見田宗介著作集を読んだまとめ2回目。80年代半ばに書かれた「論壇時評」を読み直すと、一番最初に大江健三郎の反核論を「良心的に暗い文章」と評していたのが印象的だった。そのような文章への「共感と違和」は僕も共有出来たからだ。もっとも大江健三郎の文体は特徴的で、もともと難解で知られている。そのような大江個人の特性もあるかと思うが、ここで指摘されていたことは「戦後」の「進歩的文化人」の言説が時代とズレつつあったということだろう。
(見田宗介氏)
ウィキペディアを見てみると、21世紀になって対談で語られた言葉として「(論壇時評執筆時は)『資本主義か共産主義か』というような20世紀の冷戦的思考の枠組みから自由にならなければ、という予感が強くありました。」という言葉が引用されている。「論壇時評」が始まった85年は、「ソ連」でゴルバチョフ書記長が誕生し「ペレストロイカ」が始まった年だった。そして、89年には「冷戦終結」が宣言され、90年には「ドイツ統一」、91年末には「ソ連解体」へと時代は大きく動いた。まさにその激動を先取りするかのように、「冷戦的思考」からの解放を目論んでいたのである。
そして、確かに90年代初頭には、日本でも冷戦思考にとらわれない政治、思想、芸術などの新しい試みがあったと思う。日本でも従来と違う「冷戦後時代」が構想できたかに一瞬見えた。しかし、90年代後半から様々な分野(特に歴史認識やジェンダー認識で)「バックラッシュ」が激化して言論空間が狭められていった。また「バブル崩壊」にともなって、70年代、80年代の文化を支えた基盤も失われた。21世紀になって、2001年の「同時多発テロ」によって世界は変わり、そして2022年の「ウクライナ戦争」によって完全に「新しい冷戦」が始まったかに見える。
今になって思い当たるのは、世界的に「冷戦終結」がうたわれ「平和の配当」などと言っていた時代でも、実は東アジアでは冷戦構造が残り続けていたという事実である。当時多くの人は東アジアでも冷戦構造は変わりつつあると期待を込めて思っていた。朝鮮半島では南北双方が国連に加盟(1991年)、2000年には韓国の金大中大統領と「北朝鮮」の金正日国防委員長が初の「南北首脳会談」を行った。中国と台湾の関係でも、70年代以後は経済交流が進み、オリンピックには「チャイニーズ・タイペイ」の名で台湾選手も参加するのが通例となった。経済発展とともに、中国もいずれは政治的民主化が進むと思われていた時代だった。
(東アジアの冷戦構造)
今ではそのような楽観的な見方に与する人は少ないだろう。そういう世界全体の構造の中で、改めて「良心的な暗さ」は何を意味していたかを考え直す必要がある。日本は戦前には「大日本帝国」として近隣諸国を侵略した歴史を持つ。その「加害者責任」が語られるようになったのは、70年代後半以降のことだろう。そして80年代、90年代にはアジア諸国民から補償を求める訴訟も相次いだ。しかし、「保守」の側には受け入れられず、逆に苛烈な反動が起きた。
一方で、戦後日本は戦勝者のアメリカと安保条約を結び、「アメリカの核の傘」のもとにある。日本で「反核兵器」を語る際に、それほど明快にスパッと断言出来る方がおかしい。戦後日本が背負った幾重にも重なった「ねじれ」の中で、「良心的」であればあるほど「晦渋さ」を避けられない。自国の歴史の中の「加害責任」を認められない国は多い。アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、トルコ等々自国内で問題を抱え続けている。良心的であれば暗くならざるを得ない構造の中でわれわれは生きている。
そう理解するときに、かつての見田氏の目論んだ「論壇の見取り図」は大きな変更が必要だと思う。『 〈深い明るさ〉を求めて』で触れたが、見田氏は論壇各誌を4つの象限に区分けする。その時に「右下」にあったRは恐らく「右」を示し、文藝春秋、中央公論、諸君!(廃刊)などが示されていた。現在はそこにさらに「月刊HANADA」などが加わり、町中の書店を見るとここに分類された雑誌しか見ることが出来ない。岩波書店の『世界』は続いているけれど、よほど大きな書店に行かなければ置いてないだろう。
論壇は「オルタナティヴ」を求めるどころか、「右」の寡占状態になったのである。当時は論壇には「左」の人が多く、その「良心的な暗さ」を指摘する意味はあったと思う。しかし、歴史を先取りするならば、このような「右の寡占」を予測し、それをどう乗り越えるかを考える必要があったのである。これは見田氏だけでなく、自分自身も含めた苦い自省である。もちろん部分部分を取れば、世界も日本もいろいろ良くなったことも多い。しかし、今では「深い明るさ」を求めるなどという楽観的な見通しを持てるとは思えない。「良心的な暗さ」は日本を取り巻く構造的な苦悩がもたらしたものだった。
