尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「昔の日本映画」のまとめ

2020年05月31日 20時43分21秒 | ブログ記事のまとめサイト
 過去に書いた記事のまとめ記事名をクリックすると、当該記事になります
テーマごとの記事 
映画に見る昔の学校
  ①「しいのみ学園」(2011.11.17、清水宏監督) ②「ともしび」(2011.12.4、家城己代治監督)
  ③「人間の壁」(2011.12.21,山本薩夫監督) ④「青い山脈」(2012.4.10、今井正監督)
  ⑤「山びこ学校」(2012.7.4、今井正監督) ⑥「非行少年」(2013.11.6、河辺和夫監督)
  ⑦「はだかっ子とユネスコ村」(2015.10.18、田坂具隆監督) ⑧「映画「闘争の広場」と勤評闘争」(2017.10.28、三輪彰監督)

日本の戦争映画
  「日本の戦争映画を考える①」(2015.8.9 ②「日本の戦争映画を考える②ージャンルとしての戦争映画」(2015.8.10) ③「日本の戦争映画を選ぶ①」(2015.4.12) ④「日本の戦争映画を選ぶ②」(2015.8.13) ⑤「東映映画「従軍慰安婦」(1974)を見る

東映実録映画とは何だったのか
  ①「活動写真の輝き」(2017.4.20) ②「凄惨な「内ゲバ」の時代」(2017.4.21)
  ③「タブーはどう描かれたか」(2017.4.22) ④「映画「北陸代理戦争」をめぐって」(2017.4.30)
  ⑤「東映映画と「ヤクザ」世界」(2017.5.1) ⑥「最後の博徒」、波谷守之という人」(2017.5.2)

映画「黒い潮」と下山事件をめぐって
  ①「映画監督山村聰」(2013.4.4) ②「下山事件と毎日新聞」(2013.4.4)
  ③「古畑鑑定という壁」(2013.4.7) ④「佐藤一という人」(2013.4.9)

昭和天皇が見た戦争映画
  ①「昭和天皇が見た戦争映画①(1941~1942)」(2015.9.29) 
  ②「昭和天皇が見た戦争映画②(1943~1945)」(2015.9.29)

女優の記事
芦川いづみ
  ①「芦川いづみをみつめて」(2013.1.17) ②「芦川いづみの映画を見る」(2015.9.13)
  ③「中平康映画の芦川いづみ」(2015.9.15) ④「日活アクションの中で」(2015.9.24)
  ⑤「「純潔」時代の青春映画」(2015.9.26) ⑥「「あいつと私」という映画」(2015.9.27)
  ⑦「芦川いづみの映画再び①」(2016.2.7) ⑧「あじさいの歌」(2016.2.9)
  ⑨「源氏鶏太の映画」(2016.3.24) ⑩「滝沢英輔監督の仕事」(2016.3.26)

淡島千景
  ①「追悼・淡島千景」(2012.2.17) ②「淡島千景追悼上映と淡路恵子トークショー」(2012.4.22)
岩下志麻
  ①「岩下志麻のトークショー、岩下志麻の映画」(2012.4.1)
山口淑子
  ①「追悼・山口淑子」(2014.9.15) ②「李香蘭の2本の映画(「萬世流芳」と「私の鶯」)」(2015.7.15)
桑野みゆき
  ①「女優・桑野みゆきをめぐって」(2014.12.2)
夏目雅子
  ①「夏目雅子没後30年」(2015.9.15)
原節子
  ①「原節子の訃報を聞いて」(2015.11.26) ②「原節子の追悼上映」(2015.1.23)
京マチ子
  ①「「美と破壊の女優 京マチ子」と京マチ子映画祭」(2019.2.26)

男優の記事
高倉健
  ①「「健さん」が「テロリスト」だった頃」(2014.11.20) ②「「野性の証明」「南極物語」のころ」(2015.2.13) ③「快男児のゆくえ」(2015.3.13) ④「高倉健の「任侠映画」」(2015.3.13)
小沢昭一
  ①「追悼・小沢昭一」(2012.12.11) ②「小沢昭一の「純情」 本と映画①」(2013.3.13) 
  ③「新劇俳優・小沢昭一 本と映画②」(2013.3.14)
菅原文太
  ①「菅原文太も亡くなったのかー追悼・菅原文太」(2014.12.2) 
志村喬
  ①「「映画俳優 志村喬」展を見て、志村喬を振り返る」(2015.10.18)
荒木一郎
  ①「荒木一郎と芹明香の映画」(2016.10.16) ②「映画「脱出」と荒木一郎トークショー」(2016.10.23) 
内田裕也
  ①「内田裕也、スクリーン上のロックンロール」(2019.6.14)
宍戸錠
  ①「宍戸錠と日活アクション」(2020.1.22)

作品の記事
旅の重さ
  ①「映画「旅の重さ」(1972)の魅力」(2018.6.22) ②「高橋洋子と吉田拓郎ー映画「旅の重さ」の魅力②」(2018.6.23) ③「映像と物語ー映画「旅の重さ」の魅力③」(2018.6.24)

文芸映画の数々
  ①「夜明け前ーリアリズムの力」(2011.4.27) ②「佐分利信監督の「広場の孤独」」(2014.10.23)
  ③「「私の男」と「蜩の記」ー直木賞作品の映画史①」(2015.1.10) ④「直木賞作品の映画史②
  ⑤「昭和文学の名作映画を見る(濹東綺譚、細雪、あにいもうとなど)」(2015.6.30)
  ⑥「映画「ドグラマグラ」再見」(2016.5.15) ⑦「幸田文「流れる」、原作と映画
  ⑧「映画「煙突の見える場所」とお化け煙突」(2018.4.10)
  ⑨「映画「砂の女」(勅使河原宏監督)を見る」(2018.4.24)
  ⑩「熊井啓監督「忍ぶ川」を再見して

その他、単発記事
  ①「映画「幕末太陽傳」デジタルリマスター版を見る」(2012.1.14) ②「吉村公三郎監督「一粒の麦」と集団就職」(2012.9.11) ③「父ちゃんのポーが聞こえる」(2012.11.7) ④「「七人の刑事 終着駅の女」-駅と映画」(2013.1.5) ⑤清水宏監督の「みかへりの塔」(2013.6.15) ⑥衣笠貞之助監督「地獄門」という映画(2013.6.23) ⑦「市川崑「東京オリンピック」」(2013.12.29) ⑧「春だ ドリフだ 全員集合!!」(2016.5.23) ⑨「「リンダ リンダ リンダ」と「ナビィの恋」」(2017.1.2) 
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「記事のまとめサイト」を作りました

2020年05月31日 20時42分32秒 | ブログ記事のまとめサイト
 「コロナ自粛」で「巣ごもり」しているから、「片付け」をしている人も多いだろう。僕もリアルな片付けも少しやったけれど、それ以上に「ブログ記事」の整理をしたいる。ブログ開設以来時間が経って、記事もものすごく多くなってしまい、自分でも探すのが大変。もう不要な記事も多いから、少し削除している。(もう何年も前の選挙の事前予測など意味がないから。)

 まず古い日本映画からまとめてみた。今は映画も見られないから、昔を思い出して書くのが楽しい。書き始めた当初は画像もない。ものが多い。文章もとにかく長くて、自分でも読みにくい。「今日は暑い中を頑張って映画を見に行った」みたいなマクラも、今となっては無意味なので、基本的には削除した。もちろん誤字脱字は直し、自分でも意味不明の箇所はできるだけ判りやすくした。しかし、記事内容の趣旨は変えていない。

 次は「日本の映画監督」をまとめるが、次第に「教育」「歴史」「国際問題」「選挙」などを順々に振り返ってまとめる予定。期限を決めてあるわけではないので、出来ないままのジャンルも残るかも知れない。「索引」じゃないので、まとめサイトに載せてない記事もある。削除まではしないけれど、まあいいかという感じか。読んで貰うための記事ではないので、スマホで見ている人はスルーして欲しい。
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「花粉症と免疫系仮説」ー「コロナ」事態をどう考えるか②

2020年05月29日 23時04分04秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 新型コロナウイルスで日本の死者が少ない理由は、今の段階でははっきりとは判らない。①で書いたように東アジア全般で少ないので、民族性や生活様式の違いがあるのかどうか。しかし、それはこの問題の最大の謎ではない。僕が思うに、一番の謎は「ロシアの死者は何故少ないのか」だと思う。と思ったら、ロシアの死者数は大幅に増えるらしい。WHOの数え方とは違う独自の計算をしていたらしい。

 それにしても、アメリカが感染者172万、死者10万、ブラジルが感染者43万、死者2万6千、ロシアが感染者38万、死者4千、イギリスが感染者27万、死者3万7千、スペインが感染者23万、死者2万9千、イタリアが感染者23万、死者が3万3千…と感染者数を並べると、人口規模や人口密度が全然違うけれど、ロシアだけ死者数が一ケタ違う感じがする。これは計算方法だけでは説明できないと思う。

 もう一つ不思議なことは、オランダとベルギーの違いだ。オランダは人口1730万、面積4万1千㎢。ベルギーは人口1142万、面積3万㎢。オランダの方が人口、面積ともに大きいけれど、隣国だし文化的にも近い。しかし、オランダは感染者約5万、死者が5890人、ベルギーは感染者5万7千、死者が9千3百人ほどと感染者数に比べて、ベルギーの死者が倍近く多い。ベルギーの致死率はEU最悪らしいが、老人ホームなどでの「感染疑い例」もPCR検査抜きで死者にカウントしているとも言われている。

 このようにまだ判らないことが多い。最近は南アメリカ(ブラジル、ペルー、チリなど)や中東(エジプト、サウジアラビア、カタールなど)で感染が急拡大していて、未だ全体像を分析できる段階ではない。そういう中に、日本のケースもある。日本で何で感染者が少ないのか。それでも今期のインフルエンザの推定死者数を超えたと思われる。インフルエンザ感染者は今期は少なくて、700万人台と推定されている。致死率0.1%ほどとみなすと、700人前後が亡くなったことになる。現時点で日本の「コロナ」の死者は867人だから、インフルエンザを上回った可能性がある。

