尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『がんばっていきまっしょい』、原作と映画とアニメを比べると

2024年11月23日 22時51分23秒 |  〃  (旧作日本映画)

 最近アニメになって再び注目された『がんばっていきまっしょい』。1998年に公開された実写版映画を久しぶりに見たので、原作も含めて比べてみたい池袋の新文芸坐の「アルタミラピクチャーズ31周年記念上映」という不思議な企画で、磯村一路(いそむら・いつみち)監督の『がんばっていきまっしょい』が上映された。監督に加えて、田中麗奈等出演女優4人のトークもあり、原作者(敷村良子)も来ていて豪華な顔ぶれに大満足。きっとすぐ満席になると見込んで、予約が可能になる一週間前午前0時過ぎにすぐ押さえた甲斐があった。(0時5分頃にすでに3分の1ほど埋まっていた。夕方に見たら、ほぼ満席だった。)

(1998年の映画)

 この映画は「部活映画」の最高峰だと思う。愛媛県の進学校に合格したもののやる気が湧かない主人公が、ボート部に入ろうと思う。しかし、ボート部に男子はいるものの女子部員はいなかった。そこで「作れば良い」と開き直って、新人戦までという条件で1年生4人を見つけてくる。最初は体力もなく、ボートも自分たちで運べない。実際に海に出てみれば、全く思うようには動かない。そういう様子を瀬戸内海の美しい景色の中に描き出す。学業の悩み、淡いロマンスなども織り込みながら、ついに新人戦がやって来て…。ボロ負けしたところで終わるはずが、「これでは止められんね」と皆の闘志に火が付くのだった。

 その後ビリは脱するものの、その後どこまで勝てるのか。原作、実写映画、アニメ映画で全部展開が違うので、今後接する人のため書かないことにする。この映画の素晴らしさは、瀬戸内海で実際に10代の俳優がボートを漕いでいるということにある。それは小説でもアニメでも不可能だ。当初のぎこちなさも含めて、「青春」という至上の瞬間が映像に封じ込められている。時間的な問題もあり、進路や恋愛など定番的設定は最少にして、ボートの練習や試合が中心となっている。体力、技量、健康問題など幾つもの困難を抱えながら、ここでは終われないと何とか頑張る。そのひたむきさが年齢を超えて訴えてくるのである。

 この映画は1998年のキネ旬ベストテン3位になった。小さな公開だったので高評価に驚いた。公開当時、設定をよく知らずに見に行って、すごく感動した記憶がある。監督はピンク映画出身で一般映画は少ない。女子ボート部を起ち上げる「悦ねえ」役の田中麗奈は本格初主演で、まだ無名だった。原作も知名度が低いし、ボート部経験者も少ないだろう。主要キャストで知名度があったのは、コーチになる中嶋朋子ぐらい。他に両親(森山良子、白竜)や校長(大杉漣)、また原作者が養護教諭でカメオ出演。Wikipediaによると、男子ボート部員に若き日の森山直太朗とバカリズムがいたんだそうだ。

 原作は松山市主催の第4回坊っちゃん文学賞(1995)の受賞作。この賞は中脇初枝(2回)、瀬尾まいこ(7回)が受賞している。著者の敷村良子(しきむら・よしこ、1961~)は松山東高校ボート部出身で、自身の体験を基にした青春小説である。(映画では伊予東高校、アニメでは三津東高校になっている。)2005年にドラマ化(主演鈴木杏)されたとき、原作小説が幻冬舎文庫に収録された。それを読むと、映画もいいけど小説はいっぱい書けていいなと思った。ホントのボート部は映画より活躍したのである。題名の「がんばっていきまっしょい」は始業式などで、生徒会長が声を出す掛け声。在校生は「しょい」と復唱する。ただし、ボート部ではそんなに使われず、原作では難しい「垂示(すいし)」というのを唱えている。

(敷村良子)

 原作では「豚神様」という皆が大切にしているマスコットが印象的だが、今日の監督の話によれば映画でも撮影したものの時間の問題で削ったという。残念。一番違うのは、コーチだろう。中嶋朋子のコーチは謎めいていて、道後温泉で偶然出会ったり、石手寺万灯会を教えたりする。原作ではOB夫妻が教えに来てくれるが、1月2日は毎年新年会で代々の部員が集結すると出ている。ところで実は作者は女子ボート部再興時のメンバーではなく、本当は後輩の部員なんだという。敷村良子さんは現在新潟県在住で、Wikipediaによると立教大学法学部を卒業した越智敏夫(新潟国際情報大学学長)という人が配偶者とのこと。

(2024年のアニメ)

 櫻木優平監督の劇場アニメ『がんばっていきまっしょい』は2024年10月25日に公開され、だいぶ上映回数が減ったけれど今も上映されている。これは原作、実写映画と大きく違っていて、時代が現代に変更されている。原作では1976年で、映画もそれに合わせて懐古的に作られているが、アニメでは皆がスマホを使っている。部員個々の設定も大きく違っていて、それはそれで面白いんだけど、原作や元の映画が好きな人には「何だかなあ」という感じも。また他校の部員とのあつれきや交流なども一番出て来る。部員も2年生だし、悦ねえの幼なじみで因縁深い「関野ブー」も変更されている。顧問の「渋じい」も他には出て来ない。

 別に同じである必要はなく、時代に応じて変えて行くのは当然だろう。しかし、瀬戸内海でボートの練習を繰り返すというベースはもちろん変わらない。その海の美しさはアニメならでは。事前に物語を知っていて、それを期待する人には満足出来るだろう。だけど、何か足りない気もしてしまうのは、実写版映画が好きだからだろうか。1976年という設定は自分の高校時代に一番近い。(大学2年生だった。)その意味での「あの頃」的な思いは、21世紀のスマホを持つ女子高生には持ちにくいのか。

(松山東高校)

 舞台となる松山東高校とは、旧制松山中学、つまり夏目漱石が赴任し『坊っちゃん』の舞台となった学校である。正岡子規の卒業校でもあり、他にも高浜虚子河東碧梧桐中村草田男石田波郷など俳句の巨星を輩出した。今も俳句甲子園の強豪校である。また大江健三郎の出身校で、伊丹十三と知り合った学校でもある。(伊丹はその後松山南高校に転学し、そこを卒業。)伊丹万作(十三の父)、伊藤大輔山本薩夫森一生など、なぜか映画監督の巨匠も多く輩出した。他の分野でも多くの人材を輩出した愛媛県の進学校で、そもそもは藩校明教館にさかのぼり空襲を逃れて今も校内に建物があるという。

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映画『この星は、私の星じゃない』と上野千鶴子トーク

2024年09月17日 21時50分23秒 |  〃  (旧作日本映画)
 8月7日に亡くなった田中美津さんを主人公にしたドキュメンタリー映画『この星は、私の星じゃない』(吉峯美和監督)の追悼上映を見て来た。アップリンク吉祥寺。今日は上野千鶴子さんのトークがあって、きっとすぐ一杯になるだろうと思ってチケット発売開始直後にネット予約した。そうしたら会員にならないと前売り券を買えなくなっていて、その手続きをする間にもどんどん席が埋まっていた。観客には高齢女性も多く見られたが、知り合いに取って貰ったりしたようだった。

 映画は2019年に公開されたが、その時は渋谷ユーロスペースのモーニングショーだったので見なかった。今回見たらとても面白い記録映画で、田中美津という「社会運動家」「鍼灸師」の生き方を見事に映し出していた。主に3つの側面から描かれるが、それは「今までの人生」「鍼灸師としての生活(子どもとの関わりを含め)」「沖縄・辺野古」である。田中美津は日本の「ウーマンリブ」の「伝説的リーダー」として知られるが、その生育歴に幼児の「性被害」があった。そのことを撮影当時も考え続けている。一方、沖縄で轢殺された女児の写真に衝撃を受け、辺野古への基地移転反対運動に通うようになる。沖縄へ通い「自分ももうすぐニライカナイへ行く」と語るのである。そのような姿が等身大で浮かび上がる。
(田中美津)
 一方で鍼灸師としての活動も描かれている。上野千鶴子も患者だと言っていたが、非常に実力のある鍼灸師だがとても辛い治療だという。「長鍼」を使っていて、見ていても痛そうだし患者さんも痛いと言ってる。だが上野さんによれば劇的に効くらしい。田中美津はリブ運動に行き詰まりを感じ、1975年にメキシコに出掛けたまま4年間帰って来なかった。その間に恋に落ち子どもが生まれたが、パートナーとは別れて帰国して、鍼灸学校に通ったのである。その子ども(男性)は40歳前後になっているが、映画撮影期間に鍼灸師の資格を取ったことが出て来る。家庭の領域が記録されているのは貴重だし、人間の諸相を考えさせられる。
(上野千鶴子)
 上野千鶴子さんは1948年生まれ、田中美津さんは1943年生まれで、5歳の差がある。100年後の人から見れば「同時代の女性運動家」に見えるだろうけど、戦争と高度成長、60年代反乱の激動の時代にあっては、この5年の違いは大きい。上野さんは京都大学に通ったので、まさに「大学反乱」の真っ最中である。しかし、大学へ行ってない田中美津さんは60年代初頭にはもう働き始めているたである。「ウーマンリブ」創世記には上野千鶴子はまだ学生なので関わっていない。しかし「後から来た者」の「特権」で、上野千鶴子は「日本のウーマンリブは、1970年10月21日(国際反戦デー)の女だけのデモで、田中美津が書いたチラシ「便所からの解放」を配布した時を以て始まる」と規定した。外来思想ではなく、日本の現実から出て来たとみなすのである。

 もっとも上野さんによれば、「田中さんは嫌な人」だという。田中美津いわく、「お尻をなでてくる男」がいたとして、「ウーマンリブは顔をたたき返す」「フェミニズムはそれってセクハラですよと言う」と言ったらしい。まあ、何となく言いたいことは判る気がするけど。そして上野千鶴子さんは吉峯監督にも聞きたいことがあるという。沖縄へ通うようになって、「聖地」と言われる久高島を訪れガイドを務める人から話を聞く。その時のガイドの言葉は上野さんによれば、ありきたりのもので「田中さんは霊的に筋が良い」とかは誰にでも言ってるに違いないという。そういう場面が必要なのかと問うのだが、監督は実はその時田中美津さんは説明を聞きながら寝てしまった、それが面白くて映像を残したというのである。

 僕も寝てるのかなと思ったが、上野さんは深く沈み込んで熟考していると捉えたらしい。やはり聞いてみるべきだと語っていたが、しかし田中さんが「せいふぁうたき(斎場御嶽)」も訪ねているし、久高島も訪れている。沖縄にスピリチュアルな関心を抱いていたのも確かだろう。そういう方向性と「鍼灸師」として「身体」に関心を寄せたことはつながっているのか。まあ、きちんとメモを取らず聞いていただけだが、「田中美津」という人間の魅力とフシギが後世に遺されて良かったなと思った。どのカテゴリーにするか迷ったが一応「旧作日本映画」にしておきたい。
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「生誕百年記念シネアスト安部公房」と岩崎加根子トークショー

2024年08月22日 22時49分02秒 |  〃  (旧作日本映画)
 戦後日本を代表する国際的作家安部公房(あべ・こうぼう)は、2024年が生誕百年に当たる。ノーベル文学賞確実と言われながら、1993年に68歳で急死して以来30年以上が過ぎてしまった。今年は様々な企画もあるようだが、現在シネマヴェーラ渋谷で「生誕百年記念 シネアスト安部公房」という映画特集をやっている。この前高橋惠子浅田美代子のトークを聞きに行ったところだが、今日は俳優座のベテラン女優岩崎加根子のトークショーがあるのでまた行ってきた。
(安部公房)
 安部公房の本名は「きみふさ」と読ませるらしいが、大体皆「こーぼー」と発音していた。戦後文学の中でも独自の異端的な作風だったが、『砂の女』『他人の顔』『燃えつきた地図』などミステリアスな作品が世界的に評価された。僕は代表的な作品を高校時代に読んでしまい、大きな影響を受けた。主要作を収録した「新潮日本文学」の他に、文庫に入っていた『』『第四間氷期』などSF的作風の作品も面白かった。『箱男』『密会』『方船さくら丸』などは刊行当時にハードカバーで読んでいる。しかし、次第に作品を発表しなくなり気付いたら新聞に訃報が載っていた。

