。だが今いる場所で頑張り続けることでしか未来は開けない。そうやって年を重ねてきたけれど、年齢とともにますます寅さんとリリーの切なさが身に沁みるのだ。

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『男はつらいよ』第1作と「身分違いの恋」ー『男はつらいよ』シリーズ考①

2025年01月21日 22時20分06秒 |  〃  (旧作日本映画)

 2024年は『男はつらいよ』シリーズが始まって55年ということで、幾つかイヴェントも行われた。それには行ってないんだけど、2025年になって池袋・新文芸坐で4本上映しているので見てきた。(下の画像にあるクリアファイルをくれた。)今年最初に書いた記事で指摘したが、『男はつらいよ』シリーズ最終作が公開されたのは1995年12月だった。阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が起きたあの忘れがたき年は、『男はつらいよ』が終わった年でもあったということにはどんな意味があるんだろうか。僕はそのことをずっと考えている。そこで幾つか再見して感じたことを何回か書いてみたい。

(男はつらいよクリアファイル)

 まず『男はつらいよ』第1作(1969)を取り上げる。まあ第1作と言っても、それは映画版第1作ということである。よく知られているように、それ以前の1968年~69年にフジテレビで全26話のドラマが製作されていた。最終作で寅さんは奄美大島でハブに噛まれて死んでしまった。しかし、終了後に抗議の声が殺到し、それが映画化につながった。渥美清森川信(おいちゃん)は共通するが、さくらは長山藍子、博は井川比佐志、おばちゃんは杉山とく子だった。映画ではさくらは倍賞千恵子、博は前田吟、おばちゃんは三崎千恵子だった。さくらの倍賞千恵子は欠かすことが出来ないキャストとなったと言える。

(第1作)

 第1作を見るのは多分3回目。1970年代半ばに作られたシリーズ10番台に傑作が多くベスト級だと思ってきたが、改めて第1作を見るとこれも素晴らしい傑作だ。もちろん公開当時に見たのではなく、若い頃にどこかの名画座で見たんだろう。その後2019年の50年記念の時に見直したと思う。続けていっぱい見ると、このシリーズは皆同じじゃないかとつい思うんだけど、今回は「公開当時の2本立て再現」という不思議な企画である。だから『喜劇・深夜族』『祭りだお化けだ全員集合!』『思えば遠くへ来たもんだ』等の映画も見たのである。それぞれなかなか面白いけれど、映画の完成度は『男はつらいよ』第1作が飛び抜けている。

 帝釈天のお祭りの日、20年ぶりに寅さんが柴又に帰ってくる。そのお祝いで飲み過ぎて、おいちゃんは次の日二日酔いである。そのため予定されていた妹さくらのお見合いに行けない。さくらは丸の内にある大企業オリエンタル電機の「BG」(当時はOLをビジネスガールと呼び、セリフもそうなっている)で、重役の御曹司がさくらを見初めてお見合いとなったが、さくら本人は実は乗り気ではない。やむを得ずおいちゃんの代わりに寅さんが同行し、その結果無作法な言動を繰り返してしまう。(ここは何度見ても実におかしい傑作シーン。)そして、案の定お見合いは断られてしまうわけである。

(初代マドンナ光本幸子)

 家族が寅さんの所業を責めたてたので、寅はプイッと家を出ていってしまう。そして行方も知れず数ヶ月。突然御前様の娘、坪内冬子から団子屋にハガキが届く。親子で奈良を旅行していたら寅さんに偶然出会ったというのである。冬子を演じたのは光本幸子(みつもと・さちこ、1943~2013)で、若い頃から劇団新派や日本舞踊で活躍してきた人である。これが映画初出演で、結婚・育児で休業した期間が長かったこともあり(その復帰するも舞台が中心だった)、今では知らない人も多いだろう。とても存在感がある演技を披露していて、寅さんならずとも惹かれていってしまうのも無理はない。

 ということで寅は御前様親子にくっついて、そのまま柴又に帰ってきてしまった。その後は何かと用を作っては寺に顔を出す日々。柴又の人々は「寅の寺参り」と呼んでいるという。一方、その頃裏の印刷会社に勤める博がさくらに惹かれていた。しかし、戻ってきた寅さんは「職工風情に妹をやれるか」と暴言を吐き、会社の壁に「寅の暴言を許すな」と書かれる。似顔絵もあって笑える。結局すったもんだがあって寅と博の「川船の決闘」となる。一時は柴又を去ろうとしていた博をさくらが追っていき、帰って来たさくらは「私、博さんと結婚する」と宣言する。結婚式は有名な川魚料理屋「川甚」で行われることになった。

 このように『男はつらいよ』第1作は、「身分違いの恋」をめぐって展開される。妹さくらをめぐる「上司から来たお見合い」と「裏の印刷会社の労働者」、そして「寅さんと冬子さん」である。もちろん戦後日本には「身分」などないわけだが、実質的には「結婚をめぐる家の釣り合い意識」は残り続けた。そしてさくらに関しては、「本人どうしが好き合っていることが第一」という価値観が実現する。一方、寅さんの場合は「学歴も定職もない」男である。実際冬子は大学教授との縁談が進んでいて、これは「身分違い」というのとはちょっと違うけれど、寅さんにとって冬子が「高嶺の花」であることは観客皆が理解している。

(寅さんは家族の会話を聞いてしまう)

 「身分違いの恋」は古今東西を問わず大衆芸能の大きなテーマだった。近世日本の心中もの、あるいは泉鏡花の『婦系図』(おんなけいず)、あるいは洋画の『ローマの休日』など幾つもの物語に変奏されてきた。中でも日本では戦時中に作られた映画『無法松の一生』が思い出される。何度も映画化、舞台化された名作だが、そこでは人力車の車夫が高級軍人の未亡人に憧れてしまう。戦争中は許されない設定として検閲で大事なシーンが削除されてしまった。「車夫風情」が軍人の未亡人に懸想するなどあってはならないことだった。『男はつらいよ』はそういう定型的テーマのパロディとして成立している。

 寅さんを演じる渥美清(1928~1996)は浅草のコメディアン出身だが、その前に実際にテキ屋をしていたこともあったらしい。50年代末からテレビに出始めて、テレビ勃興期に大活躍していた。寅さんをを演じる前にテレビを通して多くの人が知っていて、僕も見た記憶がある。その時は「おかしな顔」で売っていて、よく「ゲタ顔」と言われている。これは三枚目コメディアンにとって大切な資産である。しかし、『男はつらいよ』では無学なテキ屋という設定なので、教養ある美人に思いを寄せても実らないことになる。観客は皆渥美清の芸風を知っていて、実らぬ恋に身を焦がすのを見て面白がるのである。

 第一作で行われるさくらと博の結婚式はとても感動的だ。かつて衝突して家を飛び出た過去があり、博の親は来ないと言われていた。しかし、父親の諏訪飈一郎が夫婦で現れたのである。この名前が読めず皆困ってしまう。(「ひょういちろう」である。)志村喬が演じていて、北大名誉教授となっている。その後も8作目と22作目に登場し、なかなか重要な役を果たす。博の父の前に、帝釈天の御前様が寅の幼き日の所業をバラす祝辞を述べる。これは笠智衆が演じているから、小津映画を象徴する笠智衆、黒澤映画を象徴する志村喬がともにスピーチして、『男はつらいよ』船出を祝うという映画史的奇跡なのである。

 ところで、この「身分違い」問題は、リリーシリーズではどのように描かれていくのか。次に考えてみたい。

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『がんばっていきまっしょい』、原作と映画とアニメを比べると

2024年11月23日 22時51分23秒 |  〃  (旧作日本映画)

 最近アニメになって再び注目された『がんばっていきまっしょい』。1998年に公開された実写版映画を久しぶりに見たので、原作も含めて比べてみたい。池袋の新文芸坐の「アルタミラピクチャーズ31周年記念上映」という不思議な企画で、磯村一路(いそむら・いつみち)監督の『がんばっていきまっしょい』が上映された。監督に加えて、田中麗奈等出演女優4人のトークもあり、原作者(敷村良子)も来ていて豪華な顔ぶれに大満足。きっとすぐ満席になると見込んで、予約が可能になる一週間前午前0時過ぎにすぐ押さえた甲斐があった。(0時5分頃にすでに3分の1ほど埋まっていた。夕方に見たら、ほぼ満席だった。)

(1998年の映画)

 この映画は「部活映画」の最高峰だと思う。愛媛県の進学校に合格したもののやる気が湧かない主人公が、ボート部に入ろうと思う。しかし、ボート部に男子はいるものの女子部員はいなかった。そこで「作れば良い」と開き直って、新人戦までという条件で1年生4人を見つけてくる。最初は体力もなく、ボートも自分たちで運べない。実際に海に出てみれば、全く思うようには動かない。そういう様子を瀬戸内海の美しい景色の中に描き出す。学業の悩み、淡いロマンスなども織り込みながら、ついに新人戦がやって来て…。ボロ負けしたところで終わるはずが、「これでは止められんね」と皆の闘志に火が付くのだった。

 その後ビリは脱するものの、その後どこまで勝てるのか。原作、実写映画、アニメ映画で全部展開が違うので、今後接する人のため書かないことにする。この映画の素晴らしさは、瀬戸内海で実際に10代の俳優がボートを漕いでいるということにある。それは小説でもアニメでも不可能だ。当初のぎこちなさも含めて、「青春」という至上の瞬間が映像に封じ込められている。時間的な問題もあり、進路や恋愛など定番的設定は最少にして、ボートの練習や試合が中心となっている。体力、技量、健康問題など幾つもの困難を抱えながら、ここでは終われないと何とか頑張る。そのひたむきさが年齢を超えて訴えてくるのである。

 この映画は1998年のキネ旬ベストテン3位になった。小さな公開だったので高評価に驚いた。公開当時、設定をよく知らずに見に行って、すごく感動した記憶がある。監督はピンク映画出身で一般映画は少ない。女子ボート部を起ち上げる「悦ねえ」役の田中麗奈は本格初主演で、まだ無名だった。原作も知名度が低いし、ボート部経験者も少ないだろう。主要キャストで知名度があったのは、コーチになる中嶋朋子ぐらい。他に両親(森山良子、白竜)や校長(大杉漣)、また原作者が養護教諭でカメオ出演。Wikipediaによると、男子ボート部員に若き日の森山直太朗とバカリズムがいたんだそうだ。

