尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

親より長生きするという「ミッション」-「自殺」をどう考えるか

2016年12月29日 22時54分30秒 |  〃 (教育問題一般)
 映画や本、あるいはニュースに触発されて書いていると、なかなか「一般論」を書くことが少なくなる。だから、今日は一度書いておきたいと思っていた「自殺」の問題を書いておきたい。「自殺」というか、「自死」というかという言葉の問題もあるけど、ここではあまりこだわらないことにする。

 「いじめ」によるとみられる自殺が今年もいくつか報道された。文科省によると、いじめはどの学校でも起きる可能性がある問題で、むしろ「いじめはない」と報告する学校の方が指導力がないとされるらしい。僕も「いじめ的な言動」はどんな学校にもあると思う。児童・生徒だけでなく、教員の言動にもあると思う。誰でもちょっとした悪意にとらわれることはあり、「自分は絶対言わない」と断言できる人の方がおかしい。傷つける気はなくても、人の感受性はそれぞれで違うから、ちょっとした言動で「傷ついた」と言われてしまうことはある大事なのはそういう時に「すばやく修復する」ことだろう。

 僕はそのことを「減いじめ」と呼んで、今までにも書いた。いじめ件数を減らすだけでなく、「いじめの程度」を低レベルの段階に留めることが大事だと思う。だけど、インターネットなど教師がどうしようもない環境変化もあり、今後もどこかで深刻ないじめ事件は起き続けるだろう。それは例えば、電通で長時間労働が問題化したから、今後は日本中の会社で長時間労働はなくなるだろう…などと誰も考えないのと同じである。大人社会が変わらないのに、子ども社会だけ大人がコントロールできるわけがない。

 今後も深刻ないじめは起こりうることを前提にして、では子どもは自殺してもいいのか。いや。大人であっても自殺していいのか。一般論として「人間は自殺してもいいのか」という問題がある。これは非常に重要な哲学、あるいは社会学や心理学の問題である。昔からいろいろと論じられているけど、学校ではほとんど触れられないだろう。「自殺」というより、「死」そのものを避けて通る。教師や子どもの世界にも「死」は避けがたく存在するけれど、生徒はもちろん教師も「自分の死」は普通意識していない。

 その代わりに「進路」の話は嫌というほど出てくる。中学生はもちろん、高校生だって、そんなはっきりした進路希望が決まっているはずがない。でも、早め早めに「進路指導」が出てきて、「未来」を意識させられる。教師の中には「君たちには無限の可能性がある」などと語る人もいる。そもそも「人間には有限の可能性しかない」と思うけど、それはともかく、才能も(家の)お金もチョボチョボのほとんどの人間にとって、人生には限られた可能性しかないではないか。それにどんな人生を送ったとしても、最終的には人間には「死」が待っているという厳然たる事実は同じである。

 日本では何歳ぐらいで死ぬ人が多いのか。死因として多いものは何か。年代別の死因はどうなっているか。皆はそれを答えられるだろうか。毎年ではないが、僕は現代社会を担当した時に、そういう問題を扱ったことがある。そして、「若い人の自殺」と「高齢者の自殺」はどっちが多いか。それをどう考えるべきか。そういう問題は、現代を生きる人間にとって「基礎知識」というべきではないかと思うが、学校ではほとんど触れられていないだろう。(上記の問題の答えは自分でネットで調べてください。)

 そのうえで「人間は自殺をしていいのか」という大問題がある。本来はこういう問題こそ、教師が生徒や保護者と一緒になって、真剣に考えてみるべき問題ではないか。「死」の問題は扱いが難しいし、教師も身近な経験がないことが多い。だけど、マジメに考えるべき問題として、これほど重大な問題はないんじゃないか。人生は必ず生きなくちゃいけないのか死んではなぜダメなのか

 最後に僕の考え方を書いておきたい。「人は場合によって、自ら死を選ぶ権利を持っている」と僕は思っている。どんな重病でも、最後の最後まで「死を選んではいけない」というのは、かえって酷な場合があると思う。ただし、それは非常に重大な「不可逆的、致死的な病気」の場合である。そういうケースが子どもの場合にもありうるとは思うが、重病や多額の借金があるわけではない子どもの場合、「自殺という選択肢は許されない」という考え方もできる。(ただし、精神的に自分を追い詰めてしまって、その世界を変えられなくなるような場合はあるかもしれない。)

 いじめは無くさないといけないが、それとは別に「どんな深刻ないじめを受けても、自殺という選択をしてはならない」という言い方を大人がする必要もあるのではないか。たいした人生ではなくても、生きている以上、誰か家族がいるだろう。親がいなくては生まれないのだから。(その親に大きな問題があるときもあるが)多くの子どもは親と一緒に住んでいる。そして、親が先に死ぬ。年齢的に親が先に死ななくてはおかしい。つまり、子どもは親の後まで生きなくてはいけない。親の死をみとって、後始末をしないといけない。つまり人間は他のことをさておき、「親より長生きするというミッションを背負っている」。進路希望などより先に、この重大なミッションを伝えていかないといけない。

 じゃあ、親も兄弟もいません。両親は看取って、自分には配偶者も子どもいない。その場合は自殺してもいいのだろうか。その場合は、もう大人なんだから自分で考えろと言いたいけど、僕はこう考えている。世界中で戦争で故なく死ぬ子どもが一人もいなくなるまでは、自分から死ぬことはしないようにしようと考えるべきだと。それが人間の「倫理」というもんではないか。
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映画「ニーゼと光のアトリエ」-精神医学とアート療法

2016年12月28日 22時55分44秒 |  〃  (新作外国映画)
 渋谷のユーロスペースで、ブラジル映画「ニーゼと光のアトリエ」という映画が公開されている。これは1940年代のブラジルで、精神科の治療に芸術療法を取り入れた実在の女性医師、ニーゼ・ダ・シルヴェイラを描いた映画である。とても感動的で、自分の問題関心からも大変興味深かった。多くの人に見て欲しい映画。2015年の東京国際映画祭でグランプリと最優秀女優賞を受けた。
 
 冒頭で、ニーゼが精神科医の資格を得て精神病院にやってくる。他の男性医師たちは、ロボトミー手術電気ショックを最善の治療法と信じている。ロボトミーというのは、外科的に前頭葉を切り離してしまう手術のこと。重大な副作用が生じることがあるし、人格そのものを外科的に改変してしまうわけで、今では精神医学史の闇の歴史の象徴と見なされている。しかし、20世紀半ばには画期的な治療法とされていて、1949年にはなんとノーベル生理学・医学賞まで受けている。

 映画では電気ショックを実際にやっているところを見せている。(まあ、劇映画だから実際に電気を流しているわけではないだろうが。だけど、それなら迫真の演技という感じ。)ニーゼはそういう暴力的な治療法に反対するが、そんな彼女の居場所は作業療法部門しかない。そこには医者はいなくて、部屋も汚く整理されていない。そんな場所を掃除するところから、ニーゼの仕事が始まる。

 そこに芸術に関心のある協力者が現れ、患者たちに絵筆や粘土を与えて、彼らが自由に表現できるようにしていく。そこで大事なことは、患者たち(ニーゼは映画内で「クライアント」と表現している)に「自由」を与えることで、医師や看護師がリードしてしまわないように注意している。最初はどうなるかという感じだが、次第に彼らは独自の表現を始めていく。それを「無意識」の表れと理解し、明らかに病気が改善されていると評価する。

 ニーゼの試みは保守的な男性医師によって、いつも妨害されている。病院では動物を飼うなと言われているが、ニーゼは何匹もの犬を飼って、皆が可愛がっている。(それは無惨な悲劇につながるが。)「動物は最高のセラピスト」だとニーゼは反論するが、今では理解されている動物療法もニーゼは試みていたのである。そして展覧会も開いて外部の評価も得た。絵の写真をユングに送ると、なんとユングから返事が来るというエピソードも描かれている。

 今となっては、当たり前すぎる考え方でもあるけれど、当時の様子が生き生きと再現されることで、ニーゼの苦闘がよく伝わってくる。精神疾患、特に統合失調症は人間の病の中でも相当に難治の病である。今は投薬でかなり改善するけれど、完治することはなかなか難しい。薬物で改善されるのだから、体内でなんらかの物質的原因があって発病するんだろうけれど、非常に「奥が深い」感じがする。だからこそ、芸術療法で無意識を解放することも大きな意味があるんだろう。精神疾患に留まらず、広く人間一般にも当てはまると思うけど、アートや動物のセラピー効果の大きさを再確認する映画でもある。ニーゼの勇気ととともに、多くの人に勧める理由。
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古墳時代の始まりと終わり-権力者の大建築

2016年12月27日 23時44分02秒 |  〃 (歴史・地理)
 つい「天皇陵古墳」の話を始めてしまったので、もう少し書いてみたいと思う。それは「古墳時代」とはどうして始まり、どうして終わるのか、という大問題である。「日本史」では弥生時代の次に「古墳時代」があり、巨大な王墓として「前方後円墳」が作られた。それは何故現れ、どうして消えていったのだろうか。歴史の教科書なんかでは、既定の事実を並べていくような記述が続くので、そもそも時代がどう変わっていくかをあまり意識しない。本当は一番大事な問題だろう。

