尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『オン・ザ・ロード~不屈の男、金大中』、韓国民主化運動の歴史

2024年11月20日 22時06分43秒 |  〃  (新作外国映画)

 『オン・ザ・ロード~不屈の男、金大中』という映画が上映されている。韓国の元大統領、金大中(キム・デジュン、1924~2009)の生涯を多くの映像をまとめて描くドキュメンタリー映画である。これを見ると、苦難の韓国現代史がよく理解できるだろう。東京ではポレポレ東中野でやってるけど、見るのも書くのもどうしようかと思った。同時代に生きてきて、知っていることが多かったけれど、改めて感じるところも多かった。だからやっぱり見ておくべき映画かなと紹介する。

 韓国初のノーベル賞受賞者である金大中は、2024年が生誕百年にあたる。そのことに僕は気付かなかったが、あれほど有名だった隣国の政治家も没後15年になれば知らない人も増えているだろう。特に韓国の「民主化運動」及び、日本で取り組まれた「韓国政治犯救援運動」も知らない人が多くなったと思う。韓国映画には現代史を描く映画がかなりある(今年公開の『ソウルの春』など)が、民主化運動の歴史をきちんと知らないと韓国理解が偏ってくる。生年を見れば判るように、金大中は日本統治時代に生まれ、「光復」(日本敗戦による独立回復)は21歳の時だった。韓国南西部の全羅南道の島に生まれ、近くの港町木浦で育った。朝鮮戦争では「北」の軍隊に逮捕され殺されかかったが、マッカーサー率いる国連軍が仁川に上陸して危うく助かった。

(野党政治家として活躍)

 その当時は海運会社を経営する若き経済人だったのだが、戦争を辛くも生き延びてから政治を志すようになった。もっとも1954年の選挙では落選、その後も1959年、60年と落選している。決して当初から故郷の支持基盤が厚かったわけではなかった。しかし、李承晩政権と対立する野党民主党のリーダー張勉に引き立てられ、民主党のスポークスマンを務めている。このように古い時代のことは当時を知る人も少ないだろうし、あまり映像資料もない。61年の選挙で初めて当選したが、3日後に朴正熙大統領のクーデターで国会は停止された。どちらかと言えば党内でも「現実派」として出発したが、以後はずっと軍政に抵抗し続ける。

 そして、71年の大統領選(野党候補として善戦し注目された)、73年の金大中氏拉致事件(東京に滞在していた金大中が韓国情報機関により不法に拉致された)、76年の「民主救国宣言」発表とその後の弾圧と続くが、18年続いた朴正熙政権も1979年に突然終わった。朴正熙大統領が突然中央情報部長に暗殺されたのである。ここから「ソウルの春」と呼ばれた民主化が始まるが、今度は全斗煥将軍のクーデターでそれも挫折した。1980年5月に、クーデターに反発した光州の民衆を軍部が残酷に弾圧した「光州事件」が起きる。それ以前に拘束されていた金大中は事件を長く知らず、7月になって初めて聞かされて失神した。

 この「知らなかった光州事件の首謀者」として死刑判決が下されたが、全世界で救援運動が起こった。日本でも集会やデモが何度もあって、僕も参加している。当時の映像が出て来るが、「左派系」(政党や労働組合のもの)のデモが多く使われていたが、実際はもっと市民運動やキリスト教系の運動の方が広がっていたと思う。(映像がないのかもしれない。)最終的にはレーガン政権の「圧力」もあり、無期懲役に減刑され、1982年には「治療」目的で米国渡航が認められた。

 その頃の映像はかなり残っていて、獄中書簡などは感動的。頑なに渡米を拒んでいた(政治活動をしないなどの条件を呑みたくなかった)が、やがて受け容れるまでの面会の様子も映像で残されていたので驚いた。アメリカに落ち着いた後は、政治家や学者などに韓国民主化の必要性を訴えて理解者を増やしていった。1985年2月に「強行帰国」した際は、1983年に同じく「強行帰国」したフィリピンの野党指導者ベニグノ・アキノが空港で暗殺された事件の再現を防ぐため、米下院議員や報道関係者などが多数付き添っていた。全斗煥政権は直ちに「自宅軟禁」にしたが、金大中帰国が民主化運動を蘇生させたことが判る。

 金大中は獄中で考えを深め、「報復」ではなく「寛容」を説くようになっていく。そのことが後に大統領になったときに大きな意味を持ってくる。映画は大統領になるまでは描かず、あくまでも「民主化運動のリーダー」として描いている。そのため、民主化運動の高まりで大統領直選制などが実現した1987年までで終わっている。知っている人には意外な話はなく、知ってることを映像で確認する映画。金大中をめぐって意外な証言が出て来るわけでもなく、一本調子な感じは否めない。

 (光州に集まる民衆の様子)

 しかし、この映画のラストは本当に感動的だった。民主化実現後に初めて光州を訪れた時の映像である。光州に着く前から鉄道沿線に人々が集まって、金大中も窓から手を振り続ける。光州での様子は上の写真にあるが、もう見渡すばかり人、人、人の波である。金大中も慟哭して泣き続けていた。見ている方も胸が熱くなる。自分もいろんなことを思い出してグッときた。

 ところで、この映画の上映素材は韓国公開時のものではなく、日本語のナレーションで進行する「日本編集版」である。1980年の日本での救援運動の映像も、韓国で2024年1月に公開された時にもあったのかどうか不明。説明がないと判らない人も多いだろうし、字幕で見るのは不適当なのかもしれない。しかし、出来れば韓国で公開されたままのヴァージョンで見たかった。

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映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』をどう見るか

2024年10月25日 22時06分37秒 |  〃  (新作外国映画)
 『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が公開された。『シビル・ウォー』の日本公開がアメリカから半年遅れて何故だろうと問題視されたが、この『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の場合はアメリカから一週間遅れの公開だった。アメリカでは公開2週目に観客動員が8割減になって衝撃を与えたが、日本では1週目も2週目も2位を維持している。(1位はどっちも『室井慎次 敗れざる者』)。 

 前作『ジョーカー』はヴェネツィア国際映画祭金獅子賞の大傑作で、アカデミー賞大本命と目されたが、何と韓国の『パラサイト 半地下の家族』が作品賞、監督賞など4部門で受賞してしまった。『ジョーカー』は最多11部門にノミネートされながら、主演男優賞ホアキン・フェニックスと音楽賞の2部門受賞に止まったのである。しかし、前作の重要性はその後ますます増大していると思う。安倍晋三元首相銃撃事件の容疑者も見ていたようだが、あの映画以後世界で同様の事件が起きるたびに、映画『ジョーカー』を思い出してしまう人も多いんじゃないか。

 そこで続編が期待されたわけだが、満を持して放つ大問題作には違いない。アメリカの例もあるからあっという間に上映が少なくなるかと心配して、早めに見に行った。今週末の上映も余り減っていないので心配は無用だったかもしれないが、吹替え版の上映が多く字幕で見たい人には厳しいかも。続編は「フォリ・ア・ドゥ」と題されているが、まずこれが意味不明。映画内では説明されないので調べてみると、「Folie à Deux」(フォリ・ア・ドゥ)というフランス語で「二人狂い」の意味だという。

 「感応精神病」と呼ばれる妄想性障害の一種で、Wikipediaには「一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有することが特徴」と出ている。この映画でジョーカーことアーサー・フレックホアキン・フェニックス)と感応するのが、リーレディ・ガガ)という女性。アーサーはアーカム州立病院に収容されていて、裁判を待っている。病院の音楽セラピーに参加していた女性がリーで、参加を許された映画会で知り合う。そのためにリーが取った手段は衝撃的なまでに過激である。

 リーは家族に無理やり入院させられた犠牲者だと語り、ジョーカーに共感していたと語る。そこには虚言もあったことが後に判明するが、ともあれ今まで誰も理解者がいなかったアーサーは、ここで「宿命的な愛」に目覚めたのである。そして、それを二人で歌いあげるのである。そう、この映画は「ミュージカル映画」という作りになっているのである。それは成功しているか。判断は難しいが、大きな違和感はないけれどベストな方法でもないという気がした。
 (トッド・フィリップス監督)     
 そして、ついに裁判が始まる。そこら辺は制度の違いがいろいろあって、ななかなよく判らないところが多い。そもそも「責任能力」があると判断されたら、病院じゃなく拘置所にいるはず。病院に入院しているリーと知り合えるのが不思議。連続殺人事件の容疑者がけっこう自由にしているのも不思議だ。裁判でも弁護方針をめぐってアーサーは弁護人を解任して自分で弁護するという。日本だと殺人容疑の場合、弁護人抜きの裁判は刑訴法上不可だがアメリカでは可能なのか。(最高刑が死刑、無期、懲役3年以上の事件は、「必要的弁護事件」となり、弁護人なしでは開廷出来ない。)

