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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

劇団タルオルム『島のおっちゃん』を見るー長島愛生園入園者との交流

2024年12月06日 21時44分11秒 |  〃 (ハンセン病)

 劇団タルオルムの『島のおっちゃん』という劇を見に行ってきた。劇団タルオルムというのは、ホームページを見ると、「2005年に大阪を拠点に、在日コリアンと、日本人の有志達が集まり結成しました。夜道を照らす月の明かりになりたいと、タル(月)、オルム(昇り)と命名、年に1度の自主公演を行いながらも、依頼があればどこへでも行く、バイリンガル劇団です」と出ている。『島のおっちゃん』は岡山県のハンセン病療養所長島愛生園にいた「秋やん」を描いた物語である。1時間30分ほどの短い劇だが、いろいろと特徴があって見ごたえがある時間だった。

 

 上演場所は「東京朝鮮第四幼初中級学校体育館」だというので、調べてみると自分の家から近いので今日の昼に行くことにした。と言っても歩いて行くと40分ぐらいかかりそうなので、途中のアリオ西新井に車を停めて、少し買い物をして駐車代を無料にしようという作戦。そこからだと迷わず行けば10~15分ぐらい。まあ迷ったんだけど。距離的には近いが、ここに朝鮮学校があるとも知らなかった。そして朝鮮学校の生徒も鑑賞していて、一緒に見るというのも面白い体験だった。

 上演形式は「マダン劇」ということで、マダン劇を調べてみると「芝居のための舞台や装置がない、観客が周囲を取り囲んだ直径10メートルほどの円形空間の中で、楽士・演者・観客とが即興も交えてつくり上げる芝居」ということである。今回は体育館の前半分に椅子などを並べて四方を取り囲み、その真ん中で演じるという趣向。渡されたチラシを丸めて玉にして、心動いたシーンに投げるというやり方が面白かった。生徒たちも面白い場面、感動的シーンで投げていた。

(出演メンバー=HPから)

 「愛生園」に訪れた学生メンバーが「秋やん」と知り合う。お酒が好きで、バイクを乗り回し、鳥を育てて大阪に売りに行くという秋やん。時には温かく、時には厳しく、メンバーたちに接する。島の花を持ってきた女性メンバーには、罪深いと責め立てる。そんなきつさに音を上げて来なくなる人もいるらしい。作・演出の金民樹は赤ちゃんの時から何度となく、島を訪れていたという。最初は母に連れられていたが、小学生高学年になったら一人で行くようになった。母が行かなくなってしまったので。

 学生の中には通ううちにカップルも出来る。東京の結婚式に秋やんを招くと、予約した宿で「宿泊拒否」が起きる。岡山県長島は本土から近いのに、船で行くしかない孤島だった。だからこそ「隔離」にふさわしいとして療養所が出来たわけである。長い隔離政策で、偏見を持つ人が多くいた。だからこそ、入園者たちは長く橋を待ち望んでいた。そしてついに、1988に「人間回復の橋」が出来た。皆も駆けつけて「人間回復」を祝う日、秋やんは酔い潰れてしまうのだった。

(2023年に建造35年を迎えた邑久長島大橋)

 ハンセン病患者には朝鮮人の比率が高かった。秋やんも朝鮮人だったが、園内では通名を使っていた。ある時、「民」はそのことを追求したこともあった。園内では長く同じ民族でも南北に分かれて会が作られていた。そんな問題にも触れられているが、それ以上に「秋やん」の豪快な、あるいはちょっと傍迷惑な生き方が印象的。島で行き、島で死ぬことを運命づけられていた時代を浮かび上がらせている。1996年に「らい予防法」が廃止され、2001年に国賠訴訟で勝訴するが、そのちょっと前の物語である。

 僕がこの公演を知ったのは、FIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会の柳川義雄さんから連絡を貰ったからだ。この「秋やん」の造形には、FIWCの人々の体験と記憶が大きく貢献しているらしい。チラシの「スペシャルサンクス」に名が挙っていることでも判る。1980年に日韓合同ワークキャンプに参加して、翌81年冬に韓国メンバーが初来日した。その時長島愛生園を訪ねて泊まった思い出は今も鮮烈。それしか行ってないから、むろん「秋やん」のことは知らない。(僕が複数回行っているのは東京にある多摩全生園だけ。)柳川さんも来てたから聞いてみると、あんな感じでソックリと言っていた。

 7日18時にもう一回公演が予定されている。場所は北区十条台の東京朝鮮中高級学校 東京朝鮮文化会館。詳しくは劇団タルオルムのホームページで確認してください。

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病む心知る人ぞのみ-鈴木重雄さんが東京新聞社説に

2017年07月16日 20時43分46秒 |  〃 (ハンセン病)
 鈴木重雄さんが東京新聞の社説(7.16付)で紹介されていました。
 政治も人も信じられない-。若い世代の嘆きの声が聞こえてきます。でもそんな今だからこそ紹介したい。東北の小さな町に、こんな、すごい人がいた。

 鈴木重雄(1911-1979)といっても、多くの人は誰だかすぐには判らないでしょう。鈴木さんは、宮城県北部の唐桑(現・気仙沼市)に生まれ、東京商大(一橋大)に進学しましたが、在学中に強制隔離の対象とされたハンセン病(らい病)を患い、瀬戸内海にある療養所・長島愛生園に収容されました。

 戦後になって「不治」と言われた病にも特効薬が生まれ、鈴木さんは回復者となりました。自治会長などを務めながらも、故郷のことを忘れず様々に尽力していました。そして「ハンセン病回復者の完全社会復帰第一号」となり、多くの人の支持があって、地元の町長選選挙に立候補しました。結果は183票差の落選ながら、ハンセン病の歴史に残る勇気ある行動でした。

