尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

今村昌平の映画を見る②「果しなき欲望」と「復讐するは我にあり」

2012年05月31日 23時43分03秒 |  〃  (日本の映画監督)
 今村昌平の映画は、今見ても全く古びていない。むしろ面白さが増しているのではないか。今までに全部見ているのだが、改めて見直してそう感じる。今村昌平映画の感想で何回も使うのもどうかと思うんだけど、備忘の意味も含めて書いておきたい。

 今回見て非常に面白かったのが、初期の3作目「果しなき欲望」(1958)で、「和製ノワール」の大傑作だ。最近、50年代、60年代に作られた日本のミステリー映画が再評価されている。同時代に作られたキューブリックの「現金に体を張れ」のような匂いを持った映画が日本でもかなり作られていた。それらを「和製ノワール」と呼ぶのも定着してきた。今村昌平にこんなすごい「ノワール」があったのか。

 敗戦時、軍医がモルヒネを隠匿し、ドラム缶に詰めて埋め10年後に掘り出そうと決めた。10年後の日、軍医は現れず、妹を名乗る渡辺美佐子が兄は死んだという。西村晃、殿山泰司、加藤武、小沢昭一の男4人は、軍医は3人にしか知らせていないはず、誰かがおかしいと争い始める。結局それはともかく、まずは調べようとなるが、埋めた所は今は肉屋になっているらしい。近くの空き店舗を借りて、地下から掘り進めようということに決まる。
(「果しなき欲望」)
 犯罪、脱獄もので「掘り進む」映画は結構あるが、これは世界的にも良く出来た面白い映画だと思う。昇格3本目の映画だが、ふてぶてしい面構えの戦後を代表する怪優が勢ぞろいしていることがすごい。もっとも加藤武(文学座)、小沢昭一(俳優座)は、もとをたどれば今村昌平とは早稲田の演劇仲間である。小沢昭一は結局今村のほぼすべての映画に出ることになる。代表作は「人類学入門」。

 殿山泰司もほとんどの今村映画に出ているが、新藤兼人映画の方が重要。(「復讐するは我にあり」では最初に殺され、「楢山節考」では村人の長を演じている。)また印象深いのが西村晃。その後水戸黄門になってしまったけど、どうしても悪役が似合う戦後有数の怪優だと思う。代表作は今村の「赤い殺意」。こういうアクが強い男優を尻目に、あっと驚く怪演を見せるのが若き渡辺美佐子で、結局今村作品はこれ一本なのが惜しい。長門裕之が5人の悪役に交じる善人青年で助演、その恋人役が中原早苗。深作欣二監督夫人で、先ごろ亡くなった。

 知らない人にはあまり関心がない俳優の話になってしまったが、今村映画には何度も出てくる男優が多い。中でも文学座の名優北村和夫は「黒い雨」のおじや「神々の深き欲望」の技師など重要な役をやっている。大学どころか小学校時代からの友人である。他には、三国連太郎緒方拳柄本明役所広司など名優の勢揃いである。「復讐するは我にあり」では、三国連太郎、緒方拳の親子の相克が恐るべき迫力で描かれている。最後の面会の場面の対決は、映画史に残る対決シーンだろう。

 犯罪映画つながりで「復讐するは我にあり」。これは佐木隆三の直木賞受賞小説の映画化で、70年以来映画を撮っていなかった今村が9年ぶりにメガホンを取った。日本映画専門学校(当時はまだ横浜放送映画専門学院)の生徒が、校長先生も映画を撮ってください、僕たちもバイトでカンパしますと言ったとか。)同時代的に見た最初の今村作品で、印象が深い。日本に珍しいシリアルキラー(連続殺人鬼)である西口彰がモデル。原作はかなり事実を追っているが、映画は改変している部分が多い。新日鉄の労働者作家として新日本文学会でデビューした佐木は、沖縄返還前にデモ隊取材中に冤罪で逮捕されたりした。以来この事件の取材にしぼって数年、出版直後から直木賞確実の声が高かった。
(「復讐するは我にあり」)
 実際にあった話がモデルなのだが、原作を読んでも映画を見ても、なんで殺人を繰り返すのか納得できない。常識的な人間理解の範囲を超えてモンスターになりつつある。殺人以前に、詐欺を繰り返していた。映画でも詐欺が出てくる。だまされてしまう心理をうまく利用できる「才能」がある。これは緒形拳の名演でもある。映画として素晴らしく面白いんだけど、人間の心の闇の深さに震撼する。とにかく恐ろしい映画だと思う。静岡であいまい旅館を経営する小川真由美、その母の清川虹子(殺人の過去あり)もすごい名演。この小川真由美がだまされてもいいと東京まで出てくる場面が理解できるかどうかがカギではないか。理解できるような、不自然すぎるような。三国連太郎の父と倍賞美津子の妻は、割合理解しやすい方だと思う。

 映画であれ小説などであれ、見た後に判り切らない部分が残る、あれは何だろうと理解できない部分が残る、そういう作品こそ超一流だと思う。もちろん技術的に下手でわ判らないのではない。この映画も意味不明な描写は一つもない。しかし人間とは何かという本質において、全然判らないというザラザラとした違和感が残り続ける。ここには人間の深い闇が画面に描かれている。小説がドラマになると肉体が現れるが、名優が演じると恐るべき深みが出るということでもある。

 現実の西口彰という殺人犯をとらえたのは、冤罪支援活動をしていた僧侶古川泰龍の子ども(小学生)だった。死刑囚の教戒師をしていた古川は、福岡事件の西武雄らの無実を確信、救援運動に乗り出した。東京で弁護士を殺害し、弁護士バッジを入手した西口は、弁護士として冤罪救援に協力すると近づいて行ったのである。手配写真を覚えていた子どもが警察に連絡して逮捕された。実話とは思えないような話である。映画ではそこは変えられている。

 西口は裁判で死刑となり、処刑された。映画では処刑後の骨をまくシーンまで描かれている。その意味で、犯罪と死刑を描く映画でもあるけど、やはり人間の深奥を描く映画だろう。判るかというと、判らないという感じが残る。それがリアルで傑作の理由。図式的な理解、恵まれないからとか、親の虐待とか、時代が悪いとか、そういうことで理解できない。「だます人」なのである。図式的な部分が全くない。そこがすごい。忘れられない映画である。
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新藤兼人監督を追悼し、新藤映画を振り返る

2012年05月30日 23時23分55秒 |  〃  (日本の映画監督)
 100歳の映画監督新藤兼人監督が死去。98歳で作った「一枚のハガキ」が昨年公開され、ベストワンになるほどの評価を受けた。この世界に言い残すべきことは言い切ったというような映画だった。昔、作家の宇野千代が「私、死なないような気がする」と言っていたけど、やはり98歳で死去した。当たり前だけど、死なない人はいない。今年が生誕百年だったが、健在だったためだろうけどフィルムセンター等での「生誕百年特集」が予定されていない。この60年の日本社会の変貌、人間の奥深さ、とりわけ戦争の真実を知るために是非見るべき映画監督だ。
(新藤監督と乙羽信子)
 1912年、広島に生まれ、京都に出て映画会社の雑役から働き始めた。溝口健二のもとでシナリオ修業をし、1943年、32歳の老兵として召集された。戦後になって吉村公三郎監督「安城家の舞踏会」の脚本で評価され、脚本家として認められる。当時所属していた松竹から、世界が暗くて商業性が低いと評価されたのに反発し、吉村公三郎監督や俳優の殿山泰司らと退社して、独立プロ近代映画協会を設立。1951年、病気で早世した最初の妻との日々をつづった脚本「愛妻物語」を自分で監督した。この題材だけは自分で映画にしたいという思いが全篇にこもっている、まさに「愛妻物語」である。

 その後、40数本の監督作品、300本以上の脚本作品を残した。自分や吉村監督作品だけでなく、頼まれればどんどん脚本を書いたし、書けたところがすごい。日本映画史上、最高のシナリオライターと言ってもいい。例えば、「ハチ公物語」「遠き落日」もそうだし、「松川事件」「けんかえれじい」もそうである。谷崎潤一郎の「刺青」「卍」「春琴抄」(「讃歌」と題して自分で監督)、島崎藤村「夜明け前」、永井荷風「濹東綺譚」(監督も)、夏目漱石「こころ」(「心」として監督)、徳田秋声「縮図」(監督も)、川端康成「千羽鶴」、有吉佐和子「華岡青洲の妻」、大岡昇平「事件」、三島も井上靖も江戸川乱歩「黒蜥蜴」もある。「源氏物語」のシナリオもある。新藤兼人が脚本にした小説で日本文学全集が出来る。

