3月も前半はミステリーを読んでいたが、さすがに飽きてきて後半は買ってあった新書本。記事に取りあげたいと思った本も何冊かあるのだが、他のことが優先したりして書けなかった。
【ミステリー編】
日本のミステリーの方がすぐ読める。まずは昨年死去した連城三紀彦「流れ星と遊んだころ」(双葉文庫)で、2002年の「このミス」入選作だけど、文庫化されてなかった。2月に文庫に入り、すぐ買った。これは通常のミステリーとはかなり色合いが違うけど、壮絶な「叙述トリック」がある。50ページぐらい読んだだけで、3回か4回か裏があるけど、それで済まないで、その後ガラッと世界が変わる。続いて沼田まほかる「ユリゴコロ」(双葉文庫)で、数年前に評判になった作品。これはまた、落涙系のミステリーで、最後は途中で読めると思うけど、読みではある。自分の父母に何があったのかと探ると驚くべき真相が…。僕がダメだったのは、麻耶雄嵩(まや・ゆたか)の「隻眼の少女」(文春文庫)で、推理作家協会賞受賞の傑作で、山深い村に続く伝説と美少女探偵、謎の連続殺人、時間を隔てて再びの惨劇が…と魅力的な設定なんだけど、この「解決」は僕には納得できない。というか、ストンと落ちない。アメリカのジャック・イーリイ「イン・ザ・ブラッド」(文春文庫)は、アメリカ南部アラバマ州モビールが舞台のシリーズ。どんどん面白くなってるが、家族の問題を離れて、白人至上主義者を追う。アメリカの恥部に挑むミステリーで、社会派であり、サイコ風であり、本格でもあるという今までの路線だけど、相当うまいので止められない。
山田風太郎「天狗岬殺人事件」(角川文庫)は、著者の未刊行ミステリーを集めた本だけど、本格ミステリー作家というイメージがあまりなかった著者の傑作集。実は山田風太郎は第2回推理作家協会賞短編部門の受賞者だった。(長編が坂口安吾「不連続殺人事件」という年である。)その時の作品を集めた「虚像の淫楽」も角川文庫にあった。戦後ムードが残る昔風味の「探偵小説」で、とても面白い。一方、新作の石井光太「蛍の森」(新潮社)は、ハンセン病を熱かった異色のミステリー。著者はノンフィクション作家で、映画化もされた「遺体」という震災を取材した本など多数の本を書いてる。「慟哭の社会派ミステリー」というんだけど、犯人探しや動機探しなどの観点からは、ほとんどミステリーとは呼べない感じである。四国の山奥で謎の連続老人失踪事件が起こり、父が容疑者と報じられる。そこで遅る米人権蹂躙の歴史を知ることになる。ハンセン病に関する小説は「療養所」を舞台にすることが多い。この本は、療養所行かず、お遍路の伝統がある四国の山奥で「放浪」する患者を描いた。戦後という設定で、多少無理があるような気もするが、村人からの差別と迫害の様子は恐ろしいリアリティがある。女性に取り、療養所がどんなところだったかも描かれている。ただ、国賠裁判の原告に関する設定は不自然だし、高齢の関係者が皆生きて元気であるのも納得できない感じがする。そういう意味で多少無理がある小説だと思うが、他に類書がない。
【新書編】
近刊の講談社現代新書を3冊。瀬木比呂志「絶望の裁判所」は裁判官のキャリアシステムを批判する本。自分の人生を振り返りながら、裁判官の現状を痛烈に批判している。僕も今まで「法曹一元」(司法修習を終えた人を裁判官、検察官に採用するのではなく、弁護士の中から裁判官を選任する制度)、「憲法裁判所の創設」、「裁判員制度を陪審制度に」などは、同じことを書いてきた。基本的には大賛成。裁判所大改革せずに日本の将来はない。
