今日はオウム裁判の問題点を中心に。僕は死刑廃止論者だが、今回はその問題を書きたいわけではない。前回の記事で紹介した「日本脱カルト協会」のサイトを見ると、「麻原彰晃以外の12名の死刑判決に反対する」という内容の文書が載っている。
そこでは、この事件の理解として「12名のいずれもが、松本死刑囚と同人が作ったシステムの中で、睡眠不足、栄養不足そして情報不足の中、それまで各人がもっていたビリーフシステムを、巧妙な心理操作の上で「グル=最終解脱者真理の御魂最聖麻原彰晃尊師に絶対的に服従する」「グルの指示で人を殺すのは救済活動であり、良いことだ」などと、入れ替えられたうえでの事件だったということであった。」と書いている。そこで「一連のオウム裁判は、破壊的カルト集団が犯した事件に対する審理として、殆ど世界で初めての裁判であり、世界中が注目してきたことである。かようなとき、12名に対して命を奪う死刑を言い渡し、さらに執行することは、日本の司法と司法行政が破壊的カルト集団の本質を理解していないことを世界に示すものとなってしまうものであり、日本の歴史に重大な禍根を残す。」という判断となる。また同協会によれば、この裁判ではマインドコントロールの問題が正面から取り上げられなかったという。オウム裁判では、あまりにも事件が多岐にわたるため、これ以上の裁判長期化を避けるため、公訴事実をしぼった。そのためLSDや覚醒剤の密造を裁かなかったことが背景にあるのではないかという。
カルト教団の犯罪に対し、国家的な調査や対応がなかったのは確かである。本来なら捜査の問題点など国会でも総力をあげて調査すべきだったのだが。(さすがに今回、原発事故の調査委員会は国会に設置されたが。)「マインド・コントロール」という言葉は当時の「流行語」となり、誰もが知っていた言葉だが、刑事裁判では取り上げられなかった。刑事裁判というもの自体が、「自分で判断できる能力」を持つ者を裁くという前提がある。だから、起訴した被告人は、検察側からすると、皆責任能力を持つのである。(起訴前に精神鑑定で異常が認められれば起訴できない。従って起訴した以上は、被告人は「正常な判断能力」を持つと主張する。)地下鉄サリン事件の実行犯を起訴しない、できないという判断は当時できなかっただろうから、裁判は「責任能力を持つ人間の共謀による犯行」として進行した。
それは果たして正しかったのだろうかと僕は思ってきた。地下鉄サリン事件はオウム真理教による「共謀共同正犯」が成り立つとされた。そして、首謀者、サリン製造者、調整役、実行犯は「死刑」、送迎役は「無期懲役」となっている。(ただし千代田線事件の実行犯林郁夫は自首を認められ無期懲役、送迎役の新実智光は坂本弁護士、松本サリン事件の実行犯でもあり死刑と逆転しているが。)普通の銀行強盗かなんかだったら、銀行に押し入った実行犯と車を運転するだけの送迎役では、確かに「刑事責任」に差があることが多いだろう。しかし、地下鉄サリン事件では実行犯か送迎役かは本人の能力差や「やる気」によったわけではないだろう。歴戦の強者、新実が地下鉄サリンでは送迎役なのは、誰が決めたか知らないが、首謀者が決めたことであるだろう。本人が決めたわけではなく、「役割」として遂行したという事件の場合、実行犯とほう助犯という区分は成り立つのだろうか?
