教員評価の問題を書いてないんだけど、「体罰」から派生して考えてきたことも長くなってしまったので、今回で一応終わりとしたい。今回ニュースを見ていて、なんだか違和感を持った言葉がある。スポーツ評論家が「このような指導をしていては、自分で考える選手が育たないので、国際的選手を育成できない」みたいなことを言っていた。いつ、単なる学校の教員が「国際的選手の育成」を担うことになったのか?まあ、今回は体育科で起こった問題だから、「単なる学校の教員」というのは間違いなのかもしれないが、その後の処分なんかを見ていても、やはり「単なる一公務員」である。他の教員と同じように、「校長の学校経営方針に従って業績をあげる」というのが最大の仕事とされていたはずである。暴力が過ぎたけれども、指導方針そのものは学校の方針を受けたものだったはずである。
しかし、この教員は異動方針の年限を超えて、その高校に在籍していたという。これでは特別扱いであって、こういうことがあれば「自分は特に期待されている」「特に部活の成績を上げる必要がある」と思うのは当然だろう。全国でいろいろ体罰問題が明るみに出たが、私立はもちろん、公立でも同じ学校で長く指導を続けていた教員が多いように思う。それが望ましい、それでいいという考えもあるだろうけど、それは他の教員も希望すればずっと同じ学校にいられる場合である。他の教員は6年くらいで替わってしまうのに、ある人だけ「君はこの学校に不可欠だ」となれば、そこには必ず「おごり」が生じるに決まってる。10年以上もいて、その間何回も全国大会に出場した実績があったりすれば、数年で替わる校長などでは何も言えなくなってしまうのではないか。
ところで僕がずっと気になっているのが、「教師の権力者性」と言う問題である。まさに「暴君」のごとく全部自分で仕切らないと気に入らないような教師も中にはいる。一方、教師は「生徒の支援者」であるからして、「自分は全く権力者などではないし、教師が権力者であってはならない」というような発想をする教師もいるだろう。これは正反対のように見えて、「自分の権力行使に鈍感である」という点で全く同じなのではないかと昔から思ってきた。成績を決めたり、生徒指導を行うのは、「権力行為」に間違いない。ルールに従って、テストの点数でほぼ自動的に成績を付けている場合も多いだろうが、それでもその結果が校長印を押されて上級学校への入学検査に使われるのだから、その成績評価は「権力」として生徒に作用する。
教師は懲戒権を云々する前に、授業を通して成績評価権を持っているので、これが学校を成立させている基盤である。生徒は学校に来ている以上、勝手に授業を抜け出したり、授業中に携帯電話で通話したりしてはいけない。だから生徒の自由は学校で制限されている。授業を受けないで家で寝ているという「選択可能性」は与えられていない。いや、そういう行動を取りたければ取ってもいいし、警察が強制的に学校に連れて行くわけではない。ただ、その間も学校は授業を続けているし、休むだけ自分の評価が低くなり、その結果自分の進路希望が通りにくくなる。上の学校や会社は、休まず元気に通学し成績もよい生徒が好きなわけである。部活動もやっていた方がいい。だから直接的な「暴力性」はないけれども、間接的に社会の影響を受けることで、学校と言う場所の「強制性」が生まれる。(もっとも僕は「いじめ」「体罰」「パワハラ」などにあったら学校に行く必要はないと思っている。それはどんな人にも、あるいは国家にも認められている「自衛権」の発動だろう。)
このような「学校と言う場所の強制性」を考えて、だから「教育は強制だ」と言ってしまう人もいる。学校は近代国家が作った近代の制度であって、生徒は学校教育を通して、近代人としての身体と知識を身に付ける。江戸時代の武士たちは、そのままでは近代装備の軍隊で使えなかった。一定の時間に登校し、列を作って責任者の話を聞き、一定の団体行動が取れ、教室では一定の時間きちんと座って話を聞いていられるという「近代人の身体」は学校教育で得たものである。これは全員が身に付けておかないとまずいので、当然教員や生徒が意識するかどうかは別にして、長い時間をかけて「強制」されてきたものである。しかし、だからといって「教育の本質は強制だ」という言い方はどんなものだろうか。僕たちはすべてのものごとを全部自分で判断することはできない。「それは常識だ」「それは前提だ」と言う部分は疑わないで、カッコに入れて行動するしかない。「近代の教育制度」と言うものも、僕たちには「前提」であって、一々そこにさかのぼって「なぜ学校教育そのものが必要なのか」などと考えて働いている教師はいない。「学校制度の強制性」は問うまでもない前提であって、その中でどのような人間形成を促していくかということを考えないと生産性がないと思う。
学校では教科書を使うが、だからどの教科書を使っても、「何らかの強制」になると言われたことがある。中学歴史教科書の問題で、扶桑社(当時)の教科書の採択を批判する運動をしていた時にある人に言われた言葉である。僕にはこれは全く理解できない意見だった。そういうことを言い出したら、すべての教科書を使えない。ダーウィンの進化論を教えてはいけないというキリスト教原理主義者がアメリカには今もいるそうだけど、「様々な意見がある」などと言う言い方では、進化論を教えられなくなる。僕が考えるには、すべてを疑っては生活できないので、初中等教育ではその世界の「通説」を中心に教えるしかないだろうと思う。「強制」と言う言い方をしたいなら、「通説を強制する」と言ってもいい。後で自分なりの考え方が出来て来れば、自分なりの勉強を続けて行けばいいのだと思う。(扶桑社または育鵬社などの教科書は、やはり「通説」と違う記述が多いので、それが一番まずいと思うが、今は詳しくは触れない。)
こういう風に、近代教育そのものに「強制性」があるし、近代以前の教育(とはつまり「家業」をたたきこむことだが)は完全に「強制」である。というか前近代は職業の自由がない身分社会だから、今僕たちが普通思っている教養教育とか職業教育の必要性そのものがない。教育に「強制性」が存在する以上、教育を担当する教師には「権力者性」が当然ある。だけど、その「権力者性」というのは、どのように発動されるべきものなのだろうか。その場を収めるだけだったら大声で威圧する方が早いという時は当然あるわけだけど、「暴力で支配する」というのが良くないのは、「生徒の選択可能性」を育てないからだ。前回書いたように、「暴力」と言うものは人間の選択可能性を奪っていってしまうものである。だから、学校で暴力を使うと、その場は収まっても、生徒の育成ができないということになる。では、「教師の権力者性」はどういうものだろうか。それは「サッカーの監督」あるいは「映画や演劇の演出」のようなものではないかと思う。選手の選抜、交代に責任は持つけど、自分はプレーしない。自分では舞台に上がらず、あるいは画面に映らず、他の演技者に裏で演技指導をする。中には自分が全面に出てしまう部活顧問、あるいは学級担任、生活指導担当教員なんかがいるもんだけど、教師は裏方で生徒を生き生きと演出することが楽しみであるべきで、その演出のさじ加減に「指導」という「強制性」を生かすということなんだろうと思っている。
しかし、この教員は異動方針の年限を超えて、その高校に在籍していたという。これでは特別扱いであって、こういうことがあれば「自分は特に期待されている」「特に部活の成績を上げる必要がある」と思うのは当然だろう。全国でいろいろ体罰問題が明るみに出たが、私立はもちろん、公立でも同じ学校で長く指導を続けていた教員が多いように思う。それが望ましい、それでいいという考えもあるだろうけど、それは他の教員も希望すればずっと同じ学校にいられる場合である。他の教員は6年くらいで替わってしまうのに、ある人だけ「君はこの学校に不可欠だ」となれば、そこには必ず「おごり」が生じるに決まってる。10年以上もいて、その間何回も全国大会に出場した実績があったりすれば、数年で替わる校長などでは何も言えなくなってしまうのではないか。
ところで僕がずっと気になっているのが、「教師の権力者性」と言う問題である。まさに「暴君」のごとく全部自分で仕切らないと気に入らないような教師も中にはいる。一方、教師は「生徒の支援者」であるからして、「自分は全く権力者などではないし、教師が権力者であってはならない」というような発想をする教師もいるだろう。これは正反対のように見えて、「自分の権力行使に鈍感である」という点で全く同じなのではないかと昔から思ってきた。成績を決めたり、生徒指導を行うのは、「権力行為」に間違いない。ルールに従って、テストの点数でほぼ自動的に成績を付けている場合も多いだろうが、それでもその結果が校長印を押されて上級学校への入学検査に使われるのだから、その成績評価は「権力」として生徒に作用する。
