尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「ウィンストン・チャーチル」

2018年04月30日 22時25分23秒 |  〃  (新作外国映画)
 今年の米国アカデミー賞で主演男優賞メイクアップ&ヘアデザイン賞を受賞した「ウィンストン・チャーチル」を見て、なかなか面白かった。まあ日本人が受賞(特殊メイクの辻一弘)してるし、歴史ものだから一応見ておくか程度の気持ちで見に行った。この手の映画は筋書きを知ってるわけだし、「政治的配慮」がシナリオに付きまとうから、案外つまらない出来の場合も多い。でも、この映画は「イギリスの一番長い一カ月」といった作りで飽きさせない。

 ウィンストン・チャーチル(1874~1965)は、BBCが2002年に行った「偉大な英国人」選出投票で1位になった。そのことはかつて「チャーチルの『第二次世界大戦』を読む」を書いたときに触れた。(この記事は戦後になってチャーチルが書いた大戦回顧録を読んだ感想で、チャーチルはその本でノーベル文学賞を得た。)シェイクスピアやニュートン、ダーウィンより偉大なのかとも思うけど、映画の副題「ヒトラーから世界を救った男」と考えると英国史上最高の偉人にもなる。

 この映画を見るとチャーチルは英国政界で決して強い勢力を持っていなかったことが判る。1940年、ドイツの電撃戦開始後、チェンバレン首相に不満が高まり、反ヒトラーのチャーチル海軍大臣が首相となって挙国一致内閣を率いる。だが、かつて第一次大戦時の海軍大臣での失敗(ガリポリ上陸戦の惨敗)などがいつまでも記憶され、また保守党を離れ自由党に入るも再び保守党に復党した過去があり、保守党内に信用がなかった。国王も不信感を持っていて、閣内には和平論者が多くて四面楚歌である。

 保守政治家の中には、ナチスへの宥和政策論が強い。フランスも降伏しそう、米国は中立法に縛られ大規模な援助ができない。国王もイギリスを離れカナダに移るべきだという意見さえある。そんな情勢の中、イギリスを守るためにはドイツと交渉すべきだというわけである。イタリアのムッソリーニが和平のあっせんを申し出ていた。もともと保守政界にはナチスよりソ連を危険視する人が多い。チャーチルの心もゆれ動くけど…。ということで、決して泰然自若として戦争指導をしたのではなく、チャーチルも揺れながらも国民の支持を得て戦争を遂行していったことが判る。

 最近ダンケルク撤退作戦を描く映画が多い。戦争描写に徹した「ダンケルク」(アカデミー作品賞にこの作品とともにノミネートされた)や「人生はシネマティック!」(国策映画でダンケルク撤退を描こうとする人々を描く)などである。この映画も全く同じ時期を英国政治に舞台を極限して描いている。最近の映画だから、女性タイピストやチャーチル夫人も出てくるが、内容的にはほとんど男性政治家ばかりの映画だ。この映画を見て、ダンケルク撤退作戦の裏に「カレー守備隊」の犠牲という悲劇があったことがよく判った。

 イアン・マキューアンの傑作小説「贖罪」を映画化した「つぐない」という映画があった。主たるテーマじゃないけど、この小説と映画のラストにダンケルク撤退が大きな意味を持って描かれた。その映画の監督を担当したジョー・ライトが今度の映画でも監督をしている。「アメリ」などを撮ったフランスのブリュノ・デルボネルが撮影監督をして素晴らしい映像で英国議会を捉えている。

 チャーチル役のゲイリー・オールドマン(1958~)は、途中から本人かと思えるほどになってくる。「裏切りのサーカス」でアカデミー賞ノミネートの他、いくつもの映画に出てきたが、今回はアッと驚くメイクの「なりきり演技」である。最近実在人物を演じてアカデミー賞を取るケースが多い。80年代には「ガンジー」(ベン・キングズリー)ぐらいだったけど、21世紀に入るとリンカーンやジョージ6世、ホーキング博士、レイ・チャールズやウガンダのアミン元大統領など。女優でもエリザベス女王やマーガレット・サッチャーなどがいる。こう見ると英国関係が多いのも面白い。以下の写真は、最初が本人、次に映画のチャーチル、最後がオールドマン。いかにすごいメイクか判る。
  
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これからの性教育ー都教委と性教育問題③

2018年04月29日 23時11分47秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 性教育問題を2回書いた。まだ論点は残っているけれど、それは指摘するだけにしておきたい。最大の問題は「なぜ性教育を攻撃するのか」である。都議会で質問されたというけど、君が代処分問題とか夜間定時制廃止問題などは、いくら都議会の質問があっても何も変化がない。都教委で議論もしない。なんで「古賀都議」だとおそれいったかのように対策を打ち出すのか。

 僕が思うに、中学歴史教科書問題などを見ても、都教委と「右翼的都議一派」は「同志的関係」にあるんだろう。お互いに相通じているというか、特別の関係があるから、むげにはできない。質問があった以上、何か「お土産」を差し上げないといけない。そこが野党系都議の質問と違うところなんだとと思う。そして「性教育」と「歴史修正主義」には共通点がある。生徒たちに「出来るだけ真実を教えたくない」という点で共通しているわけだ。

 それにしても、今回のように「保護者の理解」を持ち出していいのだろうか。授業はもともと保護者に公開され、授業内容は報知されていた。それでいいのではないか。もちろん性教育に限らず、保護者の協力と理解は学校運営に欠かせない。だけど、「授業内容」は学校が責任を持って進めていくべきものだ。保護者全員に指導案を事前に見せるなど、「授業の検閲」になってしまわないか。事務的な負担も考えると、都教委はできないことを要求しているとしか思えない。

 そういった問題があると思うけど、それはもうやめて、「これからの性教育」について考えてみたい。僕が思うには、「思いがけない妊娠をしないためには、産み育てられる状況になるまで性交を避けること」という指導の方向性でいいのだろうか。20世紀の段階なら、マジメに中学、高校で学校生活を送っていれば、それなりの就職先や進学先に通じていた。高卒でも大卒でも、一生勤められる正社員になれるんだったら、それまでセックスは我慢せよも通じたかもしれない。

 でも今じゃ、高卒はもちろん、大学まで行っても、なかなか安定した正社員になれないことが多い。またなれたとしても、長時間労働や不安定な労働条件が付いて回る。「産み育てられる状況になれるまで」と言っても、低賃金で不安定な派遣社員だったりすれば、いくつになってもセックスは我慢しないといけないのか。それとも成人にさえなっていれば、以後は自己責任で「性交可」なんだろうか。その場合、「思いがけない妊娠」が怖いというなら、男の場合「フーゾク」に行くのはありなのか。何しろ健康な男子なら性欲があるのが自然なんだから、この問題は大問題だ。

 「思いがけない妊娠」は避けるべきだというのは誰しも反対できない。でも、この言い方でいいのかなと思うのには、二つの理由がある。一つは「妊娠しなきゃいいんでしょ」とイマドキの中学生ならすぐ反論してくるだろう。男女のカップルには妊娠があるけど、同性愛なら中高生がセックスしてもいいの?って言い返す生徒になんて答えるか? あるいは、手や口ならいいんじゃない、ぐらいは言ってくるんじゃないか。そして実際、セックスを強く迫る男子に対して、これでガマンしてと言ってる現状があるんじゃないかと思う。

 また、今じゃ「できちゃった婚」が多いのが現実だ。生徒の親にも、若いシングルマザーがかなりいる。「思いがけない妊娠」を学校が否定すると、生徒の自己否定になってしまう可能性もある。そして、僕が見てきた感じでは、10代で出産する場合も「思いがけない妊娠」ばかりではないと思う。むしろ「できちゃった婚」で、居場所がない家庭と学校からの脱出を目指す場合も多いんじゃないだろうか。確かに若いカップルの場合、離婚してシングルマザーになるケースもかなりあると思う。(あの二人別れたらしいよ、っていうニュースの方が伝わりやすいので、幸せにやってるカップルもいるんだは思うけど。)

 中学3年生はもうすぐ高校生になると、半数以上は電車通学をする。中学でも「学校選択制」があるから電車通学もあるし、高校でも近くの高校へ自転車で通う場合も多い。でもやっぱり区部の周辺部からだと、電車で都心の学校へ通学することが多い。そうなるとどうなるか? 女子高生はすぐに「痴漢問題」が起きるのである。その一方で、進学校はともかく、それ以外だと夏休み頃には多くの生徒がアルバイトを始める。バイト先で先輩には言い寄られたりするが、それがなくてもお金が出来たことでオシャレ度が違ってくる。そういう段階がもうすぐ来るのである。