 縄文時代の墓を見ると、あまり大きな違いは見られない。弥生時代になって稲作農耕が始まると「余剰生産」が生まれて、次第に「階級差」が生じてくる。普通よくそう言われるが、まあ大体そういう道筋でいいだろうと思う。弥生時代後期になると、かなり大きな墓が作られているが、それは「墳丘墓」(ふんきゅうぼ)と呼んでいる。古墳と何が違うのかというと、素人にはあまり区別がつかないようなものもある。ただ、3世紀半ばから、突然に大和で巨大な「前方後円墳」が作られる。

 「倭国」では、男王の時代が続いた2世紀後半に「大乱」があったと「魏志倭人伝」に書かれている。そこで「鬼道」に仕える「卑弥呼」を女王に立てて戦争が収まったという。「鬼道」とはシャーマニズム的宗教だろうから、霊能力の高い女性を諸勢力が共立して連合政権を樹立したのである。卑弥呼の死去(247年か248年ころ)後に作られた墓は「径百余歩の墓」とある。それほど巨大な墳丘墓は見つかっていない。一方、最初の巨大古墳である「箸墓古墳」の築造年代は、今では3世紀半までさかのぼっている。そうすると卑弥呼の死去と近くなってくる。「箸墓古墳」は「卑弥呼の墓」なのか
(箸墓古墳)
 戦争や宗教行事に不可欠の鉄器の原料である鉄は列島内部で産出しなかった。半島からの「輸入」に頼らざるを得ない。それは戦争の原因であり、連合政権誕生の理由にもなっただろう。倭国の各地方では様々な形の古墳文化が栄えたけど、前方後円墳に関してはどこかの小国家から始まったわけではない。前方後円墳文化が倭国西部を統一したという考古学的な証拠はない。「前方後円墳体制」というべき「政治体制」が形成されたから、前方後円墳が政治的に列島各地に作られたのである。

 ところが、中国の史書には、卑弥呼の死後に再び争いが起こったとある。今度は卑弥呼の一族の13歳の娘「台与」(とよ、漢字及び読み方に異説あり)を立ててまとまったという。でも、卑弥呼時代にすでに「前方後円墳体制」が作られていたならば、卑弥呼の死後に争いは起きないのではないだろうか。それが「前方後円墳体制」成立の意義のはずだから。つまり、「箸墓古墳」は卑弥呼の墓ではなく、むしり台与あるいはその後の人物の墓であるのではないかという説に説得力を感じる…。

 ちょっと細かい話になってしまったが、要するに「巨大古墳」は政治的なシンボルとして作られて、社会の統合の象徴になっていたということである。もちろん、その巨大性が自他の人々に大きなインパクトを与えただろう。それはエジプトのピラミッドや秦・始皇帝の陵なども同様である。だけど、昔よく言われたように、人民は王墓を作るために奴隷のように働かされたというのも、多分ちょっと違うんだろうと思う。王墓を作るための職人集団が形成され、誇りをもって作っていたのではないだろうか。
 
 それがやがて、変わってくる。巨大古墳を作る用地も少なくなってくると思うけど、それだけでなく社会が新しい段階に入ってくるわけである。仏教などの新文化が朝鮮半島を経て列島にも到達する。人々は外国からもたらされた新しい神々に、最初は疑いも持ちながらも、巨大な寺院や仏像が作られるようになると、その荘厳なさまに圧倒されたのではないだろうか。権力の世襲が制度化されてくると、巨大古墳を作って社会統合を図る必要も薄れる。むしろ「文化的な支配」が大事になる。

 こうして古墳は作られなくなる。平安時代初期まで古墳は作られているが、奈良時代以後はほとんど巨大古墳は作られていない。だから、奈良時代中頃の聖武天皇の陵を僕は知らない。(いま調べてみると、奈良市の佐保山南陵とされている。)でも、聖武天皇の命によって東大寺の大仏が作られたことは知っている。古墳を見たことがなくても、奈良の大仏は一回ぐらいは見ているだろう。これは単なる王陵ではなく、「天下の安泰」を願って作られた。文化的に一段高くなったのは間違いない。
(東大寺の大仏)
 つまり、権力者によって「巨大なもの」が作られるのは共通なんだけど、時代が進むと単なる権力者の墓ではなく、文化的な建造物に変わってくるわけである。古墳時代は終わり、「王都」の所在地を時代名につけるようになるのである。以後の時代では、教科書に出てくる大権力者は、必ず大建築物を作っている。藤原道長は法成寺白河法皇は法勝寺という巨大寺院を作ったけど、荒廃して後世に伝わらなかった。足利義満の金閣寺足利義政の銀閣寺なんかが残ったのは奇跡だろう。

 徳川時代の日光東照宮なんかも、一種の王陵として作られている。インドのタージマハールなんかも、「王陵」的な存在だと思う。20世紀になっても、「社会主義」体制では「レーニン廟」とか「毛主席紀念堂」など「王陵」的なものが作られている。そこまで行かなくても、権力者は今も大建築物を作るのが好きなんだと思う。名を残すために大きな箱ものを作る人は今も多い。でも、今は建築物ではなくて、「オリンピック」とか「万国博覧会」など巨大イベントを開きたがることが多い。それが「現代社会」というものなんだろうけど、「巨大なるもの」にひかれる権力者のあり方は時代を超えて共通している。
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「天皇陵」の謎

2016年12月26日 23時18分54秒 |  〃 (歴史・地理)
 「神武天皇陵」について、数回前に書いた。そこで最後に「もう少し書く」と書いた話。「天皇陵」の「治定」に関しては、現代の考古学的見地から否定的な古墳が多い。今回はその話を中心に。

 この問題については、矢澤高太郎「天皇陵の謎を追う」という本が2016年4月に中公文庫から刊行されている。それを読んだら、同じ著者に「天皇陵の謎」(2011、文春新書)というもあると知った。そこで両書を読んでみたのが、夏のころ。後で書くように、この本にはどうかと思うところもあるんだけど、この問題に関して判りやすく入手しやすい類書はないと思う。古代史マニアだけが読むのではもったいないと思うから、歴史や社会問題に関心の深い人に紹介しておく次第である。
 
 この本では、両書を合わせると、全天皇陵の現状が扱われている。そこで判ることは、天皇陵の治定はほとんどが疑わしいという事実である。著者は読売新聞の考古学記者として、多くの考古学者と接し、数多くの発掘に立ち会った。その結果知りえた「天皇陵の真実」について、このままでいいのかと公憤を感じてまとめたのがこの二つの本である。僕が一番面白かったのは、主題そのものよりも、ここに登場する多くの(今は亡き)考古学者・歴史学者の素顔である。それはさておき…。

 「天皇陵の謎」の冒頭で、故・森浩一氏の「古墳の発掘」(1965)という本に出ている一覧表を紹介している。それによると、9代の開化天皇から42代の文武天皇の中で、全32陵中(皇極と斉明は同一人物なので重複)学問的に確実と言えるのは「天智天皇陵」と「天武・持統合葬陵」だけというのである。9代以前の8人は、そもそも実在しない前提なので、要するに古代の天皇陵はほぼ間違っているのだ。

 もっともそれは厳格に過ぎる考え方で、用明天皇(「聖徳太子」の父)や推古天皇、舒明天皇などの陵は、今では正しかろうということになっているという。そして、その理由が細かく語られる。そもそも何でそこに決まったのか。そして今はそれをどう考えるのか。でも、それをここで全部書いても仕方ないし、僕もそこまで関心はない。ただ、継体天皇陵欽明天皇陵に関しては書いておきたい。

 神話上の天皇も含む皇統では第26代となる継体天皇。この人ほど古代史で謎に包まれた大王はいないだろう。そもそも「継体」という贈り名が意味深である。それ以前の雄略天皇系の系統が武烈天皇で絶え、そこに「応神天皇5世の子孫」とあるが近江で生まれ越前で育った王があとを継いだ。古代の史書を信用すれば、かすかに王統が続いているともいえるが、それにしてもほとんど中央政界に縁がない地方実力者が乗り込んできたのは間違いない。この系譜は後から作られたと仮定すれば、戦前の憲法にいう「万世一系の天皇」は単なる神話であって、実は継体から新王朝が始まったことになる。

 そういう継体天皇だから、即位後19年も大和に入ることができなかった。また有名な「磐井の乱」が北九州で起きたのも、その治世である。半島情勢も絡んで、継体王朝を認めない勢力が強かったことを想像させる。そんな継体天皇だから、古墳は大和には作られなかった。大阪府茨木市の「太田茶臼山古墳」(三島藍野陵)とされている。でも、学者は一致して、1.5キロ離れた「今城塚古墳」が真の継体陵だと推定している。考古学というより、史書の解釈の間違いということらしい。
(今城塚古墳)
 今城塚(いまきづか)古墳は、戦国時代に畿内の有力者だった三好長慶が城に用いて荒廃してしまったらしい。そこで江戸時代の学者は、真の継体陵は別だと思ったらしいのである。ところで、それだけなら「間違い」というだけなんだけど、今城塚は「陵墓参考地」にもならなかったので、なんとすでに発掘調査されている。多くの天皇陵は厳重に侵入禁止になっているのに、真の王陵と思われる今城塚は発掘できてしまった。そして「高槻市立今城塚古墳公園」として公開されているのである。
(今城塚古墳公園の埴輪像)
 その継体天皇の皇后は、前大王武烈の姉妹(姉か妹かは両説あり)、手白香(たしらか)皇女とされる。つまり、前王朝と女系でつながって、初めて旧体制に受け入れられたということである。二人の間に生まれたのが欽明天皇。継体天皇には長男安閑天皇、次男宣化天皇がいたため、欽明との間に皇位争いがあったという説もあるが、ともかく最終的には欽明の治世となる。その時代に仏教伝来や蘇我氏の台頭があり、敏達天皇や推古天皇の父として飛鳥時代につながる古代王権を確立した。