 日本を考えると、要するに「2月、3月に多くの人がマスクをしていた」ことが一番感染者を増やさなかった理由だと思う。「3・11」の時、世界のニュースには「マスクをして通勤する東京の人々」の画像が流れた。そこには「放射能を恐れる人々」という解説が付いていた。いくら何でも、マスクで放射線が防御出来ると思うはずがない。もちろん、それは「花粉症を恐れる人々」だった。今年は「新型コロナウイルス」もあるが、それ以上に「花粉症を防ぐ」ためにマスクをしていた人が多いはずだ。
(花粉症対策でマスクをして通勤する人々)
 マスクの穴よりもウイルスの方が断然小さい。ウイルスも通さないマスクになったら、人間が呼吸できない。しかし、マスクをしていれば、飛沫をある程度防ぐことも出来る。そして、それ以上に「無症状の感染者」が他人に「飛沫感染させるリスク」は大きく減るだろう。僕も無症状の段階で感染力があるとされてからは、「感染防止におけるマスクの有効性」を評価するようになった。ただ日本には「マスク文化がある」などと言う人もいるが、それはおかしい。花粉症や風邪が嫌だから、仕方なくしているんであって、家でも年中マスクをしている人はさすがに日本にもごく少数だろう。

 誰だったか、「免疫力を高める」という表現はおかしいと言っていた人がいた。「自然免疫力を一定レベルで維持する」と言うべきだという。そもそも「免疫力を高める」ということの意味が医学的にはおかしいらしい。仮に「免疫力が高まる」食事で実際に高まったりしたら、どうなるか。体内に入る異物どころか、自分自身をも攻撃する「免疫暴走」が起こるかも知れない。「免疫不全」も困るけど、「免疫暴走」も困る。免疫が高すぎるとアレルギーが起こりやすい。
(「免疫力を高める食品」) 
 上の画像にあるように、よくテレビのバラエティ番組などで「免疫力を高める」とされるのは、「発酵食品」や「海藻」が取り上げられる。それが本当に正しいかどうか、僕はよく判らないけれど、一般論として健康には良さそうだ。そして、味噌、醤油、納豆、鰹節、チーズ、ヨーグルト、キムチやピクルスを含めた漬物などの発酵食品、海苔、ワカメ、昆布などの海藻類と名を挙げてみれば、日本人は特に意識しなくても十分以上に摂取している。むしろ醤油、味噌、漬物などで「塩分の取り過ぎ」が大問題だ。

 昔なかった「花粉症」が増えたのは、林業政策の問題でもあるけれど、日本の衛生環境が良くなって(つまり「綺麗になりすぎて」)、同時に日本人の免疫力も食事などで高まったからではないだろうか。アレルギーも増えているようだし。十分日本人の免疫力は高くなっているし、だからこそ花粉症発症者が増えた。そう考えると、スギ、ヒノキ花粉が激増する2月から4月頃は、首都圏に住む人々の体内では免疫系総動員になっているかと思う。

 細菌やウイルスには、一端かかれば次は発症しない、あるいは軽症化するという「獲得免疫」がある。一方、もともと人間には「自然免疫」が備わっていて、病原体侵入に際して免疫系の活動で防御する。中世のペスト大流行の時でも、死者は3分の1で助かった人の方が多い。先に読んだマンゾーニ「いいなづけ」は、ペストに罹患したものの助かった人と助からなかった人のドラマだった。一番恐ろしいエボラ出血熱でも致死率9割とされ、1割の人は助かるのである。

 花粉症の季節は、発症する人もしない人も、花粉という異物がどんどん体内に入ってくるから、体内の免疫系はたとえて言えば「緊急事態宣言」が出ているだろう。突然コロナウイルスが侵入したのではなく、ウイルスではないにせよ体は準備していた。そのため感染、発症がある程度押さえられたのではないか。これが成り立つかどうか、僕は医学研究者ではないから判らない。でも人と同じことを書いても仕方ないから、何か他のファクターを考えた時に思いついた「花粉症仮説」である。
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東アジアでは死者が多い日本ー「コロナ」事態をどう考えるか①

2020年05月28日 22時45分47秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 緊急事態宣言解除に当たって、安倍首相は「日本モデル」を示したと世界に宣伝した。それは果たして正しいのだろうか。解除されても、北九州市で感染者が増大し、東京でも精神科病棟でクラスター(集団感染)が発生した。事態はまだ進行中で最終的な判断は難しいと思っている。しかし、まあ日本の感染者数と死者数が、G7各国で比較した場合は少ない状態に収まっているのは間違いないだろう。PCR検査数が少なすぎるだの、隠れコロナ死者がいるだの言われているが、それでも欧米各国ほどの惨憺たる事態になったわけではないことは確かだ。

 しかし、G7で見るなら、日本以外は皆欧米諸国である。当初は中国武漢で感染爆発が起こったが、3月末からはヨーロッパ、アメリカが感染の中心地になった。中国でも武漢以外では流行が抑えられた。今まではそれは「中国の強権体制」が理由だと思われてきた。一方、台湾や韓国は「政府の対応が適切だった」ために、感染爆発が防げたと思われてきた。

 日本では欧米からの出入国制限も遅く、PCR検査も少なく、休業要請などの強制力もなく、テレワークは進めたものの「人との接触を8割減らす」ことが当初から目標で「厳しい都市封鎖」は行わなかった。それは欧米諸国から見れば、相当に「緩い対策」だったにも関わらず、日本は欧米ほどの流行を見ていない。そこに「日本の特異性」を見ることも不可能ではないだろうが、それより考えるべきことは東アジア、東南アジア、オセアニア一帯でどこも大きな流行を見ていないという事実である。

 まあオーストラリア、ニュージーランドは南半球だから、今までは夏だった。風邪系ウイルスは流行しにくいし、人口密度も低い。しかし、東アジアは世界でも人口密度が多い地帯であって、大感染が起こっても不思議ではない。何故東アジアでは比較的に感染が抑えられたのか。「政府の対策」や「国民性」、あるいは「生活様式」「食生活」など多くのファクターが想定できる。

 「人種」だという人もいるかもしれない。現在では「人種」概念そのものが疑問を持たれている。「人種」とは世界を「白色人種」(コーカソイド)、「黒色人種」(ネグロイド)、「黄色人種」(モンゴロイド)に分類し、世界の人々をそのどこかに当てはめた。自分の頃には世界地理でそう教わったわけだが、複雑な世界の中で「人種」で分けるのは今ではおかしい。だが「遺伝子」レベルでなくても、社会習慣や生活実態で世界がいくつかの「文明圏」に分けられるのは確かだろう。

 現時点ではデータがないので、これ以上深入りしない。ただ日本でいち早く承認された薬「レムデシベル」について、山中伸弥氏が紹介するアメリカの研究では、白人には優位な効果があり、黒人では効果が少なく、アジア系では効果がなかったという結果になっている。当初から武漢ではレムデシベルの効果が証明できないという話があったが、アメリカの研究でも同じような結果が出たのである。現実に薬効に民族的な違いが見られるらしい。ニューヨークには多くの日本人もいるし、中国系、韓国系の移民も多い。感染者や重症者に違いがあったのかは、やがて科学的なデータが出てくるだろう。
(東アジア各国の10万人当たり死者数)
 ところで、そのような何故だか決定的要因は判らないながら、感染がある程度に抑えられた東アジア各国の中で、日本は「10万人当たりの死者数」が一番多い。中国の方が多いだろうと思うと、ほぼ武漢の大流行に留められたので、人口が多い中国では「10万人当たり」では少ないのである。欧米各国に比べればずいぶん低いものの、東アジアでは一番高かったのである。日本では重症患者の対応で優れた結果を残した。集中治療室(ICU)や人工呼吸器で多くの患者が救命されたという。

 それでも死者数が東アジアで一番多かったのは何故か。それは「高齢化率」が世界で一番高い日本で、「院内感染」が多発したからだ。今病院名は挙げないが、日本中で多くの病院や福祉施設でクラスターが発生した。その結果、多くの病院で、コロナ以外の患者受け入れが停止され、その分他の病院が大変になった。院内感染が起こると、医師や看護師の多くが「濃厚接触者」になってしまい、「戦力外」になる。こうして残った医療関係者がますます疲弊してしまい、再びどこかで院内感染が起きる。「医療崩壊」は定義次第だが、一時はほぼその直前まで追い詰められたと思う。

 病院には元々多くの高齢者が入院している。面会も禁じられたまま、院内感染で亡くなってしまうのはあまりに悲しい。しかし、元々他の病気やケガで入院していて、体力も落ちている。ちょっとしたことで、感染がどんどん広がってしまう。それを防ぐためには、「医療資源」にもっと投資する以外ない。医者、看護師、臨床検査技師などの充実、マスク、防護服などの備蓄、人工呼吸器等の整備などいろいろ挙げられる。しかし、もっと根本的な問題がある。

 今回、医療従事者が差別されるという信じがたい事態が起こった。「目の前の心配」と「真の敵」が区別できない人が多数いるのだ。労働条件が厳しく、給料もそれほど恵まれないのに、今後誰が医療の仕事を目指すんだろうか。あるいは「基礎研究」の重要性はいつも指摘されるが、政府は「目に見える結果」を大学にも求めてきた。今の危機によって、多くの大学院生が研究の場を去ってしまう可能性もある。日本の「衰退」は取り返しが付かないのだろうか。ここで「一番大事なもの」に投資するように国を変えないといけない。それは「」である。「アメリカとの関係」ではない。
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ジョゼ・サラマーゴ「白の闇」を読む

