尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「水平社宣言」から100年、今も輝く「当事者宣言」

2021年12月31日 22時33分19秒 | 社会(世の中の出来事)
 第一次世界大戦終結後、日本内外で多くの社会運動が起こった。それらは「大正デモクラシー」を支えて、日本が戦時体制に飲みこまれる前に存在した「もう一つの日本の可能性」を今も示している。労働運動では1912年に結成された友愛会が1919年には大日本労働総同盟友愛会へ、そして1921年に日本労働総同盟に改称・発展した。また今ではほとんど忘れられている「農民運動」では、1922年に日本農民組合が結成された。また1919年から新婦人協会が活動を始めている。もう一つ挙げておけば、第一次共産党が結成されたのも1922年だった。そこから起算するなら、1922年は日本共産党100年ということになる。

 これら日本の社会運動黎明期に結成された組織の中でも最も重要な意味を持つのは、1922年3月3日に結成大会が開催された全国水平社だろう。それまでも被差別部落の待遇改善を目指す「融和主義」的な団体は存在した。しかし、当事者運動としての部落解放運動は、水平社をもって始まると言えるだろう。そこで採択された「水平社宣言」は日本の人権宣言とも呼ばれて、歴史に残る重要なマニフェストになっている。もうすぐ100年になるわけだが、そのことは意識されているだろうか。検索してみれば、いくつかのマスコミでは企画があるようだが、日本全体としてはまだ認識されていないだろう。
(水平社創立大会)
 僕はいまタイトルを「水平社宣言」から100年と書いた。それは「水平社結成から100年」でもあるわけだが、そう書くと「水平社運動」を振り返らざるを得なくなる。いや、もちろん日本の社会運動史の中で「水平社」をどう考えるかは重大なテーマである。しかし、水平社の歴史を振り返る時には、幾つもの難問がある。まずは戦時下で「一君万民」思想に飲みこまれ、戦争協力に舵を切って解散した歴史をどう考えるべきか。

 さらに戦後になって、「水平運動」の復活として部落解放委員会が結成され、1955年に部落解放同盟に改称した。しかし、部落解放同盟は60年代末から共産党との対立を深め、分裂に至った。その後に行き過ぎた糾弾事件や「同和利権」をめぐる暴力事件や不祥事が頻発したのは否定できない。「水平社から部落解放同盟へ」と運動史を総括してしまうと、部落解放運動をめぐる幾つもの問題点を考えなくてはならない。それは重要なことだけど、僕は今それを書くつもりはない。
(水平社博物館にある創立大会のジオラマ)
 今は「部落解放運動史」をちょっと離れて、「水平社宣言」を日本で書かれた「当事者の叫び」として記念したいと思うのである。起草した西光万吉(さいこう・まんきち)は共産党に加わって逮捕、「転向」した後は一転して極右の国家主義者となり、天皇のもとでの差別解消を唱えた。その他、初期水平運動に関わった人たちには似たような思想遍歴をたどった人がかなりいる。戦前日本の厳しい社会環境の中で解放運動を始めたわけだから、今になって責めても仕方ない面もある。その点も含めて、日本社会の構造を考えていくしかないのだろう。
(人の世に熱あれ 人間に光あれ)
 「水平社宣言」そのものは、今になって読むと「歴史的文献」という感じだ。ある程度判断力が付いてから歴史の授業で取り上げるべきものだろう。教育現場で安易に取り上げると、かえって「いじめ」に使われかねない。だけど、宣言の最後にある「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ」というフレーズに込められた熱い思いは、今も伝えていくべき言葉だろう。他には1911年の「青鞜」創刊号の平塚雷鳥の巻頭言「元始、女性は実に太陽であった」も挙げるべきかもしれない。
(水平社博物館)
 時代とともに、「差別」に関するとらえ方も大きく変化してきた。古くから指摘された差別(部落差別、女性差別、障害者差別、外国人差別など)に加えて、僕の若い頃は取り上げられなかった「LGBTQ」などを抜きにしては今は差別を語れない。また入管の外国人処遇、ヤング・ケアラーの問題…今まで気付かなかった問題が次々と出て来る。それらは「当事者」が自ら語り始めることで、社会の認識が広がった。そのような「当事者の叫び」が100年前に始まったことの重み。その後に戦争があって一端は解散せざるを得なかったこと。それらの重大性を認識する機会にしなくてはいけない。

 僕はこの機会に、あらゆる差別を許さないという決意の表れとして、首相談話を出して欲しいと思う。戦後50年の「村山談話」、韓国併合100年の「菅直人談話」、戦後70年の「安倍談話」と同じ扱いのものである。それが無理なら、超党派による国会決議。内容が薄まってもいいから、ぜひ超党派でまとまれないだろうか。もちろん、それと別個に諸学会やマスコミでは運動史の厳しい総括をするべきだ。ともすれば歴史を忘れて無かったことにする日本社会の中で、忘れてはいけないことがいっぱいある。そして、次はいよいよ2023年関東大震災100年がやって来る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

期待外れだった(?)バイデン政権

2021年12月30日 22時58分59秒 |  〃  (国際問題)
 今年(2021年)もあと僅かになったけれど、どうも一年経って世界はますます悪くなっているのか。世界全体を数値評価する術はないが、ミャンマー香港など東アジア、東南アジアでは明らかに悪い方に振れたとしか思えない。さて、世界を見渡せば、首脳が代わった国が多かった。日本もそうだが、アメリカドイツイスラエルイランペルーチリなどである。2022年はフランス韓国フィリピンブラジルオーストラリアなどで選挙がある。またアメリカの中間選挙(下院全員と上院議員の三分の一)や日本の参議院選挙もある。しかし、問題は「恐らくはトップが変わらない中国共産党大会」の方だろう。

 ところで2021年はトランプ政権からバイデン政権へと移り変わった年だった。今では遠い昔に感じられるが、1月当初には果たして正常な政権交代が可能なのかと疑われた。実際にトランプ支持者による議会乱入事件まで発生した。トランプ自身がほとんど「内乱煽動」のような言動を行っていた。しかし、共和党支持者におけるトランプ支持派は今も強力で、議会による「弾劾」(任期を過ぎた前大統領にも可能)は否決された。2024年大統領選にも出馬すると言われている。
(バイデン大統領)
 バイデン政権になって、少しは世界が良くなっただろうか。当初はコロナ対策も強化し、ワクチン接種を進めて、前政権との違いが見えた感じがあった。しかし、アメリカの接種率は途中から減速していって、今では遅れた始まった日本の方が上回っている。今ではオミクロン株が広がって、一日あたりの感染者数は25万人にも達して過去最多となってしまった。死者の総数は昨年から総計で80万人を越えている。結局、バイデン政権になっても、アメリカの分断は全く解消されなかった。それはやむを得ないとしても、バイデン大統領自身もそうだし、カマラ・ハリス副大統領も存在感を示せないままになっている。

 もっと存在感がないのは、アントニー・ブリンケン国務長官だ。歴代の国務長官の中でも、これほど名前も顔も世界に浸透してないケースは珍しい。もっともコロナ禍で世界の外交は2年間ほどストップしている状態で、それがなければ世界中を飛び回っていただろうから、もう少し存在感を示していたかもしれない。ブリンケン長官はオバマ政権で国務副長官を務めた人物である。それ以前はバイデン副大統領付の国家安全保障担当補佐官だった。外交官出身のバイデン側近で、オバマ時代は有力政治家が務めたのに比べて小者感が付きまとう。オンライン会談だけでは存在感を示せないままだろう。
(ブリンケン国務長官)
 バイデンは高齢のため、脇に控えて若手を抜てきすると思われていたが、結局はトランプ時代と同じく大統領が前面に出る政治スタイルになっている。だから予想外に次回も出馬するのではと言われていて、2024年大統領選がバイデン対トランプになる可能性さえ相当ある。そんなバカなという感じだが。中国は習近平、ロシアはプーチンという長期政権に対峙するためには、アメリカでも高齢政治家しか出られなくなってくるのだろうか。

 この間痛感させられたのは、アメリカという国家の独自性だ。移民国家だけに「理念」で創設された人口国家性が出て来る。トランプは自国中心主義だから「理念」じゃない感じだが、それは逆の意味での独特の理念だった。超大国だからこそ、自分たちは超大国だから、「敵」にも「味方」にも利用されてきたという被害妄想的な自分中心史観である。一方、バイデン政権に代わると、そのような極端な自己中心的行動は一応終わって、再びパリ協定に復帰し、WHOからの脱退も差し止めた。そうなんだけど、今度は「民主主義サミット」などという理解出来ない会議を招集した。

 「民主主義的価値観」は大切だが、呼んだ国と呼ばれなかった国の差が不明である。これでは呼ばなかった国は中国やロシアと仲間になれば良いと言ってるに等しい。ブラジルのボルソナロ大統領フィリピンのドゥテルテ大統領は強権的だが、選挙という民主主義的プロセスで選ばれて、次の選挙では別の人物を選ぶことが出来る。だから呼んでも構わないとなると、ではトルコのエルドアン大統領ハンガリーのオルバン首相が呼ばれなかった意味が判らない。結局はトランプ時代と変わらず、世界を分断してしまっている。逆効果としか思えない。北京五輪外交ボイコットなども同様である。

 EUを離脱したイギリスはアジア志向を強めている。アメリカと共に中国への警戒感を高めている。日本は中国とどのように向き合うべきか。政治家の人生の中で、一度も日本国内で人権問題のために闘ったことがない政治家たちが、なぜか中国の人権問題を声高に語っている。もちろん中国の人権問題は重大だが、批判すればすぐに変わるわけではない。何十年というスパンで関わっていくしかない問題だ。アメリカこそが先頭を切って、中国との軍縮交渉などに乗り出すべきなのに、今もやり方では「中ロ同盟」に意味を与えているとしか思えない。バイデン政権は中国に甘い顔を見せられず、民主党政権としては「人権」にこだわる。それは予想されたことではあるが、そのような予想を超えた「期待」はやはり外れだったんだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原一男渾身の372分、「水俣曼荼羅」を見る

2021年12月29日 23時40分36秒 | 映画 (新作日本映画)
 原一男監督監督の「水俣曼荼羅」をようやく見た。11月27日公開だから、もう一ヶ月経つが何しろ上映時間が372分と6時間を越える。途中に休憩が2回はさまって、計3部に分かれる濃密な時間である。そうそう見に行けるものではない。料金も3900円均一だし、時間も長大だから、観客を選ぶ映画だ。こういう公開方法が良いのかどうか判断は難しいが、6時間超も見続けることの充実感も間違いなくある。前作の「ニッポン国VS泉南石綿村」も215分に及ぶ長い映画だった。「水俣曼荼羅」はそれをしのぐ長さだが、これは原一男監督の最高傑作なのではないか。長いだけの価値はある。