教師は懲戒権を云々する前に、授業を通して成績評価権を持っているので、これが学校を成立させている基盤である。生徒は学校に来ている以上、勝手に授業を抜け出したり、授業中に携帯電話で通話したりしてはいけない。だから生徒の自由は学校で制限されている。授業を受けないで家で寝ているという「選択可能性」は与えられていない。いや、そういう行動を取りたければ取ってもいいし、警察が強制的に学校に連れて行くわけではない。ただ、その間も学校は授業を続けているし、休むだけ自分の評価が低くなり、その結果自分の進路希望が通りにくくなる。上の学校や会社は、休まず元気に通学し成績もよい生徒が好きなわけである。部活動もやっていた方がいい。だから直接的な「暴力性」はないけれども、間接的に社会の影響を受けることで、学校と言う場所の「強制性」が生まれる。(もっとも僕は「いじめ」「体罰」「パワハラ」などにあったら学校に行く必要はないと思っている。それはどんな人にも、あるいは国家にも認められている「自衛権」の発動だろう。)
このような「学校と言う場所の強制性」を考えて、だから「教育は強制だ」と言ってしまう人もいる。学校は近代国家が作った近代の制度であって、生徒は学校教育を通して、近代人としての身体と知識を身に付ける。江戸時代の武士たちは、そのままでは近代装備の軍隊で使えなかった。一定の時間に登校し、列を作って責任者の話を聞き、一定の団体行動が取れ、教室では一定の時間きちんと座って話を聞いていられるという「近代人の身体」は学校教育で得たものである。これは全員が身に付けておかないとまずいので、当然教員や生徒が意識するかどうかは別にして、長い時間をかけて「強制」されてきたものである。しかし、だからといって「教育の本質は強制だ」という言い方はどんなものだろうか。僕たちはすべてのものごとを全部自分で判断することはできない。「それは常識だ」「それは前提だ」と言う部分は疑わないで、カッコに入れて行動するしかない。「近代の教育制度」と言うものも、僕たちには「前提」であって、一々そこにさかのぼって「なぜ学校教育そのものが必要なのか」などと考えて働いている教師はいない。「学校制度の強制性」は問うまでもない前提であって、その中でどのような人間形成を促していくかということを考えないと生産性がないと思う。
学校では教科書を使うが、だからどの教科書を使っても、「何らかの強制」になると言われたことがある。中学歴史教科書の問題で、扶桑社(当時)の教科書の採択を批判する運動をしていた時にある人に言われた言葉である。僕にはこれは全く理解できない意見だった。そういうことを言い出したら、すべての教科書を使えない。ダーウィンの進化論を教えてはいけないというキリスト教原理主義者がアメリカには今もいるそうだけど、「様々な意見がある」などと言う言い方では、進化論を教えられなくなる。僕が考えるには、すべてを疑っては生活できないので、初中等教育ではその世界の「通説」を中心に教えるしかないだろうと思う。「強制」と言う言い方をしたいなら、「通説を強制する」と言ってもいい。後で自分なりの考え方が出来て来れば、自分なりの勉強を続けて行けばいいのだと思う。(扶桑社または育鵬社などの教科書は、やはり「通説」と違う記述が多いので、それが一番まずいと思うが、今は詳しくは触れない。)
こういう風に、近代教育そのものに「強制性」があるし、近代以前の教育(とはつまり「家業」をたたきこむことだが)は完全に「強制」である。というか前近代は職業の自由がない身分社会だから、今僕たちが普通思っている教養教育とか職業教育の必要性そのものがない。教育に「強制性」が存在する以上、教育を担当する教師には「権力者性」が当然ある。だけど、その「権力者性」というのは、どのように発動されるべきものなのだろうか。その場を収めるだけだったら大声で威圧する方が早いという時は当然あるわけだけど、「暴力で支配する」というのが良くないのは、「生徒の選択可能性」を育てないからだ。前回書いたように、「暴力」と言うものは人間の選択可能性を奪っていってしまうものである。だから、学校で暴力を使うと、その場は収まっても、生徒の育成ができないということになる。では、「教師の権力者性」はどういうものだろうか。それは「サッカーの監督」あるいは「映画や演劇の演出」のようなものではないかと思う。選手の選抜、交代に責任は持つけど、自分はプレーしない。自分では舞台に上がらず、あるいは画面に映らず、他の演技者に裏で演技指導をする。中には自分が全面に出てしまう部活顧問、あるいは学級担任、生活指導担当教員なんかがいるもんだけど、教師は裏方で生徒を生き生きと演出することが楽しみであるべきで、その演出のさじ加減に「指導」という「強制性」を生かすということなんだろうと思っている。