尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『すべての、白いものたちの』、死のイメージに覆われてーハン・ガンを読む②

2024年12月02日 22時00分46秒 | 〃 (外国文学)

 ハン・ガンを読むシリーズ2回目は、『すべての、白いものたちの』(河出文庫)。原著は2016年に刊行され、日本では斎藤真理子訳で2018年に単行本が出た。2023年2月に文庫化され、僕が買った2024年10月発行のものは6刷になっている。けっこう売れているわけだ。税別850円の文庫だから、まずこの本を手に取る人も多いと思う。中は60いくつかの短い文章が集まり、中には写真も入っている。一編の文章は2~3頁程度のものが多い。ある意味「散文詩集」みたいな印象を受けるし、案外スラスラ読んじゃうんだけど、「作家の言葉」や解説を読むと、これはなかなか手強い「小説」なんだと判る。

 「私」はいま外国にいて、「白いもの」に関して書いていこうとしている。「おくるみ」「うぶぎ」「しお」「ゆき」「こおり」「つき」「こめ」…まだまだ続くが、冒頭にまず白いものが列挙される。それぞれについての追憶、イメージを書き留めていくという趣向である。「私」はどこにいるのか。地球の反対側で、寒いところだというから、ヨーロッパのどこかだなと察しがつく。そしてヒトラーに抵抗して瓦礫となった街という説明も出てくる。判る人にはそこで想定可能になるが、初版では明示されていなかったという。その後「作家の言葉」が付けられ、ポーランドの首都ワルシャワだと明記された。

 事情を書くと、光州事件を扱った『少年が来る』を完成させた後、疲弊した作者はポーランドの翻訳者に招かれて、子どもを連れて半年ほどワルシャワに住んだということである。そして、最初の方の「産着」の章で、「母が産んだ初めての赤ん坊は、生まれて二時間で死んだと聞いた」と出て来る。当時母親の夫は山の小学校の教師をしていて、人里離れた官舎に住んでいた。突然の早産に誰の助けを求める余裕もないまま、長女は生まれてすぐに死んだ。これは作者の自伝的設定というわけじゃないんだろう。この作品はその「亡くなった姉」のイメージが全編を覆っている。特別に痛切な言葉に読むものも粛然とする。

 2022年のノーベル文学賞受賞者アニー・エルノーは「オートフィクション」(自伝的小説)で知られ、映画化もされた『事件』はその当時フランスでは違法だった妊娠中絶を受けるまでの壮絶な小説である。題材からして、読むものも覚悟を求められる小説だが、そのような「事実」そのものから来る「粛然」と、ハン・ガンの小説は違う。どっちが上とかはないけれど、ハン・ガンの世界は「想像力」によって構成されたもので、その分読むものの「想像力」との協同作業が求められる。そして、一端その世界に入り込むと何か抜けられないような、ともに重みを背負うような感じがしてしまう。

(ノーベル賞受賞を報じる韓国紙)

 この『すべての、白いものたちの』(原題『白い』)は二部「彼女」の設定が最初はよく判らなかった。解説で初めて理解できたのだが、ここでは書かないことにする。もし読む人がいたら、後ろの解説は先に読んではいけない。まっさらな状態で読む方がいい。もっとも場所はワルシャワだと僕も書いてしまったが、これは多分途中で推定出来るだろう。2時間しか生きられなかった「姉」とナチスドイツに抵抗して蜂起しヒトラーによって灰燼に帰したワルシャワ。両者の運命がシンクロするような想いが満ちてきて、ウクライナやパレスティナにも連想が飛んでいくのである。

 全編が「白」のイメージに覆われているが、冬のワルシャワで書かれていることもあり、とても寒々しい世界だ。韓国と「白」と言えば、李朝(朝鮮王朝)の白磁などが思い出され、柳宗悦が「悲哀の美」と呼んだことも想起される。それに対して、70年代以降批判もなされてきた。朝鮮の美意識を「悲哀」と見るのは、植民地主義的な「上から目線」だという指摘だった。ところで、このハン・ガンの「白」はどのような意味があるのだろうか。僕にはよく判定できないのだが、ワルシャワの悲劇とも重なり「世界史的イメージ」へと拡がっていく。「白」のイメージにこそ無限の彼方があり、それは「死」へも通じている。

 ハン・ガンはノーベル賞受賞を受けた会見を開かなかった。世界で戦争が続いている今、そのような晴れがましいことは出来ないというようなことだった。ハン・ガンという人は多分非常に繊細な感受性を持っているんだと思う。戦前フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユを思わせるような。あるいは「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と書いた宮澤賢治のような。これほど死のイメージに覆われた小説もあまり記憶にないが、自伝的なものでも民族的なものでもなく、というかもちろん背景にはそれもあるが、独自の感性で紡がれた小説世界なんだろう。

 「文学」にはこのような役割があると示すのがハン・ガンの作品だ。もっと面白く読める本はいくらでもあるが、読んで読者につまずきを与えるような、ヒリヒリした世界。そんなものは読みたくないという人もいるだろう。でも一度触れたらとりこになってしまう魅力が間違いなくある。ハン・ガンの受賞は最初早いように思ったけれど、2作読んでみると今の世界に対するメッセージでもあると思った。ただハン・ガンの世界、韓国の歴史性に止まらず、世界の痛苦に通い合う世界だった。

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『菜食主義者』、手強い強烈なイメージーハン・ガンを読む①

2024年12月01日 22時03分45秒 | 〃 (外国文学)

 韓国の作家、ハン・ガン(韓江)の小説を2つ読んだので、感想を書いておきたい。いわずと知れた2024年のノーベル文学賞受賞者である。この授賞は多くの人に意外感をもって受け取られた。賞に値しないというのではなく、1970年生まれの54歳という年齢が近年に珍しく若いからである。(初の70年代生まれ受賞者。まあ、アルベール・カミュ(1957年)の44歳という例もあったけれど。)日本では相変わらず「村上春樹の受賞ならず」とかトンチンカン報道があった。2018年以降は男女交互の受賞で、今年は女性の年だから、村上春樹が受賞するはずがない。それよりも多和田葉子小川洋子の受賞は難しくなったのかなと思う。

 最近のノーベル文学賞は「こんな人いるんだけど、知ってますか?」的な選考が多い。昨年から遡ると、ヨン・フォッセ、アニー・エルノー、A・グルナ、ルイーズ・ブリュック、ペーター・ハントケ、オルガ・トカルチュク、カズオ・イシグロ…である。よほど海外文学を読んでる人でも、知らない名前が多いだろう。ハン・ガンは隣国なので、日本ではある程度紹介されてきた。日本の文学ファンに読まれている作家の受賞はカズオ・イシグロ以来だろう。

 最近多くの韓国文学が翻訳されているが、全部買ってるわけにもいかない。しかし、ハン・ガンの『菜食主義者』(きむ ふな訳)は持っていた。今年『別れを告げない』が翻訳され、朝日新聞ではインタビューして一頁の特集記事を掲載した。それを読んでこの作家を読まなくちゃと思って、まず最初に翻訳された『菜食主義者』を買ったわけである。「クオン」という出版社から2011年に「新しい韓国の文学01」として刊行された。僕が買ったのは2021年に出た第2版第6刷。本国では2007年に出版された。2005年には連作の一編「蒙古斑」で李箱文学賞を受け、また2016年にイギリスの国際ブッカー賞を受賞した。

(ハン・ガン)

 授賞式前には読んでおこうと思って、ようやく取り掛かったのだが…。「菜食主義者」「蒙古斑」「木の花火」という中編が3つ合わさった連作小説になっているが、それぞれかなり手強いのに驚いた。いや、難しいというのではない。構成は見事だし、訳文も判りやすい。そういうことじゃなく、展開がぶっ飛んでいるというか、相当に読むものに応えるのである。小説を読み慣れてない人が無理にチャレンジすると悪酔いするかも。ホラーじゃないのに、読むのが怖い。人間存在の本質に迫っていく設定が重いのである。僕もあまりの描写に悪夢を見てしまった。それだけの強さがある。

 この小説はキム・ヨンヘという女性を3つの視点から見つめている。夫、姉の夫、姉という3人の家族である。「菜食主義者」の語り手(夫)の妻ヨンヘがある日、肉を食べなくなる。理由がよく判らない。夢を見て以来食べられないという。その夢の中身は是非本書で読んで欲しいが、肉・魚・卵等一切受け付けなくなったのである。夫の上司に招待された会食でも、まったく食べなくて不審がられる。世界にヴェジタリアンはいっぱいいるわけだが、主義や嗜好で食べないのではなく肉体が受け付けないのである。その意味では「菜食主義者」という題名はちょっと的外れで、むしろ肉類の摂食障害というべきか。

 夫がヨンヘの様子をおかしいと思い、ヨンヘの一族が姉の新居祝いに集まった時に無理やり肉を食べさせようとする。父親は暴力的に食べさせようとして、カタストロフィーが起きる。その時ヨンヘを背負って病院に運ぼうとした義兄(ヨンヘの姉の夫)は、病院でヨンヘのお尻に今も「蒙古斑」が残っているのを見た。スランプ状態のビデオアーティストだった義兄は、その蒙古斑に性的な欲望をかき立てられ、義妹の身体に花の絵を書き付けてビデオ撮影したいと提案してみる。オイオイ、オイオイ…という怒濤の展開にちょっと休みを入れないと読み進められないのが2作目の「蒙古斑」。

 最後の「木の花火」では、ヨンへはもう精神病院に収容されているが、全く生への執着を見せない。むしろ植物になりたいと思うようになり、自由時間に庭でずっと逆立ちしている。樹木は実は根っこの方が頭で、枝の方が足になるのだと言い張って植物のマネをしているのだ。このイメージも鮮烈というか強烈。全く食事(肉だけでなく)を受け付けなくなり、精神病院では対応出来ず一般病院に移すしかない段階で終わる。常識的に考えると、ヨンへには人間としては「死」しか残されていないだろう。

 このヨンへの物語は一体何を語っているのだろうか。ただ単に「摂食障害」や「精神疾患」を描いているとは受け取れない。父親の暴力にさらされて育ったらしいヨンへ。父はヴェトナム戦争に従軍した過去があり、その時の「活躍」を折に触れて自慢してきたらしい。韓国では植民地時代、朝鮮戦争、軍政と長く暴力にさらされてきた。ヨンへ自身に直接は関係ないのだが、そのような民族的な暴力の歴史を思わざるを得ないのである。「肉食」とは「他の生物の命を暴力的に奪い取る」ことで、ヨンへの肉食拒否は象徴的に「歴史の中で殺されてきたもの」へ答える行為と深読みすることも出来る。