2020年05月27日 20時57分50秒 | 〃 (外国文学)
 ジョゼ・サラマーゴの「白の闇」(1995,雨沢泰訳、河出文庫)を読んだ。サラマーゴ(1922~2010)と言われても知らない人が多いだろうが、1998年にポルトガル初のノーベル文学賞を受賞した世界的作家である。結構翻訳も出ているが、文庫になったのは初めて。僕も初めて読んだ作家だが、400ページもひたすら字が続き、長い文章が続く。それが著者の特徴だというが、翻訳も読みやすいし、文章自体は違和感がない。問題は作品世界そのものである。
(「白の闇」)
 翻訳は2001年に出て、2008年に新装版が出たという。それから時間が経った今になって文庫されたのは何故か。明らかに世界に蔓延する新型コロナウイルスである。これは現代に書かれた代表的な「感染症純文学」なのである。しかし、その設定は実にとんでもない。何しろ、突然「目が見えなくなる」のだ。それが「伝染」する。伝染するんだから、細菌やウイルスの感染のはずで、炎症と発熱が起きるはずだが、それは何もない。そして伝染力が非常に強くて、ちょっとでも接触があった人はどんどん失明する。やがて社会の大部分の人が視力を失うのである。
(ジョゼ・サラマーゴ)
 小説はどんな設定を作ろうと自由なんだから、この小説が病態的にはあり得ないとしても構わないだろう。ここでの「失明」「盲目」はある種の「たとえ」と見るべきなのかと思う。でも実際の小説は、ただひたすら「失明者の苦悩」として進む。著者はある日食事をしていて、突然みんなが失明してしまったらどうなるだろうと思いついたという。それは「人間性の喪失」というか、「人間性の本質」をあらわにする思考実験とも言える。そうなるとこうなるのか、という恐るべきトンデモ小説だ。

 もちろん今だって、人は失明することがある。でも白内障などは少しずつ進行するし、家族や福祉制度を頼ることが出来る。家族全員が突然失明したらどうなるか。しかも、皆が同じ時期に失明するわけではないから、仕事に行く途中で目が見えなくなったら家にも帰れない。自分だけなら、誰かが助けてくれるかもしれない。実際「最初に失明した男」は別の男が家まで車で送ってくれた。異常を訴えて眼科に行くが、その眼医者や患者たちもやがて失明する。当初政府は「全員隔離」の方針を立てたが、食料はなかなか来ない。門では兵士が監視している。次第に隔離者が増えてくる。

 全員が目が見えないとして、まず困るのは食事だ。しかし、食べたら排泄がある。しかし、どこにトイレがあるのか。あってもキレイに使えるのか。シャワーも使えなくなり、あまり読みたくない展開になっていく。そしてそんな場所でも「独裁」が生まれ、人間性の闇が露出するのである。しかし、何故か「医者の妻」だけは失明しない。隔離のために夫が連行されるときに、自分も今見えなくなったと申告して付いてきたのだ。当然その時点ではいずれ失明すると思われていたが、その後も目が見え続けた。そしてこの医者の妻が物語の中心になってゆく。
(映画「ブラインドネス」)
 「感染症小説」というより、「ディストピア小説」という感じだった。とても読む気になれないぐらい、字ばかりが続いている本だけど、先に書いたように決して読みにくい小説ではない。問題はあまりのトンデモ設定に付いていけるかどうか。あまりにも世の中が汚くなっていき、読むのが辛い。一体どう終わるのかと思うが、こうなるかという終わり方。この本は2008年にレイナルド・メイレレス監督「ブラインドネス」という映画になった。「シティ・オブ・ゴッド」や「ナイロビの蜂」で知られるブラジル人監督である。医者の妻をジュリアン・ムーアが演じ、カンヌ映画祭でオープニング上映された。最初に失明した男を伊勢谷友介、その妻を木村佳乃が演じた。2008年に日本でも公開されたんだけど、全然知らなかったな。
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「緊急事態宣言」が明けてー安倍首相の取り組みをどう評価するか

2020年05月26日 23時33分21秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 5月25日夕方に政府は「新型インフルエンザ等対策特別措置法」に基づく緊急事態宣言を残されていた5都道県で解除した。これで全国全てで解除されたことになる。しかし、「新型コロナウイルス感染症」そのものは当然まだ残っている。26日の東京の新規感染者は10名だった。「第二波」を恐れる声も多い。世界ではヨーロッパの感染者は減少しつつあるものの、アメリカはまだ多い。最近はブラジルで急激に感染者と死者が増加してる。この段階での解除は早すぎたのか、それとも遅すぎたのか。
(解除を報道するテレビニュース) 
 4月7日緊急事態宣言が7都府県に発出されたとき、「正気を保って生き延びる-緊急事態宣言の下で」(2020.4.7)を書いた。そこで「いよいよ緊急事態宣言である。これが「遅すぎた」あるいは「危険なものだ」とする意見も多いが、まさに適切な時期に出されたものかどうか、もうすぐ判る。それまで「観察」を続けたいと思う。」と書いた。この間、東京では49日間の「緊急事態」が続いた。

 まず経過を簡単に振り返っておきたい。まず4月7日に7都府県に5月6日までの緊急事態宣言が出された。16日に全都道府県に拡大され、5月4日にさらに5月31日まで延長された。その後、5月14日に39県で解除され、21日に近畿地方の3府県で解除された。そして、25日に残った5都道県でも解除されたという運びになる。確かに感染者数は減少はしたものの、最後の方はなんだかなし崩しに解除された感もあった。「解除の目安」がはっきりと示されず、数字だけでは神奈川や北海道は解除できなかった。しかし、今回の解除はやむを得ないだろう。これ以上はもう学校やお店を閉められない。

 この間の「観察」をまとめてみると、僕はまず「今回の緊急事態宣言はやむを得なかった」と考えている。2月末の大型イベントや博物館・美術館等への自粛要請、及び全国一斉の学校休校要請必要なかったと考えている。実際、2月段階ではまだ欧米の大感染は起こってなかった。クルーズ船対応などが世界から批判され、五輪開催に向けて先走った対策が取られたと思う。その段階で学校やライブハウス等が閉められて、多くの派生的問題が生じた。しかし、「困っている人」をどう救うかの対応策はほとんど取られなかった。右往左往しながら、欧米帰りのウイルスによる感染拡大を招いた。

 一方、「アベによる緊急事態宣言を許すな」と呼びかける人もいた。「リアル集会」や「リアルデモ」まで行われている。安倍首相は今まで人々の自由と人権を損なうような言動が多かった。だから緊急事態宣言の名の下に、恐るべき人権侵害が起こると心配する人がいたのである。しかし、いくら何でも今回はやむを得ない。東京では毎日のように200名を超える感染者が出た。しかも検査数が少なく、もっと多くの感染者がいると思われていた。院内感染も多く起こって、ほとんど「医療崩壊」が起こりつつあった。高齢者を抱える家族(自分もそうだが)では、この間強い緊張を強いられた。結果的にそこまで心配しなくても良かったのかもしれないが、多くの人がやはり恐れを抱いたのである。

 この「感染拡大」そのものは、安倍内閣でなくても(誰が最高責任者でも)防げなかったと判断している。しかし、国民への「説得力」、「科学的思考力」が低く、みんなが感染の心配だけでなく、今後の生活に大きな不安を感じるようになった。「専門家会議」というものがあっても、「結論」が決まっている感じだった。宣言発出も解除も、前日ぐらいから新聞やテレビで伝えられていた。じゃあ、専門家会議をやる時間はムダではないか。政府の「諮問機関」というのは、いつも同じである。

 特にダメだったのが、最初の「宣言」の後で、「補償」に関する対策がすぐに出て来なかったことである。結局、自治体が先行し、政府は追認することになった。そして、9日後に全国に緊急事態宣言が拡大された。しかも、5月6日までという連休最後の日に期限が決められていた。これでは仮に解除されていたとしても、連休中ですぐに態勢が整わない。最初から「全国一斉で、5月11日(月曜日)まで」として、すぐに補償措置などを打ち出していれば、そこで解除出来たのではないだろうか。
(5月25日の首相記者会見)
 安倍首相は4月7日の記者会見で、イタリア人記者の「成功だったら、もちろん国民だけではなくて世界から絶賛だと思いますけれども、失敗だったらどういうふうに責任を取りますか」という質問に対して「最悪の事態になった場合、私たちが責任を取ればいいというものではありません」と述べた。そして、宣言の延長時の記者会見では「責任を痛感している」とも述べた。安倍首相が「責任」を痛感するのは何回目だろうか。誰か大臣が辞めるたびに、「任命責任者として責任を痛感している」と述べてきた。「責任を痛感する」=「責任は取らない」なのである。

 日本は「成功」したのだろうか。「成功」であれ、「失敗」であれ、その理由はなんだろうか。それはまた別に考えたいが、今回の緊急事態宣言下にはっきりしたのは、「安倍首相のリーダーシップには問題が多い」ということだ。「説得力」が少なく、「誠実さ」が感じ取れない。「私が責任を取る」と言って、当初から大胆な補償措置を打ち出していれば、これほど長く学校や食堂、劇場、映画館、観光施設などが閉鎖され、国民生活が追い詰められることはなかったと思う。「私が責任を取る」と言明しても、「真にやむを得ない事情」があるならば、国民だって支持したに違いない。
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消費税15%が必要な「9月入学」

2020年05月25日 22時15分12秒 |  〃 (教育行政)
 「9月入学」について、今まで2回書いた。「9月入学への4つの疑問」(2020.4.28)と「『9月入学』は『コロナレガシー』なのか?」(2020.4.30)である。それから一ヶ月経って、文科省は検討対象を「2つの案」に絞った。また民間から様々な財政負担の推計も出てきている。大事な論点は最初の記事で示してあるが、自分では気付かなかった論点もたくさんある。ここでもう一回論じておきたい。
(文科省提示の2案)
 恐らく最初に「9月入学」を言い出した人たちは、「今の学年をそのまま9月に移行する」ことを想定していたと思う。特に大学や大学受験を意識した進学高校関係者には、そのような発想が多い。しかし、義務教育じゃない大学は本来二次的な問題である。義務教育である(国家が責任を持つ)小学校中学校の教育のあり方をどうするかという議論が一番重要だ。そして、「そのまま学年を移行する」案はなくなった。当然だろう。それでは義務教育開始年齢が7歳5ヶ月になり、他国に比べて異常に遅れてしまう。世界ではむしろ「義務教育開始を早める」国が多い。

 はっきりしたのは、「9月段階で6歳を迎えた児童」(翌年8月末までに全員が7歳となる)を小学生にするということである。ただし、一度に受け入れる第1案では小学1年生が「1.4倍」ぐらいに膨らむ。教員も教室も不足するし、その学年は年齢差が大きくなる。後々受験も大変になる。だから、一年ごとに「4月生まれ」「5月生まれ」…と受け入れ対象を広げていき、5年掛けて移行するのが第2案である。その場合、一年ごとの財政負担は少ないけれど、結局同じ額を5年間に分割するだけだ。その間、待たされる子どもたちはどうなるのか。そこで小学校に「仮入学」させて「ゼロ年生」を作る案も出てきた。
(ゼロ年生案)
 しかし、ゼロ年生を作ったら、教室や教員(必ずしも「教員」じゃなくてもいいだろうけど)を増やす必要があることに変わりない。要するに、どのような方策を取ろうが、「9月入学」実現には莫大な財政支出が必要になるのである。それは一体、どのぐらいだろうか。日本教育学会が22日に示した提言によると、財政・家計の新たな負担額は6・5兆円にも上るという。以下で触れるように、他にも社会の負担は大きいと思われる。今はまず、新型コロナウイルスで巨額の財政支出が必要である。来年度は法人税の落ち込みも予想される。どこからこの巨額の支出をひねり出してくるんだろうか。

 6.5兆円と言っても、家計負担分が2.5兆円になるらしい。そうすると財政の新負担は4兆円になる。そのうち私立学校への補助金増が2兆円になる。私学は出願料・入学金・授業料の入金が5ヶ月遅れるが、それは国策による負担だから国が補助する必要がある。他に教員増員分教室整備分などがあるが、他に予想以上に待機児童が増える試算がある。また後で書く税収減を埋め合わせないといけない。大まかに言って「5兆円」を何とかしないといけない。それを消費税でまかなうとすれば、消費税1%がおよそ1兆円になるので、消費税を15%に上げないと捻出できない金額だ。

 もっともこの言い方は「レトリック」である。政府も消費増税はしないだろう。消費税の目的(と政府が言ってきたこと)から言ってもそれはない。そもそも義務教育段階の支出は、地方自治体の負担が大きい。それでは住民税をアップするのか。地方交付税を大幅にアップするのか。それにしても児童数が多い都市部の財政が破綻の危機に陥るのは間違いない。小泉内閣で「義務教育費国庫負担金」の2分の1から3分の1へ減額を強行されたが、それを再び2分の1に戻すとか、「ふるさと納税」を廃止するとか、抜本的な対策を取っても「焼け石に水」ではないか。

 教育であれ何であれ、「ただのもの」はない。しかし、「4月入学」なら教育費の財政負担は例年と同じである。ここで言っている膨大な負担というのは、いつもの年に上乗せして必要になる金額なのである。各マスコミの世論調査でも、9月入学の是非を聞いているが、この巨額の財政負担に触れずに、ただ一般国民の意見を聞いても仕方ない。「4月入学なら新しい負担は生じない」「9月入学にすると、消費税5%分程度の増税が必要になる」と説明をしてから、「どちらに賛成ですか?」と聞かないと正しい世論を測ることが出来ない。

 2018年には全国で高校生が322万人いた。一年間に生まれる子どもの数はだんだん減っているが、まあこの何十年の間、100万人前後になっている。定時制、通信制など高校もいろいろあるが、全部で300万超、一学年は100万前後と考えればいい。そのうち、2019年の大学進学率は55%ほどだった。「留学に便利」と言っても、45%の高校生には関係ない。むしろ、4月から就職していれば得られた給料分が、家計から失われる。大学生でも同様のことがある。その間の家計負担が2兆円に上る。それだけでなく、その給料から所得税や社会保険料が支払われているわけで、その減収分が相当額に上ることが予想される。それは僕は当初は気付かなかった。

 9月入学に伴い、第1案の場合、教員は2万8千人不足するという。(刈谷剛彦氏推計、朝日新聞5月17日)この不足人員を一挙に採用しようとすると、多くの地方で小学校の教員採用試験が1倍を割るという。教員の定年を延長するなどしても、充足は無理だろう。新規採用教員には研修も必要だし、現場が大混乱になるのは必至。では第2案で、一ヶ月ごと受け入れ児童を増やせばいいのか。確かにその場合、一度に教員を採用増する必要はなくなるが、結局5年間かけて、同じように増やすので財政負担総額は変わらない。

 さらに、この案の最大の問題は幼稚園などで形成されていた人間関係をバラバラにすることだ。4月生まれだけをピックアップして上級学年に繰り入れてしまうわけである。翌年は5月生まれだけ分断される。第2案は財政面、教員採用面では第1案よりいいけれど、肝心の児童にとっては残酷な案になってしまう。こういう風に、最初に「4つの疑問」と書いた他にも、家計への影響待機児童増教員採用の問題国の税収減など多くの問題があることが判った。もう「9月入学」議論は打ち切った方がいい。今の財政状況で出来るはずがない。それが「大人の責任」だろう。

 最後に一応書いておくが、最初から言っているように、大学が「秋入学」を実施するのは、大賛成である。というか、もうそういう仕組みはある。その分を増やしていけば良い。学生も「春入学」「秋入学」「春卒業」「秋卒業」を自分で選べばいい。企業も「通年採用」もしくは、「春秋採用」にすればいい。小中高は、会計年度に合っている方が便利だと思うが、絶対に4月入学じゃないとダメということでもないと思う。しかし、財政上出来ないことは、「今は無理」とはっきり決着を付けることが大事だ。
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「チェーホフ・ユモレスカ」を読むーチェーホフを読む③

2020年05月24日 22時18分26秒 | 〃 (外国文学)
 毎月アントン・チェーホフを読もうと思ってるけど、なかなか全集に入れない。全集未収録の初期短編を集めた「チェーホフ・ユモレスカ」が文庫で4巻もあるので、まずそっちから読もうかと思った。「ユモレスカ」はロシア語で「ユーモア小品」を意味するという。本来は複数だから「ユモレスキ」だが、日本では原則として名詞は単数で呼ぶから「ユモレスカ」とすると書いてある。2008年に新潮文庫から「チェーホフ・ユモレスカ 傑作短編集」が「Ⅰ」「Ⅱ」が出て、2015年に中公文庫から「新チェーホフ・ユモレスカ」として「郊外の一日」「結婚披露宴」が出た。全部松下裕訳で、今もネットで入手できる。
(「チェーホフ・ユモレスカ 傑作短編集Ⅰ)
 これはまだプロじゃなかった時代のチェーホフが、あちこちの雑誌に書き散らすように書いた文章だという。苦学して医学校に通っていたチェーホフは、文学修行と学費稼ぎのためにいっぱい書いていた。とにかく「面白いもの」という注文さえ守っていれば、後は割合好き勝手に書けたんだという。ロシアには「アネクドート」という小咄があるが、これはそれに近い。一つの作品も短くて、10ページ前後。もっと短いのも多くて、1冊目は65篇、2冊目には49篇も入っている。結構分厚いけれど、そういう成り立ちだから読みやすい。でもまあ、特に全員が読むべき本でもないかなあと思う。
(「チェーホフ・ユモレスカ 傑作短編集Ⅱ)
 「ユーモア」とあるけれど、より感じられるのは「皮肉」であり「ペーソス」(哀愁)である。ロシアの民衆の、権威に弱く、飲んだら止まらず、愛を求めては失敗する姿を、時には暖かく寄り添い、時には厳しく突き放す。短すぎて、読んだ端から忘れてしまうような文章ばかり。ここから大作家が生まれたのかと驚くような「ショートショート」集だ。ここには実に多くの階層が登場する。地主と農民、高級役人と下っ端役人、医師、軍人、作家、俳優、銀行家、弁護士、猟師、聖職者、公爵夫人、若い女性と老女、数限りない人々が、上下を問わず出てくる。そこに「人間観察家」としての凄みがある。
(「郊外の一日」)
 ロシア人の暮らしに「パーティ」が多いこともよく判る。特に「名の日の祝い」で集まる話が多い。何だという感じだが、要するに「誕生日」である。日ごとに「聖人」が決まってるので、誕生日の聖人にあやかって子どもの名を付ける。だから子どもの誕生日は「聖人の名の日」になるわけである。招かれては酒を飲み、酔っ払って失敗する。上司と部下の話も多い。とにかく役人の位が重要で、何等官かで上下の違いが大きい。それを基にした笑い話も多い。将来劇作家として有名になるだけあり、劇場をめぐる人間関係もかなりある。今につながるロシア人の感性を探るには、簡単に読めて格好の題材だ。
(「結婚披露宴」)
 ところで中止になった「桜の園」の公演パンフレットを通信販売している。「SISカンパニー」で検索して、現金書留で送る。現金書留なんか久しぶりだけど、高いのにビックリした。でもまあ「コロナ記念」だと思って買ってしまった。多くの俳優がチェーホフは判らないと言ってる。その通りで、若いうちはチェーホフの戯曲は読んでもよく判らないのである。大昔のロシアの話で、大体設定がよく飲み込めない。そのうえドラマが舞台裏に隠されている。日本の家庭だって、普段の会話だけ聞いてれば、なんだかドラマが読めないだろう。ところが、やがて年取ってくると、セリフの裏にある人間観察が身に迫るのだ。そういう観察力は若い頃から、このようにして磨かれたのかというのが「ユモレスク」の世界。
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瑞牆山と金峰山、奥秩父の名峰ー日本の山⑰