 その欽明天皇陵についても、真陵は現在のものではなく、見瀬丸山古墳だという説が昔からある。ちょっと細かくなるのでここでは詳しく書かないことにする。見瀬丸山古墳は陵墓参考地なので、普通は見られないはずだが、この古墳に関しては現地近くの子どもが偶然石室への入り口が開いていたのを発見し、父親が写真撮影したという「事件」がかつてあった。その後、写真がマスコミで報道され大きな反響があったのだが、1991年のできごとを覚えている人はどれぐらいいるだろうか。

 今も宮内庁では、何事につけ天皇陵への参拝を行っている。「天皇霊」に報告するということなのだろうが、そうなると治定が間違っているとするとどうなるのか。真の天皇霊を差し置いて、間違った墓に参拝しているということになるではないか。という風に、著者は怒っていて、宮内庁に再考を促しているのがこの2冊の本だということになる。でも、「天皇霊」などというものの評価以前に、そもそも「霊」なるものはあるのか。霊なんてないとすれば、誰がどこに拝もうが拝まなかろうが、御利益も祟りもないだろう。僕は純粋に古代ミステリーとして興味深いと思っているだけである。

 ところで、もう一点著者が大きく取り上げている問題がある。それは天皇陵の形の変遷。日本の国家形成時代には、有名な「前方後円墳」だった。それが蘇我氏の台頭とともに「方墳」とされ、さらに大化の改新後には大王の陵墓は「八角形」と定められたというのである。いや、それは知らなかった。ところが、近代になって、考古学の未発達の時代に、その時代の王陵が「上円下方墳」と誤認されたという。そして、それに基づいて近代の天皇墓も設計されたため、明治、大正、昭和の各天皇も「上円下方墳」で作られてしまった。それは錯誤によるものだから、再検討されるべきだというのである。

 ま、正直僕はどうでもいいような気がしたのだが、そういうことにこだわる人には重大な議論なんだろう。著者は読売の記者として、朝日に強烈なライバル意識があり、随所に考古学と関係ない朝日の論調批判が織り交ぜられている。それに記述が一般には細かすぎると思うので、飽きてしまうところもある。だから、皆が皆読むべき本でもないと思うけど、先に書いたように類書がない。古代史ファンには興味深いと思う。「天皇制」どころか、お墓一般に対しても、所詮関心の向かない人間としては、どうも飽きてしまったので、これまで書かなかった。でも、天皇陵のほとんどは間違いだという歴史関係者には周知のことも、そんなには知られてはいないかと思って書いておく次第。
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船戸与一「満州国演義」全巻読破記

2016年12月24日 23時33分13秒 | 〃 (ミステリー)
 2015年4月22日に亡くなった冒険小説の第一人者、船戸与一が最後に書きあげた畢生の大作「満州国演義」シリーズ全9巻を読み終わった。2007年から2015年にかけて新潮社から刊行され、没後の2015年8月から文庫化され始めた。2016年8月に全巻が完結したが、とにかく長いのでなかなか読む気になれない。せっかく買い続けていたので、10月頃から読み始めたが、何巻か読むと飽きてくるので、3回に分けた。最後の2巻を何とか今年中にと思い読み切った次第である。
 (画像は最終巻のみ載せておく。)
 400字詰めにすれば、なんと7500枚を超える超大作で、文庫でも500頁か600頁はある。基本はエンタメ系だから文章は読みやすい。でも長くて長くて、面白いことは面白いけど、なかなか終わらない。全部読んだ人は少ないと思うし、歴史を教えることを仕事にしていた人間としては、事実関係はほぼ知ってることばかり。最後も大日本帝国の敗北で終わることに決まってるので、新しい発見がない。だけど、一度読むと先を知りたくなる。判っていても知りたくなるのは、主要登場人物の敷島4兄弟は架空の存在だから、一体どうなるのか判らないからである。

 長州出身の父は有名な建築家で、4人の男児と後妻がある。長男・敷島太郎は東京帝大卒で外務省に勤務する優等生。奉天総領事館に勤務。次男・敷島次郎はささいなケンカから右目を失い、それをきっかけに家庭を飛び出し満州で「馬賊」になった。三男・敷島三郎は大学に行かず軍人の道を歩み、陸軍士官学校から関東軍勤務。四男・敷島四郎は無政府主義的な劇団に所属する早大生だが、劇団はつぶれ、父の死後に義母と結ばれる。自己嫌悪から日本を飛び出し、流れ流れて満州へたどり着く。彼ら4人兄弟を操るような、奉天特務機関員・間垣徳蔵なる人物が狂言回しとして登場する。この間垣と兄弟の関係は最後の巻でようやく明かされる。

 この小説はいくらなんでも都合良すぎではないか。事変時までは外務官僚太郎と関東軍の軍人三郎は時に対立する。しかし、いったん「満州国」建国と方針が決まると太郎もそれに従い、むしろ「国家建設は最大のロマン」と思う。その後は満州国の高級官僚に転じるが、傀儡国家の日系官僚には何の権限もない。時勢の傍観者となり、やがて自己の尊厳をなくしていく。一方、三郎は間垣に誘われるように、謀略の現場に立ち会い、やがて「憲兵隊の花形」として知られていく。満州国に抵抗する「抗日連軍」を追い詰めるなど「功績」を挙げ、日中戦争やノモンハン事件も見る。

 こういう「体制内」の人物と違って、「馬賊」の首領である次郎は、また別の立場と生き方がある。だが、「満州国」という体制下では「馬賊」の出番はなくなっていき、次郎も日本軍特務に協力するしか生きられなくなっていく。「大東亜戦争」が始まると、南方の戦場にも行き、日本軍の別動隊のような仕事を引き受ける。上の三兄弟と違い、特に独自の立場や仕事を持たない四郎は、ある秘密を間垣に知られているため、満州移民の調査、ハルビンの白系ロシア人の監視、満州映画協会での仕事、関東軍情報課の嘱託など様々な仕事を転々する。四郎を通して「満州国」の諸相が明るみに出る仕掛けになっている。

 どうも敷島4兄弟が歴史を語るための「道具」っぽいのが、この長大な小説の欠点だろう。「内地」の政界、あるいは軍内部の相克などを語らないわけにはいかないので、誰か情報通が登場して内部事情を解説してくれる。それなくして話が進まないんだけど、時事解説みたいな会話が多すぎる。結局、この小説の真の主人公は「満州国」なのである。「受胎」から「生誕」、そしてあとはひたすら「大日本帝国の運命に殉じる」だけの歩みがつづられていく。

 小説的妙味は薄いけれど、この小説から多くのことを学ぶことができる。「日本的組織」とは何か。いったん始められたことは、官僚的な責任逃れから、途中で止められない。失敗しても、だれも責任を取らない。今もさまざまな問題に付きまとう、そういった「無責任体制」がこれほどはっきりと可視化された歴史的瞬間はないだろう。世界を漂泊し、「辺境」から帝国秩序を撃ち続ける「冒険小説」を書き続けた作家、船戸与一。だけど、最後の最後には、「大日本帝国」内部の腐蝕を徹底して暴く小説を残した。ここでは「天皇制」をほとんど描いてないので、この後天皇制を主題にして書きたいと構想を練っていたというが、彼にはもう時間が残されていなかった。

 長いからなかなか読むのは大変だと思うが、現代史に詳しくない人には、とても読みやすい日本の戦争史になっている。本格的な歴史研究は大変だと思う人には、これは役立つだろう。最後に各巻の題名だけ挙げておく。第1巻「風の払暁」、第2巻以下は、「事変の夜」「群狼の舞」「炎の回廊」「灰塵の暦」「大地の牙」「雷の波濤」「南冥の雫」「残夢の骸」。おどろおどろしい熟語ばかり。
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四万温泉への旅行

2016年12月22日 23時45分28秒 |  〃 (温泉)
 群馬県の四万温泉に旅行してきた。群馬県にはしばらく個人で行ってなかったけど、実は前にずいぶん行ってる。四万温泉は特に大好きで、泉質もいいし、街歩きもいい。有名な「元禄風呂」がある積善館は素晴らしかった。「四万たむら」や「四万やまぐち館」も行ってるので、しばらくご無沙汰していた。久しぶりに行ったけど、やっぱりいいなあ。今月出た石川理夫「本物の名湯ベスト100」(講談社現代新書)では9位に選ばれている。でも、僕はトップの草津温泉より好きで、関東圏随一と思ってる。

 今回行ったのは「花の坊」というところで、温泉街の中心からはちょっと離れてる。年末の休日だから客は少ないだろうなと思ってたけど、他には誰もいなかった。たまにそういう時もあったけど、源泉かけ流し(だと思う)の広い湯を独り占めして申し訳ないような感じ。風呂の周りは畳敷きで、風呂の底は石が敷き詰められている。滑らなくていい。飲泉所もあって、4万の病に効くという名湯を飲める。

