尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

比例区だけでいいー参議院を考える②

2012年01月31日 23時19分03秒 |  〃  (選挙)
 さて、政治問題を論じるにあたり、参議院のことから書き始めた。これはあまりない議論ではないか。政府や政党や政策を論じる。選挙を考えるとしても、まずは違憲判決が出ている衆議院の選挙制度改革から考える。それが今の議論の中心で、参議院改革の話をしている人などほとんどいないと思う。しかし、僕は参議院をどうにかしないと何回総選挙をしても「ねじれ」が続くだけで不毛だと思っている。今は「ねじれ」の現実を前に、話し合いのルールを作るのではなく、次の選挙で多数を取ることが目標となり、妥協できなくなってしまう。それが続くのはどうなんだろう。

 では、どうするんだと言うと、憲法改正まで考えると、一院制にしてしまうのも一つの手である。しかし、それは難しいだろうし、二院制の良さもある。(参議院をなくす憲法改正案を参議院で3分の2以上で可決するのは不可能でしょう。)二院制の良さと言うのは、一つにはもちろんチェック機能である。今までは自民党中心の内閣がほとんどだったから、89年、98年、07年に参議院選挙で自民党が大敗して、宇野内閣、橋本内閣、安倍内閣(選挙からは少し時間があったが)が総辞職したのが、国民のチェック機能が実現したかのように思ったのである。でも、政権交代がおき、その後に再び「ねじれ」になった今となっては、次に衆議院で自民が勝っても参議院で多数が取れない(公明と組んでもダメ)という現実が大きな問題として浮上したわけである。

 今、政府・民主党が悪いと言う声が高い。一方、自民党も政策論議をせず解散せよ一辺倒で困ったもんだと言う人が多い。「維新の会」が候補を立てると勝つのではと言う人もいる。しかし、新党が大勝利しても参議院の議席がない。それでは政治が進まないのは同じなのである。結局、日本の政治システムには不具合があったという考え方を僕はするようになった。だからスペインのように両院を同時に選挙すればいいわけだが、参議院3年ごと半数改選は憲法で決められている。

 ところで、2010年の参議院選挙は、民主党が敗北したと言われている。鳩山内閣が普天間問題で支持率が下がり、参院選を控えて求心力が失われて総辞職した。菅副首相が昇格して支持率がアップしたので、菅内閣で参議院選挙を早めて実施した。ところが選挙中の消費税発言などが混乱を与え、選挙では敗北した。と言うことになっている。しかし、この参議院選挙で民主党は、必ずしも負けていない。比例区では1845万票で16議席を獲得して第一党。自民党は1400万票で12議席である。公明党が6議席だから、自公合わせれば民主を上回るが、あまり差はない。それどころか、選挙区を見ると、民主党が2275万票、自民党が1950万票、公明党が226万票だから、民主は自公を100万票も上回っている。ところが地方の1人区で「8勝21敗」と大敗したために、全体で自民が51、民主が44という結果になったのである。07年は民主が「23勝6敗」だったから、確かに前と比べれば民主は負けたのである。しかし、全体では得票が多いのに議席としては少ないというのは、問題ではないのか。つまり「一票の格差」があるために、民主党は敗北したとも言える。これは何党を支持するかという問題と別にして大問題ではないかと思うわけである。

 今、僕が思うのは、6年間任期があって解散がないということを考えると、参議院は比例代表だけの方がいいのではないかということだ。選挙区をどういじろうと、一票の格差を2倍以内にすることは参議院では難しい。では、思い切って選挙区をなくし、比例区だけにしてしまう。参議院議員は100人もいれば十分ではないか。アメリカの上院議員だって、あれだけ広い国土で人口3億人なのに、たった100人である。急に選挙区選挙をなくすのも大変だというなら、比例区の議員をもう少し多くしてもいいだろう。国会議員の削減と言う話には、衆議院の場合、僕は反対なのだが(それはまた別に書く)、参議院を比例区だけにするという削減ならいいのではないか。

 ちなみに、現在の比例区だけの議席数は以下の通り
 民主 36(離党表明、除名の横峯議員を含む)
 自民 26(「たちあがれ日本」2名を含む。同じ会派に所属)
 公明 13
 みんな 7
 共産  6
 社民  4
 新党改革
 国民新党
 無所属 1
 
 横峯議員は今日現在の参議院のホームページで「民主党・新緑風会」の会派に入っているので、そのままにした。無所属の1人は尾辻秀久副議長で党籍離脱中なので、本当は自民がもう一人多い。

 さて、これを見ると、どうやっても過半数を獲得する組み合わせができない。自公に、もとは自民の「改革」(舛添要一と荒井広幸)と「みんな」まで入れても、尾辻氏を入れて49。一方、民主、国民新に社民を入れても42。結局、「みんなの党」や共産党がどっちに入れるかで決まる可能性が高い。そもそも比例区で単独過半数を得た政党は今までにない。2001年の小泉旋風の時の自民が20、86年の中曽根同日選の自民で22(これが過去最高)、07年の民主が20議席である。国民の投票を比例で正確に(死票なしに)反映させれば、そうなるのである。それが現実なので、そういう現実に基づく議会構成にして、政党が知恵を絞るのがいいと思う。
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上院が強すぎる-参議院を考える①

2012年01月31日 00時50分31秒 |  〃  (選挙)
 政治に関して書くと言いつつ、「解散不可論」を書いてそのままになってしまった。最近は「アートざんまい日記」と改題した方がいい感じ。
 
 さて、ここ5年間毎年総理大臣が替わっているそれは何故かということをどう考えているだろうか?政治家が悪い、政党が悪い、そもそもどの世界にも大物がいなくなり小粒な人材しかいなくなった、などいろいろ言われるけれど、僕は日本の政治システムの根本的な問題があらわになった、と受け止めている。

 最初に簡単に書いてしまえば、「上院が強すぎる」のである。世界の議院内閣制の国で、こんなに強い上院を持っている国は他にない。日本がこんなに総理大臣が替わっては国益を害すると言う人がいる。アメリカもロシアも替わらない、韓国や中国やインドネシアやフィリピンなど日本の周りの国も替わらないなどと言う人がいるけど、大統領制の国や一党独裁の国と比べても仕方ない。大統領制の国は、行政の最高責任者を国民が直接選び、法案の拒否権など強大な権限を持っていることが多い。だからアメリカもオバマ大統領が(とりあえず一期目)4年間は務めるが、下院は野党共和党が多数なので大統領提出の法案がなかなか通らない。その意味では日本と同じような状況にあるが、大統領は議会の信任を必要としないので辞めることはないだけである。

 ところで、今書いた「下院」は「かいん」と読むが、アメリカは「上院」もある。上院は50州×2=100人で、任期は6年。2年おきに、3分の1ずつ改選して行くと言う不思議な制度を取っている。世界では「一院制」の国も多いが、議会政治の始まったイギリスでは上下両院がある。下院は国民が選ぶが、上院は貴族が議員になる身分制議会である。今でもそうで、改革論も根強いようである。なお、貴族がなるということで、歳費は出ないらしい。今では政治的決定は下院が優先することが決まっていて、上下両院が「ねじれ」を起こすということはありえない

 日本で議会政治が始まった時は、「衆議院」と「貴族院」だった。戦後の日本国憲法で、貴族院が参議院に変わった。この歴史的経緯から、「衆議院が下院」で優越する(下院が優越するというのが世界的に議会政治のルールである)ということになる。だから、衆議院で多数を取らないと、総理大臣を出せない。しかし、貴族院が参議院に代わり民選になって法案審議で(ほぼ)同格の権限を持っている。ほぼと書いたのは、衆議院で3分の2で再可決すればいいと言うルールがあるからだが、そんな多数を与党が持っていることは少ない。小泉郵政解散で自公両党で3分の2を持っていて、ガソリン税問題などで福田康夫内閣が再可決したのは記憶に新しいが、でも野党は参議院で福田内閣問責決議を通してしまった。法的には拘束力はないけど、結局行き詰った福田内閣は総辞職することになる。