 この選挙を応援に行ったのがFIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会のメンバーで、社説内で紹介されている矢部顕さんもその一人でした。FIWCと唐桑とのつながりはその後も続き、東日本大震災で唐桑が大きな被害を受けた時にも多くのメンバーがボランティアに参加しました。その時には、鈴木さんは選挙後に唐桑作った福祉施設が避難所として使われていました。

 僕がFIWCの韓国ハンセン病定着村キャンプに参加したのは、1980年のこと。もうずいぶん昔のことになります。しかし、その縁が続いて、僕も大震災のボランティアに参加したわけです。そのキャンプの中心メンバーだった加藤拓馬君は、その後も唐桑の地に住みついて「地域おこし」活動を続けています。(「まるオフィス」のHP参照。)

 ここで載せた写真は、唐桑半島の先端にある国民宿舎にある銅像です。(2011.4.19撮影)僕が撮ったものです。東京新聞の社説を教材等に使う際は、ご自由に使ってください。
 東京新聞社説の全文は、東京新聞の社説サイトからお読みください。
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「らい予防法」廃止20年

2016年03月31日 23時10分24秒 |  〃 (ハンセン病)
 最近映画の話が多かったけど、本当は自分のことを書きたいと思っていた。この3月31日が本来の「定年」で、ようやく「5年間生き延びた」という感じがする。もっとも「教員免許更新制」がなかったとしても、自分が定年まで勤めたとは思えないのだが。本当は4月からブログもリニューアルするつもりだったのだが、なかなか時間が取れない。とりあえず先延ばしということになりそうだ。

 その前に、今日は「らい予防法」廃止から20年ということを書きたい。長くハンセン病患者の「隔離」を定めていた「らい予防法」は、1996年4月1日をもって廃止された。しかも、単に廃止されたり、別の法律ができたというのではなく、「らい予防法の廃止に関する法律」という「廃止法」を新たに作るという方法が取られた。そこに至るまでには、多くの人々の尽力があったが、ここでは書かない。

 僕の時代には「らい病」(ハンセン病)は、もう身近な病ではなかった。だから、「ハンセン病差別」というものも、実体験にはない。僕は日本史を専攻していたから、自分の専門とは言えないけれど、差別や在日朝鮮人、アイヌ民族などの差別は(多かれ少なかれ)知識はあった。だが、「らい病」という問題意識はほとんどなかったと思う。意識するようになったのは、1980年に韓国のハンセン病定着村でのワーク・キャンプに参加したからである。翌年冬に韓国人学生が来日し、一緒に長島愛生園邑久光明園を訪問した。東京都東村山市にある多磨全生園を初めて訪問したのはいつだったか忘れたが、なんにせよキャンプ関係の人脈で行ったはずである。

 そんな中で療養所の存在根拠となっている「らい予防法」を知ったわけだが、最初の時から「この法律は憲法違反」だと思っていた。だったら廃止運動をすべきなのだが、時間がないとか、一人ではできないといった問題ばかりではなく、非常に難しい問題があった。それは根拠法である「らい予防法」がなくなると、同時に国家による療養所政策が維持されるのか、それを誰が保障できるのかという問題である。福祉に冷淡で、予算削減ばかり迫ってくる自民党が政権にあって、果たして従来より生活環境が悪くならないと誰が言えるか。園内の入所者にはそういう心配が多かったのだろうと思う。(廃止当時は「自民・社会・さきがけ」による橋本龍太郎首相で、厚生相は「さきがけ」から出た菅直人だった。)

 しかし、世の中は変わる時には変わる。国会では全会一致で「らい予防法廃止」が成立した。療養所の体制も基本的に維持されることとなった。その後の展開は必ずしも「維持」とばかり言ってられない実情もあると思うが、ハンセン病は「国家の過ち」という認識は共有されていった。その後、熊本、岡山、東京で「国賠訴訟」(国家賠償請求訴訟)が提起され、2001年5月11日に熊本地裁で勝訴判決が下った。僕も東京地裁での公判は大体傍聴したし、草津の楽泉園での実地検証も参観した。だから、国賠訴訟の支援運動には参加したわけだが、本当は法廃止に向けての運動もするべきだった。

 「予防法」廃止後に、FIWC(フレンズ国際労働キャンプ)関西委員会が主催して、大阪で記念集会が開かれた。FIWC関東委員会で活動していた筑紫哲也さん、関西委員会で活動していた徳永進さん(医者でありエッセイスト)、多磨全生園自治会長(当時)の森元美代治さんなどが講演して感銘深い集会となった。東京からもたくさん駆けつけ、僕も車を提供したと思う。東京でも是非同じような集会をやろうと盛り上がり、自分が責任者となって1997年6月に集会を行った。(その話はそれ以上書かない。)当時、東京の主な会館を総当たりして、空いていた九段会館で行ったのだが、その日に大震災が起きなくて本当に良かったと思う。今思うのはまずそのことである。

 退職して後には全国のハンセン病療養所を訪ねて行きたいと思っていたのだが、国立13療養所中で8つしか行ったことがない。それどころか、毎年最低一回は行きたいと思っていた多磨全生園にも昨年は行かなかった。自宅から2時間近い距離が、年取ると負担感が大きいのである。情けないけど。でも、それはそれとして、ずっと自分なりに関心を持ち続けたいと思っている。

 廃止当時から皆言っていたが、この廃止は20年、いや30年遅かった。廃止されたからと言って、入所者の高齢化が進んでいて、今さら郷里に戻るとか、社会で働くなどできない人が多かった。それでも社会に戻った人もいるけれど、やはり住み慣れてしまい知人も多い療養所で年老いる人がたくさんいる。それを最後まで「見守る」ことが重要なんだと思う。