 ハン・ガンの父親はハン・スンウォン(韓勝源)という有名な作家で、幾つもの文学賞を受けている。李箱文学賞を親子で受賞したただ一組になっている。だから、特に家庭的に恵まれないとか、文学に親しめないという環境じゃなかったはずだ。しかし、1970年に光州で生まれているから、1980年の光州事件を幼い日に見聞きしたのかもしれない。僕にはそこら辺は判らないが、濃厚な死のイメージに深く心を揺さぶられた。アメリカのシルヴィア・プラスの『自殺志願』という本を思い出したぐらいである。

 なお、「精神分裂症」という訳語が出て来るが、これは「統合失調症」にするべきだろう。また「蒙古斑」もどうかと思う。これは日本でも未だ使われているようだからやむを得ないとも言えるが、「モンゴル斑」か「モンゴリアン・スポット」に(日本全体で)するべきだと思う。昔大学で自然人類学の香原志勢氏の講義を受けたとき、「蒙古」という言葉は中国が周囲の民族を蔑視して良くないイメージの漢字を当てたので、使うべきではないと言われた思い出がある。

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最後の作品『出会いはいつも八月』ーガルシア=マルケスを読む⑩

2024年07月27日 22時08分41秒 | 〃 (外国文学)
 ガルシア=マルケスを読むシリーズは、『百年の孤独』で終わったようなものだが、もう一つ『出会いはいつも八月』(En agosto nos vemos)を読んだので簡単に紹介しておきたい。この本はガルシア=マルケスが生前最後に書いていた作品とされる。作家は晩年に認知症を患い、結局発表されることなく終わった。2014年に亡くなった後、原稿が整備され発表されるはずだったが、やはり完成度に問題があるとして中止になったらしい。しかし、家族には残念な思いが残り、没後10年を迎える前に改めて刊行されることになったという。日本では2024年3月に旦敬介訳で刊行されたという「新作」なのである。

 ガブリエル・ガルシア=マルケスは重要な作家だから、このような「遺作」も読んでいいかなと思って思わず買ってしまった。本文だけなら90頁ほどという中編というべき作品に定価2200円というのは、一般的には高すぎるだろう。まあはっきり言えば、他に読むべき本がいっぱいある中で、あえてこの本を読む必要もない。それでも読めば面白いし、一番最後にこんなことを書いてたんだという感慨はある。今までは「過去」を描くことが多かったが(19世紀から20世紀半ば頃)、この作品は島に観光用リゾートホテルが建ち並んでいるので明らかに現代。その意味では貴重な作品ではある。

 さらに今まではどちらかというと、男性の目から「愛と性」を描くことが多かったが、今回は女性の目から描いているのも珍しい。コロンビアのカリブ海沿岸地域(と思われる)に、アナ・マグダレーナ・バッハという46歳の女性がいる。(ちなみに、この名前は作曲家のバッハの二度目の妻と同じ名前。20歳で16歳年上の作曲家に嫁ぎ、13人の子どもをなしたという人である。ストローブ=ユイレ夫妻によって映画化され、日本でもかつて話題になった。)この命名はジョークなのか、作中のアナ・マグダレーナの夫も音楽家である。母親を亡くし、遺言で母は街から離れた島に葬られた。
(英語版=Until AUGUST)
 彼女は八月の命日に船で島に墓参に出掛ける。そして、ある年たまたま見知らぬ男と出会って結ばれたのである。名前も職業もわからぬ男との一夜が妙に忘れられず、翌年も八月になると見知らぬ男に抱かれたいという願望を抱くようになった。ということで、翌年はどうなったか。翌々年はどうなったか。毎年島は少しずつ開発が進んで変わっていく。その変化の中で、毎年八月だけ島に出掛ける数年間を描いている。この間に夫や二人の子どもの様子も触れられるが、基本的には「アナ・マグダレーナ・バッハの八月」だけを事細かに描いている。そして50歳の年、島では開発のため母の墓も改葬されたのだった。

 この小説はこれで終わりなんだろうか。多分そうなんだろう。もっと面白くなりそうな手前で終わりになっちゃう感じがしてしまう。でも作家の創作力はここまでしか描けなかったんだと思う。興味深い設定だし、毎年どうなるかは一種のミステリーみたいな興趣がある。だけど今ひとつ薄いのは、女性を描いたからか、あるいは現代を描く難しさか。いや『百年の孤独』や『コレラの時代の愛』を思い浮かべれば、ガルシア=マルケスはもっと長大で、女性心理にも細かく分け入る小説を書いていた。やはり体力的、精神的な衰えによって、ここまでの淡彩に終わったと思う。

 ということで、この小説はファン向けのボーナス・トラックみたいなものだろう。ガルシア=マルケスに取り組んでみようというときに、これは抜いても構わないと僕は思う。もちろんそれでも十分面白いし、最後まで「愛」をテーマにしていたことも判る。ガルシア=マルケスの重要作品では『族長の秋』(1975)が残っているが、これは止めておく。集英社のラテンアメリカ文学全集の第1回配本として、1983年に発売された。その時に読んだけれど、全集を探し出すのも億劫。短編で読んでないのもあるし、ノンフィクションでは自伝、紀行などずいぶん翻訳されている。地元の図書館にあるのを確認しているが、いささか飽きてしまった。読みやすい日本の小説を読みたい気分。同時にラテンアメリカの歴史に興味が出て来た状態。
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愛と抵抗の年代記、『百年の孤独』②ーガルシア=マルケスを読む⑨

2024年07月21日 22時21分47秒 | 〃 (外国文学)
 ガルシア=マルケス百年の孤独』を読む2回目。昔読んだときの本を探し出してきた。なんと1972年に出た初版を持っていたので驚いた。いつ買ったのか不明だが、1982年まで読まなかったのは確か。値段は950円で、300頁ほどの本である。文庫で600頁を越える本が300頁で収まるのは、小さな字で二段組みなのである。今ではとても読む気になれない。一番最後にジャン・ジュネノーマン・メイラートーマス・マンカミュの全集の広告が載っている。こういう作家の全集を買う読者がいて、そういう読者層向けに『百年の孤独』が出版されたわけだ。今ではちょっと考えられない人選だろう。
(初版本)
 文庫ではアウレリャノ・ブエンディアと書かれているが、初訳ではアウレリャーノ・ブエンディーアと長音になっている。前に読んでる人は、そっちに慣れているだろう。帯を見ると「まさしくあのホメーロスや、セルバンテス、ラブレーが描いた〈巨大な人間劇場〉!」とうたっている。なるほど間違いじゃないだろうが、今はこのような受け取り方は少ないと思う。20世紀の小説は人間心理の深淵を究める方向に進み、さらに「物語性」を否定する「ヌーヴォロマン」へ至った。そんな時に現れた『百年の孤独』は、大昔のセルバンテス、ラブレーのような「ホラ話」の復活と思われたんだろう。
(スペイン語版)
 この小説を改めて読み直してみると、「全部愛の話」だと思った。そもそもその後に書かれた『コレラの時代の愛』や『愛その他の悪霊について』など、ガルシア=マルケスほど「愛」、それも「奇怪な愛」を書き続けた作家はいない。もちろんどんな作家も愛を描くし、ガルシア=マルケスだって「権力」や「宗教」も考察している。短編の場合だと、特にテーマを打ち出さず「奇想」をそのまま描いた作品も多い。しかし、なんと言ってもガルシア=マルケスの最大のテーマは「」だった。「愛」を裏返せばもちろん「孤独」である。『百年の孤独』は題名にあるように「孤独の考察」でもあるが、それは「愛の不在」でもある。

 『百年の孤独』のブエンディア一族は「愛」に憑かれているが、愛に恵まれない。およそ(普通の意味での)「幸福な結婚」から生まれた子どもがいない。「正式な結婚」は不幸な運命しかもたらさず、ブエンディア家を継ぐ次世代は母親や父親が判らぬような子どもばかりが多い。もっとも「正式な結婚」をするためには、町に行政当局や教会がなくてはならない。マコンドは何もない状態から建設された町で、つまり「平家の落人」みたいな一族なのである。それにしても複雑な愛と性の絡みあいが何回も繰り返される。それらは幸福な結実を見ずに終わることばかり。一方で愛を拒絶して自ら孤独に沈潜する人も多い。「孤独癖」の一族でもあった。そして一番最後に現れた本当の情熱こそ、延々と生き続けたウルスラの「予言」の成就だったとは。
(執筆していた頃)
 ガルシア=マルケスの小説はすべて「」がない。つまり長編小説の場合、普通「第1章」「第2章」などと分かれている。章なんて書いてなくても、数字の「1」「2」などで分けられるのが普通だ。それがないから延々と最後まで切れ目がないのかと最初は心配するだろうが、さすがにそんなことはない。何十頁か読むと、数字が付いてないだけで明らかに判る区切りがある。この巨大な小説は、「愛」をテーマとみなした場合、前半は「ウルスラ」、後半は「フェルナンダ」の時代となる。もっとも後半になっても初代ホセ・アルカディア・ブエンディアの妻であるウルスラ・イグアランは全然死なないけど。

 それでも明らかに一家の主導権(二代目家母長)は、初代から見てひ孫世代のアウレリャノ・セグンドが祭で見初めて遠くの町まで求婚に出掛けて結ばれたフェルナンダ・デル・カルピオに移る。敬虔なカトリックで「家風に染まぬ嫁」だったフェルナンダは、結果として子どもたちに不幸をもたらして孤独のうちに世を去る。それが「女系」で見た『百年の孤独』だが、これを「男系」で見るとまた違ってくる。ブエンディア一族こそ、2代目の「アウレリャノ・ブエンディア大佐」とひ孫世代の「ホセ・アルカディア・セグンド」(フェルナンダの義兄)という偉大な伝説的抵抗者を二人輩出した一家なのである。
(執筆当時頃の夫妻)
 コロンビア内戦で伝説的な自由の闘士となったアウレリャノ・ブエンディア大佐は、将軍になれるのに一生「大佐」を名乗っていた。(まるでリビアのカダフィ大佐だが、カダフィの方が後である。)出世のために起ち上がったのではないのだ。国家と無関係に生きてきたマコンドに、国家権力が入り込み横暴を極める。そしてついに町の若者が蜂起するが、その時リーダーとなったのが町を作った一族のアウレリャノだった。そして何度も何度も死地をくぐり抜け、伝説的な勝利と敗北を繰り返し最後は町に戻ってくる。自由党幹部がいくつかの大臣の椅子と引き換えに「停戦」を承諾して、現場の戦闘員は切り捨てられたのである。

