最高裁大法廷(戸倉三郎裁判長)は、10月25日に「性同一性障害特例法」の一部規定を憲法違反と判断する決定を下した。最高裁における違憲判断は12例目で、21世紀になって7例目。最近時たま見られるとはいえ、そうお目にかかれるものではないから、ここで記録しておきたい。僕も小法廷は傍聴しているが、裁判官15人がそろう大法廷は見たことがない。時には1年に1回もないのである。今回は大法廷に送付された時点で違憲判断を予想できたわけだろうが、2019年に合憲判断が出ていたから、僅かな期間で逆転するのかとも思った。(ちなみに、今回は「家事審判」に対する判断なので、「判決」ではなく「決定」である。)
(大法廷)
僕はトランスジェンダーの問題にそれほど詳しくなく、この法律をめぐる争点をどう理解するべきか判らない点も多い。にわか勉強して書いても間違うから、ここでは違った観点から書いておきたい。今回は初の憲法13条違反の判断なのである。その事の意味は後で書くが、まず今回の決定は「手術要件は違憲」という点で、15裁判官全員一致だった。ただし、性同一性障害特例法では性別変更に5要件があり、そのうち「外観要件」は判断されなかったので、高裁への「差し戻し」となった。3裁判官は「外観要件」も違憲と判断する少数意見を書いている。ただ、「憲法違反」という判断が15裁判官で共通だったことはとても重い判断である。
それは原告の置かれた状況がよほど過酷で同情すべきものだったということだ。今までの違憲判断を見てみると、議員定数の配分をめぐる問題など純粋に憲法解釈上の問題もあるが、個別事例の救済のために違憲判断がどうしても必要だという場合が多い。刑法の尊属殺人罪違憲判決や地裁段階だがハンセン病違憲訴訟(熊本地裁判決)など、裁判官が憲法違反と判断しない限り「気の毒な事情を持つ原告」を救済する手段がないのである。そこで裁判所は違憲立法審査権という伝家の宝刀を抜いたのである。
この判決を批判する人もいるが、決定文をきちんと読んでいるのだろうか。法が手術を要件とすることがいかに過酷な人権侵害となりうるか。裁判所が判断を変えたのは、決定を読む限り日本内外で行われてきた多くの人々の努力の結晶だと思う。「社会状況の変化」と題された部分では、法務省、文部科学省、厚生労働者などの取り組み、東京都文京区の条例、世界保健機関(WHO)や欧州人権裁判所などの判断などが紹介されている。その結果として「性同一性障害を有する者に関する理解が広まりつつあり」と判示されたのである。この間の内外の取り組みに背を向けていた者は、この判断を受け入れられないのだろう。
(性同一性障害特例法の5要件)
僕はこの決定は極めて重要な判例になるのではないかと思っている。今までの違憲判断は、その半数が憲法14条(平等権)に関わる判断だった。ところが先に書いたように今回は「憲法13条違反」が認定されたのである。
「憲法十三条」=すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
「個人の尊重」「幸福追求権」などと言われるが、いかにも抽象的である。むしろ「公共の福祉」を理由として、権利の侵害を合理化する規定になってきたのが実情だ。今までは「法の下の平等」を理由とした裁判は、ある程度裁判で勝利することがあった。しかし、「個人の尊重」を訴えた裁判(外国人指紋押捺制度訴訟など)では、「公共の福祉」のためとして合憲判断がされてきたのである。それに対し、今回は「自己の意思に反して身体への侵襲を受けない自由は、人格的生存に関わる重要な権利として憲法13条で保障されている」と決定冒頭で判示されている。
これは教育、福祉、医療などの現場でも「使える判例」ではないだろうか。日本各地で現に困っている人、困窮している人、理不尽な扱いを受けている人にとって、単にトランスジェンダーの性別変更問題に限らない、重要な人権擁護の先例が切り開かれたと思う。今後も憲法13条を「武器」にした闘いが全国各地で起こされるだろう。ひとりひとりが自分に「個人の尊厳」「幸福追求権」があるということを銘記して生きていきたいと思う。
(大法廷)
僕はトランスジェンダーの問題にそれほど詳しくなく、この法律をめぐる争点をどう理解するべきか判らない点も多い。にわか勉強して書いても間違うから、ここでは違った観点から書いておきたい。今回は初の憲法13条違反の判断なのである。その事の意味は後で書くが、まず今回の決定は「手術要件は違憲」という点で、15裁判官全員一致だった。ただし、性同一性障害特例法では性別変更に5要件があり、そのうち「外観要件」は判断されなかったので、高裁への「差し戻し」となった。3裁判官は「外観要件」も違憲と判断する少数意見を書いている。ただ、「憲法違反」という判断が15裁判官で共通だったことはとても重い判断である。
それは原告の置かれた状況がよほど過酷で同情すべきものだったということだ。今までの違憲判断を見てみると、議員定数の配分をめぐる問題など純粋に憲法解釈上の問題もあるが、個別事例の救済のために違憲判断がどうしても必要だという場合が多い。刑法の尊属殺人罪違憲判決や地裁段階だがハンセン病違憲訴訟(熊本地裁判決)など、裁判官が憲法違反と判断しない限り「気の毒な事情を持つ原告」を救済する手段がないのである。そこで裁判所は違憲立法審査権という伝家の宝刀を抜いたのである。
この判決を批判する人もいるが、決定文をきちんと読んでいるのだろうか。法が手術を要件とすることがいかに過酷な人権侵害となりうるか。裁判所が判断を変えたのは、決定を読む限り日本内外で行われてきた多くの人々の努力の結晶だと思う。「社会状況の変化」と題された部分では、法務省、文部科学省、厚生労働者などの取り組み、東京都文京区の条例、世界保健機関(WHO)や欧州人権裁判所などの判断などが紹介されている。その結果として「性同一性障害を有する者に関する理解が広まりつつあり」と判示されたのである。この間の内外の取り組みに背を向けていた者は、この判断を受け入れられないのだろう。
(性同一性障害特例法の5要件)
僕はこの決定は極めて重要な判例になるのではないかと思っている。今までの違憲判断は、その半数が憲法14条(平等権)に関わる判断だった。ところが先に書いたように今回は「憲法13条違反」が認定されたのである。
「憲法十三条」=すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
「個人の尊重」「幸福追求権」などと言われるが、いかにも抽象的である。むしろ「公共の福祉」を理由として、権利の侵害を合理化する規定になってきたのが実情だ。今までは「法の下の平等」を理由とした裁判は、ある程度裁判で勝利することがあった。しかし、「個人の尊重」を訴えた裁判(外国人指紋押捺制度訴訟など)では、「公共の福祉」のためとして合憲判断がされてきたのである。それに対し、今回は「自己の意思に反して身体への侵襲を受けない自由は、人格的生存に関わる重要な権利として憲法13条で保障されている」と決定冒頭で判示されている。
これは教育、福祉、医療などの現場でも「使える判例」ではないだろうか。日本各地で現に困っている人、困窮している人、理不尽な扱いを受けている人にとって、単にトランスジェンダーの性別変更問題に限らない、重要な人権擁護の先例が切り開かれたと思う。今後も憲法13条を「武器」にした闘いが全国各地で起こされるだろう。ひとりひとりが自分に「個人の尊厳」「幸福追求権」があるということを銘記して生きていきたいと思う。