尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「普通」と違う子どもたち-「いろとりどりの親子」

2018年11月30日 22時37分02秒 |  〃  (新作外国映画)
 ドキュメンタリー映画「いろとりどりの親子」はとても心に響く映画だった。アンドリュー・ソロモンという人がいる。作家であり、臨床心理学の教授であり、ゲイだという。親に同性愛をカミングアウトしたが、母親には受け入れてもらえないまま死別した。そんな彼が自分とはタイプが異なりつつも、「普通とは違った子ども」とその親に関心を持って「FAR FROM THE TREE」という本を書いてベストセラーになった。そしてその本に基づいて作られたのがこの映画である。

 まず出てくるのは「ダウン症」の親子。両親はダウン症児にも発達の可能性があると示すため、セサミ・ストリートに出るなど社会的活動も進めてきた。生まれたときには何もできないと思われたジェイミーも、「教育」の可能性を示してきた。ずいぶん前から、誰もが簡単にビデオ映像を撮れる時代になった。子どもが生まれたら、親がたくさん子どもの映像を残している。そういう昔の映像を使って、「障がい」(と字幕は表現している)のある子どもと親の人生を描く。

 そういう昔の映像の力は、「自閉症」のジャックで一番示される。生まれたときから映像を撮りためていたわけだけど、その子はいくら経っても言葉を発しなかった。さまざまな診断を求め、あやゆる療法を試し、その結果「自閉症」を受け入れる。そして、ジャックも文字盤をタイピングすることで意思を表現できるようになってゆく。これらの子どもたちを描く間に、ナレーターでもあるアンドリュー自身の出来事も語られる。今では「障がい」や「同性愛」はかなり語られているので、それぞれの当事者には大変な人生だろうが理解しつつ見ることができる。

 続いて「低身長症」の人々が描かれる。ロイーニは低身長症でデートしたこともない。あまり外出することもなかったけれど、「リトルピープル・オブ・アメリカ」という団体があって、その年次総会に出席する。そこでリアとジョセフという低身長症のカップルが登場する。人間の身長には高低があり、ある一定範囲内ならば「個性」だと誰もが思っているだろう。でも一定範囲を超えて低い、高いという場合は、ホルモンや骨の異常による「病気」だ。しかし、この病気の場合、日常の市民生活を支障なく送ることができる。単に身長が低いことによる不都合と周囲の好奇の目があるだけで。この「病気」を治す薬は必要か。理事会で激論が交わされる。

 そして最後に、わが子が殺人犯になってしまった一家の話が出てくる。ある日、16歳のトレヴァーが8歳の少年を殺害したと逮捕される。何かの精神疾患があったのか、さまざまな鑑定を行うが全く判らない。本人も語らないという。弟と妹がいるが、二人とも子どもは持たないと言っている。兄のような子どもになるのが怖いから。何らかの「理解」を拒む子どもの存在に今も押しつぶれそうに生きている両親。死んで謝罪しようと思いながら、それでは何の解決にもならないと生き続ける。

 「理解」できない子どもを何とか「理解」しようと努める親という存在。そして「理解」に達しても、やはり「障がい」には限界がある。こうして見てくると、この映画が問うものは「障がい」の方ではなく、「健常」であることの方ではないかと思う。アンドリューが述べるように、同性愛は社会の理解が進み同性婚も(アメリカの一部では)認められるようになった。(アンドリューも結婚した。)しかし、あるものは「個性」とされ、あるものは「障がい」となる、その境目はどこにあるんだろう。親子の情愛を感じると同時に、いろんなことを考える映画だ。是非、教育や福祉に関わる多くの若い人に一度見て欲しい。なお、原作はかなり長いらしく、日本では2019年に翻訳が出るという。
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静嘉堂文庫と松浦武四郎展

2018年11月29日 22時40分43秒 | アート
 世田谷区岡本にある静嘉堂文庫美術館で「松浦武四郎展」をやっている。(12月9日まで。)松浦武四郎(1818~1888)は幕末から明治にかけての探検家、著述家で、「北海道の名付け親」とよく言われる。「静嘉堂文庫」そのものに初めて行った。「静嘉堂」は三菱財閥2代目の岩崎弥之助(岩崎弥太郎の弟)の号で、三菱が集めた美術品や古書をここに収録している。
   
 東急線二子玉川(ふたこたまがわ)駅から少し遠い。バスに乗ったけど、徒歩じゃ迷ってしまったと思う。「ニコタマ」と略称される二子玉川も多分初めて下車したんじゃないか。「セタソー」(世田谷総合高校)はここにあったのか。バス停を下りると、けっこう山道みたいで遠い。湯島の旧岩崎邸庭園に似た感じだけど、こっちはもっと遠い。そうするうちに瀟洒な静嘉堂文庫が見えてきた。1924年に建てられたもので、東京都選定歴史的建造物。貴重な古書をたくさん収蔵している。
  
 1910年に建てられたジョサイア・コンドル設計の「岩崎家廟」も貴重である。コンドルは三菱との関係が深く、湯島の旧岩崎邸も設計しているし、高輪の岩崎邸(関東閣)も設計した。美しい廟はもちろん外見しか見られないが、非常に貴重なものだ。文庫は予約制で紹介状がなくては蔵書類を見られないが、収蔵品は時々美術館で公開される。曜変天目茶碗をはじめとする国宝がいくつもあるが、常設展はないので日程を注意してないと見れない。
  
 静嘉堂文庫美術館は1992年に開館したもので、年に数回の展覧会を開催している。今開催中の松浦武四郎展は、武四郎の生誕200年記念である。幕末に蝦夷地探検を行ったことで知られ、蝦夷地を「北加伊道」と名付けた。アイヌ語に基づく地名を付けたことでも知られる。明治3年までに150冊の調査記録を残したという。蝦夷地探訪記が何冊も出展されていたが、多色刷りでビジュアルなのに驚いた。武四郎が択捉島まで訪れていることも興味深い。

 松浦武四郎は三重県松阪市の生まれで、同地に記念館もある。松阪と言えば本居宣長の生地だが、武四郎も古いものへの関心を若い時から持っていた。当時は「好古家」と呼ばれ、考古学的な遺物など多くのコレクションが展示されている。河鍋暁斎筆の「松浦武四郎涅槃図」の複製もあった。武四郎が寝釈迦のように中央に寝ていて、その周りを西行など多くの古人が取り巻く。重文指定だそうだけど、松浦武四郎という人はやはり「偉人」というより「奇人」だなあと思った。花崎皋平『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』という本が忘れられているようで残念。
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ボイジャー2号、太陽系を離脱

2018年11月28日 23時14分19秒 | 社会(世の中の出来事)
 2018年秋には様々な出来事があったけれど、一番驚いたのがボイジャー2号のニュースだった。NASAが10月6日にボイジャー2号が太陽系を離脱しつつあると発表したのである。これは一体どういうことなんだろうか。その時々の天文ニュースは見ていても、専門じゃないから普段は忘れてる。そんなに詳しくないけど、ネットで簡単に調べられる範囲で見てみた。いつもとちょっとジャンルが違うけど、すごく興味深かったのでぜひ書いておきたいと思う。
 (ボイジャー2号)
 ボイジャー計画(Voyager program、ボイジャーは「旅人」「航海者」といった意味)は20世紀後半に実施された太陽系の外惑星探査計画である。今もずっと飛び続けていたんだと感心した。ボイジャー1号は1977年9月5日、ボイジャー2号は1977年8月20日に打ち上げられた。1号の方が遅いけど、本来は同日の予定でシステム不良で遅れたという。何にしても40年以上も前のことだ。

