尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「良心的な暗さ」の構造ー見田宗介(真木悠介)著作集まとめ②

2023年07月31日 22時49分56秒 | 〃 (さまざまな本)
 見田宗介著作集を読んだまとめ2回目。80年代半ばに書かれた「論壇時評」を読み直すと、一番最初に大江健三郎の反核論を「良心的に暗い文章」と評していたのが印象的だった。そのような文章への「共感と違和」は僕も共有出来たからだ。もっとも大江健三郎の文体は特徴的で、もともと難解で知られている。そのような大江個人の特性もあるかと思うが、ここで指摘されていたことは「戦後」の「進歩的文化人」の言説が時代とズレつつあったということだろう。
(見田宗介氏)
 ウィキペディアを見てみると、21世紀になって対談で語られた言葉として「(論壇時評執筆時は)『資本主義か共産主義か』というような20世紀の冷戦的思考の枠組みから自由にならなければ、という予感が強くありました。」という言葉が引用されている。「論壇時評」が始まった85年は、「ソ連」でゴルバチョフ書記長が誕生し「ペレストロイカ」が始まった年だった。そして、89年には「冷戦終結」が宣言され、90年には「ドイツ統一」、91年末には「ソ連解体」へと時代は大きく動いた。まさにその激動を先取りするかのように、「冷戦的思考」からの解放を目論んでいたのである。

 そして、確かに90年代初頭には、日本でも冷戦思考にとらわれない政治、思想、芸術などの新しい試みがあったと思う。日本でも従来と違う「冷戦後時代」が構想できたかに一瞬見えた。しかし、90年代後半から様々な分野(特に歴史認識やジェンダー認識で)「バックラッシュ」が激化して言論空間が狭められていった。また「バブル崩壊」にともなって、70年代、80年代の文化を支えた基盤も失われた。21世紀になって、2001年の「同時多発テロ」によって世界は変わり、そして2022年の「ウクライナ戦争」によって完全に「新しい冷戦」が始まったかに見える。

 今になって思い当たるのは、世界的に「冷戦終結」がうたわれ「平和の配当」などと言っていた時代でも、実は東アジアでは冷戦構造が残り続けていたという事実である。当時多くの人は東アジアでも冷戦構造は変わりつつあると期待を込めて思っていた。朝鮮半島では南北双方が国連に加盟(1991年)、2000年には韓国の金大中大統領と「北朝鮮」の金正日国防委員長が初の「南北首脳会談」を行った。中国と台湾の関係でも、70年代以後は経済交流が進み、オリンピックには「チャイニーズ・タイペイ」の名で台湾選手も参加するのが通例となった。経済発展とともに、中国もいずれは政治的民主化が進むと思われていた時代だった。
(東アジアの冷戦構造) 
 今ではそのような楽観的な見方に与する人は少ないだろう。そういう世界全体の構造の中で、改めて「良心的な暗さ」は何を意味していたかを考え直す必要がある。日本は戦前には「大日本帝国」として近隣諸国を侵略した歴史を持つ。その「加害者責任」が語られるようになったのは、70年代後半以降のことだろう。そして80年代、90年代にはアジア諸国民から補償を求める訴訟も相次いだ。しかし、「保守」の側には受け入れられず、逆に苛烈な反動が起きた。

 一方で、戦後日本は戦勝者のアメリカと安保条約を結び、「アメリカの核の傘」のもとにある。日本で「反核兵器」を語る際に、それほど明快にスパッと断言出来る方がおかしい。戦後日本が背負った幾重にも重なった「ねじれ」の中で、「良心的」であればあるほど「晦渋さ」を避けられない。自国の歴史の中の「加害責任」を認められない国は多い。アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、トルコ等々自国内で問題を抱え続けている。良心的であれば暗くならざるを得ない構造の中でわれわれは生きている。

 そう理解するときに、かつての見田氏の目論んだ「論壇の見取り図」は大きな変更が必要だと思う。『 〈深い明るさ〉を求めて』で触れたが、見田氏は論壇各誌を4つの象限に区分けする。その時に「右下」にあったRは恐らく「右」を示し、文藝春秋、中央公論、諸君!(廃刊)などが示されていた。現在はそこにさらに「月刊HANADA」などが加わり、町中の書店を見るとここに分類された雑誌しか見ることが出来ない。岩波書店の『世界』は続いているけれど、よほど大きな書店に行かなければ置いてないだろう。

 論壇は「オルタナティヴ」を求めるどころか、「右」の寡占状態になったのである。当時は論壇には「左」の人が多く、その「良心的な暗さ」を指摘する意味はあったと思う。しかし、歴史を先取りするならば、このような「右の寡占」を予測し、それをどう乗り越えるかを考える必要があったのである。これは見田氏だけでなく、自分自身も含めた苦い自省である。もちろん部分部分を取れば、世界も日本もいろいろ良くなったことも多い。しかし、今では「深い明るさ」を求めるなどという楽観的な見通しを持てるとは思えない。「良心的な暗さ」は日本を取り巻く構造的な苦悩がもたらしたものだった。
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オルタナティヴの夢破れてー見田宗介(真木悠介)著作集まとめ①

2023年07月29日 22時34分52秒 | 〃 (さまざまな本)
 見田宗介さんが2022年4月1日に亡くなって、1年以上経った。僕は非常に大きな影響を受けてきたので、その時に追悼を書いた。(『見田宗介さんの逝去を悼んでー「解放」を求めた理論家として』)その後、毎月一冊をメドに著作集を読んできた。出たときに買ったまま読んでなかったのである。別名義の真木悠介著作集を含めて、全14冊を読み終わったので、そのまとめを書きたい。ほとんどの人はあまり関心がないだろうが、僕にとっては重要だ。少ないかもしれないが、強い関心を持っている人もいるだろう。見田(真木)氏の遺した業績をどう読むか、非常に難しい問題が突きつけられている。

 一言で言うと、著作集を全部読む意味はなかったと思う。「社会学」研究の初期著作は、面白さはあったとしても半世紀近い前の業績だ。現時点に響く部分が少ない。社会学の方法論的な著述は、自分にはほとんど意味がない。読む価値があるのは、「比較社会学」的な手法でなされた「人間解放の理論」、及び時事的な問題を含めたエッセイ的な文章だと思う。詩的な直感で書かれたような文章は今もなお大きな魅力を持っている。だけど、肝心の「解放理論」の方はどうだろうか。あまりにも楽観的に描かれてきたように僕には思われる。今では「見田理論には何が欠落していたか」という視角からの検討が必要だと僕は考えている。

 見田さんは1985年、1986年に朝日新聞の論壇時評を担当した。それがまとめられて、『白いお城と花咲く野原』にまとめられた。このときの論壇時評は多くの反響(あるいは毀誉褒貶というべきか)を呼び、現在の担当者である宇野重規氏も、最初の文章で見田氏の時評を読んで刺激を受けたと書いていた。驚くことに、当時は月2回も論壇時評が掲載されていたから、計48本の文章が新聞に掲載された。そのうちの40本が同書に収録されている。つまり8本は「時事的」との理由で収録されなかった。もっとも本人はさらに絞り込んで、16本だけで本にしたかったと述べている。この本は著作集は別にして、単著としては絶版になっていた。復刊を望むと書いたが、2022年に河出書房新社から刊行された。(本体価格2400円)。
(復刊された『白いお城と花咲く野原』)
 最初にこの本を読み直して、2回記事を書いた。それが 『「論壇時評」再読、35年目の諸行無常』『 〈深い明るさ〉を求めて』である。この本は今もなお非常に面白かったけど、ずいぶん予測(期待)が外れたこと、時代とともに考え方が変わったこともかなりある。例えば、ニューヨークでは猫に不妊手術をすると聞いて「背筋が凍る」と書いている。しかし、今ではペットに不妊手術を行うのは、むしろ飼い主のマナーだと思う人が多いと思う。先の記事にも書いたけれど、当時アンドレ・ゴルツという人が今後の技術発展で「一人当たり生涯労働は2万時間ほどで済むようになる。40年で割れば週10時間の労働で生きていける」と主張した。

 そこから「1日5時間、週2日働けばよくなる」と結論するのだが、そんな夢みたいなことが実現するわけないじゃないか。その計算が確かだとして、企業からすれば「週に10時間働かせて、2時間分の時間外手当を払う」社員をひとり雇えばよいという方向に向かうのは、簡単に予測出来る。人は何かを食べなければ生きていけないから、「モノ」の移動に関わる人間も必ず必要である。しかし、そのような労働力は交換可能な人材だから、「派遣社員」で対応する。「長時間労働の少数」と「非正規雇用の多数」に社会は分断される。これが世界各地の「先進国」で起こっている現実だと思う。

 そのような方向性を予測して、それをどう乗り越えてゆくか。それが見田さんの本には出て来ないと思うのである。むしろ「IT革命」が人類にもたらす「正の影響力」に期待する言論が見られる。そうなのかもしれないが、今を生きる人間としては「(SNSなどの)負の影響力」に目が向いてしまう。ウェブ空間は「公共財」になったというより、「相互監視空間」になったというべきなのではないか。何か間違ったこと、おかしなことを言っている人がいても、僕もそれを指摘せずにスルーするようになっている。初期の頃は指摘したこともあったが、ちゃんと受けとめて貰えないことが多くて面倒になったのである。