2020年05月23日 22時15分43秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 「日本の山」シリーズ第17回。あまり読まれてないシリーズだから、どんどん片付けて今年いっぱいで終わりにしよう。今回は奥秩父の名峰、瑞牆山(みずがきやま、2230m)と金峰山(きんぷさん、2599m)。麓にある「瑞牆山荘」に泊まって一度に登った。珍しく時期も覚えていて、1993年の5月である。何で覚えているかというと、ちょうど出かける前日に家で飼っていた犬が死んでしまったのだ。もうずいぶん弱っていたけれど、何とか週明けまでは持つと思っていたんだけど。
(瑞牆山)
 中間テストの時期に、試験監督をお互いに調整して金曜日に休暇を取って2泊した。「奥秩父」と言うと埼玉県みたいだけど、実際は山梨県の奥の方になる。秩父から奥多摩にかけて「秩父多摩国立公園」に指定されていたが、山梨県の指定地区の方が大きいので、2000年に「秩父多摩甲斐国立公園」と改称されている。早起きして中央道をひたすら進み、韮崎で下りて農道に入る。キレイに晴れ上がった一日で、南アルプスが屏風のようにそびえているのに大感動。北を見れば八ヶ岳、振り返って南を見れば富士山。こんな素晴らしい山岳景観も珍しい。
(瑞牆山テレカ)
 瑞牆山荘(1520m)に宿を取ってから、駐車場で早めのお昼を作って食べる。それからいよいよ登山開始だ。1時間ぐらいで「富士見平小屋」(1800m)。ここが金峰山との分かれ道で、翌日同じ道をまた登ることになる。そんな元気がその頃はまだあったのである。そこから30分下って川を渡る。それから1時間半の登りで山頂だが、瑞牆山というのは山容が奇岩怪石系で一体どう登るんだろうと心配だった。だけど案外登りやすく、ルートに沿って進んで行けば特に難しい箇所もないまま、あれ、もうすぐ頂上だという感じだった。下りて瑞牆山荘に泊まるが、山小屋というより民宿レベルで満足。
(瑞牆山荘)
 次の日は朝早くから金峰山である。こっちは標高が瑞牆山より370mも高い。それが2日目なんだから、大変だ。特に最初の1時間は昨日と同じ道だから、つまらない。今は東にある大弛峠(おおだるみとうげ、2400m)まで林道が通って、バスもあるという話。そっちならずいぶん楽になるが当時は利用されていなかった。富士見平から、さらに3時間半もあるんだから、お昼前に着くのが精一杯。どういう道だったか、もう全然覚えてない。天気はだんだん曇ってきて、展望はなかった。頂上に有名な「五丈岩」があり、ようやくそこまでたどり着いた。
(金峰山)
 全体としては充実した楽しい山行だったのだが、二日目の金峰山往復はさすがに疲れた。一日目の瑞牆山は快調だったが、やはり連日は疲れる。普通なら足が痛くなってもおかしくない。ところが、この時は全然痛くならなかった。その日泊まった増富温泉が効いたのかもしれない。ここは源泉30度の「ぬる湯」が有名な放射能泉である。放射能泉という名前がどうも気になるんだけど、効能があるのかもしれない。行くまでの道が狭くて大変だったが名湯だろう。ともかくウチではこれが効いて、足が痛くならなかったという「伝説の温泉」になっている。
(増富温泉)
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謎が多い黒川検事長辞任劇

2020年05月22日 20時30分50秒 | 政治
 東京高検の黒川弘務検事長が辞任した。黒川氏に関しては、1月に特例で「定年延長」された。そのことに関して何回かも批判記事を書いた。その後安倍内閣は「定年延長」を後から合法化する「検察庁法改正案」を強引に審議入りさせ、先週末には「強行採決」とも言われていた。それに対し、ツイッター上の批判が集中し、今国会での成立を断念したのが今週月曜の18日である。ところが、20日に「週刊文春オンライン」が5月1日に黒川氏がマスコミ関係者と「賭け麻雀」をしていたと報じた。翌日に週刊文春が発売され、その日のうちに黒川氏が辞表を提出。22日の閣議で辞任が承認された。

 そのような流れなんだけど、この事件には「」が多い。まずは何故週刊文春が報道できたのか。僕は記事を読んでいないが(わざわざ買いに行くのも面倒なので、外出してない)、タクシーで帰宅する写真も撮られていて、相当はっきりした内部情報がなければ取材できない。それは何でも同席していた「産経新聞社」側からの情報だとも言われているが、なんで情報をリークするのかも判らない。同席したのは、産経の記者2人と朝日の元記者1人だという。朝日の場合は今は記者ではなく管理職だというが、産経記者は帰宅時のタクシーも用意し、車内で「取材」していたという。

 法務省は黒川氏を「訓告」処分にして、直ちに辞職を認めた。「訓告」は公務員の「懲戒処分」に当たらない。懲戒処分には、重い順で「免職」「降任」「停職」「減給」「戒告」がある。懲戒に至らない軽微事案の場合、「訓告」「厳重注意」「口頭注意」となる。これらは履歴書の「賞罰」に残らないので、昇格などに影響しない。退職金の計算にも影響しない。黒川氏の「訓告」処分は、重いのか、軽いのか。

 多くの国民、そしてテレビのニュース番組のコメンテーターなども、概ね「軽すぎる」と批判している。問題は3つある。一つ目は「賭け麻雀」が「賭博罪」に当たるという問題。二つ目は「取材相手からタクシーなどの利益供与を受けた」という問題。三つ目は「緊急事態宣言下で、不要不急の行動を繰り返してた」という問題である。「賭け麻雀」は、いつも必ず黒川氏が勝つというわけではなかったらしい。何でも5年ぐらい同メンバーで続いていたらしいが、「自白」のみでは罪に問えない。遊びレベルなら、「証拠」も残っていないだろう。恐らく「刑事事件」として立件には至らないレベルになると思う。

 だから「賭け麻雀」「マスコミ対応」は僕も「訓告」レベルだと考える。だが最後の「緊急事態宣言下」は違う。「外出自粛要請」は法律じゃないから、違反しても処分は出来ないかも知れない。しかし、あれほど「ゴールデンウイークはステイホーム週間」と言われていたときに、深夜遅くまで外出して麻雀をしていた。それも検察№2が「賭け」である。政権はこの人を検事総長に据えようとしていたと言われる。大部分の人がマジメに家で過ごしていたのに、これでは「それでもパチンコ屋に行ってる人」と同じじゃないか。それが「訓告」レベルで、退職金満額支給ですか? と国民なら怒るだろう。

 黒川氏本人の責任じゃないのだろうが、国会では黒川氏問題をめぐってずいぶん時間を空費した。空費というのは、安倍首相や森法相の答弁が、例によって詭弁に満ちていたからだ。それが「賭け麻雀で辞任」では、新型コロナウイルス問題の最中に使った国会の時間は何だったのか。この「訓告」処分は、かつての「金丸上申書問題」と同じだ。法律的には問題ないかも知れないが、国民感情的にはアウトである。恐らくは「退職金満額支給」と「今後の沈黙」がバーターされたのであろう。
(森法相の国会答弁のようす)
 ところで、先に書いた「内閣人事局」はこのような黒川氏の行動を知らなかったのだろうか。黒川氏は2016年9月から2019年1月まで法務事務次官を務めていた。一方、前川喜平氏は2016年6月から2017年1月に文部科学事務次官を務めていた。前川氏が「出会い系バー」に出かけたことを、杉田官房副長官は知っていた。では黒川氏がマスコミ関係者と賭け麻雀をしていたことは知られていたのだろうか? それとも公安警察も、検察には恐れ入って情報収集していなかったのだろうか。

 これが今回の最大の謎だと思う。憶測をたくましくするならば、「黒川氏が余人をもって代えがたい」というのは、「内閣が弱みを握っている」ことだったのではないか。前川氏が「天下りあっせん問題」で辞任した後に、加計学園問題で安倍政権批判を公にしたら、出会い系バー問題が読売新聞に報道された。今後安倍政権を揺るがすようなスキャンダルの捜査が進んだ時に、あたかも検察の威信を揺るがすように「黒川検事総長が賭け麻雀」という記事が読売新聞に出る。いや、産経新聞なのか。だから「取材」として賭け麻雀としていたのだろうか。

 これは考えすぎかも知れない。考えすぎならばいんだけど、どうも「検事総長に無理押し出来そうもない」情勢になったから、黒川検事長は「用済み」になった感じがしてならない。今回の事態は、週刊文春がまた「文春砲」を放って、安倍内閣に衝撃を与えたと一見そのように見える。しかし、黒川氏の「個人的スキャンダル」で問題が終結してしまった。今後の検事総長問題や検察庁法改正案問題がなくなった。もちろん短期的には「任命責任がある」安倍首相にも打撃ではある。しかし、「責任を痛感」しても、今まで一回も首相の行動に変化はなかった。今回も同じだろう。

 そして国民は選挙の時までに忘れてしまう。今まではそうだった。今回もまた同じかどうかは、安倍政権の問題というより、有権者の問題だ。今、2019年参議院選挙の広島選挙区、河井案里派の選挙違反事件が重大な段階に入っている。夫の河井克行前法相は多くの県議や町長などに意図不明の金をばらまいていた。自分の選挙区なら公選法違反でアウトだが、参院選は全県の選挙区だから選挙区外の有力者にも票をお願いする必要がある。そこで金を渡したのは「社会通念」ではなく「事実上の買収」である。だから広島地検も河井克行議員の立件を目指していると報道されている。

 そこに今回の「黒川辞任劇」。安倍政権は「賭け麻雀」を「社会通念の範囲内」として、訓告で済ませた。これは河井克行ケースも「社会通念の範囲内」なんじゃないですかという「謎かけ」かもしれない。そうじゃないことを祈るけれど、僕には特別の情報があるわけではないので判らない。何にせよ、安倍政権も長期になりすぎて、政権内部のどこかで権力争いが起こっているのではないか。「河井夫婦公選法違反事件」で、買収資金を特別に送り込んだ党本部まで捜査が延びるかが焦点になる。
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「残念だけど、やむを得ない」ー夏の高校野球中止