 宿の写真はあまり撮らなかった。着いた時はノンビリ気分で忘れてるし、チェックアウト後は何しろ客一組なのでずっと見送ってくれるから、すぐ出てしまった。(レンタカーで行った。)特に何をしようということもない「ノンビリ湯治」だから、いっぱい寝て元気回復。天候は年末とも思えぬ暖かさ。2日目はまず奥の日向見(ひなたみ)地区で、国指定重要文化財の日向見薬師堂を見る。何度か見ているのに忘れてる。1598年に真田信幸の武運長久のため建てられた、群馬県最古の建築物
   
 上の2枚目の写真を見ると、建物が二つある。奥の方が薬師堂で、その手前は「御籠(おこもり)堂」。薬師堂建造16年後に作られ、参拝する人が籠って祈りを捧げた。4枚目の写真は、薬師堂真ん前にある共同浴場「御夢想の湯」。無料なので入ってみた。小さくて熱いけど、源泉そのまま。その後町中に行って、河原の駐車場に停めて町歩き。新湯川沿いに「たむら」や「積善館」がある。下の写真は積善館の本館。下が元禄風呂だと思う。「たむら」の方に入っていくと、「落合通り」という「昭和レトロ」ムードの小路があって、今でもスマートボールなどの店がある。
  
 車が通る「四万中央通り」を歩くと、「塩の湯飲泉所」。他に何か所も飲泉所や足湯がある。飲泉できるところは、湯量も効能も確かな名湯である。町を歩くと古そうなお店がいっぱいある。昔の写真を貼っているお店があった。近づいてみると、なんと戦時中に東条英機が来た時のもの。ガソリン節約のため木炭製造奨励の視察で積善館に泊まったとか。(下の3枚目の写真、左上にあるもの。)
   
 1日目になるけど、四万温泉に行く途中の「四万甌穴群」を見た。甌穴(おうけつ)とは、川の水が渦巻き状になり石が川底をこすったため、岩盤が侵食された穴。川の流れのすぐそばまで近寄れるので、一見の価値あり。車で行くと、つい歩かなくなるので、川とか滝とかは努めて寄ることにしている。川の水がなんでこんなに澄んでいるのかと思うほど、キレイ。上流には温泉街とダムがあるのだが。
   
 今回は是非行きたい食事処があった。前橋の「そばひろ」という店。前から時々行っていて、大好きな店。通ぶらず、美味しいそばを出す。つゆに使う醤油に安中の有田屋を使っている。湯浅次郎という明治期のキリスト教社会運動家の実家である。安中は新島襄の出身地でキリスト教が盛んだった。湯浅は県会議長として群馬を廃娼県にする主導役となった。子どもの湯浅八郎は同志社総長となった。有田屋は今もホンモノにこだわる醤油を作り続けている。そこのホームページで知った店。田舎そばがおいしかったが、なんと「下仁田ネギの天ぷら」があった。カレー塩に付けて食べると絶品。
  
 場所は前橋インターを降りて、国道を直進してNHKの手前で産業道路を左折。道なりに行って、前橋マーキュリーホテルの向こう側。ホテルが目印になって探しやすい。2日目は水沢うどんに行くはずが、時間がなくて中之条の道の駅「霊山たけやま」で「けやき」という店のそば。さて、僕は冬に群馬や長野に行くことが多い。それは下仁田ネギが買いたいのである。太くて鍋などに煮込むとトロトロして素晴らしくうまい。大量に安く買うためには群馬周辺に行くしかない。ところが今回はなかなか道の駅を巡っても置いてない。「道の駅こもち」近くの「ぐんま村の駅」でやっと見つけたのであった。
 
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神武天皇陵とは何か③-近代に作られた「伝統」

2016年12月21日 23時15分48秒 |  〃 (歴史・地理)
 「神武天皇陵」関係記事の最後。まず最初に書いておくけれど、2回目に「真の初代天皇は誰か」と書き、それは10代崇神天皇ではないかと書いた。だけど、細かいことを言い出せば、その時代には「天皇」とは呼んでいない。だから、本当の意味での「初代天皇」は、「天皇号」を使い始めたのは誰か問題になる。古く取れば33代の推古天皇時代という説もある。また壬申の乱に勝利した天武天皇の時代からという説もある。まだ完全には解決していないので、通説というほどには語れない。

 まあ7世紀あたりには「天皇」という称号を用いていると思われている。今はその問題は考えないことにする。ある時代までは、「日本」ではなく「倭」「天皇」ではなく「大王」(オオキミまたはオホキミ)だけど、混乱を避けるため通常使っている「天皇」で全部を通すことにする。ついでに言うと、古代史の段階で「朝鮮人」と表記することも問題が多い。当時の人からすれば、「百済」「新羅」「高句麗」と別々に把握していたはずで、後の時代の王朝名である「朝鮮」として見ていた人はいないはずだ。

 さて、神武天皇陵の問題。いないはずの天皇になぜお墓があるのか?この問題は実は奥が相当深い。天皇の墓は「陵」(りょう、みささぎ)というが、歴史の中の各時代で、常に大事にされてきたわけではない。というか、後の時代になると、天皇はさっさと譲位して、出家して仏教徒となった。10代で即位し、10代で譲位した人もいて、そういう人が何十年か後に亡くなる。火葬して寺に葬られるのが普通だった。天皇家として古代の巨大古墳を大切にしてきたということもなかった。

 だから、大体の古墳は盗掘されていて、天皇陵も同じ。長い歴史の中で、どれが誰だか、全然判らなくなっていたのである。古代の巨大古墳の中で、天皇陵の被葬者が正しいとされるものは数少ないのである。天武・持統合葬陵(夫婦だった天武と持統は同じ古墳に葬られたと記録にある)は、その数少ない例外だけど、それは中世に盗掘された時の記録があるのである。(1235年のことで、藤原定家の日記「明月記」に載っている。犯人は後に捕まって磔になった。)

 では、数多くの天皇陵はいつ定まったのか。(定めることを「治定(ちじょう)」という。)それは幕末から明治初期のことなのである。江戸時代中期になると、国学の勃興により「勤皇思想」が高まってくる。それは反幕府的な側面もあったけど、幕府だって「天皇の任命で将軍になる」わけで、特に幕末は「公武合体」路線だったから、幕府の手によって天皇陵の治定と修復が行われた。1862年から行われ、それを「文久の修陵」と呼んでいる。

 その時に決まった治定は、今では多くの疑問を持たれているものがほとんどである。でも、だからと言って、幕府がデタラメに決めたということではない。「日本書紀」や「古事記」、あるいは「延喜式」(えんぎしき=律令の細則を式といい、平安時代初期の醍醐天皇に時に作られたものを延喜式という)などの記述を比較検討し、それなりに合理的に決めていったわけである。だけど、その当時は科学的な考古学の知見がまったくない時代なんだから、今の目で見ると時代が違っていたものがいっぱいある。

 神武天皇陵も「文久の修陵」によって、1863年に現在の地に決められた。150年ほどの歴史しかない、「作られた伝統」なのである。だけど、神武天皇陵に関しては、それだけでは済まない。なぜかと言えば、7世紀後半の段階で、実際に神武天皇陵が作られていたと思われるからである。何で判るかと言うと、日本書紀によれば、壬申の乱(672年)に際して、大海人皇子(乱に勝利して、天武天皇となる)が使者を送っているという記載があるのである。
(「神武天皇陵」)
 大海人皇子といえば、伊勢神宮に参拝して戦勝祈願をしたことが知られている。「伊勢神宮」と「神武天皇陵」という、「天皇制の2大神話装置」はすでに天武時代に作られていたのである。では、その時の神武天皇陵はどこだったか? それは歴史の中で判らなくなった。探し出そうという試みは江戸時代中期からあって、元禄時代には決められたんだけど、それは今は2代天皇綏靖(すいぜい)天皇陵とされている場所だった。要するに、史書や地形、地名の伝説などを考えていくと、なかなか決めがたく、候補は3つあったという。そこで、先に決めたところと違う場所に幕末に決めなおしたのである。

 さて、では今の神武天皇陵は、大昔に神武天皇陵があった場所と同じなんだろうか。そこまでは僕には判らない。今の場所でいいのではという考えもある。それにしても、それは「神武天皇」なる架空の人のお墓ではないはずだ。大体、今の神武天皇陵は円墳であって、なんで初代天皇に作られるべき巨大な前方後円墳じゃないのか。それはそれとして、古代の段階で「神話時代の初代天皇」伝説が作られていたということは注目すべきことだと思う。それをどう捉えるかはよく判らないんだけど。

 では、そういう神武天皇陵には参拝する意味があるのだろうか。「意味」などどうでもいいのか。「こころの問題」なんだから…。と言われてしまえば、それまでだが。天皇制とか天皇陵、あるいは参拝に意味があるかなどの問題を別にして、どうせ参拝するんだったら、他の天皇陵に行った方が「効果」があるんじゃないか。だけど、「靖国神社」とか「国歌」とか「紀元節」(建国記念の日)とか、みんな「近代になって作り出されたもの」である。日本の「真の伝統」でも何でもない。だから、「近代に作られた伝統」を守って神武天皇陵に行くということなんだろう。
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神武天皇陵とは何か②-真の初代天皇は誰か

