尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』ー田中一村の全画業を一望に

2024年10月24日 22時28分15秒 | アート
 東京都美術館で開かれている『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』(9月19日~12月1日)を見た。平日用のシニア前売券を買っていたので、そろそろ行かないと。平日午前なのにかなり混んでいたが、実に見どころの多い展覧会。初めて田中一村(1908~1977)の全画業を統一的にとらえられた気がした。
 (「アダンの海辺」1969年)
 田中一村は無名の画家として亡くなり、没後に最期の地・奄美大島で「発見」された。NHK「日曜美術館」で全国に紹介されたのは、今調べてみると1984年末だった。それから「日本のゴーギャン」と呼ばれて、ちょっとしたブームがやって来た。その頃東京でも何度か展覧会が開かれて、僕も見に行った記憶がある。南国の自然風景が実に鮮烈に描かれていて、一見して心がとらえられた。アンリ・ルソーに通じる独自の幻想的風景画で、小さい頃からルソーやゴーギャンが好きだった自分にとって、こんな人が日本にもいたんだと興奮させられた。しかし、その頃は奄美時代の作品以外はほぼ見られなかった。
 (「檳榔樹の森」1973年)右下=田中一村
 当時の理解としては、若い頃に日本画家を目指し東京美術学校(現・芸大)に入学するも家庭事情で退学。(なお、美校同期に東山魁夷や橋本明治らがいた。)その頃から「田中米邨」と名乗って、若き画家として活動していたことは知られていた。しかし、その後は中央画壇で成功せず埋もれていったと思われ、その間は「空白期」とされていた。戦後になって日展などに出品するも落選、長い不遇の時期を経て、東京から追われるように奄美大島に行き着いたというストーリーだった。

 その後、2001年には奄美大島に田中一村記念美術館がオープン、すっかり「奄美の画家」として定着したが、80年代の「発見」を知らない人も増えてきた。その間に「有名画家」となったことで、各地から「新発見」が相次いだらしい。その結果、確かに日展などでは落選していたものの、「空白期」などなく常に日本画家として活動を続け、支援者もいたことが判明してきた。(ただし戦時中は徴用されていたようだ。)そのような近年の発見を一堂に展示したのが今回の展覧会である。

 それらを見ると、豪華絢爛たる屏風なども多いし、緻密な描写を堪能できる風景画、見事な構図で郷愁を感じさせる風景画などが並んでいる。一村の絵は奄美で初めて開花したのではなく、それまでの長い画業の末に結実したのである。そのことがよく理解出来る展示構成になっている。ただし、もし奄美時代がなかったら、それまでの作品だけで展覧会が開かれ多くの人が詰めかけたりはしないと思う。やはり奄美時代あってこその作品ではある。  

 上の絵は「椿図屏風」で、1931年作品。「空白期」とされてきた20代後半のイメージを一新させた作品だという。
 (「千葉寺 春」1953、54頃)     
 1938年に30歳の一村(当時はまだ米邨)は、親戚を頼って千葉市の千葉寺付近に引っ越した。農業をしながらも、身近な風景画、木彫、仏画、デザインなどの仕事をした。展覧会向けの画家ではなく、身近な相手に向けて作る画業を続けていたのである。そして、1947年に「柳一村」と画号を改め、風景画に独自の境地を開いていく。

 上掲「白い花」(1947)は、一村を名乗った初の作品にして、第19回青龍展に入選した作品。実に生前唯一の公募展入選だった。見事な作品だが、従来の日本画の枠内だとは思う。1955年には石川県羽咋市の宗教施設「やわらぎの郷」聖徳太子殿の天井画を依頼された。現地にも滞在して完成まで見届けたという。桜の名所として今も知られている場所だというが、今まで全く知られなかった業績だろう。その後、九州を旅して素晴らしい風景画を残している。
      
 前者は「初夏の海に赤翡翠(アカショウビン)」(1962頃)、後者は「不喰芋と蘇鐵」(1973)で、読みは「クワズイモとソテツ」である。このような素晴らしい絵は幾つもあるわけだが、ネット上でいろいろ見ることも出来る。奄美時代は確かに困窮していたようだ。姉や支援者が亡くなり、奄美で覚悟を持って絵を描き続けた。一時は国立ハンセン病療養所「奄美和光園」の官舎を間借りしていた。ここはハンセン病の理解をめぐって光田健輔らの「隔離主義」と対立した小笠原登医師がいたところである。

 そういった意味でも興味深いのだが、絵としてはどう位置づけるべきだろうか。僕には今ひとつはっきりしないのだが、とにかく見ていて心をつかまれる気がする。それはどういうところに理由があるんだろう。豪華絢爛たる作品も残しているが、やはり何故か寂しくてノスタルジックな思いを呼び起こされるのが田中一村の本領ではないか。
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『田名網敬一 記憶の冒険』展、イメージと色彩の氾濫に圧倒

2024年10月20日 22時18分45秒 | アート
 行きたい展覧会がたまってしまった。今日はまず六本木の国立新美術館(地下鉄千代田線乃木坂駅より直結)で開かれている『田名網敬一 記憶の冒険』展に行ってきた。8月7日に始まり、11月11日までなので、そろそろ見ないと終わりが近くなってきた。(ここは火曜日が休館日。)開会直後の8月9日に田名網敬一が88歳で急逝し、驚かされた。料金2000円とかなり高いし結構遠いから迷ってたんだけど、渋谷で映画を見た後に時間があったので寄ってみることにした。

 六本木方面の入り口前には巨大なオブジェが置かれていた。「金魚の冒険」と題された作品で、家族連れで写真を撮っていた。展覧会の中もすべて写真可(フラッシュ不可)で、皆スマホ越しに見ている。そういう質の作品が並んでいるわけだが、とにかく圧倒的な色彩の氾濫に驚く。食あたり、湯あたりという言葉があるが、色にあたるぐらいの部屋の中。遊園地というか、田名網敬一ワンダーランドである。すごいイメージの氾濫で、単に美術という枠を越えて「戦後民衆文化史」の大収穫だろう。
  (国立新美術館)
 「グラフィック・デザイナー」とか「イラストレーター」というカタカナの職業は戦前にはなかった。日本経済が高度成長をとげた60年代に一般に使われるようになった。最近その時代を切り開いてきた人々の業績が振り返られているが、今回の田名網敬一展も大きな収穫だろう。映像作品の出品も多く、じっくり見る気なら一日中楽しめると思う。僕はそこまで見なかったが、そう言えば昔見た実験映画もあったなあと思った。単に絵だけじゃなく、映像、立体工作などいろいろある。
   
 僕がどうのこうのと書くべきことはあまりなく、というか、個々の「作品」にはほとんど関心もなかった。出品されている作品があまりにも多いのである。そして、いろんなモノが置かれていて、 会場はおもちゃ箱をひっくり返したような祝祭感にあふれている。それは60年代、70年代の「ポップ」な感覚の弾けるような散乱である。それはまたアメリカの大衆文化への憧れでもある。アメリカのコミック、テレビ番組、音楽などは戦後日本の少年たちにとって最も身近な外国だった。
   
 だけど田名網敬一にとって、アメリカは単なる憧れだけではなかった。1936年に東京・京橋で生まれた田名網にとって、東京大空襲の記憶はほとんど「原風景」というものだった。Wikipediaから引用すると、「轟音を響かせるアメリカの爆撃機、それを探すサーチライト、爆撃機が投下する焼夷弾、火の海と化した街、逃げ惑う群衆、そして祖父の飼っていた畸形の金魚が爆撃の光に乱反射した水槽を泳ぐ姿」ということになる。幼い頃に見た風景こそは、まさにイメージと色彩の氾濫だったのである。下1枚目の絵には、「DO NOT BOMB」と大きく書かれていることが象徴的だ。
                 
 会場はいくつかの部屋に分れていて、間に映像作品を流すゾーンがある。それぞれ作成された時代、内容などで違いがあるようだが、見ていると何だか違いがよく判らない。ただイメージに圧倒されるだけ。単に絵が順番に並んでいる展覧会ではなく、様々な作品を作ってきた田名網ワールドを複合的に展示している。僕には正確に理解する自信がないが、戦後日本のポップアートの実力を見せてくれた展覧会だった。
   
