尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「ディーパンの闘い」

2016年02月29日 23時30分10秒 |  〃  (新作外国映画)
 2015年のカンヌ映画祭パルムドール(最高賞)のフランス映画、ジャック・オディアール監督「ディーパンの闘い」が公開されている。さすがに最高賞だけある傑作であり、大変な力作だと思うが、一言で表すならば、深い内容を持つ「問題作」だと思う。問題作という表現は、テーマは重要だが完成度に難があるという印象を与えるかもしれないが、そうではない。映画としての完成度も高いと思ったが、中味の話がとても重大で軽々しくコメントできない感じである。

 この映画を一言でいうと、「フランスに来たスリランカ難民家族の物語」である。近年ずっと、特に昨年後半以来、「難民問題」は世界の焦点である。だけど、それはシリア内戦を逃れた難民が多い。民族的にはアラブ人で、宗教的にはイスラム教。フランスにとって、「イスラム教との関係」というのも、昨年来焦点になっている。そういうことを考えると、「スリランカ難民?」という感じもある。大体なんでスリランカで難民が出るのか、きちんと理解している人が日本にどれくらいいるだろう。監督の名前で呼べるほどの知名度もなく、カンヌ受賞で売るしかないけど、観客は少なかったのが残念。

 スリランカ内戦の話は後で書くけど、とにかくインドの南にある島国から多くの難民が出たのである。時間的には90年代から21世紀初頭の事。そして、この映画の主人公たちは、家族である方が難民審査を通りやすいということで、女が親のない子どもを探し、一人の男を見つけて「偽家族」を作る。そして、フランスに渡ることができたのである。その男、どうやら反政府ゲリラだった過去を持つようだが、それが題名にもなる「ディーパン」である。そして、彼の妻としてやってきた「ヤリニ」は、実はイギリスにいとこがいてフランスには来たくなかった。親が殺された女の子「イラヤル」は偽の母に不満を持つが、子どもを持ったことがないヤリニは対応が判らない。

 難民が偽の身分を申請することは、多分あるんだろうけど、テロリストの潜入を恐れる今のヨーロッパの心情からすれば、実にシビアな設定である。この偽家族は、対外的にはまとまりのある良い家族を装うが、内情はバラバラである。だけど、さすがにフランスは懐が深いと思ったのだが、ディーパンには仕事が用意されている。パリ郊外の公共アパートの管理人である。そして、ヤリニにも認知症老人のヘルパーという職が与えられる。ディーパンは思ったより責任感が強く、管理人として住民にも受け入れられていく。ヤリニも「食事が美味い」と評判がよく、彼らは地域に溶け込めるかのようである。

 ところが、今度はこのアパート周辺で銃撃戦が起きる。地域を仕切っていたのは麻薬の売人たちである。どうも彼らの間でトラブルがあるようだ。そして、内戦を逃れてきたはずなのに再び災禍に巻き込まれそうな恐れ。ヤリニは耐えられずイギリスに去ろうとするが、ディーパンはフランスで生きていくしかないと認めない。駅まで追いかけて行って、パスポートを取り上げてしまう。だけど、そんな彼らをもっと本格的な銃撃戦が襲い、ヤリニはアパートの中に取り残されてしまう。そんな彼らはこの環境を生き抜いていけるのか。そして「本当の家族」になる日は訪れるのだろうか。

 フランスでは「郊外地区の荒廃」という話をよく聞く。ニュースで時々暴動が起きたとか出てくるし、もう20年も前のことになるが、オディアール監督とも関わりの深いマシュー・カソヴィッツ監督「憎しみ」(1994、カンヌ映画祭監督賞)という映画が評判を呼んだ。だけど、ここまで荒廃の度が凄まじいのかとビックリした。アメリカ犯罪映画のスラムのようである。それがどこまで現実を反映しているかは判定できないが、これでは内戦下の国々と似たような状況である。難民問題を描く映画が、いつの間にかフランス社会への批判になっている。だけど、フランスの状況も民族や宗教の違いで理解しあえない状況が背景にあってのことだろう。だから、スリランカで起きたこととフランスの状況は共通性がある。それは異文化との共生は可能かという問題である。

 と言いつつ、実は男と女も「異文化」、大人と子どもも「異文化」。ディーパンはフランス社会と向き合いつつ、まずは偽家族という「異文化」と向き合って行かないといけない。そのあたりの問題設定の深刻さがハンパじゃない。映画は映画なりの答えを用意しているが、現実はもっとシビアなんだろうと思う。ジャック・オディアール(1952~)は、「真夜中のピアニスト」「預言者」「君と歩く世界」なんかを作った人。僕はカンヌ映画祭グランプリの「預言者」しか見ていないが、「ノワール映画」、つまり犯罪社会が関わるような映画が多いという。この映画も同様だが、演出力は確か。

 スリランカでは、多数民族のシンハラ系と少数民族のタミル系の対立が続いてきた。70年代から、インドに近い北部のタミル人地区で分離独立運動が起こり、80年代には反政府組織「タミル・イーラム解放の虎」と政府軍との闘いが激化した。いろいろな経緯があったが、21世紀になって政府軍の攻勢が強まり、2009年に政府軍が全土を掌握し、内戦が終結した。その後、コミュニティ再建のための復興が進められ、国際的な支援があるということは知っているが、果たしてうまく進んでいるかは知らない。

 主演のディーパンを演じるアントニーターサン・ジェスターサンは実際に反政府ゲリラで活動していたといい、16歳の時にタイを経てフランスに渡ったという。その後作家として活動しているという。実にリアルな演技だが、まさに「地」だったのだろう。ラストにキャストがクレジットされるが、全く読み取れない。とても覚えられない名前である。妻のヤリニを演じるカレアスワリ・スリニバサンはインドのチェンナイ(マドラス)に生まれたタミル系女優だそう。娘のイラヤルは、カラウタヤニ・ヴィナシタンビ。全然覚えられそうもない名前だなあと思った次第。
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若い世代への「思いやり予算」を-18歳選挙権⑦

2016年02月28日 21時20分04秒 |  〃  (選挙)
 「18歳選挙権」問題の続き。今、多く語られているのは、若い世代、特に高校生に、どのような「主権者教育」を行っていくべきかといった議論である。そこでは、政治を理解することは大事だから、若い世代もきちんと理解しなくてはいけない。学校もきちんと教えないといけないといった論調になりやすい。そう言われると、これは反論が難しいから、何となくそういう風になっている。

 一方では、高校生が政治集会に参加することの是非、届け出制にするとかしないとか、そんな議論もある。多くの高校生は忙しい上に関心もないから、どうせ参加しない。そういう意識がある生徒がいたら、届け出なんかしないで参加するだろうから、意味がない。昔から、デモに行く高校生もいた。しかし、政治集会やデモって何なのだろうか。選挙権があるんだから、政治に関する合法的な集まりに参加するのは自由じゃないかと思うが。

 そういうようなつまらない議論をしているうちに、「若者支援政策」を競い合うという本来あるべきことが起きてない。240万人もの新有権者が生まれるのだから、そういう有権者向けの政策が出てこないとおかしい。若い世代は、あらゆる政策を全部勉強するよりも、「若者政策」で判断すればいいのではないか。農家だったら農業政策で判断するのは当然だろう。特に参院選は、大きな団体は推薦候補を擁しているから、自分たちの代表を当選させる活動をする。若い世代は年齢的に立候補できないから、自分たちの代表を送り込めない。でも、「若者支援政策」を基準にすることはできる。

 「若者支援政策」とは何だろう。一つは「就労支援」だけど、それ以上に緊急性が高いのは「高等教育への支援策」、もっと簡単に言えば「大学教育の無償化」である。アメリカ大統領選で、民主党のサンダース候補は「公立大学の無償化」を主張して若い世代の支持を集めているということだ。それと同じように、日本でも大学教育への支援を掲げる政党がなぜ出てこないのか。民主党政権時代の経験から、国民の方も「財源はどこにあるのか」というシビアな目がある。財源をはっきりさせないと無責任と言われて逆効果になりかねない。

 そういう恐れがあるから、野党側も打ち出せないのかもしれない。僕だったら「米軍への思いやり予算より、若い世代への思いやり予算を」と言いたいところだが、実際に政権を取ったら米軍思いやり予算を減額することは確かに難しいだろう。実現性に加えて、イデオロギー的反発も予想されるから、そういうことは言わないほうがいいのかもしれない。でも、若い世代の人々は言う権利がある。アメリカ軍を「思いやる」んだったら、なんでもっと若い世代への「思いやり予算」がないのかと。

 一挙に高等教育の無償化は難しいとしても、奨学金の給付化、あるいはせめて日本学生支援機構の有利子奨学金の無利子化。すでに貰っている人も含めて、せめて利子をなくす程度の支援はできるのではないか。今は奨学金の利子も昔の感覚で考えられないほど低い。利率固定型と利率見直し型があるようだが、0.1%から0.6%程度になっている。もっとも育英会時代の奨学金を受けていた人には、1%以上の利子も残っている。これは現在の金利水準からすれば、高すぎるのではないか。