 そんな安部公房が70年代には演劇に熱中していたことは、今ではあまり記憶されていないかもしれない。もともと60年代に主要作品が勅使河原宏監督によって映画化され、安部も脚本に参加している。それらの映画は前に勅使河原監督特集で見たときにまとめて書いた。(『砂の女』は別にそれだけで書いている。)それ以前にラジオドラマやテレビドラマの脚本を書くこともあった。そして50年代末からは新劇に向けて戯曲を書くようになった。そして1973年には、「安部公房スタジオ」を起ち上げた。井川比佐志田中邦衛仲代達矢山口果林などが参加し、堤清二の支援を受けて西武劇場(現PARCO劇場)で上演した。
(岩崎加根子)
 そのきっかけは今日聞いた岩崎加根子(1832~)によると、60年代末に俳優座で『どれい狩り』が上演された時の経験にある。上演はありがたいがどうしても千田是也の演出した世界になってしまう。「意味」をはく奪して肉体のみが演じる世界を演出したいということだろう。そのため紀伊國屋の企画として安部公房演出で『棒になった男』の上演が行われた。この戯曲は「」「時の崖」「棒になった男」の三作品が集まったもので、岩崎加根子は市原悦子とともに「」に出た。鞄に何が入っているか二人で延々と話し続けるような作品だったらしい。聞き手の鳥羽耕司氏によると、これは安部公房の見た夢の戯曲化らしい。
 
 岩崎加根子は独特の安部演出に腰を痛めてしまったが、安部は東京帝大医学部卒(Wikipediaによれば国家試験を受けない条件付きで卒業単位を認定されたという)で東大病院にいた同級生のところに行かされたという。胸に一本注射を打たれたら腰痛が消えたという。安部公房は俳優座との関係が深く、俳優座養成所を桐朋学園短期大学(現・桐朋学園芸術短期大学)に移管するときも安部があっせんしたという。(1966年に桐朋短大に「芸術科(音楽専攻・演劇専攻)」を設置し、俳優座養成所を廃止した。安部公房や千田是也が教員として加わった。)安部公房スタジオに仲代、井川、田中など俳優座出身者が多いのもそれが理由だろう。

 岩崎は安部公房スタジオには参加していないが、当時の体験者として非常に興味深い出来事を幾つも語った。例えば山口果林が朝ドラ『繭子ひとり』(1971)に選ばれたとき、岩崎に電話してきてNHKテレビに出たら演技がおかしくならないか、反対するべきかと相談したらしい。岩崎も困ってしまって、本人がしっかりしてれば良いんじゃないか、本人の希望次第などと答えたらしい。安部もそうか本人次第かなどと反応したらしい。朝ドラに出ることで知名度が高まるのは間違いない。60年代には樫山文枝日色ともゑ、70年代だと大竹しのぶなどその後舞台で活躍を続けた女優も輩出しているから、確かに本人次第だ。
(『仔象は死んだ』)
 ところで今日上映された『仔象は死んだ』は79年にアメリカで上演され大評判を呼んだ作品の映像化である。1980年に製作されたもので、安部公房が監督、脚本、音楽を担当している。音楽というのは自分でシンセサイザーを演奏しているのである。また美術を安部真知(夫人)を担当している。映画は舞台の記録かと思うと少し違って、カメラが動いて時には劇場外に出ていく。安部公房スタジオは当初は普通に演劇らしい、つまりセリフが意味を持つ不条理劇をやっていたが、次第にパフォーマンスというか「舞踏」のようなものになったという。『仔象は死んだ』にはセリフもあるが、ほぼ意味のつながりがない。一面の大きな白いシーツの下、または上で俳優が床運動みたいに動き回る。これが70年代の「前衛文化」だという感じ。
(『詩人の生涯』)
 その前にアニメ『詩人の生涯』(1974)と『時の崖』(1971)も見た。『詩人の生涯』は安部公房脚本、川本喜八郎演出の切り絵風アニメで、シュールレアリズム的な描写と社会派的テーマが融合した作品。『時の崖』は先に書いた『棒になった男』の中の一編で、井川比佐志の一人芝居と言ってもよい。負けていくボクサーの心象風景をひたすら井川のシャドーボクシングと一人語りで描き出す。安部公房監督作品。映像作品として見た場合は、『仔象は死んだ』も『時の崖』も資料映像的な感じ。

 だけどこれらの作品は70年代文化史に欠かせないピースだと思う。有名作家の中でここまで演劇に関わった人もいないだろう。またある種堤清二を中心にした「セゾン文化」を記録した意味もある。僕は高校生から大学の時期で、安部公房スタジオというのがあるのは知っていたが見たことはない。何だかよく判らないけれど、こういうものに観客が集まっていた時代があった。岩崎加根子は細かいことは忘れたといいながら今も元気で、今秋に『慟哭のリア』の主演公演が控えている。
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映画『あした輝く』と浅田美代子トークショー、戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭

2024年08月12日 22時02分27秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷の「戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」、今日は1974年の『あした輝く』(山根成之監督)と主演の浅田美代子のトークショーに行ってきた。実は前日に原作者の漫画家里中満智子のトークもあったのだけど、やはり浅田美代子の方が聞きたい。まあ猛暑の中二日連続は体力的にきついし。浅田美代子も言ってたけど、戦争を描く映画はいっぱいあるのに何でこの映画が選ばれたんだろうという感じはした。でも半世紀前の普通の「アイドル映画」が戦争をどう描いていたかという意味で興味深い。

 この映画は初めて見たが、公開当時に映画は知っていた。里中満智子原作の漫画の映画化で、前年(1973年)テレビ『時間ですよ』でデビューした浅田美代子が主演したんだから話題作である。浅田美代子は劇中歌「赤い風船」も大ヒットして、大注目のタレントだった。監督の山根成之(やまね・しげゆき)は、当時『同棲時代』『愛と誠』など青春映画の話題作を連発していた。しかし、今回見てみると突っ込みどころいっぱいの「アイドル映画」で、何だこれは的な展開が続く。

 確かに「この映画を何でやるか」的な感じである。時は敗戦直後の「満州国」。関東軍は民間人を置いて撤退してしまい、引き揚げ時に多くの犠牲を出した。ソ連軍の攻撃に加え、現地中国人の襲撃も受け、後に「残留孤児」問題が起きる。しかし、映画では「満州国」の本質は追求しない。主人公今日子(浅田美代子)は奉天の夏樹医院の「お嬢様」で、加賀中尉(沖雅也)に言い寄られているが、衛生兵速水香(志垣太郎)を好きになる。運命的に結ばれ、速水は民間人保護のためとして今日子らの引き揚げに同行する。今日子の父は途中で死に、香は後を託される。その時、今日子は香の子を宿していた、っていつそうなったの?
(今日子と香)
 2022年に亡くなった志垣太郎はこんなにカッコよかったのか。恋敵の沖雅也は1983年に31歳で自殺した俳優である。その後、帰還船の中で今日子は流産するが、同行していた女学校の教員、緑川先生(田島令子)が出産後に亡くなり、その子を引き受ける。速水の実家(九十九里)に赴くと、助産師の母親(津島恵子)は子どもを香との子どもと思い込む。子どもは「今日子と香」から「今日香」にしようと香が言うが、今日じゃなくあしたが輝いて欲しいから「あすか」にしようと今日子が言った。これが題名になるが、その後ソ連軍に連行され生きているかも不明な香を今日子は義母とあすかと一緒に待ち続ける。
(里中満智子)
 その向日性が浅田美代子の持ち味と合っていて、都合のいい展開に納得してしまうわけである。「引き揚げ」もの、「シベリア」ものはかなりあるが、この映画は戦争映画という意味では特に書くこともない。ただ半世紀前のアイドル映画では、戦争が背景として成立していたのが興味深い。今では時間が経ちすぎて「歴史映画」になってしまう。半世紀前は「戦後29年」ということで、若い世代からしても「戦争は父母の時代の話」だった。一家の成り立ちを振り返れば、そこには当然戦争という歴史が出て来る。そういう時代性を背景にして、愛の物語が成り立っている。山根演出はまさに「少女漫画」の実写化という感じで撮っていて面白かった。
(浅田美代子=現在)
 浅田美代子さんは最近も良くテレビで見るが、いつまでも元気で活躍して欲しい。この映画のことは船酔いしたことが最大の思い出だという。乗馬のシーンがあるが、自分じゃないという話。それはそうだろうなと思って見ていた。テレビと映画の違い、樹木希林さんの話など興味深い。しかし、それ以上に犬の保護活動を通じて、猛暑が続く中で犬を外で飼ってはいけない、猛暑の昼間に散歩させてはいけない。自分は夜10時過ぎに毎日行ってるとのこと。諸外国ではペットショップ自体が無くなりつつある。ペットショップだと売れ残る犬が出て来るからという話に考えさせられた。共同通信の立花珠樹さんの司会。
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映画『花物語』と高橋惠子トークショー、戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭

2024年08月10日 22時48分18秒 |  〃  (旧作日本映画)
 第13回を迎える「戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」が今年は渋谷のシネマヴェーラ渋谷(ユーロスペースのあるビル4階)で始まった。今までは見てる映画が多くて行ってない年が多いが、今年は「家族たちの戦争」をテーマにほとんど見てない映画が並ぶ。しかもトークショーが幾つも企画されている。今日は公開時に見ているんだけど、非常に上映機会が少ない『花物語』(堀川弘通監督、1989)を再見してきた。主演の高橋惠子のトーク付きである。

 千葉県の房総半島南部は南房総国定公園に指定されている景勝地域である。普通の観光地の人気シーズンは夏や春秋なんだけど、ここは2月頃に一番観光客が訪れる。花の栽培が盛んな地域で、お花畑が一面に咲き乱れ向こうに海が映える。その時期に南房総をドライブしたことがあるが、素晴らしい景色だった。中でも外房南部の和田町(現・南房総市)あたりは花栽培が戦前から盛んな地域として知られていた。ところが戦時中はその花栽培が禁止されたのである。「食糧増産」が国の旗印で、すべての田畑は食糧生産に当てるべきだというタテマエである。この地域は海に近く、野菜や米の生産には向かず、花に向いた土地なのに。
(花束を受ける高橋惠子)
 枝原ハマ高橋惠子)は花栽培にずっと取り組んできた。それには理由があることが後に判るが、ハマはなかなか花栽培を止めなかった。主な畑は野菜に転換したが、小さな一つの畑だけは何とか見逃して欲しいと言う。しかし、「お上」の意向を受けた村の当局者は、それを許さない。長男は学校で「非国民の子」といじめられ、母には出来ないからと自らの手で残された花を摘み取ってしまう。それでも「畑じゃない場所」なら良いだろうと小規模で花を作り続けたが…。漁師の夫(蟹江敬三)は再度召集され、長男は予科練に応募して去る。疎開児童やノモンハン帰りの時計屋(石橋蓮司)など複数の目で村人たちを活写していく。
(堀川弘通監督)
 僕はこの映画を公開当時に見ているんだけど、そういう人は少ないと思う。公開自体が小規模だったし、確かすぐに終わってしまった。それでも見たかったのは、実は田宮虎彦(1911~1988)の原作『』が好きだったのである。田宮虎彦は今では忘れられた作家だろうが、かつて文学全集がいっぱい出ていた時代にはよく1巻、または半巻を当てられていた。『足摺岬』『銀心中』『異母兄弟』など映画化された作品も多い。『落城』『霧の中』などの気品ある歴史小説も好きだった。僕の若い時期にすでに読まれなくなっていたが、持っていた全集で読んでみたら気に入ったのである。その田宮虎彦の映画化だから見たかった。
(田宮虎彦)
 堀川弘通監督(1916~2012)は黒澤明監督に師事したことで知られ、『評伝 黒澤明』(2001)という本もある。『あすなろ物語』(1955)で監督にデビューし、『裸の大将』『黒い画集 あるサラリーマンの証言』などの代表作がある。東宝からフリーになってから作った作品には戦争を扱った映画が多い。他には『ムッちゃんの詩』(1985、今回の映画祭で上映あり)や『エイジアン・ブルー 浮島丸サコン』(1995)がある。Wikipediaには「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めていたと出ていて、晩年に戦争を描いたことと関連するのかもしれない。素直に感動させる映画が持ち味で、『花物語』も同様。