2016年12月19日 23時15分05秒 |  〃 (歴史・地理)
 神武天皇(じんむてんのう)は、紀元前660年に即位したとされる初代天皇である。「日本書紀」とか「古事記」などの史書にそう出ているわけだけど、もちろんこの年代は操作されたものである。紀元前660年といったら、弥生時代の初期(または縄文時代の末期)である。「クニ」(国)が成立していない段階に、天皇(王)が存在するわけがない。だから、この年代には何の根拠もない。

 年代は後から古く書き直されたものだが、神武天皇という人物そのものは実在したという考えは成り立つだろうか。(ちなみに、紀元前660年というのは、中国の辛酉革命説に合わせたというのが通説。)神武天皇、あるいは神武天皇「東征伝説」的なことを成し遂げた人物(邪馬台国東進説的な出来事があったとして)はいたのだという人がいないわけではない。でも、歴史学では「初から9代までの天皇はいなかった」というのが通説になっている。

 天皇の歴史を学問的に研究することは戦前には難しかった。でも、津田左右吉などの先覚的な研究者がいて、いろいろと研究されてきた。昔から注目されているのは、2代から9代の天皇には、ほとんど細かな事績が書かれていないということである。それを「闕史八代」(けっしはちだい=今は「欠史八代」とも書く)という。まるで日本書紀の作り手が、後世の人々に「これらの天皇は架空ですよ」と密かにメッセージを送っているかのようである。

 そして、それ以上に重要なのは、神武天皇の名前である。もちろん、「神武」というのも、「天皇」も後から付けたものである。今だってそうだけど、〇〇天皇というのは「諡号」(しごう=死後の贈り名)として付けられる。それ以外にさまざまな名前があって、古代には「和風諡号」などがいくつもある。「日本書紀」では神武の名の一つに「始馭天下之天皇はつくにしらすすめらみこと)」というのがある。初めて天下を治めた天皇という意味で、初代天皇にふさわしい名前である。

 ところが、第10代崇神天皇(すじんてんのう)も、後から付けられた漢字表記は違うものの、読み方も意味もまったく同じ「御肇國天皇」(はつくにしらすすめらみこと)という名前を持っているのである。「初めて天下を治めた」という天皇が二人いるのはおかしいではないか。そして、崇神天皇には非常に大きな古墳(全国16位)の崇神天皇陵が存在する。もっともそれが真に崇神天皇の墓なのかについては異論もある。でも、大古墳がある以上、誰か重要人物が葬られているわけである。

 その当時は「崇神天皇」という名もないし、葬られた人物も確かには判らないので、今はできるだけ地名で呼ぼうという風になっている。崇神天皇陵は「行燈山(あんどやま)古墳」と呼ばれる。(測り方によっては世界一とも言える「仁徳天皇陵」は「大山(だいせん)古墳」である。)行燈山古墳は、日本最古の大古墳である「箸墓古墳」にも近い。大神神社(おおみわじんじゃ)のある三輪にあることからも、行燈山古墳の被葬者が日本最古期の王権と深い関係があるのは間違いない。
(行燈山古墳)
 ということで、崇神天皇こそが真の初代天皇ではないかというのが、大体の学者の考えていることだと言える。この崇神天皇も120歳まで生きているなど、記紀の記述にはおかしな点が多いんだけど、それは「後から引きのばされた」と考えるわけである。とにかく、古墳が実在する以上、3世紀半ばから後半にかけてのころに、大和を中心にした王権が成立したことは間違いない。

 ということで、では皇太子一家が参拝した「神武天皇陵って何?」ということになる。実在しない伝説の天皇になんでお墓があるの? しかし、不思議なことに2代から9代も含めて、全部の天皇にお墓が決まっている。(「陵墓参考地」などというのまである。)神武天皇陵はどうして、大きな古墳ではないのか? 日本最初の天皇、そしてそれに続く天皇には大きな古墳があるべきではないのか。実際、10代以後の天皇陵とされているものは、いずれも巨大古墳である。そして、この問題にはなかなか興味深い歴史があるのである。ホントはそれを書くつもりだったけど、長くなったのでもう一回。

 今夏の参院選のあとで、この神武天皇に関して興味深いエピソードがあった。僕も直接見てたんだけど、テレビ東京で三原じゅん子(自民、神奈川選挙区から当選)に池上彰がインタビューしたところ、以下のように答えたのである。非常に驚くべき答えが返ってきたので、ビックリした。

Q.先ほどのVTRの中で、神武天皇以来の伝統を持った憲法を作らないといけないとおっしゃってましたね。どういう意味なんでしょうか。明治憲法の方が良かったということでしょうか?
A.全ての歴史を受け止めて、という意味であります。
Q.神武天皇は実在の人物だったという認識なんでしょうか?
A.そうですね。いろんなお考えがあるかもしれませんけど、私はそういう風に思ってもいいのではないかと思っています。
Q.あ、そうですか!学校の教科書でも神武天皇は神話の世界の人物で、実在していた天皇はその後だということになってますが?
A.神話の世界の話であったとしても、そうしたことも含めて、そういう考えであってもいいと思います。

 日本の「反知性主義」もここまで来ているのである。右派論客の言説を聞きかじって、まともな歴史書を読んだことがないんじゃないだろうか。リーダー層の「常識」が崩れているのは、世界のあちこちで見受けられることだと思うが、こんなところにも日本の劣化がうかがわれる。
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神武天皇陵とは何か①-「皇太子参拝」と退位問題

2016年12月18日 22時32分01秒 |  〃 (歴史・地理)
 2016年の大きなニュースで、書いてない問題がいくつかある。「天皇退位問題」もその一つ。書いてなかったのは、書き始めると大変な割には、まああまり自分に関心がないからである。今年の重大ニュースを選ぶときに、熊本地震や障害者施設襲撃事件、参院選の結果なんかより、退位表明が上にくるというのもおかしいんじゃないか。(社会部長選出ニュースはそうなっている。)

 7月16日午後7時直前に、NHKがニュース速報で「生前退位」を報道し、直後の7時の定例ニュースで、さらにくわしく報道した。僕はたまたまニュース速報から見ていた。確かにちょっと驚いたんだけど、「日本史の多くの時期の常道」に戻るだけののことだと思った。その後の報道によれば、天皇自身はかなり前からいずれ退位を考えていたという。一方、安倍内閣はこの問題に熱心ではなく、中には深刻な対立があるという憶測もあるようだけど、僕はあまり関心はない。(9月に宮内庁長官が退任し、それは70歳の年齢を理由としているものだが、次長が昇格した後の後任次長に内閣危機管理監(元警視総監)が就任した。その人事を「官邸が監視役を送り込んだ」と見る向きもあるようだ。)

 その後「有識者会議」が設けられ、「有識者」(不思議な言葉で、特に天皇制や憲法を研究してきたわけではない人まで呼ばれている)のヒアリングが行われた。3回目に来た八木秀次氏なんかは、「退位の容認は天皇制度を決定的に毀損する懸念があり反対だ」と激越な反対論を述べている。この人は安倍ブレーンで知られているから、なるほど安倍首相は手を付けたくない課題だったのか。この八木氏は、日本教育再生機構理事長であり、育鵬社の中学公民教科書を作っている人である。こういう国民世論とかけ離れた人が関わっている教科書を子どもたちに使わせているのである。

 ところで、その後僕が注目したのは、夏に皇太子一家が神武天皇陵を参拝したという出来事である。その日時を調べてみると、宮内庁のホームページの「皇室のご活動」に「皇太子同妃両殿下のご日程」という項目がある。そこに、「平成28年7月21日(木) ~ 平成28年7月22日(金) 奈良県及び京都府行啓(神武天皇山陵ご参拝,引き続き京都御所ご視察)」とあり、 「皇太子同妃両殿下並びに愛子内親王殿下 ご参拝(神武天皇山陵(橿原市))」と出ている。
(「神武天皇陵」を参拝する皇太子一家)
 皇太子の徳仁(なるひと)は学習院で歴史を学び、日本中世史の研究を行った。大学院前期課程を終了している。学習院では、日本近世史の児玉幸多氏を初め、きちんとした実証史学を学んでいるんだろうから、当然神武天皇は神話上の架空の存在だと判っているはずである。それなのに、なぜわざわざ夏休みに家族で参拝に訪れるんだろうか。僕はそのことに疑問があった。

 ところで、「生前退位」と当初は報道されたが、明治以後は天皇の終身在位が決められていたから、こういう言い方をするのも判る。でも、「退位」は「生前」に決まってるから、繰り返しになる。それに「退位」して自分で終わりではなくて、当然皇太子が後継となると想定しているわけだから、それは退位というより「譲位」と呼ぶべきだと思う。(だんだんそうなって来ている。)

 天皇が皇太子に譲位すると、祖父や父のような生物学ではなくて、歴史学という人文科学を学んだ天皇が誕生する。果たして、次代の天皇は宮中の祭祀を父祖のように大切に扱うのだろうか。僕が思うに、右派、天皇絶対主義者にはそういう心配があるんじゃないだろうか。そして、父の退位意向の表明を受けて、皇太子は右派に向かって「心配はない」というメッセージを送らざるを得なかったのではないか。今後とも、歴史は歴史として、天皇制の神話的祭祀のシステムは受け継いでいくという表明ではなかったか。そんな気がしたわけである。

