映画や本、あるいはニュースに触発されて書いていると、なかなか「一般論」を書くことが少なくなる。だから、今日は一度書いておきたいと思っていた「自殺」の問題を書いておきたい。「自殺」というか、「自死」というかという言葉の問題もあるけど、ここではあまりこだわらないことにする。
「いじめ」によるとみられる自殺が今年もいくつか報道された。文科省によると、いじめはどの学校でも起きる可能性がある問題で、むしろ「いじめはない」と報告する学校の方が指導力がないとされるらしい。僕も「いじめ的な言動」はどんな学校にもあると思う。児童・生徒だけでなく、教員の言動にもあると思う。誰でもちょっとした悪意にとらわれることはあり、「自分は絶対言わない」と断言できる人の方がおかしい。傷つける気はなくても、人の感受性はそれぞれで違うから、ちょっとした言動で「傷ついた」と言われてしまうことはある。大事なのはそういう時に「すばやく修復する」ことだろう。
僕はそのことを「減いじめ」と呼んで、今までにも書いた。いじめ件数を減らすだけでなく、「いじめの程度」を低レベルの段階に留めることが大事だと思う。だけど、インターネットなど教師がどうしようもない環境変化もあり、今後もどこかで深刻ないじめ事件は起き続けるだろう。それは例えば、電通で長時間労働が問題化したから、今後は日本中の会社で長時間労働はなくなるだろう…などと誰も考えないのと同じである。大人社会が変わらないのに、子ども社会だけ大人がコントロールできるわけがない。
今後も深刻ないじめは起こりうることを前提にして、では子どもは自殺してもいいのか。いや。大人であっても自殺していいのか。一般論として「人間は自殺してもいいのか」という問題がある。これは非常に重要な哲学、あるいは社会学や心理学の問題である。昔からいろいろと論じられているけど、学校ではほとんど触れられないだろう。「自殺」というより、「死」そのものを避けて通る。教師や子どもの世界にも「死」は避けがたく存在するけれど、生徒はもちろん教師も「自分の死」は普通意識していない。
その代わりに「進路」の話は嫌というほど出てくる。中学生はもちろん、高校生だって、そんなはっきりした進路希望が決まっているはずがない。でも、早め早めに「進路指導」が出てきて、「未来」を意識させられる。教師の中には「君たちには無限の可能性がある」などと語る人もいる。そもそも「人間には有限の可能性しかない」と思うけど、それはともかく、才能も(家の)お金もチョボチョボのほとんどの人間にとって、人生には限られた可能性しかないではないか。それにどんな人生を送ったとしても、最終的には人間には「死」が待っているという厳然たる事実は同じである。
日本では何歳ぐらいで死ぬ人が多いのか。死因として多いものは何か。年代別の死因はどうなっているか。皆はそれを答えられるだろうか。毎年ではないが、僕は現代社会を担当した時に、そういう問題を扱ったことがある。そして、「若い人の自殺」と「高齢者の自殺」はどっちが多いか。それをどう考えるべきか。そういう問題は、現代を生きる人間にとって「基礎知識」というべきではないかと思うが、学校ではほとんど触れられていないだろう。(上記の問題の答えは自分でネットで調べてください。)
そのうえで「人間は自殺をしていいのか」という大問題がある。本来はこういう問題こそ、教師が生徒や保護者と一緒になって、真剣に考えてみるべき問題ではないか。「死」の問題は扱いが難しいし、教師も身近な経験がないことが多い。だけど、マジメに考えるべき問題として、これほど重大な問題はないんじゃないか。人生は必ず生きなくちゃいけないのか。死んではなぜダメなのか。
最後に僕の考え方を書いておきたい。「人は場合によって、自ら死を選ぶ権利を持っている」と僕は思っている。どんな重病でも、最後の最後まで「死を選んではいけない」というのは、かえって酷な場合があると思う。ただし、それは非常に重大な「不可逆的、致死的な病気」の場合である。そういうケースが子どもの場合にもありうるとは思うが、重病や多額の借金があるわけではない子どもの場合、「自殺という選択肢は許されない」という考え方もできる。(ただし、精神的に自分を追い詰めてしまって、その世界を変えられなくなるような場合はあるかもしれない。)
いじめは無くさないといけないが、それとは別に「どんな深刻ないじめを受けても、自殺という選択をしてはならない」という言い方を大人がする必要もあるのではないか。たいした人生ではなくても、生きている以上、誰か家族がいるだろう。親がいなくては生まれないのだから。(その親に大きな問題があるときもあるが)多くの子どもは親と一緒に住んでいる。そして、親が先に死ぬ。年齢的に親が先に死ななくてはおかしい。つまり、子どもは親の後まで生きなくてはいけない。親の死をみとって、後始末をしないといけない。つまり人間は他のことをさておき、「親より長生きするというミッションを背負っている」。進路希望などより先に、この重大なミッションを伝えていかないといけない。
じゃあ、親も兄弟もいません。両親は看取って、自分には配偶者も子どもいない。その場合は自殺してもいいのだろうか。その場合は、もう大人なんだから自分で考えろと言いたいけど、僕はこう考えている。世界中で戦争で故なく死ぬ子どもが一人もいなくなるまでは、自分から死ぬことはしないようにしようと考えるべきだと。それが人間の「倫理」というもんではないか。