 そんな時に、どのような性教育が必要なのか。「性の商品化」「性暴力」「セクシャルマイノリティ」などの観点が必須だろう。その中で、「人間の尊厳」という意味で、いじめや自殺防止なども含めたプログラムが必要だろう。もちろん性的に進んだ生徒ばかりではない。男女とも、容姿や体形、運動神経などにコンプレックスを持ち、異性に関心を持ちながらも声もかけられない生徒も多い。しかし、そういう場合こそ、風俗産業に引き寄せられやすい。授業で取り上げるにはハードルが高いけど、タテマエ論だけで性を論じられるじだいではない。もうすぐ生徒たちは「性産業」のターゲットになるんだという視点を抜きにして、これからの性教育は成り立たない。
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総合学習と指導要領-都教委と性教育問題②

2018年04月28日 22時24分12秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 ①で書いたように、都教委は足立区立の中学で行われた性教育の授業を非難している。その理由に「避妊、人工妊娠中絶等といった、学習指導要領上、中学校ではなく高等学校で指導する内容を取り上げた」と指摘しているわけである。そう言われると(評価は別にして)、そういうもんかと思ってしまうかもしれない。でも、僕の考えでは、その大前提を疑ってみる必要がある。

 当該の授業は「総合的な学習の時間」(以下「総合学習」)で行われたものである。しかし、都教委が指摘するのは「中学校学習指導要領 保健体育(平成20年3月 文部科学省)」である。えっ、「総合学習」は関連教科の学習指導要領に縛られているのか? そんな話は文科省もしてないんじゃないか。これじゃ「総合学習」は成り立たない。全国の「総合学習」のほぼすべては、学習指導要領違反になってしまうんじゃなかろうか。

 総合学習の指導要領の方を見てみると、「各学校においては,第1の目標を踏まえ,各学校の総合的な学習の時間の内容を定める。」と明記されている。ちょっと長くなるが、「目標」の方を引用しておくと「横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに,学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的,協同的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにする。」というものである。

 学習指導要領も「官製文書」だから読みにくい。だけど要するに、「自ら考え、主体的に判断する能力を育成し、自己の生き方を考える」といった目標のために、「各学校が総合学習の内容を定める」というのである。じゃあ、中学の総合学習で「避妊」に触れたって何の問題もないじゃないか。その通りである。授業内容に関する批判はもちろんあっていい。だけど、学習指導要領に反しているというのは明らかに間違っている。文科省は都教委を指導した方がいいんじゃないか。

 各教科と総合学習は何が違うか。教科で扱うことは、生徒に理解させないといけない。筆記や実技で教師が生徒の理解度を確認し、結果を5段階評価で示す。だから発達段階に応じて適切な内容じゃないと確かにまずいだろう。でも「総合学習」は数値による評価はしない。生徒が「自己の生き方を考える」ための学習なんだから、一生懸命に取り組んだかどうかを文章で評価する。大人が「学習指導要領に出てない」などと「自粛」してしまえば、本気で取り組んでないというメッセージになって逆効果でしかない。指導要領なんかの縛りを超えて、きちんと教えようという「本気度」を見せないと、生徒の意欲を呼び起こせない。

 今回の都教委の文書は、総合学習に関する悪い「判例」である。これじゃ何もできない。例えば、パラリンピックを通して障害者スポーツに関する学習を「総合学習」で行うとする。生徒が各グループに分かれていくつかの競技を調べて発表する。発表の場に各競技の選手も呼び、保護者や地域にも公開する。そういう学習に何か問題があるだろうか。しかし、中学校の保健体育の学習指導要領には、障害者スポーツへの記述はない。「車いすバスケットボール」も「シッティングバレーボール」も、もちろん「ボッチャ」も出てこない。よって、これは学習指導要領を超えるものだから、保護者の了解がなければできない…そういうことになるんじゃないかと思うけど、それでいいのか。それとも性教育だけ「ねらい撃ち」するのが目的なんだから、他はいいという言うんだろうか。

 何にせよ、都教委が「自ら考える」ことなど全然求めてないことははっきり判る。「アクティブラーニング」なんか、マトモに出来るはずがないということも。
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「都教委につける薬はない」-都教委と性教育問題①

2018年04月27日 23時21分26秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 2018年4月26日に東京都教育委員会は、「中学校等における性教育への対応について」という文書を発表した。教育委員会の定例会では、中井教育長を除く5人の委員全員が見解を表明したが(内容は後述)、結局このような方針が現場に下ろされれば、「事実上の性教育禁止令」になるのは間違いない。さらに性教育に止まらない大きな問題があるので指摘しておきたいと思う。とにかく、ホントに「都教委につける薬はない」と改めて思い知らされた。

 まず問題の内容を紹介して、それから都教委の方針を説明したい。この問題を初めて報道したのは、僕の知る限り、3月24日付の朝日新聞(前日夜に朝日のサイトに掲載)だと思う。「中学の性教育に『不適切』」「都教委 自民都議指摘受け指導へ」と見出しが付いている。自民党の古賀俊昭都議が3月16日の都議会で「問題ではないのか」と質問したというのである。古賀都議といえば、2003年の七生養護学校事件を引き起こした当事者である。詳しくは書かないが、教育への不当な介入として最高裁で古賀氏ら3都議と都教委に対する損害賠償が確定した。

 問題の授業は、足立区の区立中学校で3月5日に行われた。「総合学習」の時間に3年生を対象にして「高校生になると中絶件数が急増する現実」や「コンドームは性感染症を防ぐには有効だが避妊率が9割を切ること」などを伝えた。そのうえで「思いがけない妊娠をしないためには、産み育てられる状況になるまで性交を避けること」と話した。(以上、前期朝日新聞による。ゴチックは引用者。)何が問題なのか、普通の人には判らないだろう。むしろ「微温的すぎる」という観点から、これで子どもたちの現実に切り込めるのかという方向の批判をするならわかるけど。

 都教委や古賀都議からすると、何が問題なのだろうか。それは今の引用中のゴチックの部分、「中絶」「避妊」「性交」などがいけないというのである。なぜなら、それは学習指導要領では高校で扱う領域だから。都議会での答弁では「避妊、人工妊娠中絶等といった、学習指導要領上、中学校ではなく高等学校で指導する内容を取り上げたり、保護者の理解を必ずしも十分に得ないまま授業が実施されたりしていた旨を答弁した」と書かれている。

 しかし、学習指導要領だけを問題にするわけにはいかない。なぜなら、かつて「ゆとり教育批判」「学力低下論議」があった時、文部科学省は「学習指導要領は最低基準」ということに変えたからである。昔はそうじゃなかった。学習指導要領は「縛り」だった。しかし、21世紀においては「最低基準」なんだから、それ以上をやってもいい。中学3年生の3月と言えば、都立高校の合格発表も終わり、大部分の生徒は進学先も決まっている。もうほとんど高校生である。都教委が率先して中高一貫校をたくさん作ってきたのに、いまさら中学だ、高校だというリクツだけじゃ責任を問えない。

 そこで都教委は14年も前に出した「性教育の手引きー中学校編」なる文書を持ち出し、「指導内容や方法を十分説明し、保護者の理解・協力を得て指導計画を立案する」という文言を持ち出す。「保護者の理解を必ずしも十分に得ないまま」と言うのである。さすが、都教委官僚の悪知恵は大したもんだ。「保護者の理解」って何だ。タテマエ上は誰も否定できないけど、学校が責任を持つ授業内容に「保護者の理解」が必須なのか。そんなことをしていたら、学校教育が成り立たないんじゃないか。一体どうすりゃいいんだろう。

 保護者会を開いて了解を得るんだろうか。しかし、保護者会には全員は出てこない。出席者の過半数の支持があればいいのか。あるいは絶対過半数が必要なのか。いやいや、都教委が言ってるのは、そんなレベルじゃない。「学習指導要領を超える内容を指導する場合には、例えば、事前に学習指導案を保護者全員に説明し、保護者の理解・了解を得た生徒を対象に個別指導(複数同時指導も可)を実施することなどが考えられる」と言うのである。おいおい、マジか?