 地球は一年かけて太陽を公転している(というか話は逆で、地球の公転周期を「一年」と呼ぶ)が、他の惑星の公転周期は異なっている。太陽に近いほど公転周期が短く、水星は87日、金星は224.7日である。太陽から離れるほど公転周期は遅れて行く。火星は1.88年、木星は11.86年、土星は29.53年、天王星は84.25年、海王星になると164.79年もかかる。

 だから普通は太陽系のあっちこっちにバラバラに各惑星があるわけだ。ところが1970年代後半から1980年代にかけて、175年に一度の「外惑星がほぼ並ぶ」周期が訪れた。それを利用して、外惑星をまとめて観測しようというのがボイジャー計画だったのである。そしてボイジャー1号は1979年3月5日に木星を通過し、1980年11月12日に土星を通過した。1号のミッションはそこで終わって、すでに2012年8月25日に太陽系を離脱している。
 (ボイジャー2号が撮った土星)
 ボイジャー2号は、1979年7月9日に木星を通過し、新しい衛星アドラステアを発見した。続いて1981年8月25日に土星を通過して土星大気の分析などを行った。本来は地球を出発した速度では木星程度しか到達できない。そこで「スイングバイ航法」を用いて天王星、海王星へと向かった。この「スイングバイ」(swing-by)は日本の小惑星探査機「はやぶさ2」でも使われた技術で、天体の運動と重力を利用して運動ベクトルを変更する。僕にはどうにも説明できないけど。
 (天王星に最接近したボイジャー2号)
 ボイジャー2号は1986年1月24日に天王星を通過し、天王星の新しい衛星を10個発見した。また磁場の存在を確認し、天王星の輪を観測したりした。続いて1989年8月25日に海王星に最接近した。海王星の衛星も新しく6個発見している。また輪が海王星を一周していることも確認した。ボイジャー2号は今のところ海王星まで到達した唯一の探査機である。当時大きく報道されたは思うけど、もう30年近く前である。写真は覚えていたけど探査機の名前も忘れていた。
 (ボイジャー2号の見た海王星)
 ところで海王星を通過してずいぶん経つわけだが、今まで太陽系にいたのか。「太陽系」とは何だろうか。昔は冥王星も惑星に数えていたけど、その後除外された。地球と太陽との平均距離をもとに「天文単位」(au)が定められている(149597870700m)。海王星は約30auで、冥王星は楕円軌道なので一番短い時は海王星より地球に近いぐらいだが、地球から29auから49auぐらい。その周りに「太陽圏」(ヘリオスフィア)と呼ぶ空間がある。太陽風の届く範囲で、120auぐらい。

 海王星探査後も30年近く飛び続けて、ボイジャー2号はその太陽圏のへりまで到達したわけである。太陽風の影響はなくなり、今後は星間物質を観測する。まだ通信は途絶えていないのである。ボイジャー1号も同様で、2号ともども2025年ぐらいまでは通信可能と言われている。今後も飛んでいくが、どこか特定の恒星を目指しているわけではない。しかし計算上は、29万8000年後にシリウスから約4光年まで接近すると言うんだから、何という壮大なロマンだろうか。ボイジャーには、もしかしたらということで「55の言語でのあいさつ」などを収録したレコードが搭載されている。いつまでも宇宙空間を孤独に飛び続けて、あるいは他の生命系によって解読される日は来るのだろうか。
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小金井・はけの道散歩

2018年11月27日 22時48分05秒 | 東京関東散歩
 東京でも秋も深まり、これからが紅葉の季節。湿度も低い小春日和が続き、映画見るより散歩に行きたい。途中下車みたいな散歩じゃなく、ちょっと長い散歩に行きたいと思って中央線の小金井で降りる。三鷹市と国分寺市の間にある町で、北側には小金井公園、江戸東京たてもの園があるが今回は南側。もう四半世紀も前の散歩ガイドをまだ使ってるけど、当然ながら駅前は大きく開発されている。まずはちょっと歩いて「滄浪泉園」(そうろうせんえん)へ。
   
 入口付近ではちょっと深山の趣もある庭園である。でも中へ入ると案外狭いけど。もと波多野承五郎(古渓)の別荘で、1914年に構えたという。波多野は実業家、政治家だが、今はほとんど知られていない。古風な名前が付いているが、これは1919年に訪れた犬養毅が付けたもの。ここは大岡昇平「武蔵野夫人」の舞台とも言われ、「はけ」と呼ばれる湧水が見られる。この一帯は武蔵野台地の河岸段丘にある「国分寺崖線」にあり、各地で湧水が見られることで知られる。
   
 滄浪泉園は本当はもっと広かったが、だんだん売られて小さくなったという。マンション計画があり反対運動が起こって、東京都が買い上げ小金井市の庭園として残った。そこからちょっと歩いて、「はけの道」を歩く。名前からして「はけ」がもっと各地にあるかと思ったけど、舗装された道で車もけっこう多い。少し行くと「はけの森美術館」がある。もとは洋画家中村研一のアトリエだった建物で、中村研一記念美術館と言ったが今は市営。
    
 美術館の裏に「はけの森カフェ」があり、最近その建物は国の登録有形文化財に指定するように答申があった。大岡昇平は1950年に「武蔵野夫人」を発表してベストセラーになった。ラディゲ風の恋愛心理小説で、武蔵野の風土がうまく生かされている。重要な舞台が「はけ」の邸宅で、このカフェの入り口にも小説の舞台と書かれている。今回は入らなかったが、一度は寄りたい店。美術館の庭は崖になっていて、なるほど「崖線」に沿っているんだなと判る。
   
 美術館の真ん前に「はけの小路」と名前が付いた小さな道があった。小川に沿った小さな道で、小さな道だけど風情がある。「野川」沿いに出ると、案外農村なので驚く。「はけの道」は今では開発された住宅街になっているわけで、野川沿いの道の方が面白いかもしれない。 
   
 少し歩くと広大な「武蔵野公園」。少し色づいているけど、ちょっと紅葉には早いか。テレビで見た京都や鎌倉は外国人観光客であふれていたけど、日曜日に行ったんだけど全く静かな散歩。身近にいろんな場所がある。そこから道を隔てて「野川公園」もあるが、もういいかと思って東小金井駅まで歩いて帰った。けっこうな歩数だった。今度は国分寺や日野などにも足を延ばしたい。
   
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「植民支配責任」をどう考えるか-徴用工判決考⑤

2018年11月26日 21時22分36秒 |  〃  (国際問題)
 韓国大法院の「徴用工判決」について今まで4回書いてきた。それぞれは以下の通り。
①「日韓それぞれの『国家の体』-徴用工判決考①
②「日本側の立場-徴用工判決考②
③「韓国大法院(多数意見)の論理-徴用工判決考③
④「『徴用工』とはどんな人々か-徴用工判決考④

 日韓それぞれの主張、および「徴用工」の実像を見てきたが、最後にこの問題の本質これからの問題を考えてみたい。現実に不当な扱いを受けた人々が存在するのは事実だが、法的な認識は日韓で全く正反対である。日本側は「請求権協定で解決済み」とするが、韓国側は「戦時強制動員に対する慰謝料請求権は、請求権協定とは別の問題」とする。「請求権協定」の評価というよりも、僕の見るところでは「歴史に関する理解」が違っているように思う。