 原作は松山市主催の第4回坊っちゃん文学賞(1995)の受賞作。この賞は中脇初枝(2回)、瀬尾まいこ(7回)が受賞している。著者の敷村良子(しきむら・よしこ、1961~)は松山東高校ボート部出身で、自身の体験を基にした青春小説である。(映画では伊予東高校、アニメでは三津東高校になっている。)2005年にドラマ化(主演鈴木杏)されたとき、原作小説が幻冬舎文庫に収録された。それを読むと、映画もいいけど小説はいっぱい書けていいなと思った。ホントのボート部は映画より活躍したのである。題名の「がんばっていきまっしょい」は始業式などで、生徒会長が声を出す掛け声。在校生は「しょい」と復唱する。ただし、ボート部ではそんなに使われず、原作では難しい「垂示(すいし)」というのを唱えている。

(敷村良子)

 原作では「豚神様」という皆が大切にしているマスコットが印象的だが、今日の監督の話によれば映画でも撮影したものの時間の問題で削ったという。残念。一番違うのは、コーチだろう。中嶋朋子のコーチは謎めいていて、道後温泉で偶然出会ったり、石手寺万灯会を教えたりする。原作ではOB夫妻が教えに来てくれるが、1月2日は毎年新年会で代々の部員が集結すると出ている。ところで実は作者は女子ボート部再興時のメンバーではなく、本当は後輩の部員なんだという。敷村良子さんは現在新潟県在住で、Wikipediaによると立教大学法学部を卒業した越智敏夫(新潟国際情報大学学長)という人が配偶者とのこと。

(2024年のアニメ)

 櫻木優平監督の劇場アニメ『がんばっていきまっしょい』は2024年10月25日に公開され、だいぶ上映回数が減ったけれど今も上映されている。これは原作、実写映画と大きく違っていて、時代が現代に変更されている。原作では1976年で、映画もそれに合わせて懐古的に作られているが、アニメでは皆がスマホを使っている。部員個々の設定も大きく違っていて、それはそれで面白いんだけど、原作や元の映画が好きな人には「何だかなあ」という感じも。また他校の部員とのあつれきや交流なども一番出て来る。部員も2年生だし、悦ねえの幼なじみで因縁深い「関野ブー」も変更されている。顧問の「渋じい」も他には出て来ない。

 別に同じである必要はなく、時代に応じて変えて行くのは当然だろう。しかし、瀬戸内海でボートの練習を繰り返すというベースはもちろん変わらない。その海の美しさはアニメならでは。事前に物語を知っていて、それを期待する人には満足出来るだろう。だけど、何か足りない気もしてしまうのは、実写版映画が好きだからだろうか。1976年という設定は自分の高校時代に一番近い。(大学2年生だった。)その意味での「あの頃」的な思いは、21世紀のスマホを持つ女子高生には持ちにくいのか。

(松山東高校)

 舞台となる松山東高校とは、旧制松山中学、つまり夏目漱石が赴任し『坊っちゃん』の舞台となった学校である。正岡子規の卒業校でもあり、他にも高浜虚子河東碧梧桐中村草田男石田波郷など俳句の巨星を輩出した。今も俳句甲子園の強豪校である。また大江健三郎の出身校で、伊丹十三と知り合った学校でもある。(伊丹はその後松山南高校に転学し、そこを卒業。)伊丹万作(十三の父)、伊藤大輔山本薩夫森一生など、なぜか映画監督の巨匠も多く輩出した。他の分野でも多くの人材を輩出した愛媛県の進学校で、そもそもは藩校明教館にさかのぼる。空襲を逃れて今も校内に建物があるという。

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映画『この星は、私の星じゃない』と上野千鶴子トーク

2024年09月17日 21時50分23秒 |  〃  (旧作日本映画)
 8月7日に亡くなった田中美津さんを主人公にしたドキュメンタリー映画『この星は、私の星じゃない』(吉峯美和監督)の追悼上映を見て来た。アップリンク吉祥寺。今日は上野千鶴子さんのトークがあって、きっとすぐ一杯になるだろうと思ってチケット発売開始直後にネット予約した。そうしたら会員にならないと前売り券を買えなくなっていて、その手続きをする間にもどんどん席が埋まっていた。観客には高齢女性も多く見られたが、知り合いに取って貰ったりしたようだった。

 映画は2019年に公開されたが、その時は渋谷ユーロスペースのモーニングショーだったので見なかった。今回見たらとても面白い記録映画で、田中美津という「社会運動家」「鍼灸師」の生き方を見事に映し出していた。主に3つの側面から描かれるが、それは「今までの人生」「鍼灸師としての生活(子どもとの関わりを含め)」「沖縄・辺野古」である。田中美津は日本の「ウーマンリブ」の「伝説的リーダー」として知られるが、その生育歴に幼児の「性被害」があった。そのことを撮影当時も考え続けている。一方、沖縄で轢殺された女児の写真に衝撃を受け、辺野古への基地移転反対運動に通うようになる。沖縄へ通い「自分ももうすぐニライカナイへ行く」と語るのである。そのような姿が等身大で浮かび上がる。
(田中美津)
 一方で鍼灸師としての活動も描かれている。上野千鶴子も患者だと言っていたが、非常に実力のある鍼灸師だがとても辛い治療だという。「長鍼」を使っていて、見ていても痛そうだし患者さんも痛いと言ってる。だが上野さんによれば劇的に効くらしい。田中美津はリブ運動に行き詰まりを感じ、1975年にメキシコに出掛けたまま4年間帰って来なかった。その間に恋に落ち子どもが生まれたが、パートナーとは別れて帰国して、鍼灸学校に通ったのである。その子ども(男性)は40歳前後になっているが、映画撮影期間に鍼灸師の資格を取ったことが出て来る。家庭の領域が記録されているのは貴重だし、人間の諸相を考えさせられる。
(上野千鶴子)
 上野千鶴子さんは1948年生まれ、田中美津さんは1943年生まれで、5歳の差がある。100年後の人から見れば「同時代の女性運動家」に見えるだろうけど、戦争と高度成長、60年代反乱の激動の時代にあっては、この5年の違いは大きい。上野さんは京都大学に通ったので、まさに「大学反乱」の真っ最中である。しかし、大学へ行ってない田中美津さんは60年代初頭にはもう働き始めているたである。「ウーマンリブ」創世記には上野千鶴子はまだ学生なので関わっていない。しかし「後から来た者」の「特権」で、上野千鶴子は「日本のウーマンリブは、1970年10月21日(国際反戦デー)の女だけのデモで、田中美津が書いたチラシ「便所からの解放」を配布した時を以て始まる」と規定した。外来思想ではなく、日本の現実から出て来たとみなすのである。

 もっとも上野さんによれば、「田中さんは嫌な人」だという。田中美津いわく、「お尻をなでてくる男」がいたとして、「ウーマンリブは顔をたたき返す」「フェミニズムはそれってセクハラですよと言う」と言ったらしい。まあ、何となく言いたいことは判る気がするけど。そして上野千鶴子さんは吉峯監督にも聞きたいことがあるという。沖縄へ通うようになって、「聖地」と言われる久高島を訪れガイドを務める人から話を聞く。その時のガイドの言葉は上野さんによれば、ありきたりのもので「田中さんは霊的に筋が良い」とかは誰にでも言ってるに違いないという。そういう場面が必要なのかと問うのだが、監督は実はその時田中美津さんは説明を聞きながら寝てしまった、それが面白くて映像を残したというのである。

 僕も寝てるのかなと思ったが、上野さんは深く沈み込んで熟考していると捉えたらしい。やはり聞いてみるべきだと語っていたが、しかし田中さんが「せいふぁうたき(斎場御嶽)」も訪ねているし、久高島も訪れている。沖縄にスピリチュアルな関心を抱いていたのも確かだろう。そういう方向性と「鍼灸師」として「身体」に関心を寄せたことはつながっているのか。まあ、きちんとメモを取らず聞いていただけだが、「田中美津」という人間の魅力とフシギが後世に遺されて良かったなと思った。どのカテゴリーにするか迷ったが一応「旧作日本映画」にしておきたい。
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「生誕百年記念シネアスト安部公房」と岩崎加根子トークショー

2024年08月22日 22時49分02秒 |  〃  (旧作日本映画)
 戦後日本を代表する国際的作家安部公房(あべ・こうぼう)は、2024年が生誕百年に当たる。ノーベル文学賞確実と言われながら、1993年に68歳で急死して以来30年以上が過ぎてしまった。今年は様々な企画もあるようだが、現在シネマヴェーラ渋谷で「生誕百年記念 シネアスト安部公房」という映画特集をやっている。この前高橋惠子浅田美代子のトークを聞きに行ったところだが、今日は俳優座のベテラン女優岩崎加根子のトークショーがあるのでまた行ってきた。
(安部公房)
 安部公房の本名は「きみふさ」と読ませるらしいが、大体皆「こーぼー」と発音していた。戦後文学の中でも独自の異端的な作風だったが、『砂の女』『他人の顔』『燃えつきた地図』などミステリアスな作品が世界的に評価された。僕は代表的な作品を高校時代に読んでしまい、大きな影響を受けた。主要作を収録した「新潮日本文学」の他に、文庫に入っていた『』『第四間氷期』などSF的作風の作品も面白かった。『箱男』『密会』『方船さくら丸』などは刊行当時にハードカバーで読んでいる。しかし、次第に作品を発表しなくなり気付いたら新聞に訃報が載っていた。

 そんな安部公房が70年代には演劇に熱中していたことは、今ではあまり記憶されていないかもしれない。もともと60年代に主要作品が勅使河原宏監督によって映画化され、安部も脚本に参加している。それらの映画は前に勅使河原監督特集で見たときにまとめて書いた。(『砂の女』は別にそれだけで書いている。)それ以前にラジオドラマやテレビドラマの脚本を書くこともあった。そして50年代末からは新劇に向けて戯曲を書くようになった。そして1973年には、「安部公房スタジオ」を起ち上げた。井川比佐志田中邦衛仲代達矢山口果林などが参加し、堤清二の支援を受けて西武劇場(現PARCO劇場)で上演した。
(岩崎加根子)
 そのきっかけは今日聞いた岩崎加根子(1832~)によると、60年代末に俳優座で『どれい狩り』が上演された時の経験にある。上演はありがたいがどうしても千田是也の演出した世界になってしまう。「意味」をはく奪して肉体のみが演じる世界を演出したいということだろう。そのため紀伊國屋の企画として安部公房演出で『棒になった男』の上演が行われた。この戯曲は「」「時の崖」「棒になった男」の三作品が集まったもので、岩崎加根子は市原悦子とともに「」に出た。鞄に何が入っているか二人で延々と話し続けるような作品だったらしい。聞き手の鳥羽耕司氏によると、これは安部公房の見た夢の戯曲化らしい。
 