 そういうことを「民主党」は主張しないのだろうか。本来だったら、民主党政権下でほとんど唯一とも言える今も基本的に継続されている「高校無償化」(今は所得制限が付けられたが、それでも多くの高校生は無償となる)を宣伝しないのだろうか。高校生には受けるはずだと思うのだが、「民主」の名前もなくなるかもしれないんだから、もう政権時代のことは触れられたくないのかもしれない。別に何党でもいいのだが、総合的な若者支援政策を打ち出した党に、若い世代が投票すればいいのではないか。そして、本来は安保問題以上に緊急性の高い学費や奨学金の問題でこそ「学生緊急行動」を組織するべきだ。圧力団体なく自発的に政策を打ち出す政党はそんなにはないのが現実なのだから。
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「見た目」で入れてはダメなのか-18歳選挙権⑥

2016年02月27日 21時54分23秒 |  〃  (選挙)
 「18歳選挙権」問題がまだ残っているので、簡単に。合わせて書こうかと思ったけど、分けた方がいい気がしてきたので、2回書くことにする。その後で「補論」を書く。「投票率」や「投票行動」の予測を書いたけど、それ以前に「投票基準」という問題がある。そして、マジメ主義の学校空間では、この「投票基準」を高くし過ぎてしまう可能性がある。マジメに勉強して、安保論争も理解し、経済や外交や社会保障などの争点も全部理解してないといけないかのように、キャンペーンしてはいけない。

 そんな人は大人にもほとんどいないだろう。でも、日本では選挙の通知が送られてくるから、やっぱり行った方がいいだろうと思って、かなりの人が行くわけである。中には「見た目で入れる人」もいる。それはダメなんだろうか。知り合いから頼まれて、よく知らないけど入れる人に比べて、そんなに間違ったことなんだろうか。でも、「見た目」で入れてはいけないと指導しちゃう教師はいそうである。選挙後にそう公言する生徒がいたとして、厳しく叱ったりしたためにトラウマ化して以後選挙に行かないなんて…そんな人が出ないかと心配したりする。

 「高校生が投票する」ことを過大に評価して、教育を変えるなどと意気込むのもどうかと僕は思っている。今までだって、定時制課程の高校では、成人生徒がいっぱいいた。僕が強調していたのは、「社会参加の一種」として行ってみたらということである。何党に入れるとか、政治的見解をしっかり持つということも大事だけど、それより「まず行く」ことが大事なんだと思う。それは社会的に孤立しがちな若者層が、社会と接点を持つということである。だから、定時制高校で生徒がようやく通えるようになって、そして選挙にも初めて行ったなんて聞くのは、社会科教師としてとてもうれしいことだった。

 ところで、だから行けばいいと言っても、実際は大人の多くも「見た目で入れる」のである。特に参議院の比例区はいろんな人がいるから、「見た目」や「イメージ」が結構大きい。各党だって、それを意識して、人気があったり、知名度がなくても「若くて、見た目がいい」候補者を立てるではないか。でも、学校というところは、「見た目」ではなく、「実質を見極めて」という場所である。上級学校や会社選びなんかでも、「イメージ」や「見た目」、つまり「制服で私立高校を決める」とか「オシャレっぽい大学を受けてみる」などというのは、進路指導では受けが悪い。

 だから、逆に言えば「見た目リテラシー」を育てる機会がない。これは実はとても大事なことではないか。もっとも、実際の選挙を題材に、各党の党首や学校のある場所の候補者の「見た目印象度」を語り合わせるという授業はできないだろう。でも、現実の人間関係では、「見た目」でダマされないように、「見た目リテラシー」を育てる必要もあると思う。その意味では「読書」も大事だけど、本の中の人物は容貌が判らないから、マンガや映画、テレビドラマなんかでいい教材がないか。特に思いつかないが、例えば「12人の怒れる男」。陪審制度や冤罪の危険性という観点で、授業でも使ったことがある。それをストーリイで見るというのではなく、被告少年や各陪審員を最初に「見た目」で判断してみる。その後、映画を最後まで見て、最初の印象をチェックするとか。

 芸能人、俳優なんかだったら、見た目で判断するのも当然と思われている。だけど、「政治家は違う」。と言っても、見た目で判断する方法を教えられているわけではないから、「見た目」でごまかされてしまう。そういうことの繰り返し。昔、1986年に当時の中曽根首相が、衆参同日選を仕掛けて大勝利したことがあった。同日選は考えていないと言い続け、一時は諦めたといい、「死んだふり」解散と言われた。諦めたとされた時期には「私がウソをつく顔に見えますか」とまで言ったものである。だけど、結局解散に踏み切った。ウソだったのである。そして、「大型間接税は導入しない」と公約して大勝利し、次の竹下内閣が総選挙をせぬまま消費税を導入した。私がウソをつく顔に見えますかと言った時点で、僕にはウソをつく顔にしか見えないよと思ったけど、多くの国民はそう思わなかったのである。政治家の「見た目リテラシー」を有権者も鍛えていかないと、昨今の自民党議員の「暴言」「不祥事」を見抜けないということになるだろう。
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恩地孝四郎展と「ようこそ日本へ」展

2016年02月27日 00時24分55秒 | アート
 東京国立近代美術館で、近代の抽象版画の大家、恩地孝四郎の本格的な展覧会が開かれている。28日までなので、今日行ってきた。ところで、同じ28日まで「ちょっと建築目線で見た美術」という展覧会と「ようこそ日本へ」という展覧会も開かれている。時間がなくて「建築目線」の方を見る時間がなかったのだが、「ようこそ日本へ」展が面白かったので、そっちから紹介。
 
 これは副題を「1920-1930年代のツーリズムとデザイン」と言い、大正から昭和戦前期の日本観光のポスターを中心にした展示である。そんな時代に国際観光があったのか。第一次大戦後の国際協調時代ならともかく、1929年の世界恐慌以後は世界は戦争の時代へと傾斜していく。日本も満州事変をきっかけに国際連盟を脱退し、国際的孤立の道を歩む。という視角だけで見ると、当時の日本政府が国際観光を呼びかけているのが不思議に思えるが、実際は連盟脱退で円安が進行し、観光客が訪れやすくなっていたという。そして、1936年にはベルリンで五輪が開催され、1940年には東京で五輪が開催される予定だった。円安と五輪、今と同じではないか。

 違うのは、当時の日本イメージはもっと広かったということである。つまり「大日本帝国観光」である。「帝都東京」と「古都京都」、「霊峰富士」などと並び、朝鮮半島の金剛山、台湾の新高山(玉山、富士山より高い当時の「日本一の山」)、そして大連ヤマトホテルに泊って翌日から「特急あじあ号」で「満州国」の観光へ。それもまた日本観光の目玉だった時代なのである。だから「日本海時代」などというポスターまで作られた。いやあ、時代に先駆けているではないか。そのポスター。
 
 現在のJTBである「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」ができたのもこの頃。国立公園制度だって、この国際観光振興のために作られたのである。もちろん、飛行機で来る時代ではない。大型商船で来るのである。だから、商船のポスターが多い。実に魅力的である。そういう「忘れていた」、あるいは「忘れたかった」日本観光のイメージを再確認できる。なお、この前「春の夜の出来事」という映画について書いた時に触れたけど、赤倉観光ホテルや蒲郡ホテルなど、今も残る国際観光ホテルがいっぱい作られたのもこの頃。そういうクラシックホテルに泊まってみれば、少し時代の追憶に浸ることができる。

 恩地孝四郎(1891~1955)の方は、いっぱい版画(だけではないが)が並んで、満腹。僕にはうまく表現できないんだけど、この世界的な版画家の全貌が展示されている。萩原朔太郎の「月に吠える」の装幀を担当したことでも知られる。北原白秋や室生犀星など多くの作家・詩人の本を装幀した。それらも大量に展示されている。戦中にはやはり「戦争版画」を作っていた。「大東亜会議」に来たビルマのバー・モウの肖像版画もあった。戦後になると、抽象が温かい感じになっていき、見ていて飽きないし、癒されるような作品が多かったので、ホントはもっとゆっくり見たかった。ちょっと体調がいま一つで、若い時期はなんだかじっくり見る気になれなかったのが残念。そこから、今度は同じ国立近代美術館でもフィルムセンターへ回って「尻啖え孫市」を見て帰るが、映画を見ているうちにだんだん体調が戻ってきた。(美術館のある竹橋のあたりも、80年前の「2・26事件」の舞台だったが、美術館で使ったコインロッカーの番号が「226番」だったことに開けるときに気づいた。
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神吉拓郎「洋食セーヌ軒」

2016年02月25日 23時24分57秒 | 本 (日本文学)
 神吉拓郎(かんき・たくろう、1928~1994)という作家がいた。1984年1月に「私生活」という作品で直木賞を受けた。僕は10年ぐらい前に直木賞作品を系統的に読もうかと思って探したことがあるけど、もう新刊文庫からは消えていた。図書館に行ったり古書を買ったりするほどでもないかと思って、一度も読んだことがない作家である。その神吉拓郎の「洋食セーヌ軒」(1987年)という作品が光文社文庫に入った。なんだか面白そうな感触がある。読んでみたら、やっぱり絶品の極上本だった。書かずに終わるのももったいないので、簡単に紹介。