 そのほとんどは、小説のエッセンスをつかみ、たくみにドラマ化し、2時間以内で人間と社会を浮かび上がらせるというシナリオのお手本になっている。しかし、「シナリオのお手本」の文芸映画では、なかなか人間性の破天荒な姿が出てこない。すごい脚本家だったけれど、巧みすぎたのかもしれない。監督作品が40数本と書いたけれど、なかにはほとんど顧みられない映画などもあり、確定させる意味が少ない。いくつかのテーマに分類できると思うけど、第一は「戦争を伝える」映画である。

①広島出身者として、戦争と原爆の悲劇を世界に伝える映画を作った。「原爆の子」(1952)が代表。「第五福竜丸」(1959)は戦争ではないが、核兵器の被害という意味で、貴重な記録性を持っている。劇映画だけど、水爆の「死の灰」を浴びた焼津の第五福竜丸事件をドキュメントタッチで描いている。「さくら隊散る」(1988)は原爆で死んだ丸山定夫らの劇団の悲劇を扱う。ただ、戦地へ行ったわけではないからかもしれないが、戦地を舞台にした脚本はあまり手掛けていない。そこで最後の最後に「一枚のハガキ」をどうしても作りたいと思ったのだろう。見ていれば「これだけは若い人に伝えておきたい」という気持ちが心底から伝わってくる。これも「銃後」の話だが、「クジにはずれて(当たって?)戦地へ行かなかった兵隊」(自分の体験)の物語である。
((原爆の子」)
女の人生を描く映画。女の生活とヴァイタリティを描く系列。宝塚出身の美人女優だった乙羽信子が、「愛妻物語」以来同志として、また長い愛人関係(最後は結婚)を通して、新藤映画を支え続けた。この関係は世界映画史上、フェリーニとジュリエッタ・マシーナに匹敵する。乙羽信子のために作った映画の作品群とも言える。まず、「縮図」(1953)は案外知られていないが、素晴らしい傑作である。徳田秋声原作の文芸ものだが、雪国の芸者の悲しい恋路を厳しいリアリズムで描いた大傑作。「銀心中」(田宮虎彦原作)も戦争に翻弄される人妻と若い青年の悲恋を描く。広島で在日朝鮮人の妻として貧困を生き抜く「」(1962)も傑作で問題作。「鬼婆」「悪党」などの作品も女の力ものだが、「人間の本源にせまる」作品群。乙羽信子が病気に倒れ余命がはっきりした段階で、新藤監督が乙羽のために作って大評判となったのが「午後の遺言状」(1995)。杉村春子の映画における代表作と言ってもいい。乙羽死後、大竹しのぶがある程度、その役割を引き継いだと言える。
(「午後の遺言状」)
人間の根源的な姿を追求する作品群。「裸の島」(1960)はセリフがないことで有名。瀬戸内の島で働く夫婦の姿を見つめ、人間の労働を崇高に描く。近代映画協会の赤字がかさんで、最後の作品として最低限の予算で作れる映画として構想された。「少人数合宿ロケ方式」はこの時の発明で、世界の独立プロの先駆といえる。モスクワ映画祭グランプリを取って世界に売れた。「どぶ」(1954)や「人間」(1962)は人間の欲望を赤裸々に描き出す。「鬼婆」(1964)「悪党」(1965)は中世に題材を取り、女の欲望を追及する。「本能」(1966)は戦争で不能となった男の話。他にもあるけど、性をさぐる系列はあまり成功していないことが多い。ミステリー仕立ての「かげろう」(1969)も人間の欲望の奥を描くと言うべき作品。文芸作品として作られた「讃歌」「濹東綺譚」や「北斎漫画」(1981)なども人間性の根源をさぐるという意識で作られているが、あまり成功していなかった。
(「裸の島」)
社会的な問題にインスパイアされて作った作品。「原爆の子」「第五福竜丸」も本来はここに入るが、戦争関係は独立させた。「連続射殺魔」永山則夫を描く「裸の十九歳」(1970)、出稼ぎ労働者の死をめぐる裁判を描く「わが道」(1974)、家庭内暴力を描く「絞殺」(1979)、いじめ問題を描く「ブラックボード」(1986)など、様々なテーマで作っている。

伝記的な関心で作られた一代記的な作品。この分野では、ドキュメント映画だが、師匠溝口健二に関する証言を集めた「ある映画監督の生涯」(1975)がある。記録映画としては原一男「全身小説家」しかないベストワンに輝いた。津軽三味線の高橋竹山の青春を描く「竹山ひとり旅」(1977)は感動的な名作。同志でもあった怪優殿山泰司の生涯を劇映画的に描いた「三文役者」(2000)、自伝的な要素が強い「落葉樹」(1986)や「地平線」(1984)、最後から二番目の作品「石内尋常高等小学校 花は散れども」(2005)などもある。「さくら隊散る」も中身は伝記映画に近い。
(「竹山ひとり旅」)
 振り返って判ることは、戦争や原爆を追及する社会派などと言われることが多いが、むしろ性や欲望を描くテーマ、人間性を追求する意気込みで作った文芸作品が多いことだ。しかもあまり成功していない映画がかなり多い。僕も見ていない映画が相当ある。以上のように5つにわけるのも本当は難しく、それぞれが相互に重なり合っている。少し作り過ぎたかもしれない。

 僕が傑作だと思うのは、「縮図」「裸の島」「竹山ひとり旅」「一枚のハガキ」である。「ある映画監督の生涯」「午後の遺言状」もまあ傑作。「愛妻物語」「銀心中」「母」などもすぐれた作品で、「原爆の子」「第五福竜丸」も貴重なテーマ性で映画史に残るだろう。60年代、70年代の本能映画なんかは、見たときは今村昌平や大島渚ほど成功していない感じがした。脚本をいっぱい書き、独立プロを維持してきたことが最大の功績ではないか。映画作家としては、作り過ぎたこともあって凡作も多かった印象がある。最後に「一枚のハガキ」を残したことで、この監督は真に歴史に残ることになったのではないか。大往生で、もうすべて後世代に残すべきメッセージは目の前にある。
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今村昌平の映画を見る①「にあんちゃん」と「黒い雨」

2012年05月29日 01時06分46秒 |  〃  (日本の映画監督)
 今村昌平の映画、毎日通って「イマヘイ三昧」。からだが続くかな、あの重い、長い映画を毎日見ちゃって。やはり好きだし、面白いのである。それにずいぶん忘れてて、間違って覚えてる場面が結構ある。だから全部見てからでは忘れてしまうので、書き始めていきたい。

 間違ってた代表は「復讐するは我にあり」の有名な三国連太郎と倍賞美津子の「義父と嫁」の温泉場面。「お背中流させてください」から「発展」していく。日本映画の温泉シーン史上の名場面だが、温泉ロケではないらしい。三国は五島列島の漁民だったが、漁船を海軍に徴用されて別府の温泉宿に転じる。だから別府温泉のシーンだと思い込んでいた。実は、倍賞美津子の嫁が子供を連れて愛媛の温泉に家出してしまったのを、三国が連れ戻しにくる場面だった。愛媛の赤池温泉(確か)とあったけれど、そういう温泉はない。ちなみに「背中を流す」という表現は、この映画を見て知った。

 「にあんちゃん」では、「朝鮮が消された」と書いた。確かに4人兄弟姉妹が朝鮮人であることは特に出てこないのだが、周囲の環境や人物が朝鮮人であることは明確に描かれている。特に北林谷栄や小沢昭一が朝鮮人役であることは、セリフの発声から明らかである。前に見たのは学生時代だから、そこらへんがよく判らなかったのかと思う。今見ると、明らかに「在日の映画」になっている。映画としては、卓抜なリアリズム映画の名作になっていて、素晴らしい出来である。助監督に浦山桐郎が付いているが、「キューポラのある町」に(リアリズム朝鮮人映画として)ストレートにつながっている。
(「にあんちゃん」)
 次男が家出して東京に出てくる場面は貴重なロケで、当時の東京駅の映像が出てくる。ただ人物像が明確で、貧しいながら頑張っている兄弟の「名作」として「文部省特選」になってしまい、文部省にほめられる映画を作ってしまったのかと「反省」したという。その「反省」が60年代の重喜劇を生むのである。(なお「にあんちゃん」の原作者安本末子の娘にあたるのが、記録映画「在日」で炭鉱を訪ねる李玲子さんである。FIWC関東委員会韓国キャンプのリーダーだった。