 その後の裁判経過もよく判らないが、一番の問題は「ジョーカーかアーサーか」。リーなくして生きていけないアーサー=ジョーカーは、アーサーとしてリーを愛したいと思うのだが…。まさに「フォリ・ア・ドゥ」の面目躍如。その選択が裁判、そして場外の支援者にはどう受け取られるだろうか。ここでは内容はこれ以上書かないが、僕にはちょっと違和感、不満のようなものが残った。というか、理解出来ない展開と言うべきか。エッ、こうなるの的な怒濤の展開が続くが、面白いことは面白い。

 ミュージカル的な作りも完全に成功しているとは思えないのだが、じゃあ間違っているとも決められない。ミュージカルシーンはなかなか興味深いのである。(レディ・ガガだし。)じゃあ、何が不満かというと語り口がこなれていない感じがする。138分もあって長い割に、ゴタゴタした感じが残る。内容的にも「ジョーカー裁判」という難問をいかに描くか、苦闘している。内容的に見ておくべき映画だと思ったが、評価は難しい。リーを出さないと成立しないが、リーがいることで(物語上の)限界も生じた。
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映画『二つの季節しかない村』、トルコのヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督最新作

2024年10月16日 22時32分57秒 |  〃  (新作外国映画)
 トルコの巨匠ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の『二つの季節しかない村』が公開された。2023年のカンヌ映画祭最優秀女優賞メルヴェ・ディズダルが受賞した作品である。これがまた198分もある超大作で、こういう映画はすぐ上映が少なくなるに決まってるから早速見て来た。この監督の映画は素晴らしい自然描写の中で、卑小な人間が繰り広げる壮大なドラマが展開される。非常に見ごたえがあって大好きだ。今回も全く退屈せずに見ることが出来たが、しかし3時間超は長過ぎだろう。

 映画はトルコ東部の山地にある村の学校で展開される。学校というのは誰もが行った思い出があるから、多くの映画や小説などに出て来る。だけど、その国の人には常識なことは説明抜きで進行する。ホームページにトルコの教育制度に関して詳しい説明があって、やっと理解出来た。トルコの学校は「4・4・4」の12年間が義務教育で、多分主人公の教師は真ん中の「Elementary」スクールで美術を教えていている。日本で言えば中学1年生の担任になると思う。一部私立学校もあるが、ほとんどが国立学校。主人公は東部のへき地から次はイスタンブールに転勤したいと言ってる。日本じゃ都道府県ごとの採用だから、北海道から東京の学校に転勤するなんてあり得ない。しかし、トルコでは教員は国家公務員で社会的地位が高いんだという。
(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督)
 トルコ東部を舞台にする映画は時々あるが、複雑な背景事情がある地域だ。この地は政府が言うところの「山岳トルコ人」、つまりクルド人が多く住む。トルコ政府はクルド独立運動を激しく弾圧し、軍が駐留している。この映画でも主人公は軍警察に警戒されている。学校は基本的にケマル・アタチュルク以来の「世俗教育」が行われていて、女性教師にはスカーフを被っている人がいない。村人も同様で、エルドアン政権への支持が低い地域なんだと思う。メルヴェ・ディズダル演じる女性教師は、自爆テロで片足を失っている。これは恐らくISによる首都アンカラの無差別テロだろう。彼女は左派活動家で、集会が襲撃されたんだと思う。
(ホームページにある地図)
 物語をホームページからコピーして紹介すると「美術教師のサメットは、冬が長く雪深いトルコ東部のこの村を忌み嫌っているが、村人たちからは尊敬され、女生徒セヴィムにも慕われている。しかし、ある日、同僚のケナンと共に、セヴィムらに虚偽の"不適切な接触"を告発される。同じころ、美しい義足の英語教師ヌライと知り合い......。プライド高く、ひとりよがりで、屁理屈を並べ、周囲を見下す、"まったく愛せない"のに"他人事と思えない"主人公サメット。辺境の地でくすぶる男は、雪解けとともに現れた枯れ草に何を見つけ出すのか――。」
(サメットとヌライ)
 主人公サメット(デニズ・ジェリオウル)は冒頭では頑張ってる感じだが、途中で「生徒指導」を間違う。この展開は教師にとって他人事ではなく、誰にでも起こりうることだと思う。それにしてもきっかけは「抜き打ち持ち物検査」で、トルコじゃ今でもそんなことがあるのかと思った。そこからサメットの人間的狭量さが見えてきて、生徒相手に癇癪をぶつけるなど困ったものである。一方ヌライ(メルヴェ・ディズダル)は今もなお若い頃の理想主義を手放していない。そんな二人がラスト近くで10分以上人生論を闘わせる。圧倒的なシーンだが、その後の展開も人生の機微を感じさせて見事だ。
(セヴィム)
 ヌライは英語教師だが「英語を教えるよりクルド語を教わっている」という。この言葉にヌライの生き方も示されている。しかし学校の様子は出て来ない。サメットの学校の様子はかなり詳しく描写されるが、貧しい東トルコでは生徒の将来も希望が持てない。サメットも早くこんな学校、こんな地域を出ていきたいとしか思っていない。そういうタイプの教員が見事に描かれるが、見ていて辛いものがある。セヴィムという女生徒の描き方もリアルで、関係が壊れた生徒との難しさが身に応える。サメットもまずいと思うが、まだトルコでは「教師の権威」で押し切れるんだろうか。

 題名に反してほぼ冬しか出て来ないが、ラスト近くになってやっと夏が来る。サメットとヌライはケナンも一緒に、遺跡を訪ねる。これがまた素晴らしい映像で、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の映画はそこが魅力でもある。1959年生まれの監督は構想が大きいこともあり、最近は数年に一作の寡作になっている。今までにカンヌ映画祭で、パルムドール、グランプリ(2回)、監督賞、女優賞を獲得してきた巨匠である。あと幾つ見られるかわからないが、数作は見たいものだ。なお、今までに『トルコ映画「雪の轍」と「昔々、アナトリアで」』と『トルコ映画「読まれなかった小説」』、2回記事を書いている。
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映画『西湖畔に生きる』、グー・シャオガン監督の山水画映画第2弾

2024年10月03日 22時01分11秒 |  〃  (新作外国映画)
 中国映画『西湖畔(せいこはん)に生きる』が公開された。2021年に公開された『春江水暖』で高く評価されたグー・シャオガン監督の「山水画映画」第2弾である。前作は「川」を見つめ、川の流れの中に人生を象徴させた映画だった。映像が素晴らしく、監督は「山水画」の絵巻物のような画面を目指したと言っていた。今回は「湖」を中心に、山や茶畑を圧倒的な映像で描き出している。特に冒頭のドローン撮影やラストの鍾乳洞シーンは驚くばかりの見事さ。だが今回は人間社会の醜い面を直視した点が前作と違う。