 裁判官は歴史を裁くわけではない。それぞれの国の憲法に基づいて法的な判断を行う。日本では「大日本帝国憲法」の「改正」によって「日本国憲法」が誕生した。占領軍の関与、国会での修正などがあったけれども、法的には大日本帝国憲法の改正条項に基づき天皇の名において新憲法を公布した。だから、戦前と戦後は法的につながっている。国民主権が規定される以前の、国家による不当な行為については「国家賠償」を求めることができない(と最高裁は解釈する。)

 一方、大韓民国は建国後たびたび憲法を改正して、今は1987年の民主化宣言を受けて成立した「第六共和国憲法」である。憲法前文では「悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して、正義・人道と同胞愛で民族の団結を強固にし、全ての社会的弊習と不義を打破し(以下省略)」と書かれている。

 日本国憲法以上に人権と正義が強調されている。そして「大韓民国臨時政府」を受け継ぐ憲法だと明記されている。臨時政府は三一独立運動後に上海に作られたが、どこの国からも承認されなかった。内部抗争の激しい亡命者集団で、統治の実質はなく、列強各国は日本の朝鮮統治を承認していた。日本側からすれば植民地支配そのものは「有効」だったが、韓国側からすれば日本支配そのものが不法である。不法な支配下に置かれた祖国から宗主国の侵略戦争に動員された労働者の苦難は、同胞愛の精神で救うのが司法の努めだと考える。

 日本にいると、最高裁というところはつい「へ理屈をこね回して国家の利益を守る装置」に思えてくる。民事訴訟であれ刑事訴訟であれ、下級審ではたまに人権に配慮した判決も出るが、いつのまにか最高裁でひっくり返って国家の言い分が認められてしまう。だから韓国の大法院が日本ではおかしく見えてしまう。しかし韓国憲法に則って判断すれば、不法な支配下で起こった民族的受難を救おうとするのは正しい法的判断だということになる。

 安倍政権、特に河野外相は大法院判決を「国際法に基づく国際秩序への挑戦」とまで言っている。「挑戦」とは英語にすれば「チャレンジ」。安倍首相はかつて第一次内閣の時に「再チャレンジ」を掲げたし、その後も何かにつけいろんなことに「チャレンジ」しているようだ。韓国は確かに「チャレンジ」している。未だ国際法では「植民支配」そのものを違法とする法理は確立されていない。イギリスに支配されたインド、フランスに支配されたアルジェリアなどでは宗主国の責任を問う動きもあると言うが、英仏は「謝罪」していない。

 だからと言って、現実に日本統治下で大きな傷を負った隣国に対し、その「チャレンジ」をむげに退けるだけでいいのだろうか。問われているのは日本国民の「歴史認識」でもあるだろう。「植民支配」を問われているときに、法律的に反対するだけでいいのだろうか。先に見たように法律的な立脚点が違うので、法律的な議論をいくらしても「こころの決着」には至らない。国際的な場で日本の論理が認められたとしても、それが「解決」にはならない。問題をさらにこじらせるだけだろう。

 日本政府の主張からすれば、法的な意味での「慰謝料」は払えないとなる。だけど現実に不払い賃金などがあったわけなんだから、「道義的な意味での慰謝料」は払うべきだし、払ってはいけないとは言えないだろう。ドイツの企業がそうだったように、戦時期の「賠償」を支払うための特別な財団組織を作り、日本企業が出資し日韓両政府も協力する方式しか「解決」策はないだろう。
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奇跡の本「モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語」

2018年11月24日 22時57分41秒 | 〃 (さまざまな本)
 単行本はもうほとんど買わないんだけど、書評でぜひ読みたいと思ったのが内田洋子モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語」(方丈社、2018)という本。イタリアのトスカーナ州の小さな村が、代々本の行商でイタリア中を周って生きてきた。19世紀初めから、イタリアどころか他の国にまで出かけたのである。薬の行商なら日本にもあるけど、本の行商って何だろう。

 内田洋子さんという著者はよく知らなかったけど、イタリアに在住して通信社に勤務しながらイタリアに関する著作をいくつも書いている。「ジーノの家 イタリア10景」(2011)ではエッセイストクラブ賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞した。名前を見れば知ってた本もあるけど、初めて読んだ。共著、翻訳を含めれば30冊ぐらいある。ミラノに住んでいたけど、ヴェネツィアによく出掛けて古本屋と仲よくなる。そこの店主がモンテレッジォというところの出身で、そこが本の行商で生きてきた村だと初めて聞く。ホームページを見て、さっそく一度訪ねようと思ったが…。

 トスカーナ州はフィレンツェが州都だけど、モンテレッジォというのは西の端っこにある。アペニン山脈の奥深くにある山村で、今はほとんどが町へ出ているという。後で判るが、現在の住人はわずか32人。ホームページを作ってる人も村外在住で、電車やバスではちょっと行きにくい。車で案内してくれるという。そうやって石の村を訪ねて、この不思議な紀行というか歴史探訪が始まる。

 1816年は世界的な冷害の夏だった。イタリア北部でも異常気象となり農業が壊滅した。その年に多くの村で生きるための行商が始まった。モンテレッジォでも初めは本ではなく、刃物や砥石を売っていた。しかし、だんだん本売りが中心になっていった。行商で周る村々には本屋がなく、本の需要が高いことに気付いたのだ。出版社の側も、売りまわって評判を伝えてくれる行商人は歓迎した。当時のイタリアはリソルジメント(イタリア統一運動)の真っ最中。教皇庁やオーストリア帝国が認めない「危険思想」の言葉を人々は待ち望んだ。

 そのうち南米やスペインにも出てゆく村人が現れ、イタリア各地で本屋を開く人々も出てきた。今も残っている本屋もあり、内田さんはノヴァラとかビエッラとか聞いたこともない町を訪ねてゆく。それらの町で今も本屋が人々の心の拠り所として生きていた。モンテレッジォでは、今も夏になると本祭りが開かれる。そこではイタリアでももっとも知られた文学賞、露天商賞が1953年から続いている。その賞を受けた作品は、2000冊を刑務所や病院など本を読む機会に恵まれない人に贈られる。第一回が「老人と海」で、村への入り口にヘミングウェイの肖像があった。

 古本屋で聞いた話から、歴史と地理を超えた旅が続いてゆく。イタリアでもう何十年も前から、「本屋大賞」みたいな賞が続いていたとは。これは本が何より好きという人向けの本かなと思う。本屋というものが世界的に減ってきている。でも「本屋」だけが持つ独特な空間の匂いを愛する人がいなくなるとは思えない。本と本屋を愛する人には忘れがたい本になる。ついでに書くと、小川洋子・平松洋子「洋子さんの本棚」(集英社文庫)という素晴らしい本がある。内田洋子さんも含めて、イタリアで鼎談をする企画をぜひどこかでお願いしたいなと思う。
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道灌山散歩

2018年11月23日 20時38分46秒 | 東京関東散歩
 散歩というより「途中下車」程度だけど、昔からどんなところだろうと思っていた「道灌山」を歩いた。JR山手線で一番新しく1971年に作られた西日暮里駅。地下鉄千代田線開通に伴い、乗り換え用に作られた。以来JRと地下鉄を何百回も乗り換えたが、駅を出たことがなかった。駅の真ん前にある高台が「道灌山」である。江戸時代には景勝地として知られ、多くの浮世絵に描かれた。
  
 西日暮里駅の道灌山方面出口を南へ上ると「西日暮里公園」がある。ここに道灌山の昔をしのぶ解説パネルが立っている。右に絵や写真、左に解説が書かれたパネルが3セット。「道灌山」の説明、「日暮里船繋松」(ふねつなぎのまつ)、「道灌山虫聴き」である。ここは武蔵野台地の東端で、西は富士、東は筑波の眺望で知られた。秋になると虫聴きの名所として有名だった。「道灌山」の名前は江戸城を作った太田道灌の出城があったという説と鎌倉時代の豪族、関道閑の館跡という両説があると書いてある。てっきり太田道灌だと思ってた。
 
 西日暮里公園から少し南へ歩くと、もう谷中の寺町。日暮里は今は谷中方面の散歩で始終賑わっているが、西日暮里となると人が少ない。荒川区立第一日暮里小学校前に高村光太郎の書で「正直親切」の碑が建っている。その近くに一番古い美術団体の「太平洋美術会」があった。この一帯は今は山を切り開き鉄道と道路が作られたので、山という感じはない。西日暮里公園だけが多少昔をしのばせている。公園を出ると、階段になる。下の道路が道灌山通り、向こうの建物が開成学園、反対側を見るとJRの西日暮里駅。
    
 階段を下りて歩道橋を渡って道灌山通りの北側へ出る。そのまま線路沿いに上っていく道が「ひぐらし坂」。坂の途中に「道灌山遺跡」の解説版がある。開成学園の校庭工事で弥生時代の土器などが出土したという。坂を登りきると、下の線路を一望。JRの山手線、京浜東北線に加えて、東北・上越新幹線や東北線も通っている。遠くにはスカイツリーも見える。少し行くと北区で「田端台公園」があり、田端駅南口も近い。公園から左へ下りると「道灌山坂」がある。
   
 その坂の途中に「道灌山学園」があった。東京の東の方で高校教員をしていると、「道灌山学園」の名をよく聞く。特に保育士を目指す生徒の進路先として有名。「道灌山学園保育福祉専門学校」では保育士、幼稚園教諭、介護福祉士などの資格が取れる。僕は「道灌山」と聞くと、一番最初にここを思い出すんだけど、一般的には西日暮里駅に近いところにもっと広い敷地を持つ「開成学園」の方が有名だろう。毎年のように、東大合格者ナンバーワンになるあの「開成」である。僕は初めて見たんだけど、ここにあったんだ。学校用地が「向陵稲荷坂」をまたいで橋で結ばれていた。
 
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魅惑のノワール映画「アウト&アウト」

2018年11月21日 22時42分05秒 | 映画 (新作日本映画)
 木内一裕原作の「アウト&アウト」がきうちかずひろ監督の脚本、監督で映画化された。つまり作者本人である。「木内一裕」は小説家で、映画化された「藁の楯」など10冊以上の犯罪小説がある。「きうちかずひろ」(1960~)は漫画家で、一世を風靡した「BE-BOP-HIGHSCHOOL」の作者である。1991年には映画監督に進出し、「BE-BOP-HIGHSCHOOL」(1994)などを作った。

 「アウト&アウト」が長編6作目になるが、今までの作品はほとんど知らなかった。東映Vシネマなどはなかなか劇場で見る機会がない。その中では、「鉄と鉛」(1997)を渡瀬恒彦の追悼特集で見た。探偵とヤクザの渋いつながりにしびれる映画で、こんな和製フィルムノワールがあったのかと驚いた。今度の「アウト&アウト」もあまり大きな公開じゃないけど、たまたま地元近くでやってたので、ぜひ見たいなと思った。今度も渋い設定にうなる傑作ノワール映画だ。

 主役の探偵矢能を演じる遠藤憲一が実にはまり役。ちょっと前まで有力暴力団の幹部だったという経歴から、今も警官に付きまとわれている。何か事件があって、訳ありで預かっている小学2年生の「」(しおり)が事実上探偵事務所の受付をしている。そのアンバランスさが魅力的で、子役の白鳥玉季が可愛い。重い過去を背負いながら気丈に矢能を心配している姿に心動かされる。

 ほとんど仕事もないような探偵だけど、知り合いの暴力団長や情報屋が出入りしている。ある日、「取引」の現場に立ち会って欲しいと依頼され、指定された場所に出向くと依頼人は殺されていた。現場にはマスクをした犯人がまだ現場に残っていた。事情も判らないまま殺人事件に巻き込まれた矢能は、謎を探り始める。殺された男が名乗った名前を調べると、去年カンボジアで交通事故死していた。次第に政治家の影が見えてきて、謎めいた道場主とその弟子が浮かび上がる。

 主筋は案外あっさりと割れるけど、他の話がいろいろと混入してきて、一体どうなるかと思うとアッというラスト。まあこれは無理筋だと思うが、娯楽映画には許されるか。こういう映画は「探偵」役の作り方に成否がかかる。日本じゃ「私立探偵」にリアリティがない。離婚調査や保険会社の調査員ならともかく、殺人事件を探偵が解決するというのは無理だ。「ヤクザ」が絡んでくるのも難しい。この映画では「不愛想な元ヤクザ」という設定で、いかにもそれっぽい遠藤憲一が存在感を発揮。なぜ女の子がいるのか、事情を想像しながら見ていると、次第に何となく判ってくる。
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「徴用工」とはどんな人々か-徴用工判決考④

2018年11月20日 20時53分27秒 |  〃  (国際問題)
 断続的に書いている韓国大法院の「徴用工判決」問題。判決の論理は先に見たが、それは往々にして日本人論者が「誤解」するような「請求権協定」に対する「違反」や「無視」ではない。不払い賃金などの「請求権」とは別に、「慰謝料請求権」があるという論理なのである。「植民支配」下にあって「侵略戦争」に「戦時強制動員」されたという本質から、その権利が導き出された。

 ところが最近になって安倍政権は原告の人々を「徴用工」とは呼ばないようになっている。「徴用工」とは狭義では「国民徴用令」を適用された人々のことだ。国民徴用令は1939年に制定された勅令(議会の議決を経ずに天皇の裁可による法令)である。1938年に成立した国家総動員法に基づき、国民を強制的に軍需産業に動員できるようにした。朝鮮での適用は1944年8月なので、確かに裁判の原告たちは国民徴用令を適用されてはいない

 どのような事情だったのか、判決を見てみたい。原告は4人いるが、判決を見ると「1923年から1929年の間に、韓半島で生まれ、平壌、保寧、群山などで居住した」とある。1945年の日本敗戦時でも、16歳から22歳という非常に若い年齢だったのである。最初に出ている二人の場合を見ると、 「旧日本製鉄は1943年頃、平壌で大阪製鉄所の工員募集広告を出したが、その広告には大阪製鉄所で2年間訓練を受ければ、技術を習得することができ、訓練終了後、韓半島の製鉄所で技術者として就職することができると記載されていた。」

 原告は「上記広告をみて、技術を習得して我が国で就職することができるという点にひかれて応募」し、面接を経て大阪で働いた。しかし、実際には「ひと月に1、2回程度外出を許可され、ひと月に2、3円程度の小遣いを支給されただけで、 旧日本製鉄は賃金全額を支給すれば浪費する恐れがあるという理由をあげ」「同意を得ないまま、彼ら名義の口座に賃金の大部分を一方的に入金し、その貯金通帳と印鑑を寄宿舎の舎監に保管させ」た。

 仕事の内容は「火炉に石炭を入れて砕いて混ぜたり、鉄パイプの中に入って石炭の残物をとり除くなど火傷の危険があり、技術習得とは何ら関係がない非常につらい労役に従事したが、 提供される食事の量は非常に少なかった。また、警察がしばしば立ち寄り彼らに「逃げても直ぐに捕まえられる」と言い、寄宿舎でも監視する者がいたため、逃亡を考えることも難しく、原告2は逃げだしたいと言ったのがばれて寄宿舎の舎監から殴打され体罰を受けたりもした。」