 一方、法の字面だけ見て、1996年3月までは「絶対隔離」が続いていたかのように書く人もでてきた。国賠訴訟以後に問題を知って、関わり始める人もいるわけだから、昔はさぞ大変だったろうと思うのだろう。しかし、われわれが園内を訪れることも、また入所者が外へ出かけることも、80年代には園に断りなくできた。僕も昔から生徒を引率して訪れたことが何度もあるが、園に届け出もしないし、また学校の管理職にも断らなかった。(外部引率に校長名で起案した書類がいるんだなどと言われるようになるのはずっと後の事である。そんな面倒があるなら、誰も外部見学など企画しなくなる。)自由に入所者の家に行けたし、外部との交流もできた。だけど、やはりお互いに「心の奥底に隔離政策の影が差していた」ということである。そのことの意味、重みを正確に伝えるのは、僕には難しい。

 今の時点で提起されている大問題が二つある。一つは「家族訴訟」である。20年で民事時効が成立するので、一応「らい予防法」廃止時点が起点となるとするなら、今後ハンセン病に関わる国家賠償訴訟はできない。今回提起されている「家族の被害」は非常に重大な問題だと思う。もう一つは、31日の夕刊各紙に出ているが、ハンセン病療養所での「特別法廷」の問題である。入所者の指摘を受けて、最高裁が一昨年来検証を続けてきた。昨年度にも出ると言われていた報告は、延びに延びて2015年度にも出されなかった。それだけきちんと検証しているんだと思いたいが、どうも配慮に配慮を重ねている可能性もある。憲法では「特別裁判所」は禁止されている。ハンセン病療養所入所者の関わる裁判だけが、療養所内の「特別法廷」で裁かれている。これはおかしいのではないか、事実上被告人の弁護権も制限されはしないか。そこに裁判官の先入観が入らなかったと言えるか。それが「憲法違反」だとするなら、死刑判決を受け1962年に執行された菊池事件の見直しにも直結するかもしれない。非常に重大な問題なので、今後も書いていきたいと思う。
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ハンセン病と教育

2015年02月07日 23時28分33秒 |  〃 (ハンセン病)
 ハンセン病回復者の国際ネットワークである「IDEAジャパン」主催で「ともに生きる 尊厳の確立を求めて」という集まりが行われた。「世界ハンセン病の日」サイドイベントで、国立ハンセン病記念館映像ホールで開かれた。今日はそれに行ってきたので、簡単に報告と紹介。なお、「IDEA」とは、「The International Association for Integration, Dignity, and Economic Advancement」の略で、「共生・尊厳・経済的自立のための国際ネットワーク」のこと。森元美代治さんが理事長を務めている。今回は、特に昨秋に刊行された佐久間健「ハンセン病と教育」(人間と歴史社)の著者で、IDEA理事でもある佐久間氏の講演があり、僕は是非聞いてみたいと思ったのである。
 
 会場のハンセン病記念館のある多磨全生園は、家から遠いので最近はあまり行ってないのが現状。僕は1980年に、FIWC関西委員会主催の韓国キャンプに参加して、韓国のハンセン病回復者定着村を訪れた。その時までは、あまりハンセン病を意識していなかったが、その頃から目につく本を買い求めるようになった。翌1981年の2月に、初めて韓国からも学生を招こうということになり、来日した韓国側のキャンパーとともに、長島愛生園邑久光明園、そして多磨全生園を旅してまわった。自分が教師になってからも、生徒を連れて全生園、あるいは後に開館したハンセン病記念館(ハンセン病国賠訴訟後にリニューアルされる前の記念館時代から)に何度も来ている。1996年の「らい予防法」廃止、2001年のハンセン病国賠訴訟勝訴の前から、「ハンセン病と教育」に関わってきたとは言えるわけだが、佐久間氏ほどのまとまった考察は今までに接したことはなく、今回非常に大きな感銘を受けた。

 集会では、まず村上絢子さんが「書くこと、伝えること」で世界の回復者の歩みを伝え、続いて佐久間さんの報告、最後に森元美代治さんによる「IDEAジャパン10年の歩み」が報告された。非常に熱心に活動を続けてきた森元さんも喜寿の年を迎え、今回が「特定非営利活動法人IDEAジャパン」としての最後の活動になるという。残念ながらやむを得ないことなのだろうが、今後も任意団体としては継続していくということである。森元さんの話は、FIWC関西委員会主催の「らい予防法廃止記念集会」以来、何度も聞いている。東京でも同様の集会を開いたし、最後の勤務校の「人権」の授業でも毎年生徒向けに講演してもらった。今後もお元気で全国の学校などで、できる限り講演して頂きたいと思う。

 少し内容を紹介したいのが、佐久間さんの講演。佐久間さんは1993年から東村山市で小学校教員を務めて、ハンセン病問題の学習を進めてきた。現在は都立の病弱児向けの院内分教室に勤務している。まず最初に昨年、福岡市で起こった「問題授業」の事件を紹介した。「ハンセン病は体が溶ける病気」などと教え、それをもとに児童が「怖い」「友達がかかったら離れておきます」などと感想の作文に書き、あろうことかそれを菊池恵楓園自治会に送っていたというのである。これは福岡できちんとしたハンセン病の知識が伝えられていないという問題があるということだが、教師であってもそうなのだから、一般社会ではまだまだ偏見が残っているのである。