 「食」にまつわる小説は、今はいっぱいある。一種のブームと言ってもいい。映像化されることも多い。だけど、この作品が書かれたのは、30年ほども前。バブル時代に近いけど、そういう豪華な食ではなく、人生のさまざまな時点で親しみを持ったカキフライ天ぷらうなぎ、あるいは中華街の小さな店や鮎を食べさせる宿なんかである。そして、それにまつわる人生の記憶。1928年生まれというから、「国民学校」(1941年から小学校の事をこう言った)の思い出がよく出てくる。そんな世代の話。

 それにしても、実に美味しそう。そして、名文。解説にもあるが、冒頭が素晴らしい。17の短編が収められているが、最初の話「それにしても、見事な虹鱒だった」から、もう話に捕らわれてしまう。「洋食セーヌ軒」という標題になっている短編は「駅前の眺めは、以前とはかなり変わっていた。」と始まる。昔住んでいた町である。そこにある「セーヌ軒」のカキフライが美味かったと思い出し、久しぶりに行こうかと思う。果たして、そもそもまだあるのか…。中央線沿いにある「欅の木」、羽田近くの天ぷら屋、懐石料理のようにできたてのデザートを届ける小さな店「プチ・シモーヌ」とは…。

 思い出の逸品もあれば、本格派の料理もある。素材が上質だったり、凝ったつくりだったり。でも、すべて上品なもので、いわゆる「B級グルメ」的な食べ物でも、語りで上品になっている。出てくる人間関係も割合さらっとしていて、後腐れしない。そこが程よく味わえる極上感のもとだろう。多分、若い時に読んでも、そんなに面白くなかったかもしれない。どうも、年取ってから読んだ方が面白いかもしれない。そう思うと、年取るのも案外悪くないではないかという短編集である。

 神吉拓郎は、永六輔、野坂昭如などと三木鶏郎のトリローグループにいた人で、俳人、ラグビーファン、食通として知られたという。僕は名前ぐらいは知っていたが、同時代には全く読まなかった。食にまつわる本もまだあるようである。これは珍しい本を発掘してくれたものだと感謝。スラスラ読めて、人生を感じて、美味しそう。お得な本だと思う。
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映画「俳優 亀岡拓次」

2016年02月25日 21時18分59秒 | 映画 (新作日本映画)
 いつも脇役しか回ってこない「最強の脇役」亀岡拓次という俳優の生活と夢を描く映画「俳優 亀岡拓次」。ロードショーは明日までなので、やっと見て来た。亀岡拓次役は安田顕という実際に脇役が多かった俳優で、ずいぶん舞台、テレビ、映画に出ていたようだけど、僕は知らなかった。昨年公開された北野武監督「龍三と七人の子分たち」にも出ていて、僕も見ているが認識していなかった。

 映画のほとんどは、映画のロケ、あるいは舞台劇の場面、それもリハーサルばかり。それが終わると亀岡は飲みに行く。家の近所(調布)でも行きつけがあるし、ロケに行けばそこでも飲む。そして、諏訪のロケで行った飲み屋では、魅力的な女将、というか家に戻って父を手伝っているだけの女性(麻生久美子)になんだか惹かれてしまったよう。「安曇」(あづみ)っていう名前も長野らしい。でも俳優だと言えず、つい「ボーリング場に球を売りに来た」とか言っちゃう。重いでしょと言われて、いやカタログだけとかなんとか。なんだかいい気持ちになって、独り者の夢がふくらむ。

 映画は街中のアクション映画とか、時代劇とか、いろいろ。大した役ではなく、やってるうちに役が変わってしまったり。でも、チョイ役でも頑張っている。現場に奇跡を呼ぶとか言われている。舞台は出ないんだけど、オファーが来たからやることにして、劇団陽光座に出かける。座長は松村夏子。これが三田佳子がやってて、演出兼主演で亀岡を指導する。亀岡は映画向きだと言われてしまうけど。一方、時代劇を撮る大御所の古藤監督は山崎努。飲み過ぎて臨んでお堀に落ちたりしつつも、良かったよと言われる。三田佳子や山崎努の出番は少ないけど、儲け役を悠々と演じている。

 一方、憧れの巨匠、スペインのアラン・スペッソ(もちろんフィクション)が来日していて、亀岡の出た映画が良かったとオーディションに呼ばれる。そこらへんはファンタジックな感じの作り。麻生久美子へのほのかな憧れは、やっぱりという展開だけど、また逢いに行く熱心さはきっとどこかで生きるのかな。それとも、やっぱりどこでも飲みに行くというのは、良くないのかも。「バックステージ」もの(舞台裏)映画の一種だけど、そういう話は大体実は恋愛映画だったりする。でも、この映画はそうなりそうもない実生活を中心に描く。そこが変わっているし、ちょっと長いかもしれない。

 監督は横浜聡子(1978~)で、2008年の「ウルトラミラクルラブストーリー」以来の長編映画で、この監督は僕はそれしか見ていない。なかなか面白い脚本を書いたなあと思ったら、オリジナルじゃなくて原作があった。戌井昭人(いぬい・あきと)の2011年の小説で、最近毎回のように芥川賞にノミネートされている作家である。劇作家でもあり、俳優でもある。この映画にも出ているということだけど、何の役だか知らない。横浜監督は長編は「ジャーマン+雨」があり、その他短編をいくつか撮っている。この映画はまずは題材の面白さがあり、脇役俳優という存在を意識させられるという意味で、面白かった。音楽は大友良英が担当。
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10代が「改革の党」自民に投票する日-18歳選挙権⑤

2016年02月23日 23時49分43秒 |  〃  (選挙)
 投票率を見たので、続いて10代の「投票行動」を。もちろん、現時点では候補者や争点も出そろっていないので、当然これから変わっていく部分がある。そういうことがあるとしても、今のところどうなりそうかを予測しておきたいと思うのである。現時点では「若い世代も政治を学ぼう」キャンペーンみたいなものはあるが、「若い世代」に向き合った政策を打ち出している政党はないように思う。そうすると、このまま推移すると、「10代特有の事情」からしても、一般的な動向からしても、やはり半数程度は自民党に入れるのではないか。さまざまな調査結果からすると、20代の自民党支持率は高くなっている。10代だけ、他世代と全く違う投票行動を行うとは予想できない。

 先に結論を書いてしまったけれど、年長世代の思い込み、あるいは「期待」からすると、意外かもしれない。今の60代以上の世代だと、高年層が自民党、若年層が社会党や共産党が多い印象があった。当時の大都市に多かった「革新自治体」も若い有権者の支持が高かったと思う。昔の感覚からすれば、若い時期は反体制的なものであり、若い時は「革新支持」、それが社会経験を経ると「現実的」になり「保守支持」になると通説的に思われていた。

 また、一部の「脳内ヴァーチャル右翼」のような人々がいつもいて、教育界は左翼教員組合に牛耳られていて、反日偏向教育を行っているなどと気勢をあげる。そうすると、大学や高校に在学している若い有権者は、教師の影響を受けて民主党(日教組が支持)や共産党(全教が支持)に入れなくてならない。しかし、もちろんそんなことがあるわけがない。大体、そうだったら、戦後ずっと自民党政権が続いている理由が判らない。組合組織率も3割強しかないのに、そんな影響があるわけがない。

 それ以上に、若い世代だって自分で判断するわけだし、教師より親の影響の方がイマドキずっと大きいだろう。もっとも基本的なことは、若い世代(に限らないが)は、「学校で教えていること」は「世の中のタテマエ」の部分であり、「校門内だけで通じる」ものだと思っているだろうことである。そうじゃないとアルバイトもできない。大学生なんかだと、やっぱり自分の先生はサヨクなのかなと感じてレポートなどは適当に合わせていても、投票所では違う行動を取る場合も多いだろう。「秘密投票」も普通選挙の大事な要素だと学校でも教えているわけだし。

 では、「SEALDs」(シールズ)などの昨年来の若者の活動は影響しないのだろうか。いや、そんなことはないだろう。当然一定の影響はあると思う。だけど、新しく増える約240万の新有権者のどれだけに浸透するだろうか。昔の「60年安保」も「全共闘」も、絶対数から言えばその当時の若者のごく少数(1割程度)しか関わっていない。当時の大多数を占めていた「都市の若年層労働者」は無関係である。現在でも、「安保問題が最大の争点」だと考えているのは、少数の意識層に限られているだろうと思う。もっとも意識層以外の人でも、調査で聞かれれば「集団的自衛権には反対」「原発には反対」と答えるかもしれない。だが、そのことを最優先して投票行動を取るかどうか。他の世代ではそうなっていない。当然10代もそうだろう。それがリアルな認識だと思う。

 では、10代にとって「10代特有の事情」とは何だろうか。それは数年以内に「就職活動」があるということである。早ければ現役高校生の就職希望生徒、ついで専門学校や短大の就職、そして2020年前後に4年生大学生の就活がやってくる。20年近く、「就職氷河期」と言われてきた。それがこの数年ようやく上昇してきたのである。多くの国民の認識は「アベノミクスが一応成功しているからではないか」ということだと思う。いや、違う、「アベノミクス」は失敗するという学者もいる。確かに全然物価上昇率の目標など届かない。「デフレ」が終わったと言えない状況が続いている。大体、民主党政権でもGDPは上昇していた。日本経済は、リーマンショックや東日本大震災からの自律的回復を続けていると見るのが正しいのかもしれない。だけど、企業業績は向上し、就職事情も好転したのは間違いない。