 その後1944年になると、何の対価も払われないようになり、大阪も空襲を受け訓練工に死者も出た。原告らは清津(朝鮮半島北部)に配置換えされたが、大阪時代の預金通帳と印鑑は返還されなかった。その後清津工場をソ連軍が攻撃しソ連軍を避けてソウルに逃げ、「ようやく日帝から解放された事実を知った。」このように、間違いなく原告らは労働者募集に「応募」して日本に来たわけだが、実態としては「総力戦体制下の戦時強制労働」というしかないものだったのである。
 
 朝鮮半島からの動員に関しては、「募集」「官斡旋」「国民徴用令のよる強制徴用」の3つがあった。1942年から「官斡旋(かんあっせん)」が始まるが、戦局悪化に伴い労働力確保がますます厳しくなり、斡旋というけど事実上「官」(公権力)の関与が必要になってきたわけである。残る2人の原告は官斡旋によって日本に来た。判決によれば「推薦」や「指示」によるというが、常識的に考えて拒否することはできなかっただろう。もちろん賃金は貰えなかった。

 「募集」と「官斡旋」「徴用」に大きな違いがあっただろうか。日本は日中戦争のさなかで「国家総動員体制」にあった。もともと植民地朝鮮から「内地」に自由に移動できたわけではない。「内地」で労働力が不足するようになり、朝鮮総督府で「労務動員計画」を作成し計画的に労働者の動員を行った。企業側は日本語が不自由な若者を集めるためには、当初から行政や警察当局の協力を得たとされる。「徴用」という言葉は特殊な法律用語ではないから、これらの原告たちを「広義の徴用工」と呼んでも差し支えないように思う。

 昔は「強制連行」と表現された時代もある。公権力によって連行されたわけではないので、朝鮮人動員に対しては「強制連行」という言葉はふさわしくない。(中国人などの場合、軍による「強制連行」が存在したので、区別する必要がある。)しかし、日本政府は「北朝鮮による拉致問題」では北朝鮮特務機関員の「強制」(横田めぐみさんのようなケース)ばかりではなく、一応は自らの意思で訪朝したまま帰れないケースも「拉致被害者」と認定している。それも考え合わせるると、事実上拒否しにくい中で不自由な環境で働かされた人々は「徴用」と呼ぶべきだろう。
 (新日鐵住金本社に向かう原告弁護士ら)
 判決を受け、原告の弁護士や支援団体が12日に新日鐵住金本社を訪問した。しかし、会社側は面会を拒否し、なんと警備員が受付で「日韓請求権協定や日本政府の見解に反するもので遺憾だ」と伝えたという。(11.13日付東京新聞朝刊)。現実に日本製鐵に戦時中に非人道的な扱いを受けた人々に対して、法律的な見解は別にして面会もしないというのはあまりにも冷たすぎるのではないか。韓国の大法院判決に対して、受付の警備員が見解を伝えて終わりにするのか。この日本企業、日本政府のあり方こそが、何十年経っても問題が解決しない原因なのではないか。
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柳橋散歩ーいまはなき花街

2018年11月18日 21時20分45秒 | 東京関東散歩
 かつて東京有数の花街だった柳橋が今はどんな様子になっているのか。一度行ってみたいと思っていたのは、ここが「流れる」の舞台だからだ。幸田文原作、成瀬己喜男監督の映画については、「幸田文『流れる』原作と映画」(2017.7.8)を前に書いた。今とは大きく違う柳橋の姿を映像に留めている。JR総武線浅草橋駅から近いけど、今じゃあまり意識することもない町だろう。
   
 柳橋は川の町である。「橋」って言うんだから当たり前だが、東京では新橋とか京橋とか川を埋め立ててしまったから、案外忘れている。柳橋もそういう名前の橋から発した地名だ。神田川隅田川に流れ込む最下流の橋である。神田川は井の頭公園に発し、早稲田の裏辺りからお茶の水駅前を流れて両国橋近くで隅田川に合流する。最初の橋は1698年に架かり、震災後の1929年に現在の橋が作られた。橋にはかんざしのレリーフが並んでいる。

 「両国」は今じゃ国技館や江戸東京博物館のあるJR両国駅近辺をイメージするが、戦前までは両国橋西詰の方を指すことが多かった。時代小説なんかで両国の見世物小屋なんて出て来れば、それは西両国の話だという。そのことは西両国生まれの作家小林信彦の自伝的な本によく出てくる。そんな繁華街のすぐそばだから、ここに料亭が立ち並んだんだろう。「大川」(隅田川)を望みながら飲食できる店が最盛期には60軒以上も立ち並んでいた。
   
 浅草橋駅を降りて神田川に出ると、ほのかに潮の香が漂う。川にはズラッと屋形船が泊められている。花街の址はほとんど残ってないけど、川に並ぶ屋形船はなんだか違う町に来た感じがする。こんなところに泊っていたのか。舟宿もいっぱい並んでいる。一番下流側、南に舟宿の「小松屋」があり、北には佃煮の「小松屋」がある。店主はいとこ同士だという。冬には牡蠣の佃煮も売ってる。店頭に柳橋の地図を置いている。すぐ近くに和菓子の「梅花亭」もあって名物らしい。
  
 柳橋は隅田川を見る場所だった。今も神田川をはさんで隅田川の南北に「隅田川テラス」が整備されている。特に南の方は晴れていればスカイツリーが真ん前にあって眺望がいい。かつて料亭があったあたりは、ほとんどマンションやビルになっているけど、川を見れば気にならない。もっとも椅子など休める場所が少ないが、のんびりできる。今は柳橋で一押しはここだろう。
   
 かつて柳橋にあった店で唯一残っているのは、安政年間創業という「亀清楼」。橋の北側、大きなマンションの中に残っている。明治の新政府高官は官庁街に近い新興の新橋をよく利用し、一方下町にある柳橋は旧幕びいきだったと言われる。でも亀清楼は伊藤博文愛用と伝えられる。2枚目は小松屋にあった地図の裏。橋から北に歩くと、石塚稲荷がある。石門に「柳橋料亭組合」「柳橋藝妓組合」と彫られている。料亭の名前も石に刻まれて残っている。
   
 亀清楼は1976年に芸妓を入れない割烹に転換、最後に残った料亭も1999年に閉まって芸妓組合も解散した。花街としての柳橋は終わったわけだが、ぶらぶら歩いているとこれは昔の料亭かな、古そうな建物だなという家もまだ多少は見られる。もう僅かしかないので、いずれ全部ビルに建て替えられるだろう。僕の小さなころ、隅田川は悪臭で有名だった。川が汚れれば川辺の花街はつぶれる。そういうことで柳橋が廃れて行ったのだろう。

 そんな中に隠れ家的な居場所を見つけた。「ルーサイト・ギャラリー」というところで、芸者歌手として有名だった「市丸」さんの旧宅で、何だか入りにくいけど2階が川を望むカフェになってる。写真を撮ろうかと思ったけど、お客さんもいるし狭くて暗いから、むしろ載せなくていいかと思った。駅から5分、千円以内でのんびり過ごせる場所ってあまりない。行きたい人は是非探してみてください。
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映画「ライ麦畑で出会ったら」とJ・D・サリンジャー