 およそ花栽培を禁止するなど、現在の感覚からは全く理解出来ない。常識的に考えて、戦死者に手向ける花は不要だったのか。この映画では、いつも非国民と罵っていた隣人が訪ねてくるシーンが印象深い。二人の男子が戦死し、もう一人も戦地にある。口では皆お国に捧げると言ってるが、秘かに三男の無事を祈願している。その子が目を失って帰還してきて、見舞いに行ったら「故郷の花が見たい」と言ったのである。もう花を作っているのは村中でハマだけになっていたので、頭を下げて花をくれないかという。そして「花は口では食べられないが、心の食べ物かもしれない」と言うのである。この「心の食べ物」という言葉に込めた思いが深い。
(長男役の八神徳幸=現在)
 高橋惠子(1955~)は僕と同じ年の生まれ(学年は一つ上)で、デビュー時の「関根惠子」時代から気になっていた。増村保造監督の『遊び』(1971)はとても印象的で、関根惠子も輝いていた。なかなか波乱の俳優人生だったが、『TATTOO〈刺青〉あり』(1982)出演後に監督の高橋伴明と結婚し高橋姓を名乗るようになった。この映画は和田町で2ヶ月ロケして作られ、今も現地の人と交流があるという。会場には長男役の八神徳幸(やがみ・のりゆき)も来ていて、昔のことを詳しく覚えていた。今は何しているのかと問われ、今も役者だという。確かにWikipediaにも項目があり、あまり大きな役ではないがテレビや映画にも出ている。本人も言ってたが通販番組が多いようだ。

 この映画が上映される機会はなかなかない。今回は16日まで映画祭があり、その中でまだ何回か上映がある。(時間はまちまちなので、ホームページで確認を。)今回の上映を機に再評価されると良い映画だと思う。今までDVD化されてないとのことで、今後のソフト化、配信なども期待したい。戦時下の日常がどんどんおかしくなっていく様子が判ると思う。南房総の早春を彩る美しい花々、そこにも悲劇の現代史があった。忘れてはいけない歴史の教訓だ。
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独立プロ映画『村八分』と戦後民主主義

2024年02月24日 22時03分52秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷でやってる「日本の映画音楽Ⅱ 伊福部昭・木下忠司」という特集で、古い日本映画を少し見ている。特に映画音楽というより、二度と見られなそうな珍しい映画が結構多いのである。僕の場合、映画史的に重要な作品や巨匠の代表作なんかは大体見終わっていて、好きな映画をまた見ることもあるけど、それよりは「昔の日本」を発見する目的が大きい。

 ロケされていると、昔の風景が意図せず映し込まれていて発見が多い。また、ストーリーやテーマを今になって見直すと、時代の変化(パラダイム変換)を発見することもある。最近見た『遠い一本の道』で、「左翼労働組合」の「闘争」が性別役割を前提にした「主婦が内職しないで済む賃金」を獲得目標にしていたと驚いたのはその一例である。

 今回記録しておきたいのは、1953年に作られた『村八分』という映画で、現代史に関心がある人にはある程度知られている1952年の「静岡県上野村村八分事件」を映画化したものである。近代映画協会製作、北星配給という「独立プロ」作品。日本では50年代を中心に大手映画会社で作れない社会的テーマに果敢にチャレンジする独立プロ作品が多数作られた。貧困や差別と闘う「民主主義映画」は、世界映画史上でも重要な作品群として「発見」する必要がある。(上映は終了したが、DVDが出ている。)

 1952年に行われた参院選補欠選挙が今や開票の時を迎えている。朝陽新聞社の支局前では各候補の得票状況を時々刻々と書き換えている。多数の人々が支局前に集まって開票状況を見つめている。この風景が今ではもはや珍しい。「翌日開票」で昼間開票しているのである。その時、支局に届いた手紙に気付いた人がいる。読んでみると、自分の村では「投票券」を有力者が集めて回って「不正選挙」が行われているという投書だった。差出人は「野田村」の高橋満江という女子高生である。野田村の担当は吉原通信局で、連絡を受けた本多記者(山村聡)が早速自転車で現地に出掛ける。

 村人は堅く口を閉ざしているが、投書をした女子高生を高校に訪ねて不正の様子を詳しく取材する。直接知っているわけではなかったが、母親のところに有力者が当日村を出ている父親の分の投票権を集めに来たという。母親はおかしいと思って断ったが、実は2年前の参院選の時も同じようなことがあった。取材の様子が知れ渡り皆心配するが、村長や県議など有力者は何も言うなと命じる。やがて大きく報道されると、警察が動き出し罰金刑になる者も出て来て村は大揺れになった。元はといえば原因は高橋満江だとして、村人は高橋家と付き合わないように取り決める。満江は孤立して教師に相談するが…。
(香山先生=乙羽信子は家庭訪問する)
 主人公の高橋満江を演じたのは、これがデビューの中原早苗(1935~2012)。その後日活に入社して多くの青春映画に出た。大体は石原裕次郎をめぐって主演女優(浅丘ルリ子や芦川いづみなど)と争う敵役だった。結局は敗れるわけだが、明るい持ち味で演じていた。64年にフリーとなって東映映画によく出るようになり、65年に深作欣二監督と結婚した。東映では大体悪い方の親分の情婦みたいな役が多い。貴重な脇役で、僕は中原早苗が出ているのを見ると嬉しくなる。
(中原早苗)
 新藤兼人脚本、宮島義勇撮影、伊福部昭音楽という豪華なスタッフ。今回は伊福部昭特集で選ばれているが、特に代表作というわけでもないだろう。『ゴジラ』のテーマで知られている作曲家で、荘重な音楽を付けている。監督の今泉善珠(いまいずみ・よしたま、1914~1970)を知らなかったので、1976年キネマ旬報社刊の『日本映画監督全集』を見たら載っていた。戦前は記録映画を作っていたが、戦後に新藤兼人監督『原爆の子』の助監督を務めて、この作品で劇映画の監督に昇進した。しかし、次作『燃える上海』以後は東映教育映画部で児童向け教育映画を主に作ったという。不遇な子どもたちを温かい目で描く作品が多く、『青年の虹』が文部省特選になったという。ところで、この本には監督の住所と電話番号が明記されているのには驚いた。
(大きく報道された)
 展開がストレートで、映画の完成度的には佳作レベルだろう。作られた1953年は日本映画史上最高の豊作年で、小津の『東京物語』が2位、溝口の『雨月物語』が3位。世界映画史に残る両作品を押えたのは今井正の『にごりえ』で、今井作品は『ひめゆりの塔』も7位に入った。他にも『煙突の見える場所』(五所平之助)や『日本の悲劇』(木下恵介)など傑作揃いで、『村八分』には一点も入っていない。僕もそれはやむを得ない結果だろうと思う。社会史的価値で残る作品なのである。

 事件が起きたのは静岡県上野村で、1959年に富士宮市と合併して消滅した。日蓮正宗の本山、大石寺(たいせきじ)のあるところである。映画でも富士山が真っ正面に見えているから、付近でロケしている。まだ馬で畑を耕しているのが驚き。前近代から続く共同体が生きているような村である。補欠選挙は1950年当選の平岡市三の死去に伴って行われた。占領が終了し公職追放が解けた石黒忠篤元農相が立候補して当選した。「農政の神様」と言われた人で、近衛内閣で農相を務めていた。

 朝陽新聞は朝日新聞で、高橋満江の実名は石川皐月である。実は2年前の参院選でも不正があり、おかしいと思った石川は当時在学していた上野中学新聞に替え玉投票を告発する文章を投稿した。それが掲載された後に村で批判され、中学は配布した新聞を全部回収して焼却処分にしたという。その後、富士宮高校に進学していた石川は今度は朝日新聞に投書したのである。「村八分」事件も大きく報道され、法務局や日弁連人権擁護委員会も調査に訪れる。映画では馬を貸してくれないから高橋家では人力で耕作するしかない。満江と妹も学校を休んで働くことになる。しかし、高橋家には全国から応援の手紙が寄せられる。
(石川皐月のその後)
 そして高校では「臨時生徒大会」が開催される。驚くのはその時に教員は職員室で仕事しているのである。大会は生徒だけで運営されており、皆が挙手して整然と議論している。今じゃ教員なしで生徒大会が出来る高校などあるのだろうか。最低でも生活指導部の生徒会担当教員は出席するんじゃないだろうか。それはともかく、ここでは村の秩序を乱す行為はおかしいという意見を述べる生徒もいるのだ。しかし、最終的には「正しいこと」を主張した者が迫害されることはおかしいという結論になり、皆で高橋家を支援しようと自転車で駆けつけるところで終わりとなる。

 石川皐月は当時「不正をみても黙っているのが村を愛する道でしょうか」と述べていた。母親が投票券を渡さなかったのも、戦後になって女性が投票出来るようになった選挙権の大切さを実感していたからだろう。「昭和」が遅れていたというのではなく、戦争で得た民主主義を守るために闘った人がいて、その上に現在があるのである。後に石川皐月は1953年に『村八分の記―少女と真実』を理論社から刊行した。そして「婦人民主クラブ」事務局長(加瀬皐月名義)として活動し続けた。今も存命である。
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左幸子監督『遠い一本の道』(1977)、感慨覚える国労映画

2024年02月11日 22時19分23秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立映画アーカイブで『日本の女性映画人(2)――1970-1980年代』という特集上映が始まった。有名な映画なら同時代に見てる映画も多いが、久しぶりに見直す意味もあるので(それに見てない映画もあるし)、何本か見ようと思っている。2月10日に左幸子監督『遠い一本の道』を再見したので、今回はそのまとめ。非常に複雑な感慨を覚えた映画で、公開当時に見ているが見直す意味が大きかった。もう一回、16日(金)19時に上映があるので紹介しておきたい。

 今回の特集趣旨の「女性映画人」という観点からすると、『遠い一本の道』は女性監督作品で初めてベストテンに入選した映画である。キネマ旬報ベストテンを基準にすると、1977年の第10位に入選している。同じ年に宮城まり子監督『ねむの木の詩がきこえる』が7位に入っているが、これはドキュメンタリー映画なので劇映画としては史上初である。その次は20年後の1997年の河瀬直美監督『萌の朱雀』(10位)なので、映画史的に非常に先駆的なのである。

 『遠い一本の道』は国労(国鉄労働組合)と左プロの合作で、日本の左派独立プロ映画の中でももっとも組合色が強い映画だろう。左幸子(ひだり・さちこ 1930~2001)は1977年に羽仁進監督と離婚して、その頃は社会党左派的な色彩を強めていた。元夫の両親羽仁説子、五郎が左派言論人として知られていたのに、子どもの羽仁進は非政治的だった。それに対して左幸子が政治的になったのは因縁を感じた。今は忘れられた感もあるが、今村昌平監督『にっぽん昆虫記』でベルリン映画祭女優賞を受賞した。これは日本の女優が三大映画祭で受賞した最初で、もっと評価されるべき女優だと思う。