 水俣病をめぐっては、多くの裁判が起こされ、特に1973年の第一次訴訟の原告全面勝訴判決は有名だ。その後も幾つも訴訟が続き、1995年には村山政権のもとで「最終的解決」が図られた。しかし、それに従わず訴訟を継続したグループもあって、2004年10月に水俣病関西訴訟の最高裁判決が下った。映画はその日から描かれるが、環境省交渉に出て来る環境大臣が小池百合子だったのは忘れていた。以後、いくつもの裁判が出て来て、そのたびに環境省や熊本県との確認交渉が行われるが、役人の対応はいつも一緒。中でも蒲島郁夫熊本県知事が自身の政治資金パーティと重なっているとして欠席した時には唖然とした。

 第一部では病像論を見直すとして、脳に有機水銀が蓄積して感覚障害が起きるメカニズムが説明される。その後、何人かの患者を取り上げて、その人生を振り返る。中では土本典昭監督が70年代初頭に発表した水俣シリーズも引用される。チッソの株主総会に一株株主として出席して「怨」の旗を掲げた有名なシーンも出てくる。(この映画は土本監督に捧げられている。)しかし、当時は「水俣市」に起きた病気だと皆が思っていた。同じ不知火海に面して漁業を行っているんだから天草にも被害が及ぶとは思ってなかった。また水俣では生きていけぬと大都市圏に移住した患者が多くいたということも気付かなかった。関西訴訟は関西圏の患者たちが訴えた裁判だった。

 上の写真の生駒さん夫妻は映画内に出て来る多くの人の中でも特に印象的。水俣病で結婚も難しいと思っていたのに、見合いで結婚出来た。嬉しくて、水俣市の湯の鶴温泉に泊まったが、何もなかった「初夜」。また3部で出て来る胎児性水俣病患者の坂本しのぶさんは、ストックホルムで開かれた国連環境会議に出席するなど常に自らをさらして闘ってきた人と思われている。彼女が作った詩が入賞し、歌になった。それには自立への強い意志が書かれていた。しかし、その後は彼女がいかに多くの男性に一目惚れしてしまうか。相手を順に訪ねるという原一男ならではのユーモラスなシーンがある。思いもよらぬ人間性の深さを見せてくれる。
(坂本しのぶ)
 長いけれど、途中から出て来る患者や医者、支援者などになじみが出て来ると、あっという間。長さは感じずに見てしまう。裁判の行く末を確認する意味でも、この長さは必要かなと思う。だが、長すぎて見る者を遠ざけるならば、途中まででまとめて発表するやり方もあっただろう。どっちが良いかは僕には判断出来ない。原一男はこれまでは主に「ゆきゆきて、神軍」と「全身小説家」、つまり奥崎謙三井上光晴の密着ドキュメンタリーを作った監督として、世界に知られてきた。

 しかし、これからはアスベスト公害水銀中毒、二つの長大なドキュメンタリーを撮影した監督として認知されるべきだろう。特に水俣では自らダイビング装置を買って、水中撮影して水俣湾のヘドロを見せている。その努力には驚くしかない。最後に天皇、皇后の水俣訪問がテレビで出て来て、石牟礼道子を取材する。どうもその位置づけがはっきりしないまま終わるのが残念な気がしたが、全体としてはドキュメンタリー映画を見る魅力に引き込まれる映画だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

濱口竜介監督「偶然と想像」、オムニバス映画は成功したか

2021年12月28日 22時25分31秒 | 映画 (新作日本映画)
 2021年のベルリン映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)を獲得した濱口竜介監督の「偶然と想像」がようやく公開された。濱口監督は次作「ドライブ・マイ・カー」が先に8月末に公開され、小さな映画館に移りながら今もロングラン上映されている。諸外国での評価が非常に高く、ニューヨーク映画批評家協会賞では何と作品賞(外国語映画賞ではなく)を受賞している。3時間もあるアート作品だが、まだ見てない人は年末にチャレンジを。村上春樹もチェーホフも縁遠いという人にこそ是非見て欲しい映画。

 「偶然と想像」は121分の映画だが、ほぼ40分ずつの短編3作が集まった、いわゆる「オムニバス映画」である。オムニバス映画は異なった監督が担当した作品を集めていることが多い。昔のイタリア映画には「世にも怪奇な物語」「ボッカチオ'70」などデ・シーカやフェリーニなどが担当したオムニバス映画がいっぱいあった。日本では今井正監督が樋口一葉を映画化した「にごりえ」、和田誠監督「怖がる人々」など一人で全部作ったオムニバス映画が思い浮かぶ。今回の濱口監督も一人で全部作ったわけだが、エリック・ロメールの作品、特に「パリのランデブー」に触発されて作ったということだ。

 僕はこの映画は、人生の「偶然」を洒脱に描いた面白い映画ではあるものの、あまり好きな映画じゃないなと感じた。そういう映画はいつもは触れないことにしているが、今回は重要な映画だから感想を書いておきたい。まず第1話 『魔法(よりもっと不確か)』は「撮影帰りのタクシーの中、モデルの芽⾐⼦(古川琴⾳)は、仲の良いヘアメイクのつぐみ(⽞理)から、彼⼥が最近会った気になる男性(中島歩)との惚気話を聞かされる。つぐみが先に下⾞したあと、ひとり⾞内に残った芽⾐⼦が運転⼿に告げた⾏き先は──。」はっきり言って、僕はこの芽衣子という主人公が全く判らなかった。ここまで判らないと魅力を感じようがない。人間は「未練」や「心残り」を抱えて生きているのもだが、心を「支配」されるのは嫌だなと思ってしまった。
(古川琴音と中島歩)
 第2話 『扉は開けたままで』は「作家で⼤学教授の瀬川(渋川清彦)は、出席⽇数の⾜りないゼミ⽣・佐々⽊(甲斐翔真)の単位取得を認めず、佐々⽊の就職内定は取り消しに。逆恨みをした彼は、同級⽣の奈緒(森郁⽉)に⾊仕掛けの共謀をもちかけ、瀬川にスキャンダルを起こさせようとする。」大体、渋川清彦がフランス語の教授で、かつ小説を書いていて芥川賞を受賞したという設定が不可思議。日常的な会話を語らせるのではなく、あえて演劇的なセリフを棒読み的に続ける濱口演出に無理があると思う。それ以上に「嫌な話」だから共感出来ない。短編なのに、良い感じで終わらないのが困る。
(渋川清彦と森郁月)
 第3話 『もう⼀度』は「⾼校の同窓会に参加するため仙台へやってきた夏⼦(占部房⼦)は、仙台駅のエスカレーターであや(河井⻘葉)とすれ違う。お互いを⾒返し、あわてて駆け寄る夏⼦とあや。20年ぶりの再会に興奮を隠しきれず話し込むふたりの関係性に、やがて想像し得なかった変化が訪れる。」これは3話の中で一番面白かった。同窓会で久しぶりに会いたい人がいるが来ていない。やはり会えないかと思ったら、帰る前に偶然出会う。と思ったら…という「偶然」の二重性、三重性が効いている。その結果、思いもよらぬ人生の深いところをのぞき込んだ感慨が心に染み通っていく。
(河井青葉と占部房子)
 これで思ったのは、「ハッピーアワー」「ドライブ・マイ・カー」のように濱口作品は長大さを必要とするのではないか。ワークショップを積み重ねるなかで、次第に「熟成」していく人生ドラマが濱口作品の魅力だった。短編の場合はエリック・ロメール作品、特に「レネットとミラベル 4つの冒険」のように、楽しい中にも社会性があって後味が良くないとダメだと思う。嫌な話があると、次に影響してしまう。嫌な話なら、どんどんドツボにはまるように深い穴に落ちないと。3話にバラバラ感があるのが、どうも難点である。1話や2話を見ている時には、ああいい映画を見ているなあという気持ちが湧いてこないのである。
(ベルリンの濱口監督)
 僕が驚いたのは飯岡幸子(いいおか・ゆきこ)の撮影。話には乗れない1話、2話だが、映像には見入ってしまう。どうやって撮ったのかと思う素晴らしいシーンが多い。音楽はシューマンの「子供の情景」を使用している。東京フィルメックスのサイトを見ると、濱口監督は「シューマンのピアノ曲はシンプルで優しく、どこか不安。この音楽をかけると、感情のうねりをフラットにすることができる、感情をなだめてくれる、見るための準備をしてくれる」と語っている。なるほどなあ。また3話に出てくる仙台駅前のエスカレーターの使い方は忘れがたい。「エスカレーター映画」として「恋する惑星」に匹敵する魅力を放っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北茨城の五浦観光ホテル別館大観荘ー日本の温泉⑫

2021年12月27日 22時24分59秒 |  〃 (日本の山・日本の温泉)
 昔は学校が冬休みになると、よく温泉旅行に行ったものだった。数年前まで12月23日は祝日だったから、何年かに一回は22日の木曜日で学校が終わってしまう年があった。もっとも土曜が休日になって以後のことだけど。そんな年は25日の日曜日から旅行に行った年もあった。某旅館では美味しい料理の他に、「クリスマスケーキをご用意しました」というから、ものすごく期待した。そうしたら冷蔵庫にどこでも売ってるヤマザキのショートケーキが入っていたので、なんかちょっと脱力してしまった思い出がある。

 さて北海道、東北と来て、次は関東地方なんだけど、関東はなあ、スルーしようかなと思った。それはまあ草津や伊香保、鬼怒川や塩原、あるいは箱根、湯河原など有名な温泉は幾つもある。僕が大好きな四万温泉日光湯元温泉なんか、今まで何度も書いている。しかし、今回はそういう大旅館が並ぶ温泉は抜かすことにしている。秘湯系では群馬の法師温泉、栃木の大丸温泉などでもいいんだけど、有名だし、今ひとつ感がある。関東地方は人口最多の首都圏があるから、豪華旅館から格安旅館までいろいろとそろっている。でも、その割に特徴がない気がする。(まあ奥鬼怒温泉郷があるけど、実はまだ行ってない。)

 でも、そう言えば温泉ではほとんど触れられることがない茨城県から一つ選ぼうと思いついた。温泉の多い地帯は火山との距離で、地学的理由で決まってくる。茨城県は温泉が少ない県になり、温泉めぐりの旅番組でもほぼ出て来ない。最近は深く掘れば温泉になるから、温泉を称する宿はずいぶんあるけど、あまり知られていない。筑波山の旅館が近年温泉になったのと、袋田の滝近くの袋田温泉、もっと北にある大子(だいご)温泉ぐらいしか温泉ガイドにも出て来ない。
 