 以上に掲載した画像は、僕が特に気に入ったものというわけではない。むしろ人が殺到してなくて写真が撮りやすかったものが多い。だから、実際に見に行けば、もっとスゴイのがいっぱいあるのに驚くだろう。見逃さなくて良かったなと思う。
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DIC川村記念美術館、休館前にコレクション展を見る

2024年09月09日 22時12分17秒 | アート
 千葉県佐倉市にある「DIC川村記念美術館」が2025年1月をもって休館するという。そのニュースは関東圏では報道されたので知ってる人もいるだろう。この美術館は1990年に開館していて、以前千葉方面に旅行したときに寄ったことがある。月曜じゃないから開いてると思って調べずに行ったら、たまたま展示替え休館中で見られなかった。

 DICと言われても急には判らないが、前の社名は「大日本インキ化学工業」で印刷用インキなどを手掛ける世界的な化学会社である。美術館は創業者川村喜十郎はじめ三代の社長が収集した絵画・彫刻コレクションを展示している。自社の研究所の隣にあるが、駅から遠く路線バスもない。美術館は赤字続きで、投資ファンドなどから圧力もあったらしい。
 (入口近くの彫刻)(庭の様子) 
 今回は車で行ったが、道に案内はなくてカーナビなしで行くのは大変だろう。送迎バスはかなり出ているので、それを利用する方が良いかもしれない。まだまだ暑くて周囲を散歩する気にならなかったが、大規模な庭園の中にある。レストランもあって、そこだけ利用することも可能。駐車場前にチケット販売所があり、そこからしばらく行くと北海道の牧場にあるサイロみたいな特徴的な建物が見えてくる。設計した海老原一郎憲政記念館を設計した人だという。
  
 コレクションは欧米の近現代美術史を順番に見て行く感じで、モネ睡蓮」、ルノワール水浴する女」からピカソエルンストシャガールフジタなどと続くが、代表作とは言えない既視感のある絵が多いかな。と思ったら別室にレンブラントがあった。「広つば帽を被った男」という絵である。レンブラントはフェルメールほど現存作品が少ないわけじゃないだろうが、調べてみると日本ではここにしかないらしい。展覧会で見たことはあるが、国内の美術館に収まっているとは知らなかった。これがやはり一番の見どころかと思う。皆じっくり眺めている。
(レンブラント「広つば帽を被った男」)
 そこから移っていくと現代アートが多くなる。特にアメリカの現代美術がコレクションの目玉らしいが、一見して何だか判らない作品が並んでいる。マーク・ロスコ(1903~1970)作品をズラリと並べた部屋が圧巻。まあ名前も知らないのだが。帝政ロシア支配下のラトビアのユダヤ人として生まれ、1910年にアメリカに移住した画家である。主にニューヨークで活動し、「シーグラム壁画」で知られる。これはシーグラム・ビルディングのレストランから壁画を依頼された約40枚の連作(シーグラム壁画)である。結局納入されずに終わり、没後に3つの美術館に収蔵された。ロンドン、ワシントンDCと並び、川村記念美術館がその一つである。
(ロスコ・ルーム)
 また2024年5月に亡くなった現代アメリカを代表する抽象画家、フランク・ステラもたくさん展示されている。ステラ作品の収蔵先として世界的に知られているという。様々な色彩が複雑に構成された作品ばかりで、これは80年代以後の作風だという。それ以前はミニマリストとして知られていたらしい。なかなか見ていてキレイで面白い。まあよく理解出来ないんだけど。
(ステラの作品)
 日本の作品はないのかと思うと、Wikipediaによるとかつては日本の近世絵画も多く持っていたが、収蔵方針の変更で手放したという。「重要文化財の長谷川等伯筆『烏鷺図』は実業家の前澤友作に譲渡した」と出ていた。そんなことがあったのか。今後全部売られてしまうということはないと思うが、東京への縮小移転はあり得るだろう。今回は暑すぎて園内散歩が出来なかったが、非常に大きな庭園も素晴らしい。JR佐倉駅、京成線京成佐倉駅から無料送迎バス。紅葉の時期にまた訪れてみたいと思った。佐倉には佐倉城址公園があり、日本100名城に選定されている。そこに国立歴史民俗博物館もある。ちょっと城址公園に寄ったのだが、佐倉市の南北で案外遠いので行きにくかった。
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『民藝 MINGEI展』を見るーわが内なる民藝幻想

2024年06月18日 20時53分31秒 | アート
 先週になるが世田谷美術館の『民藝 MINGEI』展を見に行った。(30日まで。)世田谷美術館に行くのは何年ぶりだろう? 自宅から遠く、つい敬遠してしまうのである。今回は駒場の日本民藝館に行けばいいじゃないかと言われそう。(ちなみに日本民藝館は何回か行ってて、ここでも『日本民芸館と駒場散歩』を書いた。)暑い中見に行ったのは「わが内なる民藝幻想」のためである。「わが内なる」は70年代の流行語だが今は死語だろう。でも古い話を書きたいのである。

 ここでは自分が人に勧めたいものを書くことにしている。映画を見て、自分では今ひとつだなと思っても(原則的には)書かない。自分にはつまらなくても、他の人には面白い場合もあるだろうから。しかし、今回の『民藝展』に関しては、僕は内容的には興味深かったが、見なくても良かったなと思った。だけど、あえて書くのは「民藝とは何か」を考えるヒントのためである。「民藝」の創始者である柳宗悦(やなぎ・むねよし)には、昔から関心があった。近代日本の思想家の中でもとても興味深い人物だと思っている。(柳については、『柳宗悦をどう考えるか』を2016年に書いている。)
(「1941生活展」)
 入ってすぐに「1941生活展」が再現されている。日本民藝館で開かれた「生活展」を再現したものだという。ここは写真が撮れるので、上下がそれ。「民藝」品で部屋を飾った「モデルルーム」のようなもので、画期的な企画だったという。展示品の由来を見てみると、案外外国のものが多く、特にイギリスが多い。英米との戦争も迫っていた頃だが、全く戦時色はない。民藝とは「国産」にこだわるものではなかったことが理解できる。これを見ると、非常に落ち着いた気分になれるし、こういう「モノ」に囲まれて暮らせたら素敵だなと思う。このような「生活のありかた」(ウェイ・オブ・ライフ)が大切なんだと伝わってくる。
(「1941生活展」)
 大昔に「革命」なんてマジメに語られていたとき、それは「革命勢力が政治権力を掌握する」ことを意味していた。しかし、「革命」後のロシアや中国でも、民衆の生活スタイルはなかなか変化しなかった。ソ連が崩壊した後、ロシアでは正教会が復活し「保守的価値観の守護者」となっただけでなく、今では精神的に戦争を支える存在になった。ソ連や中国の実態が伝わるとともに、僕はウィリアム・モリスに心惹かれるようになった。19世紀イギリスの作家、装飾家であり、社会主義活動家である。『ユートピアだより』などの著作の他、「モダン・デザインの父」と呼ばれ日本でも何度も展覧会が開かれている。
(衣装)
 今回の展覧会は「美は暮らしの中に」をキャッチフレーズにしている。近代日本でモリスに近い存在を探すと、それは柳宗悦らが始めた民藝運動が、(大いに貴族趣味的なところはあるが)当てはまるんじゃないだろうか。そう思ったわけである。日本民藝館に行くと、心が浄化されるような思いがする。柳宗悦は植民地時代に朝鮮文化の保存を訴えた人である。「揺るがぬ生活スタイル」に支えられた柳は、権力から自立した思想を持ち得た稀有な例なのではないか。まあ、そういう風に思ったわけである。

 今回の展覧会では、昔の日本各地に伝わった「無名」の職人が作った衣装や生活品(陶器や籠など)が多数出ている。特に沖縄の衣装などは、戦争で失われたものも多いだろうから貴重だと思う。だけど、…とそれらを見て思ったことがある。この展示品をいま再現すると、非常に高価なものになるだろう。「職人の手作業」で作られたものだからだ。工業化が進んでなくて人件費も高くなかった時代には、「職人技」が生活を支えていた。それを今求めると、高級品となってしまう。だから、現代に生きる民藝として展示されているものは、今ではとても手が届かない高価なお土産品になっている。