 それに「復興」や「五輪」を契機にして、大学や専門学校が多い大都市では「求人難」がはっきりしている。それに伴い、「アルバイト賃金の上昇」が続いている。特に、クリスマス商戦がある12月のアップが大きい。当然、今年の夏の学生アルバイト事情も好調だろうと予測できる。高年齢層では、社会福祉や実質賃金の減少などがあるから、世論調査では「景気快復の実感はない」という声が強い。だけど、生計維持者ではない学生層にとっては、アルバイトの時給が上がっていることは、「アベノミクスの恩恵」と映るのではないだろうか。ほとんど唯一、そういう「アベノミクス実感層」である可能性がある。

 だけど、若い層は本来、保守的であることを嫌い、新し物好きではないのか。それはそうだろう。だから、民主党が新しい感じを持っていた時代には、若者は民主党に入れていた。イデオロギー的な対立軸がはっきりしていた時代には、資本主義経済体制を維持する自民党に対して、社会主義を主張する党が「革新」だった。だけど、とっくにそういう時代は終わっている。今は主に政策イメージで、決められる。民主党は一回政権を取って、その時代を忘れていない国民は、今では新しいイメージが消えてしまった。共産党は同じことを言い続けて古いイメージを持たれていたが、最近になって候補を若くしたことなどもあり、若い有権者にとって「新しく発見された」感じもある。

 一方、一番「新しい」イメージを持たれているのは、実は自民党ではないかと思う。「日本を取り戻す」というのだから、「新しい」というより「古い」というべきだろうが、それでも大体の事柄を「変える」と主張している。憲法を変えるし、古い労働法制を変えるとも言う。TPPでは「攻めの農業」と言い、教育や税制なども変えると言う。反対派(というか僕自身)から見れば、それは「悪く変える」ことでしょうと言うような内容ばかりである。でも、野党側があれもこれも「守る」と言うことと比べてみれば、イメージとしては、民主、共産、社民などが「保守党」、自民党こそ「革新党」に見えるわけである。

 労働法制を変えたり、「女性が輝く」というのは、どういうことだろうか。若者が正社員に採用されず、ずっと非正規で働かなくてはいけない。それはどうしてか。それは古い労働法制で守られた高年齢層がいるのと、中国などの影響である、と宣伝される。でも、実際にさらに企業よりのルールになれば、相当優秀な学生以外は正社員になれない。企業はむしろ外国人社員を採用するだろう。その上、今まで家計を支えていた父親もリストラされてしまいやすくなる。それでは困ると言うなら、主婦だった母親がパートに出ればいいというのが「女性が輝く」ということだろう…などと僕は思ってしまうのだが、そういう時に「中国が悪い」などと言えば安心できる人もいるのだろう。

 ところで、今後本格的に「若者政策」を打ち出す党もあるかもしれない。また、最近そういう機運もないではないが、やっぱり自民党がおごっている、議席が多すぎるから気が緩むのであって、少しお灸をすえておかないといけないというムードが高まるかもしれない。そうなると、若い層は「自民の投票」=ダサいとなるから、若者票は逃げていくだろう。それでも、経済事情が一定の好調を示しているかどうかがベースになる。若者層であっても、それが第一の投票基準(自分ではそう思ってなくても)になっていくだろうと思う。現時点での予測ということで。
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10代の投票率はどうなるか-18歳選挙権④

2016年02月22日 23時53分16秒 |  〃  (選挙)
 学校の平和主義の問題を次回と書いたけど、それは補論だから最後に回して、投票率と投票行動の問題を先に書いておきたい。まず、今回選挙権を得る人々はどういう人か。

 18歳と19歳だから、生年で言えば、1996年から1998年に生まれた人である。1997年生まれは全員が該当するけど、その他の年は違う。1996年生まれは、誕生日が来れば20歳だから、今までも選挙権が得られる。だけど、7月末頃に予定される参議院選挙までに生まれていないと、今までは選挙権はなかった。だから、1998年8月~12月に生まれた人が新しく選挙権を得る。1996年生まれは反対に、1月~7月生まれの人が選挙権を得る。

 高校や大学は義務教育ではないから、18歳、19歳にはある程度多様な生き方がある。今は中卒で正社員に採用されることはほとんどないだろうけど、働いている青年もたくさんいる。その中には、定時制や通信制の高校に通っているものも多い。だけど、全日制高校を中退したままアルバイトをしたり、あるいは無業のものもいる。専門学校に行っているものもいるし、高卒認定試験を経て大学進学を目指しているものもいる。病気だったり、いわゆる「引きこもり」のものもいる。一方、スポーツや芸能活動に打ち込むために高校に行ってない若者も結構いる。さらに、5年制の高専に通っているものにとっては、ようやく学校生活も半分すぎたぐらいである。さまざまな人生がある。

 そうは言っても、全日制高校に通って卒業する人が圧倒的多数であることは間違いない。高校進学率は97%を超えているが、高校中退率は2%程度とされている。ここでは、高校のあり方を考えているわけではないので、一応「全日制高校に通う生徒」を中心に考えてみることにする。

 上では生まれた年で見たが、学校は年度だからまた違ってくる。「1998年4月~7月」生まれの人は、高校3年に在学中である。(新有権者の6分の1)。「1997年4月~1998年3月」生まれの人は、高校を卒業したばかりで、大学や会社など新しい進路が始まったばかり。(新有権者の2分の1)。「1996年8月~12月」生まれの人は、高校を卒業して1年以上経ち、新しい学校や会社に慣れたところ(あるいはすでに辞めてしまったところ)である。(新有権者の3分の1)。さて、高校卒業後の進路は、約54%が大学進学(4年生または短大)、23%が専門学校等、17%が就職となっている。そうすると、新有権者の約半数が大学在学中ということになる。だけど、その多くは大学入学間近で、地方から大都市に出てきたばかりの人も多い。住民票を移さない人も多い。また、移した時期によっては、実家に選挙権がある。ちょうど、大学の試験の時期とかぶるので、どれだけが実家に戻るかは疑問だろう。

 だけど、今回の新有権者は、かなりの数の人が大学や高校に在学している。ということは「もう一回選抜がある」という意識が強い。大学進学や就職面接のためには、初めての選挙に行った方が得だろうか。今回は「選挙権引き下げ」がかなり世の話題となっている。「メモリアル意識」もあるだろうし、「世の中の話題」には乗っておく方がいいと考えるか、どうか。新有権者の半数ほどは、これから卒業のシーズンを迎える。校長の「贈る言葉」(「学校長式辞」という)では、ほぼすべての校長が「新しく選挙権が与えられることになった意義を十分に考え、国民としての責任を果たして欲しい」…などと言ったことを語るのではないか。そんなもの聞いてないと言えばそうだろうが…。

 学校やマスコミでは、選挙に行くときは選挙公報やインターネットや新聞などで、各候補の主張をよく調べ、比較検討し、マジメに勉強して行かないといけないなどと論じがちである。大体、教師や記者などは「タテマエ」が通りやすい職場だから、本気で言ってる人もいるだろう。「若者の投票率が低い」などと言うと、「高齢者の方がマジメに社会を考えている」「若者ももっと真剣に社会のことを考えるべきだ」などと怒ったような発言もある。でも、60代の方がマジメなのか?マジメに新聞を読んでいるのか、などと考え始めると疑問だらけである。

 もちろん、実際は違う。そういう「マジメ系」有権者は、いつの世代にも一定数はいるだろう。でも、実際は「所属組織の推薦候補」だからというだけで入れる人も多い。そのためには「所属組織」がなくてはならない。若者は正社員が少ないから、会社側の候補も組合側の候補も知らない。それを言えば、60代はもう退職してるんじゃないかとなるが、今までのさまざまな経験から「入れる党」が決まっていたり、これまでの「恩義」にこたえる投票行動をしたり、忙しくなくなった分選挙に行きやすいと考えられる。また、人生経験の中で「投票依頼」を受ける人間関係も広いということがある。若い層では「政治はダサい」意識があるから、自分では選挙に行っても知人に電話をかけまくる人は今は稀だろう。(昔はいたんだけど。そういう迷惑なヤツが。)つまり、社会経験が長くなればなるほど、さまざまの「社会関係の輪」が出来てくるから、高齢層の方が投票率が高いと考えられる。

 それを考えると、若年層も問題だけど、昭和時代には8割を超えていた60代の投票率が、今は6割台になっていることの方が大きな問題かもしれない。高齢層を選挙に行かせる「共同体感覚」が崩れているということだし、「孤立化」しているということを示すだろう。それはともかく、「マジメ系」以外も選挙に行かせる社会関係が10代にはあるか。そう考えると、高校や大学に在学しているということは、かなりの「圧力」になるのではないかと考えられる。投票率が下がったといっても、それでも国民の半分ぐらいは行くわけだし、世論調査すると「必ず行く」「できたら行く」で7割にはなる。「やっぱり、行った方がいいこと」だとされているのである。そして、学校に所属することは、具体的な候補名を挙げて頼まれるわけではないけど、選挙には行くべきだ的な圧力にはなるだろう。