 そんな中で県北の北茨城市、五浦(いづら)海岸に立つ五浦観光ホテル別館大観荘は、太平洋が一望できる展望抜群の露天風呂が源泉掛け流しの素晴らしい旅館だった。関東ではある程度知られているが、全国的には知られていないと思う。大体、茨城県は県の魅力度ランキングなんかで、いつも最下位を(北関東の隣県と)争っているところだ。まあ、全国に聞けば京都、北海道、沖縄なんかが上になるのも当然。関東近くの県は忘れられがちだ。そんな中でも茨城は筑波山、袋田の滝、水戸の偕楽園や史跡なんかしか取り上げられない。(近年は国営ひたち海浜公園という目玉も出来たけど。)
(五浦観光ホテル別館大観荘の露天風呂)
 ここへ行ったのは大分前だけど、やっぱり年末だった。ここだけではなく、先にいわき市のスパリゾートハワイアンズに泊まった。一度ぐらい行ってもいいかなと思ったわけ。大温泉プールやフラダンスばかりではなく、温泉そのものが結構いい。今は大露天風呂も出来ている。大浴場はもちろん源泉掛け流し。どうも大昔の「常磐ハワイアンセンター」とつい言っちゃうんだけど、なかなか良かった。しかし、年末近くなって、いろいろな文化施設はもう閉まっていた。南下して北茨城に至るも、年末感が漂う。早めに五浦観光ホテル別館大観荘に着くが、ここはとにかく絶景である。
(五浦観光ホテル別館大観荘)
 別館というんだから本館があるわけだが、そっちはほとんど知らない。温泉ガイドなんかには、別館ばかり載っている。大観荘というのは、大展望ということじゃなく、横山大観である。五浦海岸と言えば、明治の終わりに岡倉天心日本美術院をここへ移したことで知られる。大観ばかりでなく、下村観山菱田春草らがここに集い、日本画の聖地となっている。岡倉天心の墓もある。天心が自ら設計して思索にふけった「六角堂」が有名だ。その時は年末で閉鎖されていて、遠望するしか出来なかった。東日本大震災の津波に流されてしまい、1年後に再建された。再建後に見に行ったが、元の六角堂を間近に見られなかったの残念。
(六角堂)
 ホテルを出て海岸を歩くと、海がグルリで絶景である。福島県、茨城県から千葉県に掛けて、ずっと美しい海岸が広がっている。特に国立公園、国定公園などには指定されていないので、関東の人でもあまり知られていない。海へ行くなら伊豆、湘南か南房総になってしまう。ところで冬の茨城は、あんこう鍋。北茨城にはあんこう鍋で知られる宿が多い。この時も出たはず。他にも野菜や果物、畜産物がいっぱいあって、茨城県の道の駅の豊富さは見事なもんである。料理も風呂も素晴らしいうえに、立地条件抜群の五浦観光ホテル別館大観荘は北茨城観光の拠点だろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大収穫、「自由研究には向かない殺人」

2021年12月26日 23時18分52秒 | 〃 (ミステリー)
 ホリー・ジャクソン自由研究には向かない殺人」(A GOOD GIRL’S GUIDE TO MURDER)は最近にない快作で、今年の大収穫だった。創元推理文庫の8月新刊で、刊行当時から評判だったが、何しろ文庫とは言え570頁を越え1400円(税抜き)もする。単行本並みの値段だけに敬遠していたが、年末のミステリーベストテンで軒並み上位になった。「このミス」1位はアンソニー・ホロヴィッツヨルガオ殺人事件」で、それは読めばすぐ予想出来る。しかし、この作品も高い評価を得ていて、2作の得点が突出している。期待を裏切らない読後感で、年末年始に一冊読むならこれという超オススメ本。

 時は2017年、ところはイングランドの小さな町リトル・キルトン。高校3年になるピッパは、1年掛けてまとめる「自由研究」の主題に「リトル・キルトンにおける行方不明者(アンディ・ベル)の探索に関する研究」を取り上げた。小説の一番最初に、自由研究の志望書が出ている。「主題に関する研究対象」は「英語、ジャーナリズム、調査報道、刑法」になっている。指導教師からのコメントも付いている。日本だと夏休みの自由研究は、自分で勝手にテーマを選んで提出する感じだが、あちらはずいぶん本格的だ。「卒業論文」に近いもので、大学進学にも重要な意味があるのではないかと思う。

 テーマに取り上げたのは、ちょっと普通とは違うものだった。リトル・キルトンには謎の事件があったのだ。今から5年前(2012年)に、17歳の女子高生アンディ(アンドレア)・ベルが行方不明になった。その後死亡宣告があったが、今もって死体は発見されていない。直後に交際相手のサル(サリル)・シンが睡眠薬を飲み袋を被り窒息死した姿で発見された。サルは友人宅でパーティに出ていたが、友人たちは「サルは早めに家を出た」と証言を変えアリバイがない。サルのスマホから父親に「自分のせい」というメールがあったことから、警察は「サルがアンディを殺害し、その後自殺した」と解釈して捜査を終えている。

 しかし、アンディはどうなったのか? この事件にはまだまだ未解明の点があるのではないか。ピッパがそう考えたのは個人的な思い出があるからだ。ピッパがいじめられていたときに助けてくれたのがサルだった。あの優しいサルが本当に殺人犯なのか。そういう思いを抱えながら5年間経ったのである。ここでピッパの個人的なことを書かなくてはならない。ピッパ(ピップ)・フィッツ=アモービは、本当の父が10ヶ月で事故死し、母親リアンは弁護士をしているナイジェリア人のヴィクターと再婚した。今は肌の色が違う弟のジョシュアゴールデン・レトリバーの愛犬バーニーと4人と1匹で幸せに暮らしている。二人の父を共に大切にするために、フィッツ=アモービとラストネームをダブルにしているのである。

 一見すると「複雑な家庭環境」に見えるが、ピッパは家族の愛情に囲まれて育った。しかし、周囲はそう思わない。継父ヴィクターと町にいると、不審な目で見られて尋問される。サッカークラブにいる弟を迎えに行くと、不思議な目で見られる。学校でも父や弟のことでからかわれていたところを、サルが助けてくれたのだった。そんな環境に育ったピッパは、いじけたりひねくれてもおかしくないが、決してくじけなかった。むしろ明るく元気で人権感覚が優れた少女になったのである。サルは裁判もなく弁護の機会もないまま有罪が当然視され、シン家は5年間怪物の家とみなされた。それはおかしいのではないか。そう思って、ピッパは恐れることなく危険なテーマに取り組んだ。ではまず、シン家を訪ねて弟のラヴィに話を聞いてみよう。

 このピッパの魅力がこの小説の成功の最大要因。捜査権はないから、関係者へのインタビューSNSの駆使が調査方法になる。Facebookなどから、関係者を探していく。過去の画像を検索していくと、ずいぶんいろいろと判ってくる。行方不明になったアンディという少女は、単に可哀想な被害者というだけではない複雑な顔を持っていたらしい。薬物疑惑もあれば、サル以外に謎の年上男性がいたという噂もある。サルとアンディは直前にもめていたという証言もある。しかし、ピッパが思い知るのは、人は嘘をつくと言うことだった。聞きに行った後で、真実は違っていることが判ることが多いではないか。

 やがて、ラヴィと組んで、もう少し危険で(倫理的、法的に問題なしとは言えない)方法も取らざるを得なくなる。そうすると、脅迫も寄せられる。やはりリトル・キルトンには今も殺人者がいるのか。フェアな謎解き現代のネット環境を取り込んだ叙述の魅力(ウェブ上の情報やメールなどが、そのまま取り込まれている)、冒険小説や青春小説のテイストも取り込み、鮮やかな解決のラストまで読み終わりたくないほどの魅惑に満ちている。「リトルタウンで少女が失踪する」というミステリーは英米に数多くあるが、これは中でも傑作だろう。有名な児童文学賞カーネギー賞の候補となっただけあって、ヤングアダルト小説としての魅力も十分である。作者のホリー・ジャクソンはこの小説がデビュー作で、すでに続編が2冊出ているという。翻訳が楽しみだ。
(ホリー・ジャクソン)
 僕は1989年の西ドイツ映画「ナスティ・ガール」を思い出した。1990年のアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた作品である。ドイツの小さな町の少女が、「ナチス時代のわが町」をテーマに取り上げた。新聞で教会関係者がユダヤ人を密告したという記事を見つけて、真相を探り始める。戦後のドイツはナチスの過去を清算したと本心から思っていたが、今も残る町の有力者は実はナチスの協力者だったのである。そして脅迫を受けるようになり、家に爆弾を投げつけられたりした。しかし、彼女は屈しない。ナスティ(nasty)というのは、英語で「厄介な」「手に負えない」といった感じの言葉である。

 もう一つ、この小説で興味深いのはイギリスの学校事情である。高校生が車を運転してるし、酒も飲んでいる。ドラッグは違法だけど、やってる人もいる。映画「アナザーラウンド」を見てデンマークでは飲酒は16歳から可能だと知ったが、イギリスも同様なんだと思う。しかし、日本で年齢が引き下げられることはないだろうし、仮に引き下げられてもパーティが出来るほど広い家に住んでる高校生はほぼゼロだろう。そういうこともあるが、大学受験も違う。ケンブリッジを目指すピッパは、大学に出す論文をトニ・モリスンで書いている。ちょっと不足かなと思って、追加でマーガレット・アトウッドの論文も書く。日本の高校生でも読んでる人はいるかもしれないが、それで論文を書いて大学へ行くわけじゃない。この作家の選択で、ピッパが人種差別やフェミニズムに関心がある高校生だと伝わる。日本の受験システムは根本的な再考が必要だと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大村智編著「イベルメクチン」という本

2021年12月25日 23時07分05秒 | 〃 (さまざまな本)
 大村智編著「イベルメクチン」(河出新書、2021)という本を読んだので、どうしようかなあと思ったんだけど簡単に書いておくことにする。大村智(おおむら・さとし)氏は北里大学特別栄誉教授で、言うまでもなく2015年のノーベル生理学・医学賞の受賞者である。僕はその当時、「大村智博士の偉大なる業績」を書いた。大村氏の発見した微生物から「イベルメクチン」が作られ、家畜や愛玩動物の寄生虫駆除薬として世界で使われた。それだけではなく、アフリカ中西部に多いオンコセルカ症(河川盲目症)の特効薬でもあることが判り、開発したメルク社によって無償配布されている。それがノーベル賞の受賞理由となった。

 医学上の業績以外にも美術教育への貢献も大きいし、故郷の山梨県には美術館や温泉施設まで作ってしまった。経営学を学んで大学経営の立て直しにも尽力するなど、破格の活動力には驚くしかない。日本には珍しい大スケールの研究者、大村氏がイベルメクチンのすべてを多くの研究者とともに語り尽くしたのが「イベルメクチン」という本である。伊豆の川奈温泉近くで発見し、米国メルク社と「産学連携」で研究開発した経緯、「北里三大奇人」と呼ばれながら研究を進めた様子が興味深い。動物やアフリカの風土病だけでなく、今では日本でも腸管糞線虫症という病気や疥癬の薬として保険適用されているという。

 ところで現時点で、この本が書かれた理由ははっきりしている。判っている人が多いと思うが、イベルメクチンが新型コロナウイルスに効果があると昨年来言われ続けている。人によっては「奇跡の薬」とまで呼ぶ。日本では北里大学が中心になって治験を行っているが、なかなか結論が出ない。動物薬として市販されているから、個人輸入してまで使う人がいるらしい。WHOやFDA(アメリカ食品医薬品局)は使用すべきではないとしている。コロナに効くという医学的証明がなされていない段階では当然だろう。
(ノーベル賞授賞式の大村智博士)
 それに対して、実のところはどうなんだと思う人がいるだろう。そこで大村氏や周辺の学者、医師が今までの研究を判りやすくまとめたのが本書ということになる。はっきりしているのは、元々開発・発売した製薬会社であるメルク社はイベルメクチンの治験は行わないとしていることだ。メルク社は「モルヌピラビル」という新型コロナウイルスの薬を開発していて、日本でも特例承認されたことは大きく報道された。イベルメクチンはすでに特許も切れて、ジェネリック薬が作られているという。メルク社としては、当然ながら新たに開発した新薬こそ売れて欲しいだろう。そういう思惑あってのことか判らないが、製造会社が治験を実施しないのだから、イベルメクチンに効果があるかないかなかなか結論が出せない。