 重喜劇をおいといて、同じく文部省特選の「黒い雨」。去年のスーちゃん追悼では見直さなかったので、1989年以来の23年ぶり。公開当時は、実は少し期待外れだったのだが、現在になると前より傑作に感じられた。あえて白黒で撮影された「原爆」リアリズム映画だが、その四半世紀近く経った間に、湾岸戦争、阪神淡路大震災、オウム事件、9・11テロ、イラク戦争、東日本大震災、福島第一原発事故と、89年には起こるとは全く思っていなかった出来事が相次いで起こってしまった。「人間が人間の命をないがしろにする」という出来事への感度が上がってしまった、残念ながら。

 89年当時は、原爆をめぐる表現がもっとあったように思う。例えば、丸木夫妻の「原爆の図」などももっと取り上げられていたと思うし、原爆をめぐる小説ももっと読まれていたと思う。だから「黒い雨」を見てもどこか似たような表現を感じてしまったかと思う。今となれば、被爆直後の広島を再現したシーンがある映画の中で、もっともすぐれたものかもしれないと思う。原作も記録だか小説だかわからない感じで、僕は世評ほど買っていない。製作当時は名作誕生と宣伝され過ぎて、特にカンヌでは受賞の期待が強すぎて無冠に終わったことが予想外という報道だった。
(「黒い雨」)
 何しろ「楢山節考」「うなぎ」の時は先に帰ってしまった今村監督が、「黒い雨」の時は最終日までカンヌにいた。その年のパルムドールは、ソダーバーグの「セックスと嘘とビデオテープ」だったから、先物買いである。その後の活躍を見ると当たりかもしれないが。「ニュー・シネマ・パラダイス」が審査員特別賞、永瀬正敏が出てたジム・ジャームッシュの「ミステリー・トレイン」が芸術貢献賞、「ジプシーのとき」でエミール・クストリッツァが監督賞である。委員長はヴィム・ヴェンダース。確かに何か賞が来ても良かった。日本では、受賞まちがいなしの名作報道だったので、かえって僕は多少反発した。

 「原爆映画」という前提を除いて見れば、これは原作の最初の題のとおり「姪の結婚」の映画である。つまり「黒い雨」を浴びたことで縁談に恵まれない田中好子の姪をいかに結婚させるかという問題で、周囲の男たちが心配する。つまり「秋日和」や「秋刀魚の味」と同じではないか。これは「もうひとつの小津映画」だったのだ。これが最大の発見で、日本社会を考える際の重大論点だと思う。しかも「黒い雨を浴びただけで爆心地にいたというデマを流される」「業病だという噂で縁談がつぶれる」という、「もうひとつのハンセン病映画」でもあった。原爆の映画には間違いないが、結婚と差別を扱うという日本社会論になっていることを忘れてはいけない。

 あともう一つ、三木のり平のシリアス演技がこの映画で残ったなと思った。社長シリーズの「パーッといきましょう」が有名になりすぎて、それで残っては心外だと公言していた新劇出身のインテリ演劇人三木のり平。演出では森光子の出ている「放浪記」だろうが、映画のシリアス演技では「黒い雨」がこんなに素晴らしかったとは忘れていた。やはり名作だ。一度はどこかで見て下さい。 
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都教委の責任-「失職者」問題について

2012年05月28日 23時42分19秒 |  〃 (教員免許更新制)
 既報、「東京で『失職者』」の問題、ひどく嫌な思いを抱えながら、もう少し考えて見ました。その結果、新しく考えたことがあるので、それについて。なお、28日付でもう一人、小学校の再雇用職員の任用取り消しが起こっています。新年度が始まって2か月目にして、4人もの教員が「実は免許が失効していた」との理由で、突然失職本人の生活はどうなる?今まで授業を受けていた生徒への影響は? いったい誰に責任があるのでしょう?

 ところで、都教委の5月7日付の辞令には、大変大きな疑問があります。先に書いた時には、引用しただけでうっかり見過ごしてしまいましたが、そこにはこうあります。「平成24年5月7日付けで平成24年3月31日に遡って失職」。ところで、3月31日は年度内なので、教員免許はまだ有効のはずです。法律上、更新講習を受けても、更新手続きをしないと失効するという仕組みには確かになっています。従って、そのまま4月1日を迎えると、免許失効となり「失職」するとしても、「3月31日に遡って失職」というのは明らかにおかしいです。3月31日には失職しません。この問題については、昨年書いています。(「僕の免許は失効しているのかな?」)よって、3月31日に遡っての失職辞令は、法律解釈を誤った辞令であり、法的には無効なのではないでしょうか。

 ところで実に不思議なことは、この問題が5月になってわかったことです。昨年度に関しては、熊本県で似たような失職者が複数出たことが判っています。しかし、それは1月末の申請期限を過ぎてから年度内の間に、「免許が切れるから退職を迫られる」という形で起こりました。年度をまたいで、いったん嘱託や講師に任命されながらそれが取り消されるというようなことは、少なくとも表に出る形ではどこでも起こらなかったと思います。そんなことが起こっては、年度途中で教員が変わってしまうわけで、生徒への影響が大きくなります。途中で病気休職などが起こるのは避けられませんが、年度で区切りが来る「免許更新」などの問題で、年度内で問題が起こることは本来ありえません。

 小中学校は市区町村教育委員会の管轄ですが、人事と免許更新手続き事務は都道府県教育委員会の仕事になっています。だから当然、今回の事態を招いたのは、都教委の責任です。(免許の更新はなぜか「個人の資格」として個人責任にされていますが、それを確認するのは教育行政の責任です。)なぜ東京都教委は、免許更新該当者の確認を怠ったのでしょうか。全く判りません。当該校の管理職の責任も大きいと思いますが、一番の責任は都教委にあります。

 僕が書くべきことかどうか判りませんが、管理職や主幹教諭の中で、自分は自動的に免除だと思い込み、忙しくて「免除の認定申請」を忘れていた場合が出てくることはないでしょうか。また、私立学校で確認作業がなされていない場合などもありうると思います。それらを厳しくチェックすることを求めるわけではないんですが。

 今までずっと書いてきているように、僕は教員免許更新制度の目的は、「教員のやる気をそいで教育の質を低下させること」と「教育公務員に対する嫌がらせ」だと思っています。だから、今回の事態は「例外的に起こってしまった一部の教員のミス」ではありません。この制度に本来的に備わっていた牙がむき出しになったと言うことだと思っています。また、だからそういう罠に落ちてしまった教員がいることも残念です。僕がいろいろ書いていても力不足で、法律をなくすことも大きく問題提起することもなかなかできません。でも、マスコミや教員組合はもっと問題意識を持ってほしいと思っています。どう考えても、普通には働いていた教員が、更新講習を受けていても申請をしていなかっただけで「失職」してしまうというこの法律自体がおかしい。それは弁護士会や教育学界などでも大きく取り上げていくべき問題だと思います。(政党、国会議員、文部科学省などには期待はできませんが。)
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名張事件再審棄却に異議あり

2012年05月26日 23時44分53秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 25日午前10時、名張毒ぶどう酒事件第7次再審請求差し戻し審で、名古屋高裁刑事2部は棄却の決定を下した。ちょっと細かく書いてみたが、理由がある。今回は弁護側、支援者だけではなく、マスコミでも再審開始決定が出るのではないかという推測がかなりあったと思う。今までの経緯があるからである。1961年の事件で、半世紀以上も経っている。「ぶどう酒」なんて今や死語である。無罪から一転死刑、再審開始決定から取り消し、最高裁の差し戻し決定と異例中の異例の経過をたどって、まだ続けるのか。最高裁で、原決定破棄、自判して再審開始決定が速やかにでることを望みたい

 この事件では一審の津地裁は無罪判決である。この判決はやり直しを求める必要はないから、「裁判のやり直し」は死刑判決を出した名古屋高裁に申し立てることになる。再審請求を繰り返したが、6回は門前払いだった。だんだん弁護団、支援運動も大きくなって行き、第7回目の再審請求を申し立てたのが、2002年4月。これに対し、2005年4月5日、名古屋高裁刑事1部が再審開始の決定を下した。だからこの段階で再審が決まっていてもよかったのである。そして次が最高裁と言うならまだ判らないではないけれど、再審の場合「高裁決定に異議申し立て」というのができる。だから検察側は異議を申立て、それは開始を決定した刑事1部ではなく、名古屋高裁刑事2部に係属したわけである。2006年12月26日、刑事2部は再審開始決定を取り消す決定を行う。これに対し、弁護側は最高裁に「特別抗告」したところ、全く異例なことに最高裁は2010年4月5日、審理を名古屋高裁刑事2部に差し戻す決定を行ったのである。気付いたかどうか、再審開始決定と最高裁の差し戻し決定は全く同じ日付である。