 佐久間さんは「被差別体験」だけを教えると、「かわいそう」という感想で終わってしまいがちだと指摘する。そのため、ハンセン病回復者をステレオタイプ(紋切型)の弱者としてのみとらえてしまうことになり、新たな偏見も生じさせかねないというのである。そこで、「療養所において人間の尊厳を保つ」姿を示して「共感」することが必要だとする。「被差別体験」だけではダメで「抵抗体験」を取り上げないといけないのである。病気を教えるのが目的ではなく、その中で生き抜いてきた「人間」を伝えるのが、人権教育のめざすところなのだから。これはただハンセン病の学習だけの問題ではなく、人権教育の他の問題でももちろん同じだし、いじめ問題など身近な指導場面でも同様の考え方が必要である。

 歴史的に見ていくと、戦前には「健康診断」時に「らい」の疑いのある生徒を見つけることが、学校に求められる役割だったという。映画「小島の春」でも、小川正子による健診のシーンがある。その時に病気が見つかったら、どうなるかというと「療養所行き」の宣告となり、二度と社会復帰はかなわない(当時では。)それを学校教育が推進していたわけである。そのことを証明するのが、戦前の修身教科書の教師用書(今の指導書)に書かれていた「隔離の有効性」を伝える文言である。教師の役割として、ハンセン病者の隔離を進めることが当時の国家から求められていたわけである。それでも東村山の総学校には「慰問」を行った学校もあったという。戦後になって北海道北見の地で、民衆史運動を進めた小池喜孝氏は実はその体験が「民衆史運動の原点」と語っているという。僕は若い時に小池氏の本をずいぶん読んで影響を受けたが、この事実は知らなかった。この本の刊行は知っていたが、ようやく今日会場で求めたので、まだ読んでいない。でも、読んでからだといつになるか判らないので、まずは紹介しておく次第。
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谺雄二さんも亡くなったとは

2014年05月11日 23時18分09秒 |  〃 (ハンセン病)
 昨日、神美知宏(こう・みちひろ)さんの追悼を書いたばかりだというのに、今日ふたたび谺雄二(こだま・ゆうじ)さん(1932~2014)の追悼を書かないといけないとは。ちょうどハンセン病市民学会が草津で開かれている中で、草津の栗生楽泉園(くりゅうらくせんえん)にいた谺さんが亡くなるとは。5月11日死去。82歳。

 谺さんこそ、本来はハンセン病市民学会共同代表として、開会式の主催者挨拶を行うべき人だった。もっとも近年は体調が悪い時が多く、長く闘病中だったし、時々出てくることができても車いす姿からの挨拶だった。だから、ハンセン病関係者の多くの人にとっても、神さんの急逝ほど驚かされたわけではないだろう。ただ、谺さんが呼びかけの中心にいた「重監房の復元」がなり、長年の宿願が果された後で、まさに草津で開かれた市民学会のさなかだったということに、不思議な運命を感じざるを得ない。

 谺さんは、元々は「詩人」と紹介される人だったけれど、今回の訃報を報じるサイトは、ほぼ「ハンセン病原告団協議会長」として紹介されている。1996年に「らい予防法」が廃止され、1998年7月に、熊本地裁に九州地方の原告を中心に「ハンセン病国賠訴訟」が提訴された。この訴訟が、2001年5月に画期的な違憲判決が出て当時の小泉首相が控訴を断念することになる裁判である。しかし、ハンセン病国賠訴訟は、他にも東京地裁と岡山地裁にも提訴された。三つの訴訟が一体となり、ハンセン病元患者の人々に燎原の火のように広がって行った。その中で、当然僕は東京地裁の東日本訴訟しか傍聴したことはない。

 谺さんは、その東京地裁の裁判の原告団の団長を当初から務めていた。熊本地裁提訴時の声明をネットで読むことができる。長くなるので途中を省略することにする。
 「らい予防法」違憲国賠訴訟提訴にあたっての原告団声明
                               東日本原告代表 谺 雄二
本日午後4時、熊本地方裁判書に「らい予防法」国家賠償訴訟を提起しました。(略)
国家権力による残虐行為を不問にしたままでいいものでしょうか。子もなく孫もいない私たち入所者の孤独と無念の思いを、国はどうして癒してくれるというのでしょうか。その他解明しなければならない未解決の問題をたくさん残しております。
私たちは、裁判によって国のハンセン病対策の歴史と責任を明らかにして、
1.ハンセン病問題の真相究明
2.患者・回復者の原状回復
3.同種問題の再発防止
を図って行きたいと思っています。そのことが成就した時全国15の国、私立の納骨堂に眠る先輩たちの無念を癒す鎮魂の供養にしたいと考えています。そして、本日の提訴にあたり、私たちは全国の僚友の方々が是非私たちと共に裁判に立ち上がってくれることを心から願っています。(略)私達は、各療養所の入所者や今までに社会復帰していった多くの人々、私たちに繋がる家族の皆さんと手をたずさえ、人間の尊厳のため最後まで頑張り抜きたいと思います。(略)
                   1998年7月31日「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟原告団

 谺さんの名前で出されているが、この種の文書の常として、原告の人々や弁護団の意見を聞きながらまとめられたものだろう。それでは谺さん自身の表現としては、どんなものがあるだろうか。ごく最近、みすず書房から「死ぬふりだけでやめとけや」と題する谺雄二詩文集が出版された。出版社のサイトには、「群馬・ハンセン病療養所栗生楽泉園に暮す81歳の「草津のサルトル」こと谺雄二。「ライは長い旅だから」などの名詩で知られる詩人にして、ハンセン病違憲国賠訴訟の理論的支柱であり、療養所を「人権のふるさと」に変えて差別なき社会を創り出すことを志す闘士である。本書は、彼の生涯にわたる詩・評論・エッセイ・社会的発言・編者による聞き書きを収める。」と紹介されている。出たばかりだし、高い本なので僕はまだこの本を見ていない。

