シネマヴェーラ渋谷でやってるヒッチコック特集で「ロープ」を見たあと、つい最近見た「私は告白する」はパスして、ユーロスペースでアキ・カウリスマキ監督の「希望のかなた」を見た。2017年に見た最後の映画だが、現代性とユーモアを兼ね備えた名作だった。難民問題をテーマにするが、いつもと同じように静かでオフビートな作品で、心に刺さるような感動がある。ベルリン映画祭銀熊賞。
フィンランドの名匠アキ・カウリスマキ(1957~)は、僕のもっとも好きな映画監督の一人だけど、最近は作品が少なく、今まで書いてないと思う。前作「ル・アーヴルの靴みがき」(2011)はフランスを舞台に難民問題を描いたが、「フランク・キャプラ的」とまで言われた「心暖まるラスト」が待っていた。でも、自国以外でそんなにハート・ウォーミングでいいのかな、いくら何でも難民問題はもっとビターな現実があるんじゃないのかと思った。(キャプラは大恐慌時代のハリウッドでウェルメイドなコメディをいっぱい作った巨匠で、人間性への信頼をベースにした感動的な映画を作った。)
(アキ・カウリスマキ監督)
今回は当初は「港町3部作」だったらしいが、結局「難民3部作」になるという。ヘルシンキの港周辺で、シリア人カーリドと食堂の人々の思わぬ出会いを描く。この映画では、密航して来た難民とともに、孤独な初老の男の人生が交互に出てくる。一体どうクロスするのかと思うと、男が場末の食堂を買ってオーナーになる。そこへ難民と認定されなかったカーリドが現れ、彼らはカーリドに職場を提供することになる。いつものカウリスマキ映画のように、不器用で世渡りのヘタそうな人々ばっかり出てくるが、とても自然にカーリドを受け入れてしまう。
カーリドはシリア北部の町アレッポで家族をミサイルで失った。政府軍か反政府軍か、アメリカかロシアか、ヒズボラかISか、どこが撃ったミサイルだか判らないけど、帰ったら妹以外の家族が全滅していた。外出していて難を逃れたカーリドと妹は、ともに国外に逃れてヨーロッパを転々としながら、ハンガリーで襲撃され妹を見失う。ポーランドのグダンスク港で襲われ、船に乗ったらフィンランドに着いた。カーリドを演じたシェルワン・ハジ(1985~)は実際にシリア人だが、ダマスカスの演劇学校を出たあと、フィンランド人と結婚して内戦の始まる前の2010年に来ていた。素晴らしい存在感。
(机左がカーリド)
このお店を買ったものの、流行ってないから何とかしたい。今は何が受けるんだ。それはスシだろうと、本を買ってきて見様見真似でスシを作るというシーンもある。ワサビを大量に魚の上に乗せるところなんか大笑いできる。アキ・カウリスマキ監督は何度も日本に来ていて、ひいきの寿司屋もあるというから、もちろんちゃんと知っていてやってる。そんな中で、カーリドを襲う極右(「フィンランド解放軍」を背中に書いてある)もいる。そして妹は見つかるのか、常にカーリドは気に掛けている。
(皆ではっぴを着てスシ屋に)
そんな日々はいくらでも劇的に語れるだろうけど、いつものカウリスマキの「ミニマリズム」で描かれている。俳優は感情をあらわにせず、大げさな身振りをしない。セリフもカメラもぶっきらぼうで、説明的なシーンは少なく、どんどん進んでいく。フィンランドの俳優たちも、いつものように全然美男美女ではない人ばかりが選ばれている。そんなカウリスマキ映画が久しぶりでうれしい。
思えば、「レニングラード・ボーイズ・ゴー・アメリカ」に抱腹絶倒し、「マッチ工場の少女」にしみじみしたのも、1990年前後だろうか。「浮き雲」や「過去のない男」など「敗者」に寄り添った映画を作って来た。だから、難民に冷たいヨーロッパに幻滅し、怒りを覚えている。インタビューではジャン・ルノワールの「大いなる幻影」に言及し、映画にそんな力はないけど世界を変えたいと語る。この映画を見ただけでは世界は変わらないけど、そんな監督の映画があることは伝えたいと思う。
村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」でフィンランドに行く場面がある。主人公はフィンランドっていったら、シベリウスとマリメッコとノキア、そしてアキ・カウリスマキしか知らないと語る。村上春樹のエッセイにもカウリスマキが出てくるが、レイモンド・カーヴァーのような「ミニマリズム」系だから好みなのも判る。カウリスマキ映画には日本がよく出てくる。「ラヴィ・ド・ボエーム」のラストに「雪の降る街を」が流れた時にはビックリしたけど、「過去のない男」でもクレイジーケンバンドの曲が使われた。今度も日本の曲も出てくる。いつものように犬も出てくる。