 岩崎加根子は独特の安部演出に腰を痛めてしまったが、安部は東京帝大医学部卒(Wikipediaによれば国家試験を受けない条件付きで卒業単位を認定されたという)で東大病院にいた同級生のところに行かされたという。胸に一本注射を打たれたら腰痛が消えたという。安部公房は俳優座との関係が深く、俳優座養成所を桐朋学園短期大学(現・桐朋学園芸術短期大学)に移管するときも安部があっせんしたという。(1966年に桐朋短大に「芸術科(音楽専攻・演劇専攻)」を設置し、俳優座養成所を廃止した。安部公房や千田是也が教員として加わった。)安部公房スタジオに仲代、井川、田中など俳優座出身者が多いのもそれが理由だろう。

 岩崎は安部公房スタジオには参加していないが、当時の体験者として非常に興味深い出来事を幾つも語った。例えば山口果林が朝ドラ『繭子ひとり』(1971)に選ばれたとき、岩崎に電話してきてNHKテレビに出たら演技がおかしくならないか、反対するべきかと相談したらしい。岩崎も困ってしまって、本人がしっかりしてれば良いんじゃないか、本人の希望次第などと答えたらしい。安部もそうか本人次第かなどと反応したらしい。朝ドラに出ることで知名度が高まるのは間違いない。60年代には樫山文枝日色ともゑ、70年代だと大竹しのぶなどその後舞台で活躍を続けた女優も輩出しているから、確かに本人次第だ。
(『仔象は死んだ』)
 ところで今日上映された『仔象は死んだ』は79年にアメリカで上演され大評判を呼んだ作品の映像化である。1980年に製作されたもので、安部公房が監督、脚本、音楽を担当している。音楽というのは自分でシンセサイザーを演奏しているのである。また美術を安部真知(夫人)を担当している。映画は舞台の記録かと思うと少し違って、カメラが動いて時には劇場外に出ていく。安部公房スタジオは当初は普通に演劇らしい、つまりセリフが意味を持つ不条理劇をやっていたが、次第にパフォーマンスというか「舞踏」のようなものになったという。『仔象は死んだ』にはセリフもあるが、ほぼ意味のつながりがない。一面の大きな白いシーツの下、または上で俳優が床運動みたいに動き回る。これが70年代の「前衛文化」だという感じ。
(『詩人の生涯』)
 その前にアニメ『詩人の生涯』(1974)と『時の崖』(1971)も見た。『詩人の生涯』は安部公房脚本、川本喜八郎演出の切り絵風アニメで、シュールレアリズム的な描写と社会派的テーマが融合した作品。『時の崖』は先に書いた『棒になった男』の中の一編で、井川比佐志の一人芝居と言ってもよい。負けていくボクサーの心象風景をひたすら井川のシャドーボクシングと一人語りで描き出す。安部公房監督作品。映像作品として見た場合は、『仔象は死んだ』も『時の崖』も資料映像的な感じ。

 だけどこれらの作品は70年代文化史に欠かせないピースだと思う。有名作家の中でここまで演劇に関わった人もいないだろう。またある種堤清二を中心にした「セゾン文化」を記録した意味もある。僕は高校生から大学の時期で、安部公房スタジオというのがあるのは知っていたが見たことはない。何だかよく判らないけれど、こういうものに観客が集まっていた時代があった。岩崎加根子は細かいことは忘れたといいながら今も元気で、今秋に『慟哭のリア』の主演公演が控えている。
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映画『あした輝く』と浅田美代子トークショー、戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭

2024年08月12日 22時02分27秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷の「戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」、今日は1974年の『あした輝く』(山根成之監督)と主演の浅田美代子のトークショーに行ってきた。実は前日に原作者の漫画家里中満智子のトークもあったのだけど、やはり浅田美代子の方が聞きたい。まあ猛暑の中二日連続は体力的にきついし。浅田美代子も言ってたけど、戦争を描く映画はいっぱいあるのに何でこの映画が選ばれたんだろうという感じはした。でも半世紀前の普通の「アイドル映画」が戦争をどう描いていたかという意味で興味深い。

 この映画は初めて見たが、公開当時に映画は知っていた。里中満智子原作の漫画の映画化で、前年(1973年)テレビ『時間ですよ』でデビューした浅田美代子が主演したんだから話題作である。浅田美代子は劇中歌「赤い風船」も大ヒットして、大注目のタレントだった。監督の山根成之(やまね・しげゆき)は、当時『同棲時代』『愛と誠』など青春映画の話題作を連発していた。しかし、今回見てみると突っ込みどころいっぱいの「アイドル映画」で、何だこれは的な展開が続く。

 確かに「この映画を何でやるか」的な感じである。時は敗戦直後の「満州国」。関東軍は民間人を置いて撤退してしまい、引き揚げ時に多くの犠牲を出した。ソ連軍の攻撃に加え、現地中国人の襲撃も受け、後に「残留孤児」問題が起きる。しかし、映画では「満州国」の本質は追求しない。主人公今日子(浅田美代子)は奉天の夏樹医院の「お嬢様」で、加賀中尉(沖雅也)に言い寄られているが、衛生兵速水香(志垣太郎)を好きになる。運命的に結ばれ、速水は民間人保護のためとして今日子らの引き揚げに同行する。今日子の父は途中で死に、香は後を託される。その時、今日子は香の子を宿していた、っていつそうなったの?
(今日子と香)
 2022年に亡くなった志垣太郎はこんなにカッコよかったのか。恋敵の沖雅也は1983年に31歳で自殺した俳優である。その後、帰還船の中で今日子は流産するが、同行していた女学校の教員、緑川先生(田島令子)が出産後に亡くなり、その子を引き受ける。速水の実家(九十九里)に赴くと、助産師の母親(津島恵子)は子どもを香との子どもと思い込む。子どもは「今日子と香」から「今日香」にしようと香が言うが、今日じゃなくあしたが輝いて欲しいから「あすか」にしようと今日子が言った。これが題名になるが、その後ソ連軍に連行され生きているかも不明な香を今日子は義母とあすかと一緒に待ち続ける。
(里中満智子)
 その向日性が浅田美代子の持ち味と合っていて、都合のいい展開に納得してしまうわけである。「引き揚げ」もの、「シベリア」ものはかなりあるが、この映画は戦争映画という意味では特に書くこともない。ただ半世紀前のアイドル映画では、戦争が背景として成立していたのが興味深い。今では時間が経ちすぎて「歴史映画」になってしまう。半世紀前は「戦後29年」ということで、若い世代からしても「戦争は父母の時代の話」だった。一家の成り立ちを振り返れば、そこには当然戦争という歴史が出て来る。そういう時代性を背景にして、愛の物語が成り立っている。山根演出はまさに「少女漫画」の実写化という感じで撮っていて面白かった。
(浅田美代子=現在)
 浅田美代子さんは最近も良くテレビで見るが、いつまでも元気で活躍して欲しい。この映画のことは船酔いしたことが最大の思い出だという。乗馬のシーンがあるが、自分じゃないという話。それはそうだろうなと思って見ていた。テレビと映画の違い、樹木希林さんの話など興味深い。しかし、それ以上に犬の保護活動を通じて、猛暑が続く中で犬を外で飼ってはいけない、猛暑の昼間に散歩させてはいけない。自分は夜10時過ぎに毎日行ってるとのこと。諸外国ではペットショップ自体が無くなりつつある。ペットショップだと売れ残る犬が出て来るからという話に考えさせられた。共同通信の立花珠樹さんの司会。
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映画『花物語』と高橋惠子トークショー、戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭

2024年08月10日 22時48分18秒 |  〃  (旧作日本映画)
 第13回を迎える「戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」が今年は渋谷のシネマヴェーラ渋谷(ユーロスペースのあるビル4階)で始まった。今までは見てる映画が多くて行ってない年が多いが、今年は「家族たちの戦争」をテーマにほとんど見てない映画が並ぶ。しかもトークショーが幾つも企画されている。今日は公開時に見ているんだけど、非常に上映機会が少ない『花物語』(堀川弘通監督、1989)を再見してきた。主演の高橋惠子のトーク付きである。

 千葉県の房総半島南部は南房総国定公園に指定されている景勝地域である。普通の観光地の人気シーズンは夏や春秋なんだけど、ここは2月頃に一番観光客が訪れる。花の栽培が盛んな地域で、お花畑が一面に咲き乱れ向こうに海が映える。その時期に南房総をドライブしたことがあるが、素晴らしい景色だった。中でも外房南部の和田町(現・南房総市)あたりは花栽培が戦前から盛んな地域として知られていた。ところが戦時中はその花栽培が禁止されたのである。「食糧増産」が国の旗印で、すべての田畑は食糧生産に当てるべきだというタテマエである。この地域は海に近く、野菜や米の生産には向かず、花に向いた土地なのに。
(花束を受ける高橋惠子)
 枝原ハマ高橋惠子)は花栽培にずっと取り組んできた。それには理由があることが後に判るが、ハマはなかなか花栽培を止めなかった。主な畑は野菜に転換したが、小さな一つの畑だけは何とか見逃して欲しいと言う。しかし、「お上」の意向を受けた村の当局者は、それを許さない。長男は学校で「非国民の子」といじめられ、母には出来ないからと自らの手で残された花を摘み取ってしまう。それでも「畑じゃない場所」なら良いだろうと小規模で花を作り続けたが…。漁師の夫(蟹江敬三)は再度召集され、長男は予科練に応募して去る。疎開児童やノモンハン帰りの時計屋(石橋蓮司)など複数の目で村人たちを活写していく。
(堀川弘通監督)
 僕はこの映画を公開当時に見ているんだけど、そういう人は少ないと思う。公開自体が小規模だったし、確かすぐに終わってしまった。それでも見たかったのは、実は田宮虎彦(1911~1988)の原作『』が好きだったのである。田宮虎彦は今では忘れられた作家だろうが、かつて文学全集がいっぱい出ていた時代にはよく1巻、または半巻を当てられていた。『足摺岬』『銀心中』『異母兄弟』など映画化された作品も多い。『落城』『霧の中』などの気品ある歴史小説も好きだった。僕の若い時期にすでに読まれなくなっていたが、持っていた全集で読んでみたら気に入ったのである。その田宮虎彦の映画化だから見たかった。
(田宮虎彦)
 堀川弘通監督(1916~2012)は黒澤明監督に師事したことで知られ、『評伝 黒澤明』(2001)という本もある。『あすなろ物語』(1955)で監督にデビューし、『裸の大将』『黒い画集 あるサラリーマンの証言』などの代表作がある。東宝からフリーになってから作った作品には戦争を扱った映画が多い。他には『ムッちゃんの詩』(1985、今回の映画祭で上映あり)や『エイジアン・ブルー 浮島丸サコン』(1995)がある。Wikipediaには「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めていたと出ていて、晩年に戦争を描いたことと関連するのかもしれない。素直に感動させる映画が持ち味で、『花物語』も同様。