 映画は国労の全面的協力のもと、有名な劇作家宮本研の脚本を左幸子が製作、監督、主演して作られた。北海道を舞台に、70年代の「マル生運動」さなかの揺れる国鉄労働者を描いている。ところどころはドキュメンタリー的に撮影されていて、記録映像的にも貴重。主人公滝ノ上市蔵井川比佐志)は、保線職員である。鉄道映画は数多いが運転士や車掌、あるいは駅長などが取り上げられることが多く、保線職員を描く映画は他にないのでは? 戦時中に高小卒で就職し、そのまま勤続30年を迎えた。その表彰式が札幌で行われる日から映画は始まる。恐らく実際の映像で式典が進み、職員は夫婦同伴で表彰される。
(保線労働の様子)
 映画の舞台は追分駅で、札幌の東にあって室蘭本線と石勝線が分岐する地点である。北海道に多かった鉄道に依存した町で、勤続式典は重大事だ。滝ノ上の妻里子左幸子)は和服を新調して、久しぶりの札幌行きを楽しみにしている。ウキウキする妻とどこか無愛想な夫の様子をバスのバックミラーに映る姿で見せる。その夜は家でお祝いをするが、そこに札幌のデパートで働く娘由紀市毛良枝)が恋人の佐多長塚京三)と現れる。この機会に夫に承知させようという里子のアイディアだったが、市蔵は怒って追い返しちゃぶ台をひっくり返してしまう。
(表彰式に向かうバスの中)
 里子は夫を大切にしているが、自分のように結婚するまで顔も見たことがなかった結婚を娘にさせたくないのである。しかし職場で悩み多い市蔵は時々怒りを里子にぶつける。試験を受けても落ちるばかりで、一生保線職員で終わるのか。仕事に誇りを持ちつつも、当局は「合理化」を進めて、現場職員の経験よりも機械導入に熱心である。このままではどんどん人員削減になりそうで、それを防ぐためには皆が組合に団結して闘う必要がある。市蔵はそう思っているが、薄給のため里子は内職せざるを得ない。国労の家族会も要求をぶつけるが、その中で「内職せずに食べていけるように、夫の給料をもっと上げて欲しい」と言う。
(市蔵と里子)
 今から見ると、左翼労働組合の主張が「妻が家庭で主婦に専念出来るだけの給与を夫に支払え」というのは不可解である。当時赤字を抱えていた国鉄で、大々的な給料増が実現する可能性はなかっただろう。しかし、ストがあれば妻も家族会に団結し、闘争中の夫たちのためにおにぎりを作るのが当然のこととされる。子どももそれを見ていて、「お母さんはストの手伝いでおにぎりを作ってる時が一番生き生きしている」と言う。「性別分業」は全く疑いの対象ではなく、むしろ「金持ち階級のように、われわれ貧困階級も夫が働き妻が家庭を守る暮らしが可能になる社会」が左翼の目標だったのだ。

 このように左派労働組合のジェンダー意識が意図せず記録されているのが貴重なのである。そのような「国鉄労働者一家」的な共同体的労働を当局は解体したいと思っている。全国あらゆる職場で進行していた「職能給」的な給与体系にしたいのである。そのためには労働者を「階級的労働組合」から「労使協調的労働組合」に誘導していく必要がある。そこで70年代初期に、当局挙げて国労からの脱退、鉄労(第二組合)への加入を管理職自身が強引に勧めて回る「生産性向上運動」(マル生運動)が起こった。さすがにそれは問題化して、「組織的な不当労働行為」として当局側が謝罪せざるを得なくなった。

 その当時のギスギスした職場環境、マル生運動の実態が、この映画には残されている。他にない貴重な映画だと思う。マル生運動を「粉砕」した国労などは、1975年にストライキ権を求めて「スト権スト」に突入した。里子たちももちろん支援のため、おにぎりを作っていた。そして、そのスト権ストに敗北し、国鉄労働運動は転機を迎える。国鉄内の組合運動は複雑に分かれていて、ここで細かく説明する余裕も知識もない。ただ、この映画が作られて10年後の1987年には、国鉄が分割民営化されてしまうとは、映画製作時には誰も思ってなかっただろう。そして「国労」そのものが激しい弾圧にあうことになる。それは国家的不当労働行為とも言え、僕は今でも納得していないが、やはり国鉄労働運動も問題を抱えていたことが映画で理解出来る。
(「軍艦島」)
 さて、もう一つこの映画が貴重なことは、長崎県の「軍艦島」(端島)の当時の貴重な映像が残されているのである。娘由紀はやはり佐多と結婚することになり(市蔵はひそかに佐多の職場の林業を見に行っている)、佐多の両親がいる長崎で挙式することになる。佐多は端島が閉山した後、夕張炭鉱に移ったがそこも不況のため夕張の林野庁で働いていた。「ひかりは西へ」と国鉄は新幹線の博多延伸を宣伝していた。一度新幹線に乗りたかった里子は夫と博多まで新幹線で行く。結婚式翌日に、佐多は本当の生まれ故郷「軍艦島」に案内するのである。当時も無人だが、まだ個人的な訪問、あるいは映画撮影も可能だったのか。

 そこで見た昔の学校の様子、朽ち果てた炭鉱アパートの現状を見て、皆は大きなショックを受ける。労働者はいつも使い捨てなんだという歴史を突きつける。山田洋次監督『家族』(1970)は長崎から北海道へと延々と家族が移り住む様子を描いたが、この映画は逆に北海道から長崎へ映像が替わる。しかし、働く庶民に冷厳な日本社会という構図は同じだろう。僕は当時見て、テーマとメッセージに感動出来たと思うが、今見るとやはり古かったかな、これでは負けるなとも思った。数多い左派独立プロ映画の最後尾に位置する映画で、それが女性監督初のベストテン入選映画でもあったのは興味深い。長塚京三、市毛良枝が若いのも驚き。
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映画『新雪』と『火の鳥』ー井上梅次と月丘夢路夫妻の映画

2023年11月03日 22時24分34秒 |  〃  (旧作日本映画)
 女優月丘夢路(1921~2017)と監督井上梅次(1923~2010)夫妻の特集が国立映画アーカイブで開催されている。7階の展示室で「月丘夢路 井上梅次 100年祭」が展示され、同時に大ホールで二人の映画が上映されている。この二人は長く映画に関わったが、一番の活躍時期は1950年代から60年代前半ぐらいだった。井上監督は日活や大映などで多くの映画を作ったが、すべてが娯楽作品である。ビデオもDVDもない時代には、見る機会がほとんどなかった。近年昔の映画を上映する映画館が作られ、井上作品を見る機会も増えて来たが、それが非常に面白いのである。まさに「映画の職人」という感じ。

 一方、月丘夢路は名前が示すように、宝塚出身。1937年に宝塚音楽歌劇学校に入学し、第27期生となった。これは越路吹雪乙羽信子と同じである。戦時中から映画に主演し、1943年に正式に退団した。在学中から大変な美人とうたわれ、いじめられるほどだったとウィキペディアに出ている。娘役で人気を博し、宝塚百年(2014年)に作られた『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人に選ばれている。と言うようなことは調べて知ったことで、僕が映画を見るようになった70年代には映画やテレビでもう脇役だった。そんなすごい美人女優で大人気だったなどということは、映画史的知識としてしか知らないことである。

 今回初めて1942年の大ヒット作『新雪』(五所平之助監督)を見たが、月丘夢路の素晴らしい魅力に驚いた。僕はこの映画を母親が好きだったと聞いていて一度見たいと思っていた。しかし、フィルムがないとされて、長く見られなかった。ソ連崩壊後にロシアで短縮版が発見され、今回見たのはそれだろう。オリジナル124分のところ84分になっている。しかし、基本的なストーリーは理解可能。この映画は灰田勝彦が歌ったテーマ曲がヒットしたことでも知られる。「新雪」と言っても山奥の話ではなく、汚れなき純粋さといった意味なんだろう。大阪出身の作家藤澤恒夫が朝日新聞に連載した小説が原作で、連載中に太平洋戦争が勃発した。
(『新雪』の月丘夢路)
 戦時下の阪急線御影駅(神戸市)付近が舞台になっている。「国民学校」教師の蓑和田良太水島道太郎)と隣組の女医片山千代月丘夢路)を中心に周囲の人物を描いている。チラシには蓑和田が「進歩的な教育理念を掲げる国民学校の教師」と紹介されているが、国民学校と改称されたので「皇国民錬成」に力を入れるべしというような「進歩的」である。しかし、子ども好きで木登りを勧めるような型破りの「快男児」。一方片山千代も当時は珍しい女性眼科医で、戦時色が濃いながらも六甲山麓の爽やかな青春映画になっている。神戸の高羽国民学校で夏休みにロケされたが、この学校は阪神淡路大震災後に建て直されている。
(映画『火の鳥』、映画は白黒)
 その前に『火の鳥』(1956年)を見た。井上監督、月丘主演映画で、月丘が新劇の大スター生島エミを貫禄で熱演している。伊藤整の原作(1953年)の映画化で、当時の大ベストセラーだった。戦前から詩人、小説家として知られた伊藤整は、1950年にD・H・ロレンス『チャタレー夫人の恋人』を翻訳したところ、わいせつ文書として起訴されて有名になった。エッセイ『女性に関する十二章』も売れて、50年代初期に伊藤整ブームが起こった。英文学者で純文学作家の伊藤整が売れたというのは、今では信じられない。今では忘れられた感があるが、非常に重要な作家だった。
(伊藤整)
 バラ座の人気女優生島エミは情熱のまま生きてきた。父が英国人のハーフで、日本人の父から生まれた異父姉(山岡久乃)と大きな洋館で暮らしている。作家志望の杉山(三橋達也)を捨て、今は劇団を主宰する演出家の先生と愛人関係にある。「伯父ワーニャ」の打ち上げで、映画会社からあいさつされ心が揺れる。劇団は生島の人気で持っているが、劇団内には嫉妬もあり、新しいものにチャレンジしたいエミは映画界からのオファーに応じたい気持ちもある。だが先生は映画は娯楽重視で、我々が目指す芸術としては不足だと言う。そこら辺の映画と新劇の描き方が興味深く、打ち上げでロシア民謡で踊るのも「新劇」的。
(「伯父ワーニャ」を演じる月丘夢路)
 映画『火の鳥』に出演が決まると、相手役にニューフェースの長沼敬一仲代達矢)を抜てきする。これは実際に俳優座公演『幽霊』を見た月丘夢路が監督に進言したという。仲代達矢の本格的映画出演第一作で、若い頃の姿を見られる貴重な映画。海岸の船影で濃厚なキスをする場面を演じている。そこからエミは長沼を可愛がるようになり恋愛に発展、舞台公演の初日をすっぽかしてマスコミで大きく騒がれる。しかし、長沼は砂川闘争(を連想させる左翼運動)に参加して逮捕され、映画会社はクビになった。そこで在学中の大学劇団に戻り、その公演に生島エミに出て欲しいと頼む。

 このように当時の映画演劇界の裏を見せてくれ風俗映画としても興味深い。新劇から来たエミに「北原君の誕生パーティー」で皆に紹介しようという場面があり、北原三枝のパーティーになる。長門裕之と芦川いづみが踊ったりして、非常に貴重な場面になっている。そういう裏話的シーンが面白く、「情熱の女」を描くというテーマは今からすると中途半端かもしれない。だけど様々な意味で映画史的に貴重な存在だ。実は去年昔の映画を特集上映するシネマヴェーラ渋谷で月丘夢路や井上梅次監督の特集が行われた。月丘特集は何本か見て『火の鳥』もその時見るつもりだったが、母親が突然入院してしまって不可能になった。一年越しに見ることが出来て宿題を片付けた感じがする。

 井上梅次監督は60年代以後香港に招かれ、10本以上監督している。その中から『香港ノクターン』という映画が上映されるのも興味深い。ところでこの人には問題もあって、80年代に作られた一番最後の2本は統一協会や勝共連合が関わった映画なのである。月丘夢路もその頃よくやっていた「一和の高麗人参茶」のテレビCMに出ていたという。そうか、あれが月丘夢路だったのか。広島出身で近年は『ひろしま』(1953)の教師役が再評価されているが、そういうこともあったのである。この前見た『君の名は』でも後宮春樹の姉役で3本とも出ていたから、昔はホントに人気があったのだろう。
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『君の名は』三部作を見るー疑問だらけのすれ違いドラマ