 今も野田内閣が行き詰まりを見せているように思うが、それもこれも参議院で多数を持っていないと言うことにつきる。そんな参議院ならもう一回参議院選挙をやればいいと言いたいところだが、参議院は解散がなく、任期6年が保証されているわけである。これは憲法で決まっていることなので、簡単には変えられない。2011年秋にスペインで選挙があり、社会民主党内閣から国民党内閣に替わった。スペインは王家がいる議院内閣制国家で国会は二院制。だけど、上下両院とも任期4年で、去年も同時に選挙をやった。だから大体同じような結果が出る。イタリアは大統領制だが、大統領は名目的存在で、政治システムは議院内閣制。上下両院があるが、ここでも両方一緒に選挙する。(選挙制度が少し違う。)

 こういう風に、民選の上下両院がある国では、両方とも全議員を一斉に選挙するのが普通である。日本みたいに半数ずつ改選では、民意が変わると「ねじれ」になる。それは最低3年間は変わらない。というか6年前の民意に縛られてしまう。なんでこんな制度なんだろう。僕はよく知らないんだけど、戦後の新憲法制定時にアメリカの上院選挙のやり方が入ってしまったんではないだろうか。でもアメリカは大統領制の連邦国家だからいいけど、日本のような議院内閣制国家ではマイナス面がある。ただし、長いこと自民党中心の内閣が続いたため、考える必要がなかったということなんだと思う。
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映画「ヒミズ」

2012年01月29日 00時40分12秒 | 映画 (新作日本映画)
 園子温(その・しおん)監督の話題作「ヒミズ」を見た。主役を演じた中学生役の染谷将太二階堂ふみが、ヴェネツィア映画祭でそろって最優秀新人俳優賞(マルチェロ・マストロヤンニ賞)を受賞した。古谷実の原作漫画を震災下の物語に書きなおして撮った作品で、異様な熱気が作品全体をおおっている。プログラムの佐藤忠男さんの言葉を引用すると「ちょっと見たことがない激烈な感情のほとばしる映画」である。そして「はじめから終わりまでずっとクライマックスが続いているような映画」であると言う。「そんなことは不可能だというのが映画でも演劇でもドラマづくりの常識として確立されてきている。ところがこの『ヒミズ』の園子温は、俺は園子温だ、俺は別だ、とばかり」に作ってしまった。

 園子温監督と言う人は、詩人やパフォーマーとして出発し、長いことインディーズで自主映画を作っていた。一種のデモである「東京ガガガ」時代の詩や写真は、ホームページに残っている。2008年の「愛のむきだし」が4時間にもなる超大作で、ベルリンで受賞、国内でもベストテンに入選して、映画界での地位を確立したと言える。昨年来「冷たい熱帯魚」「恋の罪」と問題作を連発している。僕もかなり意識して評価もしているんだけど、では多くの人に勧めるべき映画かという点で、少しためらいを感じて、ブログでは書かなかった。何しろ、連続殺人や性を主題にした熱すぎる物語が画面全体に展開されていて、「フツーの人」が間違ってみると途中で映画館を出たくなるかもしれない。

 テーマの問題性と画面いっぱいのスピード感、熱さは、この映画でも共通というか、一番ヒートアップしているかもしれない。それは「震災」のガレキの山、テレビ画面から流される原発事故を報じるニュース映像などの「力」も大きい。2011年5月の設定だが、あの頃の日本に満ちていた衝撃と喪失感、連帯感と同時に、「ウソに囲まれていた日常」がむきだしになった社会が映画の基盤のところにある。テレビの中で宮台真司が出ている場面があるが、「終わりなき日常」ではなく、「終わりなき非日常」を生きざるを得なくなった現代日本を暗示しているのだろう。

 「普通に生きたい」を信条にして、親の貸しボート屋を継ぐことを願っている住田祐一、住田を慕い「住田語録」を壁にはっている同級生の茶沢景子。この二人が主人公。震災に襲われ津波で家を失った人々が、テントをはって住んでいる池のほとりのボート屋。父親は借金600万がサラ金にあり、時々帰ってきては子供に暴力を振るう。母親は男を作って家出する。ヤクザが金取りに来て暴力を振るう。学校にも行けなくなるが、そこに毎日のように景子が現れ、ボート屋のチラシを作ったりする。景子の家庭もおかしい。そういう設定の中で、「暴力」にさらされる二人の中学生はどうなるか、二人の関係はどうなるか。はっきり書けば、この熱い映像空間は、何らかの「犯罪」によらなければ進展しないのではないかと思われるが、それは一体どんなものであるか。展開への関心・興味で目が離せない。2時間半以上の映画だが、長いと言う感じは全くしない。

 この映画の二人の主人公は、親から「呪いをかけられた」存在として描かれている。親はもっとも身近な存在として、子供に呪いをかけやすいが、この映画では「存在」自体がうとまれている。あまりにも過酷な運命を背負った二人に、「普通の幸せ」は訪れるのだろうか。この二人の運命は、震災と原発事故という「呪い」をかけられた日本社会に希望はあるのかという暗喩のように思われる。

 ラストのあり方を含めて、この映画が成功しているのかどうか、傑作と言うべきなのかどうかは、実は僕にはまだ判断がつかない。物語に圧倒されたと言えるだけ。「問題作」であることだけは間違いない。だから多くの人に見てもらいたいと思う。この映画を超える映像に今年出会えるだろうか。もしかしたら、今年のベストワン映画を早くも見てしまったかもしれない。もう少し時間が立ってから再見したいなと思う。ただ言えることは、この物語は心の奥深い所をつかまえる力を持っているということだ。
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見上げてごらん夜の星を

2012年01月28日 00時00分37秒 | 演劇
 「見上げてごらん夜の星を」と言う曲は、多くの人が知っていると思う。だけど、この曲の由来を知っているだろうか?
今、アトリエ・フォンテーヌ(麻布十番)で公演中のミュージカルを見たので、この機会に書いておきたい。公演は31日まで。(前売り券完売)


 「ミュージカル」というものが当たり前になった現在だけど、半世紀くらい前はアメリカ映画の一ジャンルとしては知られていたけど、日本語でミュージカルをやるなんていうことはなかった。日本の大衆演劇や映画の中には、歌入り芝居はたくさんあったけど、セリフを洋楽に乗せるということはできないと思われていたのだ。オペラやミュージカルやロックが日本語でできるかということは、マジメな論争になるような問題だった。

 だから「和製ミュージカル」という言葉があった。その最初期の作品が「見上げてごらん夜の星を」で、1960年7月に大阪で上演された。作・演出が永六輔、音楽がいずみたく、美術がやなせたかし。永六輔といずみたくは、20代だった。その後、1963年に坂本九主演で再演され、映画化もされた。だから歌も坂本九で記憶され、坂本九が初演だったと思い込んでいたが、今回のプログラムで最初は伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ出演と知った。そのミュージカルの主題歌がタイトルソングの「見上げてごらん夜の星を」で、日本のミュージカルが生んだ唯一のスタンダード・ナンバーである。今回は30年ぶりの上演で、いずみたくが作った劇団「イッツ・フォーリーズ」の公演。最後に「いずみたくメドレー」があるが、コマーシャルを含めて知られている歌がいかに多いか。「夜明けのスキャット」もそうだったんだ。