 舞台は浙江省の省都、杭州(ハンチョウ)とその西にある西湖である。西にある湖は「西湖」と呼ばれやすいが(富士五湖にもある)、中国で「西湖」といえば世界文化遺産にも登録されたここを指す。西湖の風光明媚な景観は昔から日本にも大きな影響を与えてきた。杭州は2023年にアジア大会が開催されたばかりで、人口は1千万を超える大都市に発展している。最近公開された『熱烈』というダンス映画も杭州を舞台にしていて、いま中国でも熱い町なのか。映画で西湖の向こうに広がる大ビル群は印象的だ。
(杭州)(西湖)
 そんなキレイな場所で撮影した映画だが、人間関係の設定は悲劇的。西湖近辺は最高峰の中国茶・龍井茶の生産地で知られるそうだが、そこに茶の摘み取りをして暮らす母・タイホア(苔花)と息子・ムーリエン(目蓮)がいた。父は昔出稼ぎに行ったまま行方不明で、死んだとも失踪したともいう。そんな母が茶畑を追われ、いつの間にか怪しい「シェア経済」にハマっていく。息子は「違法なマルチだ」と何度も説くのだが、母は初めて生きていく実感が得られたと全く聞かない。その商売は体に効く「足裏シート」を周囲に紹介すると、階級が上がっていくというものらしい。足裏シートって、こういうの中国でもあるんだ。
(母タイホア)
 母タイホアを演じるジアン・チンチン(蒋勤勤)は圧倒的迫力。僕は知らなかったが、中国では多くのテレビドラマに出て有名だという。2023年のアジア・フィルム・アワード主演女優賞を受賞した。(ちなみに主演男優賞は役所広司だった。)足裏シートを売る「バタフライ社」に出会って、タイホアは全く印象が変わる。それまでの地味な扮装から一転して、髪型も化粧も一新したときの演技は衝撃的である。だが、それは「違法ビジネス」である。そういう風に宣伝されているが、それを知らなくても一目瞭然だろう。何故なら日本でも似たような事件がかつていっぱい起こったからだ。システムも疑問だが、西湖に浮かぶ船上で行われる「研修」という名の洗脳も凄い。日本でも似たような違法ビジネスや新興宗教が思い出されて来る。

 何とか母を救い出したい息子ムーリエン(ウー・レイ)は、母に従ったフリをして会社に潜入する。そして警察に密告するのだが、母には全く通じない。このような母子のありようは、どうしても安倍元首相銃撃犯を思い出させる。世界共通の構造的な問題なのだろう。ところで、これは「目蓮救母」という仏教の説話に基づくという。それは知らなかった。シャカの弟子目蓮は、亡母が餓鬼道に落ちていることを知り、何とか助けたいと思う。そしてシャカに相談したところ、自分の力を母だけでなく同じ苦しみを持つすべての人を救う気持ちを持つように諭されたという。そうして結局母は救われたという説話が基になっていた。
(グー・シャオガン監督)
 グー・シャオガン(顧暁剛)監督(1988~)は、東京国際映画祭で黒澤明賞を受賞した。杭州生まれ、杭州在住で映画を作っている。この「山水画」を映画で再現するというのが新味だが、今回は社会批判も含まれている。世界中どこにも「マルチ商法」は存在するが、社会の転換期、混乱期に現れやすい。この映画はフィクションだが、こういう設定が成り立つところに中国社会の現在も映し出されているんだと思う。
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映画『憐れみの3章』、ヨルゴス・ランティモス監督の奇怪な傑作

2024年09月30日 22時12分19秒 |  〃  (新作外国映画)
 『哀れなるものたち』で見る者の度肝を抜いたヨルゴス・ランティモス監督の新作、『憐れみの3章』(Kinds of Kindness)が早くも公開された。題名通り中編映画が3つ合わさったオムニバス映画で、一編はそんなに長く感じないが合計すると165分もある。内容もこの監督らしい奇怪という他ない作品で、こういうのはすぐに上映が少なくなると思ったので、早速見て来た。

 この映画は間違いなく傑作で、見ていて非常に面白い。だけど、前作、あるいはその前の『女王陛下のお気に入り』などと同様に、嫌いな人も多いと思う。初めから終わりまで不穏なムードに包まれ、意味もよく理解できない設定で物語が延々と続く。3編すべて見る者を不愉快にする映画で、映画を見てスカッとしたい、感動を貰いたいなんて思う人は見てはならない。映像も演技も素晴らしいと思うが、この設定に入り込めない人がいても不思議ではない。説明抜きで映画が進むから、訳がわからない迷路の中で迷いつつ見る方が面白い。だからここで詳しく書いてしまうのは避けたいと思う。
(第1話)
 各章は「R.M.F.」という名が付いている。R.M.F. の死R.M.F. は飛ぶR.M.F. サンドイッチを食べるの3編だが、この意味も後で考えてそういうことかと思うけど、まあバカにしたような付け方である。そして、3編それぞれ同じ俳優が違う人物を演じている。最近3作連続で主演し、『哀れなるものたち』でアカデミー賞主演女優賞を獲得したエマ・ストーン、前作でも重要な役をやっていたウィレム・デフォー、そして今作でカンヌ映画祭男優賞を獲得したジェシー・プレモンスが全作で重要な役をやっている。
(ジェシー・プレモンス)
 ジェシー・プレモンスって誰だっけ。最初はマット・デイモンかなと思うが、プレモンスは映画『すべての美しい馬』でマットの少年時代をやってたぐらいで、そっくりさんで有名らしい。3編すべてで「支配された男」を演じていて、見ていて恐ろしくなる。エマ・ストーンの存在感が一見大きいのだが(特に2作目、3作目)、振り回される感じのジェシー・プレモンスの受けも凄い。さらに助演陣も共通で、マーガレット・クアリーホン・チャウジョー・アルウィンママドゥ・アティエなど、名前も知らないけど同じ顔の人が出てるなという感じで全部出てくる。つまり同じ俳優を使って、3つの中編映画を作ったわけである。
(エマ・ストーン)
 『哀れなるものたち』はいかにも変な設定だが、これには原作があった。『女王陛下のお気に入り』も一応英国王室史の史実をもとにしている。それに比べて、この映画はオリジナル脚本でヨルゴス・ランティモスエフティミス・フィリップが共同で手掛けている。このコンビは『ロブスター』『聖なる鹿殺し』などを書いていて、あの変テコな発想が再び甦ったのである。人間の中の善き面は出て来ないで、奇怪な思考に囚われる恐ろしさばかりが強調される。こんな映画があっても良いのか。もちろん良いのである。たまには見た方が良い。
(第3話。エマ・ストーンとジョー・アルウィン)
 3つの中編映画が集まったオムニバス映画は、エドガー・アラン・ポー原作をもとにした『世にも怪奇な物語』(ロジェ・ヴァディム、ルイ・マル、フェデリコ・フェリーニ)など多数ある。しかし、同じ監督が3つ作ってまとめるというのは珍しい。最近では濱口竜介監督『偶然と想像』が思い出される。もしかして、この映画がヒントになったのかもしれない。またジム・ジャームッシュ監督『コーヒー&シガレッツ』もあるが、これは11もの小片映画の集まりだった。アルゼンチンの『人生スイッチ』もあったから、最近ちょっと一人監督のオムニバスが流行っているのかもしれない。昔の映画では今井正監督が樋口一葉原作3作を映画化した『にごりえ』(『東京物語』『雨月物語』を越えて1953年ベストワンになった)もあった。
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映画『至福のレストラン 三つ星トロワグロ』、F・ワイズマン94歳の傑作

2024年09月04日 21時47分55秒 |  〃  (新作外国映画)
 アメリカのドキュメンタリー映画監督フレデリック・ワイズマンは何と94歳である。ワイズマンの映画はとにかく長いので、2022年に『ボストン市庁舎』を見たのが最初だったが、それから2年。今度はフランスへ行って有名なレストラン「トロワグロ」のすべてに密着する映画『至福のレストラン 三つ星トロワグロ』を作った。それがまた240分もあるのだが、真ん中に休憩があるので『オッペンハイマー』や『キラーズ・オブ・フラワームーン』なんかよりは楽。それに劇映画でもないのに、なぜか見入ってしまって時間を忘れるような傑作だった。時間を恐れず機会があれば見るべきだが、ちょっと満腹し過ぎるかもしれない。