「いじめ」によるとみられる自殺が今年もいくつか報道された。文科省によると、いじめはどの学校でも起きる可能性がある問題で、むしろ「いじめはない」と報告する学校の方が指導力がないとされるらしい。僕も「いじめ的な言動」はどんな学校にもあると思う。児童・生徒だけでなく、教員の言動にもあると思う。誰でもちょっとした悪意にとらわれることはあり、「自分は絶対言わない」と断言できる人の方がおかしい。傷つける気はなくても、人の感受性はそれぞれで違うから、ちょっとした言動で「傷ついた」と言われてしまうことはある。大事なのはそういう時に「すばやく修復する」ことだろう。
僕はそのことを「減いじめ」と呼んで、今までにも書いた。いじめ件数を減らすだけでなく、「いじめの程度」を低レベルの段階に留めることが大事だと思う。だけど、インターネットなど教師がどうしようもない環境変化もあり、今後もどこかで深刻ないじめ事件は起き続けるだろう。それは例えば、電通で長時間労働が問題化したから、今後は日本中の会社で長時間労働はなくなるだろう…などと誰も考えないのと同じである。大人社会が変わらないのに、子ども社会だけ大人がコントロールできるわけがない。
今後も深刻ないじめは起こりうることを前提にして、では子どもは自殺してもいいのか。いや。大人であっても自殺していいのか。一般論として「人間は自殺してもいいのか」という問題がある。これは非常に重要な哲学、あるいは社会学や心理学の問題である。昔からいろいろと論じられているけど、学校ではほとんど触れられないだろう。「自殺」というより、「死」そのものを避けて通る。教師や子どもの世界にも「死」は避けがたく存在するけれど、生徒はもちろん教師も「自分の死」は普通意識していない。
その代わりに「進路」の話は嫌というほど出てくる。中学生はもちろん、高校生だって、そんなはっきりした進路希望が決まっているはずがない。でも、早め早めに「進路指導」が出てきて、「未来」を意識させられる。教師の中には「君たちには無限の可能性がある」などと語る人もいる。そもそも「人間には有限の可能性しかない」と思うけど、それはともかく、才能も(家の)お金もチョボチョボのほとんどの人間にとって、人生には限られた可能性しかないではないか。それにどんな人生を送ったとしても、最終的には人間には「死」が待っているという厳然たる事実は同じである。
日本では何歳ぐらいで死ぬ人が多いのか。死因として多いものは何か。年代別の死因はどうなっているか。皆はそれを答えられるだろうか。毎年ではないが、僕は現代社会を担当した時に、そういう問題を扱ったことがある。そして、「若い人の自殺」と「高齢者の自殺」はどっちが多いか。それをどう考えるべきか。そういう問題は、現代を生きる人間にとって「基礎知識」というべきではないかと思うが、学校ではほとんど触れられていないだろう。(上記の問題の答えは自分でネットで調べてください。)
そのうえで「人間は自殺をしていいのか」という大問題がある。本来はこういう問題こそ、教師が生徒や保護者と一緒になって、真剣に考えてみるべき問題ではないか。「死」の問題は扱いが難しいし、教師も身近な経験がないことが多い。だけど、マジメに考えるべき問題として、これほど重大な問題はないんじゃないか。人生は必ず生きなくちゃいけないのか。死んではなぜダメなのか。
最後に僕の考え方を書いておきたい。「人は場合によって、自ら死を選ぶ権利を持っている」と僕は思っている。どんな重病でも、最後の最後まで「死を選んではいけない」というのは、かえって酷な場合があると思う。ただし、それは非常に重大な「不可逆的、致死的な病気」の場合である。そういうケースが子どもの場合にもありうるとは思うが、重病や多額の借金があるわけではない子どもの場合、「自殺という選択肢は許されない」という考え方もできる。(ただし、精神的に自分を追い詰めてしまって、その世界を変えられなくなるような場合はあるかもしれない。)
いじめは無くさないといけないが、それとは別に「どんな深刻ないじめを受けても、自殺という選択をしてはならない」という言い方を大人がする必要もあるのではないか。たいした人生ではなくても、生きている以上、誰か家族がいるだろう。親がいなくては生まれないのだから。(その親に大きな問題があるときもあるが)多くの子どもは親と一緒に住んでいる。そして、親が先に死ぬ。年齢的に親が先に死ななくてはおかしい。つまり、子どもは親の後まで生きなくてはいけない。親の死をみとって、後始末をしないといけない。つまり人間は他のことをさておき、「親より長生きするというミッションを背負っている」。進路希望などより先に、この重大なミッションを伝えていかないといけない。
じゃあ、親も兄弟もいません。両親は看取って、自分には配偶者も子どもいない。その場合は自殺してもいいのだろうか。その場合は、もう大人なんだから自分で考えろと言いたいけど、僕はこう考えている。世界中で戦争で故なく死ぬ子どもが一人もいなくなるまでは、自分から死ぬことはしないようにしようと考えるべきだと。それが人間の「倫理」というもんではないか。