2023年10月25日 22時23分09秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターで、菊田一夫原作の映画特集をやっている。「「君の名は」公開70周年記念」とうたっていて、その『君の名は』3部作をこの機会に見た。今まで「総集編」を見たことはあるが、もとの3本の映画は見たことがなかった。2時間超あるから、合わせて6時間を越える。今回は一週ごとに一部ずつやってたから、何とか見に行けた。今でも見られる「すれ違い」メロドラマの古典だが、設定には疑問も多い。菊田一夫(1908~1973)は日本の商業演劇、ミュージカルの発展に忘れられない人で、多くの舞台脚本を書いた。今回は他にも興味深い作品が上映されているが、時間の関係上見なかった。
(映画はモノクロ)
 『君の名は』は元々はNHKのラジオドラマである。(テレビ放送開始は翌1953年。)1952年4月10日に始まり、1954年4月8日まで続いた。毎週木曜日20時30分から21時までの30分間で、計98回。(このデータはWikipediaに拠る。)「番組が始まる頃には女湯が空になる」という伝説がある。(当時は家に内湯がある人はほとんどなく、多くが銭湯を利用していた。)松竹で映画化され、1953年9月15日に第1部、同年12月1日に第2部が公開され大ヒット。同年の配給収入トップ2となった。第3部は1954年4月27日に公開され、同年の配給収入1位。合わせて観客動員数3千万人という超大ヒットである。
(菊田一夫)
 物語は1945年(昭和20年)5月24日に始まった。東京大空襲と言えば、10万人が犠牲になったと言われる3月10日が知られるが、その時は東京東部が中心だった。その後も空襲は続き、中でも5月25日は皇居や首相官邸が焼けた山手大空襲として知られる。ただ死者は3651人で、3月に比べて少なくなっている。この間に疎開が進んだり、密集が少ない地域性によるだろう。一方、その前日の5月24日にも罹災者22万を出す空襲があった。空襲地の詳しいことは知らないが、銀座・有楽町付近はこの日に爆撃されたのだろう。今回初めて気付いたが、この日はちょうど僕が生まれた日の10年前ではないか。

 後に後宮春樹(あとみや・はるき)と氏家真知子(うじいえ・まちこ)と判明する二人の男女は、この日たまたま銀座周辺にいて、一緒に避難する。翌朝名前を聞こうとするが、また空襲警報が鳴ったので、生きていたら半年後に同じ数寄屋橋(すきやばし)で会おうと約束して別れたのだった。数寄屋橋は江戸城外濠に架かっていた橋で、関東大震災後の1929年に石造になった。真ん前に大きな日本劇場(日劇)があり、有名な東京風景だったという。1958年に高速道路が上を通ることになり外濠は埋め立てられた。その後しか知らないから、実際の橋が見られるのは貴重である。
(昔の数寄屋橋)
 このドラマ、映画は大ヒットしたが、角川春樹(1942~)、村上春樹(1949~)はそれ以前に生まれているので、「春樹」という名前はその影響じゃない。1973年の金大中氏拉致事件時の駐韓国大使は後宮虎郎という人だったが、「うしろく」という読みだった。「あとみや」なんて読み方があるのか。佐田啓二(1926~1964)が演じたが、今は中井貴一の父と言わないと通じない。37歳で自動車事故のため亡くなり、前年に亡くなった「小津に呼ばれた」などと言われた。小津安二郎、木下恵介、小林正樹など名匠の作品で忘れられない存在感を残している。昔の映画を見ている人には親しい存在だ。

 岸惠子(1932~)は、1951年にデビューして鶴田浩二や佐田啓二の相手役をしていた(鶴田浩二と噂になったが松竹が別れさせたとWikipediaにある)が、本格的な大スターになったのは『君の名は』だろう。時々見せる氷の表情が魅力的で、21歳とは思えない。以下の画像にあるストールの巻き方は、「真知子巻き」として今も名が残る。北海道ロケで寒かったから、私物を使ったというが、今見るとまるでヒジャブみたいな感じがする。この後、1957年にフランスのイヴ・シャンピ監督と結婚して一人娘が生まれるも、1975年に離婚。その間も日本の映画には断続的に出演し、『雪国』『おとうと』『怪談』『細雪』など文芸映画で名演した。僕は若い頃に見た『約束』(斉藤耕一監督、1972)の女囚役が忘れられない。小説やエッセイも高く評価されている。
(岸惠子と佐田啓二)
 ま、そういう俳優情報は別にして、この二人はその時東京で何をしていたのか。男はほとんど軍隊に行ってた時代だ。その後の仕事を見ても理系とは思えない後宮が何故東京にいたかが不思議。真知子は約束の前日におじに連れられて佐渡に帰らざるを得ず、数寄屋橋に行けない。東京育ちならともかく、佐渡に同級生・綾(淡島千景)がいるんだから、佐渡育ちなのである。それなら何故疎開しないのか不思議。おじは強圧的人物で帰りたくないんだろうけど、命には換えられない。健康な男女が東京都心でウロウロしていること自体が不思議で、その背景事情は全く説明されない。

 名前も判らないでは探しようもないが、それはエンタメの特性から判明する。一方、佐渡で真知子には縁談が持ち込まれる。中央官庁に勤めているというかなり恵まれた縁談で、おじの強要で断りにくい。おば(望月優子)は長く圧政に苦しんできて真知子に同情的だが、やむなく見合いに進む。その相手が浜口勝則川喜多雄二、1923~2011)で、主要人物の配役は皆判るのにこの人だけ知らない。元は歯医者だそうで、スカウトされて50年代には結構多くの映画に出ている。60年代に引退して歯科医に戻ったそうだ。浜口はすぐ結婚とは言わない、東京へ行って一緒にその人を探してみようと誘う。そして、実際に姉(月丘夢路)が住む三重県鳥羽に帰ったと聞いて探しに行く。しかし、すれ違いで会えない。そして、真知子は浜口の親切にほだされ、結婚を承諾する。
(川喜多雄二)
 すれ違いの筋を延々と書いても仕方ないから止める。第1部は佐渡の尖閣湾、第2部は北海道の美幌と摩周湖、第3部は雲仙、阿蘇と全国観光めぐりになっているのも、この種の映画の定番設定。第2部では真知子が北海道まで行き、後宮に会おうとする。第3部では後宮が雲仙まで真知子を訪ねてくる。飛行機ですぐ行ける時代じゃなく、ご苦労様という感じ。夫婦関係は一度妊娠するも流産し、その後は悪化する一方。それは「嫁姑関係」に問題がある。父を失い母と暮らしてきた浜口は、妻より母を大事にし、何事も母に仕えることを第一とする。その母は息子を失うことを恐れ、流産しても温かい言葉ひとつ掛けない。佐渡から来たおばが第2部でズバッと言い返すが、さすが望月優子の名演で胸のつかえが取れる。日本社会の家父長制の伝統、家族主義に苦しむ女性という構図は戦後的テーマである。

 第3部では離婚調停から、刑事告訴(!)もという展開に至るが、泥沼の愛憎の中、二人はあくまでも清くありたいと望む。浜口も次官の娘と付き合うようになったが、その娘は結婚したら母親とは別居が条件と言い渡す。姑も今さら真知子の方が良かったと気付き、雲仙まで謝りに来るが病気で倒れる。まあ、すったもんだがずっと続くが、ようやっと最後に病床の真知子に離婚届にサインして浜口が会いに来る。どうして、こんなことになってしまったのか。二人は語り合うが、誰も悪くなかった、仕方なかったと真知子は語る。結局、戦争と同じである。ひとりひとりは皆いい人で、責任はない。やむを得ず揉めることになってしまったけど、と言うのである。これが『君の名は』が受け入れられた真の原因ではないかと思う。

 もう一つ、今は2人のすれ違いという主筋を書いたが、結構多くの人物が出て来て副筋の物語がある。そこでも不幸な人々がいかに幸せになれるかがテーマとなり、何故か皆が幸せになっていく。だが、そのように多くの関係人物のドラマがあることで、主筋、副筋、風景的シーンが絡みあいドラマチックに進行するのである。そこが上手く編集されていて、やはりエンタメ作品は(当然脚本、俳優、演出を前提として)、編集が重要だなと強く思った。編集を担当したのは、女性映画人のパイオニアの一人として知られる杉原よ志である。スタッフ、キャストの大半は亡くなっているが、存命なのは岸惠子北原三枝(石原裕次郎夫人)ぐらいか。監督は多くの娯楽作品を松竹で作った大庭秀雄で安定感がある。
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天地真理を見に、『真理ちゃん映画祭り2』へ

2023年10月15日 22時44分56秒 |  〃  (旧作日本映画)
 雨の中、池袋HUMAXシネマズ シネマ1で開かれた『真理ちゃん映画祭り2』に行ってきた。6千円もするけど、もう8月に予約していたのである。「真理ちゃん」というのは、天地真理(あまち・まり、1951~)のことで、そう言われても判らない人もいるかもしれない。1971年にデビューして、70年代中頃まで絶大な人気を誇った歌手で、出演映画も何本かある。今回は『愛ってなんだろ』(1973)、『虹をわたって』(1972)の映画2本の上映の他、テレビ番組の歌映像上映、タブレット純×佐藤利明のトークショーもあった。しかし、そういうことより、天地真理本人の舞台あいさつがあったのだ。これは逃せない。
 
 実はそこまで大ファンだったわけではない。探してみたら、シングルレコードは72年の大ヒット曲「ひとりじゃないの」しか持ってない。アグネス・チャンやキャンディーズより少ない。そもそもアイドル系歌謡曲はそんなに持ってなくて、サイモン&ガーファンクルやザ・ビートルズ、あるいはモーツァルトやバッハなどのクラシック、ジャズなど雑多なLPレコードを聴いていた。それでも71年秋に「水色の恋」でデビューした天地真理はよく聞いた。媒体はラジオである。テレビは一家に一台で、夜遅くまで見るわけにいかない。高校生が受験勉強するときの友はラジオの深夜放送だった。だから、当時のヒット曲は詳しいのである。
(「ひとりじゃないの」ジャケット)
 まず最初に舞台あいさつ。今日は『愛ってなんだろ』で共演した森田健作とともに天地真理が登壇した。森田健作前千葉県知事は要らないんだけど、さすがに元政治家だけにうまく誉めるのに感心した。本人はさすがに年は取っているが、今も魅力的。ちょっと体調が心配な感じもあるが、今まで何度も苦境を乗り越えてきた人だ。今は娘と孫もいて、ファンクラブは娘さんが手伝っている。今日はどうせ「じいさん」ばかりだろうと思っていたら、まあベースはそうなんだけど、案外女性客が多い。3割か4割はいた。若い人もいないわけではない。広く愛された歌手だったんだなあと思った。

 当時のテレビ番組「真理ちゃんシリーズ」から、歌の映像が流された。「アイドルの名を冠したバラエティのルーツ」とチラシにある。木曜夜19時だとあるが、僕はその番組を見ていない。家では主にNHKニュースを見る時間だったんだと思う。ここで聴ける当時の歌は非常に素晴らしい。デビュー当時のキャッチフレーズが「あなたの心の隣にいるソニーの白雪姫」だった。「白雪姫」と言われるような白が似合う衣装に、澄み切った歌声が響き渡る。実は国立音大附属高の声楽家卒で、ジョーン・バエズや森山良子に憧れていた。その後、ヤマハ附属ミュージックスクールで学んでプロを目指していた。天地真理は、60年代までの「大スター」性、70年代以後の親しみやすい「アイドル」性、それに60年代末のフォーク系歌手のそれぞれのイメージをまとっていた。

