不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

アメリカの戦争に巻き込まれてきた日本

2015年06月30日 23時43分01秒 | 政治
 安倍首相言うところでは、「60年安保闘争の時に反対派は安保条約があると、アメリカの戦争に巻き込まれると言ったけれど、現実には巻き込まれなかったじゃないですか。今回も反対する人は、この法案が成立するとアメリカの戦争に巻き込まれると言っているけれど、そんなことはありえない」ということである。いやあ、この人は歴史を反対側から見ているんだなあとつくづく思った。でも、どう考えても理解が不十分だとしか思えないので、今回はこの問題を。(7.1追記 「60年」と言えば「安保闘争」と反応するので、上記の記述に「安倍首相の言ったこと」を示すカッコ内に「安保闘争」という用語を使ってしまった。でも安倍首相が「安保闘争」なんて言うわけないですよね。まあ、残しておくけど。)

 第二次大戦後に起こりうると考えられた戦争は、大体三つあった。第一は「米ソの本格的核戦争=第三次世界大戦」である。これはキューバ危機など瀬戸際事態もあったけど、幸いにも実際の戦争は起こらなかった。今からすると想像できないかもしれないが、当時一番心配されていたのが、この米ソ核戦争だった。でも、起こらなかったんだから、巻き込まれようがない。米ソ核戦争が起きなかったのは、別に日米安保があったからではない。全然関係ない。もし本当に起きていたら、当然のことながら日本も巻き込まれていただろう。日本には米軍基地があるんだから。

 米ソの対立が本格戦争にならなかったのは、お互いに人類を破滅させられるほど大量の核兵器を持って、「恐怖の均衡」が成り立ったからだという人もいる。それもあるかもしれないが、結局大量に作った核兵器も限定戦争、地域紛争、対テロ戦争なんかでも使用できない。全人類を滅ぼすかもしれない兵器を先制使用すれば全世界で大非難が沸き起こる。攻められたら使うと言っても、自国領で使用すれば領土が汚染されてしまう。つまり、持っているけど事実上使えない兵器なのだ。世界中の反核世論が核兵器の使用が難しい状況を作り出してきたわけである。

 戦争の第二のタイプは「代理戦争」で、第三のタイプが「地域紛争」「民族紛争」のような戦争である。これは現実に起こった。国連に集団的自衛権行使として報告されたケースはいくつかあるが、ソ連によるハンガリー事件(1956)やチェコスロヴァキア事件(1968)もそうだけど、むろんこれには日本は巻き込まれてない。ソ連グループの「ワルシャワ条約機構」の軍事行動だから、当然である。一方、アメリカが大規模な軍事行動を起こした朝鮮戦争ベトナム戦争湾岸戦争アフガニスタン戦争イラク戦争には、日本は全部巻き込まれてきた。それが中立国ではなく、アメリカと安全保障条約を結んでいるという意味なのである。以上のうち、朝鮮戦争、湾岸戦争は国連安保理決議がある武力行使なので、集団的自衛権の行使ではない。イラク戦争も、ブッシュ・ドクトリンに基づく「自衛権の行使」だった。

 そのような細かい違いはあるものの、日本は戦後にアメリカが関わった戦争はすべて何らかの形で支えてきた。アメリカがアメリカ大陸で行ったドミニカ出兵(1965)、ニカラグア内戦への介入(1981)、グレナダ侵攻(1983)なんかだけは、米州内のことは米国だけでいいということで、日本は直接の関係はない。でも、アジアで起こった戦争は日本にも応分の負担が求められてきた。ベトナム戦争では、韓国、オーストラリア、タイ、フィリピン、ニュージーランドがベトナムに派兵した。日本は確かに自衛隊を送ったわけではない。憲法9条がある以上、それはできない。日本国内では反戦運動が盛んで、アメリカ批判が強かったが、当時の佐藤栄作首相は米国を支持し、当時の南ベトナムを(大反対デモを押し切って)訪問し、経済援助を与えた。日本(本土)および復帰前の沖縄の米軍基地は、戦争の最前線となった。当時の国内情勢からして、できる限りの対米援助を佐藤政権は行ったのである。

 その後の戦争でも同じで、その当時の法的な解釈で、政府は特例法を作って米艦に給油したり、自衛隊をイラクに派遣したりした。それも憲法違反ではないかという反対運動が起こり、裁判も起こされた。イラク派遣では名古屋高裁での違憲判決が確定している。ところで、それらの対米協力をどう評価するかは別にして、とにもかくにも直接の軍事行動に自衛隊が参加したことはない。日米安保があって、米国陣営にいるから、その時点で可能と思われる最大限の米軍支援を日本は求められてきた。しかし、憲法9条があるから、どう「柔軟な解釈」をしたとしても、直接的な軍事行動への参加はできなかったのである。これが歴史の正しい見方だろう。安倍首相が語るのとは違って、日本は安保条約の下でアメリカの戦争にいつも協力を求められてきた。しかし、憲法9条が歯止めになってきたのである。

 その歯止めをなくそうというのが今度の安保法制である。さらに、今回の解釈変更で済まず、憲法9条の改正そのものを考えているのは周知のことである。イラクで「非戦闘地域」で「人道支援」を行ったという枠組みを変えようというんだから、「戦闘地域」で「軍事的支援」をしたいのかと思われても仕方ないではないか。そんなことはない、そんなことはないとしきりに首相は答弁しているわけだけど。納得せよと言われても、歴史が反対に見えている人の言うことだからなあ。正直、できない相談ですよ。

*「朝鮮戦争」と「湾岸戦争」は、重要な一方の旗頭を米軍が務めたわけだから今は「アメリカの戦争」として一括りにした。しかし、その直接の原因は、金日成(及びスターリンと毛沢東)やサダム・フセインが作り出したものである。だから、「サダム・フセインの戦争に巻き込まれた」と言った方がいいのかもしれない。でも、アメリカが乗り出してきたことから、「対米関係としての戦争貢献策」という問題が生じたわけである。日本にとっては「アメリカ問題」に他ならない。なお、安保理決議があった以上、何もしないというわけにはいかないだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和文学の名作映画を見る(濹東綺譚、細雪、あにいもうとなど)

2015年06月30日 00時49分05秒 |  〃  (旧作日本映画)
 いわゆる「文芸映画」の前に、土曜日に神保町シアターで「暴れ豪右衛門」(稲垣浩監督、1966)を見た。稲垣監督は「無法松の一生」や「宮本武蔵」シリーズの他、多くの時代劇を山のように作っている。この後も「風林火山」や「待ち伏せ」を作るが、「暴れ豪右衛門」は知らなかった。今見ると、「七人の侍」と同じく、その後の中世史研究の水準からすると疑問点も多いが、とにかく一向一揆支配下の加賀の国で、土豪(国人)勢力と越前の朝倉氏の争いを描く映画なのである。戦国大名の支配下に入らないとあくまでも抵抗する国人層を取り上げているのが貴重。まあ、主人公の豪右衛門(三船敏郎)が字が読めないのを誇りにしているなど、疑問も多い。しかし、オープンセットの規模がすごい。

 その後、フィルムセンターへ回って「嵐を呼ぶ楽団」(井上梅次監督、1960)。近年評価が高くなってきた音楽映画の傑作である。音楽の河辺公一、助演の神戸一郎の追悼上映だけど、「ジャズ」が洋楽の王様だった時代のミュージカルの傑作。宝田明雪村いづみが主演し、高島忠夫、朝丘夢路が絡む。歌や演奏はもちろん自分でやってると思う。水原弘のように早死にした人もいるが、柳沢真一を含め先の4人いずれも存命である。恋と友情、音楽と商業主義をめぐって、話は定番通りだが、それでいいと思わせるウェルメイドな音楽映画。テレビが録画ではなかった時代も興味深い。井上梅次は日活の「嵐を呼ぶ男」で裕次郎をスターにしたが、とにかく何でも面白い。マキノ雅弘に匹敵するのではないか。香港でも撮ったが、アジアのエンターテインメント映画全体に与えた影響を再評価するべきだろう。

 さて、標題にした「昭和文学」だけど、ここで言う「昭和」は、1950年頃から1970年頃までの日本映画がもっとも力があった時代を指す。その時代には多くの映画が作られ、相当数の「文学作品の映画化」が行われた。戦争と高度成長という近代日本の最も大きな出来事がこの時代の映画に反映されている。また明治、大正に出発した作家も、多くは昭和時代まで生きて傑作を残した。島崎藤村「夜明け前」、谷崎潤一郎「細雪」、永井荷風「濹東綺譚」、徳田秋声「縮図」などで、これらはみなすぐれた映画になっている。また川端康成、林芙美子、井伏鱒二、井上靖などの作品もたくさん作られてきた。林芙美子など、もし成瀬巳喜男による多くの映画化がなかったら、今もこれほど読まれているだろうか。

 新文芸坐で京マチコ山本富士子の特集があり、数本見た。山本富士子は大昔に見た時はものすごい美人だと思ったのだが、今は顔立ちが大柄で古風すぎる気もしていた。久しぶりに数本見ると、やはり美女。今回は見なかったが、3回見ている「夜の河」が最高だと思う。「湯島の白梅」「白鷺」等の鏡花原作、衣笠貞之助監督作品もいいと思う。今回は今まで見ていなかった「細雪」「濹東綺譚」を見て、その後ラピュタ阿佐ヶ谷で「如何なる星の下に」を見た。後の2作は、東宝で豊田四郎監督、八住利雄脚本という共通性がある。でも、どちらも原作を大きく変えている。豊田四郎は織田作之助原作の「夫婦善哉」が間違いなく最高傑作だが、この時代「雁」「猫と庄造と二人のをんな」「雪国」「暗夜行路」と日本文学全集みたいなラインナップを残している。

 「濹東綺譚」(1960)は原作中の劇中小説の主人公、種田先生を主人公にしてしまい、荷風散人は別個に作品取材をしている老作家として出てくる。この荷風を演じる歌舞伎役者の中村芝鶴があんまりそっくりなので笑ってしまう。種田先生が芥川比呂志の名演で、お雪が山本富士子。なるほどこういう風にしないと映画化できないか。工夫を評価しないわけではないが、これでは原作を壊しているという不満を抑えがたい。伊藤熹朔の美術が素晴らしく、単なるノスタルジーに止まらない場末の風情を作り出していて見応えがある。単なるメロドラマにされてしまった感じがする。1992年にも新藤兼人が映画化し、ベストテン9位。豊田作品の方は31位だった。「濹東綺譚」は紛れもなく荷風の最高傑作で、短いから読書好きなら読んでいる人が多いと思うが、読んでない人は誤解していることが多い。老作家が場末の娼家に通う情痴小説みたいではない。非常時局下に「国内亡命」を試みる知的なメタ小説という枠組みに、過ぎ去ってゆく哀感漂う抒情を込めた傑作である。
(「濹東綺譚」)
 高見順原作の「如何なる星の下に」(1962)も、原作を大きく変えていて、原作が好きな僕には物足りない。浅草を舞台に「転向」知識人の苦悩を込めた原作を、映画では映画化時点の現在の銀座、佃島に変えてしまった。それはそれで、今見ると東京五輪直前の町の姿をこれほどとどめた映画はない価値が出てきた。佃島の渡しなど、廃止(1964年8月27日)直前の姿が映像に残されている。山本富士子と池部良はいいけれど、どうも風景を見る映画という感じ。ベストテン43位。
(「如何なる星の下に」)
 谷崎潤一郎の「細雪」は3回映画化されている。1983年の市川崑作品が一番である。(ベストテン2位。)最初の映画化、阿部豊作品(1950年)もベストテン9位に入っていて、それなりの評価を得た。一方、今度見た1959年の島耕二監督版はベストテンに入選しないどころか、一票も入っていない。だけど、案外の拾い物だった。フラフープをしてるから、物語は映画化時点での現在に設定されている。その結果、50年代末の阪神地域のロケが今になって価値が出てきたのだ。4人姉妹を上から書くと、50年版が花井蘭子・轟夕起子・山根寿子・高峰秀子、59年版が轟夕起子・京マチ子・山本富士子・叶順子、83年版が岸恵子・佐久間良子・吉永小百合・古手川祐子。まあ一長一短あるけれど、京、山本のコンビは大映を代表し、「夜の蝶」なんかの共演もあって息があっている。それに時間が145分、105分、140分と一番短い。長大な原作を描くには不足だが、三女、四女の結婚話に絞って上流階級の没落と結婚の階級性というテーマがくっきりさせた。

 室生犀星の原作「あにいもうと」は3回映画化され、全部ベストテンに入っている稀有な作品である。今回久しぶりに成瀬巳喜男監督版(1953)を見直した。ベストテン5位で、「にごりえ」「東京物語」「雨月物語」「煙突の見える場所」に次いでいるんだからスゴイ。その下に「日本の悲劇」「ひめゆりの塔」「雁」と続く。恐るべき年である。森雅之、京マチ子の兄妹で、戦前の木村荘十二版は丸山定夫、竹久久美子、76年の今井正版は草刈正雄、秋吉久美子である。どれも名作だが、兄はともかく、妹の方は京マチ子が一番ではないかと思う。そのくらいの迫力で兄妹げんかをしている。「けんかえれじい」などとまた違った意味で、日本映画のケンカシーンに残り続けるだろう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦後、日本人は戦争を放棄した

2015年06月25日 23時09分39秒 | 政治
 集団的自衛権の問題については、去年(2014年)の5月に何回か書いている。しかし、それは「集団的自衛権とはそもそも何なのか」などを自分なりに詳しく書いていて、どうも長くて読みにくい。今年はスルーしようかとも思ったんだけど、やはり心にかかっているので、他の記事を置いて数回書いておきたい。あんまり長くしないで、簡潔を心掛けたいと思う。

 まず、言っておくべきことは、どう考えても憲法違反だろうということである。法的な細かい議論を今する気はない。憲法制定の経緯とか、いわゆる「芦田修正」とか、「砂川判決」の解釈とか、「統治行為論」とか…。「自衛隊はそもそも違憲なのではないか」とか「自衛隊は専守防衛に徹するべきだ」とか…。日米安全保障条約の問題沖縄の基地問題…。そして、中国の海洋進出をどう考えるかとか、「北朝鮮」の核開発をどう考えるか…まあ、いろいろと考えるべき問題は山積しているのは間違いない。それらを全部きちんと知識を持って、自分の考えをはっきりさせないと何も言えないと言われたら、ほとんどの人は口をつぐむしかない。でも、まず憲法を読んでみよう。

第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない

 これを読めば、「日本人は戦争を放棄した」というしかないではないか。加藤陽子東大教授の「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」にならって言えば、「戦争に負けて、それからは日本人は戦争を放棄した」と言うべきだろう。これは当時を知る人々、当時を知る人々から直接話を聞いた人々には、ほとんど常識だろう。憲法制定の経緯などどうでもいい。押し付けだろうが、GHQが書いていようが、「もう二度と戦争はこりごりだ」という日本国民の思いがこの条文を支持させた。ほとんどの国民はこれを受け入れた。何かと言えば政治に口をだし、勝手に戦争を進行した軍部は解体された。もう二度と日本は戦争をしないのである。これはいい。国内で310万人と言われるぼう大な犠牲者を出して、「二度と戦死者を出さない」という戦後の歴史が始まった。

 ホルムズ海峡に地雷がまかれた場合、それを自衛隊が掃海する。それはどう見たって「国際紛争を解決する手段」として武力を発動しているとしか言えないではないか。「集団的自衛権」と言うんだから、日本は直接には攻撃されていないのである。そういう場合に自衛隊が派遣されるというのは、永久に放棄されたはずの戦争そのものである。直接的な戦闘には関わらず、「後方支援」=「兵站」を担当するだけであっても、どう言い繕っても戦争である。

 戦争を放棄するって言っても、向こうから攻めてきたらどうするの?ハイハイ。そういうことを言う人はいつもいましたね。だから自衛隊が作られた。まあ最初は米軍の命令だけど。さて、自衛隊を合憲とするには、どうすればいいのか。それは(正しいかどうかは別にして)、「直接的に外国軍に侵略された場合に武力で反撃するのは、『国権の発動たる戦争』や『国際紛争』には当たらない」と解釈すること以外には考えつかない。(しかし、このように日本の「個別的自衛権」を認める解釈をした場合、なんで日米安全保障条約が必要なのかが判らないが。)でも、今回は攻められていないのに、自分で判断して出ていくんだから、憲法をクリアーすることはできない。

 だけど、憲法の細かい条文上の問題ではないだろう。靖国神社大好きの安倍首相やその一党は、靖国に参拝して何を祈る?その後戦死者が出てなくて、皆さんも寂しいでしょうとでも思うのか。皆様の犠牲をもって、日本は戦争をしない国になりましたと言わないのだろうか。「保守」というのは、「常識」と「国益」をもとに判断する人々だと思っている。つまり、安倍首相一派(という言い方はあまり好きではないが)は、「保守」ではないのだ。「常識」に立ち戻って、虚心に戦争の犠牲と戦後日本の歩みを振り返ってみようではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和菓子映画の「あん」とハンセン病

2015年06月24日 00時44分07秒 | 映画 (新作日本映画)
 ドリアン助川原作、河瀬直美脚本・監督、樹木希林永瀬正敏主演の「あん」を見た。原作は未読だが、ハンセン病問題を扱う社会的な物語だということは知っていた。河瀬直美が初めて原作をもとにした映画を作り、なかなか評判を呼んでいる。東京都東村山市でロケされ、ハンセン病療養所多磨全生園も出てくる。アドバイザーとしてクレジットされている森元美代治さんはカンヌ映画祭にも参加したという。そんな事前情報ばかりいっぱい聞いている。そんな映画をようやく見た。

 しかし、これは実はまずもって「どら焼き映画」である。もっと一般的に言えば「和菓子映画」。もっともどら焼きしか出てこない。だから、甘いものが苦手で、どら焼きが好きでない人には魅力がないのではないか。(「かき氷」がメインの映画に、かき氷に関心がない人が心惹かれないのと同じ。それは僕の事だけど、なんで「かき氷映画」があるのか判らない。二つもあるんだけど。)ところで、僕はどら焼きが大好き。お酒も嫌いではないが、どちらかといえば甘いものの方がいい。まあ麺類やカレーの方がもっと好きだが、和菓子の中ではどら焼きが好きなのである。

 流行ってない、業務用のあんを使ってる「どら春」の店主、千太郎(永瀬正敏)のところに、徳江(樹木希林)と名のる老女が現れ、いくらでもいいからアルバイトしたいと言い、断られると「あん」を持って再訪する。これを試食してみた千太郎は、絶品のあんに驚き、徳江と一緒に働くようになる。夜明け前から仕込みを始める。あずきを水に浸し、ゆっくり煮ていき、アクを取ったり砂糖を入れたりして、じっくりじっくり煮詰めていく。時にはあずきに話しかけ、頑張れと励ましながら、あんを作っていく。このシーンのドキュメント的な面白さは抜群で、非常に感動的である。そして、この絶品のあんは評判を取り、行列ができるほどの店になっていく。ところが…、ということで、ここで「心ない噂」というヤツになる。

 ところで、この映画にはよく判らないところがいくつもある。だけど、何となく見てしまって心動かさせれるのは、樹木希林の名演によるところが大きい。それに、訳ありの店長を演じる永瀬正敏もいい。それだけでなく、常連的な中学生グループがいて、中の一人はカナリヤをきっかけに徳江と深いかかわりを持っていく。そして、全生園の中に話が進み、そこのロケを見るとやはり心打たれるのである。だけど、判らないというのは、一つはどら焼き屋という存在。そんなものが世の中にあるのか?見てると、その場で皮を焼いて、温かい和スイーツ、つまり鯛焼きとか今川焼のように出している。これがどら焼きか?普通は鯛焼き屋をやるでしょう?「どら焼きはあんだ」と映画の中で言ってるけど、違うだろ。あんがうまいのは前提で、皮がふっくら、もちもち、適度に湿り、適度に歯ごたえがある…そんな皮が決め手だと思うが。映画を見てると、ホットケーキにあんをはさんでいるようで、違和感があるんだが。

 もう一つがハンセン病の扱い方。これは何年の物語か?「らい予防法廃止」という話は出てくるから、1996年以後である。だけど、国賠訴訟の話は出てこないから、2001年以前なのかもしれない。徳江が70代半ばと、療養所入所者としては(現在では)若すぎる設定なのも、もう少し前と考えるべきなのかもしれない。東村山の中学生は、日本で一番ハンセン病の知識がある中学生ではないかと思う。今だったら、もっと知っていそうだし。でも、病の説明も現状の説明も何もない。これでいいんだろうか?うわさが広がった(と思われ)、その結果客を失ったのを挽回できないまま、店は改装されてしまう。河瀬監督の映画は、いつも説明をしない、観客に任せるような作り方が多いが、今回は現状を最後にでも字幕で説明するべきではないか。「手が不自由になる病気」と観客が思ってしまう可能性を感じてしまう。

 河瀬直美は、前作の「2つ目の窓」が割合に良かったと思ったが、評価は思ったより得られなかった。僕は2作目の「火垂」がけっこう好きで、どうも河瀬監督の中でも評価されない映画の方が好きである。アニミズム的な独自の感性が、空回りしているように思えて好きになれない映画も多い。今回も樹木希林を通して、自然との交感を描いている。それが療養所で生涯をすごさざるを得なかった女性、という設定とうまく合っていてとてもうまく出来ている。樹木希林ももう自在に演じている。僕もハンセン病元患者の話はいっぱい聞いているが、集会に参加するような人の話が多い。多分、今回の徳江は地道に園内で菓子作りをしてきた人で、初めて社会で働く体験ができて、ほんとうにうれしそう。そういう人が出てくることはハンセン病関係の本や映画では珍しい。そういう意味で非常に面白いけど、ハンセン病の正確な知識や元患者の苦難の歴史はまた別に学んでほしいと強く思う。とりあえず「ハンセン病資料館」にはまず行きましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「四月は少しつめたくて」-「ほんとうの言葉」を求めて

2015年06月23日 00時37分44秒 | 本 (日本文学)
 谷口直子四月は少しつめたくて」(河出書房新社、1400円+税)という本を読んだ。最近は新刊のハードカバーをあまり買わないんだけど、書評で読んで関心を持った。題名もいいし、「詩と再生の物語」という帯のコピーにも心ひかれる。書き出しを読んでみると「四月は少し冷たくて、それから少し背伸びをしている。だからわたしは四月が好きだ」。これもとても素敵で、是非読もうと思った。

 この本は「詩を書けなくなった詩人」をめぐって、二つの物語が展開する小説である。一つはその詩人の担当に(社長が入院したおかげで)なってしまい、いつのまにか「手下」のようになる詩専門出版社の女性編集者。途中で年齢がばれるが、1973年生まれで、話の中は2013年時点だから39歳から40歳。実は「訳あり」で、ファッション誌の編集者をやめて、つらい時間を経てやっと小さな会社に入社したところ。もう一つは、その詩人が教えている詩の教室に通う女性たち。特に、娘がほとんど口を利かなくなってしまった母親の物語である。高校生だった娘は、同級生を「無視」したことが自殺未遂のきっかけと決めつけられ、それ以来口を閉ざしている。大学入試にも失敗し浪人中。娘の部屋でその詩人の詩集を見つけたことから、詩人の教室に通うようになる。

 この、書けない詩人、女性編集者、女子高生と母親…。悩みを抱え、言葉を失った状態にある人々が、果たして「ほんとうの言葉」を取り戻せるのだろうか?という問題を主筋にしながら、現代の風俗やファッション情報を巧みに織り込み、清冽な感動を呼ぶ小説になっている。作者はどんな人だろうと思うと、高橋直子名義でエッセイ「競馬の国のアリス」を書いた人。読んでないけど、そういう本の存在は知っている。2013年に「おしかくさま」で文藝賞を受賞。「断貧サロン」という小説に続き発表したのが、今回の本。1960年生まれとある。キャバクラとかラインとか、最近の話題もずいぶん出てくるので、正直もっと若いかと思ったけど。

 で、その大詩人、「教科書にも出てくる」とある藤堂孝雄という人。どんな詩を書いてるの?と聞かれて、詩に詳しくない編集者、桜子は「ゆうべはごめんね」としか答えられない。って、もちろん現存しない詩人をフィクションで作ったわけでしょう。「教科書にも出てる詩」を創作するのは、すご技だなあ。

 その詩が中で出てくる。(全部は引用しないので、是非本書で。)
 朝の祈り  藤堂孝雄
  ゆうべはごめんねときみが言った
  きみが恋人なら それは仲直りの始まり
  きみが妻なら 新しい戦いの前触れ
  きみが生徒なら 先生はほっとする
  きみが息子なら 父親はただうなずき
  きみが風なら 倒れた木はもう答えない
  きみが太陽なら 夏は続いて
  きみが雲なら 今日は晴れるだろう
    (中略)
  謝罪は権力を生む
  だからあやまってほしくないんだ
  朝は等しく祈りたいんだ
  言葉をすべて飲み込んで
  狂った世界のために ただ祈りたいんだ
  きみが権力を生まないように 僕が権力を生まないように
  無言でただ 祈りたいんだ

 もう一つ、「霧が晴れたら」という詩も出てくる。これも素晴らしいんだけど、ここでは紹介しない。今書きたいのは、「言葉のいのち」のようなことで、「朝の祈り」の中では、ごめんねで始まった詩が途中で「謝罪は権力を生む」を突然転調する。これはどういう意味だろう?人生には「どうしようもないこと」がある。大切な人の死は、そのもっとも重大なできごとだろう。もはや謝りようもない。だけど、生きている人間の間では、「謝罪」が双方の関係改善の前提であることが多い。小説の中で出てくる「自殺未遂」問題の場合、「真相はどうなのか」がはっきりすれば、「どちらか、あるいは双方が謝る」ことが世の中では求められるだろう。でも、それでも失われた時間は戻らない。いったん損なわれた心は戻らない。世界と一体化していた言葉は、単なる謝罪では元に戻らない。だけど、「そんなことは忘れて、前に進もう」「謝ったんだから、もういいじゃないか」と言われてしまう。

 というような事を思うんだけど、でも現実の世の中では「謝罪」は必要なんだろうと思う。「謝れ」「謝るな」「謝ってるじゃないか」「いつまで謝るの」といった言葉が、今の日本では政争に使われてしまう。謝罪も権力を生むが、無謝罪も権力を生む。その両者を含めて、詩の言葉の表現として「謝罪は権力を生む」というんだと僕は思う。そして、こういう「詩の言葉」が人の心の奥の方を照らし出すということがある。それが詩というものなんだと改めて実感する。

 「ほんとうではない言葉」(オーウェルの「1984年」における新語法(ニュースピーク)のようなもの)は、まさに今安倍政権のすすめる「平和安全法制」に当てはまる。中味もひどいが、この言葉の遣い方が耐えられないという人も多いと思う。「戦争法案」というと「レッテル貼り」なんだそうだが、「平和安全法制」はどうなんだという自省はしない。だけど、同時に「戦争法案反対」という時にも、そこからこぼれ落ちる言葉がたくさんあるということに自覚していないといけない。現代を生きる中で、この小説に出てくる人々ほど「痛切に言葉を失う」体験をしている人はすくないかもしれない。でも、現代人のほとんどは「言葉を失った状態」にある。「マジ」「ヤバい」「かわいい」「いい感じ」しか発しないとしたら、それは「失語」と同じである。

 ところで、この小説に重大な場面で「東京芸術劇場の二階にある喫茶室」が出てくる。前回の記事の演劇が上演されたところ。そこの近くの大学に関係者が通ってるらしいので、それは立教大学なんだろう。おやまあ、いろんな意味で近いところで起こっていたドラマなんだとビックリした。現代の言葉、風俗なんかもいっぱい出てきて、とっても読みやすい本だけど、書いてあることは重い。世界をほんとうに表わす言葉をわれわれは持っているんだろうか。深い内省と感動をもって読み終わった。政治的なことばっかり書いてるブログ、趣味の世界ばっかり書いてるブログ、料理や自分の写真なんかばっかり載せているブログ…。一度この本を読んでみたら…。こういう本、小説や詩というものが魂に不可欠だと判る本。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「蜜柑とユウウツ」を見る

2015年06月20日 23時03分58秒 | 演劇
 「グループる・ばる」の「蜜柑とユウウツ-茨城のり子異聞ー」を見た。東京芸術劇場シアターイースト。19日。てがみ座主宰の長田育恵作の戯曲をマキノノゾミが演出。「グループる・ばる」というのは、女優三人のユニットグループで、茨木のり子さんに関する劇を作ろうという試みを見事に成功させたと思う。もっとも茨木のり子という詩人をあらかじめ知っている人向けかも知れないとは思う。
 
 舞台は故・茨木のり子家の一角に固定されている。そこに何人かの人が訪れてドラマが進行する。でも、何人かの人といっても、生きている人ばかりではなく、もう亡くなっている人や庭のミカンの樹の精まで出てくることにやがて気付かされる。冒頭で、茨木のり子の亡くなった後に残された遺稿集があるらしいと、出版社の社長と甥がやってきて家の中を探し回る。その「最後の詩集」はあるのか、それは何か。知ってる人には知ってる話だけど、そこをメインにして、茨木のり子の人生を振り返っていく。

 茨木のり子(1926~2006)という詩人は、父は医者で、夫も医者、実生活上は恵まれていた。といった私生活上の知識はほとんどないんだけど、僕は高校の頃から愛読してきた。何人もの人に現代詩文庫の茨木のり子詩集を贈ったことがある。あるいは卒業式を迎えると、きまって「汲むという詩を書いたり読んだりもしてきた。感受性豊かでユーモアもあるけど、一本筋が通り真っ直ぐ生きてきた人のように思える。だからこそ、評伝劇になるんだろうかと思う。だから、この劇では「のり子」と同じ読みもできる「紀子」(岡本麓)と「典子」(田岡美也子)という二人を登場させ、詩人ノリコ(松金よね子)を相対化させ、あなたは恵まれているとたびたび突っ込ませている。また谷川俊太郎と連れ立って現れる「岸田葉子」という女性(詩人で画家という設定)に木野花の客演を得て、茨木のり子という詩人の全体像を浮き彫りにしていく。この構成はなるほどよく考えたものだなと思う。

 そこで見えてきたものは何か。女として表現を続けること。愛と平和を問い続けること。戦争はいやだということ。あんなに苦労させられて、そのことを自分で考えもしなかった。二度とそんな生き方はしない。そして、早く失った夫を想う詩を死後に残して逝った。庭の蜜柑の樹に咲く花のように、清冽でステキな人生ではないか。多くの詩の引用(朗読)、60年安保の映像などを含めて、戦後という時代を生きた女性像を生き生きと描き出した。まるで茨木さんの詩を知らない人がどう思うかは判らない。でも茨木のり子という人への敬愛の念があふれた気持ちのいい舞台だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真の世界遺産とはー「明治日本の産業革命遺産」への疑問④

2015年06月18日 21時34分42秒 |  〃 (歴史・地理)
 「明治日本の産業革命遺産」問題も長くなった。問題をまとめた上で、最後に残された一番大きな疑問について書きたい。今回の「世界遺産」は、「1850年代~1910年」と時期を区切って、日本の「製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」に関する遺産を「稼働資産」を含めて構成したものである。

 これに対する僕の疑問は、
①1850年代の「韮山反射炉」「鹿児島集成館」などは「産業革命」と直接の関連がない。(広義の「近代化遺産」ではある。)
②「明治日本の産業革命」と言うならば、アジアで最初に近代的産業革命を達成した製糸、紡績産業を取り上げないのはおかしい。(日本の歩みに与えた影響が非常に大きい。近代的労働者は製糸、紡績の「女工」が圧倒的に多かった。)
重工業の発展を考えるなら、本格的に発展していく1910年以後を対象に含めないとおかしい。(それは日本の重工業が朝鮮、中国への侵略とともに発展していく過程である。近隣諸国の反発をそらすために、あらかじめ不自然な時期区分にしたのか。)

 例を挙げてみると、「軍艦島」とも呼ばれる「端島(はしま)炭鉱」の事例。確かに明治時代になって採掘が始まった。1890年に三菱が買い取って、以後本格的な採掘が始まる。しかし、この島の何が「世界遺産」に当たるのだろうか。「軍艦島」と呼ばれた独特の高層住宅の存在、そして1974年の閉山後に一種の「廃墟遺産」になっていることではないのだろうか。ところで、この独特な住宅などは、大正期以後に作られたものだとされる。「明治日本」の遺産ではない。
(軍艦島)
 「旧八幡製鉄所」関連遺産の評価も疑問がある。確かにそれは「日本史」の上からは非常に重要な遺産である。でも、「世界遺産」とまで言えるのだろうか。日本がアジアで初めて近代化に成功したことは間違いない。ある時点では、それは「非西欧世界で唯一の」と言っても良かった。だが、21世紀の現在から見れば、それは「他の非欧米諸国に先駆けて」という位置づけになる。八幡製鉄所は技術的に何か新発明をしたわけではなく、西欧諸国の技術を移転することに成功した場所である。それ自体に人類的価値があるのだろうか。日本が鉄鋼を自給できるようになったことは重要だが、その近代化は世界に何をもたらしたのだろうか。

 近代日本は絶えざる戦争の歴史だった。日本の産業革命は、果たして自国及び世界の人々を幸福にしたのだろうか。戦争を支える技術が発展しただけではないのか。いや、橋や駅やトンネル、港湾やダムなど、中には今も使われている建造物も多く作られ、日本人の生活を向上させたというかもしれない。だけど、それならそういう施設を「世界遺産」の候補にするべきではないか。横浜港や神戸港のさまざまな施設東京駅琵琶湖疏水木曽川の読書発電所や大井ダム…候補はたくさんある。

 明治時代には、炭鉱、鉱山が重要だ。特に炭鉱は1970年頃まで、日本のエネルギーを担ってきた。今回の候補にある三池炭鉱の宮原鉱、万田鉱などは、明治末期の資産がそのまま残っているものが多い。「明治日本の産業革命遺産」にふさわしいと僕も認める。だけど、なぜ筑豊炭鉱など他の炭鉱が入っていないのだろうか。さらに、足尾(栃木県)や小坂(秋田県)、生野(兵庫県)、別子(愛媛県)などの金属鉱山が入っていない。これは足尾鉱毒事件などの公害事件、戦時中の朝鮮人、中国人の強制労働問題を避けるためなのか。それとも三菱、三井が重視され、住友、古河、日立などのより小さい財閥を軽視しているのか。

 今回の世界遺産は二つの方向で問題がある。一つは「近代化にともなう負の側面」を無視していること。単に戦時中だけの問題ではない。産業革命の進展による「労働者問題」への目配りもない。重工業の発展が戦争と結びついていたこと。軍事産業が優先され、民生面の産業がおろそかになったこと。その結果、明治では足尾鉱毒事件などの公害問題を起こした。「明治の重工業の遺産」という中で、足尾関連が抜けているのは致命的な間違いだと思う。
(足尾銅山)
 日本の近代化・産業革命を世界に紹介するなら、足尾水俣を抜きにして、「明治の日本はすごかった」などと言ってはいけない。その悲惨な歴史を語り継ぐことこそ、「世界遺産」の価値である。その中に鉱山労働者の悲惨な労働も含まれる。もちろん、戦時中の朝鮮人、中国人労働者問題も含まれる。問題を無視して、「時代が違う」と切り捨てるのは歴史に誠実とは言えない。

 もう一つは「軽工業の無視」である。多くのアジア・アフリカ地域では、やはり繊維産業から発展する国が多い。日本が非西欧社会で初めて工業化した時、まず最初に発展し海外進出もした紡績業を抜きに語れない。戦前には大阪は「日本のマンチェスター」と呼ばれて、アジアの紡績業の中心だった。大坂はじめ、西日本には紡績業の遺跡もある程度残っているようだ。それらは世界遺産にふさわしい。その時にも「負の側面」を無視できない。「女工哀史」と言われた悲惨な労働。今の世界で問題になっている女性、少年労働の問題を考える時に日本が世界に伝えるべきことだろう。

 「民生面の遺産の無視」もある。食品産業(日本酒や洋酒の醸造、しょう油等)、デパートやホテル(三越百貨店や日光金谷ホテル、箱根富士屋ホテルなど)なども忘れてはならない。特に最後に書いたデパートやホテルは、日本人が「近代化」を考える時に非常に重要だと思う。本当の意味での「明治日本の産業革命遺産」は我々が自分の手で作っていくしかないようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「産業革命」とは何かー「明治日本の産業革命遺産」への疑問③

2015年06月17日 23時51分21秒 |  〃 (歴史・地理)
 「産業革命」とは、そもそも何だろうか? 英語では、“Industrial Revolution”である。もともと18世紀から19世紀にかけてイギリスで起こったものだから、英語を知っておくのも大切だ。アメリカ独立やフランス革命などの「市民革命」とともに、人類史をそれ以前と以後に画するような重大な出来事だった。内容を簡単に言えば、大量生産を可能にする工場制機械工業動力革命による工業、交通の大変革である。そこから起こった社会的な変動全体を指すこともある。
(イギリスの産業革命)
 歴史の教科書にはおよそ二つの分野のことが書いてある。一つは紡績業における織機、紡績機の改良である。ジョン・ケイの「飛び杼(ひ)」の発明、ハーグリーヴスの「ジェニー紡績機」の発明からアークライト、クロンプトンときて、1785年にカートライトによる蒸気機関による力織機の発明で一段落する。紡績業の生産性は格段に上昇したが、紡績業自体をよく知らないから説明は難しい。生徒の多くも、そもそも「紡績」と言われても死語だし、原料の「綿花」も知らない。そっちの説明が先である。

 もう一つが動力の革命で、ジェームズ・ワットによる1785年の「蒸気機関の改良」である。(改良であって、発明ではない。)この「ワット」という人名は必ず覚えておくべき人名だ。火力発電や原子力発電さえ、基本的には「蒸気機関」なんだから。19世紀になって、フルトンの蒸気船の実用化、スティーヴンソンによる蒸気機関車の改良も起こる。その輸送力のアップは驚くべき社会変化をもたらした。このように、産業革命はどの国でも、軽工業(特にせんい工業)が先行して起こり、続いて交通機関の革命が起き、重工業の発展が起きる。

 「常識」の説明は前置き。今回の「明治日本の産業革命遺産」を見ると、この産業革命の常識からすると、非常に不思議な構成になっている。韮山反射炉、萩反射炉、鹿児島の集成館、佐賀の海軍所跡などは、いずれも幕末の対外的危機感を背景に、「開明的藩主」(あるいは「開明的幕臣」)が海防力を高める目的で作ったものだ。大規模な工場ともいえず、動力革命が起きたとも言えない。アヘン戦争(清国敗北)、ペリー来航という衝撃を受けて、大砲を自国で鋳造するため鉄を製錬する施設である。韮山反射炉は実際に大砲を鋳造したから、なかなか立派なものである。だけど、これらは江川英龍、島津斉彬、鍋島直正などのリーダーシップで作られた「上からの国防強化策」であって、その地域は特に工業地帯として発展していない。そもそも「産業革命遺産」とは呼べないのである。

 明治維新以後、政府の殖産興業政策で工業が発展した。日本でも軽工業、特に製糸業、紡績業の発展から始まった。軽工業の産業革命は1890年代重工業の産業革命は1900年代以降に起こったというのが通説だ。今回の登録は重工業に特化しているが、それも疑問がある。明治時代の日本は日清、日露戦争を戦い、勝利し、植民地を獲得し、アジアでただ一国「帝国主義国」となった。評価はともかく、「世界史的事件」であることは間違いない。だが、この段階では日本は戦艦を自分で作れる国ではなかった。「日本海大海戦」で東郷平八郎が乗っていた旗艦「三笠」は横須賀市に保存・公開されているが、イギリスで製造されたものである。

 貧しかった日本がどうして、何隻もの戦艦を持てたのか。それは「絹を売って軍艦を買う」とまで言われた製糸業あってこそである。「明治日本の産業革命」と言うなら、製糸業抜きに語れない。そうしてみると、2014年にすでに登録された「富岡製糸場」こそ、本来の「産業革命遺産」だったのである。ワットやスティーヴンソンに並ぶ発明家は日本にはいなかった。欧米で発展した技術を政府主導で(官営工場やお雇い外国人を通して)受け入れ、財閥に払下げて工業化を進めたからだ。第一次世界大戦をきっかけに、日本の工業は発展し、農業生産頼より工業生産額の方が上回った。

 第二次世界大戦時に作られた「戦艦武蔵」は今回候補にある三菱重工業長崎造船所で作られた。あるいは「ゼロ戦」も三菱重工で作られた。それらを自国で作れるようになったのだから、すごいには違いない。だけど、「1850年から1910年」で切ってしまったら、日本の重工業の産業革命の全体像が見えなくなる。少なくとも大正時代まで含めないといけない。そもそも「産業革命遺産」は残りにくい。工場はどんどん機械が入れ替えられていく。歴史的価値があるからと言って、創業当初のまま保存しておくような会社はない。さらに戦災、震災があって、昔のままの工場はほとんど残っていない。残りやすいのは、企業経営者がたてた大規模な洋館とか、従業員慰安のために作った施設である。

 秋田県小坂町の劇場「康楽館」とか、長野県諏訪市の温泉施設「片倉館」などは世界遺産レベルではないか。日本の資本主義発展史を考えると、三菱、三井は含まれているが、渋沢栄一関連の資産がないのも問題。1901年に作られた官営八幡製鉄所は、その後北九州工業地帯として発展していくから、重工業の産業革命に欠かせない。だが、そこもなかなか厳しい道のりを経て、明治末から大正、昭和と発展していった。明治期だけ取り上げて「世界遺産」と言えるわけではない。
(官営八幡製鉄所旧本館事務所)
 今回の「産業革命遺産」を政府は「1850年から1910年」として構成している。それは完全にフィクションであって、間違った歴史認識を日本人に与えてしまうのではないか。工業化、産業化は必ず「負の側面」を持つはずである。日本に限らず、どの国の工業化においても、負の側面を持っていた。近隣諸国から戦時下の事を突き付けられたから、という問題ではない。自国の歴史を振り返れば、富国強兵、殖産興業の裏で苦しんできた民衆の姿が浮かび上がる。そして、そこも含んでこそ、「今、アジアで最初に近代化をなしとげた」世界史的な意味が明らかになるはずだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「推薦基準」と「稼働資産」ー「明治日本の産業革命遺産」への疑問②

2015年06月17日 00時02分21秒 |  〃 (歴史・地理)
 「明治日本の産業革命遺産」への疑問の2回目。この問題に関しては、僕は根本的な疑問を持っているが、それは次回に回して、今回は推薦に至る経緯に関しての疑問を書く。本来は今年は違う世界遺産が登録されるはずだったのである。それは「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」である。だが、こちらは1年先送りにされ、来年度に登録が期待される段階にある。だから、まあ特に騒がれていないけど、もともとこの問題はどうも不思議な経過をたどってきた。

 「世界遺産」とはユネスコ(UNESCO=国連教育科学文化機関)に登録されるだけである。ユネスコが直接守ってくれるわけではない。世界遺産条約に加盟する各国は、登録された資産を保護していく責任がある。これを逆に言えば、当該国で保護する仕組みが出来ていないものは、世界遺産に登録されない。日本の文化財保護行政は長い歴史があるが、芸術的、学術的な価値が高いものは、国宝重要文化財に指定される。あるいは、史跡(特に優れたものは特別史跡)、名勝(特に優れたものは特別名勝)に指定される。「日本の世界文化遺産」としてまず思い出す姫路城法隆寺奈良や京都の寺社日光東照宮宮島(厳島神社)など、みな国宝に指定されている。

 「原爆ドーム」に関しては、世界遺産に推薦しようという動きが出てきたときには、文化財保護の対象にはなっていなかった。「原爆ドーム」だからではなく、まだ昭和の戦跡に関しては、時間の経過が短すぎて歴史的な保護の対象と考えられなかった時代なのである。しかし、1995年に文化庁が文化財保護法の「史跡名勝天然記念物指定基準」を変えて、登録できるような仕組みを作って、史跡に指定した。その結果、国内法で保護されているという基準をクリアーして、世界遺産に推薦できるようになった。この推薦に至る道筋は、誰もが納得できるのではないか。

 文化財保護法に基づき国宝や史跡等を指定するが、文部科学大臣や文化庁長官が勝手に決めるのではなく、「文化審議会」で議論している。文化審議会は、2001年に国語審議会、著作権審議会、文化財保護審議会、文化功労者選考審査会をまとめて作られた。20世紀中は文化財保護審査会の担当だった。審議会の下に「世界文化遺産・無形文化遺産部会」があり、ここで世界遺産に推薦するかどうかの議論を行う。今までの世界文化遺産は全部それで決まってきた。今回も文化審議会では先ほど述べた「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が推薦されていた。

 本来ならそれで決まりである。しかし、今回は「明治日本の産業革命遺産」が割りこんできた。なんでこっちは文化審議会の対象にならないのか。それは「文化財として保護されていない資産」が含まれているのである。それは「稼働資産」である。現に今も使われているという意味である。史跡、重要文化財等に指定されると、現状変更が厳しく制限される。工場などの場合は所有者の了解が得られない場合が多い。今回の遺産候補の中では、八幡製鉄所の旧本事務所三池港三菱長崎造船所第三ドックなど10カ所以上もの稼働資産が含まれている。これらは文化財保護法上の保護対象になっていない。だから、本来ならいくら議論しても世界遺産には推薦されるはずがないのである。
(三池港)
 じゃあ、どうしたのか。内閣官房の「地域活性化統合事務局」内に「産業遺産の世界遺産登録推進室」を置き、「稼働資産を含む産業遺産に関する有識者会議」を作ったのである。安倍内閣が「松下村塾」を優先させたのかと思うと、それは違う。民主党内閣時代の規制緩和政策だった。2010年10月21日に「産業遺産の世界遺産登録に向けた文化財保護法中心主義の廃止」を決めたのは菅内閣である。「近代化遺産」を世界遺産に推すのはいいが、一体どうやって文化財を保護するのか。それは景観法港湾法公有水面埋立法などを適用するらしい。
(三菱長崎造船所第三ドック)
 かくして、世界遺産候補として、文化審議会のキリスト教遺産、内閣官房の産業革命遺産の二つがバッティングしてしまった。当時、下村文科相などは文化審議会の推薦を優先するように発言している。必ずしも安倍政権内が統一されていのかどうかわからないが、2013年9月に産業革命遺産を優先してユネスコに推薦することが安倍内閣で決定された。当時の新聞記事をあたっても、「なぜ産業革命遺産が優先されたか」はよく判らない。まあ、せっかくそういう仕組みを作った以上、こっちを先にという流れがあったのか。それとも首相の意向があったのか。今はよく判らない。 

 今になって思うと、この仕組みはやっぱり無理があったのではないか。文化財保護法で保護されていないのはおかしい気がする。今回の候補の中でも、松下村塾、グラバー邸、韮山反射炉、鹿児島の集成館などは史蹟や重要文化財に指定されている。それに対し、ネットで検索した情報では、やはり稼働資産は公開・見学に無理がある。世界遺産と言えば、どこも観光客が殺到している。見たいと思うのは当然だ。だけど、八幡製鉄所の旧本事務所などは、80mも離れたところからしか見学できず、写真撮影も禁止なんだという。「旧本事務所エリアには機密性の高い工場がある」というのが、会社側の言い分らしいが、これでは世界遺産に登録する意味がないではないか。ただ、今回の世界遺産問題ではもっと根本的な問題がある。「日本の産業革命をどう考えるのか」という問題である。それは次回に。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「明治維新遺産」-「明治日本の産業革命遺産」への疑問①

2015年06月16日 00時45分56秒 |  〃 (歴史・地理)
 「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録がふさわしいと勧告された。それに対し、韓国から反対の声があがっている。戦時中に多数の朝鮮人が強制連行され多くの犠牲が出た場所が含まれているというのである。中国も同調している。それに対し、日本政府は「ユネスコの諮問機関が認めた」「対象とする時期が違う」などと反論している。日本側には、また韓国が「難癖」を付けるのか、韓国がイザコザを引き起こすのかといった反発も強いように思われる。この問題をわれわれは一体どう考えればいいのだろうか。日本国民の歴史認識として、どう理解するべきかを考えてみたい。

 この間の経緯に簡単に触れておきたい。ユネスコの諮問機関であるイコモス(国際記念物遺跡会議)は、2015年5月4日、「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産への登録につき「登録がふさわしい旨」を勧告した。勧告は、登録を目指す23資産をすべて構成資産として認めている。名称については「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」に変更するよう求めている。

 もともと2009年に暫定リストに記載された時は、「九州・山口の近代化産業遺産群-非西洋世界における近代化の先駆け-」だったのである。九州・山口だから、韮山反射炉や釜石の史跡は含まれていない。2013年に構成資産の見直しが行われ、「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」となったのである。日本側の推薦に至る経緯は次回に検討するが、ここまででもずいぶん変っている。

 たまたまNHKのニュースを見ている時に、世界遺産への登録勧告という最新ニュースが流れた。その時に「松下村塾」の写真がまず流れた。数で言えば、長崎や福岡の方がずっと多いし、映像的にも軍艦島(端島炭鉱)や三池炭鉱の方が面白いだろう。これは何だろうか?「花燃ゆ」の宣伝か?それとも政権への配慮か?これが今のNHKなんだろうかとつい思ってしまったのである。だけど、その後の推移を見ながら、さらに考えていくと、そもそも根本的な疑問が沸き起こってきたのである。
(松下村塾)
 イコモスの勧告では、名称を「製鉄・鉄鋼・造船・石炭産業」とするように変更を求められている。これは「重工業」という視点に統一するということだろう。だけど、「松下村塾」と重工業の産業革命に一体どういう関係があるのか? 吉田松陰本人はもちろん、弟子筆頭格の久坂玄端、高杉晋作、吉田稔麿などはみな維新を迎えることなく死んでいる。伊藤博文山縣有朋など明治の有力政治家が塾の末席にいたことは確かだが、伊藤や山縣が日本の産業革命のリーダーだったというには無理がある。

 吉田松陰の思想も、産業革命を主導するものではない。日本史の授業で吉田松陰を「明治日本の産業革命の先駆けとなった人」と教える教師は一人もいないだろう。僕も見過ごしていたのだが、きちんと見ていくと、今回のリストの候補には、「明治日本の産業革命」というには無理があるものが含まれている。長崎のグラバー邸韮山反射炉なども無理である。幕末期に国防上の課題から、大砲を鋳造するための工業施設を作った。それは日本史上に重要な出来事だが、明治期の産業革命とつながったものではない。今回のリストの半分以上は、「明治日本の産業革命遺産」ではない
(グラバー邸)
 僕は何も「松下村塾」に史跡としての意義がないと言うのではない。高校生徒の時、東海道新幹線が初めて新大阪から岡山まで延伸された。その夏に僕は中国地方をぐるっと一人旅をした。原爆ドームや倉敷、津和野と並び、萩も訪れて松下村塾を訪れた。およそ歴史ファン、大学で日本史を学びたいと思う高校生なら、松下村塾や萩の史跡は一度は行きたい場所だ。ただし、それは「明治維新遺産」だからである。日本は明治維新期を通して中央集権国家を実現し、富国強兵の道を歩んだ。

 「明治維新遺産」には紛れもなく世界史的重要性がある。だが、薩長も重要だが、敗者も忘れてはいけない会津の若松城(鶴ヶ城)や白虎隊等、あるいは北海道の五稜郭…。多くの日本人がそれらの場所を訪れ、幕末・維新の歴史に思いをはせる。近代日本の礎となった人々、日本の近代化を見ることなく死んで行った人々を偲んでいる。アジアで最初に近代化をなしとげたのは、幕末から明治初期のいくつもの戦争を経たからだ。評価は別にして、われわれは「明治維新遺産」として考えるべきであり、「産業革命遺産」は(それはそれで重要だが)産業遺跡のみで構成すべきだと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「どん底 部落差別自作自演事件」という本

2015年06月14日 22時48分16秒 | 〃 (さまざまな本)
 ノンフィクション作家高山文彦氏の「どん底 差別自作自演事件」(小学館文庫、750円+税)を読んだ。単行本になったとき(2012年)に書評で知って、読みたかった本。その時は買いそびれたが、今回文庫に入った。ものすごい内容の本だと思うから、紹介しておく。今まで、旧石器捏造事件を描いた「石の虚塔」や「ヘイトスピーチ」の本について書いたけど、それらも人間性への疑問を呼び起こす本ではあった。人間には驚くべき暗い側面もあるということは、もちろん知っているから、この程度で驚くわけではない。でも、やはり読んでいて、辛くなるような本に違いない。と同時に(こういう言葉はふさわしくないかもしれないが)、「面白くてやめられない」ような側面もある。それほど「驚くべき事件の記録」で、考え込んで立ち止まる時間もあるが、知っておくべき事柄のように思う。

 2003年12月から約5年間にわたって、福岡県南部の町で被差別出身の嘱託職員に44通もの「差別ハガキ」が送りつけられるという事件が起こった。本人は悪質な差別として、解放同盟とともに人権啓発運動に乗り出す。行政も動き、警察も本格的に捜査した結果、2009年に逮捕されたのは、なんと当の本人だった。これは本当か、冤罪ではないのかと当初は思った人もいたが、結局は間違いなく本人の書いたものだった。どうしてそんなことが起こったのか。本人を呼び、悪質な差別事件として糾弾も行われ、そこまでを渾身の取材で追及したのがこの本である。

 しかし、この本に書かれているのは、単に「差別ハガキ事件」だけではない。その前に同じ町であった出身の教師に対する差別ハガキ事件。結局それは解決することなく、本人が異動していってしまった。そういう「前史」があったのである。また、この地域の解放運動の歴史、事件を追及する側にたつ何人かの人物の生き方も大きく扱われている。つまり、「差別ハガキ事件」を中核にして、横(地域のさまざまな事情や人々)と縦(差別と解放運動の歴史、関係者の人生)が織りなす複合的な世界を描いている。そこには苦沁みながらも連帯を求めて闘ってきた姿も描かれるが、同時に「差別を直視できずに逃げてしまう」という人間の姿も出てくる。

 それはまあ当然で、逃げてはいけないなどと人を裁けるほどのことは言えない。だけど、そのことと「差別ハガキを送る」、それも自分に対してだけではなく、最後の頃には違う人物にも送ったりしている。自分ばかりに来ると疑われるということらしいが、考えがたいことである。しかも、だんだん凝ったつくりになったり、「愉快犯」的な側面も出てくる。支部の会計もしていた彼のところには、空き巣が入って多額のカネが奪われるという事件も起きている。それを「予告」するようなハガキもあるので、今となっては空き巣も本人の仕業で、遣い込みがばれないための行為ではないかとの疑念も浮かぶわけだが、あくまでも否定するので警察の捜査も終結している。だけど、何十万もの金を家に保管していたということ自体が、理解に苦しむ行為だろう。