 事前に指導案を全家庭に配らないといけないのか? そして、生徒個々の家庭ごとに了解あり、了解なしの区分けをして、二本立ての授業をおこなえと言うのである。いやはや、卒業目前の多忙期に、そんなことをしている余裕はない。というか、時期や忙しさの問題以前に、こんな「家庭の了解の有無で、差をつけた授業をする」ことが許されるのか。都教委は現場の状況を知らないわけもないから、これは「事実上の性教育禁止令」以外の何物でもない。こんなことを言われたら、誰も本格的な性教育を行おうと努力するものはいないだろう。

 東京新聞(4月27日付)には各教育委員の発言が載っている。例えば「足立区の中学校を否定すべきでない。」(山口香委員)、「性について正確な情報を与えることが子どもを守ることになる。」(宮崎緑委員)、「現場の先生は委縮せず、積極的にやってほしい」(北村友人委員)等々。現場の教員は委縮するなと言われても…。久しぶりに僕は思い出してしまった。田中真紀子が外務大臣を罷免されたときの言葉を。「スカートを踏んづけられていたので、後ろを振り返ってみると、言っている本人(小泉首相)だった」というあの名言を。その当時の田中外相の評価は別にして、このスカート発言は使える。委縮するなと言っておいて、「スカートを踏んでいる」のは都教委自身である。そして、後から委縮したのは現場が悪いと責めるのである。

 ところで今回は足立区教育委員会は、「授業は人権教育の一環で、問題はなかった」(東京新聞)と言い続けている。また「10代の望まぬ妊娠や出産を防ぎ、貧困の連鎖を断ち切るためにも、授業は地域の実態に即して行われ、生徒と保護者のニーズに合ったものだ」(朝日新聞)とも言う。どこの中学の授業か知らないけど、僕は足立区に半世紀以上住んでいて、東京東部の中学高校で20年以上勤務してきた。東京の中でも、就学援助家庭が多く、学力も相対的には低い地域なのは間違いない。上野や秋葉原などが近いから高校生になれば「JKビジネス」が待っている。また、高校を中退したり、学校に通えない生徒も多い。「避妊」や「中絶」に触れるなとか言ってる場合なのか。「地域の実態」「貧困の連鎖を防ぐ」。この意味が教育委員には判っているのか。
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原一男「ニッポン国VS泉南石綿村」

2018年04月26日 23時06分27秒 | 映画 (新作日本映画)
 原一男監督が近年ずっと追いかけていた泉南アスベスト訴訟の記録映画「ニッポン国VS泉南石綿村」を見た。3月10日に公開されたが、何しろ215分という長尺で、一日1回の上映である。つい後回しにしている間に、よく見たら今週で上映修了である。じゃあ、見に行かないといけない。

 これは大変面白い映画だった。実に様々なことを考えさせられる。2006年の国賠訴訟提訴から、2014年の最高裁判決まで、カメラは原告たちの行動をずっと追い続ける。「ゆきゆきて、神軍」(1987)のような突出した登場人物を追う映画ではなく、ニッポン国に住む庶民を撮っている。そういう映画は初めてだが、これがとても面白い。「面白い」という言葉が適切かどうか。「国家の犯罪」と闘う人々ではあるが、「人間を見る」という意味で抜群の面白さだ。村上春樹による地下鉄サリン事件の被害者の記録「アンダーグラウンド」を思い出したが、本当に人間という存在は深い。

 原一男(1945~)監督ももう古希を過ぎている。長編ドキュメンタリーとしては、1994年の「全身小説家」以来。「ゆきゆきて、神軍」からは31年にもなる。デビュー作の「さようならCP」(1972、未見)、「極私的エロス 恋歌1974」(1974)以来、テーマ・内容ともに突出した生き方を描く。良くも悪くも、それが原映画であり、こんな人がいるのか的な驚きが映像で表現されていた。2004年に初の劇映画「またの日の知華」(未見)を作ったが、その後はアスベスト訴訟を撮り続けていた。

 長い映画だから休憩が入るが、前半は原告の証言が多い。そして何人もの原告が判決を待たず亡くなっていく。原告団は韓国に交流に行き、アスベスト鉱山を見に行ったりする。そして原告には韓国系の人も多く、親族が会いに来たりもする。そんな様子をていねいに追い続けるが、後半の冒頭で作家本人が映画に介入してくる。もっと「怒り」を表出しないのかと「挑発」するのである。「訴訟」という行動を起こしたことで、バラバラに地域に潜在していたアスベスト被害者が「可視化」された。だけど、裁判である以上、「敵の土俵」である。国家のルールに則って、整然と訴えないといけない。だが、人間としてもっと怒りが噴出しないのかと問うのである。

 これは非常に難しい問題だ。映画の中でも弁護団に相談せず、首相官邸に建白書を持ってゆこうとするシーンが出てくる。事前のアポがないからダメと門前払いされるわけだが。僕が今まで見た来た裁判支援運動においても、「怒り」は抑えられることが多いように思う。怒りで突出するのは、「ゆきゆきて、神軍」の奥崎謙三なんかの場合であって、裁判をすることを決めた以上、弁護団と協力して整然とやらないと勝てるものも勝てない。そういうこともあるけれど、長い時間が経過して「怒り」の段階は終わっていることが多いんだと思う。

 アスベスト(石綿=映画内で「いしわた」とも「せきめん」とも言っている)は、もともと劣悪な小企業で作られていた。泉南というのは、大阪の一番南、和歌山県に面したあたりで、そこらへんに小工場が集中していた。工場には石綿が舞い、肺を悪くして若くして死ぬ人も多い。だから労働者が居つかない。誰でもすぐ雇ってもらえる。朝鮮や沖縄の出身者がいるし、遠くの隠岐からも来る。そういう「構造的労災」だったことが映画を見ているとだんだん判ってくる。

 だが、それは逆から見ると、なんとか雇ってもらって、その稼ぎで子どもを学校に行かせた、そんな誇りの仕事でもあった。国家と闘うに際して、その二重性がどう現れてくるのか。映画が始まったら見続けるしかない非常に充実した映画体験だった。単なる裁判のドキュメンタリーに止まらない、「日本」と「人間」を考えさせる映画だ。今年の映画の何本かに間違いなく入る収穫だと思う。
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根津神社につつじを見に行く

2018年04月25日 22時46分44秒 | 東京関東散歩
 東京都文京区根津にある根津神社は、「東京十社」に入っている由緒ある神社である。東京ではつつじの名所として知られ、例年ゴールデンウィーク頃は、つつじを見に来る人でいっぱいになる。今年は早くも満開になっていて、ゴールデンウィークには終わっているという話なので、24日に見に行ってみた。東京メトロ千代田線の根津駅で降りて、10分ぐらい歩く。この一帯は最近は「谷根千」(谷中・根津・千駄木)と呼ばれて、街歩きの人気スポットになっている。
    
 社域に入ると、向こうに花がいっぱい咲き乱れているのが見える。詳しく見ると、もう早咲きは終わっていて散っている。咲いていたのは、遅咲きのつつじ。やっぱりずいぶん早いなあ。境内には小高い「つつじ苑」があって、有料なんだけど入らないと意味がない。下からも花がよく見えるので、それで満足しているような人もいるように見えたが、やっぱり上から一望する方が素晴らしい。
  
 根津神社は、もとは日本武尊(やまとたけるのみこと)創建と言われるけど、そういう伝説はともかく今の社殿は1706年創建である。日光東照宮に代表される「権現造」の傑作と言われ、重要文化財に指定されている。18世紀初頭にはアメリカ合衆国はまだないんだから、古いには違いない。でも、関西ならこの程度で古いとは言わない。東京では300年前で古いわけである。
    
 根津神社の場所は、徳川綱重(家光の三男で、家綱、綱吉の弟)の屋敷だったところである。綱吉に子どもがなく、6代将軍は綱重の子・家宣に回ってきた。その家宣が産まれた場所が、ここ根津神社なのである。家宣は綱重の庶子だったが、結局綱重にも他の子ができずに、家宣に将軍位が回ってきた。新井白石を用いた「正徳の治」と呼ばれる時代である。家宣時代は1709年から1712年の3年間、子どもの家継(3歳)が後継となったが1716年に亡くなり、紀伊家の吉宗になるわけである。家宣の胞衣(えな)を埋めたという石塚があった。家宣が将軍になったということで、この屋敷地が神社に献納され大きな社殿が作られた。

 根津権現とも呼ばれ、昔の小説にはよく出てくる。根津一帯は上野と本郷の間の低地で、明治初期には遊郭があった。(直木賞を取った木内昇「漂砂のうたう」に描かれている。)だけど、東大ができたため学生に悪影響を与えるということで、1888年に洲崎(江東区)に移転させられた。文学者のゆかりも多いところだけど、今回はつつじを見ただけでやめて岩波ホールに映画を見に行った。
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映画「砂の女」(勅使河原宏監督)を見る

2018年04月24日 22時47分22秒 |  〃  (旧作日本映画)
 池袋の新文芸座で「白黒映画の美学」という特集上映をやっている。このレベルの企画だともう全部見てる映画なんだけど、見直したい映画が組まれてたので、22日に「おとし穴」と「砂の女」、23日に「泥の河」と「麻雀放浪記」を再見した。どれも面白く見たけれど、ここでは「砂の女」にしぼって書いておきたい。「砂の女」(1964)はもちろん安部公房原作の大傑作を映画化したもので、内外で非常に高く評価された。キネ旬1位、毎日映画コンクールやブルーリボン賞の作品賞、カンヌ映画祭審査員賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネートといった具合である。
 
 原作を読んだのも、映画を見たのも、もう何十年も前だから、具体的なシーンは忘れているところも多い。でも、基本的なアイディアは忘れようがない。映画を見ている間中、見ている観客にも砂が入ってくるかのような圧迫感に襲われる。圧倒的な映画だなあと思った。今回は撮影監督を重視した特集なので、撮影は瀬川浩という人かと思った。監督の勅使河原宏(てしがはら・ひろし)と組んで「おとし穴」「砂の女」「他人の顔」を撮り、その後は武田敦「沖縄」や深作欣二「軍旗はためく下に」などにクレジットされている。光と影のコントラストが強調され、砂の映像の迫力がすごい。

 昆虫採集を趣味とする教師(岡田英次)が休暇を取って砂丘にやってくる。砂丘に住むハンミョウを探して、新種を見つけたいのである。休んでいるうちに終バスを逃して、村人から砂の下にある家に泊って行くように勧められる。そこは砂にのまれて夫と子どもを失った女(岸田今日子)が一人で住んでいた。縄梯子を下りて家に下りていくが、翌朝には梯子が上げられて帰れない。女は毎夜「砂かき」を続け、村人がそれを引き取る。代わりに「配給」を村からもらって暮らしている。男は何とか脱出しようと試みるが、蟻地獄の底みたいな家だから出ていけない。
(岡田英次と岸田今日子)
 こうして「砂の女」に囚われた男はどうなるか。二人の関係は? という展開は原作と大体同じだから、ここでは書かない。原作を読んでるだけじゃわからない、「砂」の官能的なまでの存在感が映像で捉えられている。女が「砂は湿気を呼ぶ」というと、男は初めのうちは信じない。湿気を避けるためと言って、女は砂かきが終わると裸で寝ている。岸田今日子はいつものフシギ感が全開で、何とも言えない魅力というか魔力というか、砂が絡みついてくる感じがすごい。「アラビアのロレンス」とは違って、やはり湿潤な日本の風土を象徴する砂なのである。

 安部公房(1924~1993)は60年代初期まで日本共産党に所属していたが、初期のころから「社会主義リアリズム」とは全然違う作風だった。シュールレアリスムやSF的な作風から、カフカと比較されたりした。不条理文学と呼ばれ、世界的に評価が高かった。68歳で亡くなったが、生前からノーベル賞有力と言われ、受賞目前だったとされる。でも、マジック・リアリズム的な描写ではなく、「砂」も「女」も「集落」もいかにもありそうな日本の現実を描いている。そこが怖い。読んでるときには非現実感もあるが、映像で見ると納得させられてしまう。(静岡県浜岡町で撮影された。)

 「砂かき」は毎日続く。取っても取っても、また新たに崩れてくる。そんなことをして何の意味があるのか。男は自分には仕事があると最初は言う。そのうち、こんなことをしていないで、東京へ行こうとまで女に言う。僕も若いときに読んだ時は、これは「シーシュポス」だと思った。ギリシャ神話に出てくる、岩を積んでは崩れてくるという罰を受けた話である。つまり「徒労」である。これに対し、違った見方を出しているのが河合隼雄氏の「中年クライシス」である。

 「砂かき」を徒労と呼ぶなら、かつて男が仕事にしていた教師の仕事は徒労じゃないのか。医者や弁護士は人もうらやむ名誉も報酬も高い職業だけど、やっぱり何十年もやっていれば同じような仕事にウンザリしてくるんじゃないか。だから、大体の人がやってる仕事は、お金をもらえる以外にどんな意味があるのか、だんだん判らなくなる。そんな気持ちは40代、50代ぐらいの人の多くが持っているんじゃないか。それが「砂の女」の隠された意味だというのである。そして、誰にも何の意味があるか判らない、世の中で一番どうでもいいような「砂かき」こそ、世界の最前線で戦う「前衛」なんだという。これは教育や福祉に携わる人なら、なるほどそうかと思えるんじゃないか。

 こうして、「囚われの男」の物語から「世界の最前線」の物語に読み替える時、「砂の女」の新しい意味が立ち上がってくると思う。ほとんど岡田、岸田の二人の映画だが、村人の代表みたいな三井弘次もすごい。ずるい感じの役柄には絶品で、小津や黒澤の多くの映画に出た名優である。また武満徹の音楽が素晴らしい。武満は多くの映画音楽を担当しているが、特にこの頃「怪談」など代表作を作っている。武満徹の「砂の女」への貢献は大きい。

 監督の勅使河原宏(1927~2001)は、華道の草月流を一代で築いた勅使河原蒼風の長男。50年代には記録映画を作っていたが、1961年に安部公房原作のテレビドラマ「おとし穴」を初の長編として製作した。筑豊の炭鉱を舞台に労働組合の分裂を背景にしているが、社会派というより、前衛的不条理劇の印象が強い。その後、「砂の女」「他人の顔」「燃えつきた地図」と安部公房三部作を監督したが、圧倒的に「砂の女」の完成度が高い。(アカデミー賞の監督賞にもノミネートされた。日本人では「乱」の黒澤明と二人しかいない。)

 父の死後、草月流後継となった妹、勅使河原霞が一年で急死したため、1980年に草月流三代目家元を継いだ。その後も「利休」など映画も作ったけれど、華道や映画だけでなく、舞台美術や陶芸など総合的な芸術活動を展開した。戦後日本では破格のスケールの芸術家だったけれど、「前衛」的な芸術運動のプロデューサーという意味でも非常に重要な役割をになっていた。映画監督として、あるいは他の活動についても、全体像の再評価が必要じゃないかと思う。
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小弓公方と上総武田氏-戦国時代の関東④

2018年04月22日 23時28分34秒 |  〃 (歴史・地理)
 戦国時代の関東をめぐる話がまだ残っている。最後にまとめて書いてしまいたい。細かい話とともに、関東の戦国時代の持つ意味を考えてみたい。研究書は別にして、一般向けの本として一番詳しいのは吉川弘文館の「戦争の日本史」シリーズの10巻、市村高男著「東国の戦国合戦」(2009)だろう。この本は前から持っていたが、なんだか細かそうで後回しにしていた。案の定、知らない話が満載で、人名も地名も全然覚えられない。何でこんなに知らないんだと思った。

 中でも一番ビックリしたのが「小弓公方」(おゆみ・くぼう)。公方は鎌倉公方の公方で、享徳の乱以後、古河公方堀越公方に分裂して戦いが続いた。それはこれまで書いてきたし、教科書にも出ている知識である。一方、小弓公方? 聞いたことあるか? 大体、小弓って何だ? 小弓はその後、「生実」とも書かれるようになった地名で、千葉市中央区生実に小弓城があった。緑区におゆみ野ニュータウンがあって、京成千原線に「おゆみ野駅」がある。千葉市でも一番東京から遠い辺りで、まったく知らない。京成千原線というのも初めて聞いた。首都圏でも大体そうだろう。
(小弓城跡)
 初代古河公方・足利成氏を継いで、2代目が政氏で、3代目が高基。しかし、父子の争いが起こり、ゴタゴタした。高基に僧侶になっていた異母弟がいて、古河公方の内輪もめを見て、上総武田氏(後述)がその弟を還俗させて(足利義明と名乗った)、新公方に祭り上げた。1518年のことである。(異説もある。)武田氏は古河公方に従う諸氏の下に立つのが嫌で、独自の公方を作ったのである。小弓城に迎えて、小弓公方と名乗り関東に風雲を呼んだ。細かい話は省略するとして、弱小ながら結構強くて、逆に古河公方と北条氏の連合軍ができた。1538年の第一次国府台(こうのだい)合戦で、義明父子が戦死して20年に及ぶ小弓公方は滅んだ。

 小弓公方をかついだ上総武田氏とは何だろうか。上総(かずさ)は千葉県中部の旧国名だが、京都に近い方が「上」なのに、東京から近い千葉県北部が「下総」(しもうさ)である。大昔は神奈川県から海で房総半島に渡ったのが正式ルートだったのである。源頼朝が一時逃亡したのもそのルート。半島なので、昔から独自の風土を形作ってきた。

 武田氏は源氏の有力一族で、各地で栄えた。武田は甲斐(山梨県)の戦国大名とだけ思っている人が多いと思うが、安芸(あき=広島県西部)や若狭(福井県西部)でも有力な一族が栄えた。源氏の嫡流は河内源氏2代目の源頼義の子・八幡太郎義家だが、その弟義光の次男・源義清が武田氏の祖である。武田というのは、茨城県ひたちなか市武田が由来で、武田氏館という建物が観光用に作られている。(行ったことがある。)

 武田氏の主流は甲斐の守護になった一族で、その流れの中から上総武田氏が出た。あまり詳しく書いても仕方ないから時代を飛ばすと、古河公方足利成氏の命を受けて上総に武田氏が攻め込んだ。当時は上杉氏が強かったので、そこへ古河公方方として入ったのである。だから土着の勢力じゃなくて、当初は侵略してきたわけだが、その後、戦国大名化していった。内部争いが激しく、小弓公方を担いだのは分家の真里谷(まりやつ)家。真里谷は千葉県木更津市の地名である。結局、何だかんだあって、自立はできずに北条氏に仕えて、北条氏とともに滅んだ。

 いやあ関東に公方がもう一つあったのか、千葉にも武田がいたのか。全然知らなかったから、ここで書いてみたけど、よほど詳しい人か、地元の人しか知らないだろう。そして、知らなくても日本史全般を論じるのに何の差支えもない。でも、そういう複雑な歴史が各地にあった。栃木県や群馬県なんか、もっと複雑である。茨城北部の戦国大名から、秋田の大名として続いた佐竹氏(今の秋田県知事の家系)とか、南総里見八犬伝の里見氏など、名前は知ってるけど細かくは知らなかった一族の盛衰が先の本では細かく出ている。

 戦国大名も今では「郷土の観光資源」で、地元の大名に肩入れする。目指すのは昔は天下統一、今は「大河ドラマの主人公」である。でも実際の歴史には、天下統一なんか考えずに地域の独自勢力として生き残りを図った一族も多かった。結局関東は鎌倉公方と上杉氏、後北条氏、徳川将軍家となって、「地元の戦国大名」として熱く語れる人がいない。家康が大河ドラマになっても、喜ぶのは岡崎で東京じゃない。しかし、江戸開府以来400年、江戸=東京が事実上日本の首都である。

 江戸時代前半には、産業的にも文化的にも江戸は上方に及ばなかった。元禄文化は大坂が中心だった。そういう「常識」を東京人も持っていて、関東は遅れていたと思い込んでいる。でも、それでは江戸に幕府が置かれて250年近く平和が保たれた意味がよく判らない。「周縁から歴史を見る」も大事だけど、肝心の「中央」の構造を無視しては無意味だ。鎌倉以来、畿内と関東の二本立て、それが日本政治の最大の特徴である。関東地方の歴史を知らなくては歴史の見方が偏る。

 北条氏の統治構造がそっくり徳川に引き継がれたので、案外古文書が残された。江戸時代に有力大名がいないから、転封・改易で大名家が変わることもない。在地領主が帰農して、有力な一族として村で重きを置かれて今に続いた例も多い。北条氏の統治の研究も進んでいる。秀吉が攻めてきたときは、まさに「本土決戦」間近の戦時中である。お国のために皆頑張れといった発想は、どうも戦国大名から出てきたらしい。皆が悩まされた荘園制の複雑な制度、中世の荘園公領制は戦国大名によって完全に否定され、丸ごと領主の権力が行き届く新しいシステムが作られた。百年続いた陰惨な殺し合いを経て、新しい統一権力が生まれてきた。その始まりと終わりは関東地方だった。
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ロシア映画「ラブレス」、愛の不在

2018年04月21日 22時53分08秒 |  〃  (新作外国映画)
 ロシアのアンドレイ・ズビャギンツェフ監督(1964~)の映画「ラブレス」が公開されている。2017年のカンヌ映画祭で審査員賞を獲得している。それだけの力作に間違いないけれど、あまりにも暗い画面の連続で「愛の不在」を描いて、見るのが辛くなるほどだ。カンヌのコンペ部門に出るぐらいの映画だから、エンタメ性がなくてもいいんだけど、アントニオーニの「愛の不毛」を超えて現代は「愛の不在」なのかと暗然とする映画ではある。

 ズビャギンツェフ監督は2003年の「父、帰る」や2014年の「裁かれるは善人のみ」など、内容は暗いけど重量感のある映画を作ってきた。国際的な評価も高い。しかし、プーチン政権下のロシアを象徴するかのような、暗雲が頭上に立ちこめる圧迫感がすごい。今回の映画もある夫婦がそれぞれ違うパートナーを作って、離婚間近でひたすらケンカをしている。見ている方が鬱陶しくなる。12歳の男の子がいるんだけど、どっちも引き取りたくないらしい。そんな事情を知らされて、子どもはとてもつらそうな顔をしている。

 その子アレクセイがある日、行方不明になる。父の方は妻に出ていけと言われて、妊娠中の新しい愛人の方に行っていた。母の方も愛人と会っていて夜も遅いから、子どもは寝ていて朝は一人で学校へ行ってると思い込んでいた。そうしたら担任の先生から、二日間登校してないと電話がある。警察に連絡するが、どうせ家出だろうと言われ、事件がいっぱいだからと後回しにされる。そして、子ども探しのボランティア組織に頼んだらと言われる。

 この団体は実際に似たようなものがあるらしいが、実に水際立った実行力に驚く。あっという間に多数のボランティアが集まり、組織的に動いてゆく。行方不明児童探しのマニュアルとして使えるんじゃないか的レベルである。ただ一人の肉親である母方の祖母をまず訪ねるが、もともとうまく行ってなかったという話が裏付けられるだけ。この親にしてこの子ありという言葉を思い出す。子どものただ一人の友人から、「基地」の話を聞きだす。(パソコンを調べてメールにあったらしい。)そこは森の中の廃墟のホテルで、ここがまた映画のテーマを示すような荒廃ぶりである。

 現実世界で起きているんだから、家出か事故か犯罪か、何らかの合理的結末があるはずだが、この映画では明示的な結果は示されないまま時間が経つ。オバマの選挙ニュースが出てくるので、2012年秋のことである。ロシアではもう雪が降り始めている。この監督は、今まで荒涼たる風景の映画が多かったけど、今回はモスクワ近郊でロケされている。都市近郊の荒廃が際立っている。数年後、ウクライナ内戦をテレビがロシア寄りで伝えている中、それぞれは新しいパートナーと暮らしている。子どもは見つかっていない。暗澹たる力作である。
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「チャペック兄弟と子どもの世界」展を見る

2018年04月21日 21時20分32秒 | アート
 渋谷区立松涛美術館で「チャペック兄弟と子どもの世界」展が開かれている。(5.27まで)。金曜日は夜8時までやってるので、シネマヴェーラ渋谷で見てない映画「完全な遊戯」を見る前に寄って行くことにした。チャペック兄弟というのは、20世紀前半のチェコの作家、画家である。弟のカレル・チャペックの本を最近いっぱい読んで記事にしたから覚えている人もいるだろう。兄のヨゼフ・チャペックは画家で、展覧会は主にヨゼフの作品を展示している。
 
 松涛美術館はあまり大きなところじゃないけど、チャペック兄弟展にはふさわしい。子どもや田舎の生活、児童書の挿画など、並んでいるのヨゼフの絵を見ていると、心がほのぼのとしてくる。初期は明らかにキュビズムの影響を受けているけど、だんだんナイーヴ・アートに近い作品が多くなる。子どもを主なテーマにしていることも理由だろう。ヨゼフは「ファイン・アート」(芸術絵画)とナイーヴ派や複製芸術(本や新聞の挿絵など)は同等の価値を持つと考えていた。

 カレル・チャペックは絵はあまり書いてないけど、写真に興味を持って犬や猫を撮影した。それが「ダーシェンカ」などのステキな本になっている。日本でも何種か本が出ているが、世界中でダーシェンカの本が出ている。いくつかは展示されている。彼が撮った犬や猫の写真も展示されている。まあ、本で見たのと同じだけど。それよりカメラが展示されていたのが貴重。それで愛犬のダーシェンカを撮ったのかと思うと感慨がある。

 また戯曲「ロボット」が日本で「人造人間」として上演されたときのポスターも出ている。(5.8まで。)1924年に築地小劇場で上演されたのである。演出は土方与志で、ドイツにいた時に見たことがあったらしい。このポスターは日本にあるものではなく、誰かがチャペックに送ったものが保存されていたのである。上演日なども全部漢数字で書いてあるので、チャペックは何も読めなかっただろう。しかし数奇なる旅路の末に里帰りしたポスターは、感動的だ。

 松涛美術館では数年前に「カレル・ゼマン展」を見た。チェコのアニメ作家で、夢見る子どもの心を生涯持ち続けた人だった。東急デパート本店のBunkamuraのところをずっと坂を登ってゆく。案内表示が道にあるので、しばらく道沿いに歩いていくと右側に白井晟一設計の建物が出てくる。60歳以上シニア割引があるのも良かった。(渋谷区民は無料というのもすごいが、そういえば僕は渋谷区民を一人も知らない。)2階では舞台美術のデザインの前だけ写真が撮れる。ダーシェンカのクリアファイルを売ってたんで欲しかったけど、グッと我慢して帰ることにした。
  
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北条vs上杉55年戦争-戦国時代の関東③

2018年04月19日 22時53分11秒 |  〃 (歴史・地理)
 関東地方の戦国時代に関しては、その名の通りの本がある。黒田基樹「関東戦国史」(角川ソフィア文庫)である。気づいてない人も多いと思うけど、角川ソフィア文庫は最近中世史の研究書をいっぱい文庫化している。原著は2011年に出たが、副題が「北条vs上杉55年戦争の真実」である。戦史だけでなく、幅広く社会の動きにも触れており、この一冊で大体判る。

 北条氏の登場は前回書いたが、じゃあ上杉氏って何だろう。上杉と言えば、誰だって上杉謙信が思い浮かぶ。次が上杉景勝、そして江戸後期の上杉鷹山になるだろう。大名は滅びたら忘れられるので、明治まで続いた金沢の前田、仙台の伊達、鹿児島の島津…なんかの知名度が高い。上杉氏も歴史の荒波をしのいで山形の米沢で続くけど、もとは関東の一族である。

 そもそもは京都の貴族で、藤原氏(北家勧修寺流)。鎌倉幕府の6代将軍に皇族・宗尊親王が選ばれたとき、藤原重房が一緒に下向してきて武士化した。この重房が丹波の上杉荘(現・京都府綾部市)を領地としたため、上杉氏を名乗るようになった。関東で有力者と認められ、源氏一門の有力者足利氏と縁戚関係を結んだ。足利尊氏の生母は上杉氏である。室町時代の関東では、代々鎌倉公方を補佐する関東管領に任じられた。また、相模・武蔵・上野・越後などの守護に任じられた。(現在の神奈川・東京・埼玉・群馬・新潟。)

 「55年戦争」と言うのは、伊勢氏が北条を名乗り本格的に関東侵攻を開始した1523年から、上杉謙信が1578年に没して事実上関東から手を引いた時までを指している。関東は前に見たように、「享徳の乱」(1454年)から(あるいはその前からとも言えるが)長い長い戦乱の時代が続いた。そんな中でも、メイン・イヴェントとなったのが「北条・上杉戦争」である。伊勢氏が北条を名乗るのも、元は伊豆から攻めてきた「侵略者」だという印象を薄めるために、鎌倉幕府の執権・北条氏を名乗ったわけである。(やがて古河公方に認めさせて、「関東の副将軍」を自負する。)

 この長い戦争をいちいち細かく書いてるわけにはいかない。一応簡単に書くと、最初は上杉氏一族どうしの内紛も多かったけど、次第に北条氏が相模を支配するようになる。上杉氏もまとまり古河公方も加わって、1546年河越(現在の川越)の戦いで決戦が行われた。ここで関東南部を支配した扇谷上杉氏が滅亡した。ついで北条氏は上野(こうづけ・群馬県)に勢力を伸ばし、上杉本家にあたる山内上杉氏を追い詰めてゆく。1552年にはついに上杉憲政が関東を追われ、越後を事実上支配していた長尾景虎を頼って越後に落ちていった。

 この長尾景虎こそが上杉謙信である。(謙信は出家後の法名。)長尾氏は越後の守護代を務める家だが、景虎はその庶流の一族から出てほぼ越後を統一していった。1561年に憲正は景虎を養子とし、正式に「上杉姓」と「関東管領職」を譲った。関東の副将軍が二人いてはおかしいから、この後両者の長い戦いが始まる。1560年についに謙信は越境して上野に攻め込みほぼ制圧する。1561年になると武蔵から相模へと兵を進め、鎌倉を押さえ小田原を包囲した。1529年に起こったオスマン帝国のウィーン包囲を思い起こさせる。
(上杉謙信)
 これは成功しなかったが、謙信は同時期に武田信玄とも戦っている。5回に及ぶ川中島の戦いは、1553年から64年にかけて行われた。当時は武田・今川・北条が三国同盟を結んでいた。1560年の桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、それが謙信の関東出兵をもたらした。ところが、1568年に信玄は駿河に攻め込み今川氏を事実上滅ぼした。同盟関係を結ぶ北条氏は激しく反発し、武田氏と断交、今度は上杉氏との同盟を求めた。その交渉の様子は興味深いが、今までどっちかについて戦っていた各地の一族は猛反発する。1569年に「越相同盟」が結ばれたが、なんだか「独ソ不可侵条約」みたいだ。これはまた壊れたりいろいろあるんだけど、もういいだろう。結局、謙信の死(1578年)以後は上杉氏の家督争いもあって、関東出兵は無くなる。
 
 これで事実上、北条氏が関東の覇権を握ったといってよい。しかし、それでも大勢力に従わない一派もある。常陸北部の佐竹氏、安房の里見氏などがそれ。米ソ陣営と距離を置く「非同盟諸国」という感じ。それにしても、一回読んだだけでは覚えられないほど多くの一族が出てきて、滅んだかと思うと再興され再び戦が始まったり…。「戦国ターミネーター」である。支配者と言っても、この段階では村を完全に押さえているわけではなく、在地領主(国人とか国衆と言われる)の力が強かった。大勢力に呑み込まれた勢力もあるが、緩衝地帯だった上野(群馬県)では、北条が強ければ従うが上杉謙信が攻めて来れば上杉方になる。武田や織田の場合も同様。重要地点が押さえられるとガラッと勢力が変わる「戦国ドミノ」で小勢力は生き抜いたのである。
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伊勢宗瑞を知ってるか-戦国時代の関東②

2018年04月18日 23時04分54秒 |  〃 (歴史・地理)
 歴史研究も時代とともに進んでゆき、教科書の記述もだんだん変わってゆく。この間もテレビで「教科書はこう変わった」的番組をやってたけど、一応知ってることばかりだったので何だか安心した。昔の教科書に出てた肖像はどんどん否定され、聖徳太子も足利尊氏も違うとされ、国宝の藤原隆信作とされる源頼朝や平重盛像も作者も人物も全然違うという説が強い。

 4月18日の朝日新聞「経済気象台」というコラムに「日本近代化の立役者」という記事が載っていた。明治150年に際して、目先の利益ではなく社会貢献を重視した渋沢栄一に学ぼうとある。その趣旨は判るけれど、その中で「江戸時代の士農工商の身分制度」と書いている。この「士農工商」はもともと中国の言葉で、江戸時代の日本ではそういう制度はなかった。身分は「武士・百姓・町人」に別れ、身分外のアウトカーストとして被差別民が存在した。このコラムは「第一線で活躍している経済人・学者」が執筆しているから、学校で日本史を学んだままなんだろう。

 人物の扱いも大きく変わる。「聖徳太子」という言葉も使われなくなってきた。「厩戸皇子」(うまやどのみこ)という人物はいたが、さまざまな伝説的出来事は後に作られていったものだと考えるのである。1999年の太山誠一氏の「<聖徳太子>の誕生」以来、論争が続いているが、日本書紀の記述が粉飾されているのは大体認めるだろう。推古天皇の皇太子になったというが、「天皇」じゃない時代に「皇太子」もないだろう。また、江戸時代の浮世絵師で東海道五十三次を描いた「安藤広重」は、今では「歌川広重」である。若い人はその人名しか知らないはずである。

 続いて「伊勢宗瑞」(いせ・そうずい)と言われて何者か判るかどうか? これは日本史の新動向に付いて行ってるかの試金石かもしれない。本名で言えば「伊勢新九郎盛時」になる。この人は「北条早雲」の実名である。戦国大名の北条氏(後北条氏)が北条と名乗ったのは1523年からで、2代目の氏綱の時代。宗瑞は生涯、伊勢氏を名乗っていたし、伊豆の韮山を本拠地としていた。小田原を本拠地としたのも氏綱からである。まあ、北条氏も早雲を初代としたから、北条早雲と呼んでも間違いとも言えない。判りやすいからそれでいいという考えもあるだろう。
(伊勢宗瑞=北条早雲像) 
 昔は北条早雲は「一介の素浪人」という説もあった。いつの間にか今川氏の食客みたいになって、隣国伊豆を経略したという小説を読んだような気がする。今じゃそれは全く否定されていて、室町幕府で政所執事を務める伊勢氏出身とされる。幕府中枢の事務官僚を代々務める一族で、その傍流の備中伊勢氏の出である。父盛定は足利義政の側近で、伊勢氏当主の娘と結婚して盛時が生まれた。素浪人どころか、室町幕府の有力者だったのである。

 盛時の姉妹(どっちか不明)は駿河の守護大名今川氏に嫁いでいた。今川氏も幕府内で重きをなす一族で、応仁の乱で当主今川義忠も上京していたから接点があったのだろう。家格的には同等で、正室と思われているが、義忠は1476年に戦死してしまった。二人の間の子は幼く、家内に家督争いが起こり盛時も下向して調停したとされる。しかし、甥の氏親が大きくなってもなかなか正式の家督を譲られないために、1487年に再度駿河に赴いて反対勢力を打倒した。その後、駿河に城を与えられ、今川氏の家臣となって武士化した。