フィンランドの名匠アキ・カウリスマキ(1957~)は、僕のもっとも好きな映画監督の一人だけど、最近は作品が少なく、今まで書いてないと思う。前作「ル・アーヴルの靴みがき」(2011)はフランスを舞台に難民問題を描いたが、「フランク・キャプラ的」とまで言われた「心暖まるラスト」が待っていた。でも、自国以外でそんなにハート・ウォーミングでいいのかな、いくら何でも難民問題はもっとビターな現実があるんじゃないのかと思った。(キャプラは大恐慌時代のハリウッドでウェルメイドなコメディをいっぱい作った巨匠で、人間性への信頼をベースにした感動的な映画を作った。)
(アキ・カウリスマキ監督)
今回は当初は「港町3部作」だったらしいが、結局「難民3部作」になるという。ヘルシンキの港周辺で、シリア人カーリドと食堂の人々の思わぬ出会いを描く。この映画では、密航して来た難民とともに、孤独な初老の男の人生が交互に出てくる。一体どうクロスするのかと思うと、男が場末の食堂を買ってオーナーになる。そこへ難民と認定されなかったカーリドが現れ、彼らはカーリドに職場を提供することになる。いつものカウリスマキ映画のように、不器用で世渡りのヘタそうな人々ばっかり出てくるが、とても自然にカーリドを受け入れてしまう。
カーリドはシリア北部の町アレッポで家族をミサイルで失った。政府軍か反政府軍か、アメリカかロシアか、ヒズボラかISか、どこが撃ったミサイルだか判らないけど、帰ったら妹以外の家族が全滅していた。外出していて難を逃れたカーリドと妹は、ともに国外に逃れてヨーロッパを転々としながら、ハンガリーで襲撃され妹を見失う。ポーランドのグダンスク港で襲われ、船に乗ったらフィンランドに着いた。カーリドを演じたシェルワン・ハジ(1985~)は実際にシリア人だが、ダマスカスの演劇学校を出たあと、フィンランド人と結婚して内戦の始まる前の2010年に来ていた。素晴らしい存在感。
(机左がカーリド)
このお店を買ったものの、流行ってないから何とかしたい。今は何が受けるんだ。それはスシだろうと、本を買ってきて見様見真似でスシを作るというシーンもある。ワサビを大量に魚の上に乗せるところなんか大笑いできる。アキ・カウリスマキ監督は何度も日本に来ていて、ひいきの寿司屋もあるというから、もちろんちゃんと知っていてやってる。そんな中で、カーリドを襲う極右(「フィンランド解放軍」を背中に書いてある)もいる。そして妹は見つかるのか、常にカーリドは気に掛けている。
(皆ではっぴを着てスシ屋に)
そんな日々はいくらでも劇的に語れるだろうけど、いつものカウリスマキの「ミニマリズム」で描かれている。俳優は感情をあらわにせず、大げさな身振りをしない。セリフもカメラもぶっきらぼうで、説明的なシーンは少なく、どんどん進んでいく。フィンランドの俳優たちも、いつものように全然美男美女ではない人ばかりが選ばれている。そんなカウリスマキ映画が久しぶりでうれしい。
思えば、「レニングラード・ボーイズ・ゴー・アメリカ」に抱腹絶倒し、「マッチ工場の少女」にしみじみしたのも、1990年前後だろうか。「浮き雲」や「過去のない男」など「敗者」に寄り添った映画を作って来た。だから、難民に冷たいヨーロッパに幻滅し、怒りを覚えている。インタビューではジャン・ルノワールの「大いなる幻影」に言及し、映画にそんな力はないけど世界を変えたいと語る。この映画を見ただけでは世界は変わらないけど、そんな監督の映画があることは伝えたいと思う。
村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」でフィンランドに行く場面がある。主人公はフィンランドっていったら、シベリウスとマリメッコとノキア、そしてアキ・カウリスマキしか知らないと語る。村上春樹のエッセイにもカウリスマキが出てくるが、レイモンド・カーヴァーのような「ミニマリズム」系だから好みなのも判る。カウリスマキ映画には日本がよく出てくる。「ラヴィ・ド・ボエーム」のラストに「雪の降る街を」が流れた時にはビックリしたけど、「過去のない男」でもクレイジーケンバンドの曲が使われた。今度も日本の曲も出てくる。いつものように犬も出てくる。