2018年11月17日 22時47分24秒 |  〃  (新作外国映画)
 J・D・サリンジャー(1919~2010)も2019年で生誕百年になるが、1951年発表の「The Catcher in the Rye」は今もなお全世界で愛読されている。日本では野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」(1964)や村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(2003)を多くの人が読んでるだろう。しかしサリンジャーの意向により、舞台化、映画化は永遠にない。でもこの作品をめぐる映画は存在する。「ライ麦畑をさがして」(2003)という映画があったけど、今度また「ライ麦畑で出会ったら」(Coming Through the Rye、2015)というアメリカ映画が公開されている。

 1969年のペンシルバニア州。「学校一冴えない」高校生のジェイミー(アレックス・ウルフ)は、学校に不満を持ち「ライ麦畑でつかまえて」の主人公ホールデンに自己投影している。卒業制作として「ライ麦畑」を舞台で上演することを思いつくが、先生に相談すると作者J.D.サリンジャーの許可が必要だと言われる。連絡を取ろうとするがサリンジャーの居所が判らない。学校でいじめを受け飛び出したジェイミーは、週刊誌で知ったサリンジャーが住む田舎町を訪ねる決心をする。演劇サークルで出会ったディーディー(ステファニア・オーウェン)は彼を見かねて家の車で一緒に来てくれる。果たしてサリンジャーには会えるのだろうか。
 (ジェイミーとディーディー)
 ジェイミーが通う高校は私立の全寮制男子高校なので、演劇授業の発表公演では公立校の女子高生を頼むことになっている。ジェイミーは「ロミオとジュリエット」の端役をやって、ジュリエットの女の子に焦がれている。そんなとき、一緒に活動したディーディーが話しかけてくれるけど、ジェイミーは美人生徒ばかり見てて。そんなディーディーがすごく「いい子」で、そんな子が車で一緒に行ってくれるなんて…。日帰り出来なくて泊ったり…。はっきり言ってサリンジャーに会えても会えなくても、もうどうでもいいじゃんというシチュエーションなんだけど、うぶな男子の心は複雑。

 はっきり書いてしまうけど、なんとジェイミーはサリンジャーに会えた。脚本、監督、製作を務めたジェームズ・サドウィズ(1952~)は「これは実話で僕に起きた出来事だ。映画内でサリンジャーに会いに行くまでは、話の85%が僕の実体験で、それ以降の話では99%が僕の実体験になっている。」と語っている。偏屈で有名なサリンジャーは、世界的な人気作家になったら田舎町に引っ込んで隠遁生活を送った。多くの若者が一目サリンジャーに会いたいと出かけたが、69年段階では誰も会えなかっただろうと思っていた。地域住民は皆迷惑していて「サリンジャー?誰?知らないな」みたいなことを言う。住所が判らないのに、どうして会えるのかは映画で確認を。
 (サリンジャー役のクリス・クーパー)
 僕は中学を卒業して高校に入るまでの春休みに初めて野崎訳を読んだ。ものすごく感動して、この本は毎年読み直そうと心に決めた。次の年は読んだけど、もう次はなくてその後一回ぐらい、そして村上訳で読み直したぐらいになってしまった。でも「卒業生に薦める本」みたいなリストには必ず入れてきた。この映画はすごい大傑作というわけではなく、サリンジャーに関心がない人にも面白いかどうかは僕には判らない。

 でもアメリカの風景が素晴らしく、またジェイミーとディーディーの行方も気にかかって、僕にはステキな青春映画だった。当時のアメリカはベトナム戦争中で、学校なんか嫌いだというのは簡単だけど中退すると徴兵される可能性があった。そんな時代相を理解しておかないといけない。今後サリンジャーの伝記映画「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」という映画の公開も予定されている。改めてサリンジャーを振り返る時期になったのかもしれない。
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韓国大法院(多数意見)の論理-徴用工判決考③

2018年11月15日 23時11分41秒 |  〃  (国際問題)
 韓国大法院のいわゆる「徴用工判決」。日本側の主張を先に見たが、一見すると日本側の論理は盤石のように見える。一体、大法院の判決はどのような論理構造によって導かれたのだろうか。判決文の日本語訳は、澤藤統一郎弁護士のブログ「澤藤統一郎の憲法日記」の「徴用工訴訟・韓国大法院判決に真摯で正確な理解を(その3) ― 弁護士有志声明と判決文(仮訳)全文」(2018.11.6付)に「2018.10.30新日鉄住金事件大法院判決(仮訳)」が掲載されている。

 非常に長い判決文をていねいに翻訳したもので、「翻訳者は、張界満(第二東京弁護士会)・市場淳子・山本晴太(福岡県弁護士会)である」と注記されている。判決に関してどのような立場を取ろうと、まずはきちんと読んでみる必要がある。そのためにはこの翻訳が非常に役に立つ。ここでも翻訳と掲載に感謝して、この訳文を引用したいと思う。そのことを最初に明記しておくので、2次的な引用は避けて直接原訳文にあたるようにお願いしたい。各新聞等でも骨子は載せていても、全文を報道しているところはないだろう。(全部は調べてないけど。)
 (判決前の韓国大法院)
 判決は全員一致ではなく、賠償を命じた多数意見と別の立場に立つ原告勝訴、敗訴の少数意見もある。全部読むのは長くて大変だ。もしかしたら少数意見の中に聴くべきものがあるかもしれないけど、とても全部を評価する元気はない。とりあえず確定した多数意見を見ることにする。そこで判るのは、日本の報道に接しているとつい誤解してしまうということだ。この判決は「日韓請求権協定があるけれど新日鐵住金は不払い賃金を払え」などといった単純かつ乱暴なものではない

 大法院判決によれば、「この事件で問題となる原告らの損害賠償請求権は、日本政府の韓半島に対する不法な植民支配および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権(以下「強制動員慰謝料請求権」という)という点を明確にしておかなければならない。原告らは被告を相手に未支給賃金や補償金を請求しているのではなく、上記のような慰謝料を請求しているのである。」

 ここにはっきりと語られているが、「不法な植民支配」「侵略戦争の遂行」という歴史的前提のもとで「日本企業の反人道的な不法行為」があったと認識される。この歴史認識のもとで、「強制動員慰謝料請求権」が発生すると認定した。この「強制動員」という認識に関しては日韓で食い違いがあるが、今はそこには触れない。(次回以後に考える。)原告側が求めたこの請求権は、日韓請求権協定の枠外にあると裁判所は判断したわけである。

 判決では日韓請求権協定の交渉経過を詳細に検討している。日韓の外交交渉ではたびたび日本側から植民地支配を肯定する「妄言」があった。60年代半ばの時点では、日本側では自民党だけでなく野党の側にも「植民支配」への問題意識が乏しかった。日本側は日韓基本条約、請求権協定で、植民地支配への謝罪などには触れていない。大法院の判断では、だからこそ(請求権協定は)「日本側の不法行為を前提とするものではなかったと考えられる。(中略)「被徴用韓国人の未収金、補償金およびその他の請求権の返済請求」に強制動員慰謝料請求権まで含まれると考えることは難しい。」と判示する。

 このような前提のもとで、果たしてそのような慰謝料が認められるべきかどうか検討するわけである。それは事実認定に関わるもので別に考えたい。しかし、上記のような「強制動員慰謝料請求権」というものはあるのだろうか。日本人の多くも、かつて朝鮮半島を植民地支配して両国に不幸な出来事がたくさんあった、今考えてみれば申し訳なかったという認識は持っているんじゃないだろうか。しかし、それは「韓国併合」という「事実」があったからで、その事実自体にさかのぼって「不法」だったと言われると、ちょっとどうなんだと思う人が多いかもしれない。