 そんな伊勢盛時がどうして伊豆に攻め入って戦国大名になって行ったのか。昔は知略を尽くして早雲が成り上がったと言われたものだが、これも最近は中央政治との関連が指摘されている。前回書いたように、関東を治める鎌倉公方は「享徳の乱」をきっかけに分裂し、鎌倉公方・足利成氏は本拠を移して古河公方と呼ばれた。一方、幕府は将軍の異父兄、足利政知(まさとも)を堀越公方として送り込んだが、ついに政知は鎌倉に入れず、20年以上戦って講和する。堀越公方の扱いが難問となったけど、伊豆だけの領主権を認めることで妥協が成立した。
(伝堀越公方跡地)
 政知が1491年に死去した後に家督争いが起こった。正室出生の長男は京で僧になっていたが、次男は母とともに庶子の兄・茶々丸によって殺害されたのである。一方、京都では1493年に将軍・義材と執権・細川政元の関係が悪化して、政元や8代将軍義政の妻・日野富子がクーデタを起こし将軍を廃した(明応の政変)。後継将軍には京都で僧になっていた政知の子を還俗させて就任させた(後の義澄)。新将軍にとっては、茶々丸は生母の殺害犯である。そこで伊豆近隣に城を持つ伊勢盛時に討伐を命じたとされる。中央政界の変動と密接に連動した事件だったのである。

 今の考え方では、中央も関東も「明応の政変」から戦国時代に入ったというのが定説だと思う。関東でも戦国の主役、北条氏が事実上歴史の登場してきたということが大きい。なお、軍記ものでは茶々丸はすぐに自害したとされるが、実際は伊豆南部に逃亡して数年間抵抗したという。1498年に「明応の大地震」が伊豆に大被害を与え、茶々丸も戦闘力を失ったときに盛時が攻め入ったとされる。この間、小田原を攻略し、相模全域に勢力をのばすわけだが、それは次の話。
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戦国は関東から始まった?-戦国時代の関東①

2018年04月17日 23時22分36秒 |  〃 (歴史・地理)
 関東地方の中世史をもっと知りたいなと前から思っていた。この前古河公方公園に花桃を見に行った。古河公方の名前ぐらい知ってるけど、細かいことはよく知らない。信長や秀吉の戦いはいっぱい知っているのに、地元の関東地方を知らない。これは関東の歴史ファンの多くに共通するだろう。そこで買ってあった本をこの機会に読んでみようじゃないか。

 まずは峰岸純夫享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』(講談社選書メチエ、2017)を読んでみた。この本は中世史の大家、峰岸純夫(1932~)さんの「最後の仕事」(あとがきにそう書いてある)で、85歳にして「年来の宿願」の本書を著したのである。先に取り上げた呉座勇一氏のベストセラー「応仁の乱」の「関東への無関心」にガッカリして、それもあってこの本を書いたという。10月に出て、11月にはもう3刷とあるからけっこう売れている。

 と言われても、享徳(きょうとく)の乱って何だ?という人が多いだろう。そもそも名前さえ付いてなかった大乱に、「享徳の乱」と名を付けたのが若き日の峰岸氏なのである。今では高校日本史Bの教科書にも載っているというが、よく判らない人が多いだろう。(漢字変換も一発ではできない。)しかし、著者によれば、享徳の乱をもって関東から戦国時代が始まったのであり、中央の応仁の乱も関東の争乱がもとになって波及したものだとある。

 そこまで言えるかはともかく、それだけの重大な意味を持つ大戦乱を肝心の関東の人がほとんど忘れてる。何故だろうかと言うと、「歴史の上書き保存現象」だろう。歴史に大きな変化が起きると、勝った側の歴史は伝わって、負けた側の存在は記憶が上書きされて忘れられる。関東の戦国時代では、多くの戦乱を経て北条氏がほぼ統一を果たした。北条氏も豊臣秀吉の全国統一に屈して消え去った。その後は徳川家の支配下になったから、2回上書きされ以前の記憶が薄れてしまう。

 享徳の乱は、1454年に始まり1482年まで続いた。30年はないけど、応仁・文明の乱より長い。中央ではその間年号がいくつも代わったけど、中央の室町幕府と関東の古河公方は対立関係にあり、関東ではずっと享徳の元号を使い続けた。長い戦乱の間、関東ではずっと享徳だったのである。乱のきっかけは、鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺したことである。こういうのを峰岸氏は「上剋下」と呼んでいる。下が上を倒すと「下剋上」だけど、そうなりそうな情勢を察知して主君の側が先んじて下を倒す。そんなケースも多かった。

 室町時代の政治ステムでは、京都に将軍と補佐役の管領(かんれい)がいて、関東には鎌倉府が置かれて「鎌倉公方」と補佐役の「関東管領」がいた。武家政権のふるさと鎌倉は独自の政治的重みを持っていた。初代鎌倉公方に尊氏の子、足利基氏が就任し、以後その子孫が継いだ。鎌倉公方は将軍に対抗心を持ち、波風が絶えなかった。6代将軍義教の時代には、4代鎌倉公方持氏と対立が激しく、1438年の永享の乱で鎌倉府は滅ぼされてしまった。1439年に持氏が自害し、翌1440年に遺児を押し立てて茨城県西部の結城氏が決起したが敗北した(結城合戦)。

 6代将軍義教も1441年の嘉吉の変で殺された。8代将軍義政の時代には、もう一人残っていた持氏の遺児、足利成氏を公方にして鎌倉府が再興された。だが父を殺された恨みが深かったらしく、成氏はことごとく幕府に反抗的で、関東管領を務める上杉氏とは対立が絶えない。関東管領は幕府中央と鎌倉公方をつなぐのが職責だから、代々務める上杉氏は公方と関係が悪化する。その結果、1454年12月27日に成氏が管領上杉憲忠を殺すまでに至り、関東を二分する大争乱が始まった。成氏は本拠の鎌倉が駿河の今川氏に占領されて、下総古河(現・茨城県)に移った。それを古河公方と呼ぶ。
(古河公方館跡)
 この戦乱により、関東各地で一族の争いが起こった。1458年に、将軍義政はついに古河公方を完全に否定して、異母兄の足利政知を新公方として送り込んだ。しかし、政知は鎌倉へ入れず伊豆の堀越(ほりごえ)に館を築き「堀越公方」と呼ばれた。その後の争いを細かく見ていくと、いくらあっても終わらない。結局30年近く戦って、おおよそ利根川をはさんで、東が古河公方、西が上杉氏という勢力に落ち着いた。(この頃、利根川は東京湾に流れ込んでいた。)中央の応仁の乱も終わった後の、1482年になってようやく和平が結ばれることになる。

 その後、北条氏が出てきて、古河公方を利用しながら上杉氏の領国をだんだん侵食していく。そもそも、「北条氏」と「上杉氏」って言っても、よく判ってない人が多いだろう。上杉氏にもいろいろあり、主流は山内(やまのうち)で、他に扇谷(おうぎがやつ)とか犬懸(いぬがけ)などがある。全部鎌倉の地名。扇谷上杉氏の家宰だったのが、江戸城を築いた太田道灌である。

 ここまでで話が長くなったけど、享徳の乱以後関東は戦乱が相次ぐようになる。じゃあ、関東から戦国時代が始まったのか? 今では中央でも応仁の乱ではなく、1493年の「明応の政変」から戦国時代と呼ぶことが多い。戦国時代とは何か。戦争が相次いだといえばその通りだけど、要するに「戦国大名」の時代が戦国時代である。室町時代は「守護大名」である。守護大名やあるいは下克上した守護代クラスが戦国大名化してゆく。守護領国制「職(しき)」の体系から、領国を一円知行する体制に移行していったのが戦国時代。

 難しい話は今は説明しないけど、この段階の古河公方や上杉氏は到底まだ戦国大名とは言えない。だけど、峰岸氏は領地がまとまった支配になりつつあり、「戦国領主」と言えるのではないかとする。つまり戦国大名の前段階の「戦国領主」が関東の享徳の乱から出てきた。それが関東中世史の意義だということになる。足利成氏は1497年に亡くなるまでずっと公方を続けたが、一枚の肖像も伝わらないという。その後の戦国大名に比べると知名度が低いののやむを得ないか。そんな享徳の乱という大戦争が関東にあったわけである。判りやすくて面白い名著。
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戦争をする国はウソをつく

2018年04月14日 23時02分46秒 | 政治
 映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を見てよく判るのは、戦争をしている国は国民に真実を知らせないということだ。ケネディ政権、ジョンソン政権で国防長官を務めたロバート・マクナマラは、当時では珍しく戦前にハーバードでMBAを取得した経営者だった。フォード自動車の社長から国防長官に抜てきされたが、このインテリ経営者も国民向けにはウソを語った。(後に記録映画「フォッグ・オブ・ウォー」が作られた。「ペンタゴン・ペーパーズ」のマクナマラは本人そっくりだった。)