 最高裁差し戻し決定は、「新証拠」の毒物鑑定に関する科学的な争点に関し、「申立人側からニッカリンTの提出を受けるなどして,事件検体と近似の条件でペーパークロマトグラフ試験を実施する等の鑑定を行うなど,更に審理を尽くす必要があるというべきである。」という判断をしている。だから名古屋高裁は最高裁の求める新鑑定を行う必要があるわけだ。今まで毒物が農薬の「ニッカリンT」だということは問題になってこなかった。それは当時の鑑定を疑わず、もっぱらアリバイや(ぶどう酒の王冠についていた)歯型などが争いの中心になっていた。最近になって弁護団の中で、事件当時の鑑定に矛盾があることに気づき、そもそも「毒物が違うのではないか」という疑問が出された。この農薬は危険で、もう製造中止になっていた。弁護団は全国を探し回り、ようやく倉庫に保管されていた一ビンの「ニッカリンT」を見つけ出した。そうして鑑定したところ、ぶどう酒に「ニッカリンT」を混ぜると、副生成物(トリエチルピロフェスフェート)が多量にできることがわかった。事件当時の「犯行時のぶどう酒」では検出されていないが、当時「市販のぶどう酒に市販のニッカリンTを混ぜた溶液」の鑑定では「薄く小さく検出」されたとあるので、これは毒物が「自白」と違うのではないか、「自白」は間違っているというのが、今回の新証拠の最大の主張である。

 で、今回、事件当時の鑑定を再現することは誰も引き受け手がなかったのだが、最新鋭の機器で鑑定を行った。その結果、やはり「ニッカリンT」に水分を混ぜると副生成物ができる。ただし「エーテル抽出」を行うと副生成物はゼロだという結果である。この「エーテル抽出」というのは当時の常識的な鑑定法だという。さて、だんだん訳が分からなくなってきたけれど、こうして「更に審理を尽く」した結果、弁護側の主張はおおむね証明されたかに思われていたのである。それに対し、今回の決定では「(当時の犯行現場のぶどう酒では)加水分解の結果、検出されなかった余地がある」と検察側も主張していない理由で棄却したのである。要するに犯行から当時の鑑定まで2日間ほど経っていたから、副生成物は水と反応して分解してしまい、だから当時の鑑定では検出されなかったの「かもしれない」というのである。

 これ、明らかにおかしいですよね。なぜならば、最高裁から毒物に関し更に審理を尽くせと条件を付けられているんだから、もし加水分解したから検出されないと裁判所が思うんだったら、「混ぜてから2日経った」条件のぶどう酒での鑑定を行う必要がある。時間はさらにかかるけれど、そうしないと最高裁から差し戻された条件をクリアーできない。検察も主張していない理由で決定を下すのは、全くおかしな話である。「疑わしきは請求人の利益に」というのが再審に関する最高裁決定(いわゆる76年の「白鳥決定」)だから、今回の毒物の関する鑑定結果は「もしかしたら毒物は違ったのではないか」という方向で考えるしかない。科学鑑定の判断はシロウトには難しいのだが、そういう「毒物鑑定のゆらぎ」の中に、他の主張を置いてみれば、今回の新鑑定があれば昔の名古屋高裁もさすがに「無罪から一転死刑判決」は出せなかっただろう。だから、再審開始決定が出るはずなのである。

 結局、裁判官は「自白」を重視してしまうのである。そういう裁判官の「体質」が一番問題である。「請求人以外に毒物を混入した者はいない」と今回も判断しているが、捜査段階でだんだんそういう風に参考人の供述が変えられていく状況は、江川紹子「六人目の犠牲者」にくわしく証明されていたように記憶する。この本は現在、岩波現代文庫で「名張毒ブドウ酒殺人事件」の題名で刊行されているはずである。
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東京で「失職者」!-教員免許更新制の不条理

2012年05月25日 00時48分36秒 |  〃 (教員免許更新制)
 帰る時間が遅かったのだが、また書こうかと思っていた事柄もあるのだが、教員免許更新制度について重大な事実を知ったので緊急に報告しておきたい。

 教員免許更新制度の年度末の実情については、全体的な統計はまだ文部科学省から発表されていない。昨年度は更新制初年度ということで、4月当初に発表があった。今年も発表があれば早速報告しようと思い、時々文科省のサイトを見ているのだが、昨日現在まだ発表はない。昨年は、当初発表の数字がよくわからない点もあった。今年度は時間をかけてまとめているのかもしれない。僕としては実施2年目であり、大きな混乱は起きていないのだろうと推察していた。

 ところが、僕も気づいたのがつい先ほどなのだが、なんと東京都で「失職者」が「続出」している。都教委の「服務事故」のサイトに掲載されているのだが、年度当初ではないので、僕も気づくのが遅れてしまった。発表があっても、マスコミ報道はなかったのではないか。東京の地方版は、最近スカイツリーの記事ばっかりである。

 「失職」事例は、今のところ3件報告されている。
4.25付 小学校 時間講師(病休代替) 55歳
 病休教員の代替として、4月9日から5月2日まで任用発令。引き続き産休代替として勤務する予定で、次の学校で確認したところ、講習は済んでいたものの更新手続きを行っていなかった。「昨年度も同区内の別の学校で非常勤の教員として任用されており、その当時、教員免許状更新講習を修了したことを管理職に報告しており、当該時間講師は、免許状の更新手続が完了したものと思い込んでいた。」

5.7付 中学校主任教諭 56歳
 事情に関しては、都教委のサイトから引用する。(太字=尾形)
ア 当該主任教諭は、教員免許更新の年度に該当していることを認識しており、平成23年8月、教員免許状更新講習を受講し、修了した。
イ その後、教員免許有効期間の2か月前まで(平成24年1月31日)に、教員免許状更新手続をしなければならなかったが行わなかった
ウ 平成24年5月2日、当該主任教諭が免許更新の手続きのため、東京都教育委員会へ手続をした際、教員免許状が失効していることが判明した。

5.7付 小学校臨時任用教員(育休代替) 55歳
 同じく、都教委のサイトから。
ア 当該校は今年度の臨時的任用教員を任用するに当たり、昨年度から当該校で勤務している当該臨時的任用教員を選定し、区教育委員会へ具申を行った。その際、当該臨時的任用教員は、当該校の管理職に対し、大学が発行した教員免許更新講習修了書の写しを渡した。本人はそれで更新が済んだものと判断していた
イ 区教育委員会は当該校の具申を受け、当該臨時的任用教員の免許更新について口頭で確認を行い、その後、都教育委員会へ内申を行い、都教育委員会は平成24年4月1日から平成25年3月25日まで発令した。
ウ 当該臨時的任用教員は、平成24年7月1日から平成26年6月30日までの2年間有効となる東京都公立学校臨時的任用教職員採用候補者名簿への登載更新書類を郵送により提出したが、更新手続修了者に都教育委員会が発行する更新講習修了確認証明書がないため、本人に確認したところ、免許状が失効していることが判明した。

 ①の方は元々臨時の講師なので、問題がわかった時点で「失職」とされている。②③のケースは深刻で、本来は今年度いっぱいは勤務することが予定されていた(が、3月末で免許が失効していることになる)ので、「平成24年5月7日付けで平成24年3月31日に遡って失職」という「通知」を交付されている。これでは、4月の勤務がなかったことになってしまうので、「4月分給与の返納」が求められるのではないかと心配である。

 ところで、以上を見てみればわかるように、3人とも「更新講習は済んでいる」が、「更新手続きをしていなかった」ということである。「更新講習」が意味のあるものとは思えないが、それにしても更新講習は終わっているのだから、「実質的には教員免許があるのと同じ」である。②の方など「勤務時間中に休暇を取って申請に行っていなかった」というだけのことである。単なる事務的ミスである。「単なる事務的ミス」で、職が失われてしまっていいのか。常識で考えてくれればわかるだろう。教員に問題があるならば、懲戒処分を行えばいいし、教員に勉強をさせたいという趣旨なら大学で研修することを義務付ければいい。ちゃんと大学へ行って免許更新の講習は受けているのに、単に手続きをミスしているというだけで、「失職」してしまう。この制度は一体何のためにあるのか?