 こうなると、国際法に関する認識というよりも、歴史認識の問題になってくる。韓国大法院の論理は、日本側、というか安倍政権の歴史認識とはまったく異なっているというべきだろう。しかし、韓国の法体系では今は植民支配そのものが不法だったと認識している。だから、日韓請求権協定とは別に不法な支配下で生じた「反人道的な不法行為」は改めて問題となる。そういう論理を隣国が取っているということは、きちんと理解していないといけないだろう。
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熊井啓監督「サンダカン八番娼館 望郷」

2018年11月14日 23時01分13秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立映画アーカイブで映画美術監督木村威夫(たけお)の特集をやっている。そこで、熊井啓監督の「サンダカン八番娼館 望郷」(1974)を久しぶりに見た。原作は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した山崎朋子の「サンダカン八番娼館」(1972、文春文庫に新装版)で、当時多くの人に読まれた。70年代に歴史を学んだ学生なら多分全員読んでるだろう。日本の近代史を考えるときに必ず知っておくべき本と映画だから、ここでも書いておきたいと思う。

 熊井監督はこの前書いた「忍ぶ川」(1972)に続いて、1973年の「朝やけの詩」をはさみ、1974年にこの映画で再びベストワンになった。世界的にも高く評価され、田中絹代ベルリン映画祭で最優秀女優賞を受け、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。僕は若いころに2回は見ているが、田中絹代に「神演技」を見た。無声映画時代から日本を代表する大人気女優で、何本か監督もした。この素晴らしい演技が永遠に残されたのは喜ばしい。

 映画はほぼ原作通りに進行するが、原作者にあたる女性史研究家三谷圭子栗原小巻)が創作されている。三谷は海外に売春婦として出稼ぎしていた「からゆきさん」の歴史を探るため、天草で調査をしていた。人々の口は重く、収穫もなく帰ろうとしていた時、食堂で北川サキ田中絹代)という老女に出会う。老女の家を訪ねると、あまりのボロ屋敷ぶりに絶句するが、一緒に茶を飲み、話をするうちに心の交流が始まってゆく。

 三谷は一週間後に再びサキを訪ね寝食を共にするが、昔話は避けられる。しかし村の行商人(山谷初男)が三谷を夜這いに襲った日から、話をしてくれる。「男にひどい目に合わされた」ことで共感されたのだろう。民衆史の「オーラル・ヒストリー」(口述による歴史)で一番難しいのは対象者との信頼関係構築だ。この映画はそこに焦点を当てていることが特徴である。過去の過酷なドラマだけではなく、田中絹代のシーンがあることで深みがぐんと増している。

 サキの過去は壮絶なものだった。父が死に母が叔父と再婚して居場所を失った兄とサキ(高橋洋子)は出稼ぎに行くことになる。サキは海外に行けると承諾するが、「売春婦への身売り」だとは知らなかった。英領ボルネオ(現在のマレーシアのサバ州)の港町サンダカンに連れていかれたサキは、15歳になると強制的に客を取らされた。最初の客はマレー人で、言葉も何も判らないままレイプされた。ゴム園助手の日本人秀夫(田中健)と愛しあったこともあったが、結局は裏切られる。
 (若い時期のサキ)
 日本の軍艦が上陸するとサンダカンの娼婦もひとり30人のノルマを課せられる。そのさなかに廓主の太郎造(小沢栄太郎)が急死するが、娼婦から成り上がった「伝説の人」キク(水の江瀧子)が急場を救う。貴族院議員が訪問すると、体裁が悪いから閉鎖しろと言われる。キクの死後、やっと故郷に帰ったがそこでも受け入れられず、今度は満州へ行く。結婚して子どもも産まれたが、引き上げで夫を失った。大日本帝国の先兵のように「海外進出」して行ったサキの一生だった。

 これは典型的な「棄民」である。サキは「男は信用できない」という人生訓を持つが、国家に関しては何も言わない。一度も寄り付かない息子が送ってくるわずかな金で最貧の暮らしを送っている。三谷を受け入れたことで、村の恥が暴かれるのではないかと村人からも疎外されている。国家に棄てられ続けたサキの姿に底辺民衆の真実がある。また「軍隊と売春」には深い関わりがあることも判る。「国家」を相対化できず「恥」の感覚に囚われ続ける民衆像は今も重い。

 ただ映画的に言えば、「スター主義」的な作りになっている。栗原小巻高橋洋子に対するに、田中絹代という大女優を配し、その絡みでほぼ映画が成り立っている。重いテーマだから社会派的に見えるが、女優のクローズアップを中心にした女性映画である。伊福部昭の音楽も、ここぞというところで鳴り響く。高橋洋子の「初店」シーンでも、マレー人のタトゥーがおどろおどろしく描写される。熊井啓作品に時々見られるセンチメンタリズムやセンセーショナリズムが感じられる。そこが今見ると残念だと思う。

 ところで、僕は木村威夫と言えば、どうしても鈴木清順作品を思い出してしまう。しかし、今回の上映リストを見ると、熊井啓監督ともずいぶん仕事をしていたなと思った。同時代で見ていた時には、監督や俳優、あるいはテーマに気を取られて美術監督を意識しなかった。この映画でもサンダカンの娼館街や天草の貧乏暮らしの家など、素晴らしいを通り越して圧倒されてしまうセットである。日本映画でこのようなことができた時代だったんだなと感じ入った。
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日本側の立場-徴用工判決考②

2018年11月12日 23時03分21秒 |  〃  (国際問題)
 アメリカ中間選挙ももう少し書きたいことがあったんだけど、体調を崩して2日ほど寝込んでしまった。一回書いただけの「徴用工判決」問題に戻って、書いてしまいたい。まずは日本側の主張を見ておきたい。まあ知ってるというかもしれないけど、「日韓請求権協定」の文面にあたった人も少ないと思う。正式に言えば、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」は1965年6月22日に東京で署名され、12月11日に国会で承認された。12月18日にソウルで批准書の交換が行われ発効した。

 さて、その請求権協定では以下のように書かれている。(全部読むとめんどくさいけど。)
第二条
1 両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する
2 この条の規定は、次のもの(この協定の署名の日までにそれぞれの締約国が執つた特別の措置の対象となつたものを除く。)に影響を及ぼすものではない。
(a)一方の締約国の国民で千九百四十七年八月十五日からこの協定の署名の日までの間に他方の締約国に居住したことがあるものの財産、権利及び利益
(b)一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であつて千九百四十五年八月十五日以後における通常の接触の過程において取得され又は他方の締約国の管轄の下にはいつたもの
3 2の規定に従うことを条件として、一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であつてこの協定の署名の日に他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置並びに一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であつて同日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする

 重要なところはゴチックにしておいた。判決以後、日本政府首脳はこぞって韓国を「国際法違反」と非難しているわけだが、請求権協定の文面を読む限り、それも当然かなと思う。請求権協定は「国家間の取り決め」であって「国民」を束縛しないという趣旨のことを言う人もいるが、協定には「国民(法人を含む。)」と明記されていて、法人である新日鉄住金に対する請求権は協定で解決済みとするのは常識的な理解だろう。日本政府はこの問題を国際司法裁判所に提訴する方針も示している。(相手国が応諾しないと手続きは開始されないが。)それも国際法上の解釈に関して自信を持っているということだと思われる。
 (判決を非難する安倍首相)
 日本政府も「個人の請求権は否定していない」という意見も見られた。ある意味で当たり前であって、裁判制度を持つ国で訴訟を起こす権利がその国民にあるのは当然だろう。90年代以後に数多くの戦後補償裁判が、日本国民によっても、あるいは中国人や韓国人によっても提訴された。その裁判で国は一貫して「法的責任」を否認したが、「請求権そのものがない」という主張はしていないと思う。先の協定を見ても、提訴はできるが請求権協定の趣旨によって却下されるべきだというのが日本政府の考え方だろう。
 