 もちろん僕がこの本を読んでみても、医学的側面についてはよく判らない。ただ「なぜ効くのか」と作用機序が解説されているので、全く無効とも言えない感じがする。イベルメクチンは単なる動物の寄生虫駆除薬には止まらない効能があるらしい。抗菌、抗ウイルスの効果もあるらしく、その理論面も書かれているが、僕にはそこは判断出来ないわけである。

 疫学的には、イベルメクチンが無償配布されているアフリカ中部地域(ナイジェリアなどサハラ以南諸国)では、新型コロナウイルスの流行が一定程度抑えられているという。調べてみると、なるほどその通りである。ナイジェリアはアフリカ最大の人口があり、国内ではテロもあるなど政情不安もある。壊滅的に流行してもおかしくない気がするが、そうなってはいない。もっとも報告そのものが不備かもしれず、基本は「風邪」(上気道感染)を起こすウイルスなんだから、熱帯地域では流行しにくい可能性もある。
(イベルメクチンの製品「ストロメクトール」)
 帯には東京都医師会会長の尾﨑治夫氏が「コロナ重症化を防ぐために、イベルメクチンの有効使用法の確立を」いう言葉を寄せている。医学界、医療現場には、比較的安価に入手できて、副作用が見られない(通常の使用範囲では大きな副作用はほぼないらしい)イベルメクチンへの期待があるようだ。しかし、日本で大学中心に治験を行うのもなかなか難しい。急激に肺炎を発症している人に、イベルメクチンと偽薬を医者にも判らない状態で「二重盲検法」を行うのは倫理的問題がある。一方、重症化を防ぐと言われても、そもそも軽症患者は「自宅待機」が多いし、自然治癒で軽快する場合もあるから効能を判断しにくい。

 判断は難しいが、どこかから個人で勝手に入手して予防薬として使用するのは止めるべきだろう。新型コロナの流行率と致死率、さらにワクチンがすでに存在することを考えると、そこまでする必要は感じない。だが、研究を止めろというのもおかしい。日本が発見にゆかりがある薬なんだし、世界に安く配布可能なんだから、少しでも効能があるなら有効活用したらいい。アメリカではイベルメクチンがコロナに効くとTwitterやFacebook、YouTubeなどに投稿すると、削除されるらしい。日本でも大村氏と高校同窓で医者でもある中島克仁衆議院議員(立憲民主党)の二人がイベルメクチンとコロナを語った動画が見られなくなったと書かれている。そこまで行くとやり過ぎではないか。この後ブログへのリンクをFacebookに投稿する予定だが、果たしてどうなるか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武蔵野市の住民投票条例問題を考える

2021年12月24日 23時08分57秒 | 政治
 東京都武蔵野市で「住民投票条例」を制定する案が市議会に提出されたが、12月21日に否決された問題を考えたい。この条例案のことは、衆院選終了後に急に保守派、右派から大きな問題として大反対運動が起こっていると報道された。それは住民投票の投票権を「3ヶ月以上在住している外国人」にも付与するという方針が問題視されたわけである。この問題に関して自分の考えを書いてみたいと思っていたが、それは21日の採決後にしようと思っていた。基本的には「地方自治」の問題だから、他地域の住民があれこれ口を出すことには違和感があるのである。

 かつて自分の住む地域で、保守が分裂して共産党系区長が当選したことがあった。3年後、区政がもめて不信任、議会解散、区長選などが続いた。選挙戦中には共産党区政の評価をめぐってビラの配布合戦が行われた。明らかに動員された人たちが配っていたので、僕はあなたは区民なのかと問い質したところ、その人たちは「連合」の組合員だった。質問しても、今回の選挙に至った事情を詳しく知らない。僕はこれは区民が判断する問題で、他地域の人がビラ配布だけに来るのはおかしいと批判した。(もちろん国政選挙なら誰がどこで運動してもいい。「連合」はずっと前から、「反共」の立場で選挙に関わっているのである。)

 僕はこの条例案には賛成だったから、否決というのは残念な気がしたが、ある意味「やむを得ない」のかなあとも思った。僅差で可決しても、住民には分断、混乱が残るだろう。その結果、「住民投票条例の廃止を求める住民投票」が求められた場合、かえって混乱が広がってしまう。この条例によれば、有権者の4分の1の賛成で住民投票が行われる。自民党や公明党が反対だったから、その条件はクリアーするのではないか。その結果行われる住民投票の結果がどうなるかは読めない。もしも「廃止賛成派」が勝った場合、住民投票賛成派は深刻なジレンマに直面することになってしまう。
(住民投票条例否決を報じるニュース)
 東京都武蔵野市は、東京駅から八王子、甲府方面へ続く中央沿線で23区を出て最初にある市である。人口15万人ほどで、昔から住民自治の伝統がある地域だ。当然のことながら、市内に米軍基地があるわけではなく、原発やカジノや産廃処理場の誘致計画があるわけでもない。それどころか、東京ではいわゆる「平成の大合併」が一つも行われず、他市との合併計画もない。具体的に何か大きな問題があって、それで住民投票を行おうという話ではない。そうじゃなくて、市長、市議会という「二元代表制」ではすくい上げられない多くの問題があることを前提にして、あらかじめ「常設型の住民投票」を定めておこうということなのである。
 
 だから「理念優先」というか、自治の発展的形態としての住民投票という仕組みになる。そのため、「住民とは誰のことか」ということから、外国人も地域の住民だという観点にたって外国籍住民にも投票権を認めることになる。国政選挙ではなく、地方選挙ですらなく、単に市民の意向を確認するという「決定権のない意思表明」である。そのような外国籍住民にも投票権を認める住民投票条例は、川崎、静岡、広島など40近い市で制定されている。それどころか、東隣の杉並区、西隣の三鷹市、小金井市にもあって、武蔵野市に今まで無かった方が不思議である。全国では合併問題で、実際に外国籍住民や中学生が投票した例もある。
(市民アンケートでは賛成が圧倒的)
 上記アンケートでも外国籍住民への投票権付与に賛成が圧倒的である。しかし、コロナ禍ということもあって、それまでの経緯をあまり知らないという市民も多かったようだ。近年では保守派が「外国人地方参政権」に極端に反対していて、地方参政権につながるなどという思い込み的な反対論が広がる余地があった。(僕は定住外国人への地方参政権に賛成の立場だが、それには公職選挙法の改正が必要である。国会が決めることで、各市町村が条例で対応出来る問題とは全然違う。)報道によれば、「武蔵野市が外国人に乗っ取られる」などと、そこまで言えばヘイトスピーチになるような反対論もあったという。

 武蔵野市で特に外国人関連の問題も起こっていないのに、何で「外国人が大挙してやって来る」などというのか。先に書いたように、武蔵野市の東も西もすでに外国籍住民への投票権を認めているのである。どこが乗っ取られているのか。もし本当に乗っ取られるぐらい外国人がやって来たら、武蔵野市は大もうけ出来る。家賃は上がるし、多くの消費活動が行われる。なんで保守派はこの問題を「地方創生」に利用しないのだろう。地方の繁華街は今ではシャッター通りになっている。乗っ取られるぐらい外国人が住み着いてくれれば、大歓迎ではないだろうか。

 昔の「保守派」は「革新派」をあり得ない幻想(革命とか非武装中立など)を追い求めると非難して、世の中は「レアル・ポリティーク」(現実政治)で動いていると諭したものだった。その意味では、今の「保守派」は「保守」ではない。現実をリアルに認識する能力と努力を怠っている。ただし、今回判ったのは、保守派であっても武蔵野市などでは「住民投票は議会制民主主義の否定だ」とは言えないらしいことだ。日本の多くの場所では、まだそういう理由で住民投票そのものが否定されるだろう。今回は「3ヶ月しかいない外国人が市の未来を決めてよいのか」的な煽動が大きかった。

 この「3ヶ月」というのは、恐らく「日本人とそろえる」ということだろう。日本籍住民の場合は、国や地方の選挙に使う「有権者名簿」を使うのが手っ取り早い。選挙権はその地域に3ヶ月以上住んでいる者にある。(転居間近の人は新住所では投票できない。)日本人と外国人の基準を同じにするべきだという理念によって「3ヶ月」なんだと僕は思っている。だけど、本来は市の将来を決めるという意味では、日本人だって3ヶ月では短いのではないか。特に大都市では人口の流動性が高い。武蔵野市には亜細亜大学や成蹊大学があるから、当然学生も多く住んでいるだろう。もともと単に仕事や学校の都合、あるいは「そこにマンションがあったから」という住民が大都市では多い。日本人も含めて、住居期間要件を延ばすというのも一案かもしれない。

 そもそもこのような住民投票条例は不要だという考えもあるかもしれない。出来ても、使われないだろう。常設型条例がある地域でも、ほとんど実際には行われていないはずだ。4分の1というハードルが結構高い。じゃあ、無くてもよいのか。いや、僕は存在価値は大いにあると思う。使われなくて良いのである。「伝家の宝刀」というものである。今後少子化、人口減に伴って、小中学校の統廃合文化・福祉施設の閉鎖福祉水準の切り下げなどが今以上に避けられないだろう。そんな時に、いざという時は住民投票出来るというのが、行政当局の対応を丁寧なものにすると思う。住民投票条例があることによって、地域を二分するような暴挙を事前に防ぐのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイクル・コナリー「警告」と遺伝子情報の問題

2021年12月23日 22時43分28秒 | 〃 (ミステリー)
 読みたい本がいつも積まれているが、年末になってミステリ-ベストテンの季節になると、ついついミステリーを読みふけることになる。ブログが更新されない日は、体調不良や多忙じゃなくて要するにミステリーが佳境に入っているんだと思って貰った方がいい。各種ベストテン上位の大著に挑む前に、これまたついついマイクル・コナリーの新作「警告」(講談社文庫)を読んでしまった。これはミステリーとしての興趣はイマイチだったけれど、中で取り上げられた問題が重大だから簡単に紹介しておきたい。

 「警告」(Fair Warning)はマイクル・コナリー34冊目の作品である。原著は2020年に刊行されている。コナリーの翻訳は今年2作目だが、ようやくタイムラグが1年になってきた。しかし、何しろ多作の人なので、すでに未訳の新作が2冊もある。こんなに多作だと、どうしても中身が薄くなるのは避けられず、近年ではミステリーベストテンなどでは入賞しなくなっている。でも、サクサクッと軽く読み進めるのが良いのである。ミステリーは「驚くべき真相」に向かって二転三転する叙述テクニックを楽しむ小説だが、あまりにも鮮やかなドンデン返しがお約束になっているジェフリー・ディーヴァーなんかだと疲れてしまう。それに比べてマイクル・コナリーの軽さが程良いときがある。