 およそ花栽培を禁止するなど、現在の感覚からは全く理解出来ない。常識的に考えて、戦死者に手向ける花は不要だったのか。この映画では、いつも非国民と罵っていた隣人が訪ねてくるシーンが印象深い。二人の男子が戦死し、もう一人も戦地にある。口では皆お国に捧げると言ってるが、秘かに三男の無事を祈願している。その子が目を失って帰還してきて、見舞いに行ったら「故郷の花が見たい」と言ったのである。もう花を作っているのは村中でハマだけになっていたので、頭を下げて花をくれないかという。そして「花は口では食べられないが、心の食べ物かもしれない」と言うのである。この「心の食べ物」という言葉に込めた思いが深い。
(長男役の八神徳幸=現在)
 高橋惠子(1955~)は僕と同じ年の生まれ(学年は一つ上)で、デビュー時の「関根惠子」時代から気になっていた。増村保造監督の『遊び』(1971)はとても印象的で、関根惠子も輝いていた。なかなか波乱の俳優人生だったが、『TATTOO〈刺青〉あり』(1982)出演後に監督の高橋伴明と結婚し高橋姓を名乗るようになった。この映画は和田町で2ヶ月ロケして作られ、今も現地の人と交流があるという。会場には長男役の八神徳幸(やがみ・のりゆき)も来ていて、昔のことを詳しく覚えていた。今は何しているのかと問われ、今も役者だという。確かにWikipediaにも項目があり、あまり大きな役ではないがテレビや映画にも出ている。本人も言ってたが通販番組が多いようだ。

 この映画が上映される機会はなかなかない。今回は16日まで映画祭があり、その中でまだ何回か上映がある。(時間はまちまちなので、ホームページで確認を。)今回の上映を機に再評価されると良い映画だと思う。今までDVD化されてないとのことで、今後のソフト化、配信なども期待したい。戦時下の日常がどんどんおかしくなっていく様子が判ると思う。南房総の早春を彩る美しい花々、そこにも悲劇の現代史があった。忘れてはいけない歴史の教訓だ。
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独立プロ映画『村八分』と戦後民主主義

2024年02月24日 22時03分52秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷でやってる「日本の映画音楽Ⅱ 伊福部昭・木下忠司」という特集で、古い日本映画を少し見ている。特に映画音楽というより、二度と見られなそうな珍しい映画が結構多いのである。僕の場合、映画史的に重要な作品や巨匠の代表作なんかは大体見終わっていて、好きな映画をまた見ることもあるけど、それよりは「昔の日本」を発見する目的が大きい。

 ロケされていると、昔の風景が意図せず映し込まれていて発見が多い。また、ストーリーやテーマを今になって見直すと、時代の変化(パラダイム変換)を発見することもある。最近見た『遠い一本の道』で、「左翼労働組合」の「闘争」が性別役割を前提にした「主婦が内職しないで済む賃金」を獲得目標にしていたと驚いたのはその一例である。

 今回記録しておきたいのは、1953年に作られた『村八分』という映画で、現代史に関心がある人にはある程度知られている1952年の「静岡県上野村村八分事件」を映画化したものである。近代映画協会製作、北星配給という「独立プロ」作品。日本では50年代を中心に大手映画会社で作れない社会的テーマに果敢にチャレンジする独立プロ作品が多数作られた。貧困や差別と闘う「民主主義映画」は、世界映画史上でも重要な作品群として「発見」する必要がある。(上映は終了したが、DVDが出ている。)

 1952年に行われた参院選補欠選挙が今や開票の時を迎えている。朝陽新聞社の支局前では各候補の得票状況を時々刻々と書き換えている。多数の人々が支局前に集まって開票状況を見つめている。この風景が今ではもはや珍しい。「翌日開票」で昼間開票しているのである。その時、支局に届いた手紙に気付いた人がいる。読んでみると、自分の村では「投票券」を有力者が集めて回って「不正選挙」が行われているという投書だった。差出人は「野田村」の高橋満江という女子高生である。野田村の担当は吉原通信局で、連絡を受けた本多記者(山村聡)が早速自転車で現地に出掛ける。

 村人は堅く口を閉ざしているが、投書をした女子高生を高校に訪ねて不正の様子を詳しく取材する。直接知っているわけではなかったが、母親のところに有力者が当日村を出ている父親の分の投票権を集めに来たという。母親はおかしいと思って断ったが、実は2年前の参院選の時も同じようなことがあった。取材の様子が知れ渡り皆心配するが、村長や県議など有力者は何も言うなと命じる。やがて大きく報道されると、警察が動き出し罰金刑になる者も出て来て村は大揺れになった。元はといえば原因は高橋満江だとして、村人は高橋家と付き合わないように取り決める。満江は孤立して教師に相談するが…。
(香山先生=乙羽信子は家庭訪問する)
 主人公の高橋満江を演じたのは、これがデビューの中原早苗(1935~2012)。その後日活に入社して多くの青春映画に出た。大体は石原裕次郎をめぐって主演女優(浅丘ルリ子や芦川いづみなど)と争う敵役だった。結局は敗れるわけだが、明るい持ち味で演じていた。64年にフリーとなって東映映画によく出るようになり、65年に深作欣二監督と結婚した。東映では大体悪い方の親分の情婦みたいな役が多い。貴重な脇役で、僕は中原早苗が出ているのを見ると嬉しくなる。
(中原早苗)
 新藤兼人脚本、宮島義勇撮影、伊福部昭音楽という豪華なスタッフ。今回は伊福部昭特集で選ばれているが、特に代表作というわけでもないだろう。『ゴジラ』のテーマで知られている作曲家で、荘重な音楽を付けている。監督の今泉善珠(いまいずみ・よしたま、1914~1970)を知らなかったので、1976年キネマ旬報社刊の『日本映画監督全集』を見たら載っていた。戦前は記録映画を作っていたが、戦後に新藤兼人監督『原爆の子』の助監督を務めて、この作品で劇映画の監督に昇進した。しかし、次作『燃える上海』以後は東映教育映画部で児童向け教育映画を主に作ったという。不遇な子どもたちを温かい目で描く作品が多く、『青年の虹』が文部省特選になったという。ところで、この本には監督の住所と電話番号が明記されているのには驚いた。
(大きく報道された)
 展開がストレートで、映画の完成度的には佳作レベルだろう。作られた1953年は日本映画史上最高の豊作年で、小津の『東京物語』が2位、溝口の『雨月物語』が3位。世界映画史に残る両作品を押えたのは今井正の『にごりえ』で、今井作品は『ひめゆりの塔』も7位に入った。他にも『煙突の見える場所』(五所平之助)や『日本の悲劇』(木下恵介)など傑作揃いで、『村八分』には一点も入っていない。僕もそれはやむを得ない結果だろうと思う。社会史的価値で残る作品なのである。

 事件が起きたのは静岡県上野村で、1959年に富士宮市と合併して消滅した。日蓮正宗の本山、大石寺(たいせきじ)のあるところである。映画でも富士山が真っ正面に見えているから、付近でロケしている。まだ馬で畑を耕しているのが驚き。前近代から続く共同体が生きているような村である。補欠選挙は1950年当選の平岡市三の死去に伴って行われた。占領が終了し公職追放が解けた石黒忠篤元農相が立候補して当選した。「農政の神様」と言われた人で、近衛内閣で農相を務めていた。

 朝陽新聞は朝日新聞で、高橋満江の実名は石川皐月である。実は2年前の参院選でも不正があり、おかしいと思った石川は当時在学していた上野中学新聞に替え玉投票を告発する文章を投稿した。それが掲載された後に村で批判され、中学は配布した新聞を全部回収して焼却処分にしたという。その後、富士宮高校に進学していた石川は今度は朝日新聞に投書したのである。「村八分」事件も大きく報道され、法務局や日弁連人権擁護委員会も調査に訪れる。映画では馬を貸してくれないから高橋家では人力で耕作するしかない。満江と妹も学校を休んで働くことになる。しかし、高橋家には全国から応援の手紙が寄せられる。
(石川皐月のその後)
 そして高校では「臨時生徒大会」が開催される。驚くのはその時に教員は職員室で仕事しているのである。大会は生徒だけで運営されており、皆が挙手して整然と議論している。今じゃ教員なしで生徒大会が出来る高校などあるのだろうか。最低でも生活指導部の生徒会担当教員は出席するんじゃないだろうか。それはともかく、ここでは村の秩序を乱す行為はおかしいという意見を述べる生徒もいるのだ。しかし、最終的には「正しいこと」を主張した者が迫害されることはおかしいという結論になり、皆で高橋家を支援しようと自転車で駆けつけるところで終わりとなる。

 石川皐月は当時「不正をみても黙っているのが村を愛する道でしょうか」と述べていた。母親が投票券を渡さなかったのも、戦後になって女性が投票出来るようになった選挙権の大切さを実感していたからだろう。「昭和」が遅れていたというのではなく、戦争で得た民主主義を守るために闘った人がいて、その上に現在があるのである。後に石川皐月は1953年に『村八分の記―少女と真実』を理論社から刊行した。そして「婦人民主クラブ」事務局長(加瀬皐月名義)として活動し続けた。今も存命である。
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左幸子監督『遠い一本の道』(1977)、感慨覚える国労映画