 歌声の素晴らしさとテレビ『時間ですよ』でデビューした親しみやすさが天地真理の持ち味だった。この位置づけに関しては、タブレット純(歌手・芸人)と佐藤利明(娯楽映画研究家)の対談が刺激的だった。一番面白かったのは実はこのトークショー。佐藤さんはとにかく詳しくて、天地真理の最初の映画は本名斎藤真理名義でクレジットされた『めまい』(斉藤耕一監督)だという話に驚いた。書きたいことは多いが、僕が一番驚いたこと。幼い佐藤氏は足立区北東部の花畑団地に住んでいて、最初に買ったLPレコードは竹ノ塚駅前のレコード屋で買った天地真理だった。そこは多分僕が「ひとりじゃないの」を買った店だ。
(タブレット純)(佐藤利明)
 広瀬襄監督の『愛ってなんだろ』は天地真理の歌を全面的に見せるための歌謡映画で、映画的には物足りない。共演が森田健作だが、この人気青春スターを使いながら、二人は恋人にならない。天地真理はおもちゃ会社の社員で、同僚と歌のグループを作っている。いろいろあって、森田が作詞作曲した(設定の)「若葉の季節」をテレビで歌う。そこら辺が初々しい魅力で(ファンには)見応えがある。脇役の小松政夫、田中邦衛、佐藤蛾次郎、尾藤イサオ、谷啓など強力な布陣を楽しめる。来年3月に初DVD化。
(映画『愛ってなんだろ』)
 それに比べれば『虹をわたって』はずっと面白い。喜劇の名手前田陽一監督の作品で、横浜の水上生活者と山手のお嬢様の交流を描いている。前に銀座シネパトスで見ているが、今回の方が面白く見られた。萩原健一沢田研二が天地真理の相手役で出て来るから豪華なものである。萩原健一は実際に天地真理を乗せて車を運転しているし、沢田研二は天地真理とヨットに乗る。他にも有島一郎、なべおさみ、岸部シロー、日色ともゑ、左時枝など共演が見事なのは当時の映画に共通している。天地真理をあえて下層世界に投げ込んで働かせるという趣向が生きている。
(映画『虹をわたって』)
 休憩込みで5時間半ほどの長丁場。値段もそれなりで疲れたけど、やはり行って良かったなあと思って帰ってこられた一日だった。「2」というから、「1」があったはずだが、それは全然知らなかった。二人のトークショーは盛り上がって、他でまたやりましょうと言っていた。それは是非行きたいな。
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映画『若者たち』と60年代の「希望」のゆくえ

2023年08月06日 22時38分35秒 |  〃  (旧作日本映画)
 一昨日になるが、国立映画アーカイブで『若者たち』(1968)を見た。それ自体なら、今改めて書くまでもないんだけど、『十八歳、海へ』を見て、さらに山上徹也被告に関する本を読んだ。それらを通して、「希望」が時代とともに移り変わっていった様子がうかがえる。『若者たち』は僕以上の年代の人ならテーマ曲(藤田敏雄作詞、佐藤勝作曲)を歌えるだろう。(その後教科書に載ったり、21世紀に再ドラマ化されたので、若い世代も知ってるのかもしれない。)
(『若者たち』)
 もともとはフジテレビで放送されたドラマだった。1966年に放送され、大きな評判となったという。しかし、9月23日放送予定の回が「在日朝鮮人」差別を扱っていたため、放映が中止されてしまいドラマも終了した。そこで俳優座が中心となって、映画化したわけである。テレビ版で親のない5人家族を演じた、上から田中邦衛橋本功山本圭佐藤オリエ松山省二がそのまま映画にも出演した。テレビでも担当していた森川時久が監督を務め、5人一家の絶妙なアンサンブルが映画でも生かされている。森川監督、田中邦衛、山本圭がこの2年内に相次いで亡くなり、今回はその追悼上映になる。
(森川時久監督)
 この映画は評判を呼んで、『若者はゆく』(1969年)、『若者の旗』(1970)と製作されて三部作となった。キネ旬ベストテンを調べてみると、第1作は(67年の)15位、第2作は12位、第3作は21位になっている。昔はよく自主上映されていたが、最近はあまり映画館でもやられていないと思う。(配信があるかどうかは知らない。)僕は学生の頃に三鷹オスカー(確か)という映画館まで三部作一挙上映を見に行った記憶がある。70年代後半に見ても、すでにちょっと時代離れしたモノクロ映画になっていた。3本続けて見ると同じパターンの繰り返しに驚く。労働者の田中邦衛が大声で怒鳴って、大学生の山本圭が冷静に正論でやり込める。

 両親ともになく、長兄、次兄は働いて弟の進学を助けている。三男は学生だが、四男は浪人中。長女の佐藤オリエ(この家は佐藤家なので、役名と本名が同じ)は家事を担当していたが、いろいろ不満を溜め込んでいて、ある日家出して働き始める。5人の子どもたちはともに深く信頼し合っているが、現実社会の貧困や差別に直面して大げんかが起きるのである。そうすると、上記画像のようにちゃぶ台で食べているので、「ちゃぶ台返し」になる。僕はちゃぶ台で食べていた幼少時代を経験しているが、70年代後半にはもうテーブルで食べている家が多かった。五人も兄妹がいる家庭も周りにはなかった。

 冒頭からテーマ曲が何回も流れる。歌ったのはサ・ブロードサイド・フォーというグループで、これは黒澤明監督の長男黒澤久雄がやっていた。ただし、僕は同時代的にドラマや歌を知ってたわけではない。歌詞を書くと1番は「君の行く道は 果てしなく遠い だのに なぜ 歯を食いしばり 君は行くのか そんなにしてまで」である。2番を抜かして3番は「君の行く道は 希望へとつづく 空にまた 陽が昇るとき 若者はまた 歩き始める」となる。
(第2部『若者はゆく』)
 作詞の藤田敏雄(1928~2000)を調べてみると、日本のミュージカル草創期に労音で多くのミュージカルを創作した人で、「題名のない音楽会」の企画構成、「世界歌謡祭」の総監督なども務めた人物だった。興味深いことに、岸洋子が歌った「希望」も作詞している。「希望という名の あなたをたずねて 遠い国へと また旅に出る」と始まるドラマティックな短調の曲である。なんで「希望」がこんなに暗いメロディーなんだろう。「若者たち」でも「君の行く道は希望へとつづく」と歌われた。

 この時代の「希望」とはどんなものだったのだろう。今「格差社会」と言うが、明らかに60年代の日本の方がはるかに貧困を抱えていた。それを言えば、戦前の日本はもっともっと大きな格差があったのである。だが、それが当たり前であると人々が思っていた時には、自分たちがひどい格差社会に生きているとは思わない。一方、60年代は「高度成長」のさなかで、少しずつでも人々が暮らしが良くなると信じられた時代だった。また「社会主義の理想」が生きていて、人々が連帯することで世の中をよくしていけるのだと信じた人が多かった。『若者たち』三部作も基本的にはそういう流れの中にある。
(第3部『若者の旗』)
 現実社会には多くの困難や矛盾があるけれど、それは「自然現象」ではなく人間が作り出したものである以上、やはり人間の手によって変えてゆくことができるはずだ。それがこの映画で山本圭たちが強く主張していることである。現実社会の中で厳しい「学歴差別」に直面する田中邦衛は、そのような理想論をすぐには受け入れられない。頭では理解出来ても、どこかうさんくさく感じてしまうのだろう。だが、より良い暮らしのために頑張るんだという向日性は映画のベースにある。それがこのテーマ曲に現れている。

 その後の日本では、70年代後半から80年代にかけて「一億総中流」と呼ばれる時代がやってきた。それはもともと「幻想」だったと思うけれど、幻想ではあれ自らを中流と思える暮らしを手に入れた。テレビや冷蔵庫だけでなく、自動車やクーラーも不可能ではないというアメリカのテレビドラマに出て来るような暮らしに日本人も手が届いた。それなのに、それが実現したときに「自分」が何者だか判らなくなる。それが70年代後半の若者の気分だろう。だから中上健次原作の『十八歳、海へ』の登場人物のように「心中ごっこ」をする青春になる。

 その時代に生まれた「ロスジェネ世代」(山上徹也被告もそのひとり)からすれば、自分たちの生きてきた中で日本が上向きだった時代などなかった。格差は昔の方が大きかったし、生活水準も昔より上なのに、自分たちには「希望がない」と思う。それは「一度は持っていたものを失った」という無念や苦しさのためだろうか。もう人々が連帯して闘うことなど、誰も信じなくなってしまった。20世紀最後の年(2000年)に刊行された村上龍希望の国のエクソダス』では、主人公に「日本には何でもあるが、希望だけがない」と語らせている。まさにそういう中で、われわれは21世紀を生きているのだ。
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藤田敏八監督『十八歳、海へ』(1979)について

2023年08月03日 23時22分54秒 |  〃  (旧作日本映画)
 今日は読んだ本について書く心づもりだったが、最後の方が読み終わってないので次回回し。で、まあ休んでもいんだけど、昨日見た昔の映画について書いておきたい。上野でマティス展を見た後、地下鉄銀座線上野広小路駅まで歩いて京橋まで行った。国立映画アーカイブで藤田敏八監督『十八歳、海へ』という1979年の映画を見るためで、これが3時からだからその前に展覧会に行ったわけ。勘違いされないように最初に書いて置くけど、別にこの映画が傑作だというわけじゃない。むしろガッカリ感が強い。だが、キャストやスタッフのその後、映画の時代背景、原作の中上健次など、映画以外が面白かったのである。

 今回は「逝ける映画人を偲んで 2021-2022」という特集で、追悼対象は製作の結城良煕と脚本の渡辺千明という人である。どちらも知らなかったが、渡辺はこれがデビュー作という。ウィキペディアを見ると、その後の映画脚本は少なく、むしろ日本映画学校で教えたり、小津安二郎の共同脚本家として知られる野田高梧の別荘にあった『蓼科日記』を刊行した業績がある人らしい。この映画は大島渚映画の脚本家だった田村孟と渡辺千明が脚本にクレジットされている。
(主演の3人)
 冒頭は予備校の夏季講習の結果発表で、全員の順位が張り出されている。当時はそんなこともあったか。僕はよく覚えてないけれど、そうだったかもしれない。中学なんかでも成績を張り出すことは普通にあった時代だ。そこで1位になったのが、釧路から来ている有島佳(ありしま・けい)という女子。男どもは「おお、女が1位か」とか言ってる、そんな時代である。ビリになったのが、桑田敦天(くわた・あつお)で、桑田は有島を探して、一緒に出掛けないかという。ビリとトップなら面白いとか言って。桑田を演じているのは永島敏行で、『サード』『遠雷』など70年代後半の日本映画で輝いていた。
(近年の永島敏行)
 で、肝心の有島佳は誰だ? うーん、誰だっけとちょっと考えて、パッと名前を思い出した。森下愛子じゃないか。永島、森下は『サード』のコンビである。その後も東映映画などに出ていたが、むしろ80年代にはテレビで活躍していた。そして、1986年に吉田拓郎の「第三夫人」になっちゃった。いや、イスラム教じゃないんだから、3人目という意味だけど。まあ、今度は添い遂げるみたいだから、傍の者があれこれ言うこともないだろう。ウィキペディアを見ると、拓郎のオールナイトニッポンに呼ばれたとき、森下愛子も警戒して竹田かほりと一緒にやってきたと出ている。竹田かほりは『桃尻娘』の主役で、甲斐バンドの甲斐よしひろと結婚して引退した人。森下は根岸吉太郎監督と噂されていたが、結局吉田拓郎と結婚したと出ていた。
(近年の森下愛子)
 先の二人は鎌倉の海へ行って、男は女にモーションをかけている。そこへバイクがやってきて、バイク集団とのケンカになる。因縁を付けられているのは、同じ予備校生の森本英介。これは小林薫で、状況劇場のメンバーだったが映画に出始めた頃。クレジットに新人とあって、感慨深い。森本はケンカではなく、懐に石を詰め込んで海に入る競争をしようという。そのエピソードが終わって、もう明け方も近い頃、今度は森下愛子が永島敏行に同じように「自殺ごっこ」をしようと持ち掛ける。これが全く判らないのである。そこまでヒリヒリした追いつめられた青春という描写がない。それでいて、この二人は「心中ごっこ」を繰り返すのである。

 そこが伝わらないと、単なる風俗映画になってしまう。そして、実際にこの映画は時代を象徴するような青春映画にはなれなかった。一応キネ旬ベストテン18位になってるけど、あまり面白くない。監督の藤田敏八は70年代前半には忘れがたい青春映画を作っていた。『八月の濡れた砂』(1971)、『赤い鳥逃げた?』(1973)、『赤ちょうちん』『』(1974)などだが、1978年の『帰らざる日々』を最後に、どうもパッとしなくなった。角川映画の『スローなブギにしてくれ』(1981)など、どこが悪いとも言いがたいがズレてる感が強い。これは70年代前半を代表する神代辰巳、深作欣二などにも言えることで、それぞれ作風を変えたり低迷したりした。これは時代の方が変わったからだと思う。とらえどころがない時代が来たのである。
(藤田敏八監督)
 この映画の主人公たちは全く理解出来ない。「自殺」をこれほど遊びのようにとらえても良いのか。永島も森下も健康的な身体をしていて、「心中ごっご」が腑に落ちない。そんなに人生がイヤで、模試で全国トップになれるのか。腑に落ちないと言えば、有島佳の姉、有島悠が小林薫と付き合ってしまう。悠を演じているのが誰か判らなかったが、島村佳江という人だった。『竹山ひとり旅』などに出ていて当時は知っていたかもしれない。調べてみると、この人は藤間紫の息子文彦と結婚して、息子が藤間翔、娘が三代目藤間紫なのである。藤間紫は先代猿之助の二番目の妻だが、いろいろな映画にも出ていた。実に色っぽくて、どうも「好きにならずにいられない」といったタイプなのである。
(島村佳江)
 森本英介はホテルサンルート東京で働いていて、ロケで使われている。ただし、今はサンルート東京というホテルはなくて、どこだったかは判らない。上京した医者の父がこんなところで働くのは辞めろといって、ホテルがクビにしてしまうのもすごい。ワケあり家庭だったようだが、細かい説明はなく、箱根のホテル(小涌園)を取ったから来なさいと父が英介に言う。英介はそれを有島と桑田に譲ってしまう。そこら辺の展開は強引そのもので、映画なら許される「偶然性」を遙かに超えている。まあ、全部書いても仕方ないけど、中上健次の原作はどうなってるんだろう。紀州ものは大体読んでたけど、他の小説は読み落としが多い。この原作も読んでない。中上健次原作の映画は『火まつり』『赫い髪の女』など傑作が多いが、これは中で一番下の失敗作。だけど、自分の若い時代がロケの中に残されてるから懐かしい。
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映画『恋する女たち』(大森一樹監督、1986年)の面白さ

2023年03月05日 22時43分36秒 |  〃  (旧作日本映画)
 氷室冴子原作、大森一樹監督の『恋する女たち』(1986)という映画が好きで、その面白さの理由を自分でもよく表現できないので、書いてみることにした。現在、神保町シアターで「アイドル映画と作家主義ー80年代アイドル映画白書」という特集上映で大林宣彦監督の『時をかける少女』『さびしんぼう』などとともにこの映画も上映されている。80年代は仕事が忙しくて公開時は見逃したのだが、10年ぐらい前に初めて見たらとても面白かった。今回が3回目で、何回見ても面白い。

 主演は当時歌やコマーシャルで人気だった斉藤由貴で、前年の1985年末に相米慎二監督『雪の断章ー情熱ー』に主演していて、この『恋する女たち』が2度目の主演になる。斉藤由貴は日本映画アカデミー賞主演女優賞を受賞するなど好評で、続いて『トットチャンネル』『「さよなら」の女たち』と大森監督の斉藤由貴三部作が作られた。1986年のキネマ旬報ベストテン7位に入っていて、これは大森監督にとって代表作『ヒポクラテスたち』とともにただ2作だけの入選になっている。

 原作は当時集英社コバルトシリーズで、絶大な人気を誇っていた氷室冴子。80年代に「ラノベ」の「少女小説」を確立させた作家で、当時女子中高生などに人気があった。その後、平安時代を舞台にした「なんて素敵にジャパネスク」で知られたが、2008年に51歳で亡くなっている。原作の舞台は北海道だというが、映画はそれを金沢に移して魅力的なロケをしている。兼六園などの名所ではなく、何気ない川沿いの道や野球場、美術館なんかが素晴らしい。金沢を舞台にした映画の中でも一番魅力的だと思う。

 この金沢の魅力も成功の大きな理由になっているが、それより出て来る高校生役の俳優が生き生きと演じているのが一番だろう。原作と主演女優が決まっていた「アイドル映画」だが、監督の人選が難航していたという。大森監督は当時『ゴジラvsビオランテ』(1989)の脚本が行き詰まっていて、こっちを先に受けることになった。大森監督は直前に吉川晃司三部作(『すかんぴんウォーク』『ユー・ガッタ・チャンス』『テイク・イット・イージー』)を撮り終わったところで、男優と女優は違ってもアイドル映画の作法は熟知していだろう。実際、流れるように物語が進行する見事な語り口に乗せられて見終わる。

 冒頭で黒服を着た女子高生3人が葬式写真を持っているから、何だろうと思う。しかし、それは江波緑子高井麻巳子)がなんかショックなことがあると、自分の死亡通知を他の二人に送ってよこし、皆で「葬儀」を執り行うものだった。すでに3回目で、白い十字架を地面に差している。このアホらしい自意識過剰の少女趣味に付き合っているのが、吉岡多佳子斉藤由貴)と志摩汀子相楽ハル子)で、映画はこの3人の恋模様の推移を描いていく。高校生なんだから勉強もあるわけだし、部活や進路はどうしたと思う。でも親や教師はほぼ出て来なくて、一般のクラスメートも出てこない。このおとぎ話的設定こそ成功の最大要因だ。
(ラストシーン。左から高井、相楽、斉藤)
 ちなみに、高井麻巳子は「おニャン子クラブ」のアイドルで、その後秋元康と結婚して芸能界は引退している。相楽ハル(晴)子はテレビドラマに出ていて、これが映画初出演。後に阪本順治監督デビューの『どついたるねん』で高く評価されキネ旬助演女優賞を受けた。現在はアメリカ人と結婚してハワイ在住だという。3人とも超絶的美少女ではなく、斉藤由貴もふて腐れ顔なども多くてコメディエンヌとして評価された。この絶妙なアンサンブルが魅力的なのである。

 たかが女子高生が「恋する女たち」なんておかしいけど、緑子、汀子のお相手は年上の設定になっている。普通に同級生に憧れているのは多佳子だけで、若き日の柳葉敏郎演じる野球部員沓掛勝にお熱。柳葉はすでに25歳で高校生役は少しキツいが、一生懸命野球をしていて、いかにも若い。しかし、彼には中学時代からの恋人がいて、他校生ながら試合に応援に来ている。美術館や映画館前でなぜか沓掛と出会ってしまうのに、多佳子の気持ちは全然気付いて貰えない。逆に下級生の神崎基志菅原薫)に見つめられ告白されてしまう。中学時代に姉の比呂子原田喜和子)が家庭教師をしていて、姉への憧れが妹を発見させたらしい。菅原薫は菅原文太の長男だが、小田急線電車にはねられて31歳で亡くなった。
(柳葉敏郎と斉藤由貴)
 傑作なのは美術部の大江絹子で、勉強をサボったため留年した設定。演じているのは小林聡美で、例によって怪演している。斉藤由貴はまだセリフ回しがキツい感じがあるが、比べると小林聡美の演技は圧倒的にうまいと思う。でも多佳子が絹子に圧倒されるという設定のシーンだから気にならない。お互い授業をサボったり、好き勝手にやってるところが面白い。絹子は絵ばかり描いている生徒だが、多佳子がお気に入りで今度ヌードを描かせろなんて迫っている。この小林聡美が出ていることで、映画はピリッとしまっている。やはり脇役こそ重要だと思う。
(小林聡美と斉藤由貴)
 多佳子、比呂子姉妹は温泉宿の娘で、親が観光協会長をしているから観光協会の2階に住めるという。学校に行くために二人暮らしをしているという都合のいい設定である。二人の親がやってるという「辰口温泉まつさき」は実在の宿で、映画では斉藤由貴が掛け流しの風呂に入っている。比呂子は大学卒業後は家に帰って女将を継ぐという約束を守って、見合いをするという。しかし、実は…という展開がある。年上には年上の事情があり、やはり高校生は高校生同士で海辺で野点をするというラスト。このラストが実に美しくて魅惑的。ドローンを使ったかのような空中撮影が見事だ。

 結局何が面白いのかなと思うと、巧みな脚本と演出でジャンル映画としての高い完成度を見せていることだなと思った。野村孝監督『拳銃(コルト)は俺のパスポート』や加藤泰監督『明治侠客伝 三代目襲名』などを何度見ても面白く見られるのと同じではないか。どういうジャンルかと言えば、『少女アイドル映画』ということだが、全体にあるガーリーな趣味がうまく生きている。自分と違う世界であっても、ジャンル映画は完成度次第で面白く楽しめるわけである。
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清水宏監督「明日は日本晴れ」、敗戦3年目のバス映画

2022年05月05日 22時36分20秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立映画アーカイブで「発掘された映画たち2022」という特集上映を行っている。非常に貴重な映画が「発掘」されているが、このレベルの映画まで全部見ていると他のことが出来ない。しかし、清水宏監督の戦後第2作「明日は日本晴れ」(1948)は是非見ておきたいと思った。公開以来、ほとんど知られることなく、74年ぶりの上映である。独立プロ「えくらん社」の第1回作品で、東宝で配給された。しかし、何故か松竹から16ミリフィルムが発見されたという。戦前に所属して関係の深かった松竹だからだろうか。松竹作品でもないのに、松竹のホームページの「作品データベース」に記載があるのも不思議。

 清水監督には「有りがたうさん」(1936)という映画がある。伊豆を走るバスの運転手(上原謙)は乗客に「ありがとう」と声を掛けることから「ありがとうさん」と呼ばれている。ただその様子を淡々と映すだけのロード・ムーヴィーなんだけど、乗客には身売りされていく娘もいるし、街道を日本に働きに来た朝鮮人労働者たちも歩いている。ほのぼのとしたムードの中に、日本のさまざまな状況が写し取られている。「明日は日本晴れ」は清水監督が再び描いたバスと運転手の映画である。
(「明日は日本晴れ」)
 たった65分の映画で、特に深いドラマも起こらない。それは清水監督の多くの映画と同様だけど、この映画が特徴的なのは、バスが2回故障して立ち止まることである。恐らく敗戦後の日本では、実際にボロバスが多くて故障が多かったんだろう。1回目は何とか動き出すが、2度目はついに立往生。峠まで皆で押してゆき、そこで救助を待つことになる。町は遠くて救援を呼ぶことが出来ない。向こう側からもバスが来るので、そのバスに救援車を送ってくれるように頼むしかない。あるいはもう歩いてしまうか、通りかかったトラックの木材の上に乗せて貰うか。それとも逆のバスに乗って出発地に戻るか。その間の様子を描くだけだが、そこから戦後3年目の日本が見えてくる。

 客の中には闇屋もいれば、戦傷者もいる。目が見えない按摩(日守新一)もいる。按摩は目が見えないのに、乗客の人数、性別などを当てる。後で判るが、失明したのは満州事変の戦傷だった。実際に戦争で片足を失った御庄正一(清水監督の前作「蜂の巣の子供たち」で浮浪児の元締め役で出演していた)も出ている。バスには戦死した部下の墓参を続けている元将官もいる。その事を知って、戦傷者の御庄が怒り出す。それも当然だろうが、運転手は何とか止めようとする。乗客同士のケンカを止める立場だが、それだけではなく運転手(水島道太郎)は「もう戦争のことは忘れよう」と思って生きているのである。

 若い女性車掌(三谷幸子)は運転手の「清(せい)さん」に気があるようだ。しかし、乗客に若い女性がいて、都会帰りの様子が皆の気になっている。実はその女性は清さんのなじみだったらしい。どうやら事情があったようだが、戦時中に「徴用」されたら、病気の家族を養えないために、「徴用逃れ」で都会に出て働き始めたらしい。子どもを産んだが、死んでしまって墓にいれるために帰郷したのである。清さんには東京に出てきて欲しい、何とか自分が面倒を見るという。清さんは「五体満足」で復員出来たが、やはり戦争の哀しみを抱えている。