 マイクル・コナリー最大のシリーズはハリー・ボッシュもので、20冊以上にもなっている。続いて「リンカーン弁護士」で登場したミッキー・ハラーのシリーズがあり、この二人は驚くべき因縁があって、最近は「共闘」することも多い。しかし、他にも独立したシリーズがあって、「ザ・ポエット」「スケアクロウ」の新聞記者ジャック・マカヴォイが登場するシリーズも面白い。今回の「警告」は久しぶりのマカヴォイものである。前の2作は謎の連続犯罪者を追う展開がスリリングだった。

 デンヴァーの地方紙にいたマカヴォイは「ザ・ポエット」の調査報道で有名になり(本も書いて今でも僅かずつ印税が入ってくる)、ロサンゼルス・タイムズに移籍した。しかし、アメリカの新聞業界は厳しい状況にあって、今では「フェアウォーニング」という消費者問題を扱うネットニュースで記者をしている。最後にある著者但し書きによると、このサイトは実在し、編集者のマイロン・レヴィン(小説に登場する)が実際に創設したものだと出ている。それどころか、著者本人がこのニュース会社の取締役だという。そういう背景を知ると、この小説がミステリー風味よりも、社会に警鐘を鳴らす調査報道っぽい理由が納得できる。

 ある日、刑事二人組がマカヴォイを訪ねてくる。殺された女性クリスティナ・ポルトレロという女性を知っているかと聞かれる。ティナとは1年前にバーで会って、一度だけ関係を持ったことがあった。しかし、この段階ではマカヴォイも容疑者であり、DNA検査に応じることになる。マカヴォイは詳しい事情を知りたくなり、独自に調査に乗り出すが、警察は捜査妨害とみなす。その間に独自の殺害方法に着目して、同様の事件がないか調査を始めると、似た事件が数件あることを知る。ティナのFacebookを見てみると、最近今まで知らなかった姉を見つけたと出ていた。遺伝子調査会社に依頼して、調べたらしかった。

 その殺害方法というのは、「環椎(かんつい)後頭関節脱臼」というもので、絞殺や首つり自殺などでは見られない特異な症状だという。そんなことを言われても全然判らなかったが、「環椎」で検索すると詳細を知ることが出来る。頭蓋骨と脊椎(せきつい)をつなぐ骨の一番頭側である。その骨は前後にしか動かないが、この骨が外れて「断頭」されているのである。作中では映画「エクソシスト」で少女の頭がグルッと回る、あんな感じのことをされたと言われている。それには異常な力が必要なはずで、そんな力持ちは普通に首を絞めたり頭を殴れば殺せるわけだから、わざわざそんな変な殺し方をする殺人犯はいない。
(モズと早贄)
 後に判るが犯人は自らを「百舌」(モズ)と称していた。鳥である。今じゃ東京では知らない人が多いらしい。僕は長らく東京23区の一角に暮らしているが、そこは昔(僕の小学生時代)には単なる稲作地帯だった。米所の新潟出身の妻だが実は新潟中心部で育っていて、僕の方が田んぼを知っているのである。自宅で飼っていた鶏がイタチに襲われて全滅したぐらいである。だから周りにはモズもいっぱいいた。モズは秋になると、冬に向けて餌となる昆虫などを木に串刺しのようにして残す。これを「モズの早贄(はやにえ)」と呼ぶ。家の周囲にはいっぱい早贄が残されていた。このモズが餌とする虫を捕るときに、「断頭」のようにするのだという。それが犯人の自称の由来だった。

 さて、では犯人はどのようにして被害女性を見つけていたのか。マカヴォイが調べていくと、被害者は同じ遺伝子情報会社にDNA検査を依頼していた。格安で応じる会社があったのである。無論会社側は個人情報の保護をうたっているが、連邦の規制は事実上ない状態だという。そこがこの小説の一番重大な指摘で、そのため遺伝子情報を提供者に無断で売り渡しているのではないか。そういう疑惑が持ち上がり、同僚のエミリー・アトウォーターや昔からの因縁のある元FBI捜査官レイチェル・ウォリングとともに調査を進めていくと…。そこら辺からはミステリ-だから書かないけれど、まあそういう遺伝子情報の取り扱いに警鐘を鳴らしている。

 その指摘も重大ななのだが、僕が思ったのはアメリカ社会の「DNA幻想」の強さである。移民国家であるアメリカでは、自分のアイデンティティを探し求める動機が他国より強いんだと思う。いわゆる「白人」であっても、自分の祖先の故郷は具体的にはどこの村で、同じ祖先の子孫が今も生きているのかどうか。「黒人」の場合も同様で、アフリカのどこの出身なのか。実際に自分の過去の出自が判ったという話もよく聞く。一方、この小説では、知られたくない個人情報から家庭が崩壊したりする場合も出ている。

 検索すれば、日本でもDNA鑑定を手掛ける会社はいくつもある。ただし、どうしても親子関係を確認したいという場合などが多いと思う。10万円以上はするようだから、そうそう誰もが利用するものではない。小説ではそれが23ドルで請け負うという設定である。これは確かに破格に安いだろう。それで集めた情報を売る悪漢が会社に潜んでいたらどうなるか。今までの経験では、どんな業績のよい会社でも、不正や横領など何か事件が起こりうる感じである。

 「警告」では「性的に開かれた」、つまりニンフォマニア(色情狂)的な因子がDNAで確認出来るという設定になっている。そこまで行くと「DNA決定論」みたいで疑問が大きい。性的生活などは経済、文化などの影響の方が大きいような気がするが。そんなところもアメリカ的である。それはともかく、アメリカではここまで「遺伝子産業」が盛んなのかと思わせられた。まあ小説的誇張もあるかと思うが、日本でも考えて置くべき問題を「警告」しているなあと思った次第。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野鈴本で桃月庵白酒「富久」を聴く

2021年12月22日 20時48分17秒 | 落語(講談・浪曲)
 最近落語家の訃報を書くことが多く、そろそろ寄席に行きたいなと思っていた。年内にどこかと思って、上野鈴本演芸場に行ってきた。最近は浅草に行くことが多かったが、思い出してみれば鈴本が一番落語を聴いてる場所だろう。ホール落語だと夜が多いので、昼間に行くとなると寄席になる。しかし、ヒマやお金の問題と別に寄席だと、客席が小さくてずっと聴いてるのが大変。腰が痛いときには行けないという大問題がある。まあ映画館のような席にしてくれとは言わないが、結構大変なのである。

 今やってるのは「一発逆転 千両富くじ! 暮れの鈴本 富久まつり」と題して、4人の演者が日替わりで「富久」を語る。鈴本演芸場は落語協会しか出ないので、コロナ禍でもっとも大きな影響を受けたと言っていい。(落語協会で感染者が出た。)その後、昼間だけの公演を再開し、今は夜もやってるが、時間が短くなっている。月曜は休演日とし、年末も27日~31日は休演している。そんな中で、一つの演目を何人かが日替わりでやるような企画をやることが多い。普通は10日間同じ顔ぶれだからあ、少しでもファンが日参してくれればということか。
(桃月庵白酒)
 今日のトリは桃月庵白酒(とうげつあん・はくしゅ)で、この人こそ昨年コロナに感染してしまった人の一人だが、すぐに復帰して活躍している。僕は落語協会中堅でもっとも面白い人の一人だと思っている。いろんな落語家がいるけれど、(登場人物の)何気ない反応、ちょっとした一言がおかしいのである。噺は知っているわけだが、なんか一言付け加わって面白い。今日は右手に包帯をしていて、やけどで病院に行ってきたと言っていたが、火事が出て来る噺だから、時々自分をネタにして笑いを取る。

 「富久」は酒でしくじった幇間(ほうかん・たいこもち)が暮れに富くじを買ってしまう。絶縁された旦那が住んでる日本橋辺が火事と知り、すぐに駆けつけて出入りを許されるが…。その間に住んでいた浅草でも火事が起こって、長屋が焼けてしまう。数日後、たまたま富くじ抽選に行き会い、調べてみると買ったくじが当たってるではないか。じゃあ富くじと引き換えにと言われると、くじは家ごと焼けてしまった…という展開の噺である。落語だけではなく、大衆芸能には「年末もの」がある。落語だと「芝浜」や「掛取り」が代表だが、日頃の商売が掛け売りで歳末に一斉借金払いという商習慣から、年末にはお金の苦労がつきものになる。

 今日は柳家小ゑん(おでんの新作落語で笑わせた)、ごひいきの古今亭文菊(湯屋蕃)、春風亭一朝、漫才のロケット団などが前半。中で柳家小八の「千早振る」がおかしかった。この人は柳家喜多八に入門したが、喜多八が2016年に亡くなり、大師匠の柳家小三治のもとで真打に昇進した。小三治のモノマネがおかしく、農工大で物理学を学んだと言ったら、小三治が学んだことを生かさなくてはと言った。ということで、「千早振る」の物理学版という珍品である。ニュートリノとかカミオカンデの話になっちゃうから、意想外の展開に笑撃である。
(柳家小八)
 後半は実は初めて聞いた(と思う)隅田川馬石五明楼玉の輔に、動物物真似の江戸屋小猫、紙切りの林家正楽と安定した芸に満足。そしてトリが白酒だから、やっぱり寄席は面白いと思って帰ってきた。家から近いから、やっぱり上野、浅草でもっと寄席に行こう。上野の街には双子パンダの名前がはためいていた。上野松坂屋本館もパンダ絡み。上野に行くと、「うさぎ屋」でどら焼きを買おうか、松坂屋の地下で日光金谷ホテルのパンを買おうかなどと迷うのだが、今日はまあ止めておこう。24日に地元でケーキを買うかと思って帰ってきた。
(鈴本演芸場)(パンダの名前が)(上野松坂屋本館)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍外交と北方領土ー「大誤算」の内情

2021年12月20日 22時50分45秒 |  〃  (安倍政権論)
 安倍晋三元首相が辞任して、すでに1年以上が経過した。内政のみならず、外交問題に関しても冷静に振り返ってみる必要があるだろう。安倍時代には特に日ロ平和条約締結を目指す首脳会談が頻繁に開かれた。安倍、プーチンの首脳会談は合計で(第一次政権時代から数えて)27回に及んだ。安倍氏はトランプ米大統領との親密な関係でも知られた。安倍支持者に言わせると、トランプにもプーチンにも何度も会える「偉大な安倍首相」となるらしいが、その認識は正しいのだろうか。この問題を考えるために必読の本がこの秋に出たので、読んでみた。一つは北海道新聞社編消えた『四島返還』 安倍政権日ロ交渉2800日を追う」(北海道新聞社、2021.9)である。もう一つは鈴木美勝北方領土交渉史」(ちくま新書、2021.9)である。
 