2024年02月11日 22時19分23秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立映画アーカイブで『日本の女性映画人(2)――1970-1980年代』という特集上映が始まった。有名な映画なら同時代に見てる映画も多いが、久しぶりに見直す意味もあるので(それに見てない映画もあるし)、何本か見ようと思っている。2月10日に左幸子監督『遠い一本の道』を再見したので、今回はそのまとめ。非常に複雑な感慨を覚えた映画で、公開当時に見ているが見直す意味が大きかった。もう一回、16日(金)19時に上映があるので紹介しておきたい。

 今回の特集趣旨の「女性映画人」という観点からすると、『遠い一本の道』は女性監督作品で初めてベストテンに入選した映画である。キネマ旬報ベストテンを基準にすると、1977年の第10位に入選している。同じ年に宮城まり子監督『ねむの木の詩がきこえる』が7位に入っているが、これはドキュメンタリー映画なので劇映画としては史上初である。その次は20年後の1997年の河瀬直美監督『萌の朱雀』(10位)なので、映画史的に非常に先駆的なのである。

 『遠い一本の道』は国労(国鉄労働組合)と左プロの合作で、日本の左派独立プロ映画の中でももっとも組合色が強い映画だろう。左幸子(ひだり・さちこ 1930~2001)は1977年に羽仁進監督と離婚して、その頃は社会党左派的な色彩を強めていた。元夫の両親羽仁説子、五郎が左派言論人として知られていたのに、子どもの羽仁進は非政治的だった。それに対して左幸子が政治的になったのは因縁を感じた。今は忘れられた感もあるが、今村昌平監督『にっぽん昆虫記』でベルリン映画祭女優賞を受賞した。これは日本の女優が三大映画祭で受賞した最初で、もっと評価されるべき女優だと思う。

 映画は国労の全面的協力のもと、有名な劇作家宮本研の脚本を左幸子が製作、監督、主演して作られた。北海道を舞台に、70年代の「マル生運動」さなかの揺れる国鉄労働者を描いている。ところどころはドキュメンタリー的に撮影されていて、記録映像的にも貴重。主人公滝ノ上市蔵井川比佐志)は、保線職員である。鉄道映画は数多いが運転士や車掌、あるいは駅長などが取り上げられることが多く、保線職員を描く映画は他にないのでは? 戦時中に高小卒で就職し、そのまま勤続30年を迎えた。その表彰式が札幌で行われる日から映画は始まる。恐らく実際の映像で式典が進み、職員は夫婦同伴で表彰される。
(保線労働の様子)
 映画の舞台は追分駅で、札幌の東にあって室蘭本線と石勝線が分岐する地点である。北海道に多かった鉄道に依存した町で、勤続式典は重大事だ。滝ノ上の妻里子左幸子)は和服を新調して、久しぶりの札幌行きを楽しみにしている。ウキウキする妻とどこか無愛想な夫の様子をバスのバックミラーに映る姿で見せる。その夜は家でお祝いをするが、そこに札幌のデパートで働く娘由紀市毛良枝)が恋人の佐多長塚京三)と現れる。この機会に夫に承知させようという里子のアイディアだったが、市蔵は怒って追い返しちゃぶ台をひっくり返してしまう。
(表彰式に向かうバスの中)
 里子は夫を大切にしているが、自分のように結婚するまで顔も見たことがなかった結婚を娘にさせたくないのである。しかし職場で悩み多い市蔵は時々怒りを里子にぶつける。試験を受けても落ちるばかりで、一生保線職員で終わるのか。仕事に誇りを持ちつつも、当局は「合理化」を進めて、現場職員の経験よりも機械導入に熱心である。このままではどんどん人員削減になりそうで、それを防ぐためには皆が組合に団結して闘う必要がある。市蔵はそう思っているが、薄給のため里子は内職せざるを得ない。国労の家族会も要求をぶつけるが、その中で「内職せずに食べていけるように、夫の給料をもっと上げて欲しい」と言う。
(市蔵と里子)
 今から見ると、左翼労働組合の主張が「妻が家庭で主婦に専念出来るだけの給与を夫に支払え」というのは不可解である。当時赤字を抱えていた国鉄で、大々的な給料増が実現する可能性はなかっただろう。しかし、ストがあれば妻も家族会に団結し、闘争中の夫たちのためにおにぎりを作るのが当然のこととされる。子どももそれを見ていて、「お母さんはストの手伝いでおにぎりを作ってる時が一番生き生きしている」と言う。「性別分業」は全く疑いの対象ではなく、むしろ「金持ち階級のように、われわれ貧困階級も夫が働き妻が家庭を守る暮らしが可能になる社会」が左翼の目標だったのだ。

 このように左派労働組合のジェンダー意識が意図せず記録されているのが貴重なのである。そのような「国鉄労働者一家」的な共同体的労働を当局は解体したいと思っている。全国あらゆる職場で進行していた「職能給」的な給与体系にしたいのである。そのためには労働者を「階級的労働組合」から「労使協調的労働組合」に誘導していく必要がある。そこで70年代初期に、当局挙げて国労からの脱退、鉄労(第二組合)への加入を管理職自身が強引に勧めて回る「生産性向上運動」(マル生運動)が起こった。さすがにそれは問題化して、「組織的な不当労働行為」として当局側が謝罪せざるを得なくなった。

 その当時のギスギスした職場環境、マル生運動の実態が、この映画には残されている。他にない貴重な映画だと思う。マル生運動を「粉砕」した国労などは、1975年にストライキ権を求めて「スト権スト」に突入した。里子たちももちろん支援のため、おにぎりを作っていた。そして、そのスト権ストに敗北し、国鉄労働運動は転機を迎える。国鉄内の組合運動は複雑に分かれていて、ここで細かく説明する余裕も知識もない。ただ、この映画が作られて10年後の1987年には、国鉄が分割民営化されてしまうとは、映画製作時には誰も思ってなかっただろう。そして「国労」そのものが激しい弾圧にあうことになる。それは国家的不当労働行為とも言え、僕は今でも納得していないが、やはり国鉄労働運動も問題を抱えていたことが映画で理解出来る。
(「軍艦島」)
 さて、もう一つこの映画が貴重なことは、長崎県の「軍艦島」(端島)の当時の貴重な映像が残されているのである。娘由紀はやはり佐多と結婚することになり(市蔵はひそかに佐多の職場の林業を見に行っている)、佐多の両親がいる長崎で挙式することになる。佐多は端島が閉山した後、夕張炭鉱に移ったがそこも不況のため夕張の林野庁で働いていた。「ひかりは西へ」と国鉄は新幹線の博多延伸を宣伝していた。一度新幹線に乗りたかった里子は夫と博多まで新幹線で行く。結婚式翌日に、佐多は本当の生まれ故郷「軍艦島」に案内するのである。当時も無人だが、まだ個人的な訪問、あるいは映画撮影も可能だったのか。

 そこで見た昔の学校の様子、朽ち果てた炭鉱アパートの現状を見て、皆は大きなショックを受ける。労働者はいつも使い捨てなんだという歴史を突きつける。山田洋次監督『家族』(1970)は長崎から北海道へと延々と家族が移り住む様子を描いたが、この映画は逆に北海道から長崎へ映像が替わる。しかし、働く庶民に冷厳な日本社会という構図は同じだろう。僕は当時見て、テーマとメッセージに感動出来たと思うが、今見るとやはり古かったかな、これでは負けるなとも思った。数多い左派独立プロ映画の最後尾に位置する映画で、それが女性監督初のベストテン入選映画でもあったのは興味深い。長塚京三、市毛良枝が若いのも驚き。
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映画『新雪』と『火の鳥』ー井上梅次と月丘夢路夫妻の映画

2023年11月03日 22時24分34秒 |  〃  (旧作日本映画)
 女優月丘夢路(1921~2017)と監督井上梅次(1923~2010)夫妻の特集が国立映画アーカイブで開催されている。7階の展示室で「月丘夢路 井上梅次 100年祭」が展示され、同時に大ホールで二人の映画が上映されている。この二人は長く映画に関わったが、一番の活躍時期は1950年代から60年代前半ぐらいだった。井上監督は日活や大映などで多くの映画を作ったが、すべてが娯楽作品である。ビデオもDVDもない時代には、見る機会がほとんどなかった。近年昔の映画を上映する映画館が作られ、井上作品を見る機会も増えて来たが、それが非常に面白いのである。まさに「映画の職人」という感じ。

 一方、月丘夢路は名前が示すように、宝塚出身。1937年に宝塚音楽歌劇学校に入学し、第27期生となった。これは越路吹雪乙羽信子と同じである。戦時中から映画に主演し、1943年に正式に退団した。在学中から大変な美人とうたわれ、いじめられるほどだったとウィキペディアに出ている。娘役で人気を博し、宝塚百年(2014年)に作られた『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人に選ばれている。と言うようなことは調べて知ったことで、僕が映画を見るようになった70年代には映画やテレビでもう脇役だった。そんなすごい美人女優で大人気だったなどということは、映画史的知識としてしか知らないことである。