 という風に考えると、試験が忙しい、実家に帰る余裕がない、アルバイトが忙しい、あるいは暑いから面倒とか、どんどん下がっていくだろうが、20代よりは高くなると思う。今回はメモリアル意識が出てくるから、20代が3割台のところ、5割前後には達するのではないかと予想しておきたい。
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「教師への罠」にご用心-18歳選挙権③

2016年02月21日 22時49分48秒 |  〃  (選挙)
 「18歳選挙権」が、改憲へのスケジュールの中で実施されるという見方からすると、次にどのようなことが起こるかを見ておきたい。まず、安倍政権の考える「憲法改正」は「賛否が拮抗する可能性が高い」と考えられる。国民の3分の2が本当に賛成しているようなテーマだったら、国民投票を心配する必要もない。一方、今直ちに「改正」しようとすると反対が多いだろう「9条」などは最初は手を付けないと思われる。だけど、苦労して改正するのに「環境権」を加えるだけとかでは、保守派の側では物足りない。「緊急事態条項」など、衣の下に鎧がチラチラ見えるテーマも入るだろう。

 国民一般にとっては、なかなか賛否を決めにくい条項をいくつかまとめて問う可能性が高い。だから、国民が自分で考えることが必要なわけだが、そう言っても実際は難しい。そういう時に国民の動向に大きな影響を与えるものは何か。まずはマスコミだけど、特にテレビ。新聞は別にいい。新聞の社説を読んで決める国民なんていないんだから。どうせ読売や産経は賛成する。(というか、改憲スケジュールそのものに関わっていくはずだ。)朝日や毎日は反対するだろうけど、それでいい。中央紙がまとまって賛成でもしたら、かえって欧米に「日本はロシアや中国と同じ異質な国だ」と思われかねない。だから、有力紙がいくつか反対するのは、改憲を実現するためには必要なことだと思われる。

 だけど、テレビは違う。誰が見るか判らない。新聞と違って、賛否を決めかねる、あるいは投票に行くかどうかも判らない国民が、見るともなく見る。去年来、テレビのニュース番組に政府、保守系から攻撃が繰り返されてきた理由はそこにあるだろう。最近、高市総務相が「電波停止」にたびたび言及しているのも、単に7月の参院選を考えての事ではないだろう。それだけだったら、むしろ批判を浴びないように穏当な発言に留める方が利口である。だけど、国民投票前にコワモテ発言をすれば、かえって逆効果である。だから今から言って、テレビ界が委縮してしまうように「躾けている」のである。

 そう考えてみると、次にもう一つ「学校現場」というか、「教員」をこの機会に委縮させておかないといかない。必ず、そういう風な動きが出てくるはずである。そこで、うっかり政権側の思惑を読み違えて、一生懸命「主権者教育」を頑張ったりした教員が血祭に挙げられるんだろう。まあ、公立高校なんかはすでに「制圧」されているかもしれない。だから、「国立」や「私立」のような、自分たちが標的になると思ってないところで、炎上し始めるかもしれない。

 学校で朝日新聞を取っている。(大学受験に一番出るという話だから、そういう高校は多いだろう。)だから、朝日の社説をコピーして、「新聞の社説を読んでみよう」なんて授業をする。たまたま学校に朝日があったから使っただけでも(そういう問題意識や情勢判断が全くない教員も中にはいる)、親の中には「偏向教育が行われている」と保守系議員や産経新聞に通報する人がいると思わないといけない。(ちなみに、僕は学校図書館が朝日だったから、授業で比較検討させるため「読売も取ってくれ」と予算請求して却下されたことがある。だから、新聞の授業をするときは、自分で買っていった。)

 それと、教員というのは、学校の中だけで生きている。だから、「タテマエ」で社会を見る度合いが強い。また生徒も普通は「生計維持者」ではない。だから、原発などを討論させると、「理想論」を出してきやすい。「今すぐ完全に廃止する」という「現状の政治情勢では実現が難しい考え」が一方にある。もう一方に、「科学の発展で、絶対確実に安全な原発と放射性廃棄物処理の技術が必ず開発できる」などと言いだして引かない生徒が出てくる。そういう中で、つい「段階的に減らしていく」などという生徒がいると、「穏当」だと思って評価してしまいやすい。そうすると、電力会社の親がいて、この授業について校長は知っていたのかなどと言い始めるのである。

 どこに落とし穴があるか判らないと思って、最近はいつでもそうなんだけど、特に「18歳選挙権」問題は要注意で進んで行かないといけない。政権側は必ず仕掛けてくると思う。しかし、まあ、それは逆に考えると、「学校の先生」が「戦後平和主義」の重要な担い手だということでもあるだろう。それは一体どういう意味があるのだろうかということを次回に。 
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改憲の予行練習-18歳選挙権②

2016年02月19日 23時57分03秒 |  〃  (選挙)
 1回目で見たように、「18歳選挙権」は世界の大勢である。日本でも、全党が賛成して全会一致で成立した。こういう問題は、世界はこうなってるぞと示すと、「わが党は若者に人気がないから反対である」などとは言えない。どの党も、「党利党略の問題ではないが、引き下げられても若者の票はわが党に集まるだろう」とタテマエで対応するしかない。

 その結果、「大変いいことだ」「日本の教育を変える機会だ」などと積極的に評価する人も少なくないように思う。教育界では、昨今「アクティブ・ラーニング」などと言って、知識詰め込み型ではなく、「生徒が主体的に学ぶ」方向に教育を変えるんだと言われている。選挙権が18歳に引き下げられれば、高校在学中に選挙に行くわけだから、高校の授業の中でも、「政治への関心を深め、選挙で自ら判断できる力を育てるような教育」をしなくてはいけないというわけである。

 しかし、そういう理由で選挙権が引き下げられたのだろうか。僕にはとてもそういう評価はできないように思う。この問題は、時系列的に見て行けば、「改憲日程」と密接に連動するものではないか。どういうことかというと、日本で最初に18歳選挙権が国政レベルで議論されたのが、「国民投票法」制定時のことなのである。憲法改正時の国民投票のあり方を決める「国民投票法」、正式には「日本国憲法の改正手続に関する法律」は、2007年5月14日に参議院で可決されて成立した。日付を見れば判ると思うが、それは第一次安倍内閣の時のことである。

 それまで改憲時の国民投票のやり方は、法的に定められていなかった。それでは「政治的に無責任」だと安倍首相は考えたのだろう。要するに「改憲ムード」を高める手段だったわけである。そして、この時に「国民投票は18歳以上」と決められた。憲法は長い期間にわたって国のあり方を縛るから、出来るだけ多くの国民、若い世代の声が国民投票に反映されるべきだということである。これも「正論」だから、世界の大勢を見れば、反対できない。ただし、その時は附則がついていて、「選挙権そのものが18歳以上に引き下げられていない時期に行う時は、現行の20歳以上で行う」となっていた。だから、別に引き下げずに20歳以上でいいわけだけど、やっぱり本則で18歳以上とある以上、改憲投票が20歳ではカッコが付かない。後で「結果に正当性があるのか」などと言われかねない。

 この「国民投票法」は、自公の与党多数で成立したものだが、「18歳選挙権」条項が入ったのは「野党向け」「国民向け」のポーズでもあったろう。その当時は自民党は高齢男性の政治家が多く、若手や女性をそろえた民主党の方が若者受けすると思われていた時代である。だから、18歳選挙権というのは、「国民投票」のイメージアップ(「改憲」はとかく「戦前への復古」的に批判されるけど、実は「未来志向的」なもんなんですよといった)であり、「改憲へのハードル」にもなっていた。

 だから、安倍政権が本格的に選挙権引下げを行うということは、「いよいよ改憲スケジュールが本格的にスピードアップしてきたぞ」と受け取るべき問題ではないか。そして、18歳選挙権の最初が改憲国民投票では困ったことがいっぱいある。選挙事務も面倒だし、高校現場の対応も手探りになる。だから、その前に国政選挙で「予行練習」しておかないといけない。18歳が選挙に行くというのが当たり前だというムードを作っておくわけである。日本では20歳になれば、役所の方で有権者名簿に自動的に登録する。2歳も引き下げれば、今回の新有権者は今までに比べて2倍以上増える。その面倒な事務作業を、憲法改正で行うのでは不満も起きようが、参議院の通常選挙では文句の言いようもないだろう。

 そして問題は「教育」である。「改憲国民投票であるかもしれない教育界の反対運動」をあらかじめ封じ込める役割。つまり、「偏向教育キャンペーン」のためのきっかけ作り、教育界に仕掛けられた罠ではないだろうか。これはまた別にくわしく書きたいと思う。

 なお、最後に簡単に「憲法改正」について書いておきたい。今「改憲」という言葉で書いてきた。確かに、「憲法の改正」というやり方で行われるわけだけど、本当の問題は「改憲」ではない。最近は「憲法をずっと変えないのがいいというわけではない」とか「より良い憲法を考えていくのはいいことだ」みたいなことを言う人が増えたような気がする。もちろん、それ自体は正しい。僕も現行憲法がそのままで完全だなどと考えているわけではない。だから、その意味ではずっと「改憲派」である。でも、現在の政治情勢をリアルに認識すれば、僕のいう「真の憲法改正」など実現する可能性は皆無だろう。