 ある意味、それは理解できないこともない。誘拐事件の場合、マスコミは事件発生を知っても、報道を控える。警察と報道協定を結び、警察が事実経過を提供する代わりにマスコミは家族や関係者への取材を控える。事件解決(または死体発見とか、余りにも長い時間が経ったなどの事態)まで報道しない。戦争をしている国では、戦場に滞在する兵士たちは、ある意味で「敵地に捕らわれた誘拐被害者」のようなものだ。マスコミが安易に作戦を報道したり、戦争目的に疑問をはさんだりすると、兵士を冒涜すると批判されかねない。

 そうやって、戦時中においては報道の中身が批判性を失ってしまう。権力者も戦争中は自分を強くて優れたリーダーだと強調する。戦争なんだから誰も死なないというわけにはいかない。自国の兵士を危険にさらすときに、戦争はうまく行ってないとか、自分は本当は戦争に反対だとかは言いにくい。政治家は、大体「権力欲」が強いから、報道の批判が少なくなると、自分でも自分が「戦争を決断した偉大な政治家」と信じてしまいがちだ。

 政治家の本当の姿は小心だったり、疑心暗鬼にとらわれたりしている。スキャンダルを抱えていたり、側近や友人、時には占い師や宗教家などに頼り切ったりしている。戦争を始めてしまうと、そのような人間の弱い部分が拡大されてゆき、ますます「ウソ」が政権にはびこる。そんな独裁的なリーダーを今まで何人も見てきた気がする。直言できる部下は遠ざけられ、イエスマンばかりに取り巻かれてしまう。もうウソを通すしかない事態になってしまう。

 今までの話は一般論だけど、米英仏によるシリアのアサド政権へのミサイル攻撃という事態を見ても同じように感じる。シリア攻撃を主導したトランプ大統領は、もう平気でウソをつくというか、自分の都合のいいことしか見えない特殊な思考をする人だろう。主観的にはウソじゃないのかもしれないけど、事実に基づいて考えることをしない。今回だって、必ずしも化学兵器のアサド政権使用が証明されているとは思えない。

 一方でシリアを擁護するロシアのプーチン大統領も、チェチェンやウクライナに介入しているし、シリアにも軍を派遣している「戦争をする国」だ。大統領への報道の自由はないというのに近い。先に行われた大統領選も、紛れもない不正もあったし、それ以上に出たい人が出られないものだった。イギリスでのロシア人元スパイ父娘暗殺未遂事件、あるいはオリンピックの組織的ドーピング問題への対応を見ても、トランプが信用できないのと同様にプーチンも信用できないとしか思えない。同じことはシリアのアサド政権や反体制派にも言える。

 安倍政権の最近の数多くの問題も、根底においては同様なものじゃないか。かつて小泉政権当時に、イラク特措法を作って「イラクの非戦闘地域」に自衛隊を派遣した。実際には米軍を運んだりもしたし、自衛隊派遣地帯にも危険なときがあった。しかし、そこは「非戦闘地域」なのだから、「戦闘行為」は起こらない。よって、「戦闘」と書かれた日報は隠されなければならない。このような「日報隠し」は南スーダンでも繰りかえされる。日本を「戦争のできる国」に変えようとする中で自民党政権の隠ぺい体質が形成されていった

 森友問題、加計問題、自衛隊のイラク、南スーダン日報問題、あるいは厚労省の「働き方改革」データ偽装問題…。一つ一つがそれぞれ別問題なのではなく、それは「日本を戦争のできる国」に変えてしまおうという安倍路線の中で必然的に起こってきた問題ではないだろうか。強大な権力を誇る宰相、私的会合で批判をした官僚をためらいなく更迭する政権。そんな政権にあっては、ウソがはびこるのも当然だろう。そして、今後も日本のあり方を根本的が変わらない限り、似たようなことが起こり続けるんじゃないかと思う。
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映画「ペンタゴン・ペイパーズ 最高機密文書」

2018年04月13日 23時48分28秒 |  〃  (新作外国映画)
 映画「ペンタゴン・ペイパーズ 最高機密文書」(スティーヴン・スピルバーグ監督)を見たのは「BPM」より前なんだけど、やっぱり書いておこうかな。これは1971年にアメリカ政府と新聞との間に起こった報道をめぐる争いを描いた映画である。今年のアカデミー賞で作品賞、主演女優賞にノミネートされた。主演のメリル・ストリープにとっては、18回目のノミネート。(うち4回は助演、他は主演で、受賞は主演2回、助演1回。)確かにそれだけの力作に間違いない。

ペンタゴン・ペーパーズ」というのは、アメリカ国防総省(建物の形が五角形なので、「ペンタゴン」と通称される)がヴェトナム戦争に関して1971年にまとめた報告書のことである。それによると、アメリカが戦争を拡大させたきっかけのトンキン湾事件(1965)がアメリカの工作によるものだとか、1963年に南ヴェトナムのゴ・ジン・ジエム政権打倒のクーデタをアメリカが事前に知っていたことなど、さまざまな秘密情報が書かれていた。大統領は民主党、共和党を問わず、戦争がうまく行ってないことを知りながら、それを国民に隠して若者たちを戦場に送り続けていたのである。

 この文書は国家機密文書に指定されていたが、ニューヨーク・タイムズ、続いてワシントン・ポストが報じて大問題になった。この映画は後発のワシントン・ポストの内情を発行人(日本で言えば「社主」)のキャサリン・グラハム(1917~2001)に焦点を当てて描いている。ポストはちょうど株式を公開しようとしていた時期で、政府との大きな衝突は投資家に敬遠されるという危惧も強かった。またキャサリンは61年から68年まで国防長官を務めたロバート・マクナマラと家族ぐるみの交際を続ける関係だった。そんな中で、彼女はそのような選択をするのか。
 (キャサリン・グラハム)
 その様子をキャサリン役のメリル・ストリープが熱演している。とても見ごたえがあるけど、相方の編集主幹ベン・ブラッドリーをこれまたアカデミー賞主演男優賞2回受賞のトム・ハンクスがやってるわけで、二人の丁々発止が実に面白い。映画としてはそこが最大の見どころ。だけど、正直言えば全体としては「いかにも」の作りだ。いかにも、スピルバーグが監督して、メリル・ストリープとトム・ハンクスが主演したような映画で、見る前に想像した通りのデジャヴ(既視感)は否めない。

 スピルバーグはシナリオを読んで、今すぐ作るべき映画だと考えたという。その時は日本でも続けて公開される「レディ・プレイヤー1」製作中だった。しかし、かつて「ジュラシック・パーク」と「シンドラーのリスト」を並行して作った時のテクニックが役立ったという話。それはいいけど、やはり「あの頃は若かった」という感じはする。何年も待てないテーマというのは、明らかにトランプ政権を意識したものだろう。報道の価値を否定してはばからないような大統領に対して、「これが真のアメリカだ」というリベラル派の真骨頂である。

 映画はほとんどグラハム家と新聞上層部のドラマに絞られる。そこに焦点を当てて作っているから、最初に報道したニューヨークタイムズからすれば、自分たちの価値が貶められていると批判された。それはともかく、歴史的な展開を知ってる人には筋がわかる。(知らない人でも、ドラマトゥルギーの問題として展開が読める。)ほとんど新聞内部の話だから、カトリック教会のスキャンダルをスクープしたボストン・グローブ紙を描く「スポットライト」の深みには及ばない。2017年の映画なら、「スリー・ビルボード」や「シェイプ・オブ・ウォーター」の方が傑作だろう。

 だが、この映画では「報道の自由」は何よりも民主主義にとって大切なものだという確信が格調高く語られている。当たり前じゃないかと言いたいけど、残念ながらアメリカでも日本でも当たり前じゃなくなってしまった。だからラストの最高裁の判断を聞くと感動してしまう。ニクソン政権にあくまでも抵抗するというのは、トランプ政権には抵抗するという宣言でもある。だから、日本でも見る意味がある。いや、今生じている安倍政権の様子を見ると、見ないといけない映画である。

 ところで、この文書をリークしたのは、ダニエル・エルズバーグ(1931~)という人物だった。海兵隊に入り、その後国防総省でベトナム政策にも関わった。実際の戦争に関わった結果、反戦意識を強く持つようになったのである。そして報告書が闇に葬られることを座視できず、ニューヨークタイムズに持ち込んだ。スパイ防止法で起訴されたが、エルズバーグの精神科医からカルテを盗もうとした事件が発覚。それがウォーターゲート事件を起こしたグループだったので、政府側の不正ということで公訴棄却になった。(つまり裁判自体が不正として起訴が無効になった。)僕はこのペンタゴン・ペーパーズの事件をとてもよく覚えている。
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