 僕が読んだのは、1987年に児童書として出版された「忘れられた命の詩-ハンセン病を生きて」(ポプラ社)と言う本である。らい予防法廃止後の1997年に再刊されて、僕が持ってるのはその本。今はもう品切れで古書しか入手できないようだけど。その前に、1981年に出された「ライは長い旅だから」という超根在の写真と谺さんの詩を合わせた本がある。僕が最初に谺さんの名前を知ったのは、その本である。だから谺さんと言えば、草津の療養所にいる人、というイメージが強い。でも「忘れられた命の詩」を読むと、草津の前に東京の多磨全生園にいたということが判る。

 谺さんは1932年、東京に生まれたが、1939年にわずか7歳で発病して多磨全生園に入園した。だから、一番大変だった戦時下の療養所を少年として過ごしたのである。1945年には母が全生園で死去、1948年には兄も全生園で死去。このような過酷な少年期を送り、ついには全生園から他の療養所に転園することを決意する。一時は静岡県の駿河療養所に決まるが、いろいろあって草津に移ることになったのである。その全生園からの旅立ちまでが、先の本に書かれている。肉親の死、思春期の悩み、文学や思想への目覚めなどがつづられ、心を揺さぶる。草津の楽泉園は山の中、多摩の森にある全生園とは環境が全く違う。冬は厳しい寒さとなり、「特別病室」という名の「重監房」が作られ、多くの患者が死亡した場所だった。

 谺さんはハンセン病の人権運動を代表する人の一人だった。入所者の高齢化が進んでいるのは、もう判り切っていることだが、昨年来、詩人の塔和子さん、詩人の桜井哲夫さん、俳人の村越化石さん、そして神美知宏さん、谺雄二さんと相次いで亡くなった。日本のハンセン病の苦難の歴史を語れる人も数少なくなってきた。でも、私たちは忘れずに語り継いで行かないといけない。
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神美知宏さんの急逝を悼む

2014年05月10日 23時16分26秒 |  〃 (ハンセン病)
 全療協(全国ハンセン病療養所入所者協議会)会長の神美知宏(こう・みちひろ)さんが草津で急逝したという報道には驚いた。9日に草津のホテルで倒れ、搬送先の病院で亡くなったという。80歳だった。草津で亡くなったというのは、今日から始まったハンセン病市民学会出席のためで、本当なら今日(5月9日)の14時から30分ほど、「全療協緊急アピール」を行う予定だった。明日の午前も「療養所の入所者の人権が守られるための制度を提案する」という分科会のパネリストを務める予定だった。本当なら僕も参加していてブログを書けないはずなんだけど、どうも最近いろいろと億劫になってしまうことが多く、家にいて書いている次第。

 神さんは福岡の出身で、17歳で発病して瀬戸内海にある香川県の大島青松園に入所した。そして、入所者による自治会運動に参加するようになり、全国的な活動にも関わるようになっていった。大島青松園には曽我野一美さんという運動の大先輩がいて、その影響が大きかった。今、全療協の前身である全国ハンセン氏病患者協議会がまとめた「全患協運動史」(1977)をひもとくと、巻末資料にある支部長会議出席者名簿の中に、1966年に静岡県の駿河療養所で行われた会議参加者が出ている。そこに神さんの名前を見つけることができる。その後はしばらく名前がないが、70年代になると毎年のように支部長会議に出席している。(国立ハンセン病療養所は全国に13カ所あり、それらの入所者自治会の全国組織が全患協、全療協である。支部長会議の参加というのは、各自治会の代表として出席しているということである。)

 ところで、その時の名前は「神」ではなかったのである。その時は「神崎正男」を名乗っていたが、それは園内の「通名」(偽名)だったのである。1996年の「らい予防法廃止」以後に、ようやく本名宣言をした。この病気で療養所に「隔離」された人々の多くは、園内で名を変える。それはもちろん僕も知っていたけれど、全患協の神崎事務局長として知っていた人が、実は「神」だったということに非常に驚いたものである。ペンネームなんかだったら、神崎という人が神と名乗りそうである。でも、療養所は違うのである。

 そのあたりのことは、大阪府人権協会のサイトにある、「リレーエッセイ」の「ハンセン病療養所と社会を隔てる『壁』を取り払うために」に、以下のように述べられている。
 17歳でハンセン病を発病した時、わたしはハンセン病がどんな病気なのか、自分がどんな扱いを受けることになるのか、まったく知りませんでした。高校に退学届を出したものの、「病気が治れば学校に戻れる。一生懸命、治療に励もう」と思っていました。
 いざ療養所へ行くと、いきなり絶望のどん底へ突き落とされました。まず名前を変えることを勧められました。ハンセン病患者が本名を使い続けることは、家族に迷惑がかかるということです。
 さらに医師からは「治ったとしても療養所からは出さない」と言い渡され、解剖承諾書に署名、捺印をするよう求められました。「ここで死んでもらう」と宣告されたわけです。その場で「神崎正男」という名を自分につけた私は、「神美知宏という人間は抹殺されたのだ」と思い、生きる望みを失いました。

 らい予防法廃止からハンセン病国賠訴訟、そしてハンセン病問題の最終解決を目指すとされた2009年施行の「ハンセン病問題基本法」(ハンセン病問題の解決の促進に関する法律)に至るまで、「当事者運動としてのハンセン病問題」を一貫して担ってきたのは、全療協の神事務局長だったと言ってもいいと思う。様々の集会で何回も話を聞く機会があったが、理路整然、論旨明快にして決然たる口調で厳しい言葉が発せられるのには、毎回驚くほかはなかった。