 いま思うと、見田さんが期待した「オルタナティヴ」の方向へ世界は変わらなかった。未だに多い旧体制を固守する「保守」、保守のもくろむ改憲を阻む議席の獲得で自己満足している「戦後左翼」、近代を乗り越えると称して軽さを称揚する「ポストモダン」、それらのいずれでもない「心のある道」を歩む「もう一つの別の方向性(オルタナティヴ)」を求めたのだろうが、それは日本社会の多数派にならなかったのである。真木悠介『気流の鳴る音』を読んでいたことは、深い意味で自分を支えてきたかもしれない。でも現実の仕事の中では、真木氏の「人間解放理論」が役だったのだろうか。

 日本社会が大きく変化していったのは、80年代半ばの中曽根政権だった。電電公社や国鉄の民営化など「組合つぶし」の民営化路線もそうだし、臨教審による教育改革(という名の新自由主義的教育行政)など、その後の日本社会を決定的に変えた方向性がまさに80年代半ばに行われたのである。その意味で、『白いお城と花咲く野原』に落ちている「現代の権力」への分析が必要だった。明らかに欠落があったことは否定出来ないと思う。
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『マレー蘭印紀行』ー金子光晴を読む②

2023年07月27日 23時08分47秒 | 本 (日本文学)
 金子光晴を読む2回目は『マレー蘭印紀行』(中公文庫)。1回目で書いたように、金子光晴は1928年から32年に掛けて、上海からシンガポール、パリ、ブリュッセルに至る5年に及ぶ大旅行を行った。そのことは前回書いた自伝的旅行記三部作で広く知られるようになった。つまり、同時代的にはほとんど知られなかったのである。その中で『マレー蘭印紀行』だけが1940年に出版されている。戦前に公刊されたために「時局」に配慮した表現も見られるが、素晴らしい文章で綴られた忘れがたい紀行だ。

 最初に題名について解説しておきたい。「マレー」はもちろんマレー半島のことだが、当時はイギリス領マラヤだった。1957年に独立し、1963年にイギリス領のボルネオ島北部などと連合してマレーシアとなった。「蘭印」は「和蘭陀(オランダ)領東印度」の略で、現在のインドネシアである。金子光晴はマレー半島南部のジョホール州、首都のクアラルンプール(文中ではコーランプルと表記)などを訪れた。その後、「蘭印」に渡って、ジャワ島やスマトラ島も訪れたが、この本ではマレーが中心になっている。「蘭印」に関しては、別にまた本を書きたいと書いているが、結局書かれずに終わった。

 もともとは上海からパリへ渡る途中下船である。お金がないから最終目的地まで買えない。金子はあちこちの日本人を訪ねて、絵を描いて買って貰おうと考えた。しかし、帰途にもまたマレーを訪れているから、熱帯の風土が気に入ったのである。お金もないから、貧困の現地人の中に混じって交流した。そこで「植民地」の実態をつぶさに見た。また、当時はマレーに日本人も多くいたのである。ひとつは当時マレー半島に進出してた日本企業(ゴム農園や鉱山)関係者であり、もう一つは海外に渡った「からゆきさん」、つまり高齢になった元日本人娼婦である。

 「からゆきさん」については、70年代に山崎朋子サンダカン八番娼館』や森崎和江からゆきさん』が出て、大きな注目を集めた。しかし、戦前に書かれた書物の中で触れられているのは珍しいのではないか。また、帰途は1932年になって、1931年9月に起こった「満州事変」の後だった。パリもそうだったが、マレー半島でも各地の華僑に対してシンガポールから「抗日運動」が広がっている様が報告されている。これも貴重な歴史的文献だと思う。

 しかし、この本はそういう社会的関心で書かれた本ではない。熱帯の持つ魅力を独自の詩的な文体で描写した「散文詩」的な構成にある。だから、少し読みにくくもあるが、例えば冒頭近くのこんな文章。(「センブロン河」)
 「そして、川は放縦な森のまんなかを貫いて緩慢に流れている。水は、まだ原始の奥からこぼれ出しているのである。それは、濁っている。しかし、それは機械油でもない。ベンジンでもない。洗料でもない。鑛毒でもない。
  それは森の尿(いばり)である。
  水は、欺いてもいない。挽歌を唄ってもいない。それは、ふかい森のおごそかなゆるぎなき秩序でながれうごいているのだ。」
 
 どこを引用しても同じなんだけど、詩的といっても美文の連なりではなく、上記のような独特の比喩で描かれた熱帯地方の自然と生活である。金子光晴は特に南部ジョホール州のバトパハに長くいた。同地には石原産業系のゴム農園があって、日本人会館もあったからである。そこでは無料で寝られるベッドがあったらしい。この日本人会館は最近でも残っていて、金子光晴を追って訪ねた記録がネット上で複数存在する。以下のように特徴的な建物だが、全部じゃなくて3階の1室だったという。
(バトパハの旧日本人会館)
 合成ゴムがない時代で、戦略物資の天然ゴムは重要性が高かった。イギリス植民地当局は日本の資本進出を容認し、各地に日本人経営のゴム園があった。当初は信用がなく、中国人労働者は日払いでないと働かなかったという。そこで毎日シンガポールから現金を運んできたという。そのうち信用されるようになり、月払いになったと出ている。だが世界大恐慌で不況のなか、植民地当局の対応も厳しくなりつつあった。日本資本はやがて敗戦で壊滅してしまい、こうした(当時の言葉で言えば)「南洋進出」の歴史も忘れられてしまった。貴重な本だと思う。

 本にならなかった初期紀行文を集めた『マレーの感傷』(中公文庫)も出ている。これは題名に反して、ヨーロッパに関する紀行が大部分を占めている。この本を読むと、戦前に書かれた文章と戦後に書かれた文章の大きな落差が判る。本当は日本政府のあり方を批判的に見ていた金子だが、さすがに戦前には押えた表現にするしかなかった。金子が書いた絵もたくさん収録されている。下手を自称しているが、どうして味のある面白い絵が多い。また、ジャワに関して「珊瑚島」という夢幻のように美しい島を夫婦で訪れた文があり、皆一度読んだら忘れられなくなると思う。本当にあるのか、フィクションじゃないのかと思うぐらいだが、松本亮氏は訪ねたことがあると書いていた。
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映画『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』

2023年07月26日 23時11分39秒 |  〃  (新作外国映画)
 かつてない猛暑が続いていて、とても出掛けたくないような日々なんだけど、葬儀後の雑用が絶えることなく何かある。ついでにちょっと遠出して『インディ・ジョーンズ』シリーズの新作を見てきた。電車に乗って駅直結の映画館に行けば、涼しいことこの上ない。TOHOシネマズの座席は心地よすぎて、快適な眠りに襲われることも…。まあ、それも良しとする映画体験である。
『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』
 僕は最近のハリウッド製アクション映画をほとんど見てない。若い頃はよく見てたが、それは名画座2本立てでいろいろ見られたのである。ロードショーは学生には高くて行けない。若いうちは鬱屈があって、「スカッと出来る映画」は魅力だった。当時は時間は永遠にあるように思っていたのである。高齢になっても「鬱屈」はあるが、別にスカッとする必要がない。人生の持ち時間が少なくなる一方なんだから、見たらすぐに忘れてしまうような映画に時間を使いたくない。

 例えば『ミッション・インポッシブル』シリーズでは、本当に不可能なミッションなら帰還出来ないはずだが、それではシリーズ映画にならない。シリーズ映画になってる時点で結末は判るわけで、それで良いのだが見る意味はもう薄れてしまう。それにアメリカ製は内容的に引っ掛かることが多い。『ランボー』シリーズなんか、それこそ乱暴な設定が多かった。2022年に大ヒットした『トップガン マーヴェリック』はさすがに良く出来ていたが、そもそもの根本設定に異議がある。僕なら最初の段階で「それは国際法違反なんじゃないですか」と言いたい。そういう意見具申が出来る軍人が望ましい国家公務員だろう。
『レイダース/失われた聖櫃(アーク)』
 インディ・ジョーンズシリーズ第1作は『レイダース/失われた聖櫃(アーク)』(1981)で、とても面白かった。原案・製作総指揮ジョージ・ルーカス、監督スティーヴン・スピルバーグの黄金コンビによる娯楽超大作で、スピルバーグなら何でも見に行った時代である。続けて、『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(1984)、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(1989)と作られた。これらはカップルで安心して見るのに適当で、僕も夫婦で見た3作目が一番面白かった記憶がある。4作目は時間が離れて『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』(2008)で、これは見逃したと思う。ここまではすべてスピルバーグ監督。

 そして今度の5作目『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』(2023)では、ルーカス、スピルバーグは製作総指揮にまわり、監督はジェームズ・マンゴールドに代わった。誰だろうと思うと、『17歳のカルテ』『ウォーク・ザ・ライン/君へつづく道』『3時10分、決断のとき』『フォードvsフェラーリ』なんかの監督だった。見てるのに名前が覚えられない年になってる。もちろんすべてハリソン・フォード(1942~)主演である。いや、何ともう80歳なのである。007と違って、主演男優を途中で交代させない。それは有名原作があるシリーズじゃなく、映画独自のキャラクターだからだろう。

 あまり中身を書いても仕方ない映画だけど、例によってインディアナ・ジョーンズナチス軍人マッツ・ミケルセン)との対決である。戦時中に始まって、中心となる対決は1969年に設定されている。インディ・ジョーンズの私的な話も交えながら、アルキメデスの遺した「運命のダイヤル」をめぐってし烈な争奪戦が展開される。モロッコやシチリア島のロケが魅力で、特にモロッコのタンジェのシーンは面白かった。ただラスト近くのSF的な展開はどうなんだろうか。楽しめる娯楽アクションに出来上がってるけれど、アメリカでも期待ほどのヒットになってないと言われる。ちょっと無理がある発想になったか。