 僕が元々何度も書いているように、「教育をよくする」とか「教員の資質を向上させる」ということが目的なんだったら、こんな馬鹿げたことは起こりえないはずである。これは「教師に対し、職を維持するためには、学校の仕事より、事務手続きの方が大事なんだ」と思わせる仕組みである。すなわち「学校教育の質の低下」と「教師に対する嫌がらせ」が目的だとしか、僕には思えない。

 今後のことだが、都教委のことだから、「失職者」に何の対応も取らず、退職金も出さないまま放置することが考えられる。しかし、昨年の熊本県のように、夏の採用試験で特例選考を実施するなどの措置を講じることが必要である。

 また教員組合も是非支援しなければならないし、マスコミにも訴えていかなければならない。こういう馬鹿げた制度は一刻も早くやめさせなければならない。
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菊池事件-ハンセン病と無実の死刑囚

2012年05月23日 23時57分34秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 ちょっと時間が経ってしまったけれど、ハンセン病市民学会での分科会「今、菊池事件を問い直す」に参加したので、その時の報告。というか、菊池事件については、昨年このブログでも書いている。その後の進展を含めて報告。

 菊池事件と言うのは、1952年に熊本県で起きた殺人でFさんが逮捕、起訴され、死刑が確定した事件である。Fさんはハンセン病を疑われ、療養所への入園を強要されていた。そのため菊池恵楓園に特設されたハンセン病の特別法廷で裁かれ、裁判は一般に公開されなかった。無実を訴え、再審請求を繰り返したが、第3次再審請求が却下された直後の1962年9月14日、死刑が執行された。今年はその死刑執行から50年という年に当たる。あらたに菊池事件弁護団が組織され、死刑執行後の再審請求ができないかどうか、50年目の年に改めて再検討が行われているところである。

 現在、毎月のように「菊池事件連続企画」が行われている。毎月のように熊本まで行くことはちょっと難しいので、これには参加していないけれど。詳しくは画像、およびホームページ参照。その成果として、連続企画実行委員会発行で「菊池事件」というパンフも作られている。(連絡先は、菊池恵楓園入所者自治会。連続企画のホームページに、連絡先が記載されている。
 

 今回の分科会では、国賠訴訟西日本弁護団の国宗直子弁護士がコーディネーターを務め、最初に事件概要を説明した。続いて、当時から入所していてFさんと「最後の面会」をすることになった志村康さん(自治会副会長、国賠訴訟西日本原告団副団長)、西南学院大学の平井佐和子さん、熊本日日新聞記者の本田清悟さんが貴重な体験や知見を披露し、意見を交わしあった。

 ちょっとびっくりしたのは、当日配布された事件当時の地元紙、熊本日日新聞の記事死刑執行の記事が掲載されたのは、処刑後5日目の19日、「Fは処刑されていた」という見出しである。当時は(というかつい最近まで)、死刑執行は原則的には秘密にされていて、特に社会的関心の高い死刑囚の場合を除き、法務省から特別の発表がなかった。しかし、園の中ではもちろん大きな問題になっており、当時全国ハンセン氏病患者協議会(全患協=現在の全国ハンセン病療養所入所者協議会)では抗議活動が起こっていた。マスコミとハンセン病療養所との関係が非常に遠かったため、情報が伝わるのが遅かったのである。事件当時も当然「患者の犯行」と決めつけるような記事が掲載されており、判決も極めて小さな事実のみ伝える記事である。やがて救援運動が盛んになってくると、1962年8月26日付で「現地調査」の記事も掲載されている。しかし、それはあまりにも遅かったのである。

 また、この事件の背景に「戦後の無らい県運動」があることも大きな問題として指摘された。ハンセン病(らい病)は差別されていたが、特に戦時期には国家的に患者をなくす(=患者全員を療養所の隔離する)動きが強まった。「無らい県運動」と呼ばれ、各県が競うようにして患者を「発掘」し、療養所の送り込んだ。送り込む側の多くは患者に対する「人道的措置」と信じ込んでいた者も多かったが、当時としても感染力の弱い病であるのに、国家が強制していくことにより差別が厳しくなっていく結果をもたらしていったのである。これは戦時下の出来事ととらえられがちだが、戦後になっても「隔離の思想」は日本において生き続け、患者を追い立てていた。特に熊本の菊池恵楓園が大拡張され「世界一の規模」を誇る療養所となった。そのきっかけは朝鮮戦争である。戦争による難民としてハンセン病患者が韓国から大量に「密航」してきたらどうしようという、病気と民族の複合差別があったのである。しかし、もちろんそういうことは起こらなかった。大増床したのに空いていては問題なので、熊本では患者の入所への動きが強力に進められたのである。

 こうした中で、けっして重症ではなかった(ハンセン病ではなかったのではないかという説もあるし、自然治癒していたのではないかとも言われる)Fさんに入所の勧めがあった。1951年8月1日、役場の衛生課に勤めていた経験がある被害者宅にダイナマイトが投げ込まれて、ケガをした。Fさんが「被害者が(自分が病気だと県に)密告した」と被害者をうらんだ犯行とされ、特別法廷で懲役10年を言い渡された。この「ダイナマイト事件」がまずあり、その控訴中の1952年6月16日、Fさんは脱走した。その捜索中の7月7日に、先の事件の被害者が刺殺されているのが発見されたのである。この殺人もFさんの犯行とされ、ハンセン病のための特別法廷で死刑が言い渡されたわけである。ハンセン病患者のための特別法廷は、1972年までに95件の刑事裁判が行われたという。死刑の事件はもちろんこの事件だけである。この事件の裁判は、弁護士も含めて、「病気への恐れ」のためだろうが、きちんとした証拠調べが行われなかった点が指摘されている。小さな村落での事件で、様々な疑わしい点がいっぱいあるようだ。

 僕が前からこの事件に関して思っていることは、そもそも「特別法廷」で裁くということが、憲法違反なのではないかということだ。憲法第76条に「特別裁判所は、これを設置することができない」と定められている。76条の規定は、現行の司法権の外に「軍法裁判所」などを置くことの禁止規定で、ハンセン病特別法廷で裁かれたFさんも、最終的には最高裁判所で死刑が確定している。だからこの裁判も憲法違反ではないというのが、通常の理解だろう。しかし、「らい予防法」はそもそも違憲の法律だとも考えられ、その法律で隔離された療養所内におかれた「特別法廷」は「本来はあってはならないもの」だった。もし隔離しなければならないような病気なんだったら、精神疾患や他の出廷できない病気にかかった場合と同じく、病気が治癒するまで裁判は停止されるべきものなのではないか。また憲法第82条には「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」とある。Fさんの裁判は明らかにこの条項に違反している。

 また死刑執行に関する疑問もある。法務大臣の執行命令は1962年9月11日。第3次再審却下決定は13日。つまり再審請求中に執行命令が出ている。(法律に違反するわけではないが、現在は原則的に行われない。)この却下決定がピタリと執行直前になっているのも怪しく、裁判所と法務省が連絡を取り合っていたのではないかとさえ思わずにいられない。再審却下決定は熊本地裁のもので、福岡高裁に即時抗告する余裕を与えずに死刑執行してしまったのも、「みんなハンセン病死刑囚を葬ろうとグルになっていた」という印象を持たざるを得ない。
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「再審」とは何か

2012年05月23日 01時25分03秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 最近、「再審」のニュースが続いている。というか、このブログでもいっぱい書いている。だから「再審」=「裁判のやり直し」ということは、大体みんな知ってるんだろうけど、くわしいことはよく知らない人も多いと思うので解説しておきたい。実は22日の朝日新聞2面にある「ニュースがわからん!」という解説コーナーで、再審が取り上げられている。これが間違いではないものの、ちょっと不十分なのである。そこには、「刑事訴訟法は『無罪を言い渡すべき明らかな証拠が見つかった』という理由があれば、刑の確定後でも『再審が請求できる』としている。」と書いてある。

 この解説のどこが不十分かを書く前に、再審に関する原則的な話。再審は確定した裁判結果を変えてくれと言う話だから、本来は例外中の例外の話である。しかし、人間界の出来事にはいろんなことがありうるから、やり直しの例外規定を決めておかなくてはならない。例えば、裁判を決定づけた「物的証拠」が実は偽造されたものだったことが証明されたとしたら、どうだろうか。その場合は、確定した裁判の基盤が崩れてしまうから、その裁判結果を維持することは許されない。今の例の場合、その証拠は刑事裁判に使われたとは限らない。民事裁判で使われた証拠が偽造である場合もありうる。だから、再審は刑事裁判だけでなく、民事裁判にもある仕組みなのである。