 「トロワグロ」は「親子三代55年間ミシュランの三つ星を持ちつづけ」ているフランス最高のレストランだとチラシに出ている。日本との関係も深く、新宿に系列店がある。映画内でも日本への言及が多く、それも興味深い。フレデリック・ワイズマンの映画は、幾つものカットを細かく積み重ねるスタイルで、「ノーナレ」で進行するのが特徴。だから当初はよく判らないことが多い。この映画でも最初に地図ぐらい出して欲しかった気もする。後で調べたら、フランス中部ロアンヌ(リヨンから電車で1時間)の近くにある。元は街中にあったが、2017年に郊外のウーシュという村に移転して話題となったという。
(フレデリック・ワイズマン)
 そこは田園地帯にあって、近くに農園や牧場もある。究極の「地産地消」をめざし、環境上の配慮もあっての移転らしい。もっともあまりにも美しい風景を見て、オーナーシェフ3代目のミッシェルが古民家を買いたくなったのである。2012年に権利を獲得し、5年間整備して宿泊施設もあるレストランにした。長男が店を手伝い、次男は30分ほど離れた場所にあるもう一つの店のシェフ、娘が宿泊部門の予約や事務の責任者といううらやましいような家族経営である。映画では冒頭から料理の材料やソーズについてミッシェルが確認している。その微妙なさじ加減の味覚には驚くばかり。
(厨房のようす)
 映画は厨房の調理の様子を細かく見ていく。恐らくこのレストランで働く人も、映画を見て初めて知ったことが多いと思う。「町中華」じゃないので、一人で全部は担当しない。肉、魚、ソース、スイーツなどいくつかの専門があるようで、皆自分の仕事で手一杯。それからフロア部門に映像が移る。このレストランではフロアスタッフの持つ意味が非常に大きい。料理の説明だけでなく、常連の好み、ワイン選び、世界中から来る客との会話、アレルギーの確認などやることがたくさん。コースだけでなくアラカルトもあるので、客席ごとに出す料理が細かく違っていく。それを見事にさばいて行くスタッフいてこそのトロワグロである。
(田園風景を望める店内)
 中継を挟んで、チーズ工房やブドウ畑など関連施設も紹介する。ここも非常に興味深い。日本関連では冒頭からソースの材料に「醤油」が使われ、もう定番調味料になってる感じ。さらに「活け締め」(イケジメ)は日本語のまま使われ、「ジャポネのハーブ」紫蘇も使われる。ミッシェルは若い頃に日本料理に触れて大きな影響を受けた。白くて丸いスイーツの命名に困っていたら、日本人客が真珠のネックレスをしていたのを見て「ミキモト」と名付けたとか。このように日本の影響も大きいのだが、やはり基本は肉食で塩やバターが多く使われている感じがした。塩分や脂肪分の含有量を教えて欲しいという気もしてきた。
(チーズ工房)
 飽きない映像が続くが、次第に映画内の料理には飽きてくるかも。やはりベースがフランス料理なので、逆に宿坊に泊まって精進料理を食べたくなってくる。グルメの劇映画はかなり多く、最近ではフランスの『ポトフ 美食家と料理人』が面白かった。劇映画だと登場人物のドラマが並行して描かれる。しかし、この映画は料理関連のみで、あるレストランのすべてに迫るという目的で作られている。それにしても90過ぎて異国で大長編を作るフレデリック・ワイズマンには驚くしかない。(まあフランスは『パリ・オペラ座のすべて』『クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち』など今までも縁があった国だが。)
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映画『ソウルの春』、迫力のポリティカル・アクション

2024年09月02日 21時42分17秒 |  〃  (新作外国映画)

 2023年の韓国映画で最高の動員となった『ソウルの春』が公開されている。これは1979年のパク・チョンヒ(朴正熙)大統領暗殺後の軍内部の暗闘を描いたポリティカル・アクションの傑作だ。1979年12月12日にチョン・ドゥファン(全斗煥)国軍保安司令官が上司の鄭昇和(チョン・スンファ)戒厳司令官(陸軍参謀総長)を逮捕して軍の実権を掌握した。(粛軍クーデター)。僕は隣国の情勢を固唾をのんで見守っていたのを記憶している。その事態をほぼ史実に近く映画化したのが『ソウルの春』である。朴大統領暗殺後の「民主化運動」が「ソウルの春」と呼ばれたので、この題名はちょっとミスリードかもしれない。

 チラシを見れば、二人の男の向かい合う顔写真になっている。左側がチョン・ドゥグァンで、名前を変えてあるがもちろん全斗煥(チョン・ドゥファン)。演じているファン・ジョンミンはカツラを被って顔つきを似せている。ほぼそっくりのイメージで、軍内の秘密結社「ハナ会」を牛耳る迫力は凄まじい。ナンバー2のノ・テゴン第9歩兵師団長(パク・ヘジュン)は、盧泰愚(ノ・テウ)である。この二人は韓国なら若い人でも顔が思い浮かぶだろう。映画でもソックリな感じでやってる。反乱グループを率いるリーダーシップは完全に「チョン・ドゥグァン」の圧勝である。
(映画のチョン・ドゥグァン)(実際の全斗煥、盧泰愚)
 映画を見ると全斗煥一派の勝利は薄氷を渡るようなものだった。国防長官はアメリカ大使館に逃れるし、チョン・ドゥグァンが大統領に戒厳司令官の逮捕の許可を求めに行くと、チェ・ハンギュ大統領(1979年12月8日に代行から昇格していた崔圭夏=チェ・ギュハ)は抵抗する。その間にイ・テシン首都警備司令官チョン・ウソン)が徹底的に立ちふさがる。陸軍士官学校出身じゃなかったイ・テシンは軍内主流ではなく、その無欲ぶりを買われて首都警備司令官に抜てきされた。そしてチョン・ドゥグァンは法を無視した独裁志向であり、首都を守るのは自分の役目だとクーデター阻止に全力を尽くす。
(映画のイ・テシン)
 僕はこういう人がいたことは知らなかったので、モデルの人物が判らなかった。家で調べると、張泰玩(チャン・テワン、1931~2010)という人で、Wikipediaによれば事件後に予備役編入、2年間の自宅軟禁になったという。民主化以後は2000年から4年間金大中政権与党に入党して国会議員を務めたと出ている。クーデター派は追いつめられると休戦ライン近くを守る第二空挺師団を呼び寄せるが、イ・テシンは橋を封鎖してソウルに入れないようにする。両者策謀をめぐらすが、保安司令部は各所の電話を盗聴できる権限を持っていて、情報が筒抜けだった。結局ハナ会一派は軍内各所ににいて防げなかったのである。
(イ・テシンのモデル張泰玩)
 基本的に史実に基づいているので、映画内の結末は決まっている。その後キム・ヨンサム(金泳三)政権下に「歴史の清算」が進み、このクーデターも裁かれた。全斗煥も盧泰愚も反乱罪で有罪となったので、今ではこの題材を映画化しても何の危険性もない。それにしても、クーデターの細かな動きを再現して、リアルな政治映画として完成度が高いのは見事。もちろんエンタメ映画の限界もあり、「男たちの対決」という構図で両雄のし烈なアクションになっている。中国でも「天安門事件」や「林彪事件」などを正面から描く政治映画が作られる日が来て欲しいものだ。『アシュラ』などのキム・ソンス監督。

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台湾映画『流麻溝十五号』、50年代の政治犯収容所を描く

2024年08月09日 22時25分07秒 |  〃  (新作外国映画)
 『流麻溝十五号』という台湾映画をやっている。台湾映画といえば以前は巨匠の問題作が多かったが、最近はエンタメ系青春映画なんかの方が多い気がする。そんな中でこの映画は50年代の「白色テロ」時代の政治犯収容所を正面から扱っているので、見てみたかった。監督は女性の周美玲(ゼロ・チョウ)という人で、映画も主に女性の「政治犯」を扱っている。描き方は主要な3人を中心に男性「政治犯」や看守側、地元の人々なども出て来る。ちょっと感傷的な作りになっていて完成度的には不満も残るが、かつて描かれなかった暗黒の現代史をテーマにした作品だ。

 題名の「流麻溝」というのは地名だという。「新生訓導処」(思想改造及び再教育のための収容所)があった場所である。それは台湾島東南の「緑島」に1951年から1965年まで置かれていた。一時期には2000人もの人々が収容されていたという。また「緑州山荘国防部緑島感訓監獄」(政治犯の監獄)も同島に1972年から1989年まで存在した。今は島は観光地として開発され、施設の跡は「人権記念公園」になっている。このように「過去」を忘却しないところに台湾の姿勢がうかがえる。
(緑島の位置)
 日本の植民地だった台湾は日本の敗戦後、「中華民国」に返還され国民党が権力を握った。しかし、強権的統治が民衆の反感を買い、1947年2月28日に軍が民衆デモに発砲した「二・二八事件」が起きた。その時代を描いたのがホウ・シャオシェン監督の『悲情城市』(1991)である。1947年から1987年まで40年間に及んで戒厳令が布かれ、その間3000~4000名の人々が理由なく殺害されたとされる。また多くの人が「思想改造」のために収容所に送られ「反共」教育を強制された。この映画を見ても、多くの人々は「政治犯」というような実態はほとんどなく、自分でも何が問題になったか理解出来ない「冤罪」だった。
(女性収容者の人々)
 収容所の中でも、人々は情報を求めて新聞を回し読みしている。また不当な措置には団結して闘ったりもする。しかし、大部分は所側の要求に応じるか、拒否するかを問われる苦痛の日々だった。当局の求めに応じないと家族とのやり取りも不可能になる。一方、大陸に家族を残している人も多く、「反共の闘士」と宣伝材料になるのは危険が大きい。収容者は時には看守の理解出来ない日本語で意思疏通を図っている。(そこは現代の俳優なので、日本語の発音はたどたどしいが。)男女で惹かれ合うこともあれば、収容所のトップから性的関係を要求されている人もいる。島そのものの風景は美しいのだが、そこには恐怖の日々がある。
(収容所内部)
 そこへ蒋経国(蒋介石の長男で、1978年から1988年に総統)が視察にやってくることになった。収容所では有志を募って反共の舞踊劇を作ることになった。皆一生懸命取り組んだのだが、その結果は? この時代は「密告」で多くの人が囚われたが、その収容所の中でも密告は付きものだった。リーダー格の看護師、絵がうまい高校生、そして自ら「共産党」と自首したダンスが上手な女性の真意と運命は…。自由な思想を持つことすら許されなかった時代に、囚われの島で起きた悲劇。拷問なども出て来るが、割と見やすく作られている。台湾では「過去」となり、「忘れてはいけない」対象になっているということなんだろう。
(周美玲)
 台湾の負った複雑な現代史を知る意味で、この映画の存在を是非心に留めておいて欲しいと思う。ただ台湾内外で映画賞などには縁がなく、それはやむを得ないと思う。別に悪いわけじゃないんだけど、重厚感に乏しい。テーマ的にも現代台湾では危険性がなくなったということかと思う。しかし、この映画は中国で上映出来ないだろう。国共内戦の相手側(蒋介石政権)の非人道性を暴く映画なんだから、本来は中国が歓迎しても良いはずだ。でも、この映画の眼目は「思想の自由」であり、中国で上映するには危険である。登場人物は「台湾に自治があれば」と言っていて、中国からすれば「台湾独立派」の宣伝と見えるだろう。それにしても、蒋介石も毛沢東に勝るとも劣らぬ残虐な独裁者だったことがよく判る映画だった。
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韓国映画『密輸 1970』、抜群の面白さに拍手!

2024年08月01日 20時29分09秒 |  〃  (新作外国映画)
 7月12日公開の韓国映画『密輸 1970』(リュ・スンワン監督)はちょっと油断しているうちに上映が少なくなってきた。どうしようかと思ったけど見に行ったら、これが抜群の面白さで驚いた。海洋版『テルマ&ルイーズ』だという人があって、なるほどと思った。懐かしムードの歌謡曲に乗せて、猛然たるスピードで駆け抜けて時間を忘れて見てしまう。アクション&コメディの純然たる大エンタメ作品だが、冒頭から編集のうまさが光る。そして「サメ映画」でもあるんだから、大いに笑える。

 1970年の韓国西海岸クンチョン(架空の漁村)。海女たちがアワビを捕って暮らしていたが、化学工場の排水で不漁続きになる。そこに「密輸」の話が持ち込まれ、やむを得ず船主の娘でリーダー格のジンスク(ヨム・ジョンア)は話に乗ることにする。船が荷物を海底に沈め、それを海女たちが引き揚げるのである。今では「密輸」というと麻薬か覚醒剤かという感じだが、その当時の韓国はまだまだ経済発展途上にある。正規に輸入すれば多額の関税がかかるから、日本製の電気製品などをそうやって「密輸」するのである。ところがある日、税関の船が突然検査にやって来て、ジンスクは父と弟を失い,自らも逮捕されてしまった。
(海女の面々)
 それから2年。ジンスクはようやく監獄から出て来ている。そして、あの日一人だけ捕まらなかった親友のチュンジャ(キム・ヘス)が密告したんじゃないかと疑っている。チュンジャはソウルに逃げてすっかり垢抜けて、今も怪しい商品ブローカーとして幅をきかせていた。と思うと、そこにはやはり組織があり「ショバ代」を無視したチュンジャは,ある日痛めつけられてしまう。組織のボス、クォン軍曹(チョ・インソン)はチュンジャを始末しようかと思うが、うまい密輸方法があるとクォン軍曹に持ち掛けるのだった。
(チュンジャ)
 そして久しぶりにクンチョンに戻ったチュンジャだったが、そこではジンスクの父親に使われていたドリが偉くなって羽振りをきかせている。出所した海女たちは命令に従う立場になっていた。何とか海女たちを使って大々的な密輸を始めたいのだが…。それに加えて税関の係長として取り締まりの中心にいるジャンチュン(キム・ジョンス)、喫茶店のアルバイトだったのに今では店を乗っ取っているオップン(コ・ミンシ)など怪しい人物たちが入り乱れている。そこにクォン軍曹がヴェトナム帰りの部下を連れて現場視察にやって来るが、ひそかにドリはクォン軍曹に対抗心を燃やしていた。
(クォン軍曹)
 かくしてすべての人々がクンチョンに集まるが、昔のいきさつからジンスクはなかなかチュンジャを信用できない。一体2年前の真相はいかに? そして密輸場所に選ばれたのは、最近サメが出るとして海女たちが恐れていた場所だった…。ということで、驚くべき真相、驚くべきアクションが怒濤のように展開され、やり過ぎ的なお約束の結末に一気になだれ込んでいく。エンタメの極意は「反復」にあるが、この映画も重要な展開はすでに伏線として提示されているので、見事な「反復」に笑ってしまう。
(喫茶店で)
 この映画は2023年韓国映画の興収3位とヒットし、青龍賞で作品賞など4冠、大鐘賞では監督賞を得た。リュ・スンワン監督は『ベルリン・ファイル』『モガディシュ 脱出までの14日間』などを作った人だが、今まで見てなかった。素晴らしい疾走感で見せるが、海洋アクションの凄さも見どころ。まさかホントに海で撮ってるのかと思うが、もちろんプール撮影だという。海女はこんなに長く潜っていられるのかと思うぐらいワンシーンが長い。俳優たちは昔の日本映画を思わせる面構えで懐かしい。そして何より「歌謡映画」という作りになっていて、クンチョンだと昔の演歌っぽく、ソウルだとポップ調。昔の曲だけでなく、新たに作ったのもあるらしいが、見事に乗せられる。ムチャクチャ面白かった。
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タイ映画『ふたごのユーとミー 忘れられない夏』、思春期映画の傑作

2024年07月10日 21時53分32秒 |  〃  (新作外国映画)
 都知事選や都議補選はまだ書くことがありそうだが、ちょっと映画の話。タイ映画『ふたごのユーとミー 忘れられない夏』という映画にとても感心した。多分知らない人が多いと思う。新聞の映画評を読んで見てみたいと思ったけど、僕もそんな映画をやってるのは知らなかった。調べてみると、東京23区内でも新宿ピカデリーと池袋HUMAXシネマズの2館しか上映してない。6月28日公開で、12日からはもう朝か夜の時間しか無くなってしまう。しかし、この映画は奇跡の思春期映画であり、「ガーリー・ムーヴィー」史上に残る傑作だと思う。タイ映画なんて見たことないという人にこそ是非見て欲しい映画だ。

 「ユーとミー」と題名にあるが、これは「あなたと私」ではない。それも掛かっているんだろうけど、タイの少女の名前がユーミーなのである。二人は一卵性双生児で、ホクロがある方がミー、ない方がユーというぐらいしか違わない。だから二人は時々周囲を欺して遊んでいる。食べ放題の店で大量に注文し、途中でトイレに行って交代するとか。この方式で、数学が苦手なユーの代わりに、ホクロを隠してミーが追試を受けた。鉛筆を忘れて困ってたらハーフの男子が鉛筆を折ってミーに貸してくれた。
(ユーとミー)
 何でも一緒の二人だが、そんな二人にも「大人の影」が…。両親の仲がどうもうまく行ってないらしい。二人は夏休みに海外に行きたいのに、今年の夏は母親の実家で過ごすという。それがイサーン(東北地方)のナコンパノム。ラオス国境にあるメコン川沿いの町だ。ミーは昔やった思い出の伝統楽器ピン(三弦の弦楽器)を見つけて、もう一回ちゃんと習いたいと思う。教室に行ってみたら、そこには何と追試で(ミーが)会った男の子マークがいたのである。親切に教えてくれるマークにユーはお熱になるが、彼は実際に追試を受けたのがミーとは知らない。実際に試験で会っていたミーも交えて3人でよく遊ぶようになるが…。
(ユーとミーとマーク)
 世の中は「2000年問題」で大騒ぎの1999年。一応説明しておくと、コンピュータ時代が始まって間もなく、時間設定が1900年代分しか出来てないため、2000年になった瞬間に大問題(飛行機が落ちるとか原発事故が起きるとか)が起きるかもと言われたのである。そして事業に失敗した父と母はホントに離婚するらしい。いつも一緒だったユーとミーだが、父はどっちか一人は父親と暮らして欲しいらしい。姉妹の「三角関係」も、親の離婚に翻弄される話も今までにあったけど、それが一卵性双生児の場合だったらどうなるんだろう。映画ならでは「奇跡」も交えて、二人の夏は劇的に過ぎていって…。そして運命の2000年がやって来る。
(ホンウィワット姉妹監督)
 この映画の監督・脚本は、ワンウェーウ & ウェーウワン・ホンウィワット姉妹という二人。実際に監督たちが一卵性双生児で、二人の経験が脚本にたっぷりつぎ込まれているらしい。世界に「兄弟監督」はいるけれど、「一卵性双生児姉妹」という映画監督は他にいないだろう。とても覚えきれない名前だが、弾けるような思春期の輝きを映像に閉じ込めた奇跡の映画だ。もう一つスゴイ奇跡があって、僕は映画を見ている間ずっと演じているのも一卵性双生児姉妹なんだろうと思っていたのだが、ラストのクレジットを見たら一人になっていた。ティティヤー・ジラポーンシンという2005年生まれの少女の二役だったのである。

 上記画像を見れば、誰でも二人の女優が出ていると思うだろう。むろん現代の技術をもってすれば一人二役も可能なんだろうが、それにしてもこんなに自然に双子を演じ分けるって、演技も演出も半端ない才能だ。マークも新人のアントニー・ブィサレーで、ベルギー人の父とタイ人の母の間に2004年に生まれたという。監督も俳優もフレッシュな魅力にあふれている。当時の歌が流れるが、タイなんだから僕は知らないけど、それでも懐かしい。思春期映画にふさわしいノスタルジックでガーリーなムードに覆われているが、監督の緻密な映像計算にすっかりハマってしまう映画だ。
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映画『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリデイ』、これぞ感動の名作

2024年06月24日 21時49分32秒 |  〃  (新作外国映画)
 『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』が公開された。2024年の米アカデミー賞で作品賞、脚本賞などにノミネートされ、ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ助演女優賞を受けた映画である。アレクサンダー・ペイン監督作品で、この監督とは『サイドウェイ』(2004)、『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』(2013)など相性が良いので期待大。そして期待にたがわぬ心に沁みる傑作だった。今年の外国映画は『哀れなるものたち』『オッペンハイマー』『関心領域』など例年になく傑作ぞろいだが、そういう本格アート映画はやはり見てて疲れる。『ホールドオーバーズ』はその中にあって一服の清涼剤みたいな映画だ。

 時は1970年のクリスマス。ところはアメリカ北東部、ボストン近郊のバートン校という全寮制高校である。アメリカの映画や小説には、こういう学校がよく出てくる。金持ちが子どもを預ける場所である。夏冬の休暇には、ほとんどの生徒が親元に帰る。それを楽しみに窮屈な学園生活を耐え忍んでいるわけである。しかし、中には学校に残らざるを得ない家庭事情の生徒もいる。それが「ホールドオーバーズ」(The Holdovers)で、「残留者」といった意味。そうなると、彼らの面倒を見るため教師も一人残ることになる。今年の担当は母親が難病とか理由を付けて逃げてしまった。そこで、ハナム先生ポール・ジアマッティ)が代わることになるが、彼に言わせればこれは「懲罰」。多額の寄付金をくれた有力議員の息子を落第させたからである。
(ハナム先生=ポール・ジアマッティ)
 ハナム先生は自分もバートン校出身で、古代ギリシャ・ローマ史専攻。いつも大昔の格言なんかを繰り出す浮世離れしたタイプで、せっかくのクリスマス休暇もきちんと勉強させると張り切っている。こういう映画では教師は分からず屋の頑固者と決まってる。料理番として残ったメアリーダヴァイン・ジョイ・ランドルフ)は、何とか息子をバートン校に入れたがお金がなくて大学へ行かせられなかった。息子は徴兵でヴェトナムに送られ、戦死してしまった。バートン校の戦死者の列に加わった最新の卒業生である。悲しみを抱えた訳知りの黒人女性を見事に演じたダヴァイン・ジョイ・ランドルフに助演女優賞が与えられた。
(ハナム先生とメアリー、アンガス)
 生徒は初め4人のはずだったが、突然アンガス・タリーが加わって5人となった。母と再婚した夫が二人だけで新婚旅行に出掛けるからである。その5人組で話が進むのかと思ってると、一人の親がヘリコプターでやってきてスキーに連れてってくれるという。だがアンガスだけ両親と連絡が付かず、居残りを続けることになる。こうして、ハナム先生、メアリー、アンガスの3人になってからが、真のドラマだった。何かと問題を起こすアンガス、孤独なハナム先生もパーティに誘われたり…。そんな中アンガスはどうしてもボストンに行ってみたいと言い出す。ハナム先生は拒むが、メアリーが口添えして「まあ社会見学なら」と許可する。
(ボストンの街頭古書店)
 メアリーも妹に会いに行くと同行するが、二人だけになるとハナム先生は実際に歴史博物館や古本屋に連れて行くから笑える。それでもスケートに行ったり、少しずつ気持ちも通い合う。そんな中で、ハナム先生もアンガスも深い秘密を抱えていたことが判るのだが、そのことがラストで生きてくる。オリジナルシナリオ(デヴィッド・ヘミングソン=アカデミー賞ノミネート)がとても良く出来ていて、この種の物語の定番でありつつも時代相を書き込んでいる。往年のクリスマス・ソングがバックに流れ、外はニューイングランドの雪景色。ラストは予想通りだったが、それでも感動的な展開に良い映画を見たという満足感があった。

 全寮制高校を舞台にした映画といえば『いまを生きる』(1989、ピーター・ウィア-監督)が思い浮かぶ。実際製作者サイドも判っていて、その映画が1958年だったので設定をもう少し後にしたという。1970年はもう半世紀も前のことになるが、変革期として思い出す時代である。だが古風な全寮制高校ではなかなか変化が見えない。しかし、外には熱い変革の風が吹いていた。それなのに映像で美しい学園風景を見ると、無条件に懐かしい気持ちになる。もちろん1970年のアメリカのクリスマス・パーティなんか知らないが、それでも青春は世界共通だからノスタルジーに浸れる。
(アレクサンダー・ペイン監督)
 アレクサンダー・ペイン監督(1961~)は『サイドウェイ』『ファミリーツリー』で2回アカデミー賞脚色賞を受賞したが、今回は他の人に任せている。アイディア自体はペインが着想したようだが、シナリオはデヴィッド・ヘミングソンに任せて演出に専念したのが功を奏したと思う。ハナム先生のポール・ジアマッティはペイン監督の出演が多いが、まさにその人がいるような名演。アンガスはドミニク・セッサという新人で、いかにもスポイルされたようで実は繊細な感じが出ている。知名度のある俳優が出てないから見逃しがちだが、この映画は見た人の心に残り続ける名作になるだろう。
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『情熱の王国』『壁は語る』ーカルロス・サウラ最後の映画

2024年06月19日 21時45分32秒 |  〃  (新作外国映画)
 スペイン映画の巨匠カルロス・サウラは2023年2月に亡くなったが、遺作の『情熱の王国』(2021)、『壁は語る』(2022)が公開されている(渋谷・ユーロスペース)。未公開作品はたくさんあるので、昔に作られた映画なのかと思ったら最近の作品だった。91歳で亡くなったので、実に高齢になるまで元気に作り続けた人なのだ。『カルメン』(1983)で評価され、『血の婚礼』『恋は魔術師』の「フラメンコ3部作」で知られた。後に『フラメンコ』という映画も作ったけど、別にフラメンコ映画ばかり作った人ではない。様々なジャンルの映画を作り、各地の映画祭で受賞した巨匠である。

 『情熱の王国』はフラメンコじゃないけど、ダンスの映画ではある。それもメキシコでミュージカル製作過程をミュージカルにする三重構成の映画。若いダンサーをオーディションで選び、レッスンを繰り返していく。その間に登場人物を通して愛や暴力の世界を見つめる。メキシコはつい最近女性大統領が当選したが、社会には暴力の風潮が強く「マチズモ」(男性優位主義)が根強い。そのような社会に生きる若い世代の悩みも語られる。ダンスの世界と現実の世界を往還しながら、力強い劇世界を構成している。ダンスの練習を繰り返す中で、「現実」の力が作品内に浸蝕してくる。コンテンポラリーダンスの迫力が素晴らしい。2019年に撮影された時には監督は87歳だった。とてもそう思えない若々しい情熱に満ちた映画。第2都市グアダラハラで撮影された。

 『壁は語る』は全然違ってドキュメンタリー映画である。カルロス・サウラ自身がインタビュアーになって、芸術の起源を探る旅を続ける。具体的には幼い頃から接していたスペインのアルタミラ洞窟の壁画である。その他多くの遺跡や洞窟をめぐって、この絵はどうして描かれたかを専門家とともに追求していく。そこからさらに現代のグラフィック・アーティストを訪ね、壁に描く理由を問う。アニエス・ヴァルダの遺作『顔たち、ところどころ』(2017)を思い起こさせる映画だが、ヴァルダは現代を探るのに対し、サウラは過去と現代をつなぐアートの起源を探る。75分と短いが滋味がある。どっちも興味深い映画だ。
(カルロス・サウラ)
 こうしてカルロス・サウラ最後の2作品が日本で紹介されたのはうれしい。貴重な機会を逃さないように書いておく次第。サウラの融通無碍な作風をのぞかせる2本である。自分が前面に出て語る『壁は語る』も面白いと思うが、僕は特に『情熱の王国』がすごいと思った。同じスペイン語圏とはいえ、メキシコまで出掛けて映画を作る。それもミュージカルを作る過程をそのまま映像化することで、老若男女の苦悩を鮮やかにあぶり出す。若きダンサーたちが自分が選ばれたいとオーディションを頑張るシーンなど、実に若々しい演出に驚いてしまった。見事なものである。逝去が惜しまれる監督だった。
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映画『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』、イギリス発の感動作

2024年06月13日 23時26分51秒 |  〃  (新作外国映画)
 火曜日に『トノバン』に続いて見たのが、イギリス映画『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』である。レイチェル・ジョイスの原作は、日本でも2014年本屋大賞翻訳小説部門第2位になったという。しかし一般的には原作も出演者も監督(ヘティ・マクドナルド)も、ほとんど知名度がないだろう。どこかの映画祭で賞を取ったというわけでもない。予告編を見て、キレイな場所だなあと思ったので見たかったのである。そして、これは今年一番の(かどうかまだ知らないが)感動映画だった。お涙頂戴じゃなく、美しい風景の中に「これが人生か」と思わせる。高齢者にも若者にも、是非見逃さないで欲しい映画だ。

 この映画は簡単に言えば、知人女性が末期ガンでホスピスにいると聞いて年寄りの男性が会いに行くという、ただそれだけの映画である。だけど、その距離が半端じゃない。イングランド南西部のデヴォン州から、イングランド東北部まで800㎞を歩いて会いに行くというのである。東京から(電車の距離で言えば)、西へ向かって広島県の福山あたりまで歩くのと同じ。ハロルド・フライジム・ブロートベント)は特に運動もしてない高齢者。しかも突然思い立って歩き始めたから、何の準備もしていない。
(地図)
 昔職場で同僚だったクウィーニーからホスピスにいると手紙が来る。返事を書いて、郵便局に行くと妻に言って家を出た。そして、そのまま突然歩いて会いに行ったのである。なんで? 人生で何もしなかったから、ここでやるんだという。それはいいとして、車や電車じゃダメなのか。お金の問題じゃなく、歩いて行くことに意味があるらしい。そうだとしても、一度家に帰って妻に説明したうえで、靴や服装などウォーキングに向く準備をするのが普通だろう。しかし、「普通」って何だ? そこにドラマがある。

 それにしてもイングランドの農村も都市も美しい。800㎞は嫌だけど、自分も少しハイキングしたくなる。もちろん疲れてしまう。でも助けてくれる人もいる。一緒に歩きたいという青年も現れる。写真を撮っていいかと聞かれて、写真を撮られたら、いつの間にか人気者になっていた。多分SNSに投稿され、そこからテレビや新聞にも取り上げられたということなんだろう。世界中どこも同じである。「巡礼者」(ピルグリム)と胸に書いたTシャツが作られ、皆で一緒に歩くようになってしまった。でも、それだと遅くなってしまう。もう一月以上歩いているのである。結局皆と別れて、また一人歩き続ける。
(巡礼者と評判になる)
 だけどクウィーニーって誰? 何で会いに行くの? 妻は自分が置き去りにされ、何が何だか判らない。妻との家庭は冷えていたようである。過去のシーンがインサートされ、辛い過去があることが次第に理解されていく。クイーニーに会いに行く理由も、やがて判明する。夫婦関係、親子関係、世界中皆同じような悩みを抱えている。そんなことは知っていたけど、改めて深く感じるところがある。
(妻と)
 ハロルド・フライを演じるジム・ブロートベント(1949~)は、『アイリス』(2001)で米アカデミー賞助演男優賞を受けた。戦後イギリスの女性作家アイリス・マードックの伝記映画で、作家の夫役だった。その他、ハリー・ポッターシリーズや『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』のサッチャーの夫など、いろいろ活躍してきた。しかし、今回は「妻の夫」役ではなく、堂々たる主役をやってる。妻はペネロープ・ウィルトンという人で、「ダウントン・アビー」シリーズなど活躍して来たという。監督のへティ・マクドナルドは、主にテレビで『名探偵ポワロ』などを作ってきた。撮影のケイト・マッカラは、今年公開された『コット、はじまりの夏』も撮影している。どっちも風景を見事にとらえていて忘れがたい。
(原作・脚本のレイチェル・ジョイス)
 原作・脚本のレイチェル・ジョイスはテレビ、ラジオ、舞台で活躍してきた女優だったという。この映画の原作が作家デビューで、大きな評判になったという。その後、『ハロルド・フライを待ちながら クウィーニー・ヘネシーの愛の歌』と、妻モーリーンを主人公にした「Maureen Fry and the Angel of the North」(原題・未翻訳)という小説も書いているらしい。なるほど、ハロルド以外の人から見ると、また違っているだろう。とにかく最近出色のロードムーヴィーで、いろいろと人生について考えさせられる。面白くて感動的。
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映画『関心領域』、アウシュヴィッツ収容所の隣の「美しい庭」

2024年05月31日 22時07分27秒 |  〃  (新作外国映画)
 青年座の舞台を見る前に、映画『関心領域』(ジョナサン・グレイザー監督)を見ていた。2023年のカンヌ映画祭グランプリ、2024年の米国アカデミー賞国際長編映画賞の受賞作である。世界各地で非常に高く評価された「社会派アート映画」の傑作だが、そんじょそこらのホラー映画よりずっと怖い。エンタメとして作られたホラー映画は、怖いぞ怖いぞという気分を盛り上げる仕掛けがあざといが、この映画は声高には語らない。ドキュメンタリー映画のように、ある人々を静かに見つめるだけである。ところどころ理解出来ないような描写もあって、少し事前に調べていった方がいいかもしれない。

 『関心領域』(The Zone of Interest)は、第二次大戦中にドイツ軍がポーランドに建設した「アウシュヴィッツ収容所」のルドルフ・ヘス所長一家の生活を描く。彼らは収容所の隣に住んでいる。映画はほぼドイツ語で進行するが、製作はイギリス・アメリカ・ポーランドの合作。イギリス作家マーティン・エイミス(1949~2023)の2014年の小説が原作になっている。(早川書房から翻訳。)ルドルフ・ヘスと言えば、ナチ党副総統で1941年にイギリスに逃走した人を思い出す。しかし、それは「ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘス」で、この映画に出てくるのは「ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス」で別人。
(庭で遊ぶ一家)
 紹介文をコピーすると、「空は青く、誰もが笑顔で、子供たちの楽しげな声が聴こえてくる。そして、窓から見える壁の向こうでは大きな建物から黒い煙があがっている。時は1945年、アウシュビッツ収容所の所長ルドルフ・ヘスとその妻ヘドウィグら家族は、収容所の隣で幸せに暮らしていた。スクリーンに映し出されるのは、どこにでもある穏やかな日常。しかし、壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、音、建物からあがる煙、家族の交わす何気ない会話や視線、そして気配から着実に伝わってくる。壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?」 
(家族を見つめるヘス)
 画面には美しい庭園が見事に映されている。その向こうに壁があり、煙突から煙が出ている。それが何の煙なのか、この映画を見る人は知っている。それでも所長一家はそこで「美しい暮らし」を営んでいる。ヘスは1940年4月にアウシュヴィッツ収容所の初代所長として赴任し、「絶滅収容所」として「整備」した。夫人のヘートヴィヒ・ヘスは、美しい庭園を作り上げ「東方入植者」のモデルを自負する。アウシュヴィッツの社交界に君臨し、まさに理想の生活を送っていた。1943年秋にルドルフは所長を退任し異動するが、妻は納得せず彼は単身赴任せざるを得なかった。その夫婦トラブルがこの映画一番の見どころか。
(所長夫人)
 妻は何も知らなかったのだろうか? いや、そうではないことがセリフの端々にうかがえる。見たくないものを見ないのではなく、自分たちが「上」なんだと思い込んでいる。普通だったら、夫は隠すべき仕事に携わっていると思いそうだ。だが、それなら収容所から遠くに住んで夫だけ「通勤」すれば良い。まさに隣に住んでいて、何も感じないのである。妻を演じたのは『落下の解剖学』でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたザンドラ・ヒュラーで、驚くべき演技だ。夫ルドルフは『ヒトラー暗殺、13分の誤算』(2015)でヒトラー暗殺未遂犯ゲオルク・エルザ―を演じた、クリスティアン・フリーデルという人。
(ジョナサン・グレイザー監督)
 米アカデミー賞国際長編映画賞には、セリフの半分以上が非英語であるという条件がある。それさえクリアーすれば、英語圏の映画でもよく、今までもカナダのフランス語圏映画が受賞している。『関心領域』はイギリス代表としてノミネートされた。(他にも作品賞、監督賞、脚色賞、音響賞にノミネートされ、音響賞も受賞した。)なお、ドイツのヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』は日本代表でノミネート、ドイツの代表でノミネートされたのは今公開中の『ありふれた教室』だった。

 脚本、監督のジョナサン・グレイザー(1965~)は、ニコール・キッドマン主演の『記憶の棘』(2004)やスカーレット・ヨハンソン主演の『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(2013)などを作った人だというが、見てないからどういう人か判らない。何でもへス邸は残っていて、近くにレプリカを建設したという。2021年夏に撮影され、それに合わせて春から庭園を造り始めた。ヘス夫妻は下働きにポーランド人を使っていて、監督は90歳の体験者に会ってリサーチ出来たという。

 この映画を見ていて、どうしてもイスラエルのガザ攻撃を思わずにいられない。その他世界中に「(実際の)壁」や「見えない壁」が存在する。隣で何があっても、見ない人もいる。それは世界中で共通するだろう。『オッペンハイマー』で「被爆者が描かれていない」と評した人は、『関心領域」でも「ホロコーストの実態が描かれていない」と評するのだろうか。そうじゃないとおかしいはずだが。しかし、我々には「想像力」があり、その力は映画を越えて今の現実をも撃つはずだ。
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映画『パスト・ライブス/再会』、24年目の再会を繊細に描く

2024年04月17日 22時19分41秒 |  〃  (新作外国映画)
 映画『パスト・ライブス/再会』(Past Lives)は、米アカデミー賞の作品賞にノミネートされた作品だ。アカデミー賞の作品賞は10本の候補作が選定される。10本になったのは2009年からで、それまでは毎年5本だった(昔の1930年代にも10本があったが)。世界で最も有名な映画賞だけに、候補になっただけでも商業的に有利になる。10本に拡大されたことで、海外作品も毎年のように入ってくるようになった。2024年の候補作では、明らかに『オッペンハイマー』『哀れなるものたち』が抜きん出ていた。5本だったらこの映画のノミネートは難しかったのではないか。

 この映画は先の両作のような、エネルギーに満ちて見る側も疲れてしまう渾身の大作と違い、見ていて切なくなるような「あるある感」満載の恋愛映画である。韓国系アメリカ人のセリーヌ・ソン(1988~)の初監督映画で、自分の実人生を反映しているらしい。若い頃を思い出すと、つらい別れをしたまま再会もままならないような「思い出の人」がいるものじゃないだろうか。そこまで行かなくても、片思いしていた相手が急に転校して二度と会えなかったとか、誰にでも切ない思い出の幾つかががあるものだろう。
(12歳のナヨンとヘソン)
 韓国に住む12歳の少女ナヨンと少年ヘソンもそんな二人だった。成績優秀な二人だが、いつもナヨンがトップなのにあるときヘソンが1位になった。そんな時ナヨンの一家がカナダに移住することになった。その前に親同士が二人を公園に連れて行って思い出作りをさせた。お互い幼いながら好き合っていたのである。移住したのは2000年頃。昔の韓国映画には経済的に外国へ移民するとか、軍事政権に抵抗して亡命するとかいう設定もある。しかし、もうそんな時代ではない。ナヨンの父は映画監督で活躍の場を求めて国を離れただけで、政治的な事情はないのである。

 12歳のナヨンは韓国にいてはノーベル文学賞が取れないと言った。作家を目指していたからである。海外移住を期に英語風の名前に変えることになり、「ノラ」と名乗ることにした。12年後、ノラの母が昔幼なじみがいたよねと言ったのをきっかけにヘソンを探してみる。すると父親のFacebookにナヨンを探しているとメッセージが来ていたのを見つけた。21世紀になった頃からインターネットが普及し、久しぶりに同窓会を開いたなどと言われた。2010年代になると、FacebookTwitter(現X)などのSNSが普及してきて、直接昔の知り合いを探せるようになった。「友だち申請」はしないまでも、検索してみた人は多いんじゃないだろうか。
(セリーヌ・ソン監督)
 そして二人は毎日のように時差を越えてオンラインで話すようになる。ヘソンは兵役についていたときに、昔のナヨンを思い出したのである。しかし、名前を変えていたノラを見つけられなかった。その時ヘソンは工学の勉強をしていた。ノラはニューヨークに移って、若き劇作家として認められつつあった。今はノーベル賞じゃなくて、ピュリッツァー賞が取りたいという。二人は互いに、ソウルに来て、ニューヨークにいつ来るのと会話するが、お互い予定があってなかなか現実の再会は難しい。そこで行き詰まった二人は、一端毎日のような通話を止めようとなった。
(24年目にニューヨークで再会)
 そしてさらに12年経って、ヘソンがニューヨークにやって来る。なんのために? その時ノラはもう結婚していた。24歳のノラが作家のために用意されたリゾートでアーサーと知り合ったのである。そして今はトニー賞が一番欲しい。大人になってからは、ほぼこの3人しか出て来ない。ノラはグレタ・リー、ヘソンはユ・テオという二人で、幼なじみが再会してみれば美男美女だから心が揺れる。アーサーはジョン・マガロ(『ファースト・カウ』の主役)で、これがまた善人を絵に書いたような人物で、久しぶりに幼なじみに再会する妻を温かく見守る。だけど…。

 日本映画には片方が難病になったり、虐待されていたり、災害に襲われたり…という展開が多い。もちろんドラマチックだったり、社会問題を提起するのも大切だ。しかし、この映画は才能ある美男美女がすれ違うだけの物語である。それで十分心に沁みるのは、語り口がうまいのである。ニューヨークが美しく描かれているのも見逃せない。ただし、あまりにも淡彩の映画かなと『オッペンハイマー』を見たばかりでは感じてしまうのも事実。だけど捨てがたいのは、SNSなど現代のツールで再会する設定などに「あるある感」を感じてしまうからだ。でもこの二人はソウルにずっといても、きっと別れていたのではないかとも思った。
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