 北海道新聞社(道新)の本は地元紙としてこの間の交渉経過を追い続けた記録である。長くて大きい本だが、取材を基にした本だから読みやすい。帯裏には「北方領土交渉はなぜ失敗したのか」とある。道新本は安倍時代だけを対象にしているが、鈴木本は鳩山一郎政権の日ソ国交回復に始まり、中曽根、小沢一郎などの交渉を追い、その後に安倍時代を検証している。帯には「安倍外交の”大誤算”で、領土はもどってこない」とある。両著とも安倍外交を失敗と断じているが、その内実には驚くべきものがあった。政権寄りメディアが折々に「領土交渉に進展」のような報道を繰り返し、国内では当時平和条約締結近しとのムードが高まっていた。

 しかし、特に道新本を読めば、今井尚哉(たかや)氏(首相秘書官、後に首相補佐官)を中心とする経産官僚が外務省や菅官房長官さえ「排除」して、安倍首相の「レガシー」作りのため奔走した様子がヴィヴィッドに描写されている。外交交渉と呼ぶレベルじゃない。その結果、事実上の譲歩を繰り返して、ついには「二島返還」にほぼ絞られ、それでも島をめぐる交渉は全く動かなかった。鈴木氏によれば、安倍外交は「清水の舞台から飛び降りてみたが、複雑骨折してしまった」とまとめられる。
(「北方領土」地図)
 そもそも担当大臣でさえ、北方四島の名前が読めないことがある。ここで簡単におさらいしておくと、千島列島の最南端の二島が択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島の2島である。日本はサンフランシスコ平和条約で「千島列島」の領有権を放棄したが、同条約は当時のソ連が署名しなかった。日本は1855年に結ばれた安政の日露和親条約で、択捉島までが日本領、その北のウルップ島以北はロシア領とした歴史から、南千島の2島は「放棄した千島列島に含まれない」としている。また、色丹(しこたん)島と歯舞(はぼまい)群島は、北海道に付属する小諸島として「平和条約締結後に引き渡す」と1956年の日ソ共同宣言に明記されている。

 ソ連時代は交渉もままならなかったが、ソ連崩壊後の90年代初頭、具体的には1993年10月のエリツィン大統領訪日、細川護熙首相との会談による「東京宣言」の頃が「北方領土が最も近づいた日」(鈴木美勝)だという。しかし、僕はこの頃をあまり覚えていない。国内政治が「政治改革」(選挙制度改革)をめぐって揺れていた上、外交的にはアジア諸国との「歴史認識」問題が問われていた時代だった。その時代にはロシア側も政治・経済面で弱体化していたが、日本も大胆な外交交渉が出来るような安定した政治基盤がなかった。その結果、原則論の応酬で何十年も空費した。

 その意味では、安倍元首相が経済協力を大胆に進めて、相互理解が進むことを優先させるべきと判断したとしても間違いとは言えない。だが、これらの本を読んで、冷静に判断すれば安倍時代に北方領土が解決する可能性はなかったと思われる。2014年のソチ冬季五輪に際して、欧米諸国はロシアの「同性愛宣伝禁止法」が人権上問題だとして、開会式に首脳が出席しなかった。それに対して、安倍首相は国会開会中であるにもかかわらず、また2月7日が「北方領土の日」であるにもかかわらず、同じ2月7日に開会するソチ五輪開会式に出席した。時差があるから可能だったのである。今、日本の保守派は「北京五輪外交ボイコット」を主張しているが、ソチ五輪の安倍政権は違ったのである。
(2018年11月14日のシンガポール会談)
 しかし、ソチ五輪終了後の2014年3月に、ロシアによるクリミア併合が起きた。G7諸国はロシアに対し「力による併合は認めない」として制裁を科した。日本政府は欧米諸国ほど厳格なものではなく、ほとんど形式的なものに近かったが、欧米にならって制裁を発動した。その間の事情はロシアも判っていると安倍政権は考えていたようだが、重要な局面になるとロシアは制裁を問題視した。

 実際問題として、米ロの「新冷戦」がここまで激しくなった現時点で、日本に歯舞、色丹を返還した場合、そこに米軍基地が出来る可能性は否定できないとロシアは考えた。それはないと安倍氏は保証したらしいが、口約束では信じられない、文書にして欲しい、米国側の保証もいると言われたら、どうしたらいいんだろうか。そう言われたかどうか、外交交渉の秘密で明かされていないが、事実上そんなやり取りがあったのではないか。なぜならプーチン大統領は公の場で「沖縄」を取り上げているからだ。沖縄の状況を見れば、日本政府よりも米軍の方針が優先されるのだと言われたら、僕には返す言葉がない。だからといって、日米安保がある限り北方領土は返さないなんて話になったら、いくら何でも内政干渉でバカにし過ぎだろう。

 安倍首相が日本の協力があれば極東ロシアが大発展できるとビデオで熱を込めて説明したときに、プーチン大統領は日本はロシアを下に見ていると内心憤慨したらしい。一方で、プーチン大統領も「日本は事実上米国に従属しているじゃないか」とバカにしていた感じがする。安倍氏はプーチン大統領を「ウラジーミル」とファーストネームで呼んで、「ウラジーミルと私で、平和条約締結まで、駆けて駆けて駆け抜けようではありませんか。」「今やらないでいつやるのでしょう」などとポエムみたいな演説をしていたが、内実は政権のレガシーが欲しい首相側近が先走って、外交としての実りがなかった。その証拠に安倍首相が11回も訪ロしたのに対し、プーチン大統領が訪日したのは国際会議(APEC大阪会議)を含めて2回しかなかった。

 プーチン氏が純粋に来日したのは、2016年12月のあの長門会談だけである。シリア情勢を理由になかなか到着せず、安倍氏がわざわざ故郷に招くとして、長門湯元温泉の高級旅館、大谷山荘を用意した例の会談である。その経過を見れば、日本はバカにされているのではないかと感じた人も多かったのではないかと思う。そうして、コロナ禍によって、2019年9月のウラジオストク会談が結果的に最後となった。11月にもAPECチリ会議で再会談することを予定していたが、チリの政情不安で国際会議そのものが中止になってしまった。あそこまで何度も会談した挙げ句、ロシアは憲法を改正して「領土割譲禁止」を決めてしまった。コロナということもあるが、しばらくは対ロ外交進展を手掛ける政権はないだろう。そして、安倍外交の結果、日本は今さら「四島返還」は持ち出せなくなったと考えられる。それが安倍外交の帰結だった。
(映画「クナシリ」)
 今、「クナシリ」というドキュメンタリー映画が公開されている。フランス在住のロシア人、ウラジーミル・コズロフ監督が特別の許可を得て撮影したもので、2018年のシンガポール会談の映像がテレビに映っているから、その頃の取材である。まだ「戦後」が残っているような厳しい生活を住民が語っている。風景の向こうには日本(知床半島)が見えている。土を掘れば日本時代の遺物が発掘できる。ソ連軍が上陸した過去を再現するイベントも開催されている。ヨーロッパから見れば、まさに「地の果て」の島の人々は、複雑な思いの中ナショナリズムを生きている感じだった。複雑な感慨を覚える映画だったが、貴重な映像だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リニア新幹線建設は中止すべきである

2021年12月19日 22時23分27秒 | 社会(世の中の出来事)
 2021年も終わりに近づき、今年の間に書いておきたいことが幾つかある。リニア中央新幹線の問題もその一つだ。JR東海が2027年開業を目指して建設を進めているが、今年も静岡県での着工問題が解決しなかった。それどころか、大井川の流量減少を心配して着工を認めない川勝平太知事に対して、知事選では国交副大臣を務めていた岩井茂樹参議院議員(自民党)が挑んで大敗する始末。その補欠選挙が10月の衆院選中に行われて、そこでも野党系無所属候補が勝利した。岩井候補は全県的に競り負けているが、とりわけ大井川水系地域では壊滅的な結果になっている。(なお、岩井氏は国政に復帰せず、来年3月の東伊豆町長選に出るらしい。)

 折しも今日(2021年12月19日)、この問題に関する国の有識者会議の中間報告が報道された。「科学者らでつくる国の有識者会議は19日、静岡県が懸念する大井川の流量の減少について、十分な対策をとれば中下流域への影響は抑えられるなどとする中間報告をまとめた。報告では、工事で出た湧き水を導水路ですべて川に戻せば、中下流域の流量は維持されると結論づけた。静岡県は工事中に湧き水の一部が山梨県側に流出することを懸念していたが、有識者会議は、山にたまっている豊富な地下水に補われると分析した。」しかし、静岡県には何のメリットもない工事で、こんな希望的観測だけみたいな分析で納得して貰えるだろうか。

 11月27日には、岐阜県中津川市の工事現場で土砂崩落が起こって死者が発生した。これは初の死亡事故だったが、負傷者が出るような事故はこれまでも相次いでいる。もう2027年開業は事実上困難と言われているが、このままどこまで難題が起こり続けるのだろうか。それでも未だ完成前だから良かったのである。今ならばまだ引き返せるからである。

 もし完成した後で巨大地震が発生したら、恐るべき大災害が発生すると警告するのは、石橋克彦リニア中央新幹線と南海トラフ巨大地震 「超広域大震災」にどう備えるか」(集英社新書、2021年6月刊)である。他にも今年は科学史家山本義隆の「リニア中央新幹線をめぐって 原発事故とコロナ・パンデミックから見直す」も出た。こっちは1800円するし、難しそうだから読んでない。他にも週刊金曜日12月10日号でも「そんなに急いでどこへ行く? リニア中央新幹線」という特集を組んでいる。
 
 石橋克彦氏(1944~)の本は読んでみたが、これもなかなか難しい。地震学の細かい記述になると付いていけない部分が出て来る。しかし、僕は石橋氏の警告には耳を傾けないといけないと考えている。それは論理の問題とは少し違う。石橋氏が「大地動乱の時代」(岩波新書、1994年)を著した翌年に阪神淡路大震災が起きたのである。(その本は関西の地震を警告する本ではなかったが。)その後、石橋氏は1997年に「原発震災―破滅を避けるために」という論文を発表して、巨大地震によってメルトダウンが起きる「原発震災」に警鐘を鳴らした。「二度あることは三度ある」と言っては縁起でもないが、石橋氏の警告はあだやおろそかにしてはならないと僕は考えているのである。
(リニア新幹線予定ルート)
 リニア中央新幹線の予定ルートが決定した時に、「これは大変危険だ」「とても完成できないのでは」と僕は思ったものだ。そう感じた人はきっと僕だけではないと思う。僕は社会科の教員だから、地理、地学が専門領域ではないとはいえ、「中央構造線」「糸魚川静岡構造線」という日本列島を形成した最も重要な構造線のど真ん中にトンネルを掘って時速500キロで運行するなど、「神を畏れぬ所業」としか思えなかった。(まあ僕は無神論者ではあるけれど。)
 
 南海トラフ巨大地震は、想定される最大エネルギーのものが起きるとは限らない。幸いにして、2段階に分かれて発生するかもしれない。それにしても大地震は必ずいつか起きるのである。それは物理現象だから、避けることは出来ない。もし最大の地震が発生すると、リニア中央新幹線がどんな悲惨な重大事故になるかは、石橋氏の著書に書かれている。帯を引用すれば「時速500キロの超特急は「活断層密集地帯」を疾走する 本当に、大丈夫?」という言葉に尽くされている。東日本大震災の時は、震源域から遠かったために、東北新幹線は脱線、倒壊などしないで済んだ。それでも復旧するまでに49日ほど掛かっている。