2020年05月21日 18時06分15秒 | 社会(世の中の出来事)
 できる限り、他の人とは違うような視点で記事を書きたいと思っている。当たり前のことを自分が発信しても、読んで貰う意味は少ないから。しかし、今回は当たり前のことしか書けない。でも書き残しておきたいと思った。昨日(5月20日)、2020年夏の「全国高等学校野球選手権大会」を中止すると発表された。「残念だけど、やむを得ない」と思う。どっちを先にするか人によって違うかも知れないが、5月上旬から皆やがてこうなるだろうと覚悟していただろう。
(中止を発表する高野連会長)
 夏の高校野球の開催場所である「甲子園」はある種の代名詞となっている。政治だったら「永田町」、株式市場だったら「兜町」のように。甲子園でやらないのに「写真甲子園」「俳句甲子園」などがいっぱいあるぐらいだ。野球部だけが特権なのかとも言われつつ、毎年NHKが全国放送するから、「夏の風物詩」になっていた。夏といえば、全国各地の花火大会、青森のねぶた、徳島の阿波おどりなんかの祭りもすべて中止。今年の「夏の風物詩」は全滅だ。関心がない人でも寂しさはあるだろう。
(甲子園球場)
 でも正直言って今年は無理だ。「感染リスク」の問題ではない。それもあるけど、まずは「地方大会」が開けない。未だ感染者が報告されてない岩手県などは出来るだろう。でも首都圏は出来ない。高校の授業も再開されていない。練習はもう3ヶ月も中止になっている。6月、7月に準備体制を整え予選を開くというスケジュールは、やって出来ないことはないだろうが、やはり急ぎすぎだ。いつもの年は7月のテスト期間を過ぎれば「夏休みモード」だが、今年は8月上旬も授業という話まである。高校の部活動は「教育の一環」である。授業が続くのに予選をやるのは本末転倒だ。

 「高校球児」は甲子園出場を目指して長いこと努力してきた。春の選抜も中止になり、夏も中止では、あまりにも可哀想だという声がある。全くその通りだけど、今年は「全国高等学校総合体育大会」(インターハイ)も中止、「全国高等学校総合文化祭」(総文)も「ウェブ開催」(詳しい実施方法は検討中)になった。野球はウェブ上では出来ない。どの部活も「全国大会」で交流することが不可能になった。しかし、どの部活でも「裏方」で準備する教員があって初めて大会が出来る。野球でも審判が確保出来ないというが、生徒やファンが気付きにくい「裏方準備」が難しい状態にあると想像される。

 他の部活の生徒からすれば、もともと野球部だけが全国放送されたり、何かと大きく報道される「特権」に日常的な不満がある。高校野球だけ実施されたりすれば、今度は「なんで野球だけ出来るんですか」の声が噴出しただろう。残念、可哀想と言ってる人も、他の部活、例えば「陸上部は可哀想」「吹奏楽部は可哀想」などと今まで発信してきただろうか。学校にはもちろん野球部以外の生徒、部活顧問の方がずっと多い。高校野球だけ出来たりすれば、今度は他の部活関係者の反発が心配になる。野球部関係者や高校野球ファンもそのことに気付いていて欲しいと思う。

 野球はそれでもプロリーグもあれば、大学野球も盛んだ。高校野球部で活動してきたことは今後も生きていく。可哀想というなら、むしろプロもなければ、五輪にもない競技じゃないだろうか。なぎなた剣道弓道少林寺拳法ソフトテニス登山などがそれ。また日本で競技人口が少ないボートヨットカヌーウェイトリフティングフェンシングなどは、インターハイ中止で人生が変わる生徒も出かねない。文化部でも吹奏楽、合唱、演劇、美術、写真、文芸なんかはすぐに思い浮かぶだろうが、郷土芸能マーチングバンド・バトントワリング弁論新聞吟詠剣詩舞などは、そんな部活は自分の高校にないぞという人が多いだろう。でも総文祭での活躍を目標に頑張っている生徒がいるのである。

 それでも出来ることはないか。文化部はウェブ上で工夫できることもある。しかし運動部は実際に対戦しないと難しい競技が多い。もちろん「記録計測会」方式で出来る競技(陸上競技、アーチェリーなど)もあるだろうが。元々秋にある「全国高校駅伝」や冬にある「全国高校サッカー」も存在するんだから、夏で3年生は引退という「慣例」を変えて、秋に地方大会を行うことも考えられる。もっともそうなると、2年生、1年生の活躍する場が少なくなってしまうけれど。また授業や学校行事も集中するし、現場として「取捨選択」が必要になる。そもそも「高校教育の目的とは何か」を考え直さないといけない。秋には始まってしまう「大学の推薦選抜」の動向が鍵になるだろう。

 ところで2019年の甲子園優勝校を覚えているだろうか。僕は出て来なくて調べてしまったが、大阪の履正社高校だった。言われれば思い出すけど、だんだん近年のことほど出て来なくなる。それは外国映画の人気俳優なんかでも同じで、昔覚えた名前は今もすぐ出てくるのである。千葉の銚子商業とか大分の津久見とか。その後PL学園とか天理智辯和歌山とか宗教系の私立が出てくる。現在は全国から生徒が集まる有力私立の活躍が目立ち、だからこそ、2018年夏の秋田・金足農業の活躍、そしてあの全力の校歌斉唱が心に残ったのである。
(1996年、松山商対熊本工「奇跡のバックホーム」)
 記憶に残ると言えば、まあ1969年の松山商対青森・三沢高校の「延長18回0対0、再試合4対2」の松山商優勝も覚えている(テレビで見た)世代である。その後も幾多の名場面があったわけだが、1998年の横浜松坂大輔のノーヒットノーラン、2006年の早実駒大苫小牧の延長15回再試合の斎藤佑樹田中将大の投げ合いなどが思い浮かぶ。僕が印象的だったのは1996年の松山商熊本工の延長11回「奇跡のバックホーム」で熊本工の優勝が阻止された瞬間。これはサッカー、ワールドカップ予選の「ドーハの悲劇」に並ぶような、思わず声を出してしまったシーン。また2009年の中京商対日本文理(新潟)戦。これは旅行中だったのでラジオで聞いてたんだけど、9回裏2死で4対10だった日本文理が5点を返して9対10まで追い上げたのも忘れがたい名勝負だ。
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憲法違反の内閣人事局を解体しようー検察庁法改正問題

2020年05月19日 23時43分32秒 | 政治
 安倍首相は5月18日の夕方に「検察庁法改正案」の採決見送りを発表した。それは多くの有権者の反発によって追い込まれたということだ。反対の意見をツイッターで発言していた女優・歌手の小泉今日子は18日に「小さな石をたくさん投げたら山が少し動いた。が、浮き足立ってはいけない。冷静に誰が何を言い、どんな行動を取るのか見守りたい。」と投稿した。実にマトモな感覚じゃないですか。「快盗ルビイ」「風花」「トウキョウソナタ」なんかに出ていて前から好きだったんだけど。(もっとも後から「ご指摘頂きました。浮き足立つ→不安などで落ち着かないこと。浮き立つ→ウキウキすること。だそうです。また一つ勉強になりました。」と投稿されている。うーん、なるほど。)

 安倍首相は直前に自民党の二階幹事長と会談を行っていて、内閣・自民党内の権力構造に変化が見られるという指摘もある。そういう話も興味深いんだけど、ここではもっと重要で本質的な問題を書いておきたい。今回だけでなく、安倍政権が長くなるにつれて、国家公務員は一体どっちを向いて仕事してるんだと思うことが多くなってきた。つまり「国民」ではなく「政権」を向いて仕事をしていて、首相発言の尻拭いみたいなことが多くなっているんじゃないか。 

 日本国憲法15条の第2項でには「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」とある。今の安倍政権に対する国民の心配は、国家公務員を「一部の奉仕者」、つまりは「自らの政権に対する奉仕者」に変えてしまったのではないかということだ。憲法違反なのである。憲法改正を目指すだけあると皮肉も言いたくなるが、さすがに自民党改憲草案でもこの条項は残されている。(何故か「すべて」を「全て」と漢字に変えたりはしている。)

 このような問題が起きるようになった直接的なきっかけは、2014年5月に発足し、ほぼ6年間経過した「内閣人事局」だと考える。これは長年の国家公務員改革の「成果」だった。僕も細かくは覚えてないが、ウィキペディアに詳しい記載がある。簡単に書けば、もともとは第一次安倍政権から国家公務員制度の検討が始まり、福田康夫政権になって「内閣人事庁」の創設が提言された。「内閣人事局」と名を変えて法律が成立したが、麻生政権に代わって議論が迷走。民主党政権を経て、第二次安倍政権発足後の2014年3月に法案が成立して、5月30日に正式に発足した。
(内閣人事局の発足)
 当時の国家公務員改革担当大臣は稲田朋美で、初代人事局長加藤勝信官房副長官だった。発足時の写真(上)を見ると、左から加藤、稲田、安倍、菅義偉官房長官が写っている。当初はトップを国務大臣が務めるはずだったが、結局官房副長官が人事局長になると決まった。内閣官房の一部局なので、国家公務員の幹部級人事は結局は菅官房長官が握っている。7年半もずっと官房長官だった菅氏の「権力の源泉」は、幹部人事を実際にひっくり返してきた内閣人事局だろう。

 何でそのような仕組みが出来たのか。本来国家公務員人事は「内閣」の所管である。だけど各省庁のトップである国務大臣はコロコロ変わるから、幹部公務員の細かい事情は判らない。だから事実上「慣例」で人事が動くことになる。入省時の期別にエリートを選抜し、「次は誰」「その次は誰」「次は…次は…」と内部の人望で何となく順番が出来る。その間に健康上の問題が起こったり、選挙に出たり、時にはスキャンダルがあったりなどで順番が狂うこともあるが、概ねそういうことになる。

 しかし、そのような「横並び意識」では現代の激しい変化に対応できないという批判が起きる。出世のためには、自分の省庁の「省益」を優先する方が有利になる。各省庁の「縦割り」意識も生まれる。能力もやる気もある公務員でも、年齢による順番でしか出世できない。日本国全体を考えて「国益」を優先するためには、幹部クラスは人事局で一体として人事を行う方がいい。そういう考えによって「内閣人事局」が生まれたわけである。こういう風に書いてみると、なるほどその方がいいような気もしてくる。