 結局、ハリソン・フォードの衰えを知らぬようでいて、やはり年を重ねてきた身体こそ最大の見どころだろう。さすがにトム・クルーズとまでは言えないが、これで80歳とはとても思えぬ肉体を披露している。6月30日公開以後、『君たちはどう生きるか』『ミッション・インポッシブル』『キングダム』と毎週話題作が公開されて、インディ・ジョーンズの上映も金曜日から減ってしまう。だから他の作品をおいて見に行ったのだが、満足は満足なりに、こんなものかとも思う出来映えか。最近の大作は長すぎて途中でダレるし、涼しいは嬉しいが段々寒くなってトイレも近くなる。この映画は154分もあって、第1作、第2作は2時間以内だったのを思うと、長さと面白さは反比例しているのかなと思う。
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映画『ハケンアニメ!』、上質のお仕事映画

2023年07月24日 22時31分05秒 | 映画 (新作日本映画)
 新作というか2022年の映画だが、1年前だから「旧作映画」とも言えないだろう。ちょっと前の映画は、昔なら「名画座」があちこちにあって、見る機会が多かった。最近は名画座が少なくなって、公開時に見逃すとなかなか見る機会がない。それでも映画は映像が残っているわけだから、網を張って待っていると、どこかでやってくれることがある。キネ旬ベストテン入選の日本映画で唯一見逃していた『ハケンアニメ!』を目黒シネマで上映しているので(26日まで)、是非見たいと思って行って来た。
   
 原恵一監督のアニメ『かがみの孤城』と二本立てだが、どういう関係があるかというと辻村深月原作の特集だった。僕は知らなかったけれど、『ハケンアニメ!』の原作は2014年に刊行されて、翌年の本屋大賞3位になっていた。原作とは少し違う点もあるようだが、アニメ業界を舞台にして非常に見応えがある「お仕事映画」になっている。キネマ旬報ベストテンでは6位になっているが、『土を喰らう十二ヶ月』『PLAN75』と同点で6位が3本もある珍しい年だった。5位の阪本順治監督『冬薔薇』とは1点差で、この4作品はほぼ同じ点になったが、僕は『ハケンアニメ!』が一番面白いと思った。

 土曜午後5時にぶつかる2本のテレビアニメ作品。ひとつは新人斎藤瞳監督(吉岡里帆)の『サウンドバック 奏の石』、もう一つは伝説の巨匠王子千春監督(中村倫也)の『運命戦線リデルライト』。瞳はかつて王子監督の作品に深い感銘を受けて、公務員を辞めてアニメ業界に飛び込んだという因縁がある。二つの作品の製作現場を並行して描きながら、アニメ製作の様々な部門(脚本、コンテ、背景、CG、アフレコ等々)だけでなく、宣伝やタイアップなど広範に描き出す。しかし、基本は創作に悩む巨匠に挑む新人監督の日々を描き出すことにある。アニメだけでなく、あらゆる仕事でも似たようなことがあるなあと思わせる設定だ。
(王子監督と斎藤瞳監督)
 吉岡里帆は代表作になるだろう快演で、ちょっとした仕草に共感出来る演技をしている。その斎藤瞳監督に立ちふさがるのが、プロデューサーの行城(ゆきしろ)で柄本佑が圧倒的な存在感で怪演している。この行城をどう理解するかが鍵になるだろう。一方、王子監督の奔放な言動に振り回されながらも、理想のアニメを求めて9年ぶりの王子作品に全力を注ぐのがプロデューサーの有科(ありしな)で、こちらは尾野真千子が演じている。監督対決以上に興味深いのがプロデューサー対決で、非常に面白かった。その他、数多くの人が描かれるが、ちょっと出る人も含めて皆が生きている。
(吉野耕平監督と原作者辻村深月)
 監督が本気を出せば、理想を目指して皆が頑張っていけると言ってしまえば、そんなに簡単じゃないよと言われるかもそれない。でもそれが辻村深月の世界なんだし、どんな仕事にも活かせる元気の素がいっぱいある。それはここで出て来る劇中アニメを見れば一目瞭然。辻村深月が話を書いて、それをちゃんとアニメ化されていて見応え十分。吉野耕平監督(1979~)は、CGクリエイターとして『君の名は。』(16)に参加した後、『水曜日が消えた』(2020)で劇場映画にデビューした人。今回が2作目だが、どんどん新しい才能が出て来るもんだと思う。劇場じゃなくて良いから、どこかで見て欲しい映画。
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大木毅『歴史・戦史・現代史』を読む

2023年07月23日 22時02分43秒 |  〃 (歴史・地理)
 平山優氏の本に続いて、大木毅歴史・戦史・現代史』(角川新書)を読んだ。大木氏は岩波新書の『独ソ戦』がベストセラーになった人で、その後続々と第二次世界大戦頃のドイツや日本の軍事史的な本を出している。ここでは以前に『大木毅『独ソ戦』『「砂漠の狐」ロンメル』を読む』で、『独ソ戦』と『「砂漠の狐」ロンメル』(ともに2019年)を合わせて紹介したことがある。「ウクライナ侵略戦争」(大木氏の呼称)開始以後、再び『独ソ戦』が売れているということで、マスコミでも大木氏に意見を聞くことが多くなったらしい。今回の本はそうした短文を集めたもので、折々に書かれた文章をまとめた本である。
(『歴史・戦史・現代史』)
 平山氏と同じく、大木毅氏も立教大学大学院の出身である。大木氏は1961年生まれ、平山氏は1964年生まれなので、お互いが同時期に学んでいたかどうかは知らない。大木氏は軍事史的アプローチで歴史を考える人で、僕にはない視角から第二次大戦を見ていて教えられるところが多い。帯の裏には「軍事・戦争はファンタジーではない。」「戦争を拒否、もしくは回避するためにも戦争を知らなければならない」「軍事は理屈で進むが、戦争は理屈では動かない」「軍事理論を恣意的に引いてきて、一件もっともらしい主張をなすことは、かえって事態の本質を誤認させる可能性が大きい」と書かれている。
(大木毅氏)
 さらに帯の裏には『歴史の興趣は、醒めた史料批判にもとづく事実、「つまらなさの向こう側」にしかない』『歴史「に」学ぶためには、歴史「を」学ばなければならない。』『イデオロギーによる戦争指導は、妥協による和平締結の可能性を奪い、敵国国民の物理的なせん滅を求める絶滅戦争に行きつく傾向がある。』『戦争、とりわけ総力戦は、体制の「負荷試験」である。われわれー日本を含む自由主義国もまた、ウクライナを支援し続けられるかどうかという「負荷試験」に参加しているのである。」と書かれている。(赤字にしたところは、原文の通り。)特に「つまらなさのむこう側」という言葉は金言だ。
(『独ソ戦』)
 「独ソ戦」がいま改めて注目されるというのは、常識では想像出来なかった事態である。しかし、プーチンのロシアがウクライナに対して「古典的な戦争」を仕掛けるという常識外の事態が実際に起きている。独ソ戦の主要な戦場だったウクライナで、80年経って再び起こった戦争を考える時にかつての戦争理解が大切になる。特にロシアが「イデオロギー」的な動機付け(ウクライナ指導部を「ネオナチ」と決めつけるなど)を行っていることで、「絶滅戦争」的な妥協の余地がない争いになる可能性があるという著者の理解は重大だ。実際に虐殺、児童連れ去りなどが起きているのは、その恐れを否定出来ないということなのだろうか。
(『「砂漠の狐」ロンメル』)
 また、この本にはロンメルを中心に多くの軍人に関する論考がある。僕が知ってるのはロンメルぐらいだけど、ナチス時代のドイツ軍人に関する「歴史修正主義」を実証的に批判する筆致は鋭い。僕は全く知らなかったのだが、日本でもナチスの軍人を史料を無視して英雄視する傾向があるというのである。世界の軍事史的研究の紹介が少なく、最新の研究に学ぶことなくすでに否定されている「歴史修正主義」に安易に拠る人が多いのだという。僕が全く知らなかった本の紹介が多いのも役に立つ。まあ、実際に読むかどうかは判らないけれど、いろいろな立場の本があるんだなあと知ることが出来る。

 大木氏は大学院時代に中央公論社の雑誌『歴史と人物』で働いていたことがあるという。夏冬の年2回、『歴史と人物』は戦争特集を出していたという。そのためにアルバイトが必要で、ドイツ現代史を専攻していた著者が関わったらしい。そのことから、数多くの旧軍関係者と知り合ったことが書かれている。それも面白いんだけど、昔の文章を読みすぎたからか、この人には古風な表現が多い。「さはさりながら」「かような」「かかる」などで、特に「さはさりながら」は現代ではやりすぎじゃないか。「そうではあるけれど」程度の意味だが、もう少し「やさしい日本語」を心がけても良いと思う。僕とは少し立場が違うところもあるんだけど、知らないことを割と気軽に読めるという点で貴重な本だ。
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平山優『徳川家康と武田勝頼』を読む

2023年07月21日 22時32分20秒 |  〃 (歴史・地理)
 大河ドラマの主人公になると、関連の歴史本が大量に出版される。特に戦国時代の場合だと、僕も何冊か読むことが多い。ちょっと前には黒田基樹氏の本を読んで『最新の徳川家康像を探る』(2023.4.23)を書いたが、今度は平山優氏の『徳川家康と武田勝頼』(幻冬舎新書)を読んだ。平山優氏は今年の大河ドラマの時代考証を務めているが、一般的知名度はまだまだだろう。僕も2017年に角川選書から出た『武田氏滅亡』という分厚い本で初めて名前を知った人で、今回初めて読んだ。