 安倍首相が総裁を務める自由民主党は、憲法改正案を公表している。自民党案は、天皇を元首とし、「日の丸」を国旗、「君が代」を国歌と憲法で規定し、自衛隊を国防軍とし、「家族の尊重、家族は互いに助け合う」規定をおく。選挙区は人口を基本としながらも「行政区画を勘案」と一票の格差を容認し、地方選挙に国籍条項を新設する。国の「領土保全」義務を明記し、国民も協力するとされる。公務員の労働基本権の制限を憲法で明記する。そして、憲法改正の発議を3分の2から、過半数に引き下げる。というトンデモ改憲案ではないか。

 これは「軍事国家への道」であり「権威主義的な人権無視国家への道」以外の何物でもない。最初はすべてを変えることはできないだろう。だけど、安倍首相の最終的な目的はそういうことであり、それは別に隠してもいない。だから「軍事国家化への改憲反対」と正しく言うべきだろう。参議院選挙の最大のテーマは、「改憲勢力」を減らすということである。
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18歳選挙権問題①基礎データ編

2016年02月18日 23時05分21秒 |  〃  (選挙)
 選挙権年齢が18歳に引き下げられた問題について、数回書いておきたい。昨年に決まった時には書かなかったけど、実際に施行される時期が近づいてきた。まず、最初はこの問題の基礎データ編。

 「18歳選挙権」は、7月に行われる参議院選挙から実施される。参議院選挙は任期満了で行われるので、必ず7月半ば以後に行われる。選挙日程が決まった時点で、選挙翌日までに18歳になるものに選挙権が発生する。選挙翌日生まれだと、普通に考えると、選挙当日は17歳である。翌日が18歳の誕生日のはず。だが、法的には「翌日の0時以後に生まれたもの」に18歳としての権利を認めることになっている。「18歳」とは「18年間生きた」ということだから、誕生日前日=投票日が18年に達した日になる。1月1日生まれの人は、12月31日で「一年間生きた」ことになり、翌日の元旦は1年と1日目になる。)

 4月に衆議院の補欠選挙が行われる。(今のところ、北海道5区と京都3区が予定されている。)これは「20歳以上」である。なぜなら、2015年6月19日公布の公職選挙法改正で、一年後から施行と決められているのである。6月から7月にかけて、どこかの地方で市区町村長選挙が行われたとしても、それも20歳以上で行われる。「施行日後初めて行われる国政選挙(衆議院議員の総選挙又は参議院議員の通常選挙)の公示日以後にその期日を公示され又は告示される選挙」から実施と書いてあって、国政の通常選挙が最初に18歳が投票する選挙なのである。(参院選告示後に行われる地方選挙は例外。)

 該当者は、約240万人と言われている。正確な数を知ろうと思うと、かなり難しい。人口統計は今後の経済、教育、社会保障などの重要な基礎データだから、探せばさまざまなデータが出てくる。だけど、それらは大体「誕生年」か「誕生年度」で数えた数値である。でも、選挙は年度途中だから、本当は「1996年8月から1998年7月に生まれた日本国民」をカウントしなければならない。厚生労働省の統計を丹念に見て行けば判るかもしれないが、そこまで細かく調べる気は起きない。恐らく、各マスコミ等も、単純に「18歳人口」と「19歳人口」を足しているのではないか。

 96年生まれは約120万、97年生まれは約119万、98年生まれは約120万である。これは生まれた数だが、死亡者は少ないだろうし、月により誕生人口がものすごく違うとも思えないから、やっぱり概ね240万ということで大きな間違いはないんだろう。(ちなみに、戦後直後のベビーブーム時代は260万人以上生まれていて、1952年まで200万を超えている。その後1971年から74年までの4年間が200万を超えて、第二次ベビーブームとなった。その後、さらに減っていって、2005年からは105万人を割っている。)

 ところで、世界各国の選挙権年齢を調べてみると、圧倒的に「18歳が世界標準」になっている。サミット参加国国連安保理常任理事国はすべて18歳。(中国にも選挙はあり、18歳から選挙権とされている。しかし、それは地方レベルの選挙などで、国政における普通選挙はない。)インド、オーストラリア、スイス、スウェーデン、スペイン、イスラエル、トルコ、メキシコなどすべて18歳である。19歳が韓国20歳が台湾、チュニジア、モロッコ、カメルーンなど。21歳からのシンガポール、パキスタン、マレーシアなど、25歳からのアラブ首長国連邦などもある。

 一方、もっと若い国もあって、16歳からがオーストリア、キューバ、キルギス、ニカラグア、ブラジル。17歳からが、インドネシア、北朝鮮、スーダン、東ティモールとなっている。恐らく、日本人のほとんどは「日本が世界でも選挙権年齢が高い国」になっていたことを知らなかただろう。だから、「何で引き下げるのか、判らない」などと今でも言う人がある。世界では、20歳以上にしている主要国はどこにもない。そして、そのことを日本の若者自身がほとんど意識していなかった。だから、今回の引き下げも「勝ち取った」ものではなく、「世界の流れに合わせるべきだ」的な気分で決まってしまった。

 最後に「年齢別投票率」について。よく、若い人は選挙に行かず、高齢層は投票率が高いと言われる。実感として正しそうだし、ほぼ常識になっているだろう。でも、それを具体的に裏付けるデータはあるのだろうか。これは検索すればすぐ見つかる。だけど、全国すべてを調べたものではなく、そういう大変な調査はさすがにやられていないようである。データは、標準的な投票率を示している地区を抽出して総務省が調べたものだという。それによると、先の指摘は全く正しいことが判る。

 2014年12月の衆議院選挙を例にとると、20代は32.58%。順を追って見ていくと、30代=42.09%、40代=49.98%、50代=68.02%、60代=68.28%、70代以上=59.46%となる。60代が一番高く、20代の倍以上ある。人口そのものが倍ぐらい違うのだから、実際の投票者の違いは4倍ぐらいになるだろう。70代以上は下がっていくが、まあ、それは高齢になればなるほど健康問題が大きくなるということだろう。いつの選挙を見ても、大体同じような傾向だから、とりあえず「若い人は選挙に行く人が少ない」というのは間違いなさそうである。

 と言っても、ここまで「倍」の差がついているのは、特にこの四半世紀、「平成」と言われる時代の特徴である。昭和最後の衆議院選挙となった1986年の中曽根内閣の衆参同日選を見てみると、20代はやはり一番低いのだが、それでも56.86%と半数以上は行っていた。ただ、60代はさらに行っていて、85.66%になっている。その後、80%台を続けて、だんだん70%台になり、ついに68.28%と7割を切ったのが、前回の選挙。60代の投票率も下がっているのである。近年一番高かったのは、2009年の民主党「政権交代」選挙で、ほぼ7割に近い投票率だった。その時は、30代も63.87%が行っている。だが、20代は49.45%とわずかではあるが5割に達していない。このように、全体的に投票率が下がっているのだが、特に20代が低いというのが、データから見えてくる。その理由はまた別に考えたい。
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都教委、4校の夜間定時制廃止を決定

2016年02月17日 20時42分41秒 |  〃 (東京・大阪の教育)
 2月12日の東京都教育委員会の定例会で、夜間定時制4校(小山台、雪谷、江北、立川)の募集停止が決定された。正式に言えば、「都立高校改革推進計画・新実施計画」が決定されたということになる。(都教委HPにある「都立高校改革推進計画・新実施計画」の策定についてを参照。)

 この問題に関しては、昨年に計画が発表された時に、「都立高「改革」・全定併置は「解消」するべきなのか」という記事を書いた。(2016.11.29)東京の新聞には、今回の決定が掲載されているが、その他の地域ではあまり出てないかと思うので、前に書いた記事の事後報告。

 この問題に関しては、その後、短期間ではあるが反対運動が起こり、反対の署名約12,000人分が提出されたり、有識者80人ほどによる反対声明が出された。その中には、山田洋次氏や大村智氏が含まれている。また、東京弁護士会の反対声明も出た。検索すれば、さまざまな記事が見つかるが、一応、東京新聞の2月13日の記事を紹介しておきたい。

 都教委に対する意見募集の結果と都教委のコメントも発表されている。だけど、言ってしまえば、同じことの繰り返し。都立中学の育鵬社教科書採択など他の問題とすべて共通で、初めから対話する意思はないと思わざるを得ない。(だから、ここにリンクは貼らない。)都教委が決めた計画は、手続き上「都民の意見を聞く」というプロセスを経るが、変えることは想定されていないだろう。反対運動が起きる、では、呼んで意見を聞き、一緒に考えてみよう…などという、他の組織では存在する仕組みが全くない。国会では参考人を呼んだり、公聴会を開く。それに意味があるかと言えば、まあ「タテマエ」でやっているというのに近いが、それでもそういう仕組みはあるわけだ。