一方、丸の内線池袋行の事件では、唯一死者が出なかった。だからこの路線だけの事件だったら、殺人未遂罪にしか問えない。しかし、他の路線で死者が出たということで、「共同正犯」の理論により、丸の内線池袋行電車の実行犯、横山真人は死刑、送迎役の外崎清隆は無期懲役である。死者が出なかったのはたまたまであり、この事件全体としては同じ構図だから、実行犯の刑事責任が重いというのは確かだが、「一人ひとりがそれぞれ犯した犯罪を裁く」ということなら、死者が出なかった実行犯は殺人未遂罪なのではないかという気もする。「共謀共同正犯」という法理論が難しい。オウム事件において、命令的に行われたことに「共謀」を問うことに違和感が残るというべきか。「共謀共同正犯」理論に基づき、坂本弁護士事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件の実行犯、サリン製造者は死刑と決められていて、裁判は長い儀式だったという感じがしてしまう。
もう一つ、麻原裁判が途中で終わってしまったことが禍根を残した。かつてない事件であり、事態であったので、ルールを墨守することで良かったのか。心神喪失者は死刑執行ができないことが刑事訴訟法で決められている。麻原の状況が把握できないままで終わったことはそこに影響してくる。「詐病」という人もあり、「精神疾患」という人もあり、「拘禁反応」という人もある。僕は判断する材料がない。多くの人は、教祖が何も語らないままに裁判が終わったことに納得できていない。しかし、それでも麻原を教祖と仰ぐ人もいる。このまま謎を抱えたまま死刑執行することがあれば、時間が経てば「殉教者」視する人が出てくるのは間違いないと思う。国家権力が強権的に裁判を打ち切り、教祖の命を奪ったと思い込む人々である。時間が経って当時のことを知らない人が出て来れば、何でもありうるのだ。僕は麻原彰晃という人物は、事件を何も語らなかった「ただのひと」として、終身拘禁され続けるというのがその身にふさわしいと考えているのだが。
政治的な背景がある事件も、宗教的な背景がある事件も、事件としてはただの刑事事件というのは確かであるが、やはりただ裁判をやって厳罰にすればいいという社会では奥行きが狭まる感じがする。カルト犯罪にどのように対処すべきかという点から考えると、あまり重要なものが残らなかった裁判だろう。もちろん裁判はそういう役割とは違うことも確かだが。
「オウムは危険」、だから危険そうな新興宗教や危険そうな政治団体には関わらない、自分の主張はどうせ通らないから主張しないし、心の解放は求めない。ガマンできる限りは一人でガマンし、できなくなったら一人で辞める。そういう社会になってしまった気がする。
そこでは、この事件の理解として「12名のいずれもが、松本死刑囚と同人が作ったシステムの中で、睡眠不足、栄養不足そして情報不足の中、それまで各人がもっていたビリーフシステムを、巧妙な心理操作の上で「グル=最終解脱者真理の御魂最聖麻原彰晃尊師に絶対的に服従する」「グルの指示で人を殺すのは救済活動であり、良いことだ」などと、入れ替えられたうえでの事件だったということであった。」と書いている。そこで「一連のオウム裁判は、破壊的カルト集団が犯した事件に対する審理として、殆ど世界で初めての裁判であり、世界中が注目してきたことである。かようなとき、12名に対して命を奪う死刑を言い渡し、さらに執行することは、日本の司法と司法行政が破壊的カルト集団の本質を理解していないことを世界に示すものとなってしまうものであり、日本の歴史に重大な禍根を残す。」という判断となる。また同協会によれば、この裁判ではマインドコントロールの問題が正面から取り上げられなかったという。オウム裁判では、あまりにも事件が多岐にわたるため、これ以上の裁判長期化を避けるため、公訴事実をしぼった。そのためLSDや覚醒剤の密造を裁かなかったことが背景にあるのではないかという。