 これはコロンビアで実際に続いた内戦を描いている。19世紀から20世紀に掛けて「千日戦争」と呼ばれる3年も続く内戦が繰り広げられた。アウレリャノ・ブエンディア大佐は他の作品にも出て来るが、抵抗のシンボルとしての「永久革命家」である。しかし、実際の戦争の中で彼も変貌していく。恐るべき政治的思考に囚われていくのだ。さらに戦場のあちこちで「献上」された美女たちとの間に、すべてアウレリャノと名付けられた17人の子どもまで産まれた。しかし、彼らは新しい蜂起を恐れる国家の謀略で次々に殺害される。大佐は部屋に閉じこもって、蜂起以前の仕事だった魚の金細工に打ち込み、恐るべき孤独の中で死んでいく。

 後半になると、鉄道が敷かれ「文明」が押し寄せる。ブエンディア家がアメリカ人観光客にバナナを提供したことから、バナナの特産地であると知られた。アメリカの会社がバナナ農園を築き、行政や警察の庇護のもとマコンドの新しい支配者となった。アメリカ帝国主義による経済的植民地化で、中南米各国は「バナナ共和国」と呼ばれた。余りに過酷な労働条件に怒った労働者がストを起こしたとき、そのリーダーがホセ・アルカディア・セグンドだった。しかし闘争は敗北し、軍隊の発砲で3千人が死亡し死体は海に捨てられた。この大虐殺は政府が事実と認めなかったので、やがて「そんなことは起こらなかった」と忘れられた。

 このような国家的な「フェイクニュース」により人々の記憶が消されていく状況は、現代の世界で多く見られる。中国の「天安門事件」を若い世代が知らないというが、記憶の抹殺と言うべきだろう。同じようなことが20世紀初頭のマコンドで起こり、すべては忘れ去られた。そして4年間の大雨でバナナ農園は壊滅し、人々はバナナ農園があったことさえ忘れていく。何という歴史的な「孤独」だろう。こうして、愛の年代記の裏にあった抵抗の年代記も、恐るべき孤独をもたらすのである。『百年の孤独』は奇想のマジック・リアリズムばかり言われるが、コロンビア民衆の抵抗の歴史が刻まれた書であることももっと重視するべきだ。
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マジック・リアリズム、『百年の孤独』①ーガルシア=マルケスを読む⑧

2024年07月20日 21時58分10秒 | 〃 (外国文学)
 ガルシア=マルケス連続読書は、いよいよ『百年の孤独』である。論点がたくさんあるので、2回に分けて書くことにする。『百年の孤独』は1967年に発表され、世界で累計5千万部売れたという大ベストセラーである。日本では鼓直(つづみ・ただし)訳で1972年に翻訳され、1999年に改訳された。そして2024年6月に初めて新潮文庫に収録されたわけである。原題は「Cien Años de Soledad」で、英訳題は「One Hundred Years of Solitude」。つまり、普通に訳すなら「孤独の百年」である。それを『百年の孤独』と訳したところに妙味があり、日本語として詩的な深みが出ている。検索すると、宮崎県の会社が作っている「幻の焼酎」の名前にもなっている。そういえば聞いたことがあるが、製造本数が少なくて入手が難しいという。
(新潮文庫)
 以前に寺山修司が舞台化し、さらに映画化を試みたが、原作者の許可を得られなかった。そのため作者死後に『さらば箱舟』と改題されて公開された作品が実は『百年の孤独』になるはずだった。今回Netflixでドラマ化されるということで、改めて世界的に注目されている。ということで、話題だから読んでみようという人もいるだろうが、早くも挫折した人がいるかもしれない。だから、友田とん『『百年の孤独』を代わりに読む』(ハヤカワ文庫)という本まで出てるぐらいである。そういう話を聞くと、どんな難解な小説かと身構える人もいるかもしれない。でも、この本は特別に難しい本じゃない。
(Netflixでドラマ化)
 しかし、自分も今回読み直すのに一週間ぐらい必要だった。案外「読みにくい本」でもあるのだ。それは何故だろうか。まず一つは純粋に長いということ。文庫本で注や解説を抜いて625頁ある。他の新潮文庫と比べて薄い紙を使っているので、「読み進み感覚」がスロー。しかも地の文ばかり続いて会話が少ない。司馬遼太郎の歴史小説みたいな気持ちで取り組むと、全然進まないのにガッカリする。もう一つは、同じ名前がひんぱんに出て来て混乱するのである。日本でも親の名前を襲名するということはあるが、基本的には子どもに親と同じ名前は付けない。しかし、アメリカのジョージ・ブッシュ元大統領の長男がジョージ・ブッシュ元大統領、という風に外国では親子で同じ名前を付けたりする。

 この小説はホセ・アルカディオ・ブエンディアに始まる一族で、その子がホセ・アルカディオとアウレリャノ、その次の世代がアルカディオとアウレリャノ・ホセ、その次の世代はホセ・アルカディオ・セグンドとアウレリャノ・セグンド…という具合。女性の場合は、レメディオスとかアマランタの名前が繰り返される。これじゃ混乱しても無理はない。一応家系図が出てるけど、関係者も多いから忘れてしまう。ところで何でこんなに似たような名前を付けるのか。実際にコロンビアで多いのかも知れないが、それだけではない。この小説より『コレラの時代の愛』の方が長いけど、「長さ感」では『百年の孤独』の方が上だと思う。
(家系図)
 それは『コレラの時代の愛』が基本的には時間が線的に進むのに対し、『百年の孤独』は時間が円環的な構造になっていて同じような話が繰り返されるからだ。その仕掛けの謎はラストに解明されるが、この物語は一番最初に書かれていた「予言」が実現する物語だった。それも「繁栄」ではなく、「滅亡」に至る物語である。ホセ・アルカディオ・ブエンディアウルスラ・イグアランは訳あって村を離れ、自分たちの新しい村を創る。それが「マコンド」で、『百年の孤独』は簡単に言えば「マコンド盛衰記」である。また「ブエンディア家の人々」とも言えるが、一家の盛衰が町の運命と絡まり合っていることが特別だ。

 物語は19世紀初め頃に始まり、題名通り百年間の時間が経つ。日本で言えば、江戸時代の徳川家斉将軍時代から昭和になるまでで、この間の変化はものすごく大きい。それは近代文明が世界を支配した時期である。ブエンディア家によって栄えていたマコンドも、外部から影響を受けることによって変わってしまう。それまでも「ジプシー」の一団が年に1回訪ねてきて、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは不思議な文物を入手して錬金術に熱中する。しかし、何十年か経つと「国家」と無縁に生きてきたマコンドにも、地方政府と教会が作られる。さらに何十年か経つと鉄道や飛行機などの「近代文明」がマコンドにも出現する。そして小説世界が全く変わってしまう。後半三分の一はひたすら衰えていく物語だから、読むのが辛いのである。

 この間マコンドでは不思議な出来事が起こり続ける。死者が甦るし、死なない人はずっと死なない。家母長と言える初代のウルスラは何と150歳近く行き続ける。目が見えなくなっても周囲に悟られず家族を見守っている。「小町娘」と言われるレメディアスは文字通り「昇天」してしまう。(小町娘はもう古いだろう。英語の「ザ・ビューティ」で良いと思う。)「ジプシー」のメルキアデスが籠っていた部屋は、彼の死後(いや、一度死んでから、甦ってマコンドに来るのだが)も塵が積もらず、空気も澄んでいる。後半になると4年と11ヶ月2日間も雨が降り続くし、その後は10年間の干ばつがやってくる。

 こういう現実にはあり得ない描写が連続し、その魅力に世界は驚かされたのである。そこで「マジック・リアリズム」という用語が作られて、ラテンアメリカ文学の代名詞ともなった。だけど、今回読み直してみると、そういうもんだと知って読むからかもしれないが、案外驚きはない。こういうものに慣れてしまったのもあるだろう。前にも書いたが、全く同年に発表された大江健三郎万延元年のフットボール』にもマジカルな描写が見られる。何もガルシア=マルケスの、あるいはラテンアメリカ文学の発明というよりも、同時に多くの作家たちが同じような試みをしていたんだと思う。

 それは従来の「リアリズム」、あるいはそれを越えたはずの「社会主義リアリズム」では、もはや世界の大きな変化を表せなくなってしまったという時代認識があったのだろう。だけど、それは単に「ファンタジー」とは呼ばない。どんな奇想天外な世界が展開されようが、それはファンタジー小説ではなかった。やはりラテンアメリカの現実にしっかりと根ざしたリアリズムだった。初めて読んだ時は驚くべき幻想小説にも見えたが、再読するとラテンアメリカ民衆史でもあり、壮大な愛の神話だった。
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『予告された殺人の記録』、もう一つの『異邦人』ーガルシア=マルケスを読む⑦

2024年07月16日 22時34分17秒 | 〃 (外国文学)
 ガルシア=マルケスを続けて。『予告された殺人の記録』(Crónica de una muerte anunciada)は1981年に発表され、日本では1983年に野谷文昭訳で刊行された。刊行当時に評判となって、その当時に読んだ記憶がある。1997年に文庫化され、新潮文庫に今も生き残っている。解説を入れても150頁ほどの本だから、時間的には割とすぐ読めるけど、これも結構手強い。人名が多すぎて、誰が誰やら悩んでしまう。ある実在の殺人事件の時間軸を一端解体して再構成している。その構成が「卓抜」と評され、作者本人も自分の最高傑作と言っている本である。だけど、時間構成がバラバラなので、外国人には理解が難しくなるわけである。

 この小説は1951年に実際にコロンビアで起こった殺人事件を描いている。ガルシア=マルケスの家族が住んでいた町で起きた事件で、家族の証言も出てくる。しかし、ガブリエル本人はもうカルタヘナでジャーナリストをしていたので、事件当日は町にいなかった。知人も多く関係していて、事件当時に大きな関心を持って取材していたらしい。しかし身近な事件過ぎて発表出来なかった。30年経って関係者も亡くなりつつあり口を開きやすくなって、改めて取材してまとめたのである。世界的に知られた作家が実在の殺人事件を描いたとなると、ノンフィクション・ノヴェルと呼ばれたトルーマン・カポーティの傑作『冷血』が思い浮かぶ。