 以後、民事はおいといて刑事裁判に限るが、例外規定だから、刑事被告人だった側に有利な方向の再審しか請求できない
 「刑訴法435条 再審の請求は、左の場合において、有罪の言渡をした確定判決に対して、その言渡を受けた者の利益のために、これをすることができる。」(なお、具体的に請求できる人は、確定囚本人、本人が死亡か心神喪失の場合は配偶者、直系親族、兄弟姉妹、及び検察官である。)
 これを知らない人がいる。古い話だが、黒澤清監督「地獄の警備員」(1992)というホラー映画があった。裁判で一度無罪になった犯人が新証拠が見つかり…という展開になっていたが、そういうことは法的にはない。では被告の側が証拠偽造をして無罪になったことが後でわかったらどうなるのか。実はそういう珍しいケースもあったのである。その事件ではビデオ映像の日付を後で書き換えてアリバイを主張したのである。一回はみなだまされて無罪になったけれど、後で発覚した。その場合でも、検察側から再審を請求することはできない。それでは偽造した犯人に都合がいいではないかと思うかもしれないけれど、それでいいのである。国家権力の側が再審を請求できたら無罪になった人は、おちおち安心して暮らせない。ところで証拠を偽造した犯人の方は、証拠隠滅、文書偽造などの罪でちゃんと裁かれ今度は有罪になったのは言うまでもない。

 では先ほどの新聞の解説で不十分な点はどこか。実は刑事訴訟法には再審を請求できる理由が7つも決められている。例えば、今あげた「証拠偽造が確定判決で認められた場合」とか、裁判官や検察官や警察官なんかがその事件で不正をしたことが証明されたときとか。そういうケースはほとんどないわけだから、今問題になっているケースは、ほとんどすべて「刑事訴訟法第435条の6項」に関係している。
 「有罪の言渡を受けた者に対して無罪若しくは免訴を言い渡し、刑の言渡を受けた者に対して刑の免除を言い渡し、又は原判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき。」

 法律の条文を見ればわかるように、再審が認められるには「二つの条件」がある。新聞解説では「明らかな証拠が見つかった」と書いてあるが、それは不十分で「明らかな証拠が新しく見つかった」と書かなくてはいけない。これは法律実務の言葉では「明白性」「新規性」と呼んでいる。証拠が少ない事件では、もともとの裁判で無罪主張を言いつくしてしまったような場合がある。死刑事件では執行されては大変なので早めに再審請求することもあるが、裁判所からは「新規性がない」という理由で認められないことも多い。

 もう一つ、再審の対象について。「無罪を言い渡すべき」というだけでは不十分なのである。「より軽い罪」というケースが書いてあるのである。もっと細かく言えば、「無罪、免訴、刑の免除、より軽い罪」を言い渡すべき「明白性」「新規性」のある証拠がある場合、ということになる。で、「より軽い罪」とは何か。例えば「殺人罪」を例にとれば、「ただの殺人」にとどまらず、「何か」が付いている場合も多い。「強盗」「強姦」「放火」とかである。被害者が持っていたカバンが死体になかった。強盗目的だろうと思われたけど、被告は取ってないと主張するが認められなかった。裁判終了後、他の誰かが死体からカバンを取っていったことが証明された、というような場合である。「強盗殺人」から「強盗」が取れれば「殺人」。これは「より軽い罪」にあたる

 ただの殺人罪でも最高刑は死刑である。しかし強盗殺人の方が刑が重いことが多い。だから強盗殺人で死刑だったが、強盗がとれれば無期懲役になっていたという可能性がある。こういう場合、再審の理由になるわけである。これも「強盗に関しては無罪」ということだから、「無罪を言い渡すべき」ケースに入ると言えばそうも言えるんだけど、全面無罪ではない。また「殺人罪」で有罪になったけれど、「殺意」に関して争っていて、新しい証拠が見つかったという場合もある。「殺意」がなかったことが証明されれば、過失致死とか傷害致死になるわけである。これも「より軽い罪」である。

 間違えてはならないのは「より軽い罪」であって、「より軽い刑」ではないということである。「罪刑法定主義」という言葉があるが、「罪」と「刑」というのは混同しやすい。宗教や道徳で罪を考えるなら別だが、今の社会では「法律で罪と決められている行為」が罪である。よって、「○○法第○○条違反」と必ず特定できる事柄だけが「罪」である。一方、その罪にふさわしい刑罰の幅も法律に書いてある。二つ以上違反していれば罪が重くなるとか、自首すれば罪が軽くなることもある、とかも全部法律に書いてある。法律に書いてないことは「罪」にならず、法律にない「刑」は課されない。「強盗傷害罪」の事件で、「強盗」が事実ではない証拠があれば、再審を開く理由になる。でも裁判では被害者が「重く罰してくれ」と証言して重い実刑判決になった。でも、時間が経って今は少し許す気持ちも出てきて、新しく証言してもいいと言っているなどというケースは、裁判段階だったら「軽い刑」になる理由となったかもしれないが、裁判終了後では再審の理由にはならない。「より軽い刑を言い渡すべき証拠」では再審にならないのである

 どうしてこのことを書いたのかと言えば、けっこう「部分冤罪」を訴えている死刑囚が多いのである。しかし、ほとんど知られず支援運動もない。全面無罪を主張する人を支援する運動はあるけど、殺人は事実だけど少し違うとか、殺した人もいるけど殺してない人もいる、なんて死刑囚を支援する運動はなかなかない。60年代に起きた事件で、今でも執行されていない死刑囚は3人いる。(それ以前の事件の死刑囚は、執行されたか、再審で無罪になったか、獄中で死亡している。)その3人のうち2人は、名張毒ぶどう酒事件と袴田事件であるから、全面無罪を主張して有名だし、再審に近づいている。でも、もう一人は知らない人が多いと思う。「マルヨ無線事件」という事件名で呼ばれる、1966年に福岡で起こった事件で、強盗放火殺人でO死刑囚の死刑が1970年に確定した。現在の確定死刑囚では一番古い。放火に関して争って再審請求を続けているが、実っていない。あるいは4人殺害で死刑が1986年に確定したW死刑囚の場合は、4人のうち2人の殺害を否認している。一審の大阪地裁では無期懲役だったのは、裁判官に一部の冤罪主張が認められたからだと言われている。最高裁でも調査官は一部無罪の調査報告だったという話があるが、結局は4人殺害が確定している。しかし、ずっと再審請求を続けている。そういうケースは他にもあり、再審は本来はこういうケースでもありうるということをみんな知っておく必要があるのではないかと思う。
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冬と夏しかない国なのか

2012年05月21日 21時40分30秒 | 自分の話&日記
 いや、金環日食、見えましたね。雲がかかっているように見えるんだけど、グラスを透すと見事に金環が見える。その前に、だんだん欠けていく部分日食があって、そのうち月がぽっかりと太陽にはまりこむ。少し暗いかなと思うけど、案外周りが明るい。皆既日食じゃやないと、こんなものなのか。
 
 ところで渋谷で副都心線という(僕はほとんど使わない)東京メトロの地下鉄で、乗客通しのトラブル(かのように今は報道されている)から重傷を負う事件が発生。今日も渋谷まで行って日活ロマンポルノを見てたので、びっくり。怖いですね。(ところで今、ロマンポルノを見ると、全然ポルノではないですなあ。)こちらが年取ったのかもしれない。作りがきれいだし、この程度では今や興奮しないな。

 ところで渋谷まで延々と地下鉄に乗っていて、もう勘弁して欲しいなあと言う感じ。冷房である。早くも冷房が始まっている。「節電」とあれほど言う時勢なんだから、まだ冷房はいらないでしょ。今年はいつまで寒くて、ついこの間まで暖房使ってた気がする。先週行った青森なんか寒くてセーター着てた。戻って東京は最高気温25度前後。まだ冷房はいらないと思受けど。電車やデパートなんかは冷房をきかせてる。そうすると送風が体にくる。身体にずっと風があたっていたら、低体温になってしまう。夏の方が体につらい

 日本はいまや暖房も冷房もない季節は、ほんとに少なくて、「冬と夏しかない国」になってしまった。今なんかまあ「薫風」の季節で、歩くにはいい季節なんだけど、そういう時期は本当に少ない。雨の日も多いし。生活者の印象としては、日本は二季しかない感じに近づきつつある。冬はまだ身体を温めるとだけで、寒さも木枯しを駅までガマンすればいいだけだから、まあいい。体温調節が大変な夏が大変。腰に来てしまうし、ノドもやられやすい。困ったことだ。
 ちょっとどうしても書きたい気持ちになったから、まず書いておきます。
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「いよいよ」の週-名張事件再審開始か?