 近年になって武田勝頼の評価が高くなってきた。以前は偉大な父親武田信玄の後を継ぐ予定じゃなかったのに、やむなく傍流から後継となって武田家を滅亡させた弱将といったイメージが強かったと思う。しかし、信玄急死の後、古参家臣とのあつれきを抱えながら、武田家最大の版図を実現したのは勝頼時代だった。信玄時代には祖地である甲斐から隣国信濃に領土を拡大させ、さらに駿河西上州に進攻した。さらに勝頼時代に遠江(とおとうみ、静岡県西部)、三河(愛知県東部、徳川家の本国)北部、上野(こうずけ)全域、越後西端部まで領土が広がり、勝頼の統率力が注目される。
(武田勝頼)
 この本を読むまでうっかり気付かなかったが、今まで「織田信長」対「武田信玄」という構図で考えがちだった。しかし、実際の戦闘経過をみると「武田勝頼」対「徳川家康」の戦いというべきだった。もちろん信長あっての家康なのだが、信長が常に前線にいるわけもなく、領地の位置からも武田家に正面から対峙していたのは徳川軍だった。この本を読むと、攻略だけでなく、「調略」(自陣営に寝返らせる謀略)も度々仕掛けられている。一番深刻なのは、1573年に家康の正妻、築山殿まで巻き込まれた謀略である。築山殿に武田の手が伸びていたのは、今は確実とみなされている。

 戦国時代は「政略結婚」の時代である。妻は結婚後も実家を代表する場合が多い。信長の妹「お市の方」が嫁いだ浅井家と、織田家が対立するようになった悲劇は有名だ。今川義元の後を継いだ今川氏真の妻は北条家の出身で、そのためか父の仇織田家と戦うより、上杉に攻められて窮地に立つ北条氏へ援軍に出ることが多かった。その結果家中の信頼を失っていき、それを見た信玄は武田、今川、北条三国同盟を破棄して、今川家の支配する駿河を攻略した。(その時、家康は武田と同盟して、遠江に進攻している。そして攻め取った地域に浜松城を築いた。)

 その時、信玄の駿河侵攻に激しく反発したのが、信玄の長男武田義信だった。妻が今川義元の娘で、武田家中の親今川派の代表だったと言われている。1665年に義信側近が信玄暗殺を画策し、それに加担したとして信玄は義信を幽閉して廃嫡した。(1567年に死亡。)次男は盲目で、三男は夭逝したため、1573年に信玄が急死したときには、諏訪氏の娘に産まれた4男の勝頼が継ぐことになったわけである。いわば外部から乗り込んだとも言え、特に1575年に長篠の戦いで大敗したため、今までは勝頼の武将としての才能には疑問を持つ人が多かった。僕も授業レベルでは、「長篠の戦いから武田家滅亡へ」程度で済ませることが多かった。

 このように武田信玄は長男を排除したわけだが、よく知られているように徳川家康も長男を死に追いやっている。1579年に起こった松平信康事件である。家康の正妻築山殿は今川家の重臣の娘(義元の姪)で、もともと家康の反今川政策には批判的だったのだろう。一方、信康の妻は織田信長の娘で、信康の行状を父信長に伝えたのはその妻だったとされている。戦国時代の武将も妻の実家との関係は難しかったのである。その信康事件の真相はなかなかはっきりしないが、この本では15ページ近くこの問題を考察していて、なるほどなあと納得するところがあった。基本的には信康の行状には問題があったらしいと言うのである。

 一進一退を続けていた武田・徳川決戦が最終局面に入ったのは、1580年に始まった高天神(たかてんじん)城攻防戦だった。と言われても、場所がすぐ判る人は少ないだろう。遠江の海辺(当時)にあって、今の地名で言えば静岡県掛川市になる。家康の本拠浜松城と御前崎の中間あたりである。当時は入江が近く、海からの補給も可能だった。しかし、家康が周囲を取り巻く砦を多数作って包囲戦を開始し、城内は援軍を信じて奮闘を続けたが1582年3月に落城した。勝頼は何で援軍を送らなかったのか。武田勝頼も天下人となりつつあった織田信長に接近を図っていて、その工作が破綻することを恐れたのだという。
(高天神城跡)
 高天神城は武田支配の突端にあたり、第二次大戦で考えればガダルカナル島にあたる。周囲を取り巻かれて補給が続かず、落城するしかなくなった。その時に、やはり第二次大戦中の戦争最終局面で、ソ連の仲介による和平工作を考えた大日本帝国を思い出してしまった。実はソ連は米英に対し、ドイツ敗戦後の対日開戦を約束していたというのに。同じように信長は、出来るだけ武田家中が疑心暗鬼になるように、城内からの降伏申し出を拒絶している。次の武田壊滅戦に有利になるように、勝頼の権威失墜を優先させたのである。実際に武田家中にはこの後勝頼を見限って織田・徳川に内通する者が相次ぎ自壊していった。
(平山優氏)
 著者の平山優氏(1964~)は、両親が山梨出身で早くから武田氏に関心があったらしい。実は立教大学の藤木久志ゼミ出身だということで、へえと思った。年齢が違うので存じ上げないけれど、同じ研究室で学んだこともあるはずだ。山梨県史編纂室、山梨県立博物館、山梨中央高校(定時制)教諭を経て、現在は健康福祉大学特任教授と出ている。本能寺の変以後の織田領国争奪戦は近年「天正壬午の乱」と呼ばれるようになったが、その研究をリードしてきた人のひとりである。武田氏に関する本格的研究書をいっぱい書いていて、最近は一般向けの新書なども多い。これからも読んでみたいと思う。
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子どものカードは要らないー「マイナンバーカード」考②

2023年07月20日 22時34分28秒 | 政治
 7月7日に『顔写真は要らない』を書いたが、それが1回目。今回「マイナンバーカード考②」として、「子どものカードは要らない」ということを書きたい。これも皆がおかしいと思っているはずだが、もっと大きな声で言わないといけない。ゼロ歳児でもカードが作れてポイントが貰えるという話。だから赤ちゃんのカードもあるけど、何のために作るんだか意味不明である。

 「子どものマイナンバーカードに親の口座をひも付ける」間違いが多発している。当然だろう。赤ちゃんが銀行口座を持ってる方がおかしい。当然親が全部やるしかないから、自分の口座を登録する。何の問題もないだろう。それに対して河野デジタル相は「イレギュラーの操作をすると、子どものマイナポータルから親の口座に紐づけができてしまう」「(本人の)認識がなく、そうはならない。かなり意図的なものだ。本人名義の口座を紐づけるようにというプロセスの中で出るのだが、子どもの分は親の私が管理しようとか、子どもにまだ口座がないから私の口座にしようということで、たぶん、そうした人がいるのだと思う」と述べた。

 子どものカードを親が管理するのは当然だし、ゼロ歳児が銀行口座を持ってる方がおかしいだろう。マイナンバーカードの名義人が赤ちゃんである場合、赤ちゃんが自分で口座を登録出来るわけがない。スマホもパソコンも操作できないんだから、親(または親に代わる人)がやるしかないじゃないか。そもそも一体何で生まれたばかりの赤ちゃんにマイナンバーカードが必要なんだろうか。ひとりでどこかに行くわけじゃないし、全く必要がない。

 上記画像のように、政府は赤ちゃんでもカードが作れますと宣伝している。大人のカードは10年有効だそうだが、未成年の場合5年だという。それにしても、この画像のモデルの赤ちゃんが5歳になった時、写真で本人確認出来るのか。当然出来ないだろう。まあ多少面影はあるかもしれないけど。赤ちゃんは自分で遠出するわけじゃないが、大人が連れてった先でで迷子になるかもしれない。そのために首から下げて持たせるのだろうか。名前と住所だけの情報しかなかったら、そういう使い道があるかもしれない。

 これは「マイナンバーカードは何に使うのか」を政府自体がよく理解していないことを示すと思う。だから「生まれたら全国民にナンバーを付ける」、だから「ナンバーがある人は全員マイナンバーカードを持てる」といった「マイナンバーカード原理主義」で政策が遂行されてしまうんだろう。今の日本政府には「原理主義者」が多い。原理主義とはもともとキリスト教から始まった概念(「聖書に戻れ」的は発想)だが、そこから派生して「ひとつの原則に凝り固まった考えの持ち主」という感じで使う。日本の行政では、途中で立ち止まれずに自ら泥沼にはまり込むケースが多く見られる。

 「マイナンバー」は、本来納税や年金などの情報を統一し、あるいは補助金給付などを迅速に進めるのが目的だろう。その先には、ネットだけで行政手続きが完結する「電子政府」にしていくという最終目標がある。そうなると、独立した経済活動の主体ではない未成年には、マイナンバーカードなど不要なのである。もちろん未成年だって、お店で食事したり買い物をすれば消費税は負担する。だけど、大人だってコンビニやスーパーで現金で買い物をするときに、本人確認など求められない。

 税金も負担しないし、年金にも入ってない。政府からお金は出ている(児童手当など)けれど、それは子ども自身が申請することは不可能だ。子どもにも必要な行政情報(ワクチン接種など)は山ほどあるが、それは親に知らせるしかない。そんな未成年にはマイナンバーカードを持つ必要などない。もちろんそれは原則であって、幼い時期から子役として活躍しているような子どももいる。そういう場合は「特例発行」出来るようにしておく必要があるだろう。だけど、普通一般の子どもには不要だ。