 今回初めて1942年の大ヒット作『新雪』(五所平之助監督)を見たが、月丘夢路の素晴らしい魅力に驚いた。僕はこの映画を母親が好きだったと聞いていて一度見たいと思っていた。しかし、フィルムがないとされて、長く見られなかった。ソ連崩壊後にロシアで短縮版が発見され、今回見たのはそれだろう。オリジナル124分のところ84分になっている。しかし、基本的なストーリーは理解可能。この映画は灰田勝彦が歌ったテーマ曲がヒットしたことでも知られる。「新雪」と言っても山奥の話ではなく、汚れなき純粋さといった意味なんだろう。大阪出身の作家藤澤恒夫が朝日新聞に連載した小説が原作で、連載中に太平洋戦争が勃発した。
(『新雪』の月丘夢路)
 戦時下の阪急線御影駅(神戸市)付近が舞台になっている。「国民学校」教師の蓑和田良太水島道太郎)と隣組の女医片山千代月丘夢路)を中心に周囲の人物を描いている。チラシには蓑和田が「進歩的な教育理念を掲げる国民学校の教師」と紹介されているが、国民学校と改称されたので「皇国民錬成」に力を入れるべしというような「進歩的」である。しかし、子ども好きで木登りを勧めるような型破りの「快男児」。一方片山千代も当時は珍しい女性眼科医で、戦時色が濃いながらも六甲山麓の爽やかな青春映画になっている。神戸の高羽国民学校で夏休みにロケされたが、この学校は阪神淡路大震災後に建て直されている。
(映画『火の鳥』、映画は白黒)
 その前に『火の鳥』(1956年)を見た。井上監督、月丘主演映画で、月丘が新劇の大スター生島エミを貫禄で熱演している。伊藤整の原作(1953年)の映画化で、当時の大ベストセラーだった。戦前から詩人、小説家として知られた伊藤整は、1950年にD・H・ロレンス『チャタレー夫人の恋人』を翻訳したところ、わいせつ文書として起訴されて有名になった。エッセイ『女性に関する十二章』も売れて、50年代初期に伊藤整ブームが起こった。英文学者で純文学作家の伊藤整が売れたというのは、今では信じられない。今では忘れられた感があるが、非常に重要な作家だった。
(伊藤整)
 バラ座の人気女優生島エミは情熱のまま生きてきた。父が英国人のハーフで、日本人の父から生まれた異父姉(山岡久乃)と大きな洋館で暮らしている。作家志望の杉山(三橋達也)を捨て、今は劇団を主宰する演出家の先生と愛人関係にある。「伯父ワーニャ」の打ち上げで、映画会社からあいさつされ心が揺れる。劇団は生島の人気で持っているが、劇団内には嫉妬もあり、新しいものにチャレンジしたいエミは映画界からのオファーに応じたい気持ちもある。だが先生は映画は娯楽重視で、我々が目指す芸術としては不足だと言う。そこら辺の映画と新劇の描き方が興味深く、打ち上げでロシア民謡で踊るのも「新劇」的。
(「伯父ワーニャ」を演じる月丘夢路)
 映画『火の鳥』に出演が決まると、相手役にニューフェースの長沼敬一仲代達矢)を抜てきする。これは実際に俳優座公演『幽霊』を見た月丘夢路が監督に進言したという。仲代達矢の本格的映画出演第一作で、若い頃の姿を見られる貴重な映画。海岸の船影で濃厚なキスをする場面を演じている。そこからエミは長沼を可愛がるようになり恋愛に発展、舞台公演の初日をすっぽかしてマスコミで大きく騒がれる。しかし、長沼は砂川闘争(を連想させる左翼運動)に参加して逮捕され、映画会社はクビになった。そこで在学中の大学劇団に戻り、その公演に生島エミに出て欲しいと頼む。

 このように当時の映画演劇界の裏を見せてくれ風俗映画としても興味深い。新劇から来たエミに「北原君の誕生パーティー」で皆に紹介しようという場面があり、北原三枝のパーティーになる。長門裕之と芦川いづみが踊ったりして、非常に貴重な場面になっている。そういう裏話的シーンが面白く、「情熱の女」を描くというテーマは今からすると中途半端かもしれない。だけど様々な意味で映画史的に貴重な存在だ。実は去年昔の映画を特集上映するシネマヴェーラ渋谷で月丘夢路や井上梅次監督の特集が行われた。月丘特集は何本か見て『火の鳥』もその時見るつもりだったが、母親が突然入院してしまって不可能になった。一年越しに見ることが出来て宿題を片付けた感じがする。

 井上梅次監督は60年代以後香港に招かれ、10本以上監督している。その中から『香港ノクターン』という映画が上映されるのも興味深い。ところでこの人には問題もあって、80年代に作られた一番最後の2本は統一協会や勝共連合が関わった映画なのである。月丘夢路もその頃よくやっていた「一和の高麗人参茶」のテレビCMに出ていたという。そうか、あれが月丘夢路だったのか。広島出身で近年は『ひろしま』(1953)の教師役が再評価されているが、そういうこともあったのである。この前見た『君の名は』でも後宮春樹の姉役で3本とも出ていたから、昔はホントに人気があったのだろう。
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『君の名は』三部作を見るー疑問だらけのすれ違いドラマ

2023年10月25日 22時23分09秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターで、菊田一夫原作の映画特集をやっている。「「君の名は」公開70周年記念」とうたっていて、その『君の名は』3部作をこの機会に見た。今まで「総集編」を見たことはあるが、もとの3本の映画は見たことがなかった。2時間超あるから、合わせて6時間を越える。今回は一週ごとに一部ずつやってたから、何とか見に行けた。今でも見られる「すれ違い」メロドラマの古典だが、設定には疑問も多い。菊田一夫(1908~1973)は日本の商業演劇、ミュージカルの発展に忘れられない人で、多くの舞台脚本を書いた。今回は他にも興味深い作品が上映されているが、時間の関係上見なかった。
(映画はモノクロ)
 『君の名は』は元々はNHKのラジオドラマである。(テレビ放送開始は翌1953年。)1952年4月10日に始まり、1954年4月8日まで続いた。毎週木曜日20時30分から21時までの30分間で、計98回。(このデータはWikipediaに拠る。)「番組が始まる頃には女湯が空になる」という伝説がある。(当時は家に内湯がある人はほとんどなく、多くが銭湯を利用していた。)松竹で映画化され、1953年9月15日に第1部、同年12月1日に第2部が公開され大ヒット。同年の配給収入トップ2となった。第3部は1954年4月27日に公開され、同年の配給収入1位。合わせて観客動員数3千万人という超大ヒットである。
(菊田一夫)
 物語は1945年(昭和20年)5月24日に始まった。東京大空襲と言えば、10万人が犠牲になったと言われる3月10日が知られるが、その時は東京東部が中心だった。その後も空襲は続き、中でも5月25日は皇居や首相官邸が焼けた山手大空襲として知られる。ただ死者は3651人で、3月に比べて少なくなっている。この間に疎開が進んだり、密集が少ない地域性によるだろう。一方、その前日の5月24日にも罹災者22万を出す空襲があった。空襲地の詳しいことは知らないが、銀座・有楽町付近はこの日に爆撃されたのだろう。今回初めて気付いたが、この日はちょうど僕が生まれた日の10年前ではないか。

 後に後宮春樹(あとみや・はるき)と氏家真知子(うじいえ・まちこ)と判明する二人の男女は、この日たまたま銀座周辺にいて、一緒に避難する。翌朝名前を聞こうとするが、また空襲警報が鳴ったので、生きていたら半年後に同じ数寄屋橋(すきやばし)で会おうと約束して別れたのだった。数寄屋橋は江戸城外濠に架かっていた橋で、関東大震災後の1929年に石造になった。真ん前に大きな日本劇場(日劇)があり、有名な東京風景だったという。1958年に高速道路が上を通ることになり外濠は埋め立てられた。その後しか知らないから、実際の橋が見られるのは貴重である。
(昔の数寄屋橋)
 このドラマ、映画は大ヒットしたが、角川春樹(1942~)、村上春樹(1949~)はそれ以前に生まれているので、「春樹」という名前はその影響じゃない。1973年の金大中氏拉致事件時の駐韓国大使は後宮虎郎という人だったが、「うしろく」という読みだった。「あとみや」なんて読み方があるのか。佐田啓二(1926~1964)が演じたが、今は中井貴一の父と言わないと通じない。37歳で自動車事故のため亡くなり、前年に亡くなった「小津に呼ばれた」などと言われた。小津安二郎、木下恵介、小林正樹など名匠の作品で忘れられない存在感を残している。昔の映画を見ている人には親しい存在だ。

 岸惠子(1932~)は、1951年にデビューして鶴田浩二や佐田啓二の相手役をしていた(鶴田浩二と噂になったが松竹が別れさせたとWikipediaにある)が、本格的な大スターになったのは『君の名は』だろう。時々見せる氷の表情が魅力的で、21歳とは思えない。以下の画像にあるストールの巻き方は、「真知子巻き」として今も名が残る。北海道ロケで寒かったから、私物を使ったというが、今見るとまるでヒジャブみたいな感じがする。この後、1957年にフランスのイヴ・シャンピ監督と結婚して一人娘が生まれるも、1975年に離婚。その間も日本の映画には断続的に出演し、『雪国』『おとうと』『怪談』『細雪』など文芸映画で名演した。僕は若い頃に見た『約束』(斉藤耕一監督、1972)の女囚役が忘れられない。小説やエッセイも高く評価されている。
(岸惠子と佐田啓二)
 ま、そういう俳優情報は別にして、この二人はその時東京で何をしていたのか。男はほとんど軍隊に行ってた時代だ。その後の仕事を見ても理系とは思えない後宮が何故東京にいたかが不思議。真知子は約束の前日におじに連れられて佐渡に帰らざるを得ず、数寄屋橋に行けない。東京育ちならともかく、佐渡に同級生・綾(淡島千景)がいるんだから、佐渡育ちなのである。それなら何故疎開しないのか不思議。おじは強圧的人物で帰りたくないんだろうけど、命には換えられない。健康な男女が東京都心でウロウロしていること自体が不思議で、その背景事情は全く説明されない。

 名前も判らないでは探しようもないが、それはエンタメの特性から判明する。一方、佐渡で真知子には縁談が持ち込まれる。中央官庁に勤めているというかなり恵まれた縁談で、おじの強要で断りにくい。おば(望月優子)は長く圧政に苦しんできて真知子に同情的だが、やむなく見合いに進む。その相手が浜口勝則川喜多雄二、1923~2011)で、主要人物の配役は皆判るのにこの人だけ知らない。元は歯医者だそうで、スカウトされて50年代には結構多くの映画に出ている。60年代に引退して歯科医に戻ったそうだ。浜口はすぐ結婚とは言わない、東京へ行って一緒にその人を探してみようと誘う。そして、実際に姉(月丘夢路)が住む三重県鳥羽に帰ったと聞いて探しに行く。しかし、すれ違いで会えない。そして、真知子は浜口の親切にほだされ、結婚を承諾する。
(川喜多雄二)
 すれ違いの筋を延々と書いても仕方ないから止める。第1部は佐渡の尖閣湾、第2部は北海道の美幌と摩周湖、第3部は雲仙、阿蘇と全国観光めぐりになっているのも、この種の映画の定番設定。第2部では真知子が北海道まで行き、後宮に会おうとする。第3部では後宮が雲仙まで真知子を訪ねてくる。飛行機ですぐ行ける時代じゃなく、ご苦労様という感じ。夫婦関係は一度妊娠するも流産し、その後は悪化する一方。それは「嫁姑関係」に問題がある。父を失い母と暮らしてきた浜口は、妻より母を大事にし、何事も母に仕えることを第一とする。その母は息子を失うことを恐れ、流産しても温かい言葉ひとつ掛けない。佐渡から来たおばが第2部でズバッと言い返すが、さすが望月優子の名演で胸のつかえが取れる。日本社会の家父長制の伝統、家族主義に苦しむ女性という構図は戦後的テーマである。