 ということもあまり知られてなく、単に坂本九のヒット曲と思ってる人が多いだろうけど、このミュージカルの内容こそ、多くの人に知っておいて欲しいところである。1960年、安保闘争の年。岸内閣が退陣し池田内閣の「所得倍増政策」が始まる。高度経済成長の始まりである。そんな中で、日本はまだ貧しく、働きながら夜に定時制高校で学ぶ若者が一番多かった時代である。その定時制高校を舞台にした物語が、「見上げてごらん夜の星を」なのである。だから、恋人たちの歌かなんかだと思って歌っていた人が多いと思うけど、これは夜に苦学する若者たちを励ますための歌なのである。

 映画版も見たことがあるが、今からすると、あまりにも素朴な全定の生徒間交流がちょっとついていけないかも。それはそれとして、60年代の若者群像の記憶として貴重だと思う。なお、映画では東京スタジアム(荒川区南千住にあった大毎オリオンズの本拠球場。大毎というのは映画会社の大映と毎日新聞社のことで、69年にロッテとなった。)がいっぱい写されているという貴重なフィルムである。

 現在の夜間定時制高校は、不登校経験者、障がい生徒、ニューカマー外国生徒などが多くなり、昔と様変わりしているが、教育の「セーフティ・ネット」としての重要性が高まっている。映画では、2010年に公開されて評判となった記録映画「月あかりの下で」がある。各地で上映があり、東京では2.24に板橋、2.25に新宿で上映会がある。ホームページ参照。なお、「見上げてごらん夜の星を」のプログラムの中に、定時制高校に関して、六本木高校T先生のインタビューが掲載されているので、是非ご一読を。
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追悼・テオ・アンゲロプロス

2012年01月27日 00時18分14秒 |  〃 (世界の映画監督)
 ギリシアの映画監督で、世界的な巨匠テオ・アンゲロプロスが、24日、交通事故で死去。76歳。

 全く!ギリシア人は何と言うことをしてくれたのだ。ただでさえ、ギリシア発の経済危機で世界を揺るがせていると言うのに、アンゲロプロスをバイクではねるなんて。と八つ当たり気味のことを最初に思った。80年代にタルコフスキーやトリュフォー、トルコ(クルド人)のユルマズ・ギュネイらが相次いで亡くなって以来、映画の世界で注目すべき作品を作り続けた巨匠と言うべき人は、アンゲロプロスぐらいだったではないか。もちろん、50年代に出発したアンジェイ・ワイダやアラン・レネが生きている。でも、思想的、映像的に次回作が注目される、次回作が頂点かもしれない映画監督って、他に誰がいただろう?

 1979年に岩波ホールで「旅芸人の記録」が公開されたとき、僕も含めて、皆、驚天動地というべき感情を味わったと思う。ギリシア現代史を背景にして、4時間にも及ぶ、ほとんどロングショットばかりの静かな映画。でもその静けさの中に、歴史に翻弄された現代人の愛と怒りがいっぱい詰まっていた。圧倒的。その一言につきる。いや、判らないことが多すぎた。ギリシア現代史を行き来する複雑な構成は、途中で人間関係が把握できなくなってくる。日本だったら、「リンゴの歌」が流れれば戦後の闇市みたいな、同国人ならすぐ判る同時代を生きた証が多分あるんだと思う。それに、登場人物がアガメムノンだのエレクトラだの、ギリシア悲劇なのかという名前が(もちろん意識的に)付けられていて、そんな名前が今でもあるんかいな。などと思いながら、暗いギリシアの風景を見つめていた。4時間もあるので、なかなか再見できなかったけど、数年前にようやくまた見た。やはり判らない。けど、傑作傑作だということはよく判る

 長すぎるし、暗すぎるし、テーマが重い。「旅芸人」がベスト1になったから見たけど、以後はもう敬遠して見ないと言う人がいる。それはもったいないなあ。岩波ホールでやった「アレクサンダー大王」は、「旅芸人」に匹敵する傑作である。紀元前の話ではなく、19世紀に現れ大王を名乗った義賊の話で、現代史じゃない分、こっちの方が判りやすかった。

 以後、(今はなき)「シネヴィヴァン六本木」や「シャンテ・シネ」ができたおかげで、アンゲロプロスはほとんど日本公開されてきた。「シテール島への船出」「霧の中の風景」「こうのとり、たちずさんで」「ユリシーズの瞳」「永遠と一日」「エレニの旅」と日本でも大きな評価を得た作品ばかりである。少し遅れて公開された「狩人」「蜂の旅人」も後で見たから、僕は日本で公開されていない初期の作品以外、長編は全部見ている。個人的には、「ユリシーズの瞳」「永遠と一日」が中でも傑出していると思う。

 ギリシアでも「子供を寝かせたいなら、アンゲロプロスを見せろ」と言われているらしい。タルコフスキーのように、眠くなる時もあると言えばあるけど、映像の緊張感が続くので、すごいものを見ているという意識は途切れない。僕はこれが映画だと思う。転換が早い映画もいいけれど、世界と歴史を見続けていく映像の緊張感は忘れがたい。

 ギリシアと言えば「エーゲ海の真珠」かと思うと、北の方は寒く雪に閉ざされた冬があるということを、アンゲロプロスの映画が教えてくれた。これでは観光にならないし、いつも暗いと敬遠する人も確かにいるだろう。それと左右対立の激しかった現代史。考えて見れば、ギリシアの北は、アルバニア、旧ユーゴスラヴィア、ブルガリアだから、冷戦時代は「社会主義国」との前線国家だった。大戦中はナチスに占領され、イギリスに亡命した王室・政府とソ連の影響下にあった共産党が、戦後も争い続けた。隣国のトルコは同じNATO加盟国だったけれど、イスラム教国でキプロスをめぐって対立関係にあったので、ギリシア現代史は厳しい綱渡りを続けてきた。60年代末から70年代にかけては軍事政権の時代があった。そういう現代史の闇を抱えた国だったのである。

 まあ、亡くなってしまった以上は、もとに戻ることはできない。残されたものが頑張っていくしかないわけである。スペインのペドロ・アルモドバル、セルビアのエミール・クストリッツァ、ベルギーのタルデンヌ兄弟、フィンランドのアキ・カウリスマキらに頑張ってもらうしかない。僕はヨーロッパの小国の映画作家が大好きなのである。

 なお、いずれ読めると思うんだけど、多くの人がそう思ってるように、僕も池澤夏樹の追悼文が待ち遠しい。アンゲロプロスの字幕は、すべて池澤夏樹が付けてきた。芥川賞を取るずっと前から。僕らは池澤夏樹を通してテオ・アンゲロプロスの世界に接してきたのだ。
(追記:池澤夏樹氏の追悼文は、1月31日付朝日新聞に掲載。必読。)
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ベスト・オブ・山種コレクション-絵を見に行く⑥

2012年01月26日 01時00分59秒 | アート
 六本木高校で「人権」の授業に出て、夜はアトリエ・フォンテーヌで、イッツ・フォーリーズ「見上げてごらん夜の星を」を見る。(31日まで。)もう遅いので、夜の話は後で。その前に、広尾にある「山種美術館」の「ザ・ベスト・オブ・山種コレクション」(2.3まで)を見に行った。前後期あって、前期も見たけどブログには書かなかった。最近絵の話を良く書いてることもあるけど、あまりに素晴らしい一品揃いなので、後期は簡単に紹介。広尾から六本木まで歩いたので、なかなかいい散歩。

 山種美術館というのは、山種証券(現・SMBCフレンド証券)の創始者である山種二(1893-1983)のコレクションを集めたものだけど、山種証券と言う会社も名前が変わって、判らない人も多くなっているかも。昭和期に活躍中のそうそうたる現役日本画家と個人的に知り合いで、直接頼んだりしてすごいコレクションを作った。僕は昔切手コレクターで、近代美術シリーズの記念切手を全部持ってるけど、そこに選ばれた絵の実物がいくつも山種にある。それらを含む、なかなか一堂に展示されないスグレモノばかりを展示しようと言う今回の企画は見逃せない。