 1965年当時、ほとんど論じられていなかった戦時中の被害に関しては、「例外」だという考え方がある。韓国政府は「慰安婦」「サハリン在住韓国人」「韓国人被爆者」はそれにあたると主張している。日本側は法的には決着済みとしながらも、これらの問題では被害者への支援を(いろいろと問題はありつつも)行った。しかし、戦時中の労働者の請求権に関しては、請求権協定の目的そのものであって、日本政府からすれば決着済みというしかないだろう。

 ところで、この裁判は民事裁判である。刑事裁判の場合、裁判の原則は厳しく守られるべきである。(日本の刑事裁判では「疑わしきは被告人の利益に」などの原則がないがしろにされているような判決はよく見られるが。)しかし、民事裁判では「より大きな正義」のためには原則を拡大解釈することも時にはありうる。日本の裁判でも民法上の「除斥期間」(いわゆる「時効」)に関しては柔軟な解釈を行った裁判はいくつもある。韓国大法院の判決は一体、どのような論理で原告側勝訴という決定を導き出しているのだろうか。それは次回以後に検討したい。

 素人考えで原告、被告側にそれぞれ不利と思われる論点を最後に書いておきたい。一つは「新日鉄住金」という法人は戦時中にはなかったという問題である。徴用工が働いたのは「日本製鐵」である。戦後になって「八幡製鉄」「富士製鉄」に分割され、1970年に両者が合併して「新日本製鐵」となった。そして2012年に住友金属工業と合併して「新日鐵住金株式会社」が成立した。もちろん、日本製鐵に対する請求権は、新日鉄住金に継承されている。そのことは争いがない。

 会社が合併しても、以前の会社に対する権利権限は次の会社に受け継がれる。それは国家の場合も同様で、ソ連崩壊後はソ連の権利をロシア連邦が引き継いだ。そのことでソ連の持っていた国連安保理の常任理事国の地位はロシアに引き継がれたが、同時にソ連の結んだ条約等はロシアに守るべき義務が生まれた。そういう風なことを考えると、日本製鐵の対する請求権が引き継がれるのは当然だけど、韓国政府の協定解釈の方も韓国国家に引き継がれていかないと何となくおかしいような気がする。どんなもんだろうか。

 それと反対に、それでも問題化しているのは現実に不払い賃金などがあるためである。日本国としては請求権協定で終わったとしても、現に働いた会社が全然負担しないというのでは、それは原告側に納得できない感じが残るのも当然なんじゃないだろうか。請求権協定を読む限りでは日本政府の主張が正しいように思えても、どうしてもそれだけで全部済むのかという感じも消えない。
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2018年アメリカ中間選挙をどう見るか

2018年11月09日 23時56分58秒 |  〃  (国際問題)
 2018年11月7日にアメリカの中間選挙が行われた。その頃から、トランプが大統領に当選した2016年に書いた「アメリカ下院選挙の結果」という記事が読まれるようになった。当然のこととして、今年の結果を調べようと検索してヒットしたんだろう。2年前の話が出てきて申し訳ない感じがするので、とりあえず「2016年アメリカ下院選挙の結果」と「2016年」と年をタイトルに入れることにした。2年前だけじゃ何だから、2018年の選挙結果についても書いておきたい。

 ニュースで報じられているように、今回は上院は共和党が過半数を維持し、下院は民主党が過半数を奪還した。最終結果はまだ確定していないが、上院は共和党が51議席民主党が46議席未定が3となっている。日本ではその日のうちに当選者が決まってしまうが、アメリカでは各州ごとに規則が違う。僅差の場合、再集計したり、場合によっては決選投票をしたりする。

 今回の改選議員は33人だが、ミネソタ州とミシシッピ州の辞任議員の分を同時に行った。現時点でアリゾナ、フロリダ、ミシシッピ州の補欠分が未定となっている。アリゾナは民主が、他は共和が若干有利な情勢。今回だけの結果を見ると、民主党が21+2(民主党と統一会派を組む無所属2人を含む。一人はバーニー・サンダース)、共和党が9、未定3である。非改選議員が42人もいたから、共和党が過半数を維持できた。しかし次回以後は共和党に民主党の倍ぐらいの改選議員がいる。今回の勢いが続けば、2020年に民主党が上院の過半数を握る可能性は高い。

 下院は2年ごとに全435議席をすべて改選する。過半数は218議席。現時点で民主党が225議席、共和党が197議席、未定が13議席。未定区をちゃんと見る気はないが、ざっと見たところ民主5、共和8になりそう。一時想定されていたほど民主党の圧勝にはならなかった。共和党は前回235議席を獲得したが、今回の民主党はそこまで行かない。直前に共和党が盛り返したと言われる。中米からの移民キャラバンの影響もあるだろう。なぜこのキャラバンが今来るんだろうか。トランプ本人じゃなくても、支持者の誰かが金を出していたとしても全く驚かない。

 以前書いたように、選挙区の区割りが民主党に不利な州が多い。またニューヨークなどの大都市では民主党支持者が多く圧倒的に勝つけど、郊外地区には共和党支持者が万遍なく住んでいる。小選挙区制度だから、ちょっとでも票が上回れば勝つ。そんな中で久しぶりに民主党が勝利したのは、中間選挙では一番高い投票率のためだ。女性と若者が動けば世の中は変わるのである。多くの若い女性議員が新しく誕生した。カンザス州3区で当選した「先住民+レズビアン」であるシャリス・ダヴィッド議員の写真を載せておく。

 そんな結果の中間選挙だが、僕にはどうもトランプ再選に道を開いたように思える。どういうことかというと、共和党内が親トランプ一色になった。共和党の下院議員も「トランプ・チルドレン」が多くなった。テキサスのテッド・クルーズでさえ、民主新人に追い上げられトランプの応援を受けて、51%の得票で辛勝した。もう党内でトランプに逆らえる人はいないだろう。トランプは危険すぎて、「主君押し込め」の動きが出るとも言われていたが、支持者に人気があって不可能だろう。

 一方の民主党はオバマ以後のスターが出て来ない。今回当選した新人では2020年大統領選には間に合わない。一番人気が前副大統領のジョー・バイデン(1942~)らしい。あるいはバーニー・サンダース(1941~)もいるが、トランプ大統領は1946年生まれだから、トランプより年長者である。未だ2020年の民主党大統領候補の有力候補は見つかっていない。トランプのようなケースがあるんだから、現時点で政界にいない者が彗星のように出てくる可能性もあるんじゃないだろうか。

 今後民主党が下院で多数を占めるから、トランプの政策は一定の制限を受ける。しかし、それもトランプに不利とは言えない。「極左に支配されたクレージーな民主党」がジャマするのがいけないと言い続けて、どんな失敗も民主党のせいにできるのである。キリスト教福音派が不道徳なトランプをなぜ支持できるのか。テレビのニュース番組を見て驚いた。確かにトランプその人には問題もある、しかし、そのような人物を通して正しい道を示すのが神のふるまいなのだ、いつもトランプ大統領が悔い改めるように祈っていると言っていた。こう言われては返す言葉もない。
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