 それより、マイナンバーカードはネット環境がなければ使いようがない。だけど、スマホもそうだし、パソコンなどの費用は高いのである。低所得者、高齢者には厳しい。スマホは小さくて高齢者には使いにくいし、パソコンの場合は「カードリーダー」がないと読み込めないという。子どもでもカードを作れると言って、莫大なポイントを付けたけれど、本当はその税金を使って低所得者向けにネット環境整備補助事業を作って欲しかった。カードリーダーを無料配布するぐらいはすぐ出来たと思うけど。
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映画『山女』、過酷な生を描く力作歴史映画

2023年07月18日 21時02分03秒 | 映画 (新作日本映画)
 福永壮志(たけし)監督の映画『山女』を見てきた。そんな映画は知らないという人が多いだろう。僕もよく知らずに見たのだが、これは非常に力のある歴史映画だった。事前に知っていたのは、柳田国男遠野物語』にインスパイアされた東北地方を舞台にした歴史映画であること。福永監督は前作『アイヌモシリ』を作った人という程度だった。主演の山田杏奈もよく知らなかったが、冒頭にキャストが出て森山未來永瀬正敏三浦透子でんでん白川和子などそうそうたる名前が並んでいて驚いた。それだけの俳優を集めた今年屈指の力作である。見逃さなくて良かった。

 18世紀後半の東北地方。冷害が続いて飢饉が広がっている。これは浅間山噴火後に起こった「天明の飢饉」を思わせる。冒頭にお産が出て来るが、とても育てられないと「間引き」されてしまう。その赤ちゃんを処理するのが「」(りん=山田杏奈)である。僅かな金を貰って、子どもを川に流している。次第に判ってくるが、凛の父親伊兵衛永瀬正敏)の曾祖父の時代に火事を出して、懲罰として村から田畑を取り上げられた。その後は村の汚れ仕事を引き受けて細々と生きてきたのである。

 凛は折々に山(早池峰=はやちね)を仰いで心を静めている。(早池峰は岩手県にある山だが、ラストのクレジットを見るとロケは山形県で行われている。)そんな凛に同情している駄賃付けの泰蔵二ノ宮隆太郎)もいる。一緒に村を出ようと言うが、凛は父と弟を捨てて逃げられないと言う。藩からのお救い米が配給されるが、伊兵衛一家にはごく僅かである。これでは暮らせないと父は蔵から米を盗もうとする。父が村人に責められると、凛は自分がやったと言うのだった。
(凛と泰蔵)
 そして翌日、凛は村はずれの結界を越えて、「山」へ入っていく。父親は凛が「神隠し」にあったという。しかし、泰蔵は凛が山で生きているかもしれないと考えている。ある日、マタギたちが「山男」を見たと言って下りてきて、泰蔵はそこに凛もいると考えて連れ戻そうとする。その間、凛は謎の「山男」(森山未來)に出会っていた。泰蔵たちは結局凛を連れ戻すが、その頃村では凛を新たな犠牲にしようと目論んでいたのである。詳しくは書かないが、ラストまでの「怒濤の展開」には驚くしかない。
(凛と山男)
 東北地方を舞台にした土俗的なホラーっぽい物語を想像していたら、実際は困窮する村の差別構造を厳しく描き出す話だった。映像的魅力もたっぷりで、凛を演じた山田杏奈の魅力も素晴らしい。『樹海村』『ひらいて』『彼女が好きなものは』などに出たというけど、どれも見てない。凛に心を寄せながら、結局連れ戻して苦難に陥らせる泰蔵役の二ノ宮隆太郎は映画監督でもあり、『逃げきれた夢』を見たばかり。定時制高校の教頭を光石研が演じる映画で、題材に興味を持って見たがここでは書かなかった。ロマンポルノの人気女優だった白川和子が巫女を演じて貫禄たっぷり。
(福永壮志監督)
 それより僕がビックリしたのは、共同脚本をお気に入りの長田育恵(おさだ・いくえ)が手掛けていたこと。劇団てがみ座主宰の劇作家で、映画館の紹介記事では「連続テレビ小説『らんまん』を手がける」と出ていた。えっ、『らんまん』は長田育恵が書いてたの? 見てないから知らなかったんですけど。監督、共同脚本の福永壮志は1982年生まれで、『リベリアの白い血』『アイヌモシリ』に続く長編第3作。傑出した演出力と力強い世界観で見るものの心をとらえる。編集のクリストファー・マコト・ヨギ、音楽のアレックス・チャン・ハンタイなど、全然知らないけど国際的スタッフで作られた作品である。
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葬儀をめぐる「よもやま話」あれこれ

2023年07月17日 22時49分33秒 | 自分の話&日記
 まだ「海の日」だけど、そろそろ再開したい。もともと「喪に服する」と言いつつも、要するに猛暑の中の葬儀で疲れるだろうということだった。葬儀は14日で、翌日は葬儀社への支払いなどがあって休めなかった。だけど、まあ日曜は休んでいたから大分回復してきた。自分は「作文」に苦労したことがなく、書いてる方が気楽なのである。

 このブログは自分の備忘記でもあるので、母の葬儀のことも簡単に書いておきたい。命日は忘れないと思うけど、葬式をいつやったかは忘れるかもしれない。ところで、前回の訂正がある。実は初めて知ったのだが、「享年95歳」と書いたが「享年」(きょうねん)は「数え年」なんだって。満年齢で数える場合は「行年」(ぎょうねん)と言うんだそうだ。知ってました?

 一般的には両親がいて、結婚していれば配偶者の両親がいる。若くして亡くなったとか、生みの親と育ての親が違うなど様々なケースがあるだろうが、大体の場合実の親と義理の親で4回の葬式がある。僕はこれで4つの葬式が終わった。「悲しい」というよりは、「ホッとした」というのが正直な気持ちである。

 コロナ禍以後は、ほぼ「家族葬」になってると思う。著名人の場合は、家族葬の後に「お別れの会」などと名付けた会が開かれることもある。もちろん母親の場合は家族葬で終わり。後は「四十九日法要」をやって「納骨」である。その間に年金や保険などの手続きをしなければならない。そして相続の手続き。そこまで終わるまで、まだかなりあるなあ。

 家族葬だから、まだ隣近所の人には知らせていない。ここには書いたけど、「ネットで読んだんですけど、お母様がお亡くなりになったのですか」などという問い合わせは一件もない。もちろんそうだと思ったから、書いたのである。僕のブログを読む人はごく少数だろうが、それより近所の人々、母の知人、親戚一同も同じく高齢者で、パソコンもスマホも使ってないだろう。母親の同級生も95歳なんだから、ほとんどは先に亡くなっている。

 結局、葬儀は「葬儀社」である。死亡届の提出に始まって、祭壇の設営、式次第一切は基本的には葬儀社が手配する。母の場合、そこは最初から決まっていた。父の葬儀を担当した地元の会社である。町内会と提携して、自治会名簿に広告が載っている。昔から自分の時もここでと言われていた。電話番号をメモして常時持ち歩いていたから、すぐに病院から電話したのである。

 一番気がかりなのが、お寺との対応。結局は母親が望んでいた通り、父(本人からすれば夫)の墓所に納骨することになる。だから菩提寺に連絡して、その都合を確認して葬儀の日程を決めることになる。そして、「御布施」の額をどうするか。これは葬儀社の人から、ざっくばらんにお寺に聞くしかないとアドヴァイスされた。だから、僕もそうしたのだが、やはり直接聞くしかないようである。答えてくれるだろう。ただ「二人目」の場合、「夫婦で格をそろえる」必要を言われると断れない。

 一番大変だったのは、タクシーの手配だったかもしれない。車は手放したので、猛暑が続く中斎場まではタクシーで行くしかない。(黒い略礼装で、駅から歩くことは不可能。)ところが、予約が取れないのである。普段はタクシーを使わないから、スマホにタクシーを呼べるアプリも入れてない。近くの会社に軒並み電話することになった。(まあ妻がやったんだけど。)

 やっと取れたタクシーの運転手に聞くと、タクシー運転手が減っているんだという。テレビのニュースを見たら、観光地でタクシーが不足していると言っていた。コロナ禍で、密室で客と相対するタクシーを怖がって、利用者も減ったから辞めた人が多いと言っていた。そのまま復活してなくて、タクシーが減っているらしい。

 葬儀費用(あるいは入院費)は母親が貯めていた銀行預金から充ててきた。父親の給与が高かったので、遺族年金もかなりある。数年前から「暗証番号」を聞いていて、足が弱くなった母親に代わってカードで下ろしてくることがあった。カード、通帳そのものは預かれない。親の側も、預金を勝手に使われるのではないかと疑心暗鬼になる。だけど、暗証番号を聞いているだけでも大きい。下ろさなくても、通帳記入が出来れば、何が引き落とされているかを把握出来るから。 

 保険証に関しては、今まで何度も無くしてきた。というか、どこにしまったのか失念したということだが。今回は2022年秋に新しい保険証が送られてきたときに、母親に渡さず僕が管理していた。これが僕がマイナ保険証を批判する理由(のひとつ)である。高齢者は無くすのである。同居していたら預かる方がよい。だが聞くと大丈夫だからという。だから何も言わず預かるしかない。