 大地震を検知すれば、当然リニア新幹線も緊急停止するはずだ。それ自体が500キロ(地下はもっと遅いかもしれないが)から0に急停止するんだから恐怖である。リニア新幹線はほとんどが地下だから、止まるのも大体はトンネル内である。地震による崩落、倒壊などが一切なかったとしても、地下に止まった車両からどうやって脱出するのか。その時点で東海道新幹線などは津波の大被害を受けていると予想される。東海道の大動脈が止まったら日本は東西に分断される、だからリニア中央新幹線が必要だという論理なのだが、大地震が起きたらリニア救援に誰が行けるのか。最悪事態では、地下にずっと閉じ込められる恐れさえ予想される。
(リニア新幹線の車両)
 ところで僕は今までリニア新幹線について、きちんと考えたことがなかった。「リニアモーターカー」(linear motor car)が「和製英語」だということも知らなかった。それどころか「リニア」の意味さえ知らなかった。なんとなく「磁気」とか「超伝導」みたいな言葉みたいに思っていたが、単に「直線の」「線上の」という形容詞である。また「一次の」という意味もあって、「a linear equation 」が「一次方程式」である。一般的なモーターは回転運動をさせてエネルギーを発生させるが、リニアモーターは直線方向にエネルギーを発生させるので前へ前へと進行するわけである。

 そう言えば「新幹線」という言葉の使い方もおかしい。「幹線」、つまり東海道線などの幹線鉄道に対して、新たな「新」「幹線鉄道」を建設するというのが、「新幹線鉄道」計画である。東海道新幹線が時速300キロも出す「夢の超特急」だったから、新幹線=猛スピードの意味に転用されていった。それまでの東海道線特急列車に対して、新たに別の線路を敷いて特急を走らせるから「新幹線鉄道」になる。それがいつの間にか、在来線の上を走る路線まで「ミニ新幹線」などと呼ぶようになってしまった。

 ところで山本氏の本では、原発あってのリニア新幹線と指摘されているらしい。リニア運行にはあまりにも巨大な電気エネルギーが必要で、柏崎刈羽原発や浜岡原発を再稼働しないと賄い切れない可能性が高い。いや、それほどではないという主張もあるらしいが、そこら辺になると僕は判定しがたい。だが、はっきり言えば、これほどの巨大技術は「SDGs」の時代に逆行するのは間違いない。

 世の中には、このリニア新幹線を世界に売り込むためには日本でまず作ってみなくてはという人がいるかもしれない。しかし、こんな技術は世界でどこも導入しない。いま世界にある超特急鉄道よりも遠くに行く場合、飛行機という確立した交通技術が存在する。日本だって、誰も福岡や北海道までリニア新幹線を作れとは言わないだろう。その巨額建設費を償却するための運賃になれば、飛行機に勝てるはずがないからである。

 そもそも「名古屋まで40分」で行く必要性がどこにあるのだろう。現在東京駅朝7時発の「のぞみ」に乗れば、名古屋には8時39分に到着する。(運賃は乗車券6380円、特急券4920円、合計11,300円。)会議などもリモートでやる時代、名古屋までどうしても行く必要があれば、現在の「のぞみ」で十分なのではないか。リニア新幹線は品川駅発だから、東京駅から品川駅まで移動して乗り換える時間を加算すれば、短縮時間は30分程度である。一刻を争う場合もあるかもしれないが、それはごくまれだろう。遠距離恋愛中の恋人ならば、2,300円程度からある長距離バスを使うだろう。もしくは東海道新幹線に乗って、熱海で落ち合うとか。ほとんどトンネルで富士山も見えないリニア新幹線に観光で乗る人もいないはず。リニア新幹線、今なら中止できる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「ドント・ルック・アップ」、巨大彗星接近のブラックコメディ

2021年12月17日 22時50分07秒 |  〃  (新作外国映画)
 「ドント・ルック・アップ」という映画を見て、とても面白かった。でも、ほとんどの人は名前も知らないと思う。これもNetflixで12月24日から配信される映画である。その前に一部映画館で上映している。それはイオン系、テアトル系とUPLINK。大体いつも同じである。こういう特別上映は新聞、テレビ、雑誌などの既存マスメディアではほとんど宣伝されない。まだ配信前だからSNSでも話題にならない。気付いたときには上映が終わってるが、その時には配信で見れば良いということなんだろう。

 同じようなNetflix配信映画の「パワー・オブ・ザ・ドッグ」と「Hand of God -神の手が触れた日-」を劇場で見て、大変面白かったので記事を書いた。ところで、濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」がアメリカのゴールデングローブ賞の外国語映画賞にノミネートされたので、他部門も調べてみた。先の2作品も大きく評価され、特に「パワー・オブ・ザ・ドッグ」は作品、監督、主演男優、脚本など主要部門にノミネートされていた。(またテレビドラマ部門の作品賞に「イカゲーム」がノミネートされたことも話題になった。でも投票権者にアフリカ系が一人もいないと判明して、授賞式は地上波テレビで放送されないらしい。)

 話を「ドント・ルック・アップ」に戻すと、この映画も作品賞(コメディ・ミュージカル部門)、主演男優主演女優脚本部門でノミネートされている。主演はレオナルド・ディカプリオジェニファー・ローレンスのアカデミー賞受賞俳優。重要な脇役で、女性大統領にメリル・ストリープ、テレビ司会者にケイト・ブランシェットとこれもオスカー女優。大統領の息子で補佐官がジョナ・ヒル、ジェニファー・ローレンスとラスト近くで恋人になるティモシー・シャラメとアカデミー賞ノミネート俳優。さらに歌手役でアリアナ・グランデが出て劇中で歌っている。監督・脚本はアダム・マッケイで、「マネー・ショート」「バイス」などでアカデミー賞ノミネート。「マネー・ショート」ではアカデミー脚本賞を獲得したという超豪華スタッフ・キャストである。

 これだけの豪華キャストなんだから、大宣伝して劇場公開してもヒットするに違いない。と思うけど、こういうブラックコメディが今の日本社会で受けるかどうかには疑問もある。ミシガン大学の天文学教室。大学院生のケイト・ディビアスキー(ジェニファー・ローレンス)が天体観測をしている。と今まで知られぬ謎の天体を発見。数日間分を観測すると、次第に大きくなっている。地球に接近している未知の彗星らしい。指導教授のランダル・ミンディ博士(レオナルド・ディカプリオ)に報告して、二人で軌道を計算すると…。何回計算し直しても、地球に向かってきているではないか。数キロもある大彗星だから、このままでは太平洋に衝突して大津波を起こして、かつて恐竜が滅んだように全人類も滅亡である。
(ミンディ博士とケイト)
 もしかして、この一大事に地球人で一番最初に気付いてしまったのか。この衝撃的真実を国家上層部にどう伝えるべきか。NASAに連絡し、ホワイトハウスにも伝えようとする。それで何とか軍用機が派遣され、ワシントンに赴くが。ホワイトハウスでは、ジャニー・オルレアン大統領(メリル・ストリープ)の誕生日を祝ったり、最高裁判事任命問題が大もめにもめていて、全然会ってもくれない。やっと会って説明しても、全く危機感は伝わらず、息子の補佐官はヘラヘラしている。たかがミシガン大学の教授の計算が正しいのか。NASAでも確認したと同席した博士が保証するけど、マジメに受け取られない。

 それではということで、二人は「国家機密」をマスコミでバクロしようと考え、ケイトの恋人のツテで朝のワイドショー番組に出演できることになった。ところが司会者のブリー(ケイト・ブランシェット)たちは最高裁判事候補のスキャンダルや歌手のライリー・ビーナ(アリアナ・グランデ)が恋人のDJチェロ(スコット・メスカディ)と破局したというニュースの方が優先。スタジオにはビーナが来ていて、直撃するとホントはまだ未練…。というところでチェロとつながって、涙の復縁に。なんてことばかりやってて、いつ彗星をやるんだ。ラスト近くにようやく出演するが、ジョーク扱いにケイトは切れて出て行ってしまう。ミンディ博士はそれでも危機感を説明するが、本気にされず視聴者には全く届かない。
(テレビに出た二人)
 このあたりで風刺の行く先が見えてくる。コロナ禍前に書かれた脚本だから、コロナは入ってない。むしろ地球温暖化など科学者の警告を無視してパリ協定を脱退するようなトランプ政権がチラチラする。自己の政治信条と正反対に、この嫌みな大統領を楽しげにやってるメリル・ストリープがさすがに好演。ところが一転して、彗星の危機を直視すると緊急記者会見が始まるのは、最高裁判事問題で支持率が下がって中間選挙が危ないからである。そしてNASAが核兵器を搭載したロケットを打ち上げて、彗星の軌道を変える計画が実行すると発表する。そして打ち上げ日、成功したかと皆が喜んでいると、なぜかロケットが戻ってくる。

 マッドサイエンティストっぽいスマホ会社のCEOが出て来て、今や何でもAIで診断できるという。そういうスマホを開発している。彼が診断したところ、この彗星にはレアメタルがいっぱい。もっと近づいたところをドローンで破砕して、バラバラになった彗星をアメリカが独占してしまおう。そんなトンデモ計画を大統領に進言する。いよいよ彗星が近づいて、「ルック・アップ」(上を見よ)とミンディ博士がYouTubeに投稿する。アリアナ・グランデもここで「ルック・アップ」の歌を熱唱する。一方で「危機をあおるな」「分断するな」と大統領支持派は「ドント・ルック・アップ」運動を展開する。アメリカに除け者にされた中国、ロシア、インドが組んで独自の核爆破ロケットを打ち上げようとして失敗。人類の最後の期待はドローン計画に掛かることになるが。

 最後の最後まで目が離せない風刺の凄みが見事。日本では政治を描くとしても、「新聞記者」のように深刻になってしまう。こんなおバカな風刺は難しいかもしれない。保守派のみならず、リベラル派でもマジメ志向が強く、特に「触れてはならない領域」が多い。この映画で描かれるアメリカ政治は非常にバカバカしいが、それにも増してテレビもとんでもない。だがそれも視聴者の動向が背景にあるし、SNSが人々を分断してしまう。「科学」をバカにした結果、人類が危機に陥る。メッセージは明確だが、それよりも何でも茶化してしまおうという風刺精神こそこの映画の真骨頂だ。その意味で、アメリカ社会には健全で勇気があるとも思う。スタンリー・キューブリックの「博士の奇妙な愛情」みたいなブラックジョークの映画の収穫。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和田誠展を見に行く

2021年12月16日 22時43分32秒 | アート
 10月9日から12月19日まで開催の「和田誠展」が大盛況である。場所は東京オペラシティ アートギャリー(京王線初台)。新国立劇場は何度も行ってるが、実はこっちは初めてである。いずれ見ようと思ってるうちに閉幕も近くなってしまった。15日に出掛けてきたが、待ち時間30分だった。最後の週末は1時間じゃ済まないだろう。しかし、これほど大々的に和田誠の業績を一覧出来る機会はしばらくないかもしれない。亡くなった時には「和田誠さんを追悼して」を書いた。本としては「銀座界隈ドキドキの日々」、また「村上春樹とイラストレーター展」でも和田誠のイラストについて書いている。