 つまり柳が提唱した意味での「民藝」は今では意味が変質してしまった。僕らの周りにある「民藝調」は高級のサインである。では工業的に大量生産された機能性重視の製品、例えばユニクロの服は「現代の民藝」になるのだろうか。かっぱ橋道具街には外国人がいっぱい訪れているらしいが、そこで売ってる道具は民藝なのか。「美意識」と「作家性」はそこにもあるのだろうか? つまり、それが思想を支えると思ってきた「民藝」なるものは、今では幻想なんだなと痛感した。

 今は生活に機能性は要求されるが、美意識は必要じゃない。もちろん「機能美」があるとは言える。高層ビルや高速道路にも「現代の美」はある。しかし、それは「職人」が手作業できるものじゃない。職人の手作業は、手打ちそば和菓子などに生き残っていて、それはスーパーやコンビニで売ってるものより高価である。現代で「民藝」に近いのはそういう食品かもしれない。旅番組で皆がほめているのも大体そういうものだ。生活用品としての「民藝」は今では意味が変容したのかなと思ったのである。
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「板倉鼎・須美子展」(千葉市美術館)を見る

2024年06月06日 21時34分19秒 | アート
 千葉市美術館で開催されている「板倉鼎・須美子展」を見に行った。(6月16日まで。)千葉市美術館は、京成線千葉中央駅が一番近いけれど、案外行きにくい。京成線は成田方面が幹線で、千葉市方面へは京成津田沼から普通電車に乗り換えるしかない。前に行ったこともあるが、一日つぶれてしまう。どうしようかなと思ったが、見る機会を逃したくない気がして出掛けてきた。
(チラシの絵は「休む赤衣の女」1929年頃)
 と言っても、「板倉鼎をご存じですか」という感じだろう。これは最近出た水谷嘉弘氏の本の題名である。そういう本が出るぐらいで、ほとんどの人はまだ名前も知らないのではないかと思う。僕もNHK「日曜美術館」をたまたま見ていて、なかなかいいじゃないかと初めて知ったのである。板倉鼎(いたくら・かなえ、1901~1929)は埼玉県に生まれたが、幼いときに千葉県松戸市に転居し、松戸の小学校、千葉の中学を経て、東京美術学校西洋画科を卒業した。

 1925年に文化学院在学中の昇須美子(1908~1934)と与謝野鉄幹・晶子夫妻の媒酌で結婚した。ロシア文学者として多くの翻訳を手がけていた昇曙夢(のぼり・しょむ)の娘で、周りからあの二人を会わせてみたいと声が挙ったらしい。24歳と17歳のカップルだった。翌1925年2月にパリを目指して旅立つが、その時珍しく太平洋航路でハワイに寄ってから、アメリカを横断してパリへ向かった。そして「エコール・ド・パリ」の一員として活躍したのである。
(板倉鼎・須美子夫妻)
 パリでは岡鹿之助らと画業に励み、美術展にも入選するようになった。また日本に送られて「帝展」にも出されている。それらパリ時代の作品は、今見ても鮮烈な色彩で驚くほど魅力的だ。独特の構図、赤を多用した色彩感覚など、当時の日本人の感覚を突き抜けている。日本では必ずしも高く評価されなかったというのも判る気がする。「日本的風土」を超越しているのである。
《雲と秋果》1927年
 展示されているほとんどの絵は撮影禁止だったが、一部に撮影可能な絵があった。ここで挙げる3枚の画像は、スマホで撮影したもの。非常に鮮烈な色彩感覚の静物画である。
《垣根の前の少女》1927年
 少女像は主にパリでは妻の須美子がモデルになっている。しかし、結婚前の学生時代などは妹の板倉弘子をモデルにしたものも多い。それらを見ると、何もパリへ行って突然ヨーロッパ風になったのではなく、日本時代から不思議な作風の風景画、人物画を書いていたことが判る。板倉弘子は兄の作品を守り通し、Wikipediaによると2021年に111歳で亡くなった。そして遺志によって松戸市や千葉県、千葉市に寄贈された。近年になって再評価されているのは、そういう事情があったのである。
《黒椅子による女》1928年
 パリでは二人の娘も生まれ、絵も順調に描いていたようだが、運命は突然暗転した。1929年9月に歯槽膿漏の治療から敗血症になって10日間の闘病で亡くなってしまった。当時は病弱な芸術家が多かった時代だが、板倉鼎は普段は病弱なタイプではない。それが彼の絵の明るさに表れている。世界恐慌も世界大戦も知らず、20年代のパリの記憶のみを留めているのである。
板倉須美子《午後 ベル・ホノルル12》1927-28年頃
 妻の板倉須美子は日本では「文学少女」であり、ピアノを弾けたが絵の訓練は受けていなかった。しかし、パリで夫から手ほどきされ、絵を描くようになった。主に描いたのは、パリへ行く途中で過ごしたホノルルの美しさだった。「ベル・ホノルル」という題で幾つもの作品を残している。それらは夢幻的に美しく魅惑的で、当時パリでは鼎より人気があったと言われている。
板倉須美子《ベル・ホノルル24》1928年頃
 しかし、夫の死以前に誕生直後の次女を亡くしていた。残された長女とともに帰国したが、長女も亡くなってしまう。実家に戻って、有島生馬について絵画を習い始めたが、今度は本人が結核に倒れ、1934年に亡くなった。わずか25歳だった。夫妻ともに早世したために、日本で評価される機会もなかったが、多くの作品の寄贈を受け、松戸市を中心に顕彰の動きが始まったところである。全く知らなかったが、とても魅力的。板倉須美子の絵もナイーヴアートかなと思うが忘れがたい。
(さや堂ホール)
 なお、千葉市美術館は1927年に建てられた旧川崎銀行千葉支店が基になっている。ネオ・ルネサンス様式の壮麗な建築だが、新しいビルで元の建物を覆う「さや堂」方式で残すことになった。1階には「さや堂ホール」として歴史的建造物が残されている。常設展では草月流に関わる作品が展示されていた。司馬遼太郎『街道をゆく』の挿画で有名な須田剋太(すだ・こくた)が描いた勅使河原蒼風の絵も展示されていた。須田剋太の絵をこんなに見たのは初めて。
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『デ・キリコ展」を見るーシュールレアリスム以前の形而上的世界

2024年05月17日 21時30分50秒 | アート
 上野の東京都美術館で開かれている「デ・キリコ展」を見に行った。(8月29日まで。)最近めっきり美術館や博物館に行かなくなったが、なかなか値段が高いのである。もうじっくり見るのが面倒で、映画や演劇なら座っていればいいわけだが、自分で見て歩くとなると細かい字の説明を読むのが大変。上野では他に面白い展覧会がいっぱいあるのだが、これを見たのは一つには「シニア割り」があるからだ。そして、もう一つデ・キリコは子どもの頃から大好きで気になっているのである。