 だけど実際にやってみたら、「政治家の下請け」的な幹部公務員が生まれてきた。先に書いたように、現実に各省庁の人事案がひっくり返される例が幾つも起これば、役人も人間だから平気でウソをつけるようになるのだ。内閣が「清廉潔白」「公平無私」「公明正大」「正々堂々」といった四字熟語の人ばかりならうまくいくだろう。しかし日本でも、世界でも、あるいは地方自治体でも、企業でも、スポーツや文化団体でも、一人が長く重職を務めていれば独裁化してしまい「よどみ」が生じるものだと思う。
(2017年の森友問題時のテレビ番組)
 人事局長は初代が加藤勝信現厚労相、次が萩生田光一現文科省、現在は杉田和博官房副長官である。そしてずっと菅義偉官房長官である。なんで菅官房長官は記者会見でいつもぶっきらぼうで偉そうなのか。加藤厚労相はなんで「『37度5分が4日以上が目安』は国民の誤解」と「上から目線」で言うのか。萩生田文科相はなんで英語民間試験問題で「身の丈に合わせて」と無神経なことを言うのか。それは幹部公務員の人事は全部自分たちで決められるという体験をしたからではないのか。
(杉田和博現人事局長)
 そして現在は杉田和博氏。1941年生まれで、現在79歳である。二階幹事長も80歳だが、こちらは選挙で選ばれている。杉田氏は警察官僚で、ずっと公安畑だった。内閣情報官内閣危機管理監を務めて退官したものの、第二次安倍政権になって官房副長官に呼び戻された。この人が当時の前川喜平文科事務次官を呼びつけて、歌舞伎町の出会い系バーに出入りしていると「厳しく注意」した人である。事務次官レベルであっても、幹部級公務員は「行動確認」されているのである。

 出会い系バーは行かなければ済むが、これではどんな政権批判もうっかり口に出来ないと恐怖に駆られるに違いない。そういう背景が積み重なって、黒川東京高検検事長の後任に林真琴名古屋高検検事長を充てるという人事案は、官邸(つまり内閣人事局)に蹴られたのである。そんな経緯を見れば、内閣人事局自体がいらないと思う。官僚人事は従来の「慣例」でいいではないか。それではやる気が出ないという国家公務員は、選挙に出るなり、大学教員や企業幹部に転身すればいいのである。そうして活躍している人はいっぱいいるじゃないか。

 長くなっているが、最後に。「大臣がすぐ替わるから、省庁人事が慣例で決まってしまう」という発想は、東京都教育委員会と全く同じである。「校長がすぐ替わるから、現場がベテラン教員や組合に動かされてしまう」として、教員の異動年限を短くして、校長が人事権をもっと振るえるように変えた。都教委に直属した学校運営を進めるためである。これは安倍政権の人事政策と同じだろう。その結果、どんどん教員が替わってしまい、校長の思いつき的人事が横行したと僕は思っているが、今はどうなっているだろうか。思いつきで人事をいじると、人望なき権力者は馬脚を現すのである。
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「小さな政府」の帰結-PCR検査問題

2020年05月18日 22時47分01秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 新型コロナウイルスの問題に関して、まだ書いてないことがたくさんある。そもそも今はまだ「渦中」であって、ウイルスに関しても、感染対策の評価に関しても、全体的な評価は難しいと考えている。当初は中国でも武漢のみで「封じ込め可能」な感じを持っていた。その後、世界に広がってゆくが、中では台湾韓国ドイツニュージーランドなどは比較的に「うまくコントロールされている」と評価されている。だからドイツや韓国を見習えという議論も多いけれど、両国とも経済活動を少し再開させたところで集団発生が起こった。他国に学ぶのは大事だが、まだ完全に「成功」という評価はどこにもできない。

 日本は感染者が発生したのは早かったが、その後の感染者数や死者数は他国に比べて少ない。いや、それはPCR検査が少なすぎて感染の全体像が判らないだけだとも言われる。専門家会議の尾身氏もそれは認めていて、国会で「10倍か、20倍か、30倍か」などと発言している。まったく無責任極まる発言だ。大体どう考えても、常識的な水準として、10倍以上ということはないだろう。死者数も「隠れコロナ死者」がいるという批判もあるが、それを考えてもやはり少ないのは間違いない。なんで日本の感染者、死者が他国に比べると低水準なのか。今のところ、完全に納得できる説明はないと思う。
(PCR検査の様子)
 それにしても「PCR検査」はどうして増えていかなかったのだろうか。当初は確かに「クラスター対策」に集中的に人材を投入したということがあるだろう。主に中国人観光客から発生したと思われる感染者増が2月末に見られた。その時は「濃厚接触者」を優先することに意味はあったかと思う。だが3月中旬から、感染経路不明の患者が増えてくる。そして多くの病院や福祉施設で「院内感染」が発生した。その時に、病院や保健所がパンク寸前になって、もう対応が不可能になっていった。

 単に新型コロナウイルス対応が無理になってきたということではない。もともと保健所を減らし、病院を減らし、医者の数も減らしてきたから、限界が早く来る。そして一番の問題は、「公務員削減」と「バッシング」を続けてきた結果、現場に柔軟な対応力がなくなってしまった。それは医療系ばかりでなく、虐待事件が起こったときの「児童相談所」、いじめ事件が起きた時の「学校」なんかも同様だ。もう事件対応に手一杯で、今後の展望もなければ、こうすれば良かったというアイディアも生まれない。そしていつも「上」は現場に責任転嫁してくる。今回も同じような構図が見て取れる。

 驚くべきことに、東京都で保健所から都への報告がファックスだったという。そして報告漏れや二重カウントがあった。再調査して感染者数が100名以上増えたという出来事がちょっと前にあった。日本のあちこちに残る「紙とハンコ文化」の悪弊である。昔からのやり方が続いていて、変えることが出来ない。忙しくて変えるヒマもない。そんなことが日本のあっちこっちで起こっているんだろう。保健所がいかに減らされていったか、前に「今こそ「生存権」を確認し、「防衛」の意味を考える」(2020.4.13)の下の方に載せておいた。全くビックリしたんだけど、1992年度には852か所の保健所があった。2019年度には472か所に激減しているのである。これは「小さな政府」の帰結だろう。
(「保健所の現状」4.25共同通信記事)
 それにしてもPCR検査は、安倍首相が記者会見で何回も増やすと述べているのに、なかなか増えなかった。一番重要なときに、検査を受けられない人がいた。病院に入れない人がいた。落ち着いた段階で、国会で調査委員会を作ってウイルス対策全般を検証しないといけない。臨床検査技師も不足しているということだから、PCR検査を増やしたくてもどうしようもなかったのかもしれない。それにしても、緊急事態なんだから、閉鎖されている医学系、理系の研究室や大学院生を利用するなど、いくらでもやれたはず。韓国も検査キットなどの「援助」の意思を示していたが、安倍政権の対韓政策が影響しているのか無視されてしまった。その経緯もしっかりと検証しないといけない。

 日本は少子高齢化が進み、莫大な財政赤字がある。それに対して自民党内閣が取ってきたのは、「小さな政府」ということだった。安倍政権だけの問題ではない。むしろ小泉政権の責任の方が大きい。そういう政府が「起こるか起こらないかも判らないパンデミック」に予算を投じるわけがない。ある程度はそれも仕方ないと思う。パンデミックと違って、「いつかは判らないけれど、いつかは必ず起こる大地震」の方が優先だと自分も考えたのではないか。

 そして多くの大地震が起こり、市役所に大被害が起きたこともあるけれど、中国の四川大地震のように学校が倒壊するようなことはなかった。「学校の耐震化」には予算を投じてきた。地震、水害対策道路・橋・ダムなどのメンテナンスと合わせて、今後は再び起こるか判らないけれども、起こると仮定して「第二波」「第三波」のパンデミックに備えた対策を怠らないようにしなければいけない。「国のあり方」を一から作り直さない限り、持つはずがない。「やらなくてもいいこと」(それが何かは国民皆が参加して決めないといけない)は止めましょう。
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検察官の「定年延長」はそもそも必要ない

2020年05月17日 18時00分11秒 | 政治
 新型コロナウイルスの「緊急事態宣言」が東京都(他7府県)に出されている中、国会では「検察庁法」を「改正」する法案の審議をしている。これは批判された「黒川東京高検検事長の定年延長問題」を後付けで「合法化」するもので、裏を変えせば「定年延長の違法性を認識している」ようなものだ。ウイルス禍で困窮する自営業者や学生の支援策もまだ決定されていない今、「不要不急」の審議だと批判されるのも当然だ。もっとも内閣の立場では、政府や党機関で支援策を検討している間は、国会は別の「閣法」(内閣提出法案)を仕上げる時期だと言うんだろう。
(国会前の反対運動)
 この法案に関しては、先週来「ツイッター・デモ」と言われる反対の声が急速に広がったことで注目された。僕はツイッターをやらないから発信してないけど、ブログでも関連記事を書いていない。そこで自分の考え方を簡単に述べておこうかと思った。そもそも「黒川検事長定年延長」問題に関しては、調べてみると「違法」と言うしかない法解釈だと思ったので、これまで以下のような記事を書いている。
東京高検検事長の定年延長は違法である」(2020.2.4)
安倍政権の人事私物化を糺す-検事長定年延長問題①」(2020.2.12)
認めがたい「解釈変更」ー検事長定年延長問題②」(2020.2.15)
森雅子法相は「公務員職権濫用罪であるー検事長定年延長問題③」(2020.2.17)

 4回も書いたので、法解釈の問題などはいまさら繰り返さない。安倍首相は「黒川氏とは2人で会ったことはない」とインターネット番組で述べたという。これなどは典型的な「ご飯論法」である。黒川氏は法務事務次官だったんだから、もちろん何十回も会っているに決まってる。だけど「個人的友人関係」ではないから、2人「だけで」会ったことはないと言うんだろう。下僚である省庁の事務次官と2人だけで会うはずもない。仕事を見て「能吏」ぶりを見初め、これは使えると見込んだんだろう。

 「余人をもって代えがたい」として定年延長になったが、本来それがおかしい。官僚組織そのものである省庁の場合は個人的能力の問題もありうる。しかし、検察は行政機関ではあるものの、「司法の一角を担う」機関だ。「検察官一体の原則」があって、全国どこでも、誰が担当でも、同じように起訴・不起訴を判断し、刑事事件で同じ求刑を行う。それはタテマエであって、実際にはいろんな検事がいるわけだが、一応はタテマエを維持しないと国民からの信頼を保持できない。