 さらに合わせて、皇太子妃や内親王につきまとう健康状態への懸念、それが退位問題の障害にならないように、一家で参拝ということになったのかもしれない。中学3年になった内親王も、先のホームページで見ると、昨年と比べてかなり出掛けている。8月10~11日には、上高地で開かれた第1回山の日記念式典にも一家で出席している。(宿泊は松本市。)そういうことも、次代の天皇一家の「自覚」からかもしれない。しかし、その「頑張り」が秋に「反動」となったということなのか。それはともかく、そもそも「神武天皇陵」とは何なのだろうか
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黒川博行「破門」とマカオのカジノ

2016年12月16日 23時17分12秒 | 〃 (ミステリー)
 黒川博行の直木賞受賞作「破門」(2014)が文庫化(角川)されたので、さっそく読んだ。黒川博行の本は、いつも面白くて満足するんだけど、直木賞ノミネート6回目にして、この本でやっと受賞に至った。映画化されていて、来年早々公開予定。今年大竹しのぶ主演で映画化された「後妻業の女」の原作「後妻業」も文庫に入ったので読んだ。映画は見てないけど、ミステリーとしては「破門」の方が面白い。

 「破門」は「疫病神シリーズ」の第5作で、僕は全部は読んでないけど、最初の「疫病神」と次の「国境」は抜群に面白い。「国境」は多分「破門」より面白かったと思うから、これで直木賞を取るかと期待した。(その時は、山本一力「あかね空」と唯川恵「肩越しの恋人」が受賞し、石田衣良や乙川優三郎も落選した激戦回だった。)ヤクザの桑原と建設コンサルタントの二宮が「腐れ縁」で動き回るようすを、絶妙の関西弁会話で追っていく。会話に引きずられ、いつのまにか作品世界にどっぷり浸かってしまう。

 二宮はカタギなんだけど、父親が組長だったので幼いころからヤクザ世界に近かった。稼業のコンサルタントも、要するに建設業界のヤクザ対策みたいなこと。いつの間にか、何かというと絡んでくる「イケイケ」のヤクザ、桑原に付きまとわれるようになっている。今回はなんと映画製作。関西で一番映画を作ったともいう小清水なるプロデューサーが、「フリーズ・ムーン」という日韓、それに北朝鮮も絡むアクション映画を作るという。ついては(「国境」で)北朝鮮まで見ている二宮たちにも助言を求めたい…てな成り行きで、自分たちも映画に投資することになる。ところが、ところが…。

 まず、最初の映画作りの実際の話が面白い。黒川博行は大の映画ファンということで、細部の取材も行き届いている。昔のように、大映画会社がどんどん自社で製作する時代ではないから、企画の後で製作委員会を作って出資を募る。当たればいいけど、こけたら大損。一種のバクチ的な仕事である。会社で作るなら、当たった映画で当たらない映画を帳消しにできるけど、今はなかなか難しい。ところで、この小説では映画製作どころでなく、途中でプロデューサーが金持ってトンズラする。

 桑原たちはその裏を探って、どんどん深みにはまってしまうのは、例によっての展開。ついにはマカオのカジノまで出かけてゆく。ウィキペディアによれば、作者は大のギャンブルファンで、若いころは阿佐田哲也(色川武大)の世話になったという。直木賞受賞時の記者会見でも、賞金の使い道は、マカオに行こうと思うと言って沸かせたと出ている。そんな作者の実体験が、実に見事に造形化されていて、これがカジノかとよく判る。とにかく絶対に儲からない。

 他のギャンブルに比べても、格段に高額な金が動く。競馬や競輪は一日にそんなにできない。馬を一日も何度も走らせるわけにはいかない。だけど、ルーレットは一日に何度も回せるし、バカラやブラックジャックなどのカードゲームもいくらでもできる。パチンコは一日中やってる人もいるだろうが、一日で何千万とか何億とかなくすことはない。依存症は多いだろうけど、カジノみたいに一日に何百万も儲けるとか損するという世界はカジノだけ。自分の金で損するだけならいいけど、多くの人は借金しても損を取り返そうとする。近寄らない方がいいなと思った。

 いや、そういう場のヒリヒリするようなスリルが想像できないわけじゃない。やみつきになれば、それは他の何物にも代えがたい魅力なんだろうと思う。でも、冷静に考えれば、まずは負けるわけ。なのに何故やるか。作者は二宮に「ま、いうたら、滅びの美学ですね」と言わせている。なるほど、そういうもんか。では、国と町の尊厳を捨てて、カジノを作って客を呼びたいという発想も、一種の「滅びの感覚」(美学とは言えない)がベースにあるのかなと思った。国が衰退に向かうと、そういう人が出てくる。

 ま、それはともかく、黒川博行の小説は、外れなく面白い。いやあ、こんな展開でいいんかいと思いつつ、知らない世界をのぞく面白さ。とにかく会話が面白く、あっという間に読めるけど、元が長いかからやっぱり数日掛かってしまう。疫病神シリーズもいいけど、悪徳警官ものの「悪果」もムチャクチャ面白い。たまにこういう本を読んで、厄落としというか、そういうことをするのは必要だと思う。
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「フリースクール法案」と「10年研修」のゆくえ

2016年12月15日 20時38分40秒 |  〃 (教育行政)
 今秋の臨時国会で、「カジノ法案」なんかが成立した(強引に成立させた)わけだけど、その陰で二つの教育に関する法律が成立していた。僕はかつて「フリースクール法制化への疑問」(2015.6.8)を書いた。その法案は、議員立法で「教育機会確保法」として成立した。一方、「『10年研修』廃止へ」(2013.12.16)と書いた問題は、「教育公務員特例法等の一部を改正する法律」として、新しい研修制度へ変更されることになった。あまり知られていないと思うから、ここで簡単に紹介しておきたい。

 まず、「10年研修」問題から。ほとんど報道されていないし、現場教員以外にはあまり意味がない。僕も詳しく知らないのだが、文科省の「教育公務員特例法等の一部を改正する法律について」を見ることにする。「教員職員免許法」も改正されているが、教員免許更新制などの本質的なものではない。

 今回の改正で、確かに「10年研修」というものはなくなっている。代わりに「中堅教諭等資質向上研修」というものになった。これは受けなくてもいいんだろうか。任命権者(校長)は、「実施しなくてはならない」と書いてある。対象は「学校運営の円滑かつ効果的な実施において中核的な役割を果たすことが期待される中堅教諭」である。期待されてなければ、受けなくてもいいリクツだけど、その場合は「主任教諭」とか「指導教諭」への昇任は望めないのだろう。必ずしも10年でなくてもいいということであり、事実上どこかで「中堅教諭研修」を受けないとやってけないんだろうと思う。

 さて、次に「教育機会確保法」について。正式な名前は、「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」である。もともとは、不登校生徒が通う「フリースクール」を制度化し、フリースクールに通うこと(学校以外での学習)も義務教育として認めることを目指していた。それはいいことばかりではなく、弊害もあるのではないかと僕は思うので、前期ブログに書いておいた。ところで、今回の法律からはそういった発想は消えてしまっている。

 それは弊害に配慮したわけではなく、自民党の中に「義務教育は学校が担う」「不登校を助長する」などといった守旧的発想の反対論が多くなったからである。この法のポイントは、国や自治体は「不登校児童生徒に対する適切な支援が組織的かつ継続的に行われることとなるよう、不登校児童生徒の状況及び不登校児童生徒に対する支援の状況に係る情報を学校の教職員、心理、福祉等に関する専門的知識を有する者その他の関係者間で共有することを促進するために必要な措置その他の措置を講ずるものとする」ということである。

 つまり、「情報」を「共有」することを「促進」するという程度の話になってしまっている。まあ、「法的裏付け」ができたという意味はあるのかもしれないが。では、この法律がまったく意味がないかというと、そうでもないと思う。僕の見るところ、二つの重要な点がある。一つは、不登校生徒の「休養」の必要性が認められたことである。

 「不登校児童生徒が学校以外の場において行う多様で適切な学習活動の重要性に鑑み、個々の不登校児童生徒の休養の必要性を踏まえ、当該不登校児童生徒の状況に応じた学習活動が行われることとなるよう、当該不登校児童生徒及びその保護者(学校教育法第十六条に規定する保護者をいう。)に対する必要な情報の提供、助言その他の支援を行うために必要な措置を講ずるものとする」というのである。「不登校」の場合、「休養」が必要だと認められたことで、登校へ向けた過度な圧力に対抗できる法的根拠ができたことになる。

 もう一つは「夜間中学」設置の法的根拠ができたことである。ちょっと面倒くさいけど、法を読むと、明らかに夜間中学(中学校の夜間課程)を置き、学齢期を超えた人にも教育機会を与えるという規定になっている。「地方公共団体は、学齢期を経過した者(その者の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから満十五歳に達した日の属する学年の終わりまでの期間を経過した者をいう。次条第二項第三号において同じ。)であって学校における就学の機会が提供されなかったもののうちにその機会の提供を希望する者が多く存在することを踏まえ、夜間その他特別な時間において授業を行う学校における就学の機会の提供その他の必要な措置を講ずるものとする。」

 文科省によれば、現在の夜間中学は8都道府県、31校にとどまっている。(文科省サイト「中学校夜間学級の推進について」。)文科省も各都道府県に一つは設置されるよう求めている。今のところ、大都市部中心に設置されていて、北海道・東北・中部・四国・九州には一つもない。それらの地方でも、「自主夜間中学」の活動が行われている地区もある。地方財政厳しき折ではあるだろうが、こうして法的根拠ができたわけで、夜間中学設置の動きが広まることが期待される。マスコミなどもぜひ支援していって欲しいと思う。
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迷走する「新テスト」-「記述式」をどうするか

2016年12月14日 23時28分55秒 |  〃 (教育問題一般)
 今の「センター試験」を2019年度で終わりにして、2020年度からは新しい入試制度に変えるという議論が続いている。自分の時代は、そんなものはなくて、国立大学が前期、後期と分かれていた。1979年から89年まで「共通一次(大学共通第一次学力試験)」が行われた。1990年度から「センター試験(大学入学者選抜大学入試センター試験)」となる。僕は今でもつい「共通一次」なんて言ってしまう。

 何で変えるのか? 「マークシート」中心の現行試験では、これからの時代にあった学力を測るには不十分だというようなことを言っている。だから、「新テスト」では、「記述式」が導入される。「思考力」や「表現力」を記述式テストで測るというのである。当初は国語と数学から始め、やがては英語の「書く」「話す」試験も行い、コンピュータによる出題・解答も始める。

 記述式だと採点に時間がかかる。だから、今は1月中旬の試験を、もっと早くする、2学期中にやるという意見もあった。そうすると、高校の行事や授業に大きな影響を与えるから、高校側の反対が強い。そもそも、このテストも一年に複数回実施して、いつ受けてもいいようにするという案もあった。これは難しいということでなくなったようだが、実施時期も結局は今と同じになりそうだ。そうすると、採点の時間が取れるか、公平性が保てるかという問題が出てくる。

 そこで、記述式も「40字~80字」とし、採点も民間委託するという案も出てきた。これじゃ、「思考力」や「表現力」を見るというより、「受験テクニック」を見るというのに近い。もっとも、受験テクニックを身に付けるのも、思考力が必要ではある。だけど、それを言い出すと、マークシート式だって、思考力がないとできない。「現実」という壁にぶつかって「迷走」しているとも思えるが、ある意味では「民間委託」=大規模な教育関係企業がうるおうというのは、「全国学力テスト」でも同じ。自民党の「民間活力」重視路線からする当然の成り行きとも思う。

 結局「大山鳴動して鼠一匹」的なものになりそうだけど、ネズミ一匹でも出てくれば成果と考えるか、混乱しただけだったとなるか。そもそも「日本社会にとって、大学入試とはどうあるべきか」の国民的議論なしに、何も変えても大きな変化は起きないだろう。そもそも、高校卒業(見込み)、または高校卒業程度認定試験に合格していないと、大学を受験できない。だから、「高卒程度の学力」は全員が身に付けているはずである。でも、それはタテマエで、高校と言っても千差万別、学力という点では大きな差があるのも事実だろう。だから、「高校卒業テスト」の方を作れという議論もある。

 でも、それは無理というものだ。秋の間に大学への推薦や就職試験などが済んでいて、その後に「高卒テスト」に合格しないと卒業できないという全国テストなんかできるわけない。それに、単位の認定、卒業の判定は、高校長の権限とされている。それを変えると、他の教育課題への影響が大きすぎる。だから、各高校が卒業を認定し、それで様々な生徒が社会へ出て行くということになる。

 大学生、あるいは高校生の教育において、もっと「思考力」や「表現力」を磨くべきだと言われると、それはそうだと思う。でも、それは大学入試という場で測定可能なのか。それができるとしても、たかだか数十字の記述では測定不能だろう。それに、記憶力をもとにした「基礎的知識の理解度」だって、大事に違いない。英語力に関しても、「読む力」「聞く力」だけでなく、「話す力」「書く力」が大事なのは、もう当然すぎる。だからって、時間の限られた試験という場で、あえて問う必要があるんだろうか。

 そういう風に、短い時間において、多種多様な能力を測定しようということになると、当然「試験テクニック」の重要性が大きななるに決まってる。そうなんでもかんでも、大学入試に求める必要はないんじゃないか。特に英語などは、思い切って試験科目から外し、外部の英検などで代用するのも一案だと思う。大学は事前に、求める学生の英語能力を決めておく。ある一定の資格を有するものが受験すればいい。大学では、論文を2日ぐらいをかけて書く。そういう入試だけを行う。推薦入試などは廃止する。それが一番、「思考力を問う入試」になるんじゃないだろうか。

 それにしても、大学の先生も大変そうだなあというニュースが多い。文系科目の扱いもそう。理系だって、毎年のようにノーベル賞受賞者が続いているけれど、受賞者はみな「国は基礎的研究に力を入れて欲しい」と必ず言っている。とにかく、「実利優先」のような高等教育行政を行っていると、いずれ大変なことになる。文系理系といった枠を超えて、哲学や論理学、倫理学などへの深い考察を若いうちにすることが大事なんじゃないかと思う。
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いじめ問題、あらためて考える

2016年12月13日 23時32分13秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 2016年も残り少なくなり、書かずにいた問題をいくつか書いてしまいたいと思う。「教育問題」について、折々に書きたいと思いながら、そのままになることが多い。今年の「教育事件」としては、「いじめ問題」がかなり多かった。前回この問題を書いたのは、2013年末の「いじめ防止対策法はできたけれど…」である。法成立から数年たって、そこで書いたように「形骸化」しているのかもしれない。

 最近の傾向として、「ネットいじめ」が特に多いのと、「原発事故避難者」へのいじめという問題が起こったことが挙げられる。日本も含めて世界中に、理想社会などどこにもない。どこも不完全な社会に、不完全な人間が住んでいるのだから、さまざまな社会問題、オトナ社会のゆがみが子ども社会に反映されてくる。それにしても、「原発事故」という日本にとって非常に衝撃的な出来事が、こうして矮小化されていくのかと思うと、「これが今の日本なんだ」と痛感する。

 文科省の有識者会議は、いじめ防止対策を議論した結果、「自殺予防、いじめへの対応を最優先の事項に位置付ける」と提言するそうである。(朝日新聞2016.10.25)一見して、いいこと、当然のことのように思われるが、恐らく「教師いじめ」としてしか機能しないだろうと思う。新聞に載るようないじめ事件は、教師人生で一生に一度あるかないかである。(というか、普通はない。)いじめ対応が「最優先」と言われても、毎年必ずある「全国学力テスト」の方が目の前の課題に決まってる。テスト結果を公表し、それが学校評価に使われ、教員の評価にも関係してくるといった「競争的教育政策」をそのままにして、「いじめ対策が最優先」と言われても…。

 学校という職場は、企業として考えれば「小企業」である。業種ごとに多少違うが、「中小企業」というときの「中」に入るには、従業員数100人超が必要だろう。教職員が100人超なんて学校は大学しかないし、小規模の小中学校では20人~30人程度だろう。そこに〇〇委員会をやたらに作っても機能するのは難しい。僕が先に書いたように、「学年会」と「生活指導部会」がきちんと機能する方が大事だ。そこがいじめ防止の最前線であり、いじめ問題が広がる前に事前対策を打ち出せるのは、当該生徒を抱える学年教員団しかない。そのためにはどうすればいいか。

 それなのに、「認知件数少ない自治体に『指導を』」などと先の新聞記事にある。それじゃあ、教師が頑張って、大きないじめが発生していない学校はどうなるのか。いじめる生徒がいないと困ってしまうではないか。本末転倒もきわまる事態になる。どうするかと言えば、大した事件でもないものを、いじめ認知も少しは必要だからと「格上げ」して報告し、「解決に至った」とするしかないだろう。管理職の作文能力がより必要になるということなんだろう。

 昨今のニュースで報じられたいじめ事件に関しては、学校側が「家庭がいじめとして相談しなかった」とか、たかり行為がひんぱんに起こっていながら危機感を持たないなど、ちょっと考えられない事態が多い。「いじめ」を法的に規定したために、一種の行政用語になってしまい、「いじめかどうか」といった問題で堂々巡りをしてしまう。「いじめ」だとしたときに、指導や報告の義務を大きくし過ぎると、現場的感覚で「まあ、いじめとまで言わなくてもいいんじゃないですか」となりやすい。

 背景にある「教員多忙問題」を何とかしない限り、同じようなことは繰り返されると思わないといけない。大体、文科省や政治家が要求しているのも、「いじめなんか起きないように、生徒をよく管理するように」と、教師の「生徒管理能力」を高めたいという発想が強い。それでは「教師の前では、管理された言葉しか使わない子ども」を量産するだけである。

 「教員の人権センサー」をみがき、子どもたちの中の暴言、暴力にひそむ反人権文化を変容させていくといったことは考えていないだろ。そういう「人権センサー」のすぐれた教員は、当然のように教育行政の問題点にも敏感になるし、子どもたちの現実批判力も付けてしまう。本来は教師が主導して、子どもたちの中の人権感覚を高め、自らいじめ撲滅につながる試みをしていかないといけない。

 原発事故避難者へのいじめ多発が報じられる今こそ、「原発事故とは何か」「原発は今後どうすればいいのか」を、教師も子どもも、また保護者も含めて、自由闊達に討論する場が必要なはずだ。でも、そんなことはできないんだろうと思う。政権の原発維持方針がはっきりしているから、「政治的中立を冒す」とかなんとかいう輩が出てくる。少なくともそういう心配をする人がいる。でも、学校でその問題をタブーにしていながら、子どもへのいじめだけは防ぐということはできるのか。いや、それはいいから、タテマエを言い続けろということか。

 これも以前に書いているが、「いじめゼロ」は学校目標ではない。「思いやりのある子どもを育てる」とか、そっちの方が目標である。目標達成に近づけば、自然にいじめは減るわけだ。そのためには、「子どもが生き生きとした学校」でなくてはならない。そして、さらにその前に「教師が生き生きとした学校」でなくてはいけない。いまの教員は、毎日学校で楽しいんだろうか。子どもたちのこと以前に、僕は最近はまずそっちが心配になるんだけど。教師が生き生きとして、知的活力にみちて働いている学校は、どれだけあるんだろうか。
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新宿御苑とその周辺

2016年12月11日 21時40分35秒 | 東京関東散歩
 「新宿御苑」を3回ほど訪れた。最近は外国人観光客の人気スポットなんだそうで、確かに外国人が多い。山手線内、それも新宿からすぐ近くに、これほど素晴らしい庭園があるんだから、それも当然だろう。僕も若いころから何度も行ってるけど、広いから全部見て回るのはけっこう大変である。

 入園料200円だから、新宿で映画を見る前なんかにちょっと寄れる。やっぱり一番いいのは、旧御凉亭(台湾閣)から見た日本庭園だろうか。「台湾閣」という建物は、大沢在昌の新宿鮫シリーズ第2作「毒猿」に出てきて、ドンパチ大乱戦が繰り広げられる。どんなとこかと思ったら、何だ行ったことあるじゃないと思ったことがある。昭和天皇(皇太子時代)の「ご成婚」記念に台湾在住日本人が贈った中国風の建物である。日本庭園が一望できて、みんな庭の方を見て写真を撮っている。
   (1枚目12.6、2枚目12.10)
 この「旧御凉亭」の建物を池の方から撮ると以下のような感じ。「新宿御苑」の写真を撮ろうと思ったのは、そう、「君の名は。」と「言の葉の庭」を見たから。「言の葉の庭」は直接新宿御苑で展開される。雨の日は学校をさぼって御苑で本を読んでる男子高校生の物語。そこにフシギな女性も現れて…。そんな二人が雨宿りしながら本を読んでる東屋のようなところは案外少ない。ベンチと休憩所は多いけど。実は喫煙所なのである。台湾閣から下りて行ったところに似たような場所があった。
  
 新宿御苑を歩いていると、向こうに大きなタワーが見える。東京タワーやスカイツリーじゃないし、あれが東京都庁かなんて間違えている人がよくいる。これは「NTTドコモ代々木ビル」、通称ドコモタワーである。本社ビルじゃなくて、上の方は機械室。だから展望台もない。代々木駅のすぐ東にある。御苑の西側すぐで、大きく見えるのも当然。11月24日の雪の日には、上が見えなかった。
   
 イチョウの木は千駄ヶ谷門の入り口前に大きな木があって、御苑に来たという気分が盛り上がる。他にアチコチにあるけど、もう大体終わりに近づき、11月24日に行ったときが良かった。
   
 紅葉は12月6日当時は最後という感じで残っていた。もうほとんど終わりだろうけど。
  
 日本庭園のあたりが「上の池」、そこから「中の池」「下の池」と水辺の景観が美しい。もう一つ、大木戸門(御苑の東北)近くに「玉藻池」がある。もともと江戸時代は内藤家の屋敷で、その名残を残すという。その間に広大な芝生フランス式整形庭園(バラ花壇)がある。そっちはほとんど行ってないので、こんなところがあったのかという感じだった。ブラブラと歩いて撮った写真を。
   
 新宿御苑は、1906年開園で今年で110年である。江戸時代は高遠藩内藤氏の下屋敷。内藤氏は三河で松平氏に仕えた譜代大名で、「宿場名「内藤新宿」に名前が残った。1879年に新宿植物御苑となり宮内省管理となった。現在は環境庁管理だけど、昭和天皇の「大喪の礼」が行われたり、首相主催の「桜を見る会」が開かれたりする。(大体「御苑」という言葉自体、天皇制用語だろう。)「旧洋館御休所」は重要文化財指定になっている。第2土曜日に公開されるけど、中の写真は撮れない。
 
 ところで、僕は昔から御苑近くにはずいぶん行っている。それは「模索舎」があるから。ミニコミ書店である。今でも多くの小部数出版物があり、思想、社会運動関係の本が出ている。ネットじゃ買えなさそうな、「過激派」党派機関紙とか「新右翼」一水会の機関紙「レコンキスタ」なんかを見られる。まあ、買うわけじゃないけど。それでも冤罪関係のパンフなどずいぶんここで買ったものだ。御苑新宿門を出てすぐ。外にチラシがいっぱいぶら下がっている。こういう場所は大事にしたい。
 (模索舎=東京都新宿区新宿2ー4ー9)
 近くに「君の名は。」の主人公がアルバイトしていたレストランのモデル(とされる)のお店がある。すぐ見つかるから、まあ名前は書かない。御苑外部の散策路の向こうにちょっと見えているのがそれ。少し歩くと、新宿三丁目にある寄席の定席、新宿末廣亭は落とせない。寄席の中でも、ここが一番昔っぽい作りで、建物そのものを見るのも面白いけど、ずっといると腰が痛くなるかも。
 
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韓国映画「弁護人」

2016年12月10日 21時46分41秒 |  〃  (新作外国映画)
 なかなか見る機会が作れなかったんだけど、韓国映画「弁護人」をやっと見た。(東京では新宿のシネマ・カリテのみで上映していて、16日まで。)今年最高レベルの感動編で、いま大統領弾劾で揺れる韓国の「民主主義への思い」を理解するためにも必見の映画。

 ソン・ガンホ演じる弁護人は、高卒で苦労しながら司法試験に合格し(一年間裁判官をするが、すぐやめて)、プサンで弁護士を始めた。当初は不動産登記や税金専門で「金もうけ弁護士」と言われるが、あるきっかけから、国家保安法違反の冤罪事件を引き受け、拷問によって得た「自白」と徹底的に戦う人権派弁護士になっていく。そう、これはノ・ムヒョン(盧武鉉)元大統領をモデルにしている。

 映画の「つくり」としては、特にアート映画、あるいは社会派映画ではなくて、ウェルメイドな娯楽映画になっている。主人公ソン・ウンソクは、ことさらに「金もうけ」的な弁護士だったと強調されている。デモにも批判的である。高卒で苦労した主人公は、ソウル大学に入学しながらデモに行く学生が最初は理解できなかったのである。こうした映画では、大体同じような作り方をしている。アメリカ映画「評決」では、アル中の弁護士が医療過誤訴訟に出会って人生が変わっていく。最初から人格高潔な闘士だったら、ドラマとしては面白くないということだろう。(まあ、実際にノ・ムヒョンもそうだったのだが。)

 ところが、行きつけの大衆食堂の息子が捕えられ、2カ月も行方知れず。母親に頼まれ、なんとか息子に面会したところ、明らかに拷問の痕に気付く。そこから、彼は変わっていき、一歩も引かない。公安事件の裁判は、(裁判官はどうせ有罪にすることになっているので)量刑の取引しかないと忠告されながらも、彼は拷問の自白は無効だとし、拷問警官を証人喚問し、無罪を主張する。そして、ついに拷問現場にいたという証人も出てくるのだが…。

 韓国の民主化運動については、キム・ヨンサム(金泳三)が亡くなった時に少し書いた。もう30年ほど経つから、日本ではほとんど忘れられているのではないか。でも、自らの手で独裁権力と闘って自由を勝ち取った韓国民衆の姿は、世界に大きな影響を与えた。日本でも、韓国の政治犯救援運動は大きく取り上げられた。何らかの形で関わった人はたくさんいたはずだ。もう民主政治が当たり前になってしまい、ちょっと前まで韓国は軍事独裁政権で、日本がそれを支えていたことは忘れられている。

 ソン・ガンホは韓国を代表する演技派俳優だけど、この「弁護人」は実在の大統領をモデルにして、また弁護士として法廷に立つシーンもあるという難役である。でも、いつも通りと言えばそうなんだけど、圧倒的な存在感で演じ切っている。ソン・ガンホは、今まで「JSA]「殺人の追憶」「観相師」で3回大鐘賞男優賞を受けている。「弁護人」では青龍賞の主演男優賞を受けた。

 2014年に公開された「弁護人」は、韓国で1千万人が見たという。初監督のヤン・ウソクが脚本も書いている。(ユン・ヒュノと共同。)現代韓国理解のために必須の映画だと思う。けれど、まず第一には「本当の使命」に目覚めた男の鬼気迫る闘いを描いた映画。「人権派弁護士」という言葉が、むしろ揶揄の言葉として週刊誌などで使われる日本社会を撃つ映画でもある。
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