 ジョルジョ・デ・キリコ(1888~1978)は長命だったので、僕の学生時代まで存命だった。ただダリなどとは違って、晩年には「古典回帰」したと言われて、とっくの昔に終わった画家という扱いになっていた。しかし今回の展示を見ると、最晩年に「新形而上絵画」を描いていた。もっとも大分力は落ちている感じだが。今年は1924年にアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表してから100年になる。シュルレアリスム再評価の試みがあちこちで行われるようだ。
(ジョルジョ・デ・キリコ)
 僕がデ・キリコを知った時はシュルレアリスムの画家と言われていた。その頃はただの「キリコ」と言うことが多く、さらに名前を全部呼ぶ時もフランス読みで「ジョルジュ・デ・キリコ」と言うことが多かったと思う。多分百科事典かなんかで知ったと思うのだが、あまり本物を見た記憶がない。ルネ・マグリットポール・デルヴォーなんかの方が本物の絵を見てると思う。だから、これほどまとまって見たのは初めてで充実感があった。それはいいんだけど、僕が昔「キリコ」として名付けようもない魅力を感じた、「不思議な広場」「不思議な塔」の絵は第一次大戦以前の1910年代には書かれていたのである。
《バラ色の塔のあるイタリア広場》1934年
 こういう絵を見ると、僕は昔から何故か心惹かれてしまう。それは僕の夢の世界と似ている。自分の家に帰ろうと身近な道を歩いていると(あるいは学校へ向かっていると)、いつの間にか知らない町へ入っている。そこには「誰もいない」ことが多い。そこが萩原朔太郎『猫町』と違うところなんだけど、どこか孤独で、しかし懐かしい。デ・キリコの絵では「」が印象的に表現されているが、僕の夢には光と影は出て来ない。だけど誰もいない町並み、不思議な塔などはよく似ている。もちろんデ・キリコの影響でそうなったのかも知れないが、見たときから魅惑されたのだから僕の本質とつながりもあると思う。
《塔》1913年
 その後デ・キリコの絵には「マヌカン」(マネキン)がよく登場するようになる。ギリシャ神話に出て来る「ヘクトルとアンドロマケ」と題されることが多い。どうもギリシャ神話なんて言われるとよく判らないんだけど、表情のない人物像には謎めいた魅力がある。下の絵は1970年のもので、晩年になってもこういう絵を描いていたのである。
《ヘクトルとアンドロマケ》1970年
 いろいろと画像を載せていても仕方ないけど、やはりデ・キリコの魅力は下のような「不思議系」だと思う。第一次大戦以前にパリで作品を発表して、全然認められなかった。それを見出したのは詩人ギヨーム・アポリネールだった。そして大戦後にシュルレアリスムの画家たちにも大きな影響を及ぼした。ということで、デ・キリコはシュルレアリスムというより、それ以前の画家と言うべきだろう。そしてシュルレアリストたちとの蜜月は短く、20年代後半に入ると古典回帰したデ・キリコとシュルレアリスム運動は絶縁するようになった。
《不安を与えるミューズたち》1950頃
 だけど案外その古典風の、馬がテーマの神話風の絵なんかも魅力があるのだ。今回は彫刻や舞台美術なども出ているし、本当はもっとじっくり見たいところ。また短いけれど(2分)、生涯を展望するビデオが流されている。それを見ると、イタリアの風景、トリノ、ミラノ、フェラーラなんかの町の風景がデ・キリコの絵画に大きな影響を与えているのが明らかに見て取れる。
《17世紀の衣装をまとった公園での自画像》1959
 今回は平日限定65歳以上前売り券というのを買っていたので、さっさと見てきたわけ。デ・キリコの住んでいたローマの邸宅は今は美術館として公開されているという。まあ見に行くことはないだろうなあ。スマホもコインロッカーに入れて見てたから写真は撮らなかった。展示物は撮れないけど、最後に撮影スポットが用意されていた。
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『和田誠 映画の仕事』展と静嘉堂文庫美術館

2024年01月07日 22時21分35秒 | アート
 国立映画アーカイブで、ネオレアリズモの傑作『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督)の修復版を見た。前に見ているが、ロケ映像が見事に蘇って見ごたえがあった。今回はその話ではなく、その後で7階の展示室に行って『和田誠 映画の仕事』を見たので、そっちを。和田誠さんのことは、亡くなった時の追悼(『和田誠さんを追悼して』)や大規模な和田誠展(『和田誠展を見に行く』)など、今まで何度も書いてきた。若い頃から見たり読んだりして影響を受けてきた。
(絵は『巴里のアメリカ人』)
 以前まだ「フィルムセンター」だった頃、そこで開かれた『ポスターでみる映画史Part 2 ミュージカル映画の世界』展では、和田氏所蔵のポスターが多数展示された。和田さん自身が解説するのも聞きに行ったが、調べてみると2015年3月14日のことである。ポスターを解説して回る和田さんの姿が目に浮かぶが、もう亡くなってしまった。さて、今回は『映画の仕事』と題されている。いろいろと展示されているが、主に2つ。一つは営々と描き続けた映画のポスターである。これは日活名画座などで描いた主にアメリカ映画のポスターと、『台風クラブ』や『二十世紀少年読本』などの日本映画の公開用のポスターである。
(チラシ裏面)
 なんと言っても楽しいのは、昔の映画のポスターだ。新宿の日活名画座で無償で描いていたもので、前に見てるものも多いけどとても楽しい。元の映画や映画スターを知ってるほど楽しめる。デフォルメされていて、誰だろうという人も多いけど。それにしてもヨーロッパ映画はほとんどなく、アメリカ映画が圧倒的に多い。西部劇やミュージカルも多いわけだが、思い出を読むとビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』と『アパートの鍵貸します』が大好きだったとある。ヨーロッパ巨匠のアートより、ハリウッドが一番元気だった頃の洒脱が好きなのは、和田誠の全仕事に通底するものがある。
(『和田誠 映画の仕事展』)
 もう一つは映画監督和田誠である。和田誠はついに映画監督に進出し、1984年に阿佐田哲也『麻雀放浪記』を完成させた。ちょうど多忙な時代で見逃してしまったが、後になって見たらこれが凄い傑作だった。今回小ホールで上映されるので、見てない人も、もう一回見たい人も是非。ポスターももちろん本人が描いてるが、それよりも絵コンテとか製作ニュースなど貴重なものが出ている。また1970年の羽仁進監督『恋の大冒険』の資料も貴重だ。これは監督作じゃないけど、タイトルだけじゃなくアニメを取り入れたり、脚本(山田宏一、渡辺武信)にも加わっているという。また、初のアニメ短編『MUEDER』が場内で映されている。ところで、最近『怖がる人々』『真夜中まで』の上映機会が少なく、今回もやらないのは残念。
  
 その後、国立映画アーカイブからお堀端まで歩いて、明治生命館静嘉堂文庫美術館にも行った。静嘉堂文庫は三菱の岩崎家の収集品を集めたところで、以前は世田谷区の奥の方にあった。一度行ったときのことは、『静嘉堂文庫と松浦武四郎展』に書いた。2022年に明治生命館に移転し、それからは初めて。明治生命館も重要文化財の建物だが、その横から美術館に入れるようになっている。今は「ハッピー龍イヤー!」と題して、今年の干支にちなんで龍が描かれた陶器や絵が展示されている。一部に古伊万里や日本画もあるけど、ほとんどが中国のもの(景徳鎮などの焼き物)である。それはまあ素晴らしいものばかりだが、あまり関心はない。
(展示物)(橋本雅邦の重文『龍虎図屏風』) 
 橋本雅邦の『龍虎図屏風』は1955年に近代絵画の中で初めて重要文化財に指定されたというだけあって、さすがに立派なものだった。しかし立派というなら、龍とは関係ないけどやはり目玉の「曜変天目」の素晴らしさである。前も見てるけど、飽きないものだ。ところで解説を見ていたら、中国には「龍」の字を二つ並べた字があり、それどころか三つ、さらに龍の字を4つ、二段組み×2個並べた字もあるとのこと。「龍」一字だって結構面倒なのに、それを四つも重ねるとは。一番画数が多い字らしい。ここは地下鉄千代田線二重橋前駅に直結していた。映画アーカイブ展示室はシニア無料、静嘉堂文庫美術館は株主招待券で入ったので、ただでアート気分。もっと歩くかと思ったら、家と駅の往復入れて9千歩ぐらいだったのが残念だった。
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猛暑の中「マティス展」を見に行く

2023年08月02日 22時52分11秒 | アート
 アンリ・マティス(1869~1954)の本格的な展覧会が上野の東京都美術館で行われている。(4月27日~8月20日。)去年予告があった時から、これは見たいなと思った。ピカソに比べてマティスは、あまり見てないと思う。もちろん単発では何度も見ている。だがちゃんとしたマティス展に行ったことはないような気がする。でも段々マティスに惹かれる気持ちが出て来た。だけど、猛暑である。葬式もあって時間が取れない中、気付いてみれば終了も近い。猛暑だなんて言ってる場合じゃない。そろそろ行かないと。
 (アンリ・マティス)
 今回の展覧会は「本格的」なものである。つまり「全貌」が時代順に展示されている。それで判ることは「マティスと言えばフォーヴィズム」になる以前が長いということだ。マティスは1869年、つまり日本で言えば明治2年の生まれで、フォーヴィズム(野獣派)は20世紀初頭のムーヴメントである。40歳を越えてからのことだった。それまでは様々な画家の影響を受けて創作していて、それはなかなか上手いんだけど、それだけなら日本で展覧会は開かれない。その時期に描かれた『読書する女性』(1895)は、当時のパートナーがモデルだという。彼女は2年前に女児を産んでいたが、マティスは1898年に別の女性と結婚した。
(『読書する女性』)
 マティスは1920年代にニースに転居した。それからわれわれがマティスと思うような作品が出て来る。例えば『赤いキュロットのオダリスク』(1921)などで、こういうのを見に来たわけだけど、場内が暗いので案外色彩の氾濫という印象がないなあ。むしろ、それまでに展示されていた彫刻など、滅多に見られないものが貴重。第二次大戦中にニースが危険になり、近隣の小さな村ヴァンスに転居した。チラシに使われた『赤の大きな室内』などが描かれた。やはりマティスは赤である。
(『赤いキュロットのオダリスク』)
 晩年の切り紙絵も面白い。切り取った紙が足元に散らばってる写真があって、散らかってると言ってた客がいた。別にあの程度は散らかしているうちに入らないでしょう。そして最後にヴァンスに作られたドミニコ修道会のロザリオ礼拝堂の写真が展示され、映画が上映されている。マティスはここの内装をデザインし、ステンドグラス、上祭服などを作製した。この礼拝堂がマティスの最高傑作という人もいるらしい。実際、実に素晴らしい場所に見える。持ってくることは出来ないから、写真等で接するしかない。でもこれがマティスの最後の境地かと実感出来る。1948年から51年に掛けて作られ、1954年にマティスは死去した。
(ロザリオ礼拝堂)
 上野駅公園口から都美術館はそんなに遠くはないけれど、まあ正直言うと猛暑でイヤになった。マティスの全貌をどうとらえるかなどと感じる余裕はなく、椅子に座って涼んでいたい、結構大変なアート体験。まあ、家からは近いけど。
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「生誕120年 大沢昌助展」を見るー不思議な世界の軌跡

2023年06月09日 22時44分36秒 | アート
 練馬区立美術館に「生誕120年 大沢昌助展」を見に行った。(6月18日まで。)大沢昌助(1903~1997)の名前も知らなかったけれど、「戦後の社会背景を見据えつつ、ブレることのない独自のスタイルを貫いた昭和を象徴する美術家」とチラシにある。主な美術館のスケジュールはネットで検索しているけど、名前を知らないからスルーしていた。でも新聞に出ていて、面白そうだったのである。戦前から戦後の独自な具象画から、晩年になって抽象画に転じていった興味深い画家である。
(「笛を吹く少女」1976年)
 1903年に建築家大沢三之助の子として生まれた。父は辰野金吾に学び、東京美術学校教授になったという人である。父が描いた風景画なども展示されていたが、父からはきちんとしたスケッチ技術を教えられた。東京美術学校西洋画科を首席で卒業した後、戦時中の1943年に二科会の会員となった。シュールレアリスムに関心を持ちつつも、一つの流派になるのはためらいがあったらしい。
(晩年)(「自画像」1996年)
 「水浴」は戦時中の1941年作品だが、その時代の代表作である。少年像はギリシャ彫刻を参考にしたというが、顔も姿もちょっと不思議である。少年たちが水浴しているというテーマも何だか不思議で忘れがたい。戦後の「真昼」も不思議で、何だか遠近法がおかしい感じもする。奥の方をよく見ると、右にも左にも少女がいる。廃墟は戦後っぽいけれど、どこか静かで明るい感じもある。シュールレアリスム的な感じもするけど、一つ一つは確かな技術で描かれている。
(「水浴」1941年)(「真昼」1950年)
 そこから次第に抽象画になっていき、明るく面白い構図の絵をたくさん残した。高齢になってから抽象になるのは、ある意味判るような気がする。モデルや風景を描くより、イメージを発展させる抽象の方が描きやすい。
(「黒いおもかげ」1995年)(「変わっていく繰り返し」1981年)
 さらにいくつかの壁画も描いている。旧国立競技場に描いた絵は、何とか保存されたという。他に世田谷区役所都議会議事堂にも壁画を描いた。いくつもの顔を持つ画家だったのである。僕には全体像を評価することは出来ないけれど、「水浴」や「真昼」のような不思議な感じは他の画家ではちょっと思いつかない。
(「人と太陽」国立競技場壁画下絵、1964年頃)
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佐伯祐三展(東京ステーションギャラリー)を見る

2023年02月25日 20時47分58秒 | アート
 東京ステーションギャラリーで開催中の佐伯祐三展を見に行った。(4月2日まで。)佐伯祐三(さえき・ゆうぞう、1898~1928)はパリの街角を描き、30歳で客死した画家だ。そのドラマティックな人生、パリへの憧れなどが気になって、若い頃は展覧会に行ったこともあったと思う。東京では久方ぶりに生涯を通観する展覧会だが、思えば没後100年も近いではないか。
 
 今回は「自画像としての風景」と題されて、一番最初に自画像がまとめられている。それを見ると、若い頃からの透徹した自己省察がうかがえる。佐伯は大阪に生まれ、17歳で東京に出て来た。東京美術学校(現・東京芸大)に学び、卒業後の1924年に2年間パリへ行った。一度帰国した後、1927年に再びパリへ戻り、翌年同地で死んだ。画家としてのわずかな人生の中で、印象的な絵を残したのである。東京に戻った時は、新宿区下落合にアトリエを構え、現在「佐伯祐三アトリエ記念館」が再建されている。近くには中村彝(つね)のアトリエも再現されていて、散歩で訪れたことは「佐伯祐三と中村彝-落合散歩①」(2016.5.16)に書いた。
(自画像)(下落合風景)
 パリではフォーヴィズムの大家ヴラマンクを訪ね絵を見せたところ、「このアカデミックめ!」と罵倒されたと伝えられる。その後、作風に独自性が出て来たのは間違いないけど、佐伯の描くパリ風景はどうしてこんなに暗いんだろう。最初は「壁の町」とまとめられ、確かに家の壁ばかりを描いている。2度目のパリになると「線の町」になる。また町の中にある「文字」が絵に取り込まれているのも特徴だ。それは最初に見た時は実に魅惑的だった。
(「ガス灯と広告」1927年)
 2度目にパリ行ったときに街角を描いた風景画はとても魅力的なものが多い。佐伯も影響を受けたユトリロも思わせるが、佐伯の暗色が多いパリ風景は確かに独自である。20年代のパリはこんなに暗かったのか。というか、夕方や夜を描いているものが多いから暗くなるだろうけど、やはり心象風景なのかと思う。
(レストラン(オテル・デュ・マルシェ)1928年)
 1928年3月頃に結核が悪化し、精神状態も不安定になったという。もう外で絵を描くのも大変になってきた頃、偶然訪れた郵便配達夫をモデルにして油絵2点、グワッシュ1点を描いた。またモデルに使って欲しいと言ってきたロシア人の少女も描いている。それが絶筆になったが、今回チラシにも使われている「郵便配達夫」を実際に見ると、印刷以上に印象的で奇跡的な作品だった。鬼気迫る感じもする絵で、郵便夫は二度と現れなかったことから、佐伯の妻(画家の佐伯米子)は「神様だったのではないか」と言ってるという。その後自殺未遂を経て、精神病院に入院し、そこで妻が子どもの世話をしている間に一人で亡くなった。 
(「郵便配達夫」1928年)
 平日の午後だが、かなり混んでいた。日時予約も可能だが、並んでいれば入れた。3階から2階へ下りる階段は、昔のレンガ壁が残されている。重要文化財だから触るな書いてあるけど。見終わった後の回廊から見下ろす東京駅も魅力。
 (壁)(2階から)
 出れば東京駅が見える。曇っていてあまり見映えしない。今回は地下鉄大手町駅から歩いたので、東京駅には入ってない。中央郵便局に寄って、70円切手を買う。これは「国際郵便のハガキ」に適用される料金である。海外へのハガキというのは、アムネスティの運動として、世界各国の政府に要請を送るのである。毎年秋に出る「国際文通週間」用の記念切手を貼っている。意味ないだろうけど、抗議される側だって記念切手の方がいいだろう。そこから国立映画アーカイブまで歩いて、石田民三監督『花つみ日記』を見た。前に見てるけど、改めて日本映画史上屈指のガーリー・ムーヴィーだなと思った。
 (東京駅)
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ゲルハルト・リヒター展を見るーわけが判らないけど面白い

2022年09月26日 22時10分19秒 | アート
 東京国立近代美術館で開催中(10月2日まで)のゲルハルト・リヒター展を今日(2022年9月26日、月曜日)見てきた。国立美術館や博物館は、祝日ではない月曜日は本来休館である。しかし、明日(9月27日)に近くで「あれ」が行われるので、今週だけ特例で月曜開館、火曜休館に変更されたのである。実は土曜日に行ってみたんだけど、予約してない人は大分待つようで断念した。その代わり、月曜開館というので、今回はウェブ予約をして出掛けていったわけである。

 ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter, 1932年2月9日~) は、ウィキペディアを見ると「現在、世界で最も注目を浴びる重要な芸術家のひとりであり、若者にも人気があり、「ドイツ最高峰の画家」と呼ばれている」とのことである。しかし、僕はこの人の名前を映画『ある画家の数奇なる運命』を見るまで知らなかった。この映画は2020年に日本で公開され、僕は非常に感銘深く見た。米アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた作品である。『善き人のためのソナタ』という傑作を作ったフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督作品。3時間超の長い映画で、日本でももっと高く評価されて欲しい映画だ。
(ゲルハルト・リヒター)
 ナチスが政権を取る前年に生まれ、ナチス時代、旧東ドイツの「社会主義政権」を生きた後、「ベルリンの壁」建設直前に「西ドイツ」に移動して、デュッセルドルフでヨーゼフ・ボイスについて美術を学んだ。映画には名前は出てこないけど、教授のモデルはボイスだと知って、そう言えば昔ヨーゼフ・ボイス展を見たことを思いだした。映画では新聞や雑誌の写真をもとにした「フォト・ペインティング」を創出するまでを描いているが、その後もどんどん「アートの限界」に挑むような試みを続けている。完全に「現代アート」の世界だから、判るような判らないような、いや全然判らないといった方が正直な作品群ばかり。
 (「ビルケナウ」シリーズ)
 それを代表するのが、日本初公開の大作『ビルケナウ』である。幅2メートル、高さ2.6メートルの作品4点で構成される巨大な抽象画で、名前はナチスの強制収容所である。これはビルケナウで撮影された写真をもとにしているというんだけど、その上に黒や白、赤の絵の具が塗り重ねられ、下の写真を意識することは出来ない。このシリーズが分散しないように、作者は「リヒター財団」を作りベルリンの国立美術館に貸与しているとのことである。この前見た香月泰男のシベリア・シリーズも全然シベリア感がなかったが、この「ビルケナウ」シリーズも僕はよく判らない。
(「アブストラクト・ペインティング」)
 展示室の相当部分を占めるのが、「アブストラクト・ペインティング」である。70年代後半から作られたもので、上掲写真のような絵がたくさんある。一つ一つが大きいので、嫌でも目立つのである。そして判るかと言えば、「ある意味では判る」。つまり、メチャクチャ子どもが絵の具を塗りたくっているのではなく、明らかに「作品」なのである。そして全部が面白いのではなく、成功の度合いが違っている。幾つも見ているうちに、何となく感じるのである。そして僕にはそれ以上は何も言えない。
 (「ストリップ」シリーズ)
 面白いのは、ひたすら細い色が横長につながっている「ストリップ」シリーズである。どうやって描くんだろうと思うと、2011年から始められたデジタルプリントだそうである。ほとんど目まいがしてしまうような抽象的な世界だけど、実はすべて1980年に制作された「アブストラクト・ペインティング」に由来するんだという。絵をスキャンした画像を縦に二等分し続けて、幅0.3ミリの色の帯を作り、その帯を横方向にコピーしてつないでいく。そういう風にして制作されたというから、これが「絵画」と言えるのかも微妙だ。しかし、まさに「アートを見た」としか言いようのない感慨を残すのである。

 他にも「フォト・ペインティング」「グレイ・ペインティング」「カラーチャート」「アラジン」など多種多様な手法で作られた作品が多数展示されている。どの順番で見るべきだというのはなく、どう見ても良いということらしい。「アラジン」というのは、一種のガラス絵だということだが、幻想的なムードになるため「アラジン」という命名をしたということだ。そんな中に「ガラスと鏡」もある。「何か」を描いているものを「絵画」と呼ぶならば、これは何も描かれない。例えば一面グレーの鏡になっていて、そこには観客が映り込む。自分の姿を見ても「アート」なのか。何だかアート限界を超えているような気もする。

 ともかく、アートとは何かと考えてしまうような展覧会だった。そんなことを考えなくてもいいのかもしれない。でも、ただ見ていても理解を超越する作品があるのも事実。2200円を出す価値があるのかと悩む人もいるだろう。常設展も見られるから、何度も見ているけど駆け足で回った。2階にもリヒターの作品も展示されている。ドイツの現代画家の作品が幾つか展示されているが、もうどれがリヒター作品かすぐに判った。4階の「ハイライト」展示室には、特に有名な近代日本の作品が集まっている。岸田劉生道路と土手と塀(切通之写生)」(重要文化財)とか安井曾太郎金蓉」など、もう何十回も見ているけどホッとしたのも事実。
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キース・ヴァン・ドンゲン展を見るーフォーヴィズムからレザネフォル

2022年09月13日 22時27分15秒 | アート
 パナソニック汐留美術館に「キース・ヴァン・ドンゲン展」を見に行った。26日までだから(水曜休み)、早く行かない。日時予約制が面倒だが、近くで映画を見た後に寄ることにした。日時予約は15分刻み、日時のみ予約で、チケットは窓口で買うというのにちょっと驚いた。映画館だとクレジットカード決済で、チケットを買うのが一般的だけど。

 キース・ヴァン・ドンゲン(Kees Van Dongen、1877~1968)と言われても、何となくどこかで聞いたような気もするけどレベル。日本では44年ぶりの本格的展覧会だそうだけど、前回の記憶は全くない。オランダに生まれて、パリで活躍した20世紀前半の画家である。強烈な色彩でフォーヴィズムの一員となった画家だという。フォーヴィズムと言えば、マティスルオーヴラマンクなどを思い出すが、キース・ヴァン・ドンゲンは今見ると強烈と言うほどの印象はない。むしろ美しい色彩で描かれた女性や風景が懐かしい感じがする。「泰西名画」の香りである。チラシにある絵《楽しみ》(1914年)はフォーヴィズム時代の代表作。
(キース・ヴァン・ドンゲン)
 キース・ヴァン・ドンゲンはロッテルダム近くで醸造業を営む家に生まれ、ロッテルダムの美術学校に通った。その時に最初の妻ジュリアナと出会っている。1899年にパリに移住して、新聞や雑誌のイラストを仕事にした。1901年にジュリアナを呼び寄せて結婚、長男は早世したが、1905年に娘のドリー(本名はオーガスタ)が生まれた。その後、次第に画風がフォーヴィズムに近づき、評判を高めていく。1910年にはピカソに誘われて、モンマルトルの共同アトリエ兼アパートとして有名な「洗濯船」に引っ越している。ここは20世紀美術界の「トキワ荘」みたいなところで、多くの画家、詩人が住んでいた。1908年には(当時認められていなかった)アンリ・ルソーを讃える夜会をピカソが開いたことで知られる。
(《私の子供とその母》1905年)
 1914年の第一次大戦直前にロッテルダムに帰郷していたため、そのままパリに戻れなくなってしまった。1918年の終戦後にパリに戻るが、妻との関係は破綻して1921年に離婚している。そしてヴァン・ドンゲンは肖像画家として人気を得ていく。それは素晴らしい出来映えだと思うけど、同じような絵が多くて次第に飽きてくるのも事実。パリやドーヴィル(ノルマンディーの海浜リゾート)の首飾りや指輪をした裕福な女性が愁いを秘めた眼差しで佇んでいる。それはまさに「レザルフォル」Les Années folles、狂乱の時代)を象徴している。アメリカでは「狂乱の20年代」(Roaring Twenties)と言われた時代である。
《女曲馬師(または エドメ・デイヴィス嬢)1920~25》《ドゥルイイー指揮官夫人の肖像、1926》
 パナソニック汐留美術館はジョルジュ・ルオーを収蔵していて、ルオー展示室があった。それを見ると、やはりルオーの方がスゴいと思ってしまう。結局、狂乱の時代に飲まれてしまったか。この時代にパリで活躍した画家は沢山見てきたわけだが、この人は真の一流とまでは言えないかなと見ているうちに思ってきた。でもフランスの風景や人物を見ることが快感なのである。それが「魅惑の巴里」というもんなんだろう。前半は赤が多く、後半の絵は緑を多く使っている。キレイだという意味で、見応えはあった。

 見たい展覧会は多いけど、見逃すことが多い。人気の展覧会だと混んでるのが嫌だったのである。フェルメールが日本に来るたびに行ってた時期があるが、「真珠の耳飾りの少女」の展覧会は、「真珠の耳飾りの少女を見る多くの人々の後頭部」という絵柄として僕の中で記憶されている。しかし、最近はコロナ禍で案外空いてて、美術館は狙い目かなという気がする。調べるとシニア割引のあるところも多いし。次はゲルハルト・リヒター展に行かなくては。
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「生誕100年 朝倉摂」展を見るー日本画から舞台美術まで

2022年08月11日 20時56分03秒 | アート
 朝倉摂(1922~2014)は彫刻家朝倉文夫の長女として生まれた。晩年に多くの舞台美術を担当し、唐十郎蜷川幸雄の芝居をたくさん担当していた。僕は舞台美術家という印象が強かったが、生誕100年の回顧展が開かれて、初めて全貌が見えた感じがする。巡回最後の練馬区立美術館も8月14日(日)まで。猛暑に悩んでいるうちに終わりが近くなってしまった。今日は渋谷に見に行ったジョン・フォード監督の昔の映画が満員だったので、練馬まで回った。渋谷から練馬、遠そうで副都心線快速であっという間。

 父は彫刻家で、妹響子も彫刻家の道へ進んだのに、長女の摂は日本画に進んだのが面白い。17歳で伊東深水に師事したのである。ただ時は戦時下で、描いていたのは戦時下のリアリズム的な日本画だった。油彩じゃなく、紙に顔料で描いたから「日本画」になるんだろうけど、キレイな風景や美女、歴史的人物などをテーマにする日本画ではない。「歓び」と題された1943年の作品も、若き女性3人を描きながらもモンペ姿が戦時下である。解説に「農作業に勤しむ銃後の女性像をモダンな感覚で描き出した」とある。
(「歓び」1943)
 戦後になると、創造美術を経て新制作協会日本画部に所属し、「キュビスム的な作風」を取り入れる。さらに社会的なテーマに関心を広げ、労働者の姿を描くようになる。手法はやはり「日本画」だが、テーマも技法も「前衛」。見ている分には普通の洋画と余り違わない。それが下の「働く人」で1953年に上村松園賞を受けたという。「日本1958」になると、直接に日本の危機に立ち向かうテーマとなり、60年安保に至る時代相を強く感じさせる。
(「働く人」1952)(「日本1958」1958)
 それが60年代以降は日本画から遠ざかっていくのは何故か。「安保闘争の挫折感」などと書かれているが、僕にはよく判らない。日本画への違和感が強くなったのかもしれない。生前は本人の意思で画家時代の作品は公開を封印されていた。多くの人は今回が初めて生涯を一望する機会だったはずである。その美術史的位置づけは僕には出来ないけれど、とても興味深い作品ばかりだ。
(朝倉摂)
 ところで展覧会の最初にポスターが何枚か出ている。唐十郎や別役実の演劇、松本俊夫の映画『薔薇の葬列』などで、以前に見ているものが多い。60年代末からの前衛的な演劇、映画のポスターは、何と言っても横尾忠則粟津潔のものが多かった。だけど、あまり意識しなかったのだが、朝倉摂の描いたポスターもあったのである。そして60年代以後、数多くの舞台を設計する。今見ると、その壮大さに恐れ入る感じで、戦後日本の絶頂期だったんだなあという気がする。
(「ハムレット」1978)(「にごり絵」1984)
 いずれも蜷川幸雄が手掛けた「ハムレット」「にごり絵」の舞台写真を載せておくけど、こういう舞台装置が商業演劇の世界で出来たのである。さらに唐十郎の「下谷万年町物語」も素晴らしい。僕もいくつか見ているが、確かオニールの「楡の木陰の欲望」だったと思うのだが、舞台装置の素晴らしさに驚いた。あまり美術担当を気にして演劇を見たことがなかったけれど、朝倉摂の名でもっと見ておけば良かったと反省したものだ。

 もう一つ、日本画や舞台美術で食べていけるのかと思うと、そこはちゃんと挿絵や絵本もやっている。新聞小説の挿画では松本清張の『砂の器』の連載を手掛けて評判になったという。また『ごんぎつね』『赤いろうそくと人魚』『たつのこたろう』などの絵本も素晴らしい。作者を意識せずに読んだ絵本もあったかもしれない。原画と印刷された本を比べると、絵本になったときに見映えがするので感心した。1972年には大佛次郎作『スイッチョねこ』で講談社出版文化賞絵本賞を受けた。(なお、父の家だった朝倉彫塑館を見た人は知ってると思うけど、朝倉一家は大の猫好きだった。)

 見逃さなくて良かったと思った展覧会だが、知らないことは多いものだ。晩年まで活躍していたので、前半生に日本画家としての活動があるとは知らなかった。それも「前衛的日本画家」で、戦後の労働者や社会問題もテーマにしたのである。しかし、それ以上にやはり60年代以後の日本演劇界を舞台美術で支えた業績が大きいと思う。それは展示された多くの写真などで判る。
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「彫刻刀が刻む戦後日本」ー版画を通してみた戦後民衆史

2022年06月18日 20時14分32秒 | アート
 町田市立国際版画美術館で開かれている「彫刻刀が刻む戦後日本」展(7月3日まで)は、とても刺激的で感動的な展覧会だ。単なる美術展というよりも、全く新しい視角から見えてくる戦後日本の歩みが興味深い。特に50年代には多くのポスター、チラシには版画が使われていた。その後、印刷技術やパソコンの普及などで、印刷物の作り方が劇的に変わっていく。もう皆で版画を作った時代のことも忘れかけている。戦後日本の文化運動史、教育史、民衆史を振り返る素晴らしい企画だった。
 
 町田市に版画の美術館があるというのは知っていたが、そもそも町田市に行くのが初めて。東京都だけど神奈川県に突き出たような位置にある。どうやって行くのか知らなかったが、東京からだと小田急線。ロマンスカーで箱根へ行ったことはあるから、通り過ぎたことはあったわけだ。代々木上原まで地下鉄で行って、急行唐木田行に乗り換えたら、新百合ヶ丘でまた乗り換える必要があった。「しんゆり映画祭」をやってるのかここか。町田駅で下りたら、完全に小田急百貨店の地下。徒歩15分だから歩いたが、地図もあって判りやすい。版画美術館前という信号から急坂を下るので驚いた。家から2時間以上かけて到着。
 
 「工場で、田んぼで、教室で みんな、かつては版画家だった」というキャッチコピーを見て、思い出す人も多いはず。そうだなあ、昔は家に彫刻刀があった。授業で版画を彫った経験があるなあ。60年代の小学校で版画をやったのは、1958年の小学校学習指導要領に明示されたことが大きいという。それは70年代まで続いたようだ。その後は書かれていないから、今はやってないのか。まあ彫刻刀を扱うのは危険という時代になったのだろうか。それに他の素材を入手しやすくなったのだろう。彫刻刀と版木があれば誰でも出来るという簡潔さが、そんなに意味を持たなくなったのかもしれない。

 今回の展示で驚いたことは、日本の版画運動に影響を与えたのが中国だったということだ。1947年だから、まだ革命前である。日本で現代中国の版画展が開かれて、民衆に根付いた力強い表現がインパクトを与えたという。版画は他の美術に比べて持ち運びが簡単で、何枚も刷れるという特性もある。抗日戦争下の民心鼓舞として大きな意義を持ったということらしい。それが戦争で貧しくなった日本に大きな影響を与えた。労働組合のチラシやポスターが印象的だ。特に原水爆禁止運動を支えた意義が大きかったことが展示で判る。「原爆の図」展のポスターなどばかりではなく、上野誠ヒロシマ三部作』など版画家の作品も力強い。

 さらにそれらの版画運動が教育と結びついた。50年代に有名だった『山びこ学校』などの「生活綴り方」運動とともに、子どもたちの生活を版画にする教育版画運動の「生活版画」が全国的に取り組まれた。今回はそれらの成果が一堂に会して圧巻である。特に熱心な教員がいた小学校から大作が出ている。版画は共同製作が可能だからクラスで取り組んだ大作があるわけである。それらは写真が可能になっているものが多い。東京都東久留米市の神宝小学校卒業生有志による「森は生きている」は一番の大作である。
(森は生きている、1999年)
 青森県八戸市立湊中学校養護学級生徒による「虹の上を飛ぶ船・総集編(2)」の「天馬と牛と鳥が夜空をかけていく」(1976)という絵は、アニメ『魔女の宅急便』に出て来る森の中に住んで絵を描いている少女ウルスラの絵のモデルになったという。
 (後者=魔女の宅急便)
 石川県の羽咋郡の志賀中学校の「収穫」(1967)という作品など、地域の中で働く人々、あるいは公害など社会的問題にチャレンジした作品など数多くの作品が出ている。指導した教員も、彫った生徒も、モデルの民衆も、皆「無名の人」である。その後、どのように生きたのだろうか。日本の高度成長の中で、決して幸せではない過酷な人生を送った人も多いはずだ。それは『山びこ学校』を書いた生徒たちのその後を追った佐野眞一『遠い山びこ』を読んだから想像できるのである。
(「収穫」)
 そして作品の所蔵先も指導教員の個人蔵のものがかなりある。描かれた生徒たちの学校や地域の美術館などで所蔵されているものばかりではない。さらに版画ではなく、壁画やレリーフなどを作った学校も多いだろう。この何十年か、日本中で学校の統廃合が行われている。生徒たちが取り組んだ貴重な作品がいつの間にか破壊されていることも多いのではないか。

 見るものに様々なことを思い出させ、考えさせられる展覧会だった。「作家」という意味では、後に切りえ作家として有名になった滝平二郎、あるいは栃木県に住んで田中正造ら足尾鉱毒事件の版画を作った小口一郎の二人しか知らなかった。50年代の様々な民衆運動の中で作られた雑誌がいっぱい展示されていたが、表紙には版画が使われている。それらを見たこともあるのに、「戦後民衆運動と版画」なんて考えたこともなかった。自分も版画の授業があったが、「戦後教育における版画」なんて考えたことがない。自分の思いもよらないところに、新しい世界が開かれているものだと改めて痛感した。
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香月泰男展を見るー「シベリア・シリーズ」の画家

2022年03月19日 20時55分43秒 | アート
 香月泰男展練馬区立美術館で開かれている。27日までなので、もう終わりが近いから昨日見に行った。香月泰男(かづき・やすお、1911~1974)は「シベリア・シリーズ」で知られた戦後日本を代表する洋画家の一人である。2021年が生誕110年ということで、各地で回顧展が開かれてきた。神奈川県立近代美術館(葉山)で最初に始まったが、調べてみると練馬に巡回するとあったので待っていた。はっきり言って全く判らないんだけど、その判らなさがすごいので書いておきたいなと思う。
 
 香月泰男は山口県三隅町(現長門市)に生まれ、東京美術学校に学んだ。1942年、山口県立下関高等女学校に勤務中に召集を受け、「満州国」で軍務に服した。敗戦とともにシベリアに抑留され1947年までクラスノヤルスクの収容所で強制労働に従事した。引き揚げ後は復職し、1960年まで高校教員をしていた。60年代に描き始めたのが、抑留中のシベリアに材を取った「シベリア・シリーズ」と後に言われるようになった絵である。それが評判を呼んで、1969年に第1回日本芸術大賞を受けた。

 僕は昔からシベリア抑留に関心があり、随分本を読んできた。抑留者は全部で57万を超え、約5万8千人が亡くなったとされている。なかなか情報が伝わらず、帰国事業は1947年から1956年に及んだ。シベリア抑留自体が国際法違反だが、その中では香月泰男は2年間で帰国できたのだから、もっとも早いグループになる。とは言っても、もちろん厳寒の地で理不尽に労働を課せられたのだから、心の奥に深い傷を残しただろう。それが60年代以後の「シベリア・シリーズ」になるが、画家は自分にとってシベリア体験は「夢」だと語り、自分の夢はモノクロームだとして暗いトーンの絵を描いたのである。
(香月泰男)
 アートが「わからない」というのはどういうことだろうか。昔、印象派が初めて登場したとき、人々はそれを認められなかったという。でも今では世界の多くの人は印象派の絵を見たら「美しい」と感じるだろう。僕の子ども時代には、ピカソの絵も「訳がわからないもの」の象徴のように使われていた。しかし、次第に慣れて行ったからか、今ではよほどの抽象画を見ても、何か感じるものだろう。しかし、香月泰男のシベリア・シリーズを見て、僕はよく判らないなあと感じた。それは何故だろう。いや、もちろんシベリア抑留時の苦難の日々を事細かに具象画として描いて欲しいわけではない。シベリア・シリーズは明らかに優れた技術で描かれているし、そこに「何か深いもの」があるのも伝わるのだが、どこか判らなさを感じてしまう。
(「青の太陽」1969年)
 香月泰男はもちろん、シベリアへ連行される前から多くの絵を描いている。シベリア・シリーズ時代にも違う絵も描いている。戦前の若い頃の絵も随分個性的だった。何だろうと思うと、その部屋には「逆光の中のファンタジー」と題されていた。映画や演劇では普通主役が引き立つように照明を当てる。絵の場合も同じで、レンブラントやフェルメールのように、主たる人物に光を当てるのが普通だろう。しかし、香月の絵では人物の後ろから光が当たっていて、人物の顔が暗い。そういう絵が多いのである。故郷を描いた絵でも同様で画面が暗くなっている。
(「点呼」1971年)
 それは山口県の日本海側の厳しさを反映しているなどと言われるらしい。それは僕にはなんとも言えないが、シベリア・シリーズは何も香月泰男にとって特別に突出していたのではなく、若い頃からの絵と地続きになっていると思う。画像で最初にあるチラシの絵は「渚(ナホトカ)」という1974年の作品だが、「青の太陽」や「点呼」などとともにシベリア・シリーズである。このシリーズは全部で57点になると言うが、すべて見た時にシベリアだと思うよう絵は一点もない。「点呼」は比較的具象的に理解出来る方だけど、それでも随分暗くて兵士たちは「マッチ棒」みたいである。しかし、兵士の本質は「モノ」なのかもしれない。

 「青の太陽」もシベリアとか戦争などと言われても、やはり全く判らないんだけど、これは明らかに優れた絵だということは伝わってくる。戦争体験者世代の心象風景を伝える絵で、心に訴えてくるものがある。それがシベリア抑留の苦痛や鎮魂などと言われると、その意味の理解の部分で判らなくなるのだが、ただ見れば心に残る。シベリア・シリーズと同時代に描かれた日常生活を描く作品も同様にどこか暗くて不思議な構図をしている。長いこと見たかったシベリア・シリーズとは、こういう絵だったのか。

 香月には「私のシベリア」(1970)という本があるが、ウィキペディアにはこの本は立花隆がインタビューをもとにまとめたものだとある。立花隆には「シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界」(文藝春秋、2004)という著作もあって、それらを読めばこの画家についてもっと深く知ることが出来るのだろう。
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