代田昭久「校長という仕事」は、例の杉並区和田中で藤原和博のあとを受けて「民間人校長」をした人物のまとめ的著作。面白いことは面白い。ただ、この学校しか知らないわけで、他区市や他道府県では同じ中学でもかなり違う面もあると思うし、歴史的に変わってきた面も書いてない。それを判って読めば面白いし、学校や家庭で役立つ面もある。特に「脳トレ」の話など。しかし、制度が「定着」し、そういう問題と思って仕事してるから、「主幹制度」や「自己申告書」があるのを前提にして書いてある。僕に言わせれば、そんなものがなかった頃は、もっと学校が面白かった。「校長という仕事」の面白い部分は、「学校が面白い」のであって、「校長より学級担任の方が面白い」のである。民間人校長というのは、可哀想に卒業生を担任した経験もなしに、ただ管理職だけしてる。それでは学校は判らない。ところで、土日の部活をめぐる部分は多くの学校関係者に一読して欲しいところ。
その後、一ノ瀬俊也「日本軍と日本兵」を読み、そこから読み残していた中田整一「トレイシー」(講談社文庫)に進む。一方、平凡社新書、加藤哲郎「ゾルゲ事件」もあり、現代史もの再び。ゾルゲ事件は他の本も含めて別に書きたい気がする。また「物語 ウクライナの歴史」(中公新書)はウクライナ問題を書く中で触れたい。
一ノ瀬氏は若い研究者で、年長世代の同時代的な思い込みではなく、新しいイメージの研究をたくさん発表している。今回の本は、米軍資料に現れた日本軍のイメージを分析したもので、日本兵と言えば「38式」という古い銃しかないけど、精神力で戦うみたいなイメージを、それをどう評価するかは別にして持たれやすい。でも実際は機関銃が主な兵器で、銃剣による白兵戦になると「臆病」とも取れる行動が多い。南の島に塹壕を掘り立てこもる戦術で、米軍をそれなりに食い止めていたので、「最高戦争指導」は別にして、装備も食料も不足したまま現地軍はそれなりに「合理的」に戦っていた面も指摘される。もっとも狙撃兵を樹上に結びつけるなど「残酷」な戦術を取っていて、その結果米軍が日本の狙撃兵を銃撃しても落下しないので、他の軍が通過するときまだ狙撃兵がいるような偽装になるという。それにしても、こうして「敵の分析」を軍内で共有しようという姿勢が米軍にはあったということ自体が興味深い。
【ミステリー編】
日本のミステリーの方がすぐ読める。まずは昨年死去した連城三紀彦「流れ星と遊んだころ」(双葉文庫)で、2002年の「このミス」入選作だけど、文庫化されてなかった。2月に文庫に入り、すぐ買った。これは通常のミステリーとはかなり色合いが違うけど、壮絶な「叙述トリック」がある。50ページぐらい読んだだけで、3回か4回か裏があるけど、それで済まないで、その後ガラッと世界が変わる。続いて沼田まほかる「ユリゴコロ」(双葉文庫)で、数年前に評判になった作品。これはまた、落涙系のミステリーで、最後は途中で読めると思うけど、読みではある。自分の父母に何があったのかと探ると驚くべき真相が…。僕がダメだったのは、麻耶雄嵩(まや・ゆたか)の「隻眼の少女」(文春文庫)で、推理作家協会賞受賞の傑作で、山深い村に続く伝説と美少女探偵、謎の連続殺人、時間を隔てて再びの惨劇が…と魅力的な設定なんだけど、この「解決」は僕には納得できない。というか、ストンと落ちない。アメリカのジャック・イーリイ「イン・ザ・ブラッド」(文春文庫)は、アメリカ南部アラバマ州モビールが舞台のシリーズ。どんどん面白くなってるが、家族の問題を離れて、白人至上主義者を追う。アメリカの恥部に挑むミステリーで、社会派であり、サイコ風であり、本格でもあるという今までの路線だけど、相当うまいので止められない。