 皆が「あのバカげた戦争」「いまいましい戦争」と呼んで、戦争を呪っている。戦争に人生を狂わせられた悲しみと怒りを抱えている。普段は隠しているが、バスが故障して待っているだけというような時に、そんな思いも出て来る。しかし、題名は「明日は日本晴れ」だ。若い世代には人生への希望も芽生えている。峠から見る風景は絶景である。新しい時代への希望を託すような題名。監督がよく撮影した伊豆かと思うと、松竹データベースには京都で撮影したと出ている。名手杉山公平によるオール・ロケである。杉山は前衛無声映画の傑作、衣笠貞之助「狂った一頁」「十字路」以来の長いキャリアがあり、戦後に衣笠監督の「地獄門」でカンヌ映画祭グランプリを受賞した。

 主演の水島道太郎は日活や東映でギャングのボスやヤクザを何作も演じていた。日活の「丹下左膳」が代表作とウィキペディアに出ている。按摩役の日守新一は戦前の松竹映画で多くの映画で名脇役を演じた。中でも小津安二郎「一人息子」の息子役で知られる。戦後では先に見た黒澤明監督「生きる」で、のらりくらりしている同僚たちの中で課長を評価する正論を葬儀の場でぶつ部下役で知られる。他の俳優は知らないんだけど、シロウトも多くキャスティングしているという。
(清水宏監督)
 清水宏(1903~1966)は戦前の松竹で小津安二郎と並ぶ巨匠とされていた。しかし、次第にスタジオ撮影に飽き足らなくなって、子どもたちの情景をロケで撮るような映画を作って評価された。戦後になると、自ら戦災孤児を多数引き取って暮らし、その様子をもとに「蜂の巣の子供たち」シリーズを3作作った。一時は忘れられていた感じだが、その自由で既成の映画文法に捕われない作風が近年再評価されている。ある意味、「ヌーヴェルヴァーグ」以前に「映画=万年筆論」を日本で実践していたような監督だ。「明日は日本晴れ」は「有りがたうさん」に及ばないとは思ったが、敗戦後の人々の心情を今に残す貴重なフィルムだった。

 「バス映画」は結構多く、ちょっと小論を書こうかと思ったが、長くなったので名前だけ。戦前には同じ清水監督の「暁の合唱」(1941)、「秀子の車掌さん」(成瀬巳喜男、1941)があった。戦後では鈴木清順「8時間の恐怖」は、雪で列車が不通となりギャングがバスに乗ってくる。五所平之助が田宮虎彦原作を映画化した「雲がちぎれる時」(1961)、中島貞夫監督の超絶アクション「狂った野獣」(1976、渡瀬恒彦がバスを暴走させ、本人がノー・スタントで転倒させている)、青山真治監督「EUREKA」(2001)などが思い浮かぶが、まだあるかもしれない。外国映画では、最近のジム・ジャームッシュ「パターソン」が良かったな。もちろん、ヤン・デ・ボン「スピード」も凄かった。
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「七人の侍」、「!」と「?」の超大作ー黒澤明を見る④

2022年04月25日 23時05分20秒 |  〃  (旧作日本映画)
 黒澤明を見るシリーズ4回目(最後)は、いよいよ最長の「問題作」、「七人の侍」(1954)である。見るのは多分4回目だと思う。つい2年前に国立映画アーカイブの三船敏郎生誕100年特集で見たんだけど、その時はコロナ禍でチケットが事前発売の指定席制になっていた。パソコンなら席を選べることをよく知らず、適当に買ったら前の方の席だった。3時間以上ずっと上を向いて首が疲れた記憶しかなくて、もう一度4K版で見たかった。「生きる」と「七人の侍」は僕の若い頃はなかなか上映されなくて、どっちも名画座ではなくロードショーで見た記憶がある。京橋にあったテアトル東京という巨大映画館で見たのが最初だと思う。

 今は日本で「日本映画ベストテン」投票などをすると、「七人の侍」が1位になることが多い。しかし、1954年当時のキネ旬1位は木下恵介監督の「二十四の瞳」だった。2位も木下の「女の園」で、「七人の侍」は3位だった。これはまあ、歴史的な意味合いからいって、僕もこの年の1位は「二十四の瞳」なんじゃないかと思う。ところで、自分は歴史専攻だったから、「七人の侍」には最初から違和感が強かった。この映画は凄いなあと思えるようになったのは割と最近のことで、やっぱり非常に優れていて、面白いのは間違いない。違和感の方は後回しにして、面白さ、凄さの部分から考えたい。
(七人の侍)
 野武士たちに襲われる村があって、村人が「サムライ」を雇って野武士を撃退しようと考える。要するにそれだけの物語だが、襲撃と撃退のシーンが圧倒的である。それは黒澤監督が時間を掛けて撮影したということであり、伝説的なエピソードが多々語り継がれている。まるでどこか実際にある村でロケしたような感じに見えるが、そんな都合の良い村はロケハンで発見出来なかった。全景を見せるシーンもあって、それは伊豆北部の丹那あたりで撮ったというが、後は各地で撮影して一つの村のようにつなげたのである。俳優たちもほとんどが軍隊体験のある世代だけに、「サムライ」の身体性を身にまとっている。今の若い世代が戦争映画や時代劇に出て来るときの身体的違和感を感じないのである。

 「七人の侍」というんだから、もちろん7人いるわけである。7人の主要人物を描き分けるのは大変なはずだが、この映画では実に上手に性格や年齢などが設定されている。若い人だと名前は知らないかもしれないが、知らなくても顔で見分けられるだろう。7人をリクルートする場面が全体の3分の1ぐらいあって、そこが長いという人が時々いる。でも大人になるに連れ、このリクルートしていくところが面白くなってきた。本当はもっともっと見たいぐらいである。最初にリーダーになる勘兵衛志村喬)を口説き落とす。要するに「義を見てせざるは勇なきなり」ということだろう。参謀役、孤高の剣客、陽気な男、昔の部下と集めて、後は慕ってくる若者と、何だかよく判らない「菊千代」(三船敏郎)で7人。この絶妙な組み合わせは、同種の物語の原型となったと言えるだろう。それにしても前作「生きる」に続く、志村喬の存在感の深さ。(澤地久枝による評伝「男ありて」がある。)
(志村喬の勘兵衛)
 ところで中でも非常に重大なのか、三船敏郎演じる「菊千代」である。カギを付けたのは、本名じゃないからで、偽系図を見せて武士だと名乗るが、実は農民出身なのである。それも親を早く戦乱で失った「戦災孤児」だったことが示唆される。言うまでもなく、製作時点では大空襲による戦災孤児を誰もが思い浮かべただろう。その後自力で生き抜いてきて、村へ行ったら(映画内の表現で言えば)、「百姓に対しては侍」「侍に対しては百姓」という「両義的」存在として振る舞う。谷川雁的に言えば「工作者」であり、山口昌男的に言えば「トリックスター」でもある。子どもたちにも懐かれ、村人の物真似をして笑わせる。単に農民と武士の両義性だけでなく、大人と子どもの両義性をも生きている。

 三船敏郎は東宝ニューフェースとして俳優となって人気を得た。世界に知られた大スターだったけど、今では知らない人が結構いる。「酔いどれ天使」「野良犬」では志村喬の下に立っている。「七人の侍」でも志村喬がリーダーだから、その下には違いないが、かなり独自性が強くなっている。次の「生きものの記録」「蜘蛛巣城」では三船がはっきりとした主演で、志村喬が助演。次の「どん底」になると、三船は出ているが志村喬は出ていない。三船敏郎を知った時にはすでに大スターで、「男は黙ってサッポロビール」というコマーシャルをやっていた。寡黙で近づきがたい大スターで、僕も敬遠していた。しかし、後に「東京の恋人」などのコミカルな演技も素晴らしいと知った。晩年に演じた熊井啓監督の「千利休」や「深い河」は素晴らしかった。
(三船敏郎と志村喬)
 「」(素晴らしい)を書いてると終わらないから、そろそろ「」(おかしいな)の方を。今見ると、このような村は中世史の研究の進展により、あり得ないだろう。そもそもこの物語は1587年に設定されているという。これは四方田犬彦『七人の侍』と現代」(岩波新書、2010)に出ているが、今回再読してみた。三船演じる「菊千代」の偽系図を見て、じゃあ菊千代は今13歳なのかとからかわれるシーンがある。「菊千代」は文字が読めないことが示唆されている。この生年から計算すると、1587年になる。すでに豊臣秀吉の関白就任は2年前、全国統一目前だった。それを考えると、野武士たち(映画内では「野伏せ」)も、一方の七人側も、信長・秀吉の統一戦争に敗れた側の武士だったため、志を得ないまま日を送っていたと想定出来る。

 四方田犬彦前掲書では、中世史研究として藤木久志先生の「刀狩」「雑兵たちの戦場」の2冊が挙げられている。わずか2冊だったのか。僕は大学時代に藤木先生の講義を聞いているから、「七人の侍」に違和感があったのである。中世史研究の進展によって新たに得られた知見をもとに、「七人の侍」の武士や農民の描き方をあれこれ批判するのは「ヤボ」だと言われるかもしれない。僕もそう思うが、若い頃はどうしてもそう見えたということである。この映画に出て来る村のあり方は、惣村の実態から相当にかけ離れている。それはまあ良いのだが、全体に「近代から見た近世的な意識」を感じてしまうのである。

 兵農分離以前なのに、農民と武士の身分差を強調するのはその代表。娘しかいない万蔵という農民が、娘が若い侍と恋仲になると、「傷物にされた」と怒る。そんな処女性に拘る中世農民がいるのか。婿を取らなければ祖先祭祀が出来ないんだから、むしろ良い婿を捕まえたと勝四郎木村功)に土着することを迫るのが本当だろう。それより何より、一番大きな問題は「宗教の不在」である。いや、ラストに亡くなった侍の墓所が出て来るわけだが、村の葬送はどうなっているのか。村に神社があるはずだが、どこにあるんだろうか。決戦前にはそこに集まって「一揆を結ぶ」はずだが、そんな様子は全くない。そもそも侍を雇うかどうかも、神に伺いを立てるはずである。何しろ足利6代将軍がくじ引きで選ばれた時代である。くじは神慮ということである。重大事なんだから、村の神社で長老がくじを引くはずだ。要するに近世以後の「世俗的な村」に近いということに違和感を持つわけだ。

 まあ、そんなことは問題にせず、メキシコやブラジルのことだと思って楽しめば良いとも言える。実際黒澤の目論見は「西部劇を越える時代劇を作る」ことにあった。実際に、リメイクは西部劇になった。ただし、「七人の侍」を初めて見た頃には、ハリウッド製の特撮を駆使したアクション大作がいっぱい作られていた。比べて見るとカラーで作られたSFやホラー大作の方が面白かったのである。「七人の侍」を楽しむためには、今では映画史的な知識が多少なりとも必要なんじゃないだろうか。七人を演じた俳優たちはどんな人かなどは知っていた方が断然面白い。四方田書で指摘するように、志村喬は死んだと思っていた加東大介と再会したが、小津「秋刀魚の味」でも笠智衆の上官と戦後になって再会する。木村功は大人気スターだったが早く亡くなって、妻が書いた回想記がベストセラーになった。中でも素晴らしいのが寡黙な剣士を演じた宮口精二である。
(宮口精二)
 宮口精二(1913~1985)は戦前から文学座に所属した俳優だが、今では「七人の侍」で一番記憶されるだろう。他にも映画出演は数多く、他の映画では寡黙な剣士ではなくコミカルな役柄も上手である。「あいつと私」では有名美容家の頼りない夫を演じて笑える。「張り込み」では東京から佐賀まで張り込みに行くし、「古都」では京都の呉服問屋の主人で岩下志麻の育て親。「日本のいちばん長い日」では東郷茂徳外相…、などなど50年代、60年代の古い映画を見るとき、宮口精二の名前を楽しみに見るようになった。「七人の侍」を見るまで全然知らなかったが、こういう「助演」で映画を見る楽しみを教えてくれた人でもある。
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