 そして、そこまで言うと言い過ぎだが、「ゴミ屋敷」が残された。片付けられないのである。性格の問題もあるだろうが、世代的にもそういう人が多いらしい。戦時中のモノのない時代に育って、モノがあふれる時代を迎えた。なかなか不要なモノを捨てられない。というか、不要なモノも、またいつか必要になるかもという気持ちなのである。

 そういう問題はあったものの、悪い人、意地悪な人ではなかった。だから、30年以上、僕の妻ともやってこられたのである。両者ともに感謝。今後はもうしばらくすれば、久方ぶりの旅行にも行けそうだ。まあ私的な話はこれぐらいで。
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母の死の報告ーしばらくお休みします

2023年07月12日 22時30分43秒 | 自分の話&日記
 2023年7月11日に、母親が死去しました。享年95歳でした。しばらく、ニュースにも気持ちが集中しません。このブログもしばらく更新しない心づもりです。「海の日」三連休明け頃に再開したいと思ってます。「服喪期間」とご理解ください。

 母親に関しては、年末に入院した経緯を『母の病状について』として書いています。最終更新が2月2日になってるけど、その後は書いていませんでした。救急病院に運ばれて、年末には「何があってもおかしくない」と宣告されたものの、その後、病状が不思議なことに「一種の安定」になっていきました。年齢を考えても想定外でした。

 その頃から、「転院」の話が出て、2月21日に次の病院に移りました。コロナ禍で面会が出来ない中、その日がしばらくぶりに会えた日となりました。簡単な会話が出来、生後半年ぐらいのひ孫を見て「かわいい」などという言葉が出て来たので驚きました。その後、当初は系列のクリニックにて、2ヶ月後に隣の「療養型病院」に移り、そこにずっと入院していました。 

 そちらも基本的に面会は出来ず、4月に一回だけ病状説明の時に会ったのが最後になりました。その時も2月と同じ感じで、ゼリー状のものなら少し食べられるという話で、簡単な会話も出来ました。その後も「年齢からしても急に何があるか判らない」と言われながらも、特に病状悪化という連絡もなく、前夜も食べて会話もあったということでした。

 11日朝に病院から「呼吸していない」との電話がありました。後で着信履歴を見たら、午前5時6分でした。オムツ交換に向かったら、呼吸がなかったと言います。飛び起きてサッとシャワーを浴びだけでヒゲもそらずに駆けつけて、改めて医者の診断があり、5時46分死亡確認となりました。死亡診断書では「多臓器不全」となっていました。

 しかし、僕は状況から見て、深夜のいつかの時刻に穏やかに呼吸が停まったのだと思います。僕が着いた時には明らかに死亡していました。もともと救急車を呼んだきっかけは、「大動脈解離」(心臓から脳へ行く動脈が破ける)が起こったため、心臓付近から背中にかけて激痛が起こったことでした。その結果、流出した血液で肺が半分ぐらい機能しなくなっていました。

 だから、どの臓器が働かなくなっても、別に不思議ではありません。前日まで特に兆候がなくても、「その日」が訪れたということだと思っています。昨年中に、葬儀社も決めてあって,後は事務的に決めて行くぼうだいな作業があります。正直お寺との連絡など、誰か他の人がやってくれればいいんだけど、誰もいないので自分でやるしかない。

 経験した人なら知ってると思うけど、葬儀とはひたすら細々とした「風習」をこなしていく過程です。「本来どういう意味があるのか」などを問い返しても意味がありません。そういう流れに乗って、こなしている段階。

 母は「俳句」が趣味で、ちょっと前まで地元の句会に参加してしました。また元気なときはデパート巡りや映画に出掛けていました。年取って,それがコロナ禍に重なって、この数年はガーデニングやテレビ中心だったけれど。それでも「趣味」はいろいろあって、それが長命の素でもあったでしょう。

 入院して半年以上経ってしまったので、もう日常生活は「母の不在」に慣れています。今さら「悲しみ」というよりは、「母は母で良く生きた」と思うし、僕は僕で30年以上も(けっこうマイペースな)母親と良く接してきたと思っています。取りあえず人生の最低目標点、「親より長く生きる」はクリアーしたことになります。自分では「やりきった」かなと思っています。
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『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』ー金子光晴を読む①

2023年07月10日 22時39分53秒 | 本 (日本文学)
 最近金子光晴(1895~1975)をずっと読んでいる。有名な詩人で、昔から関心があって本をずっと買っていた。中公文庫にいろいろ入ってるのである。特に70年代に発表された自伝的放浪紀行三部作『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』は、当時からものすごく面白いと大評判だった。『どくろ杯』は1976年に中公文庫に入った時に買ったんだけど、実は今まで読んでなかった。案外字が詰まっていて面倒そうだなあと思って、そのままになってしまった。今回読み始めたら、もう字が小さくて読みにくいったらない。2004年に大きな字に改版されているので、思わず買い直してしまった。
『どくろ杯』
 金子光晴は亡くなる直前の70年代には、ある種「怪老人」といった感じの人気者だった。同じ詩人、小説家の森三千代という妻がいながら、若い「愛人」とも長く続いていた。本になって、東陽一監督『ラブレター』(1981)という映画にもなったぐらいである。(日活ロマンポルノの一本だが、ポルノ色を薄めてヒットした。)もうすぐ2025年には没後50年、生誕130年という記念の年が来るが、僕は金子光晴が再び脚光を浴びるのではないかと思っている。ここまで本格的に「自由人」あるいは「変人」、さらに言えば「非国民」だった人は珍しい。戦時中に反戦詩を書いていた「不逞」な精神は今こそ必要じゃないか。
(金子光晴)
 『どくろ杯』(1971)、『ねむれ巴里』(1973)、『西ひがし』(1974)は、金子光晴、森三千代の二人が1928年から1932年に掛けて、中国、マレー、蘭印(現在のインドネシア)、フランス、ベルギー等を放浪した旅の追憶を書いたものである。40年以上経っているから、記憶違い、自己正当化(というより逆の自己卑小化というべきか)もありそうだが、むしろフィクション化もされているらしい。それにしても長大で、どうも少し飽きてしまうぐらい。紀行には一種スピード感も必要と思うが、この4年近い旅は途中で停滞するところが多い。そこが魅力だという人しか読めないが、この流されるままという感覚が大好きというファンも多い。
(『金子光晴を旅する』所載の旅行地図』)
 旅までの事情を簡単に書くと、金子光晴は養父の遺産で1919年に洋行し、帰国後に詩集『こがね蟲』(1923)を発表して評判を得た。1924年に東京女子高等師範在学中の森三千代(1901~1977)と知り合い、すぐに妊娠して森は退学して結婚した。息子乾が生まれたが、病気になって森の実家長崎に子どもを預けることになり、その間に夫婦で一ヶ月上海を訪問した。1927年にも子どもを預けて、今度は金子一人で三ヶ月上海に出掛けてしまう。当初からお互いに束縛しない約束だったようだが、その間に三千代には若い恋人が出来た。それが後の美術史家で神奈川県立近代美術館館長を務めた土方定一なんだという。

 金子も帰国して悩んだらしいが、一緒にパリに出掛けようと三千代に提案した。小さな子どももいるのに、これに三千代も乗ったのである。飛行機でちょっと一飛びという時代じゃない。船で何ヶ月も掛けて行くのである。「洋行」は一生に一度出来るかどうかの大事業で、やはり文学を志す三千代に取っても、すでに洋行を体験していた金子が誘うのは魅惑だったのである。ところが、実は金子光晴は詩が書けなくなっていて、雑文を書き散らしていたけれど、貧乏の極致なのである。ヨーロッパまで行ける金もないのに、とにかく出掛けてしまった。取りあえずは旧知の上海まで行く。それが『どくろ杯』である。
『ねむれ巴里』
 何とかシンガポールまで行くが、やはり金がない。上海ではエロ小説を書いたりしたが、シンガポールではマレー半島、ジャワ島などを訪ね回って絵を売ったりしていた。詩を書く前に日本画を勉強していたのである。下手を自称しているが、残された絵を見ると結構良い。「無名詩人」だから価値がないと思われたが、後の大詩人の絵という目で見れば貴重。その他、あらゆる金策をして、まず三千代夫人だけをパリに送った。その後、果たして後を追えるのかと心配になるが、何とか追いかけた。インド洋の航海中も奇妙な話が多いが、何とかフランスに着いてパリで奇跡の再会。

 中国では文人との付き合いもあったが、マレーでは植民地下層の人々と日本の植民者を見た。フランスでは日本人の画家たちが多いが、皆成功を夢みながら苦労している。金子にとっては、どこへ行っても人種や民族にこだわらず、人間の実相をつかむ。それは貧困のため、様々の仕事をしたからでもあるだろう。悪評が付きまとって、夫婦でいると森三千代まで就職出来なくなるので、パリで合意の上協議離婚したぐらいである。日本からは三千代の実家から一人で帰ってこいと金を送ってきたが、金子が一人で使ってしまう。もうメチャクチャで、破滅的なのである。
『西ひがし』
 そして、仕事がベルギーで見つかった三千代を置き、金子光晴だけ先にシンガポールまで戻ることになった。そして、またマレーで停滞するのだが、要するに東南アジアの風物に魅せられたのだろう。キレイじゃないとダメ、文明国が良いなどという金子光晴ではない。どんな貧苦にも耐えながらも、自然と人間を見つめるのである。単純なヒューマニズムを越えて、人間性の限界まで見た感じ。どうもやり過ぎのように僕は思い、そこまで行くと僕は楽しく読めないという箇所も結構あった。だが、世界と時代を見る目は確か。「満州事変」が起き、日本が世界から孤立していく様子を実感しているが、周囲の日本人はまだほとんど危機感を持っていない。「日本人」のニセモノ性を鋭く見つめた旅でもあった。
『金子光晴を旅する』
 今になると,時代も経ってしまい、大評判だったこの三部作も少し読みにくいかもしれない。地図も出てないし。そこで2021年に中公文庫から出た文庫独自編集の『金子光晴を旅する』が非常に役だった。金子光晴は開高健寺山修司との対談が載っていて、この二人を煙に巻く怪人ぶりに舌を巻く。一方、森三千代夫人の100頁を越えるインタビューが載っていて、背景事情が良く判る。聞き手は松本亮で、インドネシアの影絵芝居ワヤンの研究で知られた人である。またこの本には、実に様々な人(吉本隆明、茨木のり子、沢木耕太郎、角田光代等々)の金子光晴論が入っている。