 その神さんが2010年に会長を引き継ぎ、最後の最後に訴えていたことは、療養所の職員が削減され入所者がますます命の危険にさらされるような国の方針への抵抗である。国は隔離の過ちを認め、最後のひとりまで十分な医療を保障するという約束をしたにもかかわらず、公務員削減という方針を機械的に進め、療養所入所者に不安を抱かせている。そのことに対する危機感を神さんの全身から感じることができた。全療協の最後の闘いと位置づけ、厚労省との交渉を続けていた。

 昔、「患者運動」が盛んな時代があった。公害患者、薬害患者の運動はその後も現在に至るまである。だが、多くの難病患者は自ら闘うことができない。国に対策を求める運動は大体家族が起こすのである。しかし、慢性の感染症で、療養所に長く生活せざるを得ない結核とハンセン病(らい病)が患者が多かった戦後直後には、療養所を舞台にした患者自らによる国に対する運動が非常に盛んだった。そして結核療養所の運動はなくなり、ハンセン病療養所も非常に高齢化が進み、ハンセン病療養所の運動も難しくなっている。神美知宏という人は、そういう戦後患者運動の最後の輝きだったのではないかと思う。ハンセン病問題を語ることに置いて、全国的な活動が可能な人は非常に少なくなってきた。(療養所を訪れた人に対して、所内で経験を語れる語り部なら、まだある程度はいると思うが。)本人ももう少し生きて活動したかっただろうし、また周りの人も活動してくれるものと思っていただろう。そういう意味では、無念の死であり、余人をもって代えがたいポジションの人だった。安易に後をまかせてくれとは、支援者も含めて誰も言えないのではないか。とても残念である。
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追悼・塔和子

2013年08月29日 21時42分12秒 |  〃 (ハンセン病)
 塔和子さんが亡くなった。詩人だけど、「ハンセン病詩人」と必ず言われてしまう。それはやむを得ないことなのかもしれないが、塔和子という人は純粋に詩人として優れていた。そして生きてあるだけで多くの人を励ます、現代の日本で稀有の人だった。その詩を世界を思い出しながら、苦難の人生を偲びたい。

 新聞記事より。「元ハンセン病患者で詩人の塔和子(とう・かずこ)さんが28日、急性呼吸不全で死去した。83歳。愛媛県出身。12歳でハンセン病を患い、1943年に大島青松園に入った。短歌が好きな男性との結婚を機に詩作に没頭、61年以降、19冊の詩集を刊行した。人間の尊厳を表現し、99年、詩集「記憶の川で」で高見順賞を受賞した。2003年には、半生を描いたドキュメンタリー映画「風の舞」が製作された。」

 塔和子という詩人は、大島青松園という環境の中で生まれ、死んだ。何しろ彼女はその島の療養所で70年以上を暮らしたのである。何という過酷な隔離政策だったことだろう。大島という所は、住所で言えば香川県高松市になる。主に四国のハンセン病患者を収容した場所である。出身地は今の愛媛県西予市(宇和島の北のあたり)で、今は詩碑も立てられている。

 ハンセン病や隔離政策のことは、ここでは詳しく説明しないが、塔さんの詩は多くの人を励まし続け、記録映画になり、テレビ番組にもなった。ぼくはそれを授業で取り上げたことが何度かある。また、東京の多磨全生園にあるハンセン病資料館で2011年に「いのちの詩(うた) 塔和子展」が開かれた時にも出かけた。2冊詩集を持っているはずだが、今は1冊しか見つからなかった。編集工房ノアから出た「希望よ あなたに」。吉永小百合が推薦文を帯に書いている。これは映画「風の舞」の縁である。

 映画「風の舞」はそんなに長くないが、塔さんの詩の世界を感銘深く紹介している。2003年のキネマ旬報文化映画2位に選ばれている。そのサイトを見れば、塔和子の詩を読めるし、DVDを購入することもできる。また、「ハンセン氏病と詩人塔和子の世界」というサイトもあり、そこで詩を読むこともできる。それらのサイトに出ている詩は、一応紹介しても構わないものではないかと思うので、ここで2つ紹介しておきたい。2つに意味はない。あまり取り上げると長くなり過ぎるというだけのことである。何という深くて静かな詩の世界だろうか。僕はもっと学校の中で紹介されてもいいのではないかと思っている。教科書の中などで。国語や社会だけでなく、「いのちを考える」授業で。
 
「出会いについて」
   あのときだった
   私の中にあなたが生きはじめたのは
   そうだ
   あのときだった

   出会うこと
   全く新しいこと
   こんとんの中から浮かび上がってきて
   私の前に置かれた存在について
   私の心は
   春の光のように優しくけいれんする
   でも人は少しのものにしか出会わない
   なぜ出会わないことをかなしまないでいられるのか
   多くのものにとりかこまれながら
   出会わないで終るものが
   物質のように盲いたまま
   互いに互いの外側でありつづける
   出会うこと
   それは知ること
   それは確かめ合うこと
   そして忘却の川へ押し流される時間のために
   いつもそこからさびしいうたがはじまる
   もっと
   きびしい孤独がはじまる
   それでもやっぱり
   出会うことは素晴しいことだ
   出会ったとき私の中で生きはじめる
   新しい存在のために

   私は
   夕暮れの花のように
   やさしくひらいていたいと考える

「胸の泉に」
  かかわらなければ
    この愛しさを知るすべはなかった
    この親しさは湧かなかった
    この大らかな依存の安らいは得られなかった
    この甘い思いや
    さびしい思いも知らなかった