 前期は、浮世絵の元祖、岩佐又兵衛官女観菊図》〔重要文化財〕(ちなみにこの人は信長に背いた荒木村重の子供である)、近代日本画の竹内栖鳳班猫》(はんみょう)〔重要文化財〕、村上華岳裸婦図》(切手になってる)、速水御舟名樹散椿》〔重要文化財〕などが目玉だった。重文そろい。言うまでもなく、近代絵画では国宝はまだないから、重文指定が最高ランクである。
 (村上華岳「裸婦図」)

 後期は、まず洋画が出ている。日本画で知られた山種だが、佐伯祐三は素晴らしいではないか。日本画になると、別室展示で目玉の速水御舟炎舞》〔重要文化財〕。これも切手になってるけど、実物は言葉に表現しようもなく素晴らしいですね。福田平八郎》(たけのこ)も切手になった。
 

 他に名品はいくつもあるけど、東山魁夷年暮る》は冬の京都を描いて心に沁みる。はっきり言って魁夷作品は似たような感じで多数あり過ぎて、若い時に最初に見ると心をとらえるんだけど、セルフ・リメイク感を感じるときも多い。でも、川端康成に今京都を書いておかないとと言われて書いたこの作品は素晴らしいと思う。


 他に、岩橋英遠(文化勲章受章の日本画家)の「」(えい)の素晴らしさ。横山操(新潟出身で洋画に近いような作風で力強い日本画で知られた)の「越路十景のうち 蒲原落雁」(かんばら・らくがん)は忘れられない素晴らしさ。他にいくつも名品が並んでるので、是非見るべし。
 
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「北京故宮博物院200選」展-絵を見に行く⑤

2012年01月24日 00時00分30秒 | アート
 関東地方はただいま降雪中。乾燥注意報が一月以上続いた後で、今度は先週金曜日から寒い雨の日が続き、ついに積雪になりました。寒いのでパソコンのある部屋になかなか行きたくない。でも、関東地方の場合、晴れの連続が崩れて、寒い雨の日が何回か訪れるごとに春が近づいてくるのです。

 そういう寒い日に、上野の国立東京博物館で「北京故宮博物院200選」を見てきました。エッと思う人もいるでしょう。国立博物館は月曜日休館じゃないの?そうなんですね、今日は休館日。でも、主催の朝日新聞社の会員サイト、アスパラクラブで募集していた「休館日の特別招待」ってのに当たったわけです。最近いろいろネットやハガキで応募しているけど、全然当たらない。でも腐らずに応募を続けていて良かった。

 今回は、24日まで公開の神品「清明上河図」(せいめいじょうがず)がすごいと言う話。でも全然知りません。大体、清(しん)や明(みん)の時代の風俗を描いた絵かと思っていたくらい。これは宋代の絵で、1000年近く前の絵でした。ちょっと小さくて、画面も古いから暗い。でも、驚くほど長くて、ものすごく長い絵巻物でした。日本の「洛中洛外図屏風」みたいなものかと思ってたら、スケールがけた違いの逸物でした。縦24センチながら、全長5メートル。773人の人物が描かれているというすごさ。犬やロバ、ラクダまでいます。北宋の都、開封の光景を描いたものだそうです。確かに素晴らしい。
 

 長い絵巻物は、他にも出ています。特にすごいのが、時代はずっと下って、「康熙帝南巡図巻」の11巻と12巻。色彩がぐっと明るく、皇帝の巡行図だということもあり、国家的行事のすごさが伝わってきます。あまりにも長いのでビックリ。さすがに迫力が違うな。

 中国では国宝を「一級文物」というらしいけど、もう「一級文物」だらけと言う感じ。はっきり言って「書」は全然わからない。貴重だなと思ったのは、ほとんど日本に伝わらなかったという「元代文人画」の素晴らしさ。最初のコーナーの見所はそれでした。

 そして「清明上河図」が大々的に展示され、第二展示室になると清朝の文物が展示されています。そこでは絵もあるけど、工芸品が多数出ています。また、乾隆帝の肖像画がいくつか出ていて、それがすごい。イタリアの宣教師、ジュゼッペ・カスティリオーネの描いたものです。だからヨーロッパの技法で描かれたものですが、中国では18世紀に皇帝の肖像画をヨーロッパ人が描いていたのか。それ以外にも、乾隆時代の工芸コレクションの素晴らしさに驚くばかり。

 僕は日本史が専門なので、世界史を教えたこともあるけど、中国文化史の知識は少ない。そのことを思い知らされました。大体、古い時代の文化では、日本以外ではヨーロッパのことしか知らないのが日本人の大分でしょう。ルネサンス時代の画家の名前は知っていても、中国の画家の名前は一人も知りません。小説や詩人を知ってるだけで、美術の分野は弱いな。なお、英語で「china」と言えば「陶磁器」、「japan」と言えば「漆器」ですが、中国でも日本の漆器が喜ばれ、模倣品も作られたと出ていました。日本美術では、工芸品は中国文明に伍していると思うけど、絵画の分野ではもとになる社会のスケールの違いを反映しているのかなと思った次第。

 混んでいるような展覧会は実は敬遠したくて、これも前売と買ってなかったんですが、観られて大変勉強になりました。2月19日まで。「清明上河図」は1月24日まで。その後は複製展示だそうです。
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舞台版・東京物語

2012年01月20日 00時28分07秒 | 演劇
 劇団新派が「東京物語」を上演している。小津安二郎監督の映画の舞台化で、山田洋次の脚本、演出。2年前にやはり小津の名作「麦秋」を新派で舞台化している。その時は見ていないが、今回は三越劇場に見に行った。劇場も、新派の公演を見るのも初めて。映画の「東京物語」は昨年、30数年ぶりに見直してこのブログにも書いている。(聖「東京物語」、36年ぶり)。そのような経緯があって、舞台も見たくなったのである。今年初めての観劇。

 映画と一番違うのは、場所が長男の家に限定されていること。これは動かせないセットを作る必要上の工夫で、映画のようにカメラが動き回ることができない以上、すぐれた着想である。だから、老母は長男の家で倒れて亡くなることになっている。映画では香川京子が演じた尾道に残っている末娘はカット。大阪にいる三男が末息子で4人兄弟という設定。老夫婦が上京して子供たちを訪ねるが、実の息子・娘よりも、次男の妻が一番親切に応対してくれた、というストーリーの根幹はもちろんそのまま生かされている。

 新派の二枚看板は水谷八重子波乃久里子だが、水谷八重子は映画で東山千栄子が演じた母親、波乃久里子杉は映画で村春子が演じた長女を、それぞれ演じている。杉村春子と波乃久里子の演技の質は少し違う。杉村春子はきつい実務的タイプを自在に演じているのに対し、波乃久里子は「可愛い女」タイプなのでセリフで強い調子を出している。水谷八重子の母親役は立派で映画よりもいいかもしれないが、東山千栄子のふくよかで丸い感じは薄れている。別に映画と比べるだけが大事なわけではないが、映画と舞台、それぞれ日本を代表する名優が演じているので、どうしても考えてしまう。

 しかし、この物語には母と長女よりも、父と次男の妻の方が大事である。父親の安井昌二は新派を支えてきた名男優だけど、笠智衆のとぼけた味わいは求められない。もっとまじめな感じになってしまう。映画で原節子が演じた役は新派の若手幹部瀬戸真純。ずいぶん頑張っているけど、原節子の聖なるイメージは求められないのは仕方ない。

 次男の妻(紀子)は出身が石巻とされている。これは映画にはない。他のセリフには関係してこないけれども、東日本大震災をイメージした設定ではないか。紀子と言う役は「死者を忘れない」という設定を求められている。また、長男の家は映画では、足立区と墨田区の堺のあたり、東武線堀切駅あたりと推定されている。(川本三郎さんによれば。)それが葛飾区金町に変更された。だから近くの川は荒川ではなく江戸川になる。この変更はよく判らない。柴又に近づけたサービスかな。

 映画との違いばかり書いているが、物語が同一である以上、仕方ない。舞台の方が素晴らしいのは、長男の家のセットで、舞台美術の力。舞台と言う閉じられた空間があって、そこに生身の俳優を出し入れする醍醐味。一方、熱海の温泉で眠れなかったシーンなどが、セリフでしか表現できない。もちろん劇場と予算があれば、裏が熱海の温泉旅館になっている回り舞台を作ることもできるが、ごく少ないシーンのためにそこまではできないだろう。でも映画では熱海が出てくるので、語る必要もなく映像で二人のいらだちが伝わる。

 「死者を忘れずにいることの意味」という、この物語の根幹のテーマに関しては、もう知ってて見ているし、原節子がスクリーンで語る映画に比べると、舞台は遠いのでどうも今一つ心に入って来なかった。戦争からずいぶんたって作られたということもあるだろう。「召集令状の赤紙が来た」というセリフがあるが、当時だったらこんな説明的なセリフでなく、単なる「赤紙が来た」で終わるだろう。それで判らない人はいないのだから。時間が経って、過去の物語を舞台化することは難しいなと感じた。名優の安定したアンサンブルを見る愉しみは充分味わえるのだけど。
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「君が代訴訟」の最高裁判決を考える

2012年01月18日 23時20分13秒 |  〃 (教育行政)
 東京は晴れてはいるけど、晴れすぎでカラカラ。乾燥注意報が一月以上も続いている。寒い日々の中でも、風も強くことさら寒かった16日(月曜日)に、「君が代不起立処分取り消し訴訟」の最高裁判決(第一小法廷)があった。3つの訴訟がまとめて同じ日にあったのだが、1時半と3時半にあったうち、1時半の方の傍聴に当たった。最高裁に入ったのも30年以上前のことである。

 せっかく傍聴もできたということで報告しておきたいと思ったが、最高裁判決は理由を言わないので、「主文」だけ聞いていても何だかわからない。今回は「一人は処分取り消し、もう一人は処分容認」という判決だったが、せっかく最高裁で傍聴しても理由がわからないのである。現在、判決文がネットで探すと読めるので、それを読んで判断の細かい中身がわかった。

 マスコミの報道ぶりを見ると、二人ほど停職処分が取り消しになったケースがあるので、「重い処分に一定の歯止め」という受け止め方が多いようだ。僕には、あまり納得できないが。

 経緯を簡単にまとめておくと、「10.23通達」の後で大量の処分があり、多くが裁判になった。そのうち、先行した裁判で昨年の5月、6月に、最高裁各小法廷で「起立を命じる職務命令は合憲」という判決が出た。年末に、2審東京高裁で「処分取り消し」判決が出たケース2例で、弁論が行われた。それだけなら「処分有効」の逆転判決が出るだろうと予測できるのだが、高裁で「処分容認」判決だった裁判でも弁論が開かれた。原判決を変更するときは必ず弁論を開かねばならないと決められている。現在、「死刑判決事件」だけは、慎重を期すために必ず弁論をすることが慣例となっている。しかし、それ以外の事件では、原判決を維持する場合、まず弁論は開かれない。弁論の日時を入れる連絡が最高裁からあれば、高裁の判決が変わる合図になっていると言える。

 ということで何が変わるのかが焦点なのだが、昨年の判決と第一小法廷のメンバーは変わっていない。多数意見(命令合憲、処分容認)が4人(内、一人が補足意見)、反対意見(処分取り消し)が一人である。従って、判決の基調が「処分容認」になることは決まっていたと言える。しかし、前回は補足意見がなかった桜井龍子裁判官(元労働女性局長、行政官出身)の補足意見が今回は付いた。「加重処分の機械的な運用自体が問題」という意見である。今回裁判長の金築誠志裁判官(裁判官出身)は前回「対立の影響を防ぐために、慎重かつ賢明な配慮が必要」という補足意見を書いていた。全面的に処分反対の宮川光治裁判官(弁護士出身)は今回も反対意見を書いている。

 そういう勢力配置の中で、「戒告は認める、停職は取り消す、前の処分歴を考えて停職を取り消さない場合もある」という多数意見が成立していったものと思う。いわば、「妥協」である。「合憲だから戒告はいいけど、停職は重すぎるんじゃないですか、というあたりで、どう?」という感じ。でも、その結果、KさんとWさんの停職は取り消されたが、Nさんの停職は認められてしまった。(関係者には周知の名前だが、一応イニシャルで。)僕にはそれが判らない。いや、戒告ならいいと言うのもわからないのだが、それは昨年の判決で決まっていたという意味では驚きはない。

 Kさんの停職は重すぎて取り消すというが、今回のケースでNさんとKさんは卒業式で「国歌斉唱時に不起立」で内容が変わらない。全く同じ。Nさんの場合は、過去の処分歴を見て、停職処分を容認したのである。「10.23通達」以前から、中学校で日の丸を降ろしたり、学級通信で経緯を伝えたりして処分された過去があるから、「停職処分も認められる」という。どうもよく判らない。過去のケースは、その時の処分で終わっているはずである。不起立以上の行為が前にあるから「加重処罰」が認められるという論理が通るのか。今回の裁判で問題になった行為だけを見て判断するのでなければ、矛盾するのではないか。宮川裁判官反対意見は、そのところを主張してNさんの場合も「戒告でも重い」と言っている。それが正しいのではないかと思う。

 ところで、東京都教育委員会の「教職員の主な非行に対する標準的な処分量定」には、「2 処分量定の加重等 過去に非違行為を行い懲戒処分を受けたにもかかわらず、再び同様の非違行為を行った場合は、量定を加重する。」と明記された項目が存在する。都教委は都教委なりに、自分たちで決めた決まりに基づいて、加重処罰をしているのである。結局、この規定自体が問題なのである。

 そして、宮川反対意見書を引用すると、「上告人らは地方公務員ではあるが、教育公務員であり、一般行政とは異なり、教育の目標に照らし、特別の自由が保証されている。」という判断に全面的に賛成である。もっとも少数意見に過ぎないのであるが。最高裁判決に昨年来ついた補足意見をみると、「対立の影響を防げ」とか「寛容の精神が必要」とか「教育関係者の相互理解と慎重な対応が必要」などの意見が、多数判決の中にも多い。それらが今回の「停職取り消し」につながっているのだと思う。しかし、この対立を学校に持ち込んだのは都教委の方である。初めから、反対派が多数にのぼることが判っていて、反対派を大量処分して「長年のガン」(某教育委員の発言)を一掃しようという策謀なのである。だから、都教委のねらいを批判しなければ、東京の学校に教育の自由は戻って来ないだろう。

 大阪の条例の問題や、この問題そのものに関する自分の意見などを書きだすときりがないので、今回の裁判の話だけで終わることにする。
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「神戸」を映画で考える

2012年01月17日 23時58分09秒 | 映画 (新作日本映画)
 東京・大森に「キネカ大森」という映画館があって、3スクリーンがあるうちの一つで昨年から「名画座」を始めた。(2本立てで様々な映画を上映する。)そこで今、「劇場版・その街のこども」と「実写版・火垂るの墓」を上映中。金曜まで。

 これは、阪神淡路大震災と神戸大空襲を描いた映画の組み合わせで、一本だけなら見なかったかもしれないけど、2本重なると見たくなり今日行ってきた。企画の勝利。もちろん、阪神淡路大震災に合わせての企画だろう。

 「劇場版・その街のこども」は、2010年、大震災から15年たった神戸の夜の街を歩く二人の若者を追う映画。それは俳優が演じていて、森山未來佐藤江梨子が偶然神戸で出会って、朝の公園での追悼行事に向けて歩く。森山未來は実際に大震災を経験していて、その体験なども織り込まれているという。森山の演じる男は、震災時は小学4年生。その後、東京に出て神戸は15年ぶり。佐藤の演じる女は、震災時は中学1年生。3年生までいて東京に出た。13年ぶり。親友を地震で亡くして、一度追悼に来たいと思いつつ、今まで来ることができなかった。と言う設定で、夜中歩き回る中で、二人の思いが交錯し、理解したり反発したり。当時の風景も出てくる。風景を見ると「復興」しているように見えるが、神戸を離れた人の中の心にまだ傷が残り続けている。2010年にテレビで作られたものを劇場用に再編集したもの。「3.11」前に作られているので、現在見ると、その点を見た側で補足して見ることになる。

 「火垂るの墓」は、野坂昭如の直木賞受賞作品で高畑勲のすぐれたアニメ版があるが、これは日向寺太郎監督の実写版。母親を松田聖子、親戚の女性を松坂恵子、神戸と西宮の町内会長を原田芳雄、長門裕之が「ちょい役」で出演するなど、なかなか大物が出ている。しかし、主役の中学生の男子と妹は知らない。「その街のこども」はオール・ロケだが、有名俳優が演じていることへの意識が抜けない。一方この作品は、主役の兄妹を知らないので、かなり同化して見られる。空襲終了後から始まるので、空襲そのものは出てこない。その後の人間関係の方が中心的に描かれている。静かな映画だったが、戦争と人間をじっくり描いて感銘深い。

 一度に大量の人名が失われるという出来事は、日本では戦争と震災だということを改めて考えさせられた。一人死んでも重大だけど、やはり「大量死」という問題は現代を生きるときに抜かせられない。「核時代」の本質に関することだから。まさに、1月17日に見た映画の記録
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南房総の温泉旅行

2012年01月16日 00時08分11秒 |  〃 (温泉)
 千葉県はあまり温泉がなかったが、近年はいろいろ温泉旅館が増えている。まあ、大体は循環なんだけど、いくつかは「源泉掛け流し」もある。(低温で加熱が必要な所ばかりだけど。)その一つの「安房自然村」の「不老山薬師温泉」というところに行って来た。この土曜日に安くなるプランを見つけたので、急な旅行。ネットで見つけたのが月曜日で、それからの計画だから、自分でも突然でどこに行きたいという考えもないまま。

 宿はともかく、料理は値段以上だったかな。風呂はホテルから外へ出なければいけないんだけど、こんなトンネルをくぐって行く。「メタほう酸、メタけい酸泉」という珍しい泉質で、茶色い湯。大きい方の湯船はこんな感じ。薬師温泉と名付けてるくらいだから効能があるような…。
  

 一日目、早く着いたから少し足を延ばして、野島埼灯台。もう四半世紀前に行ってるけど、灯台大好きなので。前はもう覚えてないし。下の海岸沿いは彫刻公園になっていて、なかなか面白かった。日曜日は自然村の中をハイキング、それから海の方へ出て砂浜を歩く。宿の真下が布良(めら)海岸で、ここは青木繁が昔訪れて名作「海の幸」を描いたところである。記念碑も立っている。布良海岸の向こうには伊豆大島が見える。(中の写真が青木繁記念碑。)
  

 そこから館山市内に戻り、館山城。戦国時代の里見氏の城で、天守閣風の建物は1982年に建てられた「八犬伝博物館」。最上階からの眺めは素晴らしい。
 海沿いに北上して、保田に寄って水仙を見て行く。南房のフラワーラインは2月半ば頃からが一番の観光シーズンだが、今は花も紅葉もなかりけり。アロエと水仙くらいだったけど、ここの水仙は素晴らしく咲いていた。道々に真っ盛りで、観光バスも来てる。伊豆の爪木崎は行ったことがあるが、ここは初めて。駐車場には「水仙トイレ」が。
   

 南房総は家から近いし、千葉県市川市に住んでいた時期もあって、それなりに行っている。山と温泉が好きで、あまり行かない時期もあったけど、最近は時々行っている。宿もいろいろある。高速道路が富浦(ビワで有名)まで通って、房総半島の南部に行きやすくなった。暖かいから、春の花の時期に行くことが多いが、今回はさすがの南房も寒かったな。まあ、面白くて安くて美味しい温泉に行きたい人は、いいんじゃないか。(なお、戦争関係の史跡、頼朝や里見氏関係の史跡、自然や観光施設などいろいろ見所はあるけれど、行ってるところが多い。今回見た所以外にもたくさんの見所があることを付言。)
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映画「幕末太陽傳」デジタルリマスター版を見る

2012年01月14日 00時31分01秒 |  〃  (旧作日本映画)
 「幕末太陽傳」を見た。前に2回見てるけど、日活100年を記念したデジタル・リマスター版が公開中。1957年作品。冒頭に「日活製作再開3周年記念」と出る。見直してまず思うことは、画面が格段にきれいになった。デジタル・リマスターだから当たり前だ。このやり方で修復して欲しい映画はまだたくさんある。なお、デジタルで修復した後に35ミリネガフィルムを作っている。

 この映画は、2009年に映画人が選ぶオールタイム・ベストテンを選出した時に、歴代日本映画の4位に選ばれている。「東京物語」「七人の侍」「浮雲」の次だから、ウソでしょうというような高評価である。しかし、それ以前のベストテンでも10位以内には入選している。小津や成瀬はこれ一作が決まっているが、溝口健二や今村昌平などは同程度の傑作が複数あるので票が割れてしまう。「幕末太陽傳」は、役者がはつらつとしていて演出も素晴らしい。川島雄三監督の代表作で、日本映画のベストテンに入る傑作であるのは異存ないだろう。

 落語という伝統芸能はずいぶん映画でも取り上げられているが、これが代表作。「居残り佐平次」「品川心中」などを巧みにアレンジした脚本は、川島雄三と助監督の今村昌平に加え、田中啓一とクレジットされている。当時松竹在籍中だった名脚本家の山内久である。井上ひさしは「落語種を映画にして成功したのは、日本史上でこれが唯一。その意味でこれは奇蹟である。」と述べ、山田洋次は「古典落語と映画を結びつけて痛快無類の喜劇を作り上げた奇才、川島雄三監督に乾杯」と言っている。これはプログラムに載っていた言葉だが、まずは落語の脚本化が素晴らしくうまく行っている。

 しかし、映画を見て思うことは、何といってもフランキー堺の存在感。八面六臂というか、縦横無尽というか、いろんな四字熟語を並べたくなる大活躍で、画面全体を飛び跳ねている。何度見てもすごいと思う。僕らの世代は喜劇人フランキーの位置がよく判らない。ジャズから映画界に入り、28歳の時のこの映画が一世一代の名演。テレビの「私は貝になりたい」の印象が強くなって、喜劇人としてのイメージが薄くなってしまった。小林信彦さんの本を読むと、当時のフランキーの重要性を感じる。そして、高杉晋作役、23歳の石原裕次郎。、実際の高杉晋作も、御殿山のイギリス公使館焼き討ち事件当時は23歳なのだ。目が素晴らしい。生き生きしている。

 裕次郎は87年、フランキーは96年に死去。人気女郎を張り合う南田洋子は2009年没、左幸子は2001年没。皆亡くなっていく。そして、追悼を書いたばかりの二谷英明。幕末の志士、志道聞多(しどう・もんた=井上馨の当時の名前)役である。女郎屋の親父役の金子信雄(「仁義なき戦い」の山守組長役で有名だが、舞台、映画の他、テレビの料理番組でも活躍した)も95年没。まだ存命なのは、小沢昭一、芦川いづみ、小林旭、菅井きん位になってしまった。時の流れを感じると同時に、素晴らしい役者がなんてたくさん出ていたのだろうと思った。若い時期の伸び盛りのオーラが画面を圧倒している。

 佐平次(フランキー)が金もないのに豪遊した後、女郎屋相模屋に居残りして下働きをする。女郎こはる(南田)とおそめ(左)が張り合いながら、客をあしらう。その一部屋に高杉晋作が居座り、イギリス公使館焼き討ちを計画している。様々な客や女郎の間をフランキーが駆け回る趣向で、筋は一本ではないので書きにくい。フランキーは晋作に対し、「侍がなんでえ」と言う。侍は百姓から年貢を取り立てればいいが、庶民は自分の働きで稼がなければならない、と。そして、ラスト、「地獄も極楽もあるもんけえ。俺はまだまだ生きるんでェ。」と言い放つ。これだよね、今見ることの意味は。いや、いつ見ても心に沁みるのは。50年代末の高度成長以前の映画だが、高度成長を実現させた日本、その後の沈滞する日本を見通したような素晴らしさである。

 川島雄三監督は、ドライな喜劇、ブラックユーモア、風俗喜劇がたくさん作った。最近は「洲崎パラダイス 赤信号」の評価が高くなってきたが、「しとやかな獣」のブラックぶりも忘れられない。「明日は月給日」「適齢三人娘」などの初期作品はほとんど評価されなかったが、今見てみると面白くて再評価が必要だと思う。まだまだ埋もれている作品が多いのではないか。社会派や人情喜劇が昔は評価されて、ドライな喜劇が受けなかった。今見ると、ドライ派の方が面白い。川島雄三は難病持ちで、1963年に45歳で急逝した。戦前の山中貞雄と並んで、伝説の映画監督と言える存在である。「幕末太陽傳」は、そんな川島雄三監督の、生涯ただ一度のまぎれもない大傑作。何度でも見るべし。
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追悼・二谷英明

2012年01月11日 23時39分24秒 |  〃  (旧作日本映画)
 二谷英明が亡くなった。僕にとっては、日活アクションの忘れられない名脇役である。新聞を引用すると、以下の通り。(朝日新聞)

 ドラマ「特捜最前線」の刑事役などで知られる俳優の二谷英明(にたに・ひであき)さんが7日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。81歳だった。京都・舞鶴生まれ。1956年、日活ニューフェースに。「ダンプガイ」の愛称で、石原裕次郎、小林旭、宍戸錠らと共に全盛期の日活アクション路線で活躍した。主な出演作に「ろくでなし稼業」「用心棒稼業」など。その後、テレビに活動の場を移し、数多くのドラマに出演。テレビ朝日の刑事ドラマ「特捜最前線」(77~87年)では、神代警視正役で主演した。

 「特捜最前線」と「ダンプガイ」がどこでも取り上げられている。僕は70年代後半からテレビドラマをほとんど見てないから、「特捜最前線」のことは語れない。学生時代だと帰りが不規則で定時にテレビを見れない。ビデオなんて普通の家庭にはなかった。多くの映画俳優がそうだったように、70年代以後はテレビが中心となった。テレビCMや娘の話題で知ってる人の方が多くなったかもしれない。

 日活は今年100年を迎える名門だが、戦時中に国策で製作部門が統合されて大映にされてしまった。配給部門は残り、戦後の映画黄金時代に製作再開に乗り出した。1954年のことで、時代劇や文芸映画を作ったもののあまりパッとしなかった。日活に起死回生をもたらしたのは、1956年に映画化された芥川賞作品「太陽の季節」で、原作者の弟を発見したことである。実質的なデビュー作の傑作「狂った果実」で石原裕次郎はスターとなった。続いて、小林旭の渡り鳥シリーズも始まり、59年になると第3の男、赤木圭一郎が登場する。ところが、61年に裕次郎がスキーで骨折し長期離脱を余儀なくされ、まさにそのさなか、61年2月21日に赤木圭一郎が撮影所内でゴーカートの事故で夭折する。

 困った会社側が考えたのが、二谷英明を「ダンプガイ」と命名して主演に格上げすることだった。宍戸錠も主演にし、若い和田浩治とあわせて、旭を中心に「ニュー・ダイヤモンドライン」として売り出した。これはやはり無理である。裕次郎が復帰し、高橋英樹が一本立ちし、吉永小百合の青春映画が大当たりするようになると、二谷英明はまた脇役に戻るのである。この辺の事情、及び二谷主演作品の分析は、渡辺武信の歴史的名著「日活アクションの華麗な世界」が詳しい。
(「散弾銃の男」)
 この主演と脇役の問題は、二谷の個性の問題もあるが、年齢によるところも大きい。小林旭と二谷は入社同期だが、年齢は8歳も違う。二谷は同志社を中退して佐世保でラジオ局に勤務、26歳の「ニューフェース」だった。アイドルスターの年ではない。生年を見ておくと、二谷(1930年)、錠(33年)、裕次郎(34年)、旭(38年)、赤木圭一郎(39年)、渡哲也(41年)、和田浩治と高橋英樹(44年)である。60年代前半に30を超えているのは二谷だけだった。アクション映画に不可欠の、陰影のある敵対組織の恋敵みたいな役ができるのが二谷英明しかいない。若い主演スターが中心になってはいるが、今見ると二谷が支えているような映画がたくさんある。

 日本映画は会社ごとに映画館を押さえ、系列館では毎週のように新作が公開された。そのような時代には会社ごとのカラーがはっきりしていた。それらの「ジャンル映画」の中で、僕は「日活アクション」が一番好きである。それはあくまでも「個」にこだわる主人公の姿勢が、時代を超えて胸を打つからだ。その中でも、極めつけは裕次郎主演の「赤いハンカチ」「夜霧よ今夜もありがとう」(これは「カサブランカ」のパクリ)。裕次郎の主題歌が有名だが、浅丘ルリ子をめぐって裕次郎と争うのが二谷英明。人生が少しは判るようになってみると、二谷の渋さが映画を支えていると思う。

 12月に鈴木清順の「東京流れ者」を再見したが、ここでも二谷の存在感が際立っていた。渡哲也はあくまでも親分を信じると言うが、かつては敵対組織に属し親分の裏切りにより「流れ者」になった殺し屋が二谷である。温厚そうな二谷が「親分というものは信じてはいけない」と言う時、権力組織とともに反権力組織にも裏切られ続ける、その後の歴史を見通しているかのようだ。そうした映画を思い出しながら、本当に存在感のある役者だったなあと思うのである。悪く言う人がいないのも、この人の人柄だ。
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追悼・林光

2012年01月10日 23時11分19秒 | 追悼
 作曲家の林光が亡くなった。(以下、読売新聞から引用。太字引用者)

 独自の日本語オペラや劇音楽で知られる作曲家の林光(はやし・ひかる)さんが5日、死去した。80歳。東京生まれ。東京芸大作曲科を中退後、音楽と社会のかかわりに関心を深め、合唱曲「原爆小景」で独自のスタイルを確立した。1975年に日本語オペラの創作・上演に取り組む「オペラシアターこんにゃく座」の座付き作曲家兼音楽監督(現芸術監督)となった。代表作に「森は生きている」「セロ弾きのゴーシュ」「変身」など。劇音楽や映画音楽も多く手がけ、95年に「座・新劇」の音楽で第2回読売演劇大賞の優秀スタッフ賞を受賞。映画では新藤兼人監督の「午後の遺言状」、大島渚監督の「少年」などの音楽を担当した。96年にビオラ協奏曲「悲歌」で尾高賞を受賞。同年、紫綬褒章。また、社会状況への鋭い問題意識を反映した音楽評論でも知られた。

 書くのが遅くなったが、岩城宏之「森のうた 山本直純との芸大青春期」という痛快至極の青春エッセイを探して再読する時間が必要だった。これは朝日文庫、講談社文庫(2003)に入っていたが、現在は入手不可能。古書店にあったら是非買い求めるべき。(どこかで再刊して欲しいな。)

 この本は世界的指揮者だった岩城宏之が芸大時代(芸大の2期生)の山本直純との交遊をつづったもので、講談社文庫版の解説が林光。本の中に実名で出てくるのも、指揮者で芸大の先生だった渡辺暁雄(あけお)と林光だけである。面白いエピソードが満載だけど、イワキやナオズミの追悼ではないので書かないことにする。(二人とも、すでに故人であるけれど。)渡辺暁雄という指揮者が、いつも大騒ぎをして迷惑かけまくりの若き二人の学生を徹底してかばってくれた姿は感動的だ。母親がフィンランド人で、長身で格好よい指揮ぶりは僕も聴いたことがある。夫人が鳩山一郎の5女で、当時音羽御殿に住んでいて、二人は何度も押しかけていた。

 どうして岩城宏之が芸大に入れたかも面白いのだが、山本直純は浪人して一期下。林光は同期生である。しかし、林光は入学前からスターだったという。尾高賞に名を残す作曲家・指揮者の尾高尚忠(ひさただ)が1951年に39歳で亡くなるが、その時すでに林光は第一の弟子だったのだそうだ。朝日新聞に「尾高氏の未完の遺作を、愛弟子の林光君(18)が完成」と出た。当時の芸大では学生の名札があって、登下校の際にひっくり返したのだそうだが、岩城は林光と言う名札を見つけて、「とんでもないのが同級生なのだ。これはエライところに来てしまった。」と思う。

 ところが、翌年直純が入学すると、林光との交遊が始まる。二人は自由学園の同級生で、「おめえ」「ヒカルよぉ」と口がきける間柄だったのだ。そして、ついに林光の家によばれる光栄が訪れる。原宿に家があったので「原宿参り」と皆で言っていたそうである。「アイヴスがどうした」「晩年のバルトークはエネルギーを失った」とか、皆の恐ろしい会話にへたなことを言ってはいけないと岩城はずっと黙っていた。夕方になって店屋物を取ることになり、親子丼、カツ丼、などと皆が注文した後で、林光は代金を徴収した。岩城はなんだかガッカリする。雲の上の人で、てっきりおごってくれると思い込んでいたから。でも、考えて見れば同級生ではないか。そして、それから林光は岩城にとって、普通の良き友人となった。

 林光の経歴を見ると、芸大は卒業していない。現役作曲家としてすでに活動中なのだから、作曲科で勉強する意味がなかったのか。50年代半ばから、労働運動、平和運動に深くコミットしながら、日本語の合唱曲、オペラ、歌曲を作り続けた。演劇や映画の音楽も数多い。交響曲や室内楽曲もある。「オペラシアターこんにゃく座」の座付作曲家で芸術監督。僕も「森は生きている」「セロ弾きのゴーシュ」を見て(聴いて)いる。宮沢賢治の音楽を広めたともウィキペディアに出ているが、賢治、ブレヒト、ロルカ、谷川俊太郎などに付けた歌曲が多く、この顔ぶれにある共通の流れに親しいものを感じる。

 映画では、何といっても新藤兼人作品が多く「裸の島」「午後の遺言状」などが訃報でも触れられている。大島渚の代表作「絞死刑」「少年」もあるが、僕にはもう一つの取って置きがある。吉田喜重監督・脚本、岡田茉利子主演、藤原審璽原作の「秋津温泉」である。日本映画で最も好きな作品の一つで、年末に4回目を見る機会があった。戦争、戦後を生き抜く男女を通して「戦後」を読み解く作品だが、素晴らしい脚本と美しい主演女優をことさら引き立てるのが、美しい叙情的なテーマ曲である。時間を超越した出会いの運命性を永遠に忘れられなくする素晴らしい映画音楽。これは実はこのサイトで聞ける。良かったら。
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フランスが特別だった頃-絵を見に行く④

2012年01月09日 18時03分55秒 | アート
 ブリジストン美術館「パリへ渡った「石橋コレクション」1962年、春」という展覧会をやっています。昨日が開館記念日で無料でした。適度の混み具合。1951年に開館したブリジストン美術館の名品が、1962年にパリで公開され大好評を博したといいます。その様子は映画に残されていて、中で上映されているから必見です。その時パリへ渡った作品を集めて展示するというのが今回の企画ですが、なんと2つほど所在不明作品があります。つまり50年前には、西洋美術館の松方コレクションや他の個人コレクションが少し含まれていて、50年間に行方がわからなくなってしまったというわけです。クールベとセザンヌの絵ですね。それを含めて今回は借りられなかった作品はパネルで展示されています。

 パリへ行ったのは「コローからブラックまで」と題されて、コロー、ドラクロワ、ドーミエ、クールベ、ピサロ、マネ、ドガ、シスレー、セザンヌ、モネ、ルノワール、アンリ・ルソー、ゴーガン、ボナール、マティス、ルオー、ヴラマンク、デュフィ、ドラン、ピカソ、ブラック、ユトリロ、シャガール等々の作品が並んでいます。いやあ、そうそうたる顔ぶれですね。しかも、いかにも「らしい」作品が選ばれています。マティスが5つ、セザンヌ、モネ、ボナールが4つで、特にセザンヌやマティスの絵は素晴らしかった。ピサロやシスレーなども良かったです。日本で印象派以後をどのように受容し、紹介していったのかが判る気がします。マティスが多いのに対し、ピカソやブラックは「らしくない」作品になっているのも興味深い感じです。

 こうしてみると、フランスが近代の文化に持った特別な位置の凄さを感じます。文学、思想、映画、ファッションなども含め、ある時期まで日本ではフランスを読む、見る、論じることがとても大きな意味を持っていました。明治以後、日本ではドイツやイギリスに軍事や経済で大きな影響を受けるけれど、文化ではフランスが大きかった。「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」(萩原朔太郎)という時代ですね。それは「革命を起こした国」ということでもあったんでしょう。「自由と平等の国」というイメージですね。カミュ「異邦人」を学生なら皆読んでいたけど、「アルジェリア問題」を読み取ることができなかった時代でした。でも、今になると、フランスの作家とか画家とか、現存の人で誰か知ってますか?という感じですね。ノーベル賞を取った作家ル=クレジオくらいかな。イヴ・サン=ローランが亡くなってデザイナーも知らない。画家は誰も知らない。

 そういうフランスが特別な意味を持っていた時代には、多くの画学生がパリを目指しました。1927年(昭和2年)に美校(現在の芸大)を出て25歳で渡仏、戦時下を除きずっとパリへ住んだ画家が、荻須高徳(おぎす・たかのり)でした。戦後も許可が出てすぐに渡仏、結局パリで客死しました。その生誕110年記念で、三越日本橋本店新館で「荻須高徳展」が開かれています。(16日まで)。パリの街角を描き続けた画家ですね。文化勲章。今回はヴェネツィアを描いた絵もたくさん出ています。ほとんど「二都物語」という展覧会ですね。パリやヴェネツィアの街角風景はすごくいいです。家に飾っておきたい。でも、どうなんだろう。今の僕たちにとって、ヨーロッパがそんなに特別な存在ではないと思う。見るならアジアの街角が見たいという感じも。そうなると、すごくうまいタッチで、紛れもない荻須自身の絵なんだけど、ユトリロや佐伯祐三でいいじゃないかという気がしないでもない。ということを感じてしまったのでした。 
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