 今回はそのタテマエに政権が手を突っ込んできたのである。先に挙げた「安倍政権の人事私物化を糺す」の中で、以下のように書いた。「僕が思うのは検察官には自浄作用が働かないのかということだ。多くの再審事件を見ていると、とても自浄など期待できない気もする。だけど検察官は司法修習を経て法曹資格を持っているんだから、今回の措置がおかしいことは判っているだろう。」案の定、今回の改正案に対して、検事総長などを務めた大物OBが意見書を提出するに至った。これがまた長文にもかかわらず名調子で、一気に読ませて鋭い筆致に思わずうならされる。

 例えば、「本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕(ちん)は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。」とは言いも言ったりの感が強い。しかし、その論理が導くところ、結論的に「正しいことが正しく行われる国家社会でなくてはならない。」となると、どうなんなんだろうか。

 「総理大臣をも逮捕できる強大な権限を持つ検察」と言われつつ、今まではその強大な権限は政治家よりもっと多数の無実の冤罪者を拘束するのに行使されてきた。 そして再審請求をすると全力で妨害してきた。世界の「先進国」では廃止されつつある「死刑制度」をあくまでも維持し続けようとしているのも検察だ。世界の情勢に目を向けず、何の再検討も行わない。未だ裁判所が認めるには至らないが、日本でも「無実の人間が死刑を執行された」ケースが何回かあったというのは、多くの弁護士が認めるだろう。安倍政権に対する意見書も大いに結構だが、袴田事件の再審開始を求める意見書なんかも出して欲しいと皮肉の一つも言いたくなる。

 今回の「改正案」では、「役職定年制」が問題になっている。検察官の定年を段階的に65歳まで引き上げる一方で、検事長は63歳という「役職定年」を設ける。63歳を越えると「ヒラの検事」に格下げされるが、「余人をもって代えがたい」場合は定年が延長出来る。これでは検察幹部に露骨に政権を向いて仕事しろと言うようなもので、世論の反発を招くのも当然だ。ヒラ検事になって定年まで勤める人なんている訳ないので、事実上意味がない規定だ。それに対して、野党側はその「定年延長規定」を削除する「改正案の改正案」を提出している。

 それに対して、僕は「検察官の定年延長そのものが必要ない」と考えている。公務員の定年延長は、年金受給年齢の引き上げから必要とされている。それは検察官でも事情は同じだが、検察官の定年規定はもともと年金とは無関係に決められたものだ。国民年金、というか公務員だから「国家公務員共済組合」がない時代(「恩給」はあった)に、検察官法で検事総長は65歳定年とされていた。

 戦後の憲法改正で、司法権の独立が定められ「最高裁判所」が創設された。(戦前は「大審院」と言う。)その制度を作るときに、最高裁裁判官の定年を70歳と定めた。(高裁、地裁、家裁の裁判官は65歳、簡裁の裁判官は70歳。)その比較を考えて、法曹三者の一つである検察の最高である検事総長は65歳としたという。検察官は「司法試験」に合格し、司法修習を終了しないと任官できない。修習は裁判官、弁護士になる合格者とも一緒に行うから、「同期」のつながりがある。最高裁判事より検事総長が先輩では、それこそ「忖度」が働くかも知れないという配慮なんだろう。

 裁判官はもともと年金延長に関係ない年齢まで勤めるから、定年延長はない。裁判官の定年に合わせて検察官の定年が決まった経緯から、検察官の定年延長も必要ない。それじゃあ、検察官は年金がもらえるまで大変なんじゃないかと思うかも知れないが、そんなことはない。弁護士になれるんだから。それに「公証人」というオイシイ仕事にほぼ無条件でなれる。そして法的助言を求めたい大企業が検察幹部を迎え入れてくれる。検事総長経験者のプロフィールを調べてみれば、一目瞭然だ。

 検察官は強大な権限を持っている。それを「抑制」するのは、内閣ではない。やがて弁護士としてやっていかざるを得ないという仕組みこそ意味がある。「ヤメ検」として今度は権力者の法律顧問になる人も多い。それもどうかと思うが、安易に定年延長するより、弁護士として終わる方がいいと思う。そういう人生設計をせざるを得ないことが、検察権力の抑制につながるんじゃないだろうか。
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欧米由来の「弱いウイルス」ー新型コロナウイルスをどう理解するか

2020年05月15日 22時40分07秒 |  〃 (新型コロナウイルス問題)
 日本、あるいは諸外国の「新型コロナウイルス」対策を考えるときには、そもそも「このウイルスをどう理解するか」を考えないといけない。何しろ新規に出現したウイルスだから、政治家や評論家はもちろん、医学者であっても間違うことはあって、それは批判できないものだと思う。だけど、その時点で最新の科学的情報を収集し、それによってそれまでの見方に検討を加えて行かなくてはいけない。

 ウイルスの出現経過については、まだ定説がない。僕は2019年末に中国湖北省武漢で最初の集団感染が発生したのは間違いないと判断してきた。しかし、もっと早く別の場所で起こっていたという説もあるらしい。また武漢でも、動物由来の自然感染なのかウイルス研究所から事故で流出したのかは、僕には判断する材料がない。ただし、中国(またはアメリカ)の生物兵器だという説は成り立たない。それは前に書いたけれど、グローバルに絡み合った世界経済を破綻させただけで、誰の得にもなっていない。事前に判っているなら、そろそろ「新薬」や「ワクチン」が登場してもいいはずだ。

 そしてウイルスは中国からヨーロッパ各国に広がった。2月段階では中国以外では、韓国・大邱の新興宗教集団や横浜のクルーズ船が騒がれていた。しかし、2月末から3月に掛けてヨーロッパ各国に急速に感染が拡大した。そして3月末になると、アメリカの感染者が世界最大となった。その頃書いた「イタリアで何が起こったのか」(2020.3.20)では以下のように書いていた。

 「そもそもウイルスが同じものなのかも僕には判らない。ウイルスはどんどん変化をするもので、感染さなかにも変わっていくことがある。普通は「感染が拡大すると弱毒化する」と言われる。ウイルスはそもそも自己増殖できず、他生物の細胞を利用して初めて増殖できる。だからあまりにも強毒なウイルスが感染力も強くなると、宿主ごと滅んでしまうことになる。そのため普通はウイルスが広がると、毒性は低下すると言われる。」

 このウイルスの違いに関しては、国立感染症研究所が4月27日に、「新型コロナウイルスSARS-CoV-2のゲノム分子疫学調査」を発表した。それによれば、やはり「中国発の第1波」と「海外帰国者経由の第2波」は明らかにウイルスのゲノム情報が違うという。ヨーロッパでそれほど大流行したのは、やはりウイルスの変容があったのだ。(感染症研究所の発表要旨は一番下に引用しておいた。)
(感染研のゲノム分析)
 この欧米から持ち込まれた新型コロナウイルスは、「より強毒」なものなのだろうか。これほど大流行したのだから、よほど強毒化したのかと僕も当時は考えていた。もっとも「」というのは、人間の体内で不都合な科学反応を起こす物質のことだから、ウイルスはそもそも「毒物」とは違う。体内で細胞に入り込んで勝手に増殖するだけで、その増殖スピードが速すぎると細胞が破壊されたり、体内各所に炎症を起こして体力を奪うことになる。

 欧米由来のウイルスは、以前にも増して「発症までのスピード」が遅い。そして時には、発症に至らないこともあるらしい。それでも感染力がある。どんな強いウイルスかと思うが、よく考えて見れば、通常のインフルエンザウイルスや風邪を引き起こすウイルスも同じだ。教室に一人インフルエンザ感染者がいると、他の人にも移ると言われているが、それと比べて「欧米型新コロナウイルス」の方が強いと言えるのだろうか。欧米でも日本でも、発症していない(感染の自覚がない)感染者がウイルスを広めたと言われる。これは「感染力が強い」のではなく、むしろ「発症力が弱い」というべきではないか。

 それなのに、欧米であれほど多くの死者を出したのは何故だろうか。もっとも「通常のインフルエンザの大流行」に比べて、どのぐらい多いのか判らない。それはともかく、医療体制の不足、貧困層の不健康(肥満や糖尿病など)、医療保険の状況、マスクをしなかったり濃厚な挨拶をする文化的な違いなど、多くの感染爆発因子が想定できる。しかしながら、いくら何でも高熱を発し咳が絶えないような人は、あまり外出はせず家族以外には感染させないだろう。欧米で感染が爆発的に増えたのは、やはり「感染の自覚がない人」が広めてしまったのだと思う。そうすると、ウイルスそのものはやはり「弱毒化」した、つまり「増殖スピードが落ちた」と見るべきではないか。

 ウイルスの性格をどう理解するかは、対策の評価に直接影響する。「3密を避けよ」と言われたときに、気付くべきだった。要するに誰が感染しているか、判らないのである。それぐらい「怖いウイルス」なのではなく、ほとんど発症しない人までいるぐらい「弱いウイルス」なのである。しかし、特効薬がない段階では「重症化リスク」が高い人は死亡する。その致死率レベルは、おそらくインフルエンザの10倍程度だと思われる。以後の記事は、この認識を前提にして考えておくことにしたい。

感染研の分析結果)中国発の第1波においては地域固有の感染クラスターが乱立して発生し、“中国、湖北省、武漢” をキーワードに蓋然性の高い感染者を特定し、濃厚接触者をいち早く探知して抑え込むことができたと推測される。しかしながら、緻密な疫学調査により収束へと導くことができていた矢先、3月中旬から全国各地で “感染リンク不明” の孤発例が同時多発で検出されはじめた。このSARS-CoV-2 ハプロタイプ・ネットワーク図が示すように、渡航自粛が始まる3月中旬までに海外からの帰国者経由(海外旅行者、海外在留邦人)で “第2波” の流入を許し、数週間のうちに全国各地へ伝播して “渡航歴なし・リンク不明” の患者・無症状病原体保有者が増加したと推測される。この海外旅行者を契機とした同時多発と3月中旬以降の行動制限への理解が不十分だったことを鑑みても、由来元が不明な新型コロナウイルスが密かに国内を侵食し、現在の感染拡大へ繋がったと考えられる。
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