  人はかかわることからさまざまな思いを知る
    子は親とかかわり
    親は子とかかわることによって
    恋も友情も
    かかわることから始まって
  かかわったが故に起こる
  幸や不幸を
  積み重ねて大きくなり
  くり返すことで磨かれ 
  そして人は 人の間で思いを削り思いをふくらませ
  生を綴る
  ああ
  何億の人がいようとも
  かかわらなければ路傍の人
    私の胸の泉に
  枯れ葉いちまいも
  落としてはくれない
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11.5 ハンセン病 いのちと向き合う集会案内

2012年10月31日 20時40分33秒 |  〃 (ハンセン病)
 11月5日(月)、「いまハンセン病療養所のいのちと向き合う!~実態を告発する市民集会~」が行われる。(午後6時スタート、8時終了。東京の北の丸公園、科学技術館サイエンスホール。最寄駅地下鉄東西線竹橋)
 

 7月18日、全療協(全国ハンセン病療養所入所者協議会)は、臨時支部長会議を開催し、政府のすすめる行政改革・合理化政策に対して、ハンスト、座り込みで抗議することを決議した。ハンセン病療養所入所者の平均年齢は、もう82歳を超えている。そのような人々が、ハンガーストライキをすれば、まさに「いのち」に関わってくる。この「いのちの抗議」を新聞で読んだときに、僕は大きな衝撃を覚えた。もし本当にそのような事態になったならば、多くの人々とともに「その場にいなければならない」と強く思ったものである。

 チラシの裏から少し引用する。「ハンセン病療養所のおける国家公務員の定員削減、欠員不補充、新規雇用抑制等の施策により、医療機関の基本的な役割である医療、看護・介護、給食等のサービスが著しく損なわれており、その影響は療養生活上の不安を超越し、われわれの生存権を脅かしていることを強く訴える。」(7.18決議より)

 ハンセン病問題は、1996年の「らい予防法」廃止、2001年のハンセン病国賠訴訟熊本地裁判決、2009年の「ハンセン病問題基本法」制定と進んできた。最後の基本法により、療養体制の充実、入所者の人権の尊重が確認されたものと僕は考えていた。しかし、自民党政権に始まり、民主党政権でも進められている「公務員削減政策」により、もっとも弱い所に国家の矛盾がしわ寄せされていたのだ

 「平均年齢82歳を超えた当事者たちは、実態を明らかにするために、最後のたたかいに立ち上がろうとしています。」

 「ハンセン病首都圏市民の会」のホームページに多くの賛同の声が紹介されている。この集会のニュースはまだ多くの人に届いていないのではないかと思う。僕も紹介しておきたい。(僕個人も是非参加したかったのだが、他用ができてしまった。でも多くの人々に直接の声を聞いてもらいたいと思い、紹介した。)
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松岡保養園-最北のハンセン病療養所

2012年05月15日 21時05分13秒 |  〃 (ハンセン病)
 「ハンセン病市民学会」の第8回総会、交流集会で、青森市の松岡保養園に行った。去年は5月末に沖縄であったけど、今年は従来通り5月第2週に総会。去年行った沖縄本島北部の「沖縄愛楽園」や宮古島の「宮古南静園」は、銃弾の痕が残る場所だった。設置場所は中心部を離れた場所に作られている。それは基本的にどこの療養所も同じだけど、東京の東村山市にある「多磨全生園」などは今では市街地の中という感じ。でも周りは病院が多く、昔は町からはるかに離れた場所だったわけだろう。それは青森でも同じとはいえ、新幹線が青森まで延伸したときに「新青森駅」ができたために、ずいぶん町の中という感じになってしまっている。新青森駅南口からバス停で二つなので、歩いても行けるくらいの距離。僕はもっと八甲田山に近い山の中、例えば草津の「栗生楽泉園」のようなところと思い込んでいたので、ちょっとびっくり。園内からは八甲田を遠望できる。

 まずバス通りから園に向かうと、桜並木。園の正門が見えてくる。市民学会の案内掲示板がたっている。散りかけだけど桜がまだ見頃の季節である。
   

 園内フィールドワークで、「納骨堂」を訪れる。ハンセン病療養所に行ったことがある人は良く知っていると思うけど、療養所は「入ったら出られない場所」だった。病院とか老人施設、障がい者施設なども「出られない」場所だった場合もあるけれど、亡くなったら出ることにならざるを得ない。遺体、遺骨は家族、家族がいなければ自治体が引き取るしかない。施設に墓地までついてるところはない。しかし、法律で「終生隔離」の場所として作られたハンセン病療養所では、死んでも家族と引き離されていて家族の墓には受け入れられない場合もあった。(今でもあるだろう。)で、どこの療養所にも「納骨堂」が作られている。ここにも1000体以上の遺骨が納められている。最初の写真の手前にあるのは、近年明らかにされて衝撃を与えた、「療養所で中絶させられた胎児」の慰霊碑である。
 

 だから園内には各宗教のお寺、教会が必ずあるのも特徴となっている。カトリックの教会に入って話を聞かせてもらったが、園内だけでなく市内から入所者以外の信者もミサに来るのだという。園内の道路は一見何の変哲もない普通の道だけど、実は豪雪地帯対応で暖めて融雪することができるようになっている道なんだそうだ。家も特徴があって、「集合住宅」になっている。大昔の療養所は「大部屋」でプライバシーもなかったわけだけど、ここ何十年かで一戸建ての個人住宅方式になっていった。大体今まで見たところはそうだったけど、ここは個人住宅にすると冬の雪下ろしを入所者がやることになってしまう。だから家はアパート、マンションのように大きな建築物を建てて、部屋を各人に割り当てるという方式となる。なるほど日本各地でいろいろ違うもんだなあと感じさせられた。
 
 周囲と隔てるような大きな沼、屋根つきのゲートボール場などもあったけど、いい写真がないので省略。療養所自体を紹介したことがないけど、ここに行くのも大変なので紹介してみた。市民学会での話は別の機会に。
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塔和子展

2011年06月11日 20時22分39秒 |  〃 (ハンセン病)
 ハンセン病資料館で開かれている「いのちの詩(うた)-塔和子展」へ行きました。記録映画「風の舞」を見たかったし。

 瀬戸内海にある香川県の大島。そこにある国立ハンセン病療養所大島青松園に、詩人塔和子さんが暮らしています。1943年に14歳で隔離、入所してから68年目。1957年頃から詩作をはじめ、1999年に高見順賞を受けるなど詩人として大きな評価を受けています。
 孤独の中で研ぎ澄まされた感覚で、日々の生と病の人生を深い言葉で表現しています。いや、深いなあという思いが自然に出てくる。感銘深い詩人です。

 同時代に、このような詩人が詩を書いていたことを、もっと多くの人に知って欲しい。ただ、ハンセン病ということではなく、今生きることに辛い思いを抱く多くに人に、塔さんの言葉に触れて欲しいと思います。塔さんの詩は著作権上ここに載せませんが、このサイトを是非ご覧ください。

 資料館ギャラリーの小さな展示ですが、是非ご覧ください。26日まで。月曜休館。
 ハンセン病資料館の見学も是非。無料です。(ハンセン病資料館は、西武池袋線清瀬、または西武新宿線久米川よりバスです。くわしくはホームページで調べてください。)

 なお、2階の企画展示室では「かすかな光をもとめて―療養所の中の盲人たち―」を開催中。こちらは7月24日(日)まで。ハンセン病は手や足、目などに病状が出やすく、盲人になる方が多いのですが、手も不自由で手で点字を読めない場合も多くあります。その場合でも舌の感覚は残ることが多いので、舌で点字を読む「舌読(ぜつどく)」をする方もいます。

 
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ハンセン病市民学会に参加して

2011年05月22日 14時11分32秒 |  〃 (ハンセン病)
昨日は宮古島から沖縄本島へ移って、そのまま名護の市民学会総会へ。

この学会というのは、ハンセン病の当事者、支援者、学者、弁護士などが作っている団体です。僕自身は今までは東京大会以外は出たことがなかったのですが、全国から数百人が沖縄に来ています。

学会と名乗りつつ、研究、検証に加えて、提言や交流も目的としています。立ち上げのときは知らなかったのですが、この団体の性格、特質は戦後の民衆運動の中でも特筆すべきヒットなんじゃないかと思います。

自然科学、社会科学の正確な理解と支援者、ボランティア、運動家の交流はもっとさまざまな分野に必要でしょう。

市民学会という名前の集まりが、反原発や冤罪問題や発達障害なんかにも欲しいなあと思います。

沖縄の療養所は、名護の愛楽園と宮古の南静園。フィールドワークで園を回ると戦時下の壕が残っているのが、例えば多磨全生園にはない特徴です。

今、全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)では、震災で被災した看護、介護の必要な方を療養所に避難できるようにと厚労省に提言しています。

療養所を地域に開き、人権の砦として残し続けること。ハンセン病回復者の希望が震災を機に一歩進むことを望みます。

国策で隔離されたハンセン病回復者を最後の一人まで国で責任を持つこと。そのことを監視していくことは国民の責任だと思っています。

それは国策で進められた原発で被害を受けた人々を国が最後まで責任を持つことにつながります。

国策で進められた教員免許更新制度で免許を失った教員も、国が責任を持って免許を復活させるべきだというところにつながります。

みんなつながっていると僕は思っているけどね。
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戦時下の宮古南静園

2011年05月20日 21時57分24秒 |  〃 (ハンセン病)
ハンセン病市民学会の宮古島交流集会に参加しました。こういう機会がなければ宮古島に来ることはなかったかもしれません。準備していただいた皆さんに感謝します。

沖縄戦は本島中心で語られます。あまりにも大きな戦災ですから当然とも言えます。

しかし、本土に対して沖縄、沖縄内部で本島に対して宮古・八重山、さらに宮古内部でハンセン病差別と何重もの差別にさらされて来たのが、宮古のハンセン病患者でした。

全国13の国立ハンセン病療養所。その最南にあるのが宮古南静園です。ハンセン病に限らず障害者、病者は戦時下において、戦争に役立たない非国民扱いをされました。

しかし、宮古南静園ほどの被害を受けたところはないでしょう。度重なる空襲を受けて、園は110名もの犠牲者を出して壊滅したのです。

僕はその事実を今まで全く知りませんでした。戦争についていろいろ知っているつもりでしたが、知らないことはあるものです。衝撃的な事実を知ることができました。
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全生園のお花見

2011年04月04日 20時39分20秒 |  〃 (ハンセン病)
 ええ、昨日はブログを休んでしまいました。その代り、今日は二つ。
 というのも、昨日行ったハンセン病療養所多磨全生園のお花見、あまりに寒くて、家に帰って冷え切って早く寝てしまったからです。どういう天気なんでしょうね。

 前に書いたフレンズ国際ワークキャンプ(FIWC)で毎年やる、森元美代治さんを囲むお花見です。
 全生園元自治会長の森元さんには、1997年にFIWC関東委員会主催の「らい予防法廃止1周年記念集会で、講演をお願いしました。その集会の時に大地震が起きなくて良かった…。会場は九段会館だったので。

 ここ数年は、六本木高校の授業「人権」で毎年お話をしてもらってきました。
 ということで、報告を兼ねて、ごあいさつ。

 桜は一分咲きくらいだったかなあ。満開だと素晴らしいところなんですが。
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