 三部作には面白すぎるエピソードがいっぱいで、ここでは特に紹介しなかった。一つ挙げれば、やはり第一部の題名にもなった「どくろ杯」ということになるか。またフランスへ向かう船中で、中国人留学生の泊まっている部屋に入り込んでしまうところも面白い。中国も東南アジアもパリでさえ、安宿は悲惨。虫がいっぱいだったりするのが読むのも嫌という人は読めないかもしれない。けれど、そういう潔癖性こそおかしいという著者のスタンスがあふれ出る大著で、一度は読んでおきたい紀行だと思う。
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好調ホン・サンス監督『小説家の映画』

2023年07月09日 20時54分36秒 |  〃  (新作外国映画)
 韓国のホン・サンス監督が最近好調である。ベルリン映画祭では、『夜の浜辺でひとり』(2017)が主演女優賞、『逃げた女』(2020)が監督賞、『イントロダクション』(2021)が脚本賞、そして『小説家の映画』(2022)が審査員大賞と、3年連続計4回受賞している。この間、2021年の『あなたの顔の前に』はカンヌ映画祭オフィシャル・セレクションに選ばれ、2022年のキネマ旬報ベストテン10位に入賞した。でも僕はホン・サンスの映画は苦手であまり見て来なかった。

 1996年の『豚が井戸に落ちた日』がデビューだから今年で27年になるが、最新作『小説家の映画』は何と長編映画27作目である。作りすぎで、とても全部見ていられない。短い映画が多く、『逃げた女』は77分、『イントロダクション』は66分、『あなたの顔の前に』は85分、そして今回の『小説家の映画』は92分である。最近ではムダに長い映画が多く、短いのは体力的にありがたい。だが、この時間ではどうしても本格的人間ドラマになるはずもなく、淡彩的人間スケッチが多くなる。それもいいけれど、『それから』『逃げた女』なんか、えっ、これで終わっちゃうの的ラストに驚いてしまった。

 最新作『小説家の映画』公開に合わせ、江東区菊川に出来た小さな映画館「Stranger」で特集上映をやっていたので、『あなたの顔の前に』と近作2本を続けて見てみた。どっちもなかなかゴキゲンな映画で、満足感が高い。ホン・サンス映画と言えば、2015年の『正しい日 間違えた日』以来、キム・ミニが主演を務めることが多かった。いつの間にか、この二人は「公私ともにパートナー関係」と言われるようになって、それはつまり「不倫」なので、韓国映画界から無視されている感じ。だが、2本の最新作にはイ・ヘヨンという大女優が主演していて、それが功を奏している。イ・ヘヨン(1962~)は80年代以後に、数多くの舞台、テレビで活躍してきた人だという。映画にもずいぶん出ていたようだが、あまり意識したことがなかった。

 『小説家の映画』はモノクロ映画だが、ホン・サンス映画では「今どき珍しく」とは言えない。カラー映画だと、あれ今回はカラーなのかと思うぐらいである。イ・ヘヨン扮するジェニは有名小説家らしいが、最近はしばらく書いていない。今日はやはり作家を引退状態の後輩がやっている書店兼カフェを訪ねるところ。ちょっと小耳にはさんで会いに来たという。その後、近くのタワーに寄ると、ちょっとした知り合いの映画監督夫妻に出会う。そのタワーはユニオンタワーと言われている。調べてみると、ソウル東方の河南市にあって漢江を望める。ソウルのベッドタウンだが、ちょっと都心から離れたという感じだろう。
(『小説家の映画』)
 ジェニと監督夫妻はタワーを下りて散歩しようと思うと、そこで女優のギルスキム・ミニ)と出会う。ギルスは人気があったのに、しばらく仕事をしていない。陶芸をやってる夫と静かに暮らしているらしい。監督はそれは良くないと批判したが、ジェニはギルスは大人なんだから自分で決めればいいと反論する。二人は気があって、ジェニはギルス出演の映画を作ってみたいと言い出す。その後、食べに行くことになったが、ギルスに電話が掛かって来る。急に人が少なくなったので詩人との会食に来ないかという。ギルスはジェニも一緒にどうかと誘う。もうこの辺でこの映画の仕掛けが判ってくる。
(『小説家の映画』)
 この映画の中心的な登場人物である、ジェニとギルスは「とても知られている人だが、最近は仕事に行き詰まっている」という共通点がある。それがひょんな出会いから、小説家であるジェニが映画製作を思い立つのである。出会いが出会いを呼ぶ「奇跡の一日」が生み出した映画とは…? 知り合いにばかり偶然出会うのは、普通ならおかしいけど、この映画ではあまり不自然には感じない。そのような「仕掛け」で作られたエッセイのような映画だと判っているからだ。会話だけでドラマらしいドラマも生まれないが、とても気が楽になる映画。ラストに出て来る劇中劇(映画中映画)はカラーでハッとする。

 その前の『あなたの顔の前に』はイ・ヘヨン演じるアメリカ帰りの元女優サンオクが突然帰国して始まる。妹のマンションにいるが、かつて突然駆け落ちしてアメリカに行ったため、妹とも疎遠になってきた。今何故帰って来たのかも妹には言わない。時々神様に向かって心の中で語りかけるだけ。ある日は思い立って、姉妹で川沿いのカフェに朝食を取りに行く。なんて言うこともない会話が続き、甥(妹の息子)が始めたというトッポッキ屋に行ってみる。その後会食に向かうが、時間と場所が急に変わったため、幼い頃に住んでいた梨泰院に寄ってみる。そして会食に行くと、そこではサンオクに出演依頼した映画監督がいる。
(『あなたの顔の前に』)
 この映画監督は次作『小説家の映画』でも映画監督をやってる。クォン・ヘヒョという俳優で、近年のホン・サンス映画には出突っ張りで、「この人は一体何なんだろう?」という観客を苛立たせる役柄を巧妙に演じている。『それから』の出版社の社長役が印象的だが、独善性を体現するような役柄をいつも楽しげにやっている。『冬のソナタ』にキム次長役で出演していた人である。この映画も短いながら、人生のエッセンスを巧みに切り取って見事。キム・ミニは出演せず、プロデューサーに回っている。ちょっとした場面で、ハッとしたりホッとしたりする。上手いなあと思った。
(ホン・サンス監督とキム・ミニ)
 ホン・サンス(洪常秀、1960~)の映画は人を選別するかもしれない。好きな人にはハマってしまう魅力があるらしい。僕はそこまで好きじゃないけど、この2作に関してはキャリア・ベスト級かもしれないと思う。韓国映画という範疇で考えると、たくさん作られている犯罪や恋愛の大作映画とは全然違い、イ・チャンドンやパク・チャヌク、ポン・ジュノなどのアート系の世界的巨匠とも違う。というか、世界の誰とも違う独自のタッチの映画を作り続けて来た。その軽いタッチのエッセイ風映画も、次第に手法的に洗練を極めて、人生の深淵に触れる瞬間をサラッと描くのである。
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顔写真は要らないーそもそもアナログな「マイナカード」

2023年07月07日 22時23分50秒 | 政治
 訃報特集も終わったので、「マイナンバーカード」についてちょっと考えてみたい。今まで何度か「マイナ保険証」を批判してきたが、「マイナンバーカード」そのものについてはあまり書いてないと思う。自分に必要ないと思って、持とうと思わなかったから、考える必要も感じなかった。(紙保険証の来秋廃止法が成立した)今になって、マスコミも高齢者や障害者を無視しているなどと批判している。また様々なミスが報告されて、政府も「総点検」を実施すると言っている。何を今さら…と思うけど、こうなると判っていても一度決めたことは止められない「日本政治の病弊」がまた現れたということか。

 そこで「マイナンバーカード」について考えてみたんだけど、まずこのカードは取得するまでがやたら面倒くさい。高齢者施設などで代理申請しようと思っても、非常に大変だという。顔写真も病室で寝ているところを撮影しても、背景がどうのこうのなどと言われるとか。受け取りもまた面倒で、日時を指定して役所に取りに行く必要があるらしい。任意だというのに、何でそんなに頭が高いのか。身分証明書にもなるものすごく大事なカードなんだという話で、ふーん、そうなんだと思った人が多いと思う。

 僕もそれはそうだろうな程度しか思わなかった。政府は「デジタル社会へのパスポート」なんて言ってて、大事なカードだから写真付きなんだろうという思い込みである。現実のパスポートは、国境を越えて他国の主権下に移動するために使う。本人であることの確認を相手先の国家が要求するのも当然だろう。でも「デジタル社会」って何だろう。「電子政府」という言葉もある。直接役所まで出向かなくても、自宅のパソコンやスマホから様々な行政手続が可能になるということだろう。

 じゃあ、顔写真は不要なんじゃないか。顔写真を載せても、カードを使うときに顔認証するわけじゃない。たかが行政手続をするだけのために、写真は不要なのである。それはクレジットカードでネットショッピング出来ることでも明らかだ。クレジットカードは「ツケ」でモノが買えるし、時にはお金を借りることまで可能である。そんな機能を持つクレジットカードに顔写真なんかない。他人のなりすましが心配とか、情報の流出が心配とか言い出せば、クレジットカードも持てなくなる。

 民間企業としてクレジットカードが成り立つんだから、顔写真なんか不要なのである。その代わりに信用力を確保するために、年会費が必要だったり、本人確認に二段階認証が必要だったりする。マイナンバーカードがあっても、政府がお金を貸してくれるわけじゃない。行政手続を行うためだけなら、それほど厳しい仕組みはいらないはずだ。それを言えば、名前だって不要だと思う。名前ではなく、個人識別番号で、行政機関が国民を認識するというのが、マイナンバー制度のはずである。
 
 「コンビニで住民票が取れます」と言うけど、別人の住民票が出て来たという「事故」が起きている。それは前に発行した住民票が出て来たことが多いようだから、かなり単純なミスなのではないかと思う。それより、保険証でもなんでも、「同姓同名」の人が紐付けられていたという話を結構聞く。それはどういうことなんだろうか。そもそも同姓同名でも、「マイナンバー」は別である。個人番号で識別しているのではなく、個人名を認識して住民票を出して来ているのではないのか。

 そもそも「コンビニで住民票が取れる」が本当はおかしい。「マイナンバーカードで手続すれば、住民票は不要になります」というのでなければおかしい。いちいち住民票を提出するのが面倒なのである。よほど小さなお店で働いているのなら別だが、大企業や役所に勤務している場合なら、勤務先に個人番号を届ければ済む。いちいち通勤費請求のために住民票を取る必要がない。そういうのが「個人番号」の長所のはずだ。それなのに諸手続に住民票提出が必要で、そのため「コンビニで簡単に取れます」と言われると便利なような気がしてしまう。

 現在の政府が進めている「マイナンバーカード」は、本当はアナログ行政を温存する仕組みなのかもしれない。僕はどうもそんな気がしてならない。マイナンバーカードに関して考えたことはこの後、断続的に時々書いていきたいと思う。
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北別府学、杉下茂、川口由一、青木幹雄等ー2023年6月の訃報③

2023年07月06日 22時24分29秒 | 追悼
 2023年6月は大きく報道された訃報が多かった。「大きく報道された」とは、訃報とは別に「追悼記事」や「評伝」が掲載される人だと思う。文化関係を2回目に書いたので、3回目は残りの人々を。(小田中教授とベニシアさんは一度2回目に書いたのだが、こちらに移した。)偉大な野球選手が同じ日に大きく報道された。杉下茂は別記事もで紹介したので、ここでは北別府から。

 広島東洋カープ一筋で通算勝利213勝を上げた北別府学が16日死去、65歳。1975年にドラフト1位でプロ入り。「精密機械」と呼ばれた制球力で知られ、最多勝2回(82、86年)、最優秀防御率1回(96年)、最高勝率3回(85、86、91年)を記録し、沢村賞を82年、86年に2回受賞した。広島の5回の優勝に貢献したが、日本シリーズでは一度も勝利投手になれなかった。通算213勝は歴代18位で、広島カープ史上最多勝利投手だった。94年限りで引退し、その後は広島ホームテレビ解説者やカープの投手コーチを務めた。2020年に2年前から成人T細胞白血病で闘病していることを公表していた。近年には珍しく一つの球団で活躍した生涯だった。
 (北別府学)
 中日ドラゴンズの元投手、杉下茂が12日死去、97歳。北別府と同じ日の新聞で訃報が大きく報道されたが、年齢的には30歳以上離れていて活躍したのは50年代になる。プロで活動したのは1949年から1961年までの合計11シーズンだった。何より「フォークボール」で有名になったが、今の投手のようにフォークボールを多投せず、試合の切り札的に5、6球投げる程度だったという。最多勝利2回(51、54年)、最優秀防御率1回(54年)、最高勝率1回(54年)。沢村賞3回(51。52。54年)。中日が初優勝した54年は投手として32勝12敗で、優勝の原動力となった。通算勝利数215勝は歴代17位。1954年は(中日ドラゴンズの最多勝利投手は歴代16位で219勝の山本昌。)兄が沖縄戦で戦死していて、平和を守ることの大切さを伝えていた。
 (杉下茂)
 自然農の実践家として知られた川口由一(かわぐち・よしかず)が9日死去、84歳。農薬、化学肥料の農業を続ける中で体調不良となり、70年代から独自の自然農を始めた。不耕起、不施肥、無農薬の「自然農」は、耕起、施肥、病害虫防除を否定し、周辺の草(雑草)の生命も全うさせるというものである。自ら実践するとともに、全国各地で自然農の指導にもあたった。著書も多く、虫や草を敵としない「思想」は一部に強い影響を与えてきた。新聞、テレビ、ネットメディア等では訃報が報じられかった。
(川口由一)
 元内閣官房長官、元参議院議員の青木幹雄が11日死去、89歳。島根県に生まれ同郷の竹下登の秘書となり、67年から86年まで島根県議会議員として「城代家老」と呼ばれた。86年に参議院議員となり、2010年まで4期当選。92年の竹下派分裂騒動では、38人中30人を小渕派にまとめて参議院の有力者と目されるようになった。98年に小渕恵三内閣が発足すると、1年後の99年に内閣官房長官に就任した。その結果、2000年4月に小渕首相が倒れた時に、後継首相に森喜朗を「密室」で決定した「五人組」として批判された。その後は自民党参議院議員会長として「参院のドン」と呼ばれて長く影響力を保った。2010年に体調不良で議員を引退し、長男の一彦が後継となった。その後も一定の影響力を持ち続けていた。
(青木幹雄)
 元青森県知事、元衆議院議員の木村守男が25日死去、85歳。1980年に新自由クラブから衆院議員に当選、81年には離党して自民党に入党した。83年は落選したものの、86年、90年と当選。93年には宮沢内閣不信任案に賛成して離党、新生党に参加して当選した。95年に無所属で青森県知事に立候補し、現職を破って当選、3回当選した。しかし、93年の三選直後に「週刊新潮」がセクハラ問題を掲載し、議会と対立して辞職勧告決議が可決された。揉めた挙げ句、県議選後の5月に辞職した。長男の木村太郎も衆院議員となって7回当選したものの、2017年に52歳で死去。その後は次男の木村次郎が後を継いで2回当選している。
(木村守男)
 ウシオ電機設立者で、元経済同友会代表幹事の牛尾治朗が13日死去、92歳。姫路出身で、1964年に家業をもとにウシオ電機を設立した。早くから財界活動も行い、規制緩和、株主重視を主張していた。しかし、89年のリクルートコスモスの未公開株を取得していたことから、公職を一時離れたこともある。小泉内閣では経済財政諮問会議の民間議員となって、積極的に発言した。安倍晋太郎と親しく、娘が安倍晋太郎の長男と結婚している。そのため安倍晋三内閣でも相談を受けていたと言われる。
(牛尾治朗)
 元産経新聞社社長の羽佐間重彰(はざま・しげあき)が19日死去、95歳。元々ニッポン放送に入社し、編成部長時代に「オールナイト・ニッポン」の放送を開始した。ポニー・キャニオンレコード社長を経て、85年にフジテレビ社長。88年にフジサンケイグループ議長の鹿内春雄が急死して、父の鹿内信隆が復帰し、ニッポン放送社長に飛ばされた。90年に信隆が死去し、92年6月に産経新聞社社長に就任。7月に信隆の女婿鹿内宏明議長を解任するクーデターが起こった。97年から2003年までフジサンケイグループ代表。この反鹿内家クーデターは日枝久フジテレビ社長が首謀者と言われる。産経が「つくる会」の中学歴史教科書を発行し始めた時期の最高責任者がこの人だったことを忘れてはいけない。
(羽佐間重彰)
 刑事法学者の小田中聰樹(おだなか・としき)が9日死去、87歳。東北大名誉教授。刑事訴訟法研究の第一人者だったが、研究に止まらず誤判、冤罪救援に尽力したことで知られる。講談社現代新書の『冤罪はこうして作られる』(1993)のような一般書も書いた。裁判員制度などの「司法改革」への批判でも知られた。護憲論者として「九条科学者の会」呼びかけ人も務めた。
(小田中聰樹)
 肩書きが「ハーブ研究家」となったベニシア・スタンリー・スミスが21日死去、72歳。イギリス人だが、離婚した母とともに世界各地を移りながら育った。1971年に日本に来て、1978年から京都で英語学校を経営。1992年に登山家梶山正と再婚し、96年に京都・大原に住むようになり、ハーブ作りを始めて、ハーブ研究家となった。『ベニシアのハーブ便り 京都・大原の古民家暮らし』(2007)などエッセイも出版。その暮らしぶりをNHKが撮影し『猫のしっぽ カエルの手 京都 大原 ベニシアの手づくり暮らし』として放送した。これは日曜日夕方6時にEテレで放映されて、母親が見ていたので僕はこの人のことを身近に感じるようになった。
(ベニシア・スタンリー・スミス)
27代木村庄之助、22日死去、97歳。1977年から90年まで大相撲の行司最高位の木村庄之助として活動した。
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