山田風太郎「天狗岬殺人事件」(角川文庫)は、著者の未刊行ミステリーを集めた本だけど、本格ミステリー作家というイメージがあまりなかった著者の傑作集。実は山田風太郎は第2回推理作家協会賞短編部門の受賞者だった。(長編が坂口安吾「不連続殺人事件」という年である。)その時の作品を集めた「虚像の淫楽」も角川文庫にあった。戦後ムードが残る昔風味の「探偵小説」で、とても面白い。一方、新作の石井光太「蛍の森」(新潮社)は、ハンセン病を熱かった異色のミステリー。著者はノンフィクション作家で、映画化もされた「遺体」という震災を取材した本など多数の本を書いてる。「慟哭の社会派ミステリー」というんだけど、犯人探しや動機探しなどの観点からは、ほとんどミステリーとは呼べない感じである。四国の山奥で謎の連続老人失踪事件が起こり、父が容疑者と報じられる。そこで遅る米人権蹂躙の歴史を知ることになる。ハンセン病に関する小説は「療養所」を舞台にすることが多い。この本は、療養所行かず、お遍路の伝統がある四国の山奥で「放浪」する患者を描いた。戦後という設定で、多少無理があるような気もするが、村人からの差別と迫害の様子は恐ろしいリアリティがある。女性に取り、療養所がどんなところだったかも描かれている。ただ、国賠裁判の原告に関する設定は不自然だし、高齢の関係者が皆生きて元気であるのも納得できない感じがする。そういう意味で多少無理がある小説だと思うが、他に類書がない。
【新書編】
近刊の講談社現代新書を3冊。瀬木比呂志「絶望の裁判所」は裁判官のキャリアシステムを批判する本。自分の人生を振り返りながら、裁判官の現状を痛烈に批判している。僕も今まで「法曹一元」(司法修習を終えた人を裁判官、検察官に採用するのではなく、弁護士の中から裁判官を選任する制度)、「憲法裁判所の創設」、「裁判員制度を陪審制度に」などは、同じことを書いてきた。基本的には大賛成。裁判所大改革せずに日本の将来はない。
代田昭久「校長という仕事」は、例の杉並区和田中で藤原和博のあとを受けて「民間人校長」をした人物のまとめ的著作。面白いことは面白い。ただ、この学校しか知らないわけで、他区市や他道府県では同じ中学でもかなり違う面もあると思うし、歴史的に変わってきた面も書いてない。それを判って読めば面白いし、学校や家庭で役立つ面もある。特に「脳トレ」の話など。しかし、制度が「定着」し、そういう問題と思って仕事してるから、「主幹制度」や「自己申告書」があるのを前提にして書いてある。僕に言わせれば、そんなものがなかった頃は、もっと学校が面白かった。「校長という仕事」の面白い部分は、「学校が面白い」のであって、「校長より学級担任の方が面白い」のである。民間人校長というのは、可哀想に卒業生を担任した経験もなしに、ただ管理職だけしてる。それでは学校は判らない。ところで、土日の部活をめぐる部分は多くの学校関係者に一読して欲しいところ。
その後、一ノ瀬俊也「日本軍と日本兵」を読み、そこから読み残していた中田整一「トレイシー」(講談社文庫)に進む。一方、平凡社新書、加藤哲郎「ゾルゲ事件」もあり、現代史もの再び。ゾルゲ事件は他の本も含めて別に書きたい気がする。また「物語 ウクライナの歴史」(中公新書)はウクライナ問題を書く中で触れたい。
一ノ瀬氏は若い研究者で、年長世代の同時代的な思い込みではなく、新しいイメージの研究をたくさん発表している。今回の本は、米軍資料に現れた日本軍のイメージを分析したもので、日本兵と言えば「38式」という古い銃しかないけど、精神力で戦うみたいなイメージを、それをどう評価するかは別にして持たれやすい。でも実際は機関銃が主な兵器で、銃剣による白兵戦になると「臆病」とも取れる行動が多い。南の島に塹壕を掘り立てこもる戦術で、米軍をそれなりに食い止めていたので、「最高戦争指導」は別にして、装備も食料も不足したまま現地軍はそれなりに「合理的」に戦っていた面も指摘される。もっとも狙撃兵を樹上に結びつけるなど「残酷」な戦術を取っていて、その結果米軍が日本の狙撃兵を銃撃しても落下しないので、他の軍が通過するときまだ狙撃兵がいるような偽装になるという。それにしても、こうして「敵の分析」を軍内で共有しようという姿勢が米軍にはあったということ自体が興味深い。