 今年の定時制高校一次試験の倍率も発表されている。当該校を調べてみると、小山台は60人中、16人(0.27倍)、雪谷は30人中1人(0.03倍)、江北は60人中、16人(0.27倍)、立川は90人中49人(0.54倍)となっている。立川は1倍を超える年もあるが、今年は半分ぐらい。雪谷に至っては1人しか出願していないから、閉課程もやむを得ないようにも見えるが、この地域には比較的近くに他校があるから、もうすぐなくなる、後輩も入って来ないという学校だから敬遠されているのか、それは判らない。例年、一次試験で1倍を超えるのは、工芸高校定時制のグラフィック・アーツ科で、30人中35人と今年も1倍を超えている。また、葛飾区にある農産高校定時制も近年希望が多く、30人中33人と1倍を超えている。

 このような結果を見て、だから「夜間定時制は希望が少ない」と決めつけるのは早計である。例年、ずっとこのような倍率傾向が続いている。だから、一次試験では募集人員が埋まらず、かならず大量の二次募集がある。それなら、1回目は他の全日制高校や三部制高校を受けてみようか、受けさせてみたいとなるのは当然である。もしかしたら受かるかもしれない。落ちたら、その後で定時制の二次募集を受ければいいわけである。しかし、今のような戦略が成功するには、ある程度の学力が必要である。「障害」があったり、外国出身で日本語が不自由な生徒は、二次募集では落ちてしまうかもしれない。それを逆に言えば、必ず定員割れする一次募集においては、「日本語による高校教育」が難しいような生徒であっても、学力検査を受ける程度の学力、体力があれば、合格できる可能性が高い。

 都教委は、夜間定時制を減らしても、チャレンジスクールを増設したり、募集増を行うからいいのだと言っている。しかし、今年のチャレンジスクール(三部制総合学科の定時制高校)の倍率は、合計で1.57倍となっている。学力検査を行わず作文で選考するチャレンジスクールでは、作文能力が低い「障害」「外国」生徒の合格は極めて難しい。(似たような性格の三部制高校もいくつもあるが、皆1倍を超えているので、やはり学力検査で落ちるだろう。)そんなことを都教委の担当者が知らないわけはないから、要するに「障害生徒」は高校ではなく特別支援学校の高等部に行けばよく、外国出身生徒は(成績が高い生徒は国際高校などで対応するが)基本的には対応しないというのが、この方針の本質だと思う。人数で言えば非常に少数ではあるが、「誰を排除するのか」という問題設定で見えてくるものがある。
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ヘニング・マンケル「霜の降りる前に」

2016年02月15日 21時54分31秒 | 〃 (ミステリー)
 スウェーデンのミステリー作家、ヘニング・マンケルの「霜の降りる前に」(創元推理文庫、上下巻)が刊行された。作者のヘニング・マンケルは、昨2015年10月5日に亡くなった。その時に、「追悼ヘニング・マンケル」という記事を書いておいた。ヘニング・マンケルは、特に北欧ミステリーのファンには名前が知られているだろうけど、日本では一般には広く知られているとは言えないと思う。でも、ミステリーというより社会問題を扱う著者の問題意識、あるいは長くアフリカで活動した経歴、人権活動家として活動し、地雷廃絶を訴える児童文学を書いたことなど、もっと広く知られてもいいと思う作家である。
 
 今回の「霜の降りる前に」は、代表作のクルト・ヴァランダーものの第10作目の作品である。もっとも今までに翻訳されたのは8冊しかない。つまり、順番を飛ばして、2002年刊行の本が先に翻訳されたわけである。というか、この作品は同じ警官を目指すことになった娘リンダ・ヴァランダーが中心となる作品だから、一種の「外伝」と言ってもいい。リンダはもうすぐ父と同じスウェーデン最南部のイースタ署に勤務することが決まっているが、正式にはまだ警官ではない。そんな時期に、スウェーデンを揺るがす捜査に関わることになってしまったのである。なぜなら、昔からの友人アンナが行方不明となり、事件と何らかの関わりがあるのではないか…と疑問が大きくなっていくからである。だから、正式な警官ではないが、事件関係者の知人を探すということで関わっていくわけである。

 この親子はなかなか問題が多い。ずっと読んでいる人には判っていることだが、親は離婚し、父の生活にも母の生活にも問題が多い。娘もなかなか生涯の仕事やパートナーが落ち着かず、当初は家具職人になりたいなどとも言っていたのだが、30歳も近づくころになって、小さい時に離れてしまった父親と同じ職業、それも警察官という仕儀とを目指すことになったのである。といった登場人物の人生もずっと読んでいると興味深くて、それがシリーズものをずっと読む楽しみだろう。

 でも、それよりも事件の中身。ある日、白鳥に火が付けられ、続いて農家が飼っている仔牛に火が付けられる。続いてペットショップが放火され…。一方、森に消えた女性の残虐な死体が発見される。リンダの友人アンナは、ちょうどその頃、幼い頃に出て行った父を見かけたと動揺し、そのまま行方が分からなくなる。といった不思議な出来事が相次ぐのだが、これらにはどんな背景があるのだろうか。そして、さらに別の事件が起きるのだろうか。という風にして、捜査が始まっていく。

 この小説で扱われているのは、「カルト宗教」による大規模なテロ事件という問題である。今は宗教テロというと、まずイスラム教を思い浮かべてしまうだろう。だけど、ある時期まで、世界的に大きな問題だったのは「キリスト教系カルト教団」で、特に南米のガイアナで集団自殺したことで知られる「人民寺院」などが有名である。そして、この小説の中では、人民寺院事件でただ一人生き残った人物という設定になっている。そういう人が何でスウェーデンと関わるのかは小説で読んでもらうとして、ここで描かれる「宗教とテロ」という問題は非常に重い。2002年に出たこの本のラストは、事件が一段落した2001年9月11日に、警察内で皆がテレビを見ているシーンである。もちろん、ニューヨークのワールドトレードセンタービルにハイジャックされた飛行機が突入した、あの忘れがたい日である。

 それだけで、この小説の意味が伝わると思うが、複雑になる世界、問題が多い家庭、そんな世界を救うとする「宗教」の意味、刊行されてから10年以上経っているが、少しも色あせない問題意識である。でも、まあミステリーだから真相を知りたい、この後はどうなるとページをめくり続ける読書。ヴァランダー・シリーズも後は残り2冊。早く読みたいようなそうでもないような。その前に闘病記の「流砂」という本が今秋に出るらしい。ミステリー以外のマンケル作品ももっと読みたい。柳沢由美子さんの翻訳はいつもと同じく、とても読みやすい。無理なき範囲で、今後も翻訳が継続されることを期待したい。
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山田洋次監督「母と暮らせば」

2016年02月14日 22時56分05秒 | 映画 (新作日本映画)
 山田洋次監督(1931~)の84本目の作品だという「母と暮らせば」をようやく見たんだけど、さあ、この映画をどう評価しようか。僕にはちょっと難しい。もちろん悪くない。見る前から判っている程度に、非常に感動的である。見れば泣けてくる。泣ける度合では、昨年公開の日本映画でも屈指だろう。原子爆弾の非人道性というテーマも、もちろん何度も繰り返して訴えるべきものだろう。例えば、主演の「嵐」の二宮和也(力演)が見たいからと、いつもなら「戦争もの」を敬遠するかもしれない若いファンが見てみようと思うんだったら、それでいいではないか…。とまあ思うわけではあるが…。

 この映画が素晴らしいのは、何より丁寧に作られたセットに、こだわりを持って集められた小道具が存在する空間。そこに流れる坂本龍一のレクイエム。映画を見たなあという気持ちになる。もちろん、そういうものばかりが映画ではないわけだが、今ではほとんど絶滅寸前の映画作りである。今回はCGも巧みに織り交ぜながら、「1945年8月9日」の長崎、そしてその3年後の日々を描いて行く。

 だけど、話は判っている。井上ひさしの戯曲「父と暮らせば」(1994)とその映画化「父と暮らせば」(2004、黒木和雄監督)をちょうど裏返しにしたような物語である。井上ひさしは、その後沖縄を描き、さらに長崎も描きたかったそうだ。しかし、書きあげる前に亡くなってしまった。沖縄の物語は「木の上の軍隊」(井上ひさし原案、蓬莱竜太作)として舞台化された。一方、長崎の物語はどうなるとも決まっていなかっただろうが、題名は「母と暮らせば」だと言っていたという。今回の脚本は山田洋次と平松恵美子が共同で書いている。(平松は「学校Ⅳ」から山田作品の脚本を手掛け、「武士の一分」以後の劇映画は、次回作「家族はつらいよ」を含め、すべて共作者に名を連ねている。)

 ということで、「父と暮らせば」なんて知らないと言われてしまったらそれまでだけど、まあ、映画や演劇や文学にある程度の関心を持ってきた人なら、大体知っているだろう。あの話は、広島の原爆で生き残った娘のもとへ、原爆で死んだ父が幽霊として出てくる。今回はその逆だから、母が生き残り、息子が死んで幽霊として出てくるわけである。で、どうなるかという展開もほぼ予想の通り。吉永小百合二宮和也というキャストも、まあ熱演していて、事前に多少あった心配は杞憂だった。だけど、こう予想通りでいいんだろうか。冒頭から怪しい感じだった登場人物が、やっぱり犯人だったというようなミステリーみたいなもんではなかろうかとも思ってしまうわけである。