(見田宗介氏)
ウィキペディアを見てみると、21世紀になって対談で語られた言葉として「(論壇時評執筆時は)『資本主義か共産主義か』というような20世紀の冷戦的思考の枠組みから自由にならなければ、という予感が強くありました。」という言葉が引用されている。「論壇時評」が始まった85年は、「ソ連」でゴルバチョフ書記長が誕生し「ペレストロイカ」が始まった年だった。そして、89年には「冷戦終結」が宣言され、90年には「ドイツ統一」、91年末には「ソ連解体」へと時代は大きく動いた。まさにその激動を先取りするかのように、「冷戦的思考」からの解放を目論んでいたのである。
そして、確かに90年代初頭には、日本でも冷戦思考にとらわれない政治、思想、芸術などの新しい試みがあったと思う。日本でも従来と違う「冷戦後時代」が構想できたかに一瞬見えた。しかし、90年代後半から様々な分野(特に歴史認識やジェンダー認識で)「バックラッシュ」が激化して言論空間が狭められていった。また「バブル崩壊」にともなって、70年代、80年代の文化を支えた基盤も失われた。21世紀になって、2001年の「同時多発テロ」によって世界は変わり、そして2022年の「ウクライナ戦争」によって完全に「新しい冷戦」が始まったかに見える。
今になって思い当たるのは、世界的に「冷戦終結」がうたわれ「平和の配当」などと言っていた時代でも、実は東アジアでは冷戦構造が残り続けていたという事実である。当時多くの人は東アジアでも冷戦構造は変わりつつあると期待を込めて思っていた。朝鮮半島では南北双方が国連に加盟(1991年)、2000年には韓国の金大中大統領と「北朝鮮」の金正日国防委員長が初の「南北首脳会談」を行った。中国と台湾の関係でも、70年代以後は経済交流が進み、オリンピックには「チャイニーズ・タイペイ」の名で台湾選手も参加するのが通例となった。経済発展とともに、中国もいずれは政治的民主化が進むと思われていた時代だった。
(東アジアの冷戦構造)
今ではそのような楽観的な見方に与する人は少ないだろう。そういう世界全体の構造の中で、改めて「良心的な暗さ」は何を意味していたかを考え直す必要がある。日本は戦前には「大日本帝国」として近隣諸国を侵略した歴史を持つ。その「加害者責任」が語られるようになったのは、70年代後半以降のことだろう。そして80年代、90年代にはアジア諸国民から補償を求める訴訟も相次いだ。しかし、「保守」の側には受け入れられず、逆に苛烈な反動が起きた。
一方で、戦後日本は戦勝者のアメリカと安保条約を結び、「アメリカの核の傘」のもとにある。日本で「反核兵器」を語る際に、それほど明快にスパッと断言出来る方がおかしい。戦後日本が背負った幾重にも重なった「ねじれ」の中で、「良心的」であればあるほど「晦渋さ」を避けられない。自国の歴史の中の「加害責任」を認められない国は多い。アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、トルコ等々自国内で問題を抱え続けている。良心的であれば暗くならざるを得ない構造の中でわれわれは生きている。
そう理解するときに、かつての見田氏の目論んだ「論壇の見取り図」は大きな変更が必要だと思う。『 〈深い明るさ〉を求めて』で触れたが、見田氏は論壇各誌を4つの象限に区分けする。その時に「右下」にあったRは恐らく「右」を示し、文藝春秋、中央公論、諸君!(廃刊)などが示されていた。現在はそこにさらに「月刊HANADA」などが加わり、町中の書店を見るとここに分類された雑誌しか見ることが出来ない。岩波書店の『世界』は続いているけれど、よほど大きな書店に行かなければ置いてないだろう。
論壇は「オルタナティヴ」を求めるどころか、「右」の寡占状態になったのである。当時は論壇には「左」の人が多く、その「良心的な暗さ」を指摘する意味はあったと思う。しかし、歴史を先取りするならば、このような「右の寡占」を予測し、それをどう乗り越えるかを考える必要があったのである。これは見田氏だけでなく、自分自身も含めた苦い自省である。もちろん部分部分を取れば、世界も日本もいろいろ良くなったことも多い。しかし、今では「深い明るさ」を求めるなどという楽観的な見通しを持てるとは思えない。「良心的な暗さ」は日本を取り巻く構造的な苦悩がもたらしたものだった。