2012年05月20日 00時12分52秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 来週は「いよいよの週」ですね。まず何と言っても「金環日食」です。年の初めから、ずっと話題になってましたが、安全な「ソーラーグラス」はお求めですか。でも曇りで見えないんだろうと思っていますけどね。

 続いて、「スカイツリー開業」ですね。いやNHKまでがあんなに宣伝放送しまくっていいんでしょうか。僕は高いものに関心が強いわけではないので、一応通天閣とか五稜郭タワーとか行ってるものもあるけれど、タワーだから関心があるというほどではないです。どっちかというと、由緒ある「業平橋」という駅名を残して欲しかったなあ。東武線を「スカイツリーライン」なんて呼ぶのもやめて欲しい。(毎日のように使う電車。)さて、実はスカイツリーは家から見えます。別に行きたくないということでもないけど、高すぎるなあと思う。東京タワーも一回しか行ってないけど、まあ見てればいいんじゃないかと思う、こういうものは。

 スポーツでも、五輪が近づき、女子バレーの出場権争いも注目、野球も交流戦、ワールドカップ最終予選も近づき、大相撲は大混戦。そういうのも実はけっこう見てるんですけど、来週は見たい映画もいっぱいで困った状態。

 でも、僕にとってもっとも大事な「来週のいよいよ」は、25時午前10時名張毒ぶどう酒事件の第7次再審請求差し戻し審決定の判断です。この事件は、名古屋高裁で第7次再審請求が認められたけど、検察側の異議申し立てが名古屋高裁に認められ、最高裁で2010年に「差し戻し決定」が出たという複雑な経過をたどってきました。なにより「一審無罪」という事件が、高裁で一転死刑と言う、戦後の裁判史上も例を見ない経過をたどった事件です。そういうことが許されるのか。それが裁判と言うものだったら、やはり「死刑制度」は問題なんじゃないでしょうか。証拠自体は変わってないのに、担当する裁判官の判断しだいで「無罪」「死刑」と分かれるんだから。今回の問題は、毒物とされた農薬「ニッカリンT」が違うのではないかという根源的な問題への疑問です。科学的な鑑定問題は難しい面もあるけれど、「疑わしきは請求人の利益に」で考えれば、もはや再審開始の結論しかないと思っています。

 「死刑」と「冤罪」は直接関係がないと強調する人がいるけれど、それはリクツではそうなんですが、感情でいえば、やはりこういうケースがあれば死刑は問題だなと思うんじゃないか。今年は、名張事件、袴田事件で、5件目、6件目の再審開始が期待される年です。死刑制度を根源的に考えることが必要なのではないかなと思っているわけです。

 もう一回、死刑制度の問題をまとめて考える前触れとして、まず名張事件の予告。名古屋高裁前では様々な行動も予定されているようですが、名古屋までは行きませんけどね。
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演芸アラカルト-新文芸坐落語会

2012年05月17日 00時15分18秒 | 落語(講談・浪曲)
 5.16の新文芸坐落語会の話をちょっと。ここは毎回ではなく、数カ月に一回くらい行く感じ。けっこう遅くなってしまうので、寄席やホールで聴きやすい人は、まあいいか、になりやすいな。今回はでも「演芸アラカルト」と題して、落語以外が3人。落語は古今亭菊志んと言う人、続いて講談の神田山陽。中入りをはさんで、パントマイムとあるけど「芸談」の松元ヒロ、最後に浪曲の国本武春。凄いでしょ。僕は凄い顔ぶれが並んで逃せないと思ったけど、週の真ん中だからか空席が多かったのは残念。


 松本ヒロさんは、元ニュースペーパーにいた頃から名前を知ってるけど、「パントマイム」だったのか。「壁」というネタをやっていたけど、素晴らしく面白かった。本人もチラシを今日見てビックリで、マイム芸を披露。僕は集会では聞いているけど、「芸能」のなかで聞くのは初めてである。でも今日は「危ないネタ」はなくて、談志の思い出の語り。うまいし面白いんだけど、僕はどうも。
 浪曲の国本武春と言う人も、名前はずいぶん聞いてたけど聞くのは初めて。というか「浪曲」というジャンル自体聞くのが初めてかな。忠臣蔵松の廊下の段を、「前半ロック、後半バラード」で弾き語りするという芸。三味線片手に出てきたけど、いわゆる「うなり」がロック調でうたうという語り芸にちょっとビックリした。
 でも一番ビックリは神田山陽の講談で、鼠小僧が師走の江戸で屋根でたたずむと、そこにサンタクロースが出てくるという奇想天外ぶり。前から永六輔のラジオで北海道の小学校に通っている話なんか聞いたことがあったけど、本職の講談のぶっ飛びぶりがおかしかった。何故か鼠小僧とサンタが忠臣蔵討ち入りの日に吉良邸上空をトナカイに乗って飛んでいる。

 青森に行くちょっと前の10日には、新宿末廣亭での落語芸術協会の方の真打昇進披露を見に行った。春風亭昇太、三遊亭小遊三、瀧川鯉昇、昔昔亭桃太郎の口上が滅法面白かった。真打昇進の若手も頑張ってましてけど、師匠連の面白さにはかないませんね。
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松岡保養園-最北のハンセン病療養所

2012年05月15日 21時05分13秒 |  〃 (ハンセン病)
 「ハンセン病市民学会」の第8回総会、交流集会で、青森市の松岡保養園に行った。去年は5月末に沖縄であったけど、今年は従来通り5月第2週に総会。去年行った沖縄本島北部の「沖縄愛楽園」や宮古島の「宮古南静園」は、銃弾の痕が残る場所だった。設置場所は中心部を離れた場所に作られている。それは基本的にどこの療養所も同じだけど、東京の東村山市にある「多磨全生園」などは今では市街地の中という感じ。でも周りは病院が多く、昔は町からはるかに離れた場所だったわけだろう。それは青森でも同じとはいえ、新幹線が青森まで延伸したときに「新青森駅」ができたために、ずいぶん町の中という感じになってしまっている。新青森駅南口からバス停で二つなので、歩いても行けるくらいの距離。僕はもっと八甲田山に近い山の中、例えば草津の「栗生楽泉園」のようなところと思い込んでいたので、ちょっとびっくり。園内からは八甲田を遠望できる。

 まずバス通りから園に向かうと、桜並木。園の正門が見えてくる。市民学会の案内掲示板がたっている。散りかけだけど桜がまだ見頃の季節である。
   

 園内フィールドワークで、「納骨堂」を訪れる。ハンセン病療養所に行ったことがある人は良く知っていると思うけど、療養所は「入ったら出られない場所」だった。病院とか老人施設、障がい者施設なども「出られない」場所だった場合もあるけれど、亡くなったら出ることにならざるを得ない。遺体、遺骨は家族、家族がいなければ自治体が引き取るしかない。施設に墓地までついてるところはない。しかし、法律で「終生隔離」の場所として作られたハンセン病療養所では、死んでも家族と引き離されていて家族の墓には受け入れられない場合もあった。(今でもあるだろう。)で、どこの療養所にも「納骨堂」が作られている。ここにも1000体以上の遺骨が納められている。最初の写真の手前にあるのは、近年明らかにされて衝撃を与えた、「療養所で中絶させられた胎児」の慰霊碑である。
 

 だから園内には各宗教のお寺、教会が必ずあるのも特徴となっている。カトリックの教会に入って話を聞かせてもらったが、園内だけでなく市内から入所者以外の信者もミサに来るのだという。園内の道路は一見何の変哲もない普通の道だけど、実は豪雪地帯対応で暖めて融雪することができるようになっている道なんだそうだ。家も特徴があって、「集合住宅」になっている。大昔の療養所は「大部屋」でプライバシーもなかったわけだけど、ここ何十年かで一戸建ての個人住宅方式になっていった。大体今まで見たところはそうだったけど、ここは個人住宅にすると冬の雪下ろしを入所者がやることになってしまう。だから家はアパート、マンションのように大きな建築物を建てて、部屋を各人に割り当てるという方式となる。なるほど日本各地でいろいろ違うもんだなあと感じさせられた。
 
 周囲と隔てるような大きな沼、屋根つきのゲートボール場などもあったけど、いい写真がないので省略。療養所自体を紹介したことがないけど、ここに行くのも大変なので紹介してみた。市民学会での話は別の機会に。
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青森から一気に帰る

2012年05月15日 00時05分06秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 青森駅前のホテルに泊まり、朝は6時過ぎに目覚める。早起きになってしまった。毎日11時には寝ていたけど、昨日は「イ・サン」を見たから眠い。韓国の歴史ドラマですね。NHKで日曜夜11時から12時。「ソンヨンの運命やいかに」という先週の予告編を見れば見逃せない。前にNHKスペシャルを見たあと、サンデースポーツを見て、ついてるままに「イ・サン」まで見てしまったことが何度かある。そういううちに楽しみに見るようになってしまった。

 で、頑張って7時半過ぎにホテル出発。今日は晴れてる。すぐに高速に乗らず少し国道7号をドライブ。4号が青森まで行くと、秋田方面へ通じる7号線に変わる。青森から弘前まではリンゴ林と岩木山の眺めが続き、日本の主要国道の中でも眺望のいい道ではないかな。この岩木山は昔登った。八甲田山も二度行ってる。映画や演劇も好きだけど、山と温泉とドライブも大好き。自分が車の運転が好きになるとは思ってなかった。免許を取ったのも遅いし、メカには弱いし、小さい頃は車酔いに苦しんだ方なのである。でも地理や歴史が好きだということが大きいと思うけど、風景を見てるだけで楽しい。無心で運転してればいいので、それもいい。いや、電車も好きで、車で行って電車に乗ったりもするけど。銚子電鉄とか、わざわざ車を置いて電車に乗った。

 弘前を過ぎて東北道に乗り、一気に東京を目指す。岩木山はなんだか素晴らしい眺めを写真に撮るのを忘れてしまったけど、岩手県に入り岩手山は岩手山サービスエリアというのが目の前にあるので撮ってみた。宮城の蔵王はよく撮れる場所がなく、福島に入って安達太良(あだたら)サービスエリアで安達太良山を撮る。高村光太郎の妻、(長沼)智恵子の生まれたあたりで生家がある。光太郎が「あれが安達太良山」とうたった山。リフトがあって今は登りやすいので、ここも昔登った。
  (岩手山と安達太良山)

 外国でドライブしたことはないけど、たぶん日本はドライブがとても楽しい国ではないかと思う。山あり海あり温泉あり。史跡が多く、最近は城好きが増えているけど、僕もずいぶん行った。山がちの風土で、盆地ごとに城下町がある。その風景の変化が運転としては楽しい。今は新緑、秋は紅葉、いつも何か花が咲き、フルーツ狩りがあるなど、植物の恩恵がドライブしていて楽しい。自然や歴史に興味関心があれば、これほど楽しいことはない。関東は田植えが終わっているけど、北上するにつれ田植え前になっていき、青森になるとまだ桜が咲いていた。そういう各地の違いを東京にいると忘れがちになる。そして各地に名物あり、銘酒と銘菓がある。まあお酒やスイーツもいいけど、僕にとってはむしろ各地に「銘麺」あり、が日本の旅の最大の魅力。そばあり、うどんあり、ラーメンあり。

 でも、東京にいると忘れがちの「日本は山がち」の風土は、けっしていいことばかりをもたらしたわけではない。小さな町ごとに閉鎖的な風土が作られ、それが「ハンセン病差別」を生んだもとでもある。そして良かれ悪しかれ昔は存在した「地域共同体」は、グローバリズムの中で完全に消滅しつつある。どこもかしこも似た風景。どこへ行っても、コンビニの食事で良ければ、安くあげられる。だから確かに「コンビニエンス」なんだけど。僕も一日目は飯坂温泉で食べようと思いながら、平日の夜の温泉街が完全に暗いだろうことを忘れていた。結局、電車で福島に戻り駅前で探しても特にないので、結局「サイゼリア」に入ったけど旅行しててもそういうことになってしまうわけである。
 
 まあ、それはともかく日本の風土を身体で知っておくことが大切だと思う。今回は東北道が震災工事中だったところが多い。福島のサービスエリアも一見震災前に戻った感じだった。被災地には今回は行ってないので語ることはできないが。ドライブ中は行きはほとんどラジオを聞いていた。特に今回は天気が不安定な日が多く、天気や道路の情報を知りたいからである。そうすると運転中にまずつかまるのが、ほぼNHKラジオ。東京の放送(NHKは594kHz、TBS、文化放送、ニッポン放送などなど)が聞こえるのは関東圏内。東北に入ると各県ごとの放送でないとよく聞こえない。各県に民放もあるはずだけど、運転中にすぐ電波を捕まえられるのがNHK。そうすると気象、交通情報は各県のものなんだけど、基本の番組は東京と同じである。案外、情報はもう東京一元化になっているわけである。(帰りは高速なので音楽も聞いたけど。なんか一番好きなのは、サイモン&ガーファンクルだなあと思った。今回は毎日4時からは相撲を聞いてましたけど。)
 途中、工事渋滞もありつつ、結局6時頃到着。青森一気帰りは初めてだけど、まあどうってことないね。ただ、春となり鳥たち、虫たちの活動が活発化していて、いつになく「鳥糞攻撃」がすごかった。フロントガラスにいっぱい。虫もいっぱいついてました。(ハンセン病のことは明日以後に。)
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青森にて

2012年05月13日 20時18分12秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
青森市内に連泊中。ハンセン病市民学会のことは帰ってからまとめて書きます。

日本最北のハンセン病療養所が青森市内にあります。松丘保養園。北海道にはないので、北海道の患者も受け入れたところです。それで青森に来ているわけ。新幹線新青森駅に近く、今は住宅街の中になっているのでびっくり。東京の多磨全生園なみ。ちなみに日本最南の療養所は去年の市民学会で訪れた宮古島。

国道4号線の旅。盛岡から青森間はなかなか良かったです。風景が様々、道の駅も適当な間隔で作られています。一戸、二戸、三戸、五戸、六戸、七戸と通って行きます。それにしても昨日は寒かった。全国的に寒かったらしいけど、とりわけ寒い地帯。10℃なかったし風が強い。前に夏来た時も、ヤマセが吹いて寒かったです。三沢基地と六ヶ所村核燃リサイクル施設があって、寺山修司が生まれたあたりですね。

青森に来て、去年から那覇、熊本、金沢、福島、盛岡など県庁所在地に来たけど、だいたい同じように、栄えてる、または衰退してる感じですね。物質的には似たような生活。コンビニの商品は見事に全国共通だし。青森駅前アーケード街なんて、端がファミリーマートで、次が吉野家、続いて魚民、CoCo壱番屋、笑笑となるので、ここまで行くとすごいな。

今日は午後に園内フィールドワークに参加したところで市民学会は終わりにして、ちょっと観光。16年ぶりの三内丸山遺跡、いつも行けなかった棟方志功記念館、浅虫温泉の立ちより。詳しくはまた。棟方志功は、今までなんとなく好きなタイプの版画家(棟方志功は板画と書くが)と思っていたけど、今日見たら全然合わないタイプだと気づきました。そんなこともあるんだね。
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東北旅行中

2012年05月11日 18時03分02秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
ただ今、東北地方を旅行中です。明日から青森でハンセン病市民学会が行われるので参加するためです。

最初は、この機会に被災地を訪ねようとか、温泉を回りながら行こうなどと思っていたのですが。結局はただ移動するだけ。節約を考え、高速道路を使わないで行くとどうなるだろうなどと思いついたもので。

自宅近くを通っている国道4号線をひたすら北上中。昨日は福島、今日は盛岡泊。風間一輝という亡くなったハードボイルド作家に、自転車で4号線を北上する「男たちは北へ」という小説があります。それを車でやってます。

でも情緒がない道筋だな。コンビニとチェーン店ばかり。吉野家とかマクドナルドとかCoCo壱番屋とか。丸亀製麺も東北まで進出してますねえ。

山の中に入るとドライブインがつぶれているのは前からだけど、最近はパチンコ屋がつぶれていることも多いみたい。4号線沿いには道の駅が少ないのが困ります。

昨日は市内のホテルに車を置いて、福島交通飯坂線で飯坂温泉へ行きました。鯖湖湯という有名な共同湯。熱すぎて、とても入れません。いや、こんなに熱いのは初めて。

今日は萬鉄五郎美術館へ行っただけ。宮沢賢治記念館を先に行ったところにあります。啄木も賢治も複数回記念館に行ってます。行ってなかったところなので。でも代表作は東京の近代美術館にあります。
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