 第3部では離婚調停から、刑事告訴(!)もという展開に至るが、泥沼の愛憎の中、二人はあくまでも清くありたいと望む。浜口も次官の娘と付き合うようになったが、その娘は結婚したら母親とは別居が条件と言い渡す。姑も今さら真知子の方が良かったと気付き、雲仙まで謝りに来るが病気で倒れる。まあ、すったもんだがずっと続くが、ようやっと最後に病床の真知子に離婚届にサインして浜口が会いに来る。どうして、こんなことになってしまったのか。二人は語り合うが、誰も悪くなかった、仕方なかったと真知子は語る。結局、戦争と同じである。ひとりひとりは皆いい人で、責任はない。やむを得ず揉めることになってしまったけど、と言うのである。これが『君の名は』が受け入れられた真の原因ではないかと思う。

 もう一つ、今は2人のすれ違いという主筋を書いたが、結構多くの人物が出て来て副筋の物語がある。そこでも不幸な人々がいかに幸せになれるかがテーマとなり、何故か皆が幸せになっていく。だが、そのように多くの関係人物のドラマがあることで、主筋、副筋、風景的シーンが絡みあいドラマチックに進行するのである。そこが上手く編集されていて、やはりエンタメ作品は(当然脚本、俳優、演出を前提として)、編集が重要だなと強く思った。編集を担当したのは、女性映画人のパイオニアの一人として知られる杉原よ志である。スタッフ、キャストの大半は亡くなっているが、存命なのは岸惠子北原三枝(石原裕次郎夫人)ぐらいか。監督は多くの娯楽作品を松竹で作った大庭秀雄で安定感がある。
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天地真理を見に、『真理ちゃん映画祭り2』へ

2023年10月15日 22時44分56秒 |  〃  (旧作日本映画)
 雨の中、池袋HUMAXシネマズ シネマ1で開かれた『真理ちゃん映画祭り2』に行ってきた。6千円もするけど、もう8月に予約していたのである。「真理ちゃん」というのは、天地真理(あまち・まり、1951~)のことで、そう言われても判らない人もいるかもしれない。1971年にデビューして、70年代中頃まで絶大な人気を誇った歌手で、出演映画も何本かある。今回は『愛ってなんだろ』(1973)、『虹をわたって』(1972)の映画2本の上映の他、テレビ番組の歌映像上映、タブレット純×佐藤利明のトークショーもあった。しかし、そういうことより、天地真理本人の舞台あいさつがあったのだ。これは逃せない。
 
 実はそこまで大ファンだったわけではない。探してみたら、シングルレコードは72年の大ヒット曲「ひとりじゃないの」しか持ってない。アグネス・チャンやキャンディーズより少ない。そもそもアイドル系歌謡曲はそんなに持ってなくて、サイモン&ガーファンクルやザ・ビートルズ、あるいはモーツァルトやバッハなどのクラシック、ジャズなど雑多なLPレコードを聴いていた。それでも71年秋に「水色の恋」でデビューした天地真理はよく聞いた。媒体はラジオである。テレビは一家に一台で、夜遅くまで見るわけにいかない。高校生が受験勉強するときの友はラジオの深夜放送だった。だから、当時のヒット曲は詳しいのである。
(「ひとりじゃないの」ジャケット)
 まず最初に舞台あいさつ。今日は『愛ってなんだろ』で共演した森田健作とともに天地真理が登壇した。森田健作前千葉県知事は要らないんだけど、さすがに元政治家だけにうまく誉めるのに感心した。本人はさすがに年は取っているが、今も魅力的。ちょっと体調が心配な感じもあるが、今まで何度も苦境を乗り越えてきた人だ。今は娘と孫もいて、ファンクラブは娘さんが手伝っている。今日はどうせ「じいさん」ばかりだろうと思っていたら、まあベースはそうなんだけど、案外女性客が多い。3割か4割はいた。若い人もいないわけではない。広く愛された歌手だったんだなあと思った。

 当時のテレビ番組「真理ちゃんシリーズ」から、歌の映像が流された。「アイドルの名を冠したバラエティのルーツ」とチラシにある。木曜夜19時だとあるが、僕はその番組を見ていない。家では主にNHKニュースを見る時間だったんだと思う。ここで聴ける当時の歌は非常に素晴らしい。デビュー当時のキャッチフレーズが「あなたの心の隣にいるソニーの白雪姫」だった。「白雪姫」と言われるような白が似合う衣装に、澄み切った歌声が響き渡る。実は国立音大附属高の声楽家卒で、ジョーン・バエズや森山良子に憧れていた。その後、ヤマハ附属ミュージックスクールで学んでプロを目指していた。天地真理は、60年代までの「大スター」性、70年代以後の親しみやすい「アイドル」性、それに60年代末のフォーク系歌手のそれぞれのイメージをまとっていた。

 歌声の素晴らしさとテレビ『時間ですよ』でデビューした親しみやすさが天地真理の持ち味だった。この位置づけに関しては、タブレット純(歌手・芸人)と佐藤利明(娯楽映画研究家)の対談が刺激的だった。一番面白かったのは実はこのトークショー。佐藤さんはとにかく詳しくて、天地真理の最初の映画は本名斎藤真理名義でクレジットされた『めまい』(斉藤耕一監督)だという話に驚いた。書きたいことは多いが、僕が一番驚いたこと。幼い佐藤氏は足立区北東部の花畑団地に住んでいて、最初に買ったLPレコードは竹ノ塚駅前のレコード屋で買った天地真理だった。そこは多分僕が「ひとりじゃないの」を買った店だ。
(タブレット純)(佐藤利明)
 広瀬襄監督の『愛ってなんだろ』は天地真理の歌を全面的に見せるための歌謡映画で、映画的には物足りない。共演が森田健作だが、この人気青春スターを使いながら、二人は恋人にならない。天地真理はおもちゃ会社の社員で、同僚と歌のグループを作っている。いろいろあって、森田が作詞作曲した(設定の)「若葉の季節」をテレビで歌う。そこら辺が初々しい魅力で(ファンには)見応えがある。脇役の小松政夫、田中邦衛、佐藤蛾次郎、尾藤イサオ、谷啓など強力な布陣を楽しめる。来年3月に初DVD化。
(映画『愛ってなんだろ』)
 それに比べれば『虹をわたって』はずっと面白い。喜劇の名手前田陽一監督の作品で、横浜の水上生活者と山手のお嬢様の交流を描いている。前に銀座シネパトスで見ているが、今回の方が面白く見られた。萩原健一沢田研二が天地真理の相手役で出て来るから豪華なものである。萩原健一は実際に天地真理を乗せて車を運転しているし、沢田研二は天地真理とヨットに乗る。他にも有島一郎、なべおさみ、岸部シロー、日色ともゑ、左時枝など共演が見事なのは当時の映画に共通している。天地真理をあえて下層世界に投げ込んで働かせるという趣向が生きている。
(映画『虹をわたって』)
 休憩込みで5時間半ほどの長丁場。値段もそれなりで疲れたけど、やはり行って良かったなあと思って帰ってこられた一日だった。「2」というから、「1」があったはずだが、それは全然知らなかった。二人のトークショーは盛り上がって、他でまたやりましょうと言っていた。それは是非行きたいな。
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映画『若者たち』と60年代の「希望」のゆくえ

2023年08月06日 22時38分35秒 |  〃  (旧作日本映画)
 一昨日になるが、国立映画アーカイブで『若者たち』(1968)を見た。それ自体なら、今改めて書くまでもないんだけど、『十八歳、海へ』を見て、さらに山上徹也被告に関する本を読んだ。それらを通して、「希望」が時代とともに移り変わっていった様子がうかがえる。『若者たち』は僕以上の年代の人ならテーマ曲(藤田敏雄作詞、佐藤勝作曲)を歌えるだろう。(その後教科書に載ったり、21世紀に再ドラマ化されたので、若い世代も知ってるのかもしれない。)
(『若者たち』)
 もともとはフジテレビで放送されたドラマだった。1966年に放送され、大きな評判となったという。しかし、9月23日放送予定の回が「在日朝鮮人」差別を扱っていたため、放映が中止されてしまいドラマも終了した。そこで俳優座が中心となって、映画化したわけである。テレビ版で親のない5人家族を演じた、上から田中邦衛橋本功山本圭佐藤オリエ松山省二がそのまま映画にも出演した。テレビでも担当していた森川時久が監督を務め、5人一家の絶妙なアンサンブルが映画でも生かされている。森川監督、田中邦衛、山本圭がこの2年内に相次いで亡くなり、今回はその追悼上映になる。
(森川時久監督)
 この映画は評判を呼んで、『若者はゆく』(1969年)、『若者の旗』(1970)と製作されて三部作となった。キネ旬ベストテンを調べてみると、第1作は(67年の)15位、第2作は12位、第3作は21位になっている。昔はよく自主上映されていたが、最近はあまり映画館でもやられていないと思う。(配信があるかどうかは知らない。)僕は学生の頃に三鷹オスカー(確か)という映画館まで三部作一挙上映を見に行った記憶がある。70年代後半に見ても、すでにちょっと時代離れしたモノクロ映画になっていた。3本続けて見ると同じパターンの繰り返しに驚く。労働者の田中邦衛が大声で怒鳴って、大学生の山本圭が冷静に正論でやり込める。

 両親ともになく、長兄、次兄は働いて弟の進学を助けている。三男は学生だが、四男は浪人中。長女の佐藤オリエ(この家は佐藤家なので、役名と本名が同じ)は家事を担当していたが、いろいろ不満を溜め込んでいて、ある日家出して働き始める。5人の子どもたちはともに深く信頼し合っているが、現実社会の貧困や差別に直面して大げんかが起きるのである。そうすると、上記画像のようにちゃぶ台で食べているので、「ちゃぶ台返し」になる。僕はちゃぶ台で食べていた幼少時代を経験しているが、70年代後半にはもうテーブルで食べている家が多かった。五人も兄妹がいる家庭も周りにはなかった。

 冒頭からテーマ曲が何回も流れる。歌ったのはサ・ブロードサイド・フォーというグループで、これは黒澤明監督の長男黒澤久雄がやっていた。ただし、僕は同時代的にドラマや歌を知ってたわけではない。歌詞を書くと1番は「君の行く道は 果てしなく遠い だのに なぜ 歯を食いしばり 君は行くのか そんなにしてまで」である。2番を抜かして3番は「君の行く道は 希望へとつづく 空にまた 陽が昇るとき 若者はまた 歩き始める」となる。
(第2部『若者はゆく』)
 作詞の藤田敏雄(1928~2000)を調べてみると、日本のミュージカル草創期に労音で多くのミュージカルを創作した人で、「題名のない音楽会」の企画構成、「世界歌謡祭」の総監督なども務めた人物だった。興味深いことに、岸洋子が歌った「希望」も作詞している。「希望という名の あなたをたずねて 遠い国へと また旅に出る」と始まるドラマティックな短調の曲である。なんで「希望」がこんなに暗いメロディーなんだろう。「若者たち」でも「君の行く道は希望へとつづく」と歌われた。

 この時代の「希望」とはどんなものだったのだろう。今「格差社会」と言うが、明らかに60年代の日本の方がはるかに貧困を抱えていた。それを言えば、戦前の日本はもっともっと大きな格差があったのである。だが、それが当たり前であると人々が思っていた時には、自分たちがひどい格差社会に生きているとは思わない。一方、60年代は「高度成長」のさなかで、少しずつでも人々が暮らしが良くなると信じられた時代だった。また「社会主義の理想」が生きていて、人々が連帯することで世の中をよくしていけるのだと信じた人が多かった。『若者たち』三部作も基本的にはそういう流れの中にある。
(第3部『若者の旗』)
 現実社会には多くの困難や矛盾があるけれど、それは「自然現象」ではなく人間が作り出したものである以上、やはり人間の手によって変えてゆくことができるはずだ。それがこの映画で山本圭たちが強く主張していることである。現実社会の中で厳しい「学歴差別」に直面する田中邦衛は、そのような理想論をすぐには受け入れられない。頭では理解出来ても、どこかうさんくさく感じてしまうのだろう。だが、より良い暮らしのために頑張るんだという向日性は映画のベースにある。それがこのテーマ曲に現れている。

 その後の日本では、70年代後半から80年代にかけて「一億総中流」と呼ばれる時代がやってきた。それはもともと「幻想」だったと思うけれど、幻想ではあれ自らを中流と思える暮らしを手に入れた。テレビや冷蔵庫だけでなく、自動車やクーラーも不可能ではないというアメリカのテレビドラマに出て来るような暮らしに日本人も手が届いた。それなのに、それが実現したときに「自分」が何者だか判らなくなる。それが70年代後半の若者の気分だろう。だから中上健次原作の『十八歳、海へ』の登場人物のように「心中ごっこ」をする青春になる。

 その時代に生まれた「ロスジェネ世代」(山上徹也被告もそのひとり)からすれば、自分たちの生きてきた中で日本が上向きだった時代などなかった。格差は昔の方が大きかったし、生活水準も昔より上なのに、自分たちには「希望がない」と思う。それは「一度は持っていたものを失った」という無念や苦しさのためだろうか。もう人々が連帯して闘うことなど、誰も信じなくなってしまった。20世紀最後の年(2000年)に刊行された村上龍希望の国のエクソダス』では、主人公に「日本には何でもあるが、希望だけがない」と語らせている。まさにそういう中で、われわれは21世紀を生きているのだ。
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藤田敏八監督『十八歳、海へ』(1979)について

2023年08月03日 23時22分54秒 |  〃  (旧作日本映画)
 今日は読んだ本について書く心づもりだったが、最後の方が読み終わってないので次回回し。で、まあ休んでもいんだけど、昨日見た昔の映画について書いておきたい。上野でマティス展を見た後、地下鉄銀座線上野広小路駅まで歩いて京橋まで行った。国立映画アーカイブで藤田敏八監督『十八歳、海へ』という1979年の映画を見るためで、これが3時からだからその前に展覧会に行ったわけ。勘違いされないように最初に書いて置くけど、別にこの映画が傑作だというわけじゃない。むしろガッカリ感が強い。だが、キャストやスタッフのその後、映画の時代背景、原作の中上健次など、映画以外が面白かったのである。

 今回は「逝ける映画人を偲んで 2021-2022」という特集で、追悼対象は製作の結城良煕と脚本の渡辺千明という人である。どちらも知らなかったが、渡辺はこれがデビュー作という。ウィキペディアを見ると、その後の映画脚本は少なく、むしろ日本映画学校で教えたり、小津安二郎の共同脚本家として知られる野田高梧の別荘にあった『蓼科日記』を刊行した業績がある人らしい。この映画は大島渚映画の脚本家だった田村孟と渡辺千明が脚本にクレジットされている。
(主演の3人)
 冒頭は予備校の夏季講習の結果発表で、全員の順位が張り出されている。当時はそんなこともあったか。僕はよく覚えてないけれど、そうだったかもしれない。中学なんかでも成績を張り出すことは普通にあった時代だ。そこで1位になったのが、釧路から来ている有島佳(ありしま・けい)という女子。男どもは「おお、女が1位か」とか言ってる、そんな時代である。ビリになったのが、桑田敦天(くわた・あつお)で、桑田は有島を探して、一緒に出掛けないかという。ビリとトップなら面白いとか言って。桑田を演じているのは永島敏行で、『サード』『遠雷』など70年代後半の日本映画で輝いていた。
(近年の永島敏行)
 で、肝心の有島佳は誰だ? うーん、誰だっけとちょっと考えて、パッと名前を思い出した。森下愛子じゃないか。永島、森下は『サード』のコンビである。その後も東映映画などに出ていたが、むしろ80年代にはテレビで活躍していた。そして、1986年に吉田拓郎の「第三夫人」になっちゃった。いや、イスラム教じゃないんだから、3人目という意味だけど。まあ、今度は添い遂げるみたいだから、傍の者があれこれ言うこともないだろう。ウィキペディアを見ると、拓郎のオールナイトニッポンに呼ばれたとき、森下愛子も警戒して竹田かほりと一緒にやってきたと出ている。竹田かほりは『桃尻娘』の主役で、甲斐バンドの甲斐よしひろと結婚して引退した人。森下は根岸吉太郎監督と噂されていたが、結局吉田拓郎と結婚したと出ていた。
(近年の森下愛子)
 先の二人は鎌倉の海へ行って、男は女にモーションをかけている。そこへバイクがやってきて、バイク集団とのケンカになる。因縁を付けられているのは、同じ予備校生の森本英介。これは小林薫で、状況劇場のメンバーだったが映画に出始めた頃。クレジットに新人とあって、感慨深い。森本はケンカではなく、懐に石を詰め込んで海に入る競争をしようという。そのエピソードが終わって、もう明け方も近い頃、今度は森下愛子が永島敏行に同じように「自殺ごっこ」をしようと持ち掛ける。これが全く判らないのである。そこまでヒリヒリした追いつめられた青春という描写がない。それでいて、この二人は「心中ごっこ」を繰り返すのである。

 そこが伝わらないと、単なる風俗映画になってしまう。そして、実際にこの映画は時代を象徴するような青春映画にはなれなかった。一応キネ旬ベストテン18位になってるけど、あまり面白くない。監督の藤田敏八は70年代前半には忘れがたい青春映画を作っていた。『八月の濡れた砂』(1971)、『赤い鳥逃げた?』(1973)、『赤ちょうちん』『』(1974)などだが、1978年の『帰らざる日々』を最後に、どうもパッとしなくなった。角川映画の『スローなブギにしてくれ』(1981)など、どこが悪いとも言いがたいがズレてる感が強い。これは70年代前半を代表する神代辰巳、深作欣二などにも言えることで、それぞれ作風を変えたり低迷したりした。これは時代の方が変わったからだと思う。とらえどころがない時代が来たのである。
(藤田敏八監督)
 この映画の主人公たちは全く理解出来ない。「自殺」をこれほど遊びのようにとらえても良いのか。永島も森下も健康的な身体をしていて、「心中ごっご」が腑に落ちない。そんなに人生がイヤで、模試で全国トップになれるのか。腑に落ちないと言えば、有島佳の姉、有島悠が小林薫と付き合ってしまう。悠を演じているのが誰か判らなかったが、島村佳江という人だった。『竹山ひとり旅』などに出ていて当時は知っていたかもしれない。調べてみると、この人は藤間紫の息子文彦と結婚して、息子が藤間翔、娘が三代目藤間紫なのである。藤間紫は先代猿之助の二番目の妻だが、いろいろな映画にも出ていた。実に色っぽくて、どうも「好きにならずにいられない」といったタイプなのである。
(島村佳江)
 森本英介はホテルサンルート東京で働いていて、ロケで使われている。ただし、今はサンルート東京というホテルはなくて、どこだったかは判らない。上京した医者の父がこんなところで働くのは辞めろといって、ホテルがクビにしてしまうのもすごい。ワケあり家庭だったようだが、細かい説明はなく、箱根のホテル(小涌園)を取ったから来なさいと父が英介に言う。英介はそれを有島と桑田に譲ってしまう。そこら辺の展開は強引そのもので、映画なら許される「偶然性」を遙かに超えている。まあ、全部書いても仕方ないけど、中上健次の原作はどうなってるんだろう。紀州ものは大体読んでたけど、他の小説は読み落としが多い。この原作も読んでない。中上健次原作の映画は『火まつり』『赫い髪の女』など傑作が多いが、これは中で一番下の失敗作。だけど、自分の若い時代がロケの中に残されてるから懐かしい。
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