第一次世界大戦終結後、日本内外で多くの社会運動が起こった。それらは「大正デモクラシー」を支えて、日本が戦時体制に飲みこまれる前に存在した「もう一つの日本の可能性」を今も示している。労働運動では1912年に結成された友愛会が1919年には大日本労働総同盟友愛会へ、そして1921年に日本労働総同盟に改称・発展した。また今ではほとんど忘れられている「農民運動」では、1922年に日本農民組合が結成された。また1919年から新婦人協会が活動を始めている。もう一つ挙げておけば、第一次共産党が結成されたのも1922年だった。そこから起算するなら、1922年は日本共産党100年ということになる。
これら日本の社会運動黎明期に結成された組織の中でも最も重要な意味を持つのは、1922年3月3日に結成大会が開催された全国水平社だろう。それまでも被差別部落の待遇改善を目指す「融和主義」的な団体は存在した。しかし、当事者運動としての部落解放運動は、水平社をもって始まると言えるだろう。そこで採択された「水平社宣言」は日本の人権宣言とも呼ばれて、歴史に残る重要なマニフェストになっている。もうすぐ100年になるわけだが、そのことは意識されているだろうか。検索してみれば、いくつかのマスコミでは企画があるようだが、日本全体としてはまだ認識されていないだろう。
(水平社創立大会)
僕はいまタイトルを「水平社宣言」から100年と書いた。それは「水平社結成から100年」でもあるわけだが、そう書くと「水平社運動」を振り返らざるを得なくなる。いや、もちろん日本の社会運動史の中で「水平社」をどう考えるかは重大なテーマである。しかし、水平社の歴史を振り返る時には、幾つもの難問がある。まずは戦時下で「一君万民」思想に飲みこまれ、戦争協力に舵を切って解散した歴史をどう考えるべきか。
さらに戦後になって、「水平運動」の復活として部落解放委員会が結成され、1955年に部落解放同盟に改称した。しかし、部落解放同盟は60年代末から共産党との対立を深め、分裂に至った。その後に行き過ぎた糾弾事件や「同和利権」をめぐる暴力事件や不祥事が頻発したのは否定できない。「水平社から部落解放同盟へ」と運動史を総括してしまうと、部落解放運動をめぐる幾つもの問題点を考えなくてはならない。それは重要なことだけど、僕は今それを書くつもりはない。
(水平社博物館にある創立大会のジオラマ)
今は「部落解放運動史」をちょっと離れて、「水平社宣言」を日本で書かれた「当事者の叫び」として記念したいと思うのである。起草した西光万吉(さいこう・まんきち)は共産党に加わって逮捕、「転向」した後は一転して極右の国家主義者となり、天皇のもとでの差別解消を唱えた。その他、初期水平運動に関わった人たちには似たような思想遍歴をたどった人がかなりいる。戦前日本の厳しい社会環境の中で解放運動を始めたわけだから、今になって責めても仕方ない面もある。その点も含めて、日本社会の構造を考えていくしかないのだろう。
(人の世に熱あれ 人間に光あれ)
「水平社宣言」そのものは、今になって読むと「歴史的文献」という感じだ。ある程度判断力が付いてから歴史の授業で取り上げるべきものだろう。教育現場で安易に取り上げると、かえって「いじめ」に使われかねない。だけど、宣言の最後にある「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ」というフレーズに込められた熱い思いは、今も伝えていくべき言葉だろう。他には1911年の「青鞜」創刊号の平塚雷鳥の巻頭言「元始、女性は実に太陽であった」も挙げるべきかもしれない。
(水平社博物館)
時代とともに、「差別」に関するとらえ方も大きく変化してきた。古くから指摘された差別(部落差別、女性差別、障害者差別、外国人差別など)に加えて、僕の若い頃は取り上げられなかった「LGBTQ」などを抜きにしては今は差別を語れない。また入管の外国人処遇、ヤング・ケアラーの問題…今まで気付かなかった問題が次々と出て来る。それらは「当事者」が自ら語り始めることで、社会の認識が広がった。そのような「当事者の叫び」が100年前に始まったことの重み。その後に戦争があって一端は解散せざるを得なかったこと。それらの重大性を認識する機会にしなくてはいけない。