 よく比較される本だが、作家が身近な題材を扱い、(事実上)自分の家族まで出て来るところが違っている。では、これは「ノンフィクション」なのかというと、先に取り上げた『誘拐』が紛れもなくジャーナリズムの範疇に属するのに対して、この本は明らかに「小説」になっている。実際にはいなかった作者に代わって、事件を物語る主人公が出て来る。また時間の再構成がなされた時点で、「事実」から「文学」になっている。訳者後書きによると、この方法は中上健次が高く評価していたという。また香港の映画監督ウォン・カーウァイに影響を与えて、『欲望の翼』以前と以後の違いをもたらしたという。
(映画『予告された殺人の記録』)
 この小説も映画になっていて、1987年に製作され、日本では1988年に公開された。イタリアの巨匠フランチェスコ・ロージの監督で、コロンビアの現地でロケされた。この監督は『シシリーの黒い霧』『黒い砂漠』『エボリ』など社会派系の名作を作っていて、僕が大好きな監督である。期待して見に行った記憶があるが、映画はあまり面白くなかったと思う。映画祭やベストテン投票などでも評価は高くなかった。何がどうなるか不明な状況こそ映画の題材にふさわしい。「予告された殺人」が予告通りに起こっても、原作を再現しただけになってしまう。そこら辺に弱さがあったかなと思う。
(映画の一シーン)
 さて、今まで事件そのものに触れていないが、簡単に言えば「名誉の殺人」というものである。現代ではイスラム圏で多く見られるが、日本を含めて過去には世界各国で起きてきた。バヤルド・サン・ロマンという人物が町へやって来て、何者だか不明だが有力一族らしい。アンヘラ・ビカリオを見そめて、結婚を申し込む。アンヘラは親が認めた結婚を受けざるを得ず、町を挙げた「愛のない結婚」の祝祭が繰り広げられる。ところが夜遅くなって、アンヘラが家に帰されてきた。「処女」ではなかったという理由である。一家の名誉を汚されたとして、双子の弟たちが問い詰めると、アンヘラはサンティアゴ・ナサールを名指しした。

 こうしてサンティアゴ・ナサールが付け狙われることとなり、そのことを(ほぼ)町中の人々が知っていた。しかし、本人に教える人がいなかった。本当に事件を起こすとは思っていなかった人もいた。兄弟も止めて貰いたいかのように、周囲に言いふらす。一度は凶器のナイフを警官に取り上げられる。それで終わったかと思うと、家から豚を殺すためのナイフを持ちだしてきた。様々な偶然も重なり、止められたはずの殺人が現実に起こってしまった。という意味合いで、この物語を「運命に操られた殺人」と理解して「ギリシャ悲劇のよう」と評されることもある。
(スクレ県シンセレホの大聖堂)
 事件が起きたのは大都市ではなく、コロンビア北部のカルタヘナ西方のスクレ県で起こった。そこで「地域共同体」の構造が問題になる。ここでは誰も指摘していない観点を示しておきたい。それはアルベール・カミュ異邦人』との比較である。『異邦人』では、北アフリカのフランス植民地アルジェリアでフランス人ムルソーがアラブ人を射殺する。そしてそれを「太陽のせい」と表現し、「不条理殺人」と呼ばれてきた。しかし、僕はそれは植民地で起きたある種のヘイトクライムととらえられると考え、『ヘイトクライムとしての「異邦人」』を書いた。では『予告された殺人の記録』と何が関係するのか。

 実は殺害されたサンティアゴ・ナサールアラブ人だったのである。正確に言えば、父親がアラブ人移民だった。イスラム教ではなく、カトリックである。シリアやレバノンにはキリスト教信者も多く、レバノンで大統領を出す慣例がある「マロン派」は「マロン典礼カトリック教会」のことである。かのカルロス・ゴーンもその一人。オスマン帝国支配下で困窮し、世界各国に移民として流出した。南米にもブラジル、アルゼンチンなどに多く、コロンビアにも100万人ぐらいいるようだ。サンティアゴ・ナサールはその一人だった。もうすっかり受け入れられ、裕福な経済環境もあって、町に溶け込んでいたはずだった。

 しかし、誰も彼に「殺害予告」を教えなかった。またサンティアゴとアンヘラが仲良くしていた様子は誰も見ていなかった。サンティアゴには許婚者がいて、結婚式も決まっていた。後になって人々が解釈したところでは、アンヘラは「まさか家族が襲撃するとは思えない人物」の名前を挙げ、「本当に関係があった人物」を隠したと理解される。そんなことがあり得るのか。「家族の名誉」が汚されたと思われた時、家族がその当人や関係者を殺害するのが「名誉の殺人」と呼ばれる。それにしても、「事実」の確認を本人にしないで突然襲撃するなら、単なる殺人だ。

 これは「共同体」からはみ出す要因を持つ「アラブ人」が名指された事件だった。『異邦人』は偶然に発生し、『予告された殺人の記録』ではまさに「予告」されて発生した。しかし、どちらも被害者がアラブ人だから起きた事件だった。それが僕が感じた事件の解釈である。ガルシア=マルケスは必ずしもその辺を深堀りしていない。問題意識になかったのかもしれない。「移民」「ヘイトクライム」が大問題になった21世紀になってから、見えてきた観点かもしれない。
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『わが悲しき娼婦たちの思い出』、90歳の大冒険ーガルシア=マルケスを読む⑥

2024年07月15日 21時52分42秒 | 〃 (外国文学)
 ガルシア=マルケス連続読書6回目は、『わが悲しき娼婦たちの思い出』。2004年に発表され、日本では木村榮一訳で2006年に翻訳された。ガルシア=マルケスの生前に発表された最後の小説だった。1928年生まれなので、77歳の時である。冒頭に川端康成眠れる美女』が引用されていて、日本でも評判になった。それは1961年に刊行された小説で、1899年生まれの川端は62歳だった。今なら「老人」扱いはまだ酷だが、当時は(特に睡眠薬中毒で悩んでいた川端は)相当の高齢という年だった。それを反映して、『眠れる美女』には濃厚な死と退廃(デカダンス)の匂いが立ちこめている。

 ガルシア=マルケスは以前にも、『十二の遍歴の物語』所収の短編「眠れる美女の飛行」(1982)で『眠れる美女』に触れている。川端康成は相当に異様な性愛小説を幾つも書いた作家だが、中でもこの小説はぶっ飛んでいる。大昔に読んだきりで、細かいことは忘れてしまったが、当時としてもかなり気色悪い設定だろう。何しろ特殊な薬物で眠っている若い女性とただ添い寝するだけの「秘密クラブ」というのである。僕にはよく判らない感覚なんだけど、この小説は内外で5度も映画化されている。

 僕に理解出来ないというのは、「高齢になっても元気な男」が「若い女性」を求めるというなら、それは理解可能ではある。しかし、そういう「理解可能」な話はエンタメ小説にはなっても、純文学としては底が浅い。だから、すでに性的能力がなくなった「老人」がただ添い寝するに留まるという方が小説としては面白い。だけど、わざわざそんなことをするのが僕にはよく判らないわけである。そこには当然「金銭」が絡んでいる。金持ち老人の「悪趣味」みたいな気がする。ところで、そういう話をガルシア=マルケスも書いたのかというと、ある意味その通りなんだけど、本質的には逆方向の作品とも言える。
(2009年のガルシア=マルケス)
 『わが悲しき娼婦たちの思い出』は翻訳で120頁ほどの中編と言ってもよい作品だが、案外手強い。主人公はもうすぐ90歳を迎える新聞のコラムニストである。いつの話かというと、1960年だという。場所はコロンビアのカリブ海沿岸最大の都市バランキージャだと思う。(いつもカルタヘナを舞台にすることが多かったが、この小説では事件が起こってカルタヘナに逃げていく場面があるので別の町。)そして「90歳を迎える記念すべき一夜を処女と淫らに過ごしたい」と思ったのである。異様である。そんな90歳がいるのか。そんなことを妄想するもんなのか。

 帯の裏を見ると、「これまでの幾年月を 表向きは平凡な独り者で通してきた その男、実は往年 夜の巷の猛者として鳴らした もう一つの顔を持っていた。かくて 昔なじみの娼家の女主人が取り持った 14歳の少女との成り行きは…。 悲しくも心温まる 波乱の恋の物語」と書いてある。1960年のコロンビアの話だから、「女性差別」とか「小児性愛」と言っても始まらないだろうが、それでも21世紀に書かれた小説としては問題がありはしないか。
(映画)
 この小説はメキシコを舞台にして、2012年に映画化されたという。日本未公開だが、特に海外で評判になったという話も聞かない。ヘニング・カールセンというデンマークの監督作品である。この映画化においては、メキシコで「児童の人身売買と性売買を助長する」と批判が上がったという。ただ製作者側は(主演女優も含めて)、これは愛の物語だと論じたらしい。確かに原作を読むと、「死への誘惑」を漂わせる川端作品と違って、ガルシア=マルケス作品には生へのエネルギーがある。もう辞めるつもりだった主人公は元気を取り戻し、90歳にして人気コラムニストとして再生する。しかし、ここでも主人公と少女は性的な接触はない。それを「愛」と呼べるのか。僕にはどうも疑問が多かった。単に創作力の衰えかもしれないが。
(バランキージャ)
 90歳で新聞にコラムを書くというだけで、相当に凄い。さらに裏の生活として、少女と日々逢いたいと思う。それがある事件をきっかけに不可能となるが、それでも生きることに執着する主人公は何とか少女を見つけようとする。お互いに直接は何も知らないし、話をしたこともない。そんな二人に「愛」が成り立つのか。それはよく判らないけれど、何で作者はこの小説を書いたのかは、解説にヒントがある。『コレラの時代の愛』の中でも、ここでは触れなかったが親戚の少女が登場して悲しい運命をたどる。もう老人の主人公を愛してしまうのだが、主人公は半世紀前の恋人を待ち続けていたわけである。

 それも実に変な設定で、周囲に若い少女がいて愛してくれるんなら、半世紀前に振られた高齢女性に執着するのが理解不能なのである。しかし、それを言語のマジックで何となく納得させてしまう。しかし、その影で物語の犠牲になった少女を悲しい運命に追い込んだ。この『わが悲しき娼婦たちの思い出』は、その時の少女の再来なんだという。確かにそう解釈すると、『眠れる美女』が死の気配に満ちていたのに対し、この小説が生きるエネルギーに向いた「反・眠れる美女」とも言えることが理解出来る。ただ、やっぱり内容以前に作品としての面白さが減退してるんじゃないか。どうもそんな気もしてくる小説だった。
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『コレラの時代の愛』、壮大な愛の神話ーガルシア=マルケスを読む⑤

2024年07月11日 22時24分22秒 | 〃 (外国文学)
 ガルシア=マルケス連続読書シリーズの5回目はいよいよ『コレラの時代の愛』(木村榮一訳)である。「いよいよ」と書くのは、実は今回のメインイヴェントがこの本なのである。前回取り上げた『迷宮の将軍』(1989)の前、1985年に発表された作品である。しかし、翻訳の順番は逆になった。『迷宮の将軍』は2年後の1991年に翻訳が出たのに対し、『コレラの時代の愛』はなんと2006年まで翻訳されなかった。これほど世界的に評価された作家(82年にノーベル文学賞受賞)の新作が何故20年以上も紹介されなかったのか。最大の理由は長大さだろう。ガルシア=マルケス最長の作品で、字がびっしりで500頁もある。

 別に特に読みにくい作品ではない。だけど、何しろ悠然たる語り口で、ひたすら大昔の恋愛物語を読まされる。フローベールと比較されるらしいのも納得の大小説である。僕はこの本を読むのに5日掛かった。先週の関東は猛暑だったので、週末を出掛けずにこの本に当てたから5日で終わった。この小説は表面的には大ロマンスというか、半世紀にわたる大恋愛を事細かに描いている。その部分にフォーカスを当てたのか、2007年に映画化されている。日本でも2008年に公開されているが、見た記憶がない。そんな映画あったっけという感じ。マーク・ニューウェル監督、ハビエル・バルデム主演だが、ほとんど評判にならなかったと思う。DVDは出ているし、配信もあるようなので、いつか見てみたい。映像で見れば背景の理解は深まるだろう。
(映画『コレラの時代の愛』)
 この本は死んだ黒人ジェレミーアの検死に訪れた医者フベナル・ウルビーノ博士の話から始まる。チェス友だちだった博士は、彼の遺書を読んで衝撃を受ける。だから、その物語なのかと思うと、今度はウルビーノ博士の家庭事情が詳細に語られる。81歳の博士の家ではオウムが逃げ出していて、捕まえようとした博士はハシゴから転落して死亡してしまう。何でこの家にオウムがいて、どんな意味があるのかはそれまでにたっぷりと語られてる。しかし、主人公のように語られていた医者があっという間に死んでしまって、この小説はどうなるんだ。と思うと未亡人になったフェルミーナ・ダーサのもとを河川運輸会社社長のフロレンティーノ・アリーサが弔問にやってくる。このフロレンティーノこそが真の主人公だったのである。そこまでで80頁もある。

 いつ頃の話かというと、1930年だと思われる。何故かというと、映画『西部戦線異状なし』を見るシーンがあるからだ。ドイツの作家レマルクが第一次世界大戦の「西部戦線」を描いて世界的なベストセラーになった。アメリカのルイス・マイルストン監督によって映画化されたのが1930年。第3回アカデミー賞で作品賞を受賞している。日本でも同年に公開されたので、多分コロンビアでも同じだろう。さて、そこから大きく話が遡る。フロレンティーノは弔問の場でフェルミーナに変わらぬ愛の告白をする。

 彼はこの瞬間を51年9ヶ月と4日待ち続けたのである。実は博士とフェルミーナが結婚する数年前、フロレンティーノとフェルミーナはひそかに婚約していたのである。二人の交際は父の反対でつぶされたが、彼はいずれフェルミーナが未亡人になる日を待ち続けた。計算すると1870年代後半から1930年代に至る半世紀以上の話ということになる。その間登場人物が多すぎて、人間関係がこんがらかってくるが、ただフロレンティーノのフェルミーナへの恋愛感情は不変である。でも、そうなると男の方は70代後半、女の方も70代前半になっている。この愛は異常なものか、それとも純愛の極致か。
 (マグダレナ川)
 舞台となるのは、コロンビアを南北に流れる大河、マグダレーナ川の周辺をめぐって展開する。若きフェルミーナは父の命令で地方に送られる。戻ってきたら、彼女は電信局員のフロレンティーノに幻滅してしまった。フロレンティーノは「私生児」だが、伯父が河川運輸会社を経営していた、結局はその後継者となった。そして最後は川を遡るクルーズの道筋で終わる。その時代は日本でもそうだったが、コレラが流行することが多かった。「内戦」も続いているが、同時に感染症との戦いの時代でもある。医者のウルビーノ博士も、流行地域を周遊する船会社社長のフロレンティーナも、コレラの時代を生きていた。だから「コレラの時代の愛」と名付けられるわけである。舞台となる町はよく判らないが、映画はカリブ海に面した世界遺産の町カルタヘナで撮影されたらしい。
(カルタヘナの町並み)
 過去の風俗が細かく描写され、詳しすぎるとも思うけれど、読みやすくて面白いのは間違いない。20世紀後半に書かれた「最後の19世紀小説」と言えるかもしれない。しかし、根本的にフロレンティーノって何なのよと思ってしまうのも事実。50年間をひたすら昔の彼女を思い続けた。その間、ずっと童貞を守り続ける決意だったが、ある種のハプニングで性体験を持ってしまう。それ以後弾けたように数多くの女性と関係を持つが、一度も結婚しなかった。心の奥にフェルミーナがいたからである。でも信頼出来る秘書、愛してくれる若い女性などもいるのに、70歳を越えた昔の彼女を思い続けるって不自然じゃないか。

 しかし、文字で書かれた小説だからこそ、これは「壮大な愛の神話」に思えてくる。だけどなあ、どんな素晴らしい女性と昔付き合っていたとしても、その人が別の相手と結婚して子どもも生まれたら、もう諦めるもんだろう。心で思っているだけだとしても相手に迷惑だし、ストーカーっぽくて不気味。世の中に「絶対」はなく、いつの間にか別の人を愛してしまうのが普通だろ。と思ってしまうんだけど、この愛がどこまで普遍性があるか。一度読んで確かめてみる価値はある。面白いのは間違いないし。
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『迷宮の将軍』、シモン・ボリーバル最後の年ーガルシア=マルケスを読む④

2024年06月30日 21時48分03秒 | 〃 (外国文学)
 ガルシア=マルケスを読む4回目は『迷宮の将軍』。1989年に出て、日本では1991年に木村榮一訳で出版された。長い解説を入れて323頁ある。新潮社の「ガルシア=マルケス全小説」に入っているが、現在まで文庫には収録されていない。ここで「将軍」と呼ばれているのは、ラテンアメリカの解放者として知られるシモン・ボリーバル(1783~1830)のことである。一般的には長く伸ばさずシモン・ボリバルと呼ぶことが多い。世界史の教科書には一応出ていると思うけど、日本ではよく知られているとは言えないだろう。難しい本ではないが、なじみのない歴史を読んでる感じは否めない。

 この本は本格的歴史小説で、ガルシア=マルケスと言えば「マジック・リアリズム」だと思うと大間違いだとよく判る。シモン・ボリーバルが生まれた18世紀後半には、中南米諸国はスペイン(ブラジルだけはポルトガル)の長い圧政のもとにあった。ベネズエラに生まれたボリーバルは独立のために起ち上がり、ベネズエラだけでなく隣国のコロンビア、さらにエクアドルペルーボリビアの独立を勝ち取った。ボリビアという国名は、彼の名前にちなんで付けられたものである。
(シモン・ボリーバル)
 しかし、独立したラテンアメリカ各国は内紛が絶えず、病弱のシモン・ボリーバルには苦難の日々が続いている。彼は「ラテンアメリカの統合」を目指したものの、独立後の各国では旧本国の支配から逃れた有力白人貴族層の権力独占が強まっていた。孤立した将軍は大統領を辞任して、外国へ行きたいと思っている。それが1830年初めの状況で、その時点ではコロンビアにいた。船で川を下りながら様々な町で歓待を受け、その間に女性と会ったり療養したり…。もう病状は重くなっているが、政敵たちは病気と称して圧力を掛けているんじゃないかと疑っている。暗殺未遂事件まで起こり孤立は著しい。

 というような描写が延々と続く。決してつまらない小説ではないんだけど、この本はまあほとんどの人は読まなくていいんじゃないか。ラテンアメリカ史に強い関心を持っているか、またはガルシア=マルケスを全部読もうという人は別にして。普通はこれほど詳細にシモン・ボリーバルのことを知らなくていいよと思うんじゃないか。この本を読んで、この人は日本でい言えば誰だろうなと思って、西郷隆盛に近いかなと思った。そうしたら解説でも、司馬遼太郎翔ぶが如く』に言及されていた。

 コロンビアの人が西郷隆盛の小説を読む必要はないと思う。もちろん近代日本の成り立ちは多くの人に意味がある世界史的大事件である。だからラテンアメリカの人々が明治維新を研究してもおかしくない。同時にラテンアメリカの独立も世界史的大事件で、日本の読者がシモン・ボリーバルの本を読んでもおかしくない。ノーベル賞受賞作家の本なんだし、読んでみるべきだとも言える。しかし、ラテンアメリカの解放者であるシモン・ボリーバルについてこんなに詳細な本を書くのは、ガルシア=マルケスがラテンアメリカ人だからだ。20世紀末を生きるラテンアメリカ人として、シモン・ボリーバルに関心を持つのであって、僕ら日本人にはそこまでの問題意識を持てない。他の本を全部読んでしまって、これだけ残ったら読むかどうか考えればよい本だろう。

 決してつまらない小説じゃないと書いたが、一度読み始めれば読み続けてしまった。やはりガルシア=マルケスは読ませるのだ。しかし、コロンビアの地理や歴史になじみがない。もう200年前の話なので、我々には歴史的意味が薄い。だけど「読ませる」のは、シモン・ボリーバルという人がなかなかくせ者なのである。大金持ちに生まれて、ヨーロッパに遊学、19歳で若い(18歳の)スペイン人女性と結婚して、ベネズエラに帰って来た。しかし、熱帯の暑さに耐えられず妻は翌年に亡くなってしまった。それまで全く政治に関心を持たなかった彼は、その後突然スペイン人との戦争に乗り出したのである。
(マヌエラ・サエンス)
 そして、以後一度も再婚せず、行く場所行く場所で浮名を流した。しかしながら、1822年にエクアドル解放のあとでマヌエラ・サエンス(1797~185)と知り合い、二人は彼の死まで深い関係を続けた。マヌエラは「永遠の愛人」と呼ばれている。暗殺未遂事件を防いだのもマヌエラの功績である。夫がありながらボリーバルに惹かれ支え続けた。今はフェミニズムの観点から、ラテンアメリカ解放に貢献した女性として評価されているらしい。彼の死後も長く生きて、ガリバルディ(イタリア統一運動の指導者)やメルヴィル(『白鯨』を書いたアメリカの作家)にも会っている。(英語版Wikipediaに詳細な記述がある。)

 マヌエラがいても、将軍はいろいろな女性と付き合っていた。もう「そういう人」だったというしかない。人々は彼に「解放者」の称号を奉った。恐らく彼が望めば、「独裁者」あるいはさらに「皇帝」にさえなれたのではないか。だが彼はナポレオンではなかった。むしろナポレオンに対する大いなる批判者だった。そのような「自由人」である将軍は、だからこそ孤立を深めていく。その最後の一年を克明に追ったのが、この小説。見事な歴史小説だが、ここまで当時の情勢を知らなくてもいいなと正直思った。

 ところでちょっと前に、ミュージックビデオ「コロンブス」の問題を取り上げた。そのビデオではコロンブスがナポレオン、ベートーベンとパーティをする設定だったという話。そこで思ったんだけど、コロンブス(コロン)を批評的に取り上げるなら、パーティ参加者にはシモン・ボリーバルが招かれるべきだったんじゃないか。日本では知名度が低いかも知れないが、世界を意識した作品だったらラテンアメリカでは誰でも知っているシモン・ボリーバル将軍がふさわしい。
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『誘拐』、麻薬カルテルとの凄絶な闘いーガルシア=マルケスを読む③

2024年06月26日 21時46分41秒 | 〃 (外国文学)
 ガルシア=マルケスを読むシリーズ。次は『誘拐』(旦敬介訳、角川春樹事務所、1997)という本で、四半世紀以上枕元に置かれていた。下の画像をよく見ると、帯が破れているのがわかるはず。これは小説ではなくノンフィクションである。ガルシア=マルケスはもともとジャーナリスト出身で、ノンフィクションもかなり書いている。岩波新書の『戒厳令下チリ潜入記-ある映画監督の冒険』(1986)やちくま文庫に収録された『幸福な無名時代』(1991、邦訳1995)などは割合よく知られている。『誘拐』(後に『誘拐の知らせ』としてちくま文庫に収録=在庫品切れ)は1996年に出されたもので、当時コロンビア国内に吹き荒れた麻薬組織による連続誘拐事件の裏表を詳細に描き尽くした本である。

 この本は非常に迫力のある本だったが、時代的に「賞味期限切れ」みたいなところはある。小説は滅びないが、時事的な題材だとテーマが古びることがある。映画監督ミゲル・リッティンの軍政下チリ潜入を描く『戒厳令下チリ潜入記』は、軍政がとうの昔に崩壊した今では読む人は少ないだろう。90年代にはコロンビアの麻薬組織によるテロは国際的にも知られた大問題だったが、現在では麻薬組織や左翼ゲリラのテロが横行した時代は一応過去のものとなった。コロンビアには今も危険イメージが付きまとうが、経済面やサッカーでも復調してきた。だから『誘拐』も過去のものと言えるのだが、もしかしたら今後意味が出て来るかも知れない。それは多くの事件の首謀者パブロ・エスコバルがNetflixでドラマ化されたからである。
(パブロ・エスコバル)
 1990年11月7日、マルーハ・パチョンと義妹のベアトリス・ビヤミサルが乗った車が自宅近くで襲撃され、運転手は殺害され二人の女性はそのまま誘拐されてしまった。このマルーハは後に解放されることが冒頭に明かされている。マルーハと夫のアルベルト・ビヤミサルがガルシア=マルケスに自分たちの体験を本にして欲しいと情報を提供したのである。当初はこの夫妻を主に取り上げる予定だったが、実は同時期に複数の誘拐が発生していて、それらは複雑に絡み合っていたことが判明していった。そのため他の関係者にも取材し、事件の全体像を再構成することが迫られた。コロンビア政界に激震を与えた大事件だったのである。

 マルーハは映画会社の重役だったが、夫のアルベルト・ビヤミサルが大物国会議員という重要人物だった。他の誘拐被害者も大物の家族が多い。しかも、彼女たちが連れて行かれた部屋にはマリーナという老女もいた。誘拐されたままもう殺害されたと思われていた人だった。彼女は政界上層部につながる人ではなく、「生かしておく価値が少ない」と判断されていたのである。マルーハ、ベアトリス、マリーナ三女性の共同生活の苦難は心が痛む。他の被害者の実情も細かく出ているが、ここでは触れないことにする。なんで誘拐されたのかというと、政府との交渉を有利に進めるためである。

 80年代の世界ではコカインが大流行し、その密輸ルートにはコロンビアの大都市メデジンを本拠とする「メデジン・カルテル」が関わっていた。その組織を一代にして築き上げたのがパブロ・エスコバルという人物で、世界有数の富豪と言われた。しかし、コロンビア警察に追われるだけではなく、一番心配なのが「アメリカへの身柄引き渡し」だった。アメリカは麻薬犯罪に厳しく超重罪を言い渡されると生きて帰れない。一方、もう一つの大組織「カリ・カルテル」とも揉めていて、引き渡されないと決まれば「政府に投降して良い」と思っていた。「優遇された刑務所生活」=「コロンビア政府の金で身の安全を図る」ためである。

 政府が強硬方針をとって警察が突入すれば、組織は容赦なく人質を殺害する。それははっきりしていて、家族はまず大統領に強硬策を取らないように要請した。交渉で解決するのは政府の方針でもあり、アメリカに引き渡すのは国威にも関わるのでやりたくない。そこで自ら投降して罪を認めれば引き渡さない、そうじゃなければ引き渡すというのが政府の方針なのだが、それをエスコバルはなかなか信じ切れない。いや、エスコバルは身を隠していて、「引き渡し予定者グループ」という別組織の名前で事件に関する発表がなされた。実際にはエスコバルが首謀者であることは判っているけど、本人とは接触できない。様々なルートを通して交渉を進めるが、もう解決した外国の事件をここで詳しく書くこともないだろう。
(セサル・アウグスト・ガビリア大統領)
 関係者の画像を探したが、当時の大統領ガビリアパブロ・エスコバルしか見つからなかった。被害者マルーハ・パチョンや夫のアルベルト・ビヤミサルの画像は日本語では出て来なかった。まだネット以前の時代である。多分コロンビアの情報をスペイン語で探せば見つかるとは思うが、そこまでは出来ない。この本を読んで思ったことは、これはまさに「コロンビア政治の問題」だということだ。コロンビアではそれ以前に最高裁が襲撃されたり、大統領候補者が暗殺されたり、(大統領候補が搭乗予定だった)飛行機が爆弾で墜落したり…と驚くべきテロが続発していた。そこで政界の裏事情が細かく説明する必要がある。

 この本を読んで思いだしたのが、村上春樹アンダーグラウンド』だ。1995年に起きた地下鉄サリン事件の被害者を取材して、1997年に出版された。つまり、世界的に重要な作家がほぼ同時代に国家的大事件の被害者をテーマにした本を書いていたのである。しかし、『アンダーグラウンド』は被害者の声を聞くことに徹している。その後逆にオウム真理教の信者、元信者を取材して『約束された場所で―underground 2』(1998)も出した。しかし、捜査側や政府上層部を取材した本は書かれなかった。ある意味、それは当然のことだろうが、コロンビアの誘拐事件ではその部分が欠かせないのである。この両書を細かく比較検討する作業は重要だと思うが、自分には手が余る。その後のエスコバルは自分で検索してみて欲しい。

 なお、最後に「ガルシア=マルケス」の呼称について後書きに書かれていた。マルーハ・パチョンとアルベルト・ビヤミサルが夫婦であるとは、つまりスペイン語圏では「夫婦別姓」である。その場合、子どもは父親の姓を名乗ることが多いが、父母の姓を重ねて複姓にする場合もある。つまり「ガブリエル」の父が「ガルシア」、母が「マルケス」である。ガブリエル・ガルシアでも良いわけだが、ガルシアは割合ありふれた姓なので作家として「ガルシア=マルケス」を選んだらしい。(ペルーの作家、バルガス=リョサも同様だという。)これを繰り返すと姓はどんどん長くなるが、基本的に次の世代は父の姓のみになる。ガルシア=マルケスの子はロドリゴ・ガルシアになるわけだ。(『彼女をみればわかること』『アルバート氏の人生』などの映画監督。)
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『愛その他の悪霊について』、愛は悪霊なのかーガルシア=マルケスを読む②

2024年06月25日 20時31分27秒 | 〃 (外国文学)
 その後もガルシア=マルケスを読み続けている。面白くて止められなくなってきて、このまま長編小説をどんどん読み進もうかと思っている。まずは『愛その他の悪霊について』(1994)である。日本では1996年に旦敬介訳で新潮社から翻訳された。生前に発表された長編小説としては最後から2番目の作品になる。解説を入れて200頁ほどの本で、それほど長くはないが、最近ずっと短編を読んでたので話が佳境に入るまでちょっと読みにくかった。しかし、物語が始動していくとジェットコースターのようにスピードが付いてくる。ガルシア=マルケスは難しい作家ではなく、基本的にはひたすら面白い豊かな物語性が特徴である。

 最初がちょっと取っつきにくいのは、この話が大昔を舞台にしているからだ。大昔と言っても18世紀の半ば頃である。若き日の体験が話の基になっていると冒頭に書かれているが、内容は完全なフィクションだろう。当時のコロンビアはスペインの植民地で、ヌエバ・グラナダ副王領と言われていた。大農園領主とカトリック教会が支配する体制が確立されていたが、すでに滅びへの道行が始まっていた。(19世紀初頭にスペインから独立する。)
(19世紀初頭の南アメリカ)
 コロンビアのどこかの城塞都市が舞台になっている。港があるようなので、ガルシア=マルケスと縁が深いカリブ海岸の都市カルタヘナかもしれない。カルタヘナは奴隷貿易の中心として栄え、港や歴的建造物が世界遺産になっている。そこである日12歳の少女が市場で犬に噛まれた。少女シエルバ・マリアは侯爵の娘だが、事情があって父からも母からも見捨てられて育った。そのため黒人奴隷と一緒に育ち、アフリカ各地の言語や音楽、ダンスに親しんでいる。この両親の事情は相当にぶっ飛んでいて、もうこの国は壊れているなという感じだ。

 ところでこの犬が後に狂犬病を発症し、シエルバ・マリアも狂犬病になるんじゃないかと恐れられるようになった。父親も改めて接してみると、娘は全く理解できない行動ばかりする。どうしたら良いのかとユダヤ人医師に相談したりするが、結局は教会に預けることにする。教会はサンタ・クララ修道会に身柄を預けるが、教会の目からみると少女は「悪霊憑き」にしか見えない。そこで司教は「悪魔払い」を始めることになり、自分の秘書格の若者カエターノ・デラウラ神父が派遣される。
(ガブリエル・ガルシア=マルケス)
 このデラウラは西欧の最新思想にも通じていて、少女と話すうちに悪霊が付いているのではなく、その生育歴から来たものだと信じるようになる。シエルバ・マリアは魅力的な美少女で、二人は次第に惹かれ合うようになってしまう。だが少女をめぐる「不思議」な事態は、教会当局からは「悪霊」としか思えず、少女の処遇はどんどん悪化していく。両親も滅びへの道を歩み、小説世界は悲劇の予感に満たされていく。いま見ると、明らかに「虐待」「ネグレクト」であり、この少女が荒れるのも当然。『あんのこと』や『ホールドオーバーズ』の子どもと同じなのである。

 それがなにゆえ教会には通じないのか。「神」を奉じながら、「悪霊」に憑かれているのは自分たちではないか。しかし、才能豊かなデラウラもよりによって12歳の少女にメロメロになってしまう。これは見る者によれば、少女に悪霊が付いている証拠になるだろう。あるいは「愛」すらも「悪霊」の仕業なんだろうか。帯には「愛は成就されず、成就されるのは愛でないものばかり」とある。その不条理な背理をトコトン煮詰めたような小説である。

 時と所が離れすぎて、なかなか理解が難しい状況もある。だけど基本的には「愛」と「悪魔払い」のジェットコースター小説。こうして書いていても魅力は全然伝わらないと思う。これは読んでみるしかないタイプの小説で、出来映えはガルシア=マルケスの長編の中でも上々なんじゃないかと思う。
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ガルシア=マルケスの素晴らしき短編ーガルシア=マルケスを読む①

2024年06月20日 21時54分06秒 | 〃 (外国文学)
 最近コロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア=マルケス(1928~2014)の短編を読んでいる。それが終わったら読んでない長編にチャレンジ予定。本格的に読むのは40年ぶりぐらいか。もちろん6月下旬に『百年の孤独』がついに新潮文庫で刊行されるのがきっかけである。あれはものすごく面白い小説だった。わが人生のベスト3と言ってもいい。(他の2つはスタンダール『赤と黒』とドストエフスキー『悪霊』かな。)『百年の孤独』は1999年に同じ訳者(鼓直)で新訳が出た。前に読んだ時期は正確に覚えていて、1982年の6月だった。出た時に新訳も読みたいと思ったけど、買い直さなかった。

 いま小説のほぼすべて(近年発見されたものを除き)は新潮社の「ガルシア=マルケス全小説」に収録されている。刊行されたのは21世紀になってからで、『コレラの時代の愛』『わが悲しき娼婦たちの思い出 』はその時に初めて訳されたと記憶する。没後10年経って、生前の小説革命者の名声も落ち着いてきたかもしれない。80年代は文学愛好者にはラテンアメリカ・ブームの時代で、ラテンアメリカ作家だけの全集まで出たぐらいだ。僕もずいぶん買ったし、ずいぶん読んだけど、長大な小説が多く手つかずになっているものも多い。体力的にもそろそろ読まないといけないだろう。

 最初に読むのは河出文庫の『ガルシア=マルケス中短編傑作選』だ。野谷文昭氏編訳で、ガルシア=マルケスも複数の翻訳が出る時代になったのか。(そもそも作家の名前も、昔はただの「マルケス」と呼ばれたが、いつの間にか「ガルシア=マルケス」になっている。)つい最近出た本みたいに思ってたけど、2022年7月刊行だから2年も経っていた。今までの短編集から選ばれた10編が収録されている。「解題」で各作品が詳細に解読されていて、非常に役だった。300頁ちょっとの文庫が1200円もするのは高いなあという気がするけど、各文庫にあった短編集も入手しにくいようだから、まずはこれを読むべきだ。
(中短編傑作選)
 前に読んでいる「大佐に手紙は来ない」を読み直すと、昔は「マジック・リアリズムという言葉に影響されて読んでいた気がする。大佐に手紙が来ないのを、何だか「ゴドーを待ちながら」みたいに不条理な設定と思ったわけである。そういう読み方も可能だとは思うけど、これはコロンビアの過酷な政争をリアリズムで描いた作品なのではないか。執筆当時のガルシア=マルケスは、コロンビアの新聞の特派員としてヨーロッパにいたが、新聞が発行禁止となって給料が送られてこなくなったという。コロンビアを検索すると、19世紀末から保守派と自由派の血で血を洗う政争が続いたことが判る。厳しい政治的環境が背景の作品なのである。

 「巨大な翼をもつひどく年老いた男」「純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語」などは、映画化もされた名作中の名作。『エレンディラ』の題名でかつてサンリオ文庫(というのがあったのである)から出て、その後ちくま文庫に入ったが、今は品切れのようだ。驚くべき物語性を備えた作品群だが、これもマジック・リアリズムというより、「アラビアンナイト」みたいな奇想の幻想譚というべきかと思う。確かに面白くて、初めて読むと度肝を抜かれるんじゃないかと思う。
(『青い犬の目』)
 この傑作選に一つも選ばれていないのが、『青い犬の目』(1962)で、日本では1990年に井上義一訳で福武書店から刊行された。(その後福武文庫になったが、この文庫も今じゃ知らないだろう。)時期的には初期作品で、50年代に発表されたもの。はっきり言ってあまり成功していないと思った。初期には幻想的というより「思弁的」な作品が多いなと思う。まあ「若書き」である。そして「死に取り憑かれた作品」がかなりある。若いから元気だというものじゃない。小説を書くタイプの人は、どうしようもない暗さを抱えていることが多い。それでもいいんだけど、まだ「小説の楽しみ」が少ないのである。
(『十二の遍歴の物語』)
 今回一番面白かったのは、すべてヨーロッパを舞台にした短編集『十二の遍歴の物語』(1992、日本では旦敬介訳で1994年に新潮社から刊行。)『中短編傑作選』には「聖女」「光は水に似る」(単行本では「光は水のよう」)が選ばれていて、確かにそれは面白く興味深い。だが、僕の感想で言えば他にもっとすごい作品が単行本にいっぱいあった。まず冒頭の「大統領閣下、よいお旅を」は一番長いが、非常に面白い。ただ一編のジュネーヴが舞台の作品で、失脚したコロンビア(?)大統領がスイスに病気治療にやってくる。その病院の救急車運転手がかつての支持者で、何くれとなく面倒を見るようになる。妻はそんな政治家は祖国から財産を持ち出しているとにらむが…。国を追われた人々の悲しみが伝わってくる作品。

 次の「聖女」は幼くして亡くなった娘の遺体が腐らないのを「奇跡」と考え、ローマ教皇に聖人認定を求めてローマに何十年も滞在する男の話。驚くべき奇譚である。しかし、それ以上にすごいのが「「電話をかけに来ただけなの」」で、ホラー小説として屈指の作品だと思う。レンタカーが故障して、電話をするためにヒッチハイクしようとしたら、精神病院に収容者を連れて行くバスが止まってくれて。だけど、病院では電話を貸してくれないのである。もちろん患者だと思いこんでしまったのだ。夫は待ち続け、探し続けるが…。今まで読んだ中でももっとも怖い話の一つ。

 全部書いても仕方ないけど、「悦楽のマリア」「毒を盛られた十七人のイギリス人」「雪に落ちたお前の血の跡」などなど、不思議で怖い話が詰まっている。場所はイタリアやスペイン、フランスなどで、いずれも50年代が多い。ガルシア=マルケスは1955年にローマに行ったが、その後もヨーロッパ各地に住んでジャーナリストとして活動した。コロンビアを追われたわけではないが、その後もキューバやメキシコに長く住んでいる。幼い頃のコロンビアの村や町が作品の基盤になっているけど、本人は他国に住むことが多かった。そういう経験から生まれた短編集で、素晴らしい物語に酔いしれること請け合いである。
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クルコフ『侵略日記』、戦争初期の緊迫期の記録ークルコフを読む④

2024年02月18日 21時50分37秒 | 〃 (外国文学)
 ウクライナの作家アンドレイ・クルコフの『侵略日記』(福間恵訳、発光ホーム社、発売集英社、2700円)を読んだ。2023年10月30日付で刊行されたが、ウクライナ戦争2年目を迎えるまでに読みたかった。あまり評判になってない感じだけど、やはりウクライナ戦争に関する基礎文献の一つになるだろう。この本は2021年12月29日に始まり、2022年7月11日までほぼ半年間の日記を収めている。毎日書いているわけではなく、数日分をまとめて書いている日が多い。3月が多いのは当然だろう。侵攻は2月24日に始まったが、3月1日までは自分たち家族の避難が優先なので、その間の日記はないのである。

 クルコフは民族的にはロシア人で、母語はロシア語である。幼い頃にキーウに移住し、ウクライナに帰属感を持っているが、ロシア語で創作する作家として成功した。日本でも2つの小説が翻訳されていて、『「ペンギンの憂鬱」、独立ウクライナの苦しみークルコフを読む②』『「大統領の最後の恋」ークルコフを読む③』で紹介した。また2014年のいわゆる「マイダン革命」の日々を、マイダン(キーウ中心部の独立広場)近くに住む作家として広場を訪れながら記録した。それは『ウクライナ日記』として出版され、日本でも翻訳されている。それを読んだ感想は『クルコフ「ウクライナ日記」を読むー2014年「マイダン革命」の日々』にまとめた。その本はウクライナの政情に詳しくないと判りにくい部分があった。

 日記というものは、もともとそんなものだろう。自分では判りきっていること、家族関係とか自国の政治事情なんかは説明抜きに書くわけだ。しかし、今回の『侵略日記』はかなり説明的文章が多く、注無しでも十分理解出来る。それも当然、これはもともと英語で書かれた日記なのである。外国での出版を最初から前提としているのである。クルコフは妻がイギリス人なので、英語は不自由なく使える。ウクライナの出版社、印刷所はロシアの攻撃を受けて新刊書を出版することが不可能になった。ウクライナ・ペンの会長として対外的発言を求められる立場にあったクルコフは、再びこの困難な時期を書き留めて世界に発信したいと思ったのだろう。
(クルコフ)
 この本を読むと、2年前の緊迫したウクライナ情勢を思い出して心が苦しくなる。2021年12月から書かれているわけだが、その頃はゼレンスキー大統領もクリスマス休暇を取っていて、出来るだけ通常通りに事態を見ようと思っていただろう。相変わらずウクライナは政争が激しく、ゼレンスキー大統領の与党は前大統領ポロシェンコの野党に支持率で逆転されつつあった。マイダン革命後に選出されたポロシェンコはもともと反ロシア姿勢がはっきりしていて、プーチン大統領は妥協の姿勢を見せなかった。ドンバス戦争が解決しないことで国民の批判が高まり、ロシア語話者のゼレンスキーが自分なら解決出来ると主張して大統領に当選した。

 クルコフはロシアやウクライナのほとんどの人と同様に、都市の自宅と別に近郊農村部に別荘(ダーチャ)を持っている。そちらで暮らすことも多かったので、今回も当初は別荘に籠城することを考えていた。しかし、いろいろな人の意見を聞き、ウクライナ西部に避難することになった。渋滞を繰り返しつつ、西部の代表的都市リヴィウに落ち着く。この半年間の日記ではキーウに戻らず、結局西部に留まっている。外国に出やすいこともあるだろう。クルコフは何度か近隣ヨーロッパ諸国に出掛けている。ウクライナ文化人を代表する形で、国民の抵抗を伝える役割を果たしていた。