 原子爆弾という兵器は、非人道的な大量破壊兵器として全世界で禁止されるべきだが、それは何もこの映画を見て知ったことではなく、ほとんどの観客は見る前から判っているだろう。息子は次男で、長崎医科大学に在学していた。だから一般人であって、そういう人々をも殺害する大量破壊兵器は戦争犯罪だろう。だが、この家庭には長男もいた。フィリピン戦線に従軍して戦死したとされる。戦死した日に母の夢枕にたったらしい。だから、長男が幽霊として出て来れば、戦争の実態、戦場の残虐さを訴えただろうと思う。だけど、この映画では戦争自体の始まりや日本軍の戦争犯罪は全く触れられない。長崎の原爆では、連合軍の捕虜や連行された朝鮮人労働者も多くの犠牲を出したが、そのことも全く出てこない。珍しく「婚約者」までいた次男が幽霊として出てくることにより、われわれ観客は生き残った母や婚約者とともに、安心してたっぷり泣ける工夫がされている。

 だけど、それでいいんだろうかというのが、この映画を見た僕の疑問である。僕はその映画を見たことにより、何か新しい発見をし、新しく感じ考えたいと思う。この映画では、安心して感動して泣けるけど、それでいいのか。と思うけど、そう言ったら、歌舞伎や落語やクラシック音楽…なんかはどうなってしまうんだろう。山田監督作品だって、寅さんが何本も続くことにより、僕は飽きてしまった。だけど、今見れば、それも懐かしいと思える。そういう感覚で見てみれば、これは「戦後日本の平和主義」を描く「伝統芸能」なのかもしれない。それならそれでいいではないかとも思う。初めて見る人はいつもいるわけだし。こうやって、「戦争」が「伝統芸能」として伝えられていくのかもしれない。

 ところで、この映画を見て、黒木華(くろき・はる)はやっぱり素晴らしいと思った。「小さいおうち」や「幕が上がる」は、どうもいま一つな感じもあったが、今回はやっぱりうまい人だなあと思った。寺島しのぶ版を見ているからと思って、永井愛作「書く女」の再演を見なくてもいいかと思ったことを後悔している。それと、「上海のおじさん」役の加藤健一が見逃せない。

 長崎の原爆に関しては、体験者として林京子が多くの小説を書いている。芥川賞受賞の「祭りの場」は必読。戦後派では、長崎原爆資料館長でもある作家、青來有一(1958~)がいて、芥川賞受賞の「聖水」や映画化もされた「爆心」などを書いている。僕の好きなのは佐多稲子「樹影」という小説で、名作だと思う。また井上光晴「明日―1945年8月8日・長崎」は、映画「TOMORROW 明日」となった。傑作。木下恵介の「この子を残して」やもっと古い映画もあるが、最近では「ペコロスの母に会いに行く」(森崎東監督)にも出て来た。広島を描いた小説や映画の方が多いけれど、長崎も大切。
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ピーター・チャン監督「最愛の子」

2016年02月13日 23時41分09秒 |  〃  (新作外国映画)
 中国で起こった児童誘拐事件を扱う、ピーター・チャン監督の「最愛の子」。見始めたら画面に引き入れられてしまい、決して逃れることができな緊迫した映画である。辛く重い映画だけど、中国社会の状況という枠を超えて普遍的に心を打つ映画で、必見の問題作だと思う。

 2009年7月18日、香港に隣接した広東省・深圳。そこに離婚した夫婦がいる。下町のネットカフェを営む元夫のもとに、元妻が息子のポンポン(3歳)を連れてきた。仕事に忙しいまま、地元の子と遊んでいるように父は子どもに言う。ポンポンは遊びに行く途中で、母の車に気付いて追っていく。そして、そのままポンポンは家に帰らなかった。警察に行くが、24時間は事件扱いできないと言われる。駅を探し回るが、見つからない。その後、警察で防犯カメラを見せてもらうと、ポンポンを連れて逃げていく男が映っていた。このような誘拐事件が中国では年間20万件もあるのだという。

 ピーター・チャン(1962~)は、香港の映画監督で「君さえいれば/金枝玉葉」(1994)などの恋愛映画で売出した人である。「ラヴソング」(1997)の素晴らしさは忘れがたい。テレサ・テンの歌声に乗せて、レオン・ライとマギー・チャンの10年に及ぶ恋愛模様を描くこの映画は、香港返還を背景に大陸とアメリカに引き裂かれる香港人の心情をも反映していた。最近は「ウォーロード/男たちの誓い」や「捜査官X」といった大陸で撮影した歴史アクション映画を手掛けた。経歴的にはエンターテインメント系の監督だから、そうした期待でこの映画を見ると、あまりに重い現実にとまどうかもしれない。だけど、語り口のうまさのようなものは共通していて、難しい点はどこにもない。

 ただし映画的には、どこにも難しいところはないんだけど、誘拐という現実に向かい合うということが難しい。もともとは実話で、ドキュメント映像を見た監督が映画化を考えたという。子どもがいなくなるというのは、とても耐えられそうもない出来事だが、ここで描かれるのは黒澤明監督「天国と地獄」のような営利誘拐ではない。また、性犯罪でもない。恐らくは中国の奥深い農村部で、男児のいない農家に連れて行かれた(または売られてしまった)と考えられる。残された夫婦の方には、他の子どもはいない。「一人っ子政策」により、子どもは誘拐された一人だけである。では、もうひとり作ろうかと言えば、誘拐された子どもの死亡届を出さないと認められない。

 父親はネットに情報を求めるサイトを作り、チラシも作って活動する。時には報奨金目当てのニセの情報もある。母親は初めは元夫を責めるが、元夫が「子どもが誘拐された親の会」に連れて行くと、突然自分を責める発言をする。その会は驚くべきもので、同じ状況に置かれた親たちが集って、励まし合っているのである。時には誘拐犯が捕まったと聞き、バスを仕立てて会いに行ったりする。そうした活動にもかかわらず、子どもは見つからず3年がたつ。そして、安徽省の農村にポンポンらしき子どもがいるという情報が入るのである。

 こうして、この事件は表面上「解決」するのだが、物語はそこで終わらずに思わぬ展開をしていく。連れ戻したポンポンは実の親を忘れてしまい、養親になついてしまっていた。そして、もうひとり「妹」がいたのである。「子どもができない」養母のホンチンは、夫はもう死んでいて夫が子どもを連れてきたと語る。「妹」のジーファンは「捨て子」だったと言うが、当局は深圳に連れて行き養護施設に入れることにする。それに対して、せめてジーファンだけでも取り戻したいとホンチンは深圳までやってきて、施設に行くが相手にされない。そこで弁護士を頼んで裁判を始める。一方、実母もジーファンを引き取りたいと考えるが、そのことから再婚した夫との関係も悪くなる。こうして、すべての人々の人間関係が引き裂かれてしまうのである。ほんとうの意味での「解決」がないまま、映画は皮肉な終わり方をする。

 誘拐をテーマにした映画は世界にかなりある。日本でも、「誘拐」「大誘拐」と言う名の映画もあるが、児童誘拐ではない。この映画を見て思い出すのは、角田光代原作、成島出監督の「八日目の蝉」だろう。この物語は、不倫相手の子どもを誘拐するという設定で、後半は大人になった被害児童が事件を振り返るという特異な構成になっている。外国映画では、30年代のロスを舞台にしたクリント・イーストウッドの「チェンジリング」が思い浮かぶ。その他、現実の誘拐事件と言えば、中東や中部アフリカに多い政治がらみ、宗教がらみの事件がある。これは「テロ事件」というほうがいいだろう。この事件で扱われているのは、「中国の特別事情」が背景にある。しかし、その問題をテーマにした社会批判映画ではないというのは、監督のいう通りだろう。もちろん、あからさまな政治批判映画は作れない国情だが、それ以上に「人間というものの性(さが)」を描きたいという思いは一貫している。

 中華圏の映画にそれほど詳しくないので、俳優はよく知らない。いくつかの映画賞を取っているのは、養母役のヴィッキー・チャオ(趙微、1976~)で、「少林サッカー」や「レッド・クリフ」に出て人気の女優。見ているが思い出せない。最近は監督にも進出している。この映画ではノーメイクで安徽省の無知な農民を演じて、強い印象を与える。メイクした若い写真と比べると全く違う。
 
 父親はホアン・ポー(黄渤、1974~)という人で、「西遊記~はじまりのはじまり~」などに出ている大人気俳優だという。日本でいえば、古田新太に似ていると思う。
 
 実母のハオ・レイは、ロウ・イエの「天安門、恋人たち」や「二重生活」に出ている人。親の会の中心となるハンを演じたチャン・イーが素晴らしいが、皆自分の実生活でどこかで会ったような顔立ちと人柄で、感情移入しやすいが、逆に他人事と思えない感じもしてくる。しかし、この「つくられた兄妹」のお互いに思い合う様子はどのように解決可能なのだろう。また、自分たちだけ子どもが見つかった後で、親の会とどのように関わるべきか悩む姿も、とても心揺さぶられるところである。とにかく、非常な力作だけど、単なるフィクションではないという現実に心痛む。重いけど、ぜひ見て欲しい映画。
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