僕はこの機会に、あらゆる差別を許さないという決意の表れとして、首相談話を出して欲しいと思う。戦後50年の「村山談話」、韓国併合100年の「菅直人談話」、戦後70年の「安倍談話」と同じ扱いのものである。それが無理なら、超党派による国会決議。内容が薄まってもいいから、ぜひ超党派でまとまれないだろうか。もちろん、それと別個に諸学会やマスコミでは運動史の厳しい総括をするべきだ。ともすれば歴史を忘れて無かったことにする日本社会の中で、忘れてはいけないことがいっぱいある。そして、次はいよいよ2023年、関東大震災100年がやって来る。
これら日本の社会運動黎明期に結成された組織の中でも最も重要な意味を持つのは、1922年3月3日に結成大会が開催された全国水平社だろう。それまでも被差別部落の待遇改善を目指す「融和主義」的な団体は存在した。しかし、当事者運動としての部落解放運動は、水平社をもって始まると言えるだろう。そこで採択された「水平社宣言」は日本の人権宣言とも呼ばれて、歴史に残る重要なマニフェストになっている。もうすぐ100年になるわけだが、そのことは意識されているだろうか。検索してみれば、いくつかのマスコミでは企画があるようだが、日本全体としてはまだ認識されていないだろう。
(水平社創立大会)
僕はいまタイトルを「水平社宣言」から100年と書いた。それは「水平社結成から100年」でもあるわけだが、そう書くと「水平社運動」を振り返らざるを得なくなる。いや、もちろん日本の社会運動史の中で「水平社」をどう考えるかは重大なテーマである。しかし、水平社の歴史を振り返る時には、幾つもの難問がある。まずは戦時下で「一君万民」思想に飲みこまれ、戦争協力に舵を切って解散した歴史をどう考えるべきか。
さらに戦後になって、「水平運動」の復活として部落解放委員会が結成され、1955年に部落解放同盟に改称した。しかし、部落解放同盟は60年代末から共産党との対立を深め、分裂に至った。その後に行き過ぎた糾弾事件や「同和利権」をめぐる暴力事件や不祥事が頻発したのは否定できない。「水平社から部落解放同盟へ」と運動史を総括してしまうと、部落解放運動をめぐる幾つもの問題点を考えなくてはならない。それは重要なことだけど、僕は今それを書くつもりはない。
(水平社博物館にある創立大会のジオラマ)
今は「部落解放運動史」をちょっと離れて、「水平社宣言」を日本で書かれた「当事者の叫び」として記念したいと思うのである。起草した西光万吉(さいこう・まんきち)は共産党に加わって逮捕、「転向」した後は一転して極右の国家主義者となり、天皇のもとでの差別解消を唱えた。その他、初期水平運動に関わった人たちには似たような思想遍歴をたどった人がかなりいる。戦前日本の厳しい社会環境の中で解放運動を始めたわけだから、今になって責めても仕方ない面もある。その点も含めて、日本社会の構造を考えていくしかないのだろう。
(人の世に熱あれ 人間に光あれ)
「水平社宣言」そのものは、今になって読むと「歴史的文献」という感じだ。ある程度判断力が付いてから歴史の授業で取り上げるべきものだろう。教育現場で安易に取り上げると、かえって「いじめ」に使われかねない。だけど、宣言の最後にある「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ」というフレーズに込められた熱い思いは、今も伝えていくべき言葉だろう。他には1911年の「青鞜」創刊号の平塚雷鳥の巻頭言「元始、女性は実に太陽であった」も挙げるべきかもしれない。
(水平社博物館)
時代とともに、「差別」に関するとらえ方も大きく変化してきた。古くから指摘された差別(部落差別、女性差別、障害者差別、外国人差別など)に加えて、僕の若い頃は取り上げられなかった「LGBTQ」などを抜きにしては今は差別を語れない。また入管の外国人処遇、ヤング・ケアラーの問題…今まで気付かなかった問題が次々と出て来る。それらは「当事者」が自ら語り始めることで、社会の認識が広がった。そのような「当事者の叫び」が100年前に始まったことの重み。その後に戦争があって一端は解散せざるを得なかったこと。それらの重大性を認識する機会にしなくてはいけない。
僕はこの機会に、あらゆる差別を許さないという決意の表れとして、首相談話を出して欲しいと思う。戦後50年の「村山談話」、韓国併合100年の「菅直人談話」、戦後70年の「安倍談話」と同じ扱いのものである。それが無理なら、超党派による国会決議。内容が薄まってもいいから、ぜひ超党派でまとまれないだろうか。もちろん、それと別個に諸学会やマスコミでは運動史の厳しい総括をするべきだ。ともすれば歴史を忘れて無かったことにする日本社会の中で、忘れてはいけないことがいっぱいある。そして、次はいよいよ2023年、関東大震災100年がやって来る。