東京都美術館で開かれている『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』(9月19日~12月1日)を見た。平日用のシニア前売券を買っていたので、そろそろ行かないと。平日午前なのにかなり混んでいたが、実に見どころの多い展覧会。初めて田中一村(1908~1977)の全画業を統一的にとらえられた気がした。
(「アダンの海辺」1969年)
田中一村は無名の画家として亡くなり、没後に最期の地・奄美大島で「発見」された。NHK「日曜美術館」で全国に紹介されたのは、今調べてみると1984年末だった。それから「日本のゴーギャン」と呼ばれて、ちょっとしたブームがやって来た。その頃東京でも何度か展覧会が開かれて、僕も見に行った記憶がある。南国の自然風景が実に鮮烈に描かれていて、一見して心がとらえられた。アンリ・ルソーに通じる独自の幻想的風景画で、小さい頃からルソーやゴーギャンが好きだった自分にとって、こんな人が日本にもいたんだと興奮させられた。しかし、その頃は奄美時代の作品以外はほぼ見られなかった。
(「檳榔樹の森」1973年)右下=田中一村
当時の理解としては、若い頃に日本画家を目指し東京美術学校(現・芸大)に入学するも家庭事情で退学。(なお、美校同期に東山魁夷や橋本明治らがいた。)その頃から「田中米邨」と名乗って、若き画家として活動していたことは知られていた。しかし、その後は中央画壇で成功せず埋もれていったと思われ、その間は「空白期」とされていた。戦後になって日展などに出品するも落選、長い不遇の時期を経て、東京から追われるように奄美大島に行き着いたというストーリーだった。
その後、2001年には奄美大島に田中一村記念美術館がオープン、すっかり「奄美の画家」として定着したが、80年代の「発見」を知らない人も増えてきた。その間に「有名画家」となったことで、各地から「新発見」が相次いだらしい。その結果、確かに日展などでは落選していたものの、「空白期」などなく常に日本画家として活動を続け、支援者もいたことが判明してきた。(ただし戦時中は徴用されていたようだ。)そのような近年の発見を一堂に展示したのが今回の展覧会である。
それらを見ると、豪華絢爛たる屏風なども多いし、緻密な描写を堪能できる風景画、見事な構図で郷愁を感じさせる風景画などが並んでいる。一村の絵は奄美で初めて開花したのではなく、それまでの長い画業の末に結実したのである。そのことがよく理解出来る展示構成になっている。ただし、もし奄美時代がなかったら、それまでの作品だけで展覧会が開かれ多くの人が詰めかけたりはしないと思う。やはり奄美時代あってこその作品ではある。
上の絵は「椿図屏風」で、1931年作品。「空白期」とされてきた20代後半のイメージを一新させた作品だという。
(「千葉寺 春」1953、54頃)
1938年に30歳の一村(当時はまだ米邨)は、親戚を頼って千葉市の千葉寺付近に引っ越した。農業をしながらも、身近な風景画、木彫、仏画、デザインなどの仕事をした。展覧会向けの画家ではなく、身近な相手に向けて作る画業を続けていたのである。そして、1947年に「柳一村」と画号を改め、風景画に独自の境地を開いていく。
上掲「白い花」(1947)は、一村を名乗った初の作品にして、第19回青龍展に入選した作品。実に生前唯一の公募展入選だった。見事な作品だが、従来の日本画の枠内だとは思う。1955年には石川県羽咋市の宗教施設「やわらぎの郷」聖徳太子殿の天井画を依頼された。現地にも滞在して完成まで見届けたという。桜の名所として今も知られている場所だというが、今まで全く知られなかった業績だろう。その後、九州を旅して素晴らしい風景画を残している。
前者は「初夏の海に赤翡翠(アカショウビン)」(1962頃)、後者は「不喰芋と蘇鐵」(1973)で、読みは「クワズイモとソテツ」である。このような素晴らしい絵は幾つもあるわけだが、ネット上でいろいろ見ることも出来る。奄美時代は確かに困窮していたようだ。姉や支援者が亡くなり、奄美で覚悟を持って絵を描き続けた。一時は国立ハンセン病療養所「奄美和光園」の官舎を間借りしていた。ここはハンセン病の理解をめぐって光田健輔らの「隔離主義」と対立した小笠原登医師がいたところである。
そういった意味でも興味深いのだが、絵としてはどう位置づけるべきだろうか。僕には今ひとつはっきりしないのだが、とにかく見ていて心をつかまれる気がする。それはどういうところに理由があるんだろう。豪華絢爛たる作品も残しているが、やはり何故か寂しくてノスタルジックな思いを呼び起こされるのが田中一村の本領ではないか。