カルト教団の犯罪に対し、国家的な調査や対応がなかったのは確かである。本来なら捜査の問題点など国会でも総力をあげて調査すべきだったのだが。(さすがに今回、原発事故の調査委員会は国会に設置されたが。)「マインド・コントロール」という言葉は当時の「流行語」となり、誰もが知っていた言葉だが、刑事裁判では取り上げられなかった。刑事裁判というもの自体が、「自分で判断できる能力」を持つ者を裁くという前提がある。だから、起訴した被告人は、検察側からすると、皆責任能力を持つのである。(起訴前に精神鑑定で異常が認められれば起訴できない。従って起訴した以上は、被告人は「正常な判断能力」を持つと主張する。)地下鉄サリン事件の実行犯を起訴しない、できないという判断は当時できなかっただろうから、裁判は「責任能力を持つ人間の共謀による犯行」として進行した。
それは果たして正しかったのだろうかと僕は思ってきた。地下鉄サリン事件はオウム真理教による「共謀共同正犯」が成り立つとされた。そして、首謀者、サリン製造者、調整役、実行犯は「死刑」、送迎役は「無期懲役」となっている。(ただし千代田線事件の実行犯林郁夫は自首を認められ無期懲役、送迎役の新実智光は坂本弁護士、松本サリン事件の実行犯でもあり死刑と逆転しているが。)普通の銀行強盗かなんかだったら、銀行に押し入った実行犯と車を運転するだけの送迎役では、確かに「刑事責任」に差があることが多いだろう。しかし、地下鉄サリン事件では実行犯か送迎役かは本人の能力差や「やる気」によったわけではないだろう。歴戦の強者、新実が地下鉄サリンでは送迎役なのは、誰が決めたか知らないが、首謀者が決めたことであるだろう。本人が決めたわけではなく、「役割」として遂行したという事件の場合、実行犯とほう助犯という区分は成り立つのだろうか?
一方、丸の内線池袋行の事件では、唯一死者が出なかった。だからこの路線だけの事件だったら、殺人未遂罪にしか問えない。しかし、他の路線で死者が出たということで、「共同正犯」の理論により、丸の内線池袋行電車の実行犯、横山真人は死刑、送迎役の外崎清隆は無期懲役である。死者が出なかったのはたまたまであり、この事件全体としては同じ構図だから、実行犯の刑事責任が重いというのは確かだが、「一人ひとりがそれぞれ犯した犯罪を裁く」ということなら、死者が出なかった実行犯は殺人未遂罪なのではないかという気もする。「共謀共同正犯」という法理論が難しい。オウム事件において、命令的に行われたことに「共謀」を問うことに違和感が残るというべきか。「共謀共同正犯」理論に基づき、坂本弁護士事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件の実行犯、サリン製造者は死刑と決められていて、裁判は長い儀式だったという感じがしてしまう。
もう一つ、麻原裁判が途中で終わってしまったことが禍根を残した。かつてない事件であり、事態であったので、ルールを墨守することで良かったのか。心神喪失者は死刑執行ができないことが刑事訴訟法で決められている。麻原の状況が把握できないままで終わったことはそこに影響してくる。「詐病」という人もあり、「精神疾患」という人もあり、「拘禁反応」という人もある。僕は判断する材料がない。多くの人は、教祖が何も語らないままに裁判が終わったことに納得できていない。しかし、それでも麻原を教祖と仰ぐ人もいる。このまま謎を抱えたまま死刑執行することがあれば、時間が経てば「殉教者」視する人が出てくるのは間違いないと思う。国家権力が強権的に裁判を打ち切り、教祖の命を奪ったと思い込む人々である。時間が経って当時のことを知らない人が出て来れば、何でもありうるのだ。僕は麻原彰晃という人物は、事件を何も語らなかった「ただのひと」として、終身拘禁され続けるというのがその身にふさわしいと考えているのだが。
政治的な背景がある事件も、宗教的な背景がある事件も、事件としてはただの刑事事件というのは確かであるが、やはりただ裁判をやって厳罰にすればいいという社会では奥行きが狭まる感じがする。カルト犯罪にどのように対処すべきかという点から考えると、あまり重要なものが残らなかった裁判だろう。もちろん裁判はそういう役割とは違うことも確かだが。
「オウムは危険」、だから危険そうな新興宗教や危険そうな政治団体には関わらない、自分の主張はどうせ通らないから主張しないし、心の解放は求めない。ガマンできる限りは一人でガマンし、できなくなったら一人で辞める。そういう社会になってしまった気がする。