 今回は全面的に撮影可能だった。カメラは持っていなかったので、スマホで幾つか撮ることにした。和田誠はイラストレーター、グラフィックデザイナーとして仕事をした人だから、作品はほぼすべてが「複製芸術」である。今回はポスターや本の表紙などが主な展示なので、撮影可なんだろう。そういう作品にも当然ながら「原画」はあるわけだが、それらは展示されていない。(遺された原画の多くは出身の多摩美大に寄付されたはずだから、そのうち原画展も開催されるかもしれない。)映画「麻雀放浪記」の撮影台本なども出ているが、会場のほぼすべては壮大なポスター展示になっている。
(会場入口)
 タバコの「ハイライト」のパッケージで知られ、後には「週刊文春」の表紙を1977年5月12日号から務めた。(没後の現在も和田の作品を使用している。)だから全日本人が和田誠のイラストをそれと意識せずに何度となく見ているはずである。でも僕の場合は、映画雑誌キネマ旬報に連載された「お楽しみはこれからだ」で和田誠に最初に親しんだと思う。これは過去の名画(ほとんどがアメリカのミュージカルや西部劇などが多かった)の名セリフ集である。ビデオもない時代に記憶だけで書かれたもので、絵とともに軽妙洒脱なエッセイが楽しい。
 (「夜のマルグリット」)(「イエロー・サブマリン」)
 会場に入ると、もう似顔絵の氾濫。それも60年代頃の映画や音楽が多い。もういちいち細かく見なかったが、圧倒される。「イエロー・サブマリン」はビートルズが音楽を担当したアニメ映画で、その映画ポスターが上の最後の画像。
 (「チャップリンの独裁者」)
 若い時代に新宿にあった日活名画座のポスターを無償で描いていたのは有名な話。そのポスターがよくぞ残されていた。次の会場入口にずらっと展示されている。こんな名画が安く毎週見られたのである。「チャップリンの独裁者」の会のポスターが上の画像。なんと50円だったのに驚き。今の物価に直せば、どのくらいになるだろう。
(和田誠寄席)(文春表紙集)
 「和田誠寄席」というポスターもあった。これは和田誠の新作落語集らしい。柳家小三治、春風亭小朝、五街道雲助ら超豪華メンバーである。1979年にレコードになっているとウィキペディアに載っている。その当時だと、まだまだ皆若かったはず。よくぞこんなものをやったなあ。演者も若かったのに、メンバーが凄い。和田誠と小三治の追悼で、もう一回やって欲しいなあ。日活名画座の隣がずらっと一面「週刊文春表紙集」。まあ、ここはザッと見ながら通過する。
(「ガラスの動物園」)(「熱海殺人事件」)
 演劇のポスターもたくさんあった。60年代、70年代の演劇ポスターと言えば、つい横尾忠則や粟津潔の「アングラ演劇」を思い出してしまう。しかし、和田誠が手掛けたのは、紀伊國屋ホールで演じられるような公演である。テネシー・ウィリアムズの「ガラスの動物園」は絵が素晴らしい。つかこうへい「熱海殺人事件」もあったが、紀伊國屋ホールだから横内謙介が見た舞台かもしれないなとつい思ってしまう。(「ホテル・カリフォルニア」参照。)もっとも何度もやってるはずだから、判らない。こういうポスターというのは、月日は書いてあるが、何年のものかが判らないのである。
(紙屋町さくらホテル)(圓生と志ん生)(父と暮らせば)
 それよりも井上ひさしの公演ポスターが多い。ああ、これも見た、これも見たと思い出が蘇る。こまつ座のポスターは、こんなに和田誠が手掛けていたのだったか。実はほとんど意識していなかったのだが、井上ひさしの公演ポスターはきちんと再評価しないといけない。
(スタン・ゲッツ五重奏団)(ピンキーとキラーズ)
 音楽のポスターも多い。和田誠が大好きだったジャズからスタン・ゲッツ。もう一つ「ピンキーとキラーズ」は今回絵として一番ぐらいに気に入った。和田誠が監督した映画関係、表紙絵を描いた本の数々も、もちろん沢山展示されている。しかし、割と知ってるものが多いから、画像を撮るのも飽きてきたので撮影しなかった。「怪盗ジゴマ 音楽篇」(1988)という和田誠製作・監督・作曲のステキなアニメがあるが、自然とそのテーマ曲を口ずさんでしまう。何だかスキップしたくなってくる。まあ心の中でだけど。自分の中で見た映画や演劇なんかを思い出してきて、幸せな気分になってくる。そんな展覧会だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

助成金、立民2議員は「問題なし」、むしろ使うべき制度である

2021年12月15日 22時32分25秒 | 政治
 自民党前議員の石原伸晃氏の事務所が新型コロナウイルスによる「雇用調整助成金」を受けていたと報道された。批判が強くなって、その直前に「内閣官房参与」に任命されていたが、それを辞任することになった。環境副大臣を務める大岡敏孝衆議院議員(滋賀1区)も受給したということで、野党が国会で追及してる。その後、昨日になって立憲民主党の2議員が「新型コロナウイルスによる臨時休校対策の助成金」を受けていたと報道された。報道ステーションを見ていたら、最後にこのニュースを報じて大越キャスターが「立民よお前もか、の感じです」とコメントしていた。ネット上では「巨大なブーメラン」などと言われているらしい。
(立民2議員の「臨時休校対策助成金」のニュース)
 しかし、僕にはそれが問題だとは思えない。むしろ「使うべき助成金」のように思う。ちゃんと本質を考えずに、「印象」で論じてしまってはいけない。まず、石原氏などの「雇用調整助成金」だが、これは確かに議員事務所が受給するのは問題だろう。この助成金は以下のようなものである。「経済上の理由により事業活動の縮小を余儀なくされた事業主が、労働者に対して一時的に休業、教育訓練または出向を行い、労働者の雇用維持を図った場合に、休業手当、賃金等の一部が助成されます。 新型コロナウイルス感染症にともなう特例措置により、支給対象となる事業主や助成率など、多くの拡充措置が図られています。」

 「政治活動」も事業活動には違いないだろうが、もともと利潤獲得を目的とした活動ではない。新型コロナで労働者(秘書等)が休業を余儀なくされたとしても、そのために議員事務所の収入が減ったわけじゃないだろう。もちろんコロナ禍で政治資金パーティが開けず、前年に比べて事務所の収入が減ったかもしれない。しかし、労働者(秘書)を雇う原資は、公設秘書の場合はもともと公費だし、私設秘書の場合も政党助成金など公費がもとになっているはずだ。だからコロナ禍のため秘書を削減するといった事態は想定しがたい。この雇用調整助成金は「雇用維持」のためのものだから、議員事務所が助成を申請するのは明らかにおかしい。

 一方で、立憲民主党の阿部知子岡本章子2議員が受給していたのは、「新型コロナウイルス感染症による小学校休業等対応助成金」だと報道されている。これを調べてみると、「令和3年8月1日から同年12月31日までの間に、以下の子どもの世話を保護者として行うことが必要となった労働者に対し、有給(賃金全額支給)の休暇(労働基準法上の年次有給休暇を除く)を取得させた事業主を支援します。」となっている。条件は二つあって「1.新型コロナウイルス感染症に関する対応として、ガイドラインなどに基づき、臨時休業などをした小学校など(保育所等を含みます)に通う子ども」と「2.新型コロナウイルスに感染した子どもなど、小学校などを休む必要がある子ども」である。(「令和3年」は今年の情報で、前年のものを申請したのだろう。)

 2020年2月末に、安倍元首相は「全国一斉休校」を要請した。その措置は明らかにおかしかったし、僕はそのことをブログで批判したが、今はそれは書かない。そのため全国の学校がほぼ一斉に休校となって、子どもたちが平日も家庭にいることになった。中学生なら家で過ごすことも出来るかもしれないが、小学校低学年(幼稚園、保育園を含む)の子どもを家に置いておくことは無理だ。親が家にいる必要があるが、父親でも良いわけだが、実際には母親は仕事を休んで対応することが多かった。もともと家庭にいた女性もいるだろうが、現代では多くの女性が賃労働で働いていて、急に休校になって大混乱になったのは記憶に新しい。

 議員事務所で働いている人はどういう人だろうか。いずれは政治家になろうと意気込んでいる人もいるだろうが、議員の所属政党に親近感はありつつも、会社や役所と同じように「雇われてサービスを提供するだけ」という人も多いだろう。共産党議員は党員が秘書になるらしいが、そういう場合でも「議員と雇用関係」にある。国民の代表である国会議員の活動を支えるために、秘書は不可欠である。だから公費で雇用する「政策秘書」などもいる。しかし、一般的に言われることでは、地元の事務所などで「私設秘書」も置かないと政治活動が円滑に進まないという。

 そういう重要な秘書も多くは中高年男性ではないかと思うが、今回女性議員が助成対象だったのを見ると、育児世代の女性を事務所で雇っていたのだろう。そういう人が休校でどうなるか。テレワークで対応できることもあるだろうが、秘書という仕事の性格上事務所に行かないとダメな仕事も多いと思う。秘書も当然「有給休暇」はあるだろうが、1ヶ月2ヶ月と続けばそれでは対応できない。夫が交代で在宅するとか、祖父母世代に援助を頼むか、事務所に子どもを連れて行っちゃうか。それぐらいしか思いつかないが、これをきっかけに辞めざるを得ないとか、そんなこともあったかもしれない。

 しかし、コロナを理由に秘書を首切るなんて、あってはならない。特に立憲民主党の議員は、存在理由に関わるだけにそんなことは出来ないだろう。じゃあ、どうすればいいんだろうか。雇用を継続するとして、その間の給与はどうするのか。公設秘書はもともと国費で出ているし、私設秘書の場合も(出所をたどっていけば)政治活動を支える政党助成金などから出ているだろう。そうすると、そのまま雇用を継続して給与を支払うのは、「勤務実態がない秘書に公費で給与を支払う」ということにならないか。かつて多くの議員が立件され、旧民主党でも山本譲司、辻元清美等が立件された。立民議員はそのことを忘れてはいないだろう。

 だから、「臨時休校対策の助成金」だから良いという以上に、この助成金を使わなければかえって不正とみなされかねないのである。「誤解を招く」から返金すると立憲民主党は言っているようだが、誰がどのように返金するのだろうか。事務所としてただ国庫に戻すだけでは、勤務実態がなかった秘書に事務所がお金を渡したことになってしまう。だからといって、その間の給与分を今さら秘書に戻させるなんてことは出来ないだろう。「誤解」をちゃんと正すように努めるのも政党の仕事だ。この場合は「臨時休校助成金を使わないといけないケース」ときちんと説明するべきではないのか。

 (なお、ここでは女性秘書が家にいざるを得ないというケースを想定したが、実際がどうかは判っていない。シングルファーザーかもしれないが、やはり「育児世代の女性」が休校で家にいたケースが多いのではないかと思う。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする