ドキュメンタリー映画「いろとりどりの親子」はとても心に響く映画だった。アンドリュー・ソロモンという人がいる。作家であり、臨床心理学の教授であり、ゲイだという。親に同性愛をカミングアウトしたが、母親には受け入れてもらえないまま死別した。そんな彼が自分とはタイプが異なりつつも、「普通とは違った子ども」とその親に関心を持って「FAR FROM THE TREE」という本を書いてベストセラーになった。そしてその本に基づいて作られたのがこの映画である。
まず出てくるのは「ダウン症」の親子。両親はダウン症児にも発達の可能性があると示すため、セサミ・ストリートに出るなど社会的活動も進めてきた。生まれたときには何もできないと思われたジェイミーも、「教育」の可能性を示してきた。ずいぶん前から、誰もが簡単にビデオ映像を撮れる時代になった。子どもが生まれたら、親がたくさん子どもの映像を残している。そういう昔の映像を使って、「障がい」(と字幕は表現している)のある子どもと親の人生を描く。
そういう昔の映像の力は、「自閉症」のジャックで一番示される。生まれたときから映像を撮りためていたわけだけど、その子はいくら経っても言葉を発しなかった。さまざまな診断を求め、あやゆる療法を試し、その結果「自閉症」を受け入れる。そして、ジャックも文字盤をタイピングすることで意思を表現できるようになってゆく。これらの子どもたちを描く間に、ナレーターでもあるアンドリュー自身の出来事も語られる。今では「障がい」や「同性愛」はかなり語られているので、それぞれの当事者には大変な人生だろうが理解しつつ見ることができる。
続いて「低身長症」の人々が描かれる。ロイーニは低身長症でデートしたこともない。あまり外出することもなかったけれど、「リトルピープル・オブ・アメリカ」という団体があって、その年次総会に出席する。そこでリアとジョセフという低身長症のカップルが登場する。人間の身長には高低があり、ある一定範囲内ならば「個性」だと誰もが思っているだろう。でも一定範囲を超えて低い、高いという場合は、ホルモンや骨の異常による「病気」だ。しかし、この病気の場合、日常の市民生活を支障なく送ることができる。単に身長が低いことによる不都合と周囲の好奇の目があるだけで。この「病気」を治す薬は必要か。理事会で激論が交わされる。
そして最後に、わが子が殺人犯になってしまった一家の話が出てくる。ある日、16歳のトレヴァーが8歳の少年を殺害したと逮捕される。何かの精神疾患があったのか、さまざまな鑑定を行うが全く判らない。本人も語らないという。弟と妹がいるが、二人とも子どもは持たないと言っている。兄のような子どもになるのが怖いから。何らかの「理解」を拒む子どもの存在に今も押しつぶれそうに生きている両親。死んで謝罪しようと思いながら、それでは何の解決にもならないと生き続ける。
「理解」できない子どもを何とか「理解」しようと努める親という存在。そして「理解」に達しても、やはり「障がい」には限界がある。こうして見てくると、この映画が問うものは「障がい」の方ではなく、「健常」であることの方ではないかと思う。アンドリューが述べるように、同性愛は社会の理解が進み同性婚も(アメリカの一部では)認められるようになった。(アンドリューも結婚した。)しかし、あるものは「個性」とされ、あるものは「障がい」となる、その境目はどこにあるんだろう。親子の情愛を感じると同時に、いろんなことを考える映画だ。是非、教育や福祉に関わる多くの若い人に一度見て欲しい。なお、原作はかなり長いらしく、日本では2019年に翻訳が出るという。
まず出てくるのは「ダウン症」の親子。両親はダウン症児にも発達の可能性があると示すため、セサミ・ストリートに出るなど社会的活動も進めてきた。生まれたときには何もできないと思われたジェイミーも、「教育」の可能性を示してきた。ずいぶん前から、誰もが簡単にビデオ映像を撮れる時代になった。子どもが生まれたら、親がたくさん子どもの映像を残している。そういう昔の映像を使って、「障がい」(と字幕は表現している)のある子どもと親の人生を描く。
そういう昔の映像の力は、「自閉症」のジャックで一番示される。生まれたときから映像を撮りためていたわけだけど、その子はいくら経っても言葉を発しなかった。さまざまな診断を求め、あやゆる療法を試し、その結果「自閉症」を受け入れる。そして、ジャックも文字盤をタイピングすることで意思を表現できるようになってゆく。これらの子どもたちを描く間に、ナレーターでもあるアンドリュー自身の出来事も語られる。今では「障がい」や「同性愛」はかなり語られているので、それぞれの当事者には大変な人生だろうが理解しつつ見ることができる。
続いて「低身長症」の人々が描かれる。ロイーニは低身長症でデートしたこともない。あまり外出することもなかったけれど、「リトルピープル・オブ・アメリカ」という団体があって、その年次総会に出席する。そこでリアとジョセフという低身長症のカップルが登場する。人間の身長には高低があり、ある一定範囲内ならば「個性」だと誰もが思っているだろう。でも一定範囲を超えて低い、高いという場合は、ホルモンや骨の異常による「病気」だ。しかし、この病気の場合、日常の市民生活を支障なく送ることができる。単に身長が低いことによる不都合と周囲の好奇の目があるだけで。この「病気」を治す薬は必要か。理事会で激論が交わされる。
そして最後に、わが子が殺人犯になってしまった一家の話が出てくる。ある日、16歳のトレヴァーが8歳の少年を殺害したと逮捕される。何かの精神疾患があったのか、さまざまな鑑定を行うが全く判らない。本人も語らないという。弟と妹がいるが、二人とも子どもは持たないと言っている。兄のような子どもになるのが怖いから。何らかの「理解」を拒む子どもの存在に今も押しつぶれそうに生きている両親。死んで謝罪しようと思いながら、それでは何の解決にもならないと生き続ける。
「理解」できない子どもを何とか「理解」しようと努める親という存在。そして「理解」に達しても、やはり「障がい」には限界がある。こうして見てくると、この映画が問うものは「障がい」の方ではなく、「健常」であることの方ではないかと思う。アンドリューが述べるように、同性愛は社会の理解が進み同性婚も(アメリカの一部では)認められるようになった。(アンドリューも結婚した。)しかし、あるものは「個性」とされ、あるものは「障がい」となる、その境目はどこにあるんだろう。親子の情愛を感じると同時に、いろんなことを考える映画だ。是非、教育や福祉に関わる多くの若い人に一度見て欲しい。なお、原作はかなり長いらしく、日本では2019年に翻訳が出るという。