 その後、ウクライナ最西部のザカルパッチャ州に移っている。この州はロシアのミサイル攻撃を一度も受けていない州だと書かれている。そこはハンガリーやスロヴァキアに隣接する州で、少数民族のハンガリー人が多い。それがミサイル攻撃がない理由だろうとクルコフは推測している。EUではハンガリーのオルバン首相が唯一ウクライナ支援に難色を示すことが多い。ハンガリー世論がロシア憎悪に向かわないように、プーチン政権は政治的にそこにはミサイルを向けないのだという分析である。クルコフは戦時にあっても冷静でリアルな状況分析が可能な人であることを示している。
(ザカルパッチャ州ー赤い部分)
 開戦直後とあって、クルコフもロシア語作家として責任を感じている。今後はロシア語での創作はしないらしい。ロシアへ行くこともなく、ロシア文化への関心も失ったという。ロシアへの反感はウクライナに完全に根づいてしまい、ウクライナの民族的アイデンティティは高揚した。クルコフはスターリン時代の国家悪を直視出来ないロシアに対して、常にその当時の苦難を語り継ぐウクライナとの違いを強調している。これはかつての「大日本帝国」時代を直視出来ない日本人を思う時、他人事とは思えない。

 ただ開戦当初はウクライナの防衛が予想以上に成功したこともあり、いずれ勝利するという予測が見られる。僕はこれは「21世紀の30年戦争」になる可能性があると開戦直後に書いた。日本でもいろんな事が言う人がいるが、そう簡単に解決出来るとは思っていない。外国からの武力支援ないでは防衛が不可能なウクライナとして、クルコフも米英の素早い軍事援助には感謝する一方、なかなか武器援助に踏み切らないドイツを散々批判している。どうしても戦争を通して「軍事国家化」が進んでしまうことが多いが、様々な意味で今後の苦難が予想される。この本の時期は、ウクライナ国民と欧米を中心とする諸外国の市民の連帯感が強まった「ハネムーン期」である。今読むと、その後も続く先行きの見えない苦難に言葉が出ない。
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カポーティ『遠い声、遠い部屋』(村上春樹新訳)を読む

2023年12月27日 22時13分10秒 | 〃 (外国文学)
 村上春樹訳のトルーマン・カポーティ遠い声、遠い部屋』(Other Voices, Other Rooms、1948)が7月に出たので、何とか年内に読もうと思って取り組んだ。やはりなかなか難物だったけど、これは待望の新訳なのである。この小説を読むのは3回目で、中学生か高校生の時に河野一郎訳(新潮文庫)で最初に読んで非常に大きな刺激を受けた。だから何十年か経ってもう一回読み直したのだが、その時はどうも翻訳が古びたなと思って、これこそ村上春樹が新たに訳し直して欲しいなと思い続けていたのである。

 トルーマン・カポーティ(Truman Garcia Capote、1924~1984)は若くして認められ、日本でも大きな人気があった。『ティファニーで朝食を』や『冷血』が映画化されたこともあり、同時代のアメリカ作家の中でも早くから文庫に入っていた。僕もかなり読んだけど、特に長編デビュー作の『遠い声、遠い部屋』が一番好きだった。鮮烈な文体、少年の幻想、怪しげな登場人物が繰り広げる夢魔の世界。いわゆる「サザン・ゴシック」というアメリカ南部を舞台にした不気味なムードに魅せられてしまった。
(トルーマン・カポーティ)
 カポーティは23歳で『遠い声、遠い部屋』を発表した時、すでに短編『ミリアム』を書いて知られていた。そして初めての長編『遠い声、遠い部屋』を発表して、アメリカ文壇に「アンファン・テリブル」(恐るべき子ども)として名を馳せるに至った。この小説は自分を思わせる13歳の少年ジョエル・ハリソン・ノックスが、母が死んだ後で父の屋敷に引き取られるところから始まる。父の屋敷は「ヌーン・シティ」というバスも列車も通っていない小さな町から、さらに外れたところにある。少年が一人で行き着くまでが大仕事。そして、行き着いても父に会うことができない。

 その屋敷は火事にあって焼け残り、いとこランドルフと継母エイミーが住んでいる。またラバの馬車で彼を連れてきた昔から仕えてきた黒人ジーザス・フィーヴァー、その孫娘ミズーリもいる。近所にはおとなしいフローラベル、お転婆なアイダベルの双子姉妹がいて、これらの人々が少年の新しい世界となった。しかし、父に引き取られたはずなのに、父はいるのかいないのか、全く会わせて貰えない。そんな中で少年は謎の女性がいるのを見てしまうが、屋敷の人々はそんな人はいないと彼の言い分を否定する。父を見つけられない少年はミズーリの黒人文化に驚き、アイダベルと森の中を遊び回ったりする。
(原書)
 やがて判明する父の実情、ランドルフの人生、そしてアイダベルの家出に付き合って近くの町のカーニバルに行くクライマックスがやって来る。そこで小人症の女性と知り合い、観覧車に乗っていると大嵐が襲ってくる。こういうカーニバルの夢魔的世界は、レイ・ブラッドベリの小説や多くの映画なんかによく出てくる。その後、もっといろいろ接してしまったので改めて驚くこともないんだけど、初めて読んだときは多分こういう熱気と幻想にあてられてしまったんじゃないかと思う。病気になった少年は療養しながら、自分が少し大人になったことに気付く。結局「父の不在」と「自我の目覚め」がテーマなのである。

 カポーティはその後ニューヨークの社交界でもてはやされ、アルコールやドラッグでスポイルされてしまうことになる。多くの人に知られているように、カポーティの孤独と墜落の背景には同性愛があった。この『遠い声、遠い部屋』を最初に読んだとき、自分は全然そのことに気付かなかったが、今読み直すと明らかに作者はところどころに性的指向を密やかに書き込んでいる。当時のアメリカではそのことが物議を醸したというが、まだはっきりとは明言されていない。だが「サザン・ゴシック」の代表的な作品として、今もなお生き生きとした魅力を保っていると思った。
(原書、若き著者の写真が有名)
 村上春樹が最初に行った翻訳はスコット・フィッツジェラルド(1896~1940)だった。第一次大戦後の「失われた世代」を代表する作家だが、カポーティと同じように早熟な才能を酒とパーティーで費やしてしまい早死にした。その中で書かれた幾分感傷的な短編を集めた「ベスト・オブ・村上春樹訳フィッツジェラルド」とでも言うべき『フィッツジェラルド10』が中公文庫から刊行された。こっちを先に読んだんだけど、栄光と転落を描く物語が多い。ちょっと飽きてくる点もあるが、まずはじっくり人生を噛みしめる本だ。まあ僕はなんで村上春樹がフィッツジェラルドを大好きなのか、未だによく判らないんだけど。
 (スコット・フィッツジェラルドとゼルダ夫妻)
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『平原の町』、三部作の終焉-コーマック・マッカーシーを読む⑥

2023年12月09日 21時46分13秒 | 〃 (外国文学)
 コーマック・マッカーシーを読んできて、最後に『平原の町』(Cities of the Plain、1998)を読んだ。この人はとても読みにくく、相当英語に堪能な人でも原語で読むのは無理だろう。最近初期作品『果樹園の守り手』(1965)、『アウター・ダーク 外の闇』(1968)の翻訳が山口和彦訳で出ているが、しばらくいいな。片方は地元の図書館にあるのを確認してるけど。読み終わったら、今度はこれも懸案になってる林芙美子を読み始めて、時代は違っても同じ文化だといかに読みやすいか実感する日々。

 そうは言いながら『平原の町』は会話部分が多くて、マッカーシー作品の中で『ザ・ロード』と同じぐらい読みやすい。だけど、相変わらず説明がなく、最初は時代がいつか判明しない。『すべての美しい馬』の主人公ジョン・グレイディ・コール、『越境』の主人公ビリー・バーハムは、今ではニューメキシコ州のマック・マクガヴァン牧場で一緒に働いている。次第に判るが、前作で1949年に16歳だったジョン・グレイディは19歳。前作で1940年に16歳だったビリーは28歳。従って、1952年の物語で2人は9歳差。

 もちろんいつの話でも全然問題ないけれど、普通の作者なら最初に時代を書くか、または会話などで示すことが多いだろう。そういうことをしない作者である。それでいいんだけど、やはり外国人が読むといつなんだろうと疑問が湧くのである。後書きを読むと、そもそも題名は「低地の町」と訳すべきでもあるという。神によって滅ぼされたソドムとゴモラを表わすというのである。死海周辺の低地にあった(死海に沈んだとされる)「悪徳の町」である。今ではその「悪徳」とされる「性的な乱れ」とは何か検討を要するだろうが、ともかくそういう喩えみたいなことは言われないと判らない。文化が違うと思うところだ。
(コーマック・マッカーシー)
 マックの牧場は先行きが長くない。もう西部のカウボーイの時代も終わりつつあり、その辺りの土地は陸軍が接収するんだと言われている。後書きには、核実験場にも近いところで、今はミサイル試射場になっている辺りだという。ジョン・グレイディは若いながら、馬扱いの見事さで認められている。山犬が牛を襲うようになり、皆で山犬狩りをする迫力あるシーンがある。しかし、全体としてはジョン・グレイディの一途な恋物語である。テキサス州エルパソから国境を越えた町シウダー・フアレス。皆でそこまで行って娼館に押し掛ける。ジョン・グレイディは見ていただけだったが、とある少女に心を奪われてしまう。

 どうしても会いたくなって、再び訪ねるとその店にはもういない。何とか探し回ると、高級娼館に移っていることを突きとめた。訪れると彼女も彼を覚えていた。そこから16歳の幼い娼婦への身を焦がす恋が始まるのである。しかし、普通は思うだろう。この若い年齢を思うと、国境の向こうに住む、娼館にいる(身柄を「身請け」するには多額の金銭が必要になるかもしれない)恋人と、貧しいカウボーイが結ばれるなんてあり得るだろうか。恐らく娼館には用心棒みたいなのもいるに違いないし。なんて思っていると、案の定の展開になっていく。しかし、マッカーシーの作品では主人公は「宿命」を歩んでいくのだ。

 物語が終わったら、長い長いエピローグがあり、なんと時は21世紀になっている。そこら辺で語られていることはほとんど理解出来なかったが。この「国境三部作」では、最初の『すべての美しい馬』が圧倒的に素晴らしい。後の2作は長さが気になるが、それ以上に展開が納得出来ないのである。この『平原の町』はほぼジャンル小説の西部ものの枠で語られた至高の恋愛小説である。忘れがたいが、何か滅びに向かうような寂しさがある。マッカーシーは評判になってたし、文庫に入っていたから、一度読んでみたかった。なかなか手強かったけど、「アメリカ」を知るには格好の作家かもしれないと思った。「暴力の神話」を描いた作家だから。
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