 本を最後まで読んでも、この人物の内面は測りがたい部分が多く、どうしても理解できないところが多い。解放運動内部の人間であれ、自己保身のために「差別事件の自作自演」を作り上げるということは、まあ絶対にないわけではないだろうと思う。それでも、自分で作り上げておいて、差別ハガキ事件被害者として全国で講演して講演料をもらうという。断りようがない迷路に自分で入り込んでしまったのかもしれないが、ありえないことだと思う。しかも、いったん終了宣言までしながら、またもハガキを送ってしまう。そのことで警察が本格的に捜査を始めて、自分の仕業と判ってしまう。では、憑き物が落ちたように晴れ晴れするかというと、そうではない。反省していると言いつつ、自己を顧みることができないまま時間が経っていく。こういう人がいるのである。

 そういうこともあるんだということを知識で知るということも必要かと思う。だけど、ここまでする人は少ないだろう。注意しておかないと、「だから問題は厄介だ」などという感想を持つ人もいるかもしれない。この本をちゃんと最後まで読めば、そんな感想を持つ人はいないだろう。未だに結婚差別が無くならないという日本の現実。それが背景にあってこその「差別ハガキ事件」であり、本末転倒した読み方をしてはいけない。それにしても、石器を自分で埋めておいて、自分で掘り出す人物も不思議だが、この本で出てくる差別ハガキを自分に向けて書く人物というのも実に不思議な人物だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アホウドリが飛んだ-阿奈井文彦さん追悼会

2015年06月14日 00時24分25秒 | 追悼
 3月7日に亡くなった阿奈井文彦さんの事は、当時ブログで「阿奈井文彦さんの思い出」を書いた。通夜や葬儀が東京であれば、僕も参列したのではないかと思うが、通夜は静岡県で、葬儀は故郷の大分県で行われたので出られなかった。そのことを残念に思う人はたくさんいたようで、このたび追悼会が行われた。僕はそれほど深いかかわりがあったとも言えず、今日も端っこにいたようなもんだから、書こうかどうしようかと思ったんだけど、自分の記憶力など全く当てにならない。書いておかないと、あれ、いつだっけということになるから、やはり書いておきたい。

 5月上旬に、カタログハウスの封筒に入った本橋成一さん(写真家、映画監督)名義の封書が届いた。何だろうと思ったら、これが阿奈井さん追悼会のお知らせだった。その前から、そういう企画をしたいという動きがあるのは聞いていた。どうしようかと思ったんだけど、6月13日(土)午後3時~6時頃 場所/カフェ「ポレポレ坐」という時間と場所の出席しやすさ。それに「アホウドリが飛んだ」という追悼会の名前に心惹かれて、やっぱり行こうかなと思った。もっとも、サンハウス所長の平野夫妻も行くといっていたので、一緒に出るという感覚でもあったけど。お知らせ通知はこれ。

 3時過ぎに会が始まり、吉岡忍さんがべ平連の脱走兵支援時代の思い出。続いて木村聖哉さんが同志社を単位が足りず退学して東京で屑家を始めた経緯、その後の東京での那須正尚さん(思想の科学社)を含めて三人で句会を作ってよくあっていた話などを披露した。当時の句をいくつか紹介して、なかなか句才もあったかに思われたが、メモしていなかったので思い出せない。確か「赤とんぼ 瞬時滝の音を消す」といったようなのがあったか。ビール片手に聞いているから、記憶が定かではないが。写真スライドや映像も流されたが、やっぱり顔を見ると懐かしい。弟さんや姪御さんから見た阿奈井さん像も新鮮なもので、また出版関係のさまざまな人から見た、原稿が遅かったり、モランボン料理学校に通って本を作った時のエピソードなど、さまざまな話が面白かった。

 でも、まあ僕が知ってるのはキャンパー関係。FIWC関西委員会の韓国キャンプに毎年のように参加していたことからのつながりである。阿奈井さんは確かにあちこちに韓国キャンプの思い出を書いていた。それで来た人も大勢いるんだという。(僕は「思想の科学」と「80年代」という、今はなき雑誌の広告で連絡先を知ったのである。その頃ハングルを学んだりしていたから、行く素地はあったのだけど。)韓国キャンプの中心で今も活躍する柳川義雄さん(四日市)、東日本大震災直後の唐桑キャンプでも再会した井木沢さん(栃木)、あるいは80年代初期に朝日の「天声人語」に紹介されるきっかけとなった芦崎治さん、韓国キャンプの写真をいっぱい撮ってた若手の写真家だった奥野安彦さん(写真家)…。そう言えば、司会を荒川さんが担当していた。FIWCは関東でまた違った流れがあるのだが、関西委員会の韓国キャンプに参加してないと阿奈井さんとの接点がない。だからFIWC関係でも関東系、あるいはその後のフィリピンキャンプ、中国キャンプからの人とは会えない。最後に、本橋さん写真、阿奈井さん文の「サーカスが来る日」がお土産に配られてオシマイ。事情があって、大量に残ったらしい。

 どうも疲れ気味で、その後はさっさと帰る。最近はそういう時が多い。今週は火曜日に「水の声を聞く」「祖谷物語」の長い二本立てを見て、木曜夜に「明治の柩」を見たから疲れてしまった。昨日は2本ブログを書くつもりだったが無理だった。だから今日の昼間、女子サッカーワールドカップを見てる合間に「明治の柩」を書いて、それが終わって東中野に出かけた。そんなことはどうでもいいんだけど、昔に比べれば無理がきかないなあと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文学座「明治の柩」を見る

2015年06月13日 13時29分00秒 | 演劇
 宮本研(1926~1988)の「明治の柩」を文学座が公演している。(11日から24日)東池袋(東京メトロ有楽町線)の「あうるすぽっと」。ここは作業所の文化交流会でステージ上には2回も立っているんだけど、観客席で有料公演を見るのは初めてである。割合に見やすい舞台だった。
 
 「明治の柩」は1962年に初演された「革命伝説4部作」の最初の作品で、足尾鉱毒事件と田中正造の戦いを描いている。劇中では、旗中正造、豪徳(幸徳秋水)、岩下さん(木下尚江)、古山伝兵衛(古河市兵衛=劇中には名前しか出てこない)と名を変えているけれど、多くの観客には判っている。宮本研の劇は生前から時々見ている。今もけっこう上演されている劇作家である。(特に「からゆきさん」は近年の上演が多い。)だけど、実は「明治の柩」は初めて見た。田中正造は70年代以降、飛躍的に関心が深まり研究も進展した。足尾鉱毒事件や田中正造にはずっと関心を持ってきたが、この劇は少し古いように思い込んで、戯曲を読むこともなかったのである。

 実際、前半は旗中と豪徳、岩下で、キリスト教だ、社会主義だ、はたまた天皇をめぐって議論するシーンが続き、いくら何でももう古い気がした。60年安保闘争直後の理論的な混迷に思いを込めていると思うが、正直言って今では「日本的重圧」と格闘する時に、社会主義やキリスト教などの問題から入る人はいないだろう。70年代頃までは理論的格闘が若い時代には避けられなかったから、難しい問題を難しい言葉で論じていた。現実の世の中をちっとも知らないうちに、そういうことばかりしていた。

 だけど、休憩をはさんで後半になると、がぜん「現在の問題意識」に直撃される。演出を担当した高瀬久雄は、公演を前に6月1日に急逝したのだが、朝日新聞に生前最後のインタビューが紹介されている。そこでは「水俣、原発、辺野古の問題へつながる人民とは、国家とは一体何なのか。観客になげかけてみたい」と語っている。一つは戦争と抵抗の問題。日露戦争下、村はお国のためにと兵隊を送り出し、足尾銅山は戦争遂行に必要な軍需物資だから政府に保護される。そんな中で、国は「谷中村」を廃村にして遊水地を作って、この問題を終わらそうと企む。鉱毒を防ぐことより、洪水が起こっても遊水地という「少数者の犠牲」ですませばいい。その仕掛けに谷中村以外の被害被害民も乗せられていく。旗中正造は、人民は憲法に守られているはずだと鋭く追及していくが、「憲法」は政府の思いのままに解釈されるのである。

 もう一つは圧倒的少数の戦いはどうあるべきなのか。旗中は村を動かず、強制執行の日を迎える。かつての同志の中にも、この戦いは勝てない戦いだったというものもいる。戦争を行う政府は、銅を産出する鉱山を守りきる。初めから勝てない戦いだった。そういう認識のもとに戦っていたら、もう少しやりようがあったのではないかというのである。この問いは、原発や辺野古の問題を通して、今の我々にも突きつけられている。だが、誰かが不正は不正だ、少数の犠牲だからといって犠牲者を救わなくてもいいのかと問い続ける者がいなくてはいけない。勝てる、勝てないという運動的な駆け引きの問題ではないだろう。そのときこなって、あくまでも人民の中に入って最後まで妥協しなかった旗中正造という存在が大きくなる。だが、この「人民の中に(ヴ・ナロード)」という思いも、果たして旗中は人民の中にいたと言えるのかと問い返される。今に続く、運動の論理と生活の論理、そして支援者のありようをめぐって、問題は答えのないまま突きつけられてくる。

 昔からこの問題には関心があった。田中正造の研究会に参加していた時もある。思想史、社会運動史的な関心と同時に、鉱毒事件被害地の中心だった館林(群馬県)に縁があったこともあり、鉱毒事件の現場も歩いている。谷中村の跡地の渡良瀬遊水地、あるいは鉱毒ですっかり木が枯れてしまい、今も植林運動が続く足尾銅山と松木渓谷などである。「明治の柩」を見て、田中正造への関心も改めて甦ってきた感じがする。少し古い部分も含めて、今も読み返すべきものがある作品だと思う。知名度のある俳優は出ていないけれど、力強い舞台だった。と同時に、新しい時代の田中正造を誰か描くべきではないかと思った。近代の人物をあれほど評伝劇に仕立てた井上ひさしも、田中正造は描いていない。「反政府運動」という視角からだけでなく、エコロジー的な観点からも新しく描き直す。それは劇でも映画でも、小説、コミックでもいいのだが、新しい田中正造像も見たいような気もする。劇と言っても、ストーリイは判っている討論劇なので、ほとんどテーマの現在的関心で見てしまった。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「追憶と、踊りながら」

2015年06月12日 23時09分03秒 |  〃  (新作外国映画)
 カンボジア系中国人のホン・カウ(1975~)という新人監督が、ロンドンで撮った「追憶と、踊りながら」は小品ながら忘れがたい趣をたたえた作品だった。静かな画面、少ない登場人物で、登場人物の中にある深い物語が密やかに語られていく。予告編をネットでも見られるが、冒頭に李香蘭(山口淑子)歌うところの「夜来香」(イェライシャン)が流れるのを聞いた時から、時空を超えた不思議な空間に導かれる思いがする。中国語と英語、画面の中では相互に判りあえない言語で、悲痛な思いを紡いでいく。
 
 場面がひんぱんに変わるが、決してわかりにくい映画ではない。多分、そうだろうなあという予想通りに進むと行ってもいい。映画本編が始まると、そこはロンドンの介護施設。そこで一人で暮らすジュンという高齢女性。後にカンボジア系中国人と出てくるが、もう何十年とロンドンで暮らしながら、結局英語を身に付けなかった。苦難のカンボジア現代史を思うと、どうして国を離れたのか、ヨーロッパに行くとしてもなぜパリではなかったのかに関心が湧くが、映画内ではそういった事情は全く語られない。夫はすでに死に、彼女の楽しみは一人息子のカイが訪ねてくることだ。

 そのジュンに、カイの友人だというリチャードが訪ねてくる。一体どういうことなのか、映画の進行ともに見えてくるが、カイはゲイでリチャードと暮らしたいから、母を施設に入れたということらしい。ところが、いよいよ母に告白しようという時に、カイは亡くなったらしい。交通事故で死んだということが後でわかるが、リチャードはカイの思いを受け継ぎ、ジュンの面倒を見たいと思う。だけど、ゲイとは言えず、二人の関係は友人だとしか言えない。ジュンは中国語しか話せないが、施設にいるアランは彼女を美しいといい、二人は一緒にいることが多い、だが、アランは中国語が出来ず、お互いに相互の言語が理解できないのである。そこで、リチャードは友人の女性ヴァンを通訳として連れてくる。こうして、映画のかなりの場面が英語と中国語の通訳シーンという珍しい映画になったのである。

 愛するものを失った共通のせつない思い。ジュンとリチャードは次第に通じ合ってもいくが、それは同時にカイをめぐって争った関係を自覚していくことでもある。真実をめぐって、人生をめぐって、登場人物に亀裂が入っていく物語でもある。映像は過去と現在を自在に行き来して、リチャードとカイ、ジュンとカイの物語を語る。失われたものは二度と戻らない。その痛切な痛みが消え去らない。結局はまた一人ひとりになっていくしかないのだろうか。舞台劇のような、少ない登場人物と限定された空間で作られた物語だが、この言語が通じ合えあないという根本的設定のために舞台劇にはできないだろう。

 実際には英語ができることが演出上の都合で求められ、ジュンはチェン・ペイペイという人。中国武侠映画の伝説的ヒロインで、結婚後に渡米し、モダンダンスをしていたという。その後女優に復帰し、「グリーン・デスティニー」などに出ているという。キン・フー映画にいっぱい出ているらしいから、若い時を見ているのではないかと思うが、名前は覚えてなかった。リチャードはベン・ウィショーで、トレヴァー・ナン演出の「ハムレット」で主演、以後映画でもたくさん出ている。ハリウッド映画「クラウドアトラス」にも出たという、舞台、映画、テレビで今売出し中の英国若手俳優である。僕が見ている「ブライトスター」で詩人のキーツ役を演じていた。物語を紡ぎだすカギとなる「夜来香」という歌はそれ自体が、東アジア現代史を象徴するような歌だが、ここでは詳細は書かないことにする。ネットで予告編を探して見て欲しい。不思議に懐かしく、奇妙なほど心揺さぶられる歌だと思う。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本政志監督の「水の声を聞く」

2015年06月09日 23時22分59秒 | 映画 (新作日本映画)
 山本政志監督の「水の声を聞く」という映画を見た。2014年のキネマ旬報ベストテンの9位に入っている。でも、公開規模も小さかったし、ベストテンに入るほどの映画だと思わず見逃した。その後も何カ所かで上映があったが時間が合わず、今回キネカ大森というところでようやく見られた。(金曜日までの上映で、水、金は10時50分、16時15分の2回。だが11日(木)に監督のトークもあって、時間が変更になり、13時25分、18時50分から。)非常に面白く、現代を映し出した佳作だったが、ほとんど知らないと思うので、紹介しておきたい。なお、今回は合間に長大な「祖谷物語」との2本立てで、こっちも見応えがあったが、169分もする。徳島の山奥で幻想的場面も含めて撮った劇映画で、蔦哲一郎監督は池田高校野球部のあの蔦監督の孫なのだという。

 山本政志監督(1956~)は自主映画の中から出てきた人で、1987年の「ロビンソンの庭」で日本映画監督協会新人賞を受けた。1982年の「闇のカーニバル」で注目を集め、1990年の「てなもんやコネクション」は香港との合作だった。その頃は見たのもあるんだけど、その後南方熊楠の映画化を志して挫折。あまり映画も作れない時期が長く、ちょっと僕も忘れていた。2010年代になって「シネマ☆インパクト」という映画塾を主宰。そこで作った大根仁「恋の渦」がヒットして、その利益をつぎ込んでこの映画を作ったということである。
 
 映画の紹介を引用すると、「東京・新宿のコリアンタウンで、軽くひと稼ぎをしようと巫女を始めた在日韓国人のミンジョン。水や緑からメッセージを聞きとるという彼女に救いを求める人々は後を絶たず、やがてその集まりはミンジョンを教祖と仰ぐ宗教団体「真教・神の水」となる。後戻りのできない状況になってしまい、救済を求めてくる信者たちに苦悩するミンジョンだったが、次第に偽物だった宗教にも心が宿り、ミンジョンは不安定な現代社会を救おうと大いなる祈りをささげはじめる。」

 ということで、冒頭から「新興宗教」と「コリアンタウン」という物語である。ミンジョンはちょっとした気持ちで占いを始めて当たり、そこから「霊能力」がありそうだと見込まれて、「神の水」なる宗教の教組になってしまう。でも、友だちと会う時は普通の若い女性。カネに困って無心に来る父親を抱えて苦労が絶えない。そんなミンジョンに救いを求める人が集い、また教団に経営的成功を求める人々も集まる。そんな中で、ただの普通の人間だと思うミョンジンは教団が心苦しくなり…。一方、カネを返せずヤクザに追われる父親は殺されかけ、教団に隠れて住むようになってしまう。ミョンジンは失踪して、その間教団は「修行中」と取り繕って、他のメンバーを代理に立てる。ミョンジンは家族の過去を訪ねて、済州島から「4・3事件」を逃れて日本に来た歴史を知り、巫女だった祖母の宗教能力の高さを教えられる。そして、本気で世界を救う宗教にするんだとカリスマ性を高めて教団に戻ってきたミョンジンだったが…。

 その後の成り行きは書かないが、インターネットを駆使して現代人の心の空白に食い込もうとする「宗教産業」とそれを支える人々。また、さまざまな苦悩を抱えて教団に救いを求める人々を通して、現代社会も描く。そういう構造を持ちながらも、結局はコリアンタウンに生き、ごく普通の在日韓国人女性だったミョンジンが、どんどん宗教性を本気にしていく。その様子がとても興味深い。ミョンジンを演じる玄里(ヒョンリ)は日英韓3カ国語に通じるという。セリフの中で、「(ミョンジンは)在日育ちには珍しく韓国語がしゃべれる」と言われているが、日韓両国語を自由に使い分けている。宗教的儀式が韓国語で行われることが「神の水」では重要であるらしく、多分日本人信者には神秘的な巫女性をそこに感じるということなんだと思う。素晴らしい存在感だし、注目すべき美人女優の誕生である。村上淳以外に知られた俳優は出ていないが、そこがかえってリアルな感じ。僕は結構面白く見たが、こういう風俗的ありながらもっと深いものを志向する映画が好きなのである。最後に、美空ひばりの「愛燦燦」が流れるのにあ然とするが、あっている。最後